安息

 時計の針は留まることを知らず、一定のリズムで動き続けた。
 その針がとある位置に至った瞬間、チャイムが鳴った。耳慣れたメロディに瞼を開き、雲雀はソファからゆっくり起き上がった。
 壁の高い位置に設置された丸時計は午後五時半を指し示していた。それが並盛中学校で定められた下校時間だというのは、最早確認の必要すらない決定事項だった。
 昨日も、今日も、明後日も。
 天変地異が起きたとしても、これだけは変わらない。
 太陽は未だ地平線の上にあり、オレンジ色の明るい光を放っていた。西の空に泳ぐ雲を優しく照らし、次の日も快晴になると誇らしげに告げている。
 カーテンを閉めていても眩い光は感じられた。日没までまだ少しあるが、今頃正門には、部活を終えた生徒が殺到している事だろう。
 喧しかった野球部の掛け声ももう聞こえてこない。体育館から響く剣道部の威勢がよい声も、無論だ。
 彼は窮屈な体勢を強いられていた身体を伸ばし、肩を回して骨を鳴らした。左右に首を振って深く長い息を吐き、内側からにじみ出る倦怠感を遠くへ追い払おうと首の後ろをぺちりと叩く。
 思いがけず大きく響いた音が、照明の灯らない応接室に吸い込まれて消えた。
 西日が照っているとはいえ、さすがにそろそろ蛍光灯のスイッチを入れるべきだろう。しかし動くのがどうにも億劫でならず、気乗りしないまま彼は逆方向に歩き出した。
 応接室の中央には今し方まで身を休ませていた応接セットの他に、数個の棚と、大きな執務机があった。
 ここは本来。学校に来客があった時だけに使用される部屋なのだが、今は風紀委員の不法占拠状態にある。委員長の執務室として用いられ、一般生徒は勿論のこと、校長や教頭ですら気軽に足を運べない場所と化していた。
 やってくるのは黒の学生服に身を包んだ風紀委員のメンバーと、ほんの一握りの命知らずな生徒だけ。だが今日に限って言えば、その馬鹿だけれどどうしようもなく可愛らしい生徒も、一切姿を見せなかった。
 そういえば朝も、顔を見なかった。
 風紀違反者が居ないかチェックする目的で、風紀委員は毎日のように登校時間に正門に立つ。黒服リーゼントの間を抜ける生徒らは一様に怯えた顔をするのだが、そのびくびくしている学生の中にも、蜂蜜色の頭は混じっていなかった。
 遅刻者の取締も風紀委員がやっているが、今日の名簿には名前が記されていなかった。どこかで見落としただろうかと首を傾げ、雲雀は真っ白いカーテンの端をちょっとだけ持ち上げた。
「……っ」
 その瞬間、布に遮られていた光がわっと徒党を組んで彼に襲い掛かった。
 咄嗟に目を閉じて顔を背け、たっぷり五秒経ったところで恐る恐る目を開く。手にしたカーテンはそのままで、ガラス窓に反射する六角形の光の輪も同様だった。
 少しは目が慣れたかと、室内に比べてすこぶる明るい屋外に目を凝らす。何度か瞬きを繰り返してぼやけた輪郭をクリアにするにつれて、それまで気にならなかった外の雑音を耳が拾い始めた。
 風に揺られる木々のざわめき、寝床へ急ぐ鳥の声。果ては学校前の道を行く車のエンジン音や、友に別れを告げる女学生の笑い声まで。
 雑多な音楽が幾重にも重なり合って、複雑怪奇なメロディを生み出している。それらを上書きするに最適な言葉は無いかと考えて、彼は冷たいガラス板に手を伸ばした。
 ひんやりした感触が指から身体全体に広がっていくのが分かる。押し返されて平らになった人差し指の腹を斜め下に滑らせて、雲雀は目を閉じてかぶりを振った。
「来なかったね」
