百緑

「よーっし。今日はこれで解散!」
「あーっした!」
 部長の澤村の声が体育館内に響き渡り、それを上回る大声が何重にも重なって轟いた。
 窓の外はとっくに日が沈んで、真っ暗になっていた。一列に並んでいた烏野高校男子バレーボール部員は澤村の号令に揃って頭を下げると、隣り合う仲間らと互いに顔を見合わせあい、今日の疲れを吹き飛ばす笑顔を浮かべた。
 掃除や片付けも終わって、鞄を片手に帰るのみ。散々動き回ったおかげで空腹は絶頂で、中には早速買い食いの算段をするメンバーも見受けられた。
 列がばらけ、思い思いのペースで各人が体育館を出て行く。その大半が早く岐路に着きたいと急ぎ足なのに対して、名残惜しげに高い天井を見上げ続ける生徒も数人、少ないながらも存在した。
 澤村と今後のスケジュール確認するために居残っていたマネージャーの清水は、そんな小さな後姿に目を留めると、ふと思い出したようにジャージのポケットに手を入れた。
「日向君」
 新入部員の中でも際立って元気がよく、お陰でなにかとトラブルメーカーでもある少年に向かって声をかける。涼やかな声で名前を呼ばれて、日向翔陽はゆっくりと振り返った。
 黒のジャージの前は全開で、下に着込んだ無地の白シャツにはうっすら汗が浮かんでいた。まだ練習の興奮が冷めやらぬ顔をしており、細い肩は一定のリズムで上下していた。
 日差しを受ければ透けてしまいそうな薄茶色の髪を揺らして、珍しい相手に話しかけられたと首を傾げやる。その表情も、仕草も、どこか子供じみていて、随分と可愛らしかった。
 身長は百六十三センチに届くか否かという辺りであり、バレーボールプレイヤーとしては低めだ。しかしその不利さを跳ね除けるほどのジャンプ力と機動力が、この小さな身体には備わっていた。
 高校に上るまで試合をした経験はほとんど無く、ちゃんとした指導者に教わったこともない。目を見張る跳躍力以外は総じて平均以下の少年は、こっちへ来るよう手招く清水に向かい、自分を指差して目を丸くした。
 寡黙で美人、と他校の生徒からも一目置かれている上級生に首を縦に振られ、なにか叱られるようなことをしただろうか、と日向は口をもごもごさせた。
 実を言えば入部してもう三ヶ月が過ぎたが、彼女とはろくに話をしたこともなかった。
 黙々と仕事をこなす清水には隙が無くて、どんな話題を振れば良いのかもわっぱり分からない。それにたった二歳違いとはいえ上級生は遠い存在で、且つ元からある近寄りがたい雰囲気の所為もあり、目の前にすると緊張してなかなか言葉が出てこないのだ。
 呼ばれただけだというのに既に緊張している彼に、同じく居残っていた影山は怪訝な顔をした。
「おい、日向」
 早く行けとばかりに肘で背中を押してやれば、後頭部に当たってしまった。結果殴られた日向は前のめりになり、もう少しで倒れるところを、利き足を前に繰り出す事で回避した。
 そんなに力を入れたつもりはなかったのに大袈裟になってしまって、吃驚した影山に彼はムーっと頬を膨らませた。
「いってーな、この馬鹿力!」
「うるせえ。さっさと叱られて来い」
 背筋を伸ばすと同時に叫び、打たれた場所を右手で庇う。練習中も散々飛び回って疲れているだろうに、彼の声はまだまだ元気いっぱいだった。
 売り言葉に買い言葉で怒鳴り返した影山が、入り口手前で待ちぼうけを食らっているマネージャーを勢いよく指差す。聞いていた澤村と菅原は苦笑を浮かべ、叱るものと決め付けられた清水は無言を貫いた。
 入部前から問題行動を起こした二人は、目出度くバレーボール部に迎え入れられた後もなにかと騒がしい。今も一触即発な状態になっているが、もはや二人の口論は慣れたものと、部長以下は傍観を決め込んだ。
「あー、くそ。ってー……」