 ぽつりと呟けば、胸の隙間を涼しい風が吹き抜けていった。
 カーテンごと窓枠に寄りかかって斜めに立ち、反対側の壁を盗み見る。内開きのドアは沈黙し、廊下を歩く者の気配も感じられなかった。
 部屋には彼ひとりだけ。昼寝をする、と言って副官を追い出したのを思い出し、雲雀は行き止まりに達していた人差し指を丸めて握った。
 顎が二つに割れた副委員長を頭の中からも放り出して、入れ替わりにふわふわの綿毛のような頭を呼び起こす。琥珀色の瞳はまん丸で、紅色の頬はふくふくして柔らかそうだった。
 照れ臭そうに笑ってはにかむ姿は、とても中学二年生の男子には見えない。
 生まれてくる性別を間違えたのではなかろうか、と本気で思ってしまうくらいに愛らしい容貌をして、けれど性格は意外に頑固で融通が利かない。周囲の意見に流されがちと思いきや、根っこの深い部分は見た目以上に強固で、揺るがなかった。
 あちこちふらふらしているようでありながら、根元は磐石。それでいながら喜怒哀楽が激しくて、表情がころころ変わって見ていて飽きない。
 面白い子だと思った時には既に遅く、気が付けば泥沼に嵌っていた。
 一度足をとられたら、二度と抜け出せない。だがこのまま溺れてしまうのも案外悪くないと思い始めて、そろそろ一年といったところだろうか。
「なにかあった、かな」
 これまでにも顔をあわせない日は何度もあった。心配する必要はどこにもないと自分に言い聞かせ、雲雀は胸に浮かんだ一抹の不安を打ち消した。
 視線を近くに戻し、応接室の窓から見える景色に目を細める。真下はプールだ。その右手にはグラウンドが広がり、寂れた裏門が長い影を伸ばしていた。
 動き回る人の姿は無いはずだ。下校時間からもう五分近く経過している。見つけ次第追い出すように、風紀委員には通達を出してあった。
 だのに、どうしてだろう。
「……?」
 不自然な場所に、不自然な影があった。
 裏門は常時閉鎖されていて、一年に二度、夏と冬に整備業者のトラックが入る時だけ使われる。在校生の使用は許可されていない。鍵は風紀委員の管理下にあって、教諭らも自由に出来ない設備だった。
 正門に比べると警備が厳重とは言い難いが、グラウンドから丸見えの位置にあるのでそこから忍び込もうとする遅刻者はゼロに等しい。但し今は放課後も過ぎ、学校からは人気が消えた時間帯だ。
「なんだ?」
 思わず身を乗り出して、窓に額をぶつけてしまった。ごちんと脳を直撃した痛みに顔を顰め、雲雀は大げさに舌打ちして目を眇めた。
 邪魔になる前髪を脇へ払いのけ、見えにくい景色に益々顔を歪める。
 人間だ。
「あれは……」
 恐らくは男子。ちょうど中学校に在籍するくらいの年齢の若者がひとり、滅多に開かれることのない裏門を乗り越えて校内に侵入しようとしていた。
 しかもその頭部を覆う色には特徴があって、雲雀は気難しげな顔をして口を尖らせた。
「獄寺隼人?」
 並盛中学校二年A組に籍を置く生徒だ。イタリア出身のクォーターで、髪の色は人形かなにかかと見まがうくらいの艶やかな銀色だ。
 未成年に関わらず煙草を吸い、学内に危険な爆発物を多数持ち込んだりするので、風紀委員とはなにかとトラブルが多い。血の気が多く気が短い性格をしているので、非常に喧嘩っ早く、雲雀とも頻繁に衝突を繰り返した。
 あの程度の実力しかない輩に後れを取ることはないが、獄寺の傍にはあの子がいる。雲雀が誰にも負けないと知っているからか、彼は両者が対立すると決まって獄寺に味方した。
 面白くないことを思い出してしまってひとりむっとしていたら、塀を乗り越えた獄寺が無事にグラウンド側に着地を果たした。そのままどこかへ駆け出すかと思いきや、留まって裏門を振り返る。雲雀が遠くから観察しているとも知らず、注意深く周囲を窺ってから右手を大きく振り回した。
 ジェスチャーから、放課後の学校に侵入を試みる愚か者が他にもいるのが分かった。
「いい度胸じゃない」
 それが誰だかは確認せず、雲雀は不遜に笑って呟いた。窓から離れ、一瞬で取り戻したやる気に心を震わせて床を蹴る。
 獄寺は友人が少ない。
 その数少ない友人である野球部に所属している山本武と一緒になって、いつも沢田綱吉の近くに陣取っている。
 だからあの男が合図を送った相手は、そのどちらか、あるいは両方だ。
 彼らが三人一組として扱われる傾向にあるのが、雲雀はずっと気に入らなかった。
 弱いくせに、綱吉と一緒にいたがる。弱いから群れて、強くなったと勘違いしている。
 まったくもって、面白くない。
 子供じみた感情を胸の奥底に隠し、彼は勢いよくドアを開けた。廊下に出て、規則も忘れて走り出す。
 大多数の生徒が帰宅した後であり、居残っているのは教員らと風紀委員のメンバーくらい。しかも半数は学外の見回りに出ているはずだ。
 雲雀たちの目が外に向かうタイミングを狙って、警戒が弱い場所を選んで潜り込んだのだろう。この時間なら、学内に人が居ないので目撃者も少なくて済む。
 危うく雲雀も気づかずに見逃すところだった。あそこで窓辺に向かったのは偶然だが、なんらかの意志が働いたとつい信じてしまいたくなった。
 階段を駆け下りながら、雲雀は腰に手を伸ばした。隠し持っていたトンファーを取り出して両手に握り、勢いよく前後に振る。ジャキッ、と鋭い音が空を駆け、短かった鉄の棒が一瞬で腕と同じ長さまで伸びた。
 硬くて頑丈で、身体の一部として自在に動き回る武器を構えて校舎を飛び出す。応接室を出てから二分と経っていない。グラウンドの一角には、なかなか壁を登れずにいる仲間に焦れた獄寺の後姿があった。
 声はセーブしている為か聞こえないが、苛立っているのがはっきり見て取れた。両手を振り回して地団太を踏み、背後には一切気を回していない。
 油断し過ぎだろうと腹の奥底で笑って、雲雀は愛用の武器を構え直した。
 足音を忍ばせて背後に迫り、よそに注目してまったく気づいていない獄寺の後頭部を狙って振りかぶる。
「獄寺、後ろ!」
 そこへ邪魔な一声が割り込んで、雲雀は腕を振りぬく瞬間舌打ちした。
「チィ!」
「うおっ」
 驚いた獄寺が振り向きざまにたたらを踏み、ぎりぎりのところで一撃を回避した。見れば裏門の鉄扉に跨り、黒髪の青年が騒然とした様子で唇をかみ締めていた。
 山本武だ。
 やっぱりかと腹の中で悪態をついて、雲雀は後方に跳んで距離をとった獄寺を睨みつけた。
「僕の学校に不法侵入とは、どういうつもりだい」
「学校はお前の所有物じゃねーだろ」
 投げかけた質問に唾を吐いて返し、獄寺が苛々しながら地面を蹴った。扉の傍まで後退していた彼の真横に、二メートルはある門から飛び降りた山本が身を屈めて着地する。砂埃を払い落とす彼は、学校指定の制服姿だった。
 一方の獄寺は一旦帰宅した後なのか、趣味の悪いアクセサリーを大量にぶら下げた私服姿だった。
 銀色のチェーンが腰に垂れ下がり、動くたびにじゃらじゃらと不快な音を立てた。おおよそ学校という場には相応しくない格好に眉目を顰め、雲雀は右手に握ったトンファーを前に突き出した。
「違うね。ここは僕の学校だ。獄寺隼人、そして山本武。君たちふたりを不法侵入の罪で、咬み殺す」
「うあっちゃー。まずいのに見つかっちまったなー」
「笑い事じゃねーだろ」
 一分の迷いもなく断言し、処刑を宣告する。裁判などさらさらするつもりのない彼に破顔一笑し、山本はからからと楽しそうに笑った。
 緊迫感が微塵もない仲間にあきれ返り、獄寺がまくし立てる。こめかみに青筋を浮かべて奥歯をぎりぎりさせている彼にも目を細め、雲雀はどちらから打ちのめそうか思案した。
 接近戦を楽しむなら間違いなく山本だが、中距離攻撃型の獄寺が一緒なのは雲雀にとって相性が悪い。片方に集中している間に背後に回りこまれ、逃げ場を失ったところに爆発物を仕掛けられたらダメージは避けられない。
 二人の連携を早々に絶ってしまうのが吉と判断して策謀を巡らせる雲雀とは対照的に、山本は暢気に微笑んで両手を腰に当てた。
 場に居合わす二名が臨戦態勢に入っているというのに、ひとりだけお気楽調子を崩さない。よく言えばマイペースだが、空気を読めなさ過ぎて獄寺の苛立ちはヒートアップする一方だった。
 雲雀もやる気が感じられない彼に口を尖らせ、剣呑な表情で睨みつけた。
「んな怖い顔すんなって。なー?」
「うっせえ。テメーはすっこんでろ」
「ははは。なあ、雲雀。ツナの奴見なかったか?」
「沢田綱吉?」
 自分たちは喧嘩をしに学校に潜り込んだわけではない。暗にそう告げた山本が口にした名前に、雲雀の右の眉がぴくりと反応した。
 一瞬だけ怯んだ彼を見逃さず、山本が首を縦に振った。隣で獄寺がぎゃーぎゃー騒ぐのを手で制し、人好きのする笑みを浮かべて一歩前に踏み出す。雲雀は反射的に同じだけ下がって、注意深く彼を観察した。
 朗らかな笑顔からは悪意が感じられない。だからこそ裏で何か企んでいるように思われて、警戒は緩むどころか逆に強まった。
 敵意を真正面からぶつけてくる雲雀に苦笑して、山本は後頭部を手で引っ掻き回した。
「知らねえ?」
「見てないね」
 改めて問いかけた彼に素っ気無く返し、雲雀がどういうことかと目を眇めた。山本の左隣で獄寺が、こいつが知っているわけがないだのなんだの、口やかましくわめき散らすのも気に障った。
 普段からよく一緒に居る三人組のうち、ひとりだけ姿が見えない。登校の列にも混じっていなかった。約束していたのに、この時間まで会いに来なかった。
 今までにも何度か、連絡無しに約束をすっぽかされたことがある。雲雀もやったことがある。最初は心配して探し回ったりもしたが、最近はまたか、と思う程度で様子を見に行ったりはしなかった。
 大抵の場合、その日のうちに謝罪の電話が来た。恐らく今夜にも、携帯電話が鳴るだろう。今更怒るつもりはない。お互い様だからと、馴れ合いは否定出来なかった。
 彼は今日も元気に登校し、授業を受け、放課後に友人らと仲良く帰宅した。雲雀に会いに来るのを忘れるくらい、充実した一日を過ごした。
 あの子が楽しんでいるならそれでいいと思っていたのに、その綱吉と一緒に居たはずのふたりの雰囲気がおかしい。いきり立つ獄寺に、困った顔をする山本。彼らを交互に眺めていたら、唐突に指をさされた。
「大体、なんで学校なんだよ。十代目が行きそうな場所つったら、もっと他にあんだろ!」
 堪え切れずに怒鳴った獄寺に、雲雀の左の眉がぴくぴくと痙攣した。
 聞き捨てならない台詞に魂が戦く。トンファーを持つ手が緩んで、落としそうになった彼は慌てて指先に意識を注ぎ込んだ。
 だが頭の中では、今し方獄寺が言い放った台詞が何重にもなって響き渡っていた。
 飲み込んだ唾が苦い。胃液ごと吐き出したい気持ちを堪え、彼は山本に焦点を定めた。
 鋭い目で見つめられた青年は、長い指でぽりぽりと頬を掻いた。
「いや、実はさ」
「ンな野郎に言わなくていい」
「そう言うなって。雲雀だったら何か知ってるかもしれないだろ」
「……いなくなったの?」
 我を張る獄寺を宥め、山本が説得を開始する。そこに割り込んで、雲雀は頭が導き出した結論を呟いた。
 独白に近い言葉に、ふたりはあからさまにハッと息を呑んだ。
 常に飄々としている山本までもが緊張に顔を強張らせ、瞠目して雲雀を見た。獄寺などはもっと大袈裟で、サッと顔色を悪くして拳を震わせた。
「まさかテメーが隠したんじゃないだろうな」
 凄みを利かせた台詞に確信を深め、雲雀は汗に滑るトンファーを何度も握り直した。
 今にも噛み付いてきそうな獄寺の眼差しから逃げ、山本を見る。彼は気の抜けた表情で首を横に振り、肩を竦めた。
「ツナの奴さ、今日、熱出して学校休んだんだけど」
「……」
 それは知らなかった。
 山本から告げられた事実に愕然として、雲雀は目を丸くした。だが表情の変化は一瞬過ぎて、そこにいる二名はまったく気づかなかった。
 昨日の別れ際を思い出し、眉を寄せる。そういえば少しだるそうだった。あの時もっと気遣ってやっていれば、綱吉は寝込まずに済んだのだろうか。
 一秒の間にあれこれとさまざまなことを考えて、山本の言葉はほとんど耳に入ってこない。獄寺がまた突っかかって来たが、見えているのに脳は認識しなかった。
「だってのに、夕方前に部屋からいなくなったらしいんだよ」
「くそっ、俺がもっと早くお見舞いに行っていたら」
 朝から高熱に魘されていたのが、昼を過ぎた辺りには落ち着いた。しかしまだ具合は悪いままで、とても起き上がれる状態ではなかったらしいのに、奈々や子供たちが目を離した隙にベッドを抜け出して行方をくらませたという。
 帰宅後に手土産を準備して沢田家に出向いた獄寺がそれを聞いて真っ青になり、近所を探し回っている最中に部活を終えた山本が合流した。
 公園やコンビニエンスストア、病院といった場所はあらかた探したが、見つからない。残る可能性はと考えて、彼らはここにやってきた。
 了平や京子、ハルといったメンバーも巻き込んで、沢田綱吉大捜索は現在も継続中だった。発見し次第携帯電話に連絡が入る手はずだが、今のところ呼び出し音は一度も鳴っていなかった。
「雲雀は、ホントに見てないんだな」
「知らないね」
「そっかー。んじゃやっぱ、別の場所かあ」
 中学校のことなら雲雀に聞くのが一番早い。裏門からこそこそ潜り込むところを見つかったのは失敗だったが、彼に会えたのを逆に好機と捉えた山本の呟きに、最初からここを探すのには反対だったらしい獄寺が牙を剥いた。
「だから言ったじゃねーか。十代目が、こんな奴に会いに行くわけがねーだろ」
 露骨に嫌悪感を滲ませた一言に、雲雀の顔が歪んだ。今すぐ殴り飛ばしてやりたい衝動を必死に堪え、自制を働かせる。
 悶々としている彼を盗み見て、山本が目を細めた。
「けどさー。……なあ、雲雀。もしツナを見つけたら、連絡くれな?」
 きゃんきゃん吼えて五月蝿い獄寺を宥めながら、山本が立ち尽くしている雲雀に言う。ウィンクしながら頼まれて、鳥肌を隠した彼は黙って頷いた。
 そんな義理は無いと突っぱねるべきだったと後から気づくが、もう遅い。随分と素直な彼に相好を崩し、山本は煙を吐いている獄寺の背中を押した。
 裏門は外から入るには足場にする出っ張りがあったが、内側にはそれがない。ここから出るのは難しいと判断した彼は、正門を目指して歩き出した。
「勝手なことしないでよ」
「じゃ、宜しく頼むなー」
 彼らの不法侵入の罪は消えていない。何事も無かったかのように目の前を素通りされて、雲雀は当初の予定通り咬み殺してやるつもりで声を荒らげた。
 だが山本は相手にせず、ひらりと手を振って駆け出した。追いつかせない。獄寺も一歩遅れ、悪態をつきながらついていった。
 実際のところは雲雀も焦燥感に駆られ、今すぐ校舎に舞い戻りたい気持ちでいっぱいだった。それを見抜かれたのが癪でならず、ぐっと腹に力を込めた彼は乾いた砂を力任せに蹴り飛ばした。
 素早くトンファーを収納し、もう誰も居ないグラウンドを見回してから舌打ちする。やり場のない苛立ちを抱えたまましばらく佇み、彼はややして歩き出した。
 校舎へと戻り、目に入りそうだった前髪をくしゃりと握り潰す。
 正面玄関の下駄箱を窺うが、そこにも人の気配は無かった。誰かが通り過ぎた後という雰囲気も無く、ひっそり静まり返った空間はある意味不気味だった。
 斜めに長く伸びた影は、一時に比べればかなり色が薄くなっていた。もう少しすれば太陽は地平線に飲み込まれ、明日の朝になるまで顔を見せない。地上から光は消えて、闇が訪れる。
 熱を出したという話は一切耳にしていなかった。家族ぐるみの付き合いでもないので、連絡が回ってこなかったのは致し方ないとはいえども、妙に腹立たしく、面白くなかった。
 寝込んでいる本人に知らせろ、というのは酷だ。それは分かっている。だのに獄寺たちが知っていて、自分だけ蚊帳の外に置かれるというこの状況は非常に認め難かった。
 しかも体調が悪い中、居なくなったなどと。
 沢田家には血の繋がった母子以外に、大勢の居候がいる。それなのにどうして全員が見逃したのか。綱吉に何かあった場合、あの家に居座っている輩はどう責任を取るつもりなのか。
 考え始めると止まらず、苛々は募っていくばかり。整理の付かない感情を抱えたまま階段の一段目に足を置いた雲雀は、歪な形状を刻んだ己の影にハッとして、顔を上げた。
 獄寺たちは町内を散々探し回り、最後に学校に戻ってきたと言っていた。そして雲雀の「見ていない」という言葉を信じ、帰っていった。
 けれどその雲雀はずっと応接室に居て、校内を見て回ってすらいない。
「沢田」
 居残っている生徒がいれば、巡回中の風紀委員が発見し次第帰るよう促しているはずだ。けれどその見回り要員も、大半が学外の取締に出向いている。
 しまった、と瞠目して汗を垂らし、雲雀は慌てて階段を蹴りあがった。
 どうして見落としていた。何故気づかなかった。
 誰よりもこの学校に詳しいと驕って、足元すら見ていなかった。
 巨大なハンマーで思い切り殴られたような衝撃を受け、雲雀はふらついた身体を手すりに手を伸ばすことで支えた。踊り場の真ん中でたたらを踏み、奥歯を強く噛み締める。
「沢田!」
 いるのなら返事をして欲しい。いや、返事などしなくてもいいから、学校のどこかに居て欲しい。
 熱で意識朦朧とした中公道に出て、車に轢かれて病院に運ばれるくらいなら、学校の中にいてくれる方が何百倍もよかった。
 この際不法侵入は大目に見てやっても構わない。無事でいてくれるならそれでいい。どうして昨日の別れ際、また明日もおいで、などと言ってしまったのだろう。拘束力のない口約束だったとはいえ、後悔が怒涛の勢いで押し寄せてきて彼を押しつぶした。
 二階へ上る。ほんの僅かな距離を走っただけなのに息が切れて、心臓は爆音を奏でて五月蝿かった。
 にじみ出た汗を拭って唾を飲み、彼は応接室へ続く暗い廊下に目を凝らした。
 どこを探そう。
 どこから探そう。
 応接室を留守にしてから十分と経っていない。雲雀がいる間誰も訪ねて来なかった部屋を思い浮かべ、彼は湿った前髪をくしゃりと掻きあげた。
 ゆるゆる首を振り、ため息をひとつ。
「違う」
 廊下に出た先にも人の気配は無かった。ただでさえ運動音痴で愚鈍な綱吉が、短時間で移動を完了して応接室に潜り込めるだろうか。
 となればもっと別の場所、と考えて、雲雀はキッと天井を睨みつけた。
 更に上に向かい、明るい場所を目指す。まるで消え行こうとする光を追いかけているようだと、階が上るに連れて西日がより沢山差し込む空間に肩を竦める。
 一階よりも二階、二階よりも三階の方がずっと日の光は残っていた。肩で息を整えて、雲雀は温い唾で口内を潤した。
 ここが外れだったら、他にどこを探せばいいのか分からない。居てくれ、と切に願いながら、彼は閉まっていた二年A組の扉をゆっくり右に滑らせた。
 がらりと乾いた音が辺りに響き渡る。思わずどきりと胸を弾ませた彼の視界に、賑わいを忘れた空間が飛び込んできた。
 窓は開いていた。白いカーテンが西日の大半を受け止めながら、ひらひらと蝶のように踊っていた。
 照明は消されて、暗い。理路整然と並べられた机は沈黙し、明日の出番を待って早々に眠りに就いていた。
「……」
 静と動が程よく混ざり合った光景は、生徒に溢れかえる騒々しい空間とは一線を画していた。物寂しくもあり、どこか神々しい。自分が立ち入ってよい場所に思えなくて息を呑んで、雲雀ははっとして首を振った。
 分厚い木の扉から手を離し、一歩を踏み出す。レールを跨いで中に入れば、靴底を通してひんやりした空気が染み込んできた。
 嗚呼、と彼は声もなく呟いた。
「みつけた」
 案の定だったが、ほっとすると同時に少なからず驚いた。感動しているとも言い換えられよう。複雑怪奇な感情に魂を震わせて、雲雀はゆっくり、足音を忍ばせながら教室後方の通路を進んだ。
 教卓正面の列、後ろから二番目。なんの面白みもない、当たり障りのない場所にある机に人が突っ伏していた。薄茶色の髪の毛は時折紛れ込む西日を受けてきらきら輝き、麦の穂のように揺れていた。
 背中を丸めて、眠っている。起きる様子はない。寝息のリズムは安定していた。覗き見た横顔は、穏やかだった。
 恐る恐る手を伸ばし、額に触れてみる。よく分からない。熱いような、冷たいような、どちらともいえないような感想しか浮かんでこなくて、雲雀は自分に苦笑した。
「よかった」
 交通事故にもあわず、道半ばで行き倒れてもいなかった。どうやって誰にも見つからずに潜り込んだかは分からないが、会いに来ようとしてくれたのは素直に嬉しかった。
 と同時に、無理をさせてしまったと激しい後悔に襲われた。
 放課後に間に合わなくて、連絡も出来なくて、学校まで来たはいいけれども顔を合わせ辛かったと、そんなところだろうか。頭が悪いのだから無理にあれこれ難しいことを考えなくてもよかったのに、と目を細め、雲雀は気持ちよさそうに眠っている綱吉の前方に回りこんだ。
 すぅすぅと聞こえてくる寝息に頬を緩め、柔らかな髪を丁寧に梳いてやる。身を屈めて、首を前に倒す。
 うなじにくちづける瞬間、何故だか泣きたくなった。
「すきだよ」
 囁く声は眠る綱吉にまでは届かない。
 だけれど気のせいか、幸せそうに笑った気がした。

2012/07/12 脱稿