 乱暴な口ぶりの影山に悪態をつき、日向は渋々戻したばかりの右足を前に出した。滑り止めがついたシューズで床を蹴り、どこか怯えた様子で清水の方へ向かう。
 珍しい組み合わせに、もう用事が済んでいる澤村達も興味津々顔で見守った。
「えっと。なんで、ショウ」
「これ」
 何故か微妙なカタコトになっている日向にふっと笑みを浮かべ、黒髪を掻きあげた清水が再びポケットに手を入れた。掌にすっぽり収まるサイズの包み紙を取り出して、顔を強張らせている後輩の前に差し出す。
 リン、と小さなかわいらしい音がふたりの間に響いた。
「え?」
「あげる」
「おれに、ですか?」
 拳骨さえ覚悟していた日向が、予想外の出来事に目を丸くした。驚きを隠さぬまま問い返し、恐る恐る手を広げて白い包装紙を受け取る。
 またあの音がした。右手で摘んで揺らすと、かさかさと紙が擦れ合い、中に収められているものが左右に動き回った。
 軽くて、小さい。長方形の包装の上からでは中身の想像がつかず、日向は目で許可を求めてから、折り目を覆うように貼られていたシールを剥がした。
 奇妙な展開になったと知り、澤村達も様子を確かめようとふたりに近づいた。影山も日向の斜め後ろにつき、小さな手を注視した。
 薄い紙をがさがさ言わせ、袋の口が勢いよく開かれた。出来た隙間に人差し指が差し込まれ、内容物を掻き出す。
 真っ先にオレンジ色の紐が姿を現した。それも複数の紐を編んで頑丈にしたものだ。先端は輪になっており、ずっと下のほうには銀色の球体が附属していた。
 リリン、と軽やかな音と共に現れたのは、小さな鈴だった。
 携帯電話用のストラップだろう。紐の端には、値札を引き千切ったと時に残ったと思われる白い屑が付着していた。
「へー」
 鈴は親指ほどの大きさで、揺らせばかわいらしい音をひっきりなしに奏でた。少々耳障りにさえ感じられる音量は、小さいくせに五月蝿い日向を思わせた。
 紐の色も彼の髪色に似ている。よく見つけたものだと感心する菅原に対し、澤村と影山は不思議そうだった。
「いいんですか?」
「前に、自転車の鍵なくしたって騒いでたし」
 日向はといえば思わぬ贈り物に頬を赤らめ、嬉しそうに声を弾ませた。ぱっと元気よく花開いた笑顔につられて口元を緩め、清水は首を縦に振った。
 鈴をつけておけば、もし鍵を落としてもその音で気づくだろうと、そういう配慮らしい。言われてみれば数日前に、彼は誰か知らないかと部室内で大騒ぎしていた。
 あれは大変だったからな、と清水の気遣いに成る程と菅原が頷く。しかし残る男子ふたりは訳が分からないという顔のまま、鈴と日向と清水を見比べた。
 その不躾な視線にいい加減嫌気が差したのだろう。美人マネージャーは黒髪をなびかせ、鈍い部長を振り返った。
「誕生日」
「え?」
「っていうか、なんでおれの誕生日知ってるんですか?」
「菅原に聞いた。近いんでしょ?」
「そうそう。前にそんな話になってさ」
 素っ気無く単語だけを口にした彼女に、澤村が目を点にする。そこへ日向が割って入り、菅原が鷹揚に頷いた。
 男子バレーボール部の副部長として澤村を補佐する菅原は、一週間ほど前に十八歳の誕生日を迎えていた。その話になった時に、日向が自分とそう日が離れていないと嬉しそうに告白したのを、彼は忘れていなかったらしい。
 清水との何気ない会話の中でその話題が飛び出して、彼女もまた記憶に留めていたようだ。
 思いがけない上級生のサプライズに、中学時代は先輩というものを持たなかった日向はじーんと感動し、目をきらきら輝かせた。
「あ、ありがとうごじゃっす!」
「俺も、後でアイスおごってやるよ。好きなの選んでいいぞ」
「本当っすか。菅原さん大好き!」
「そっか。日向、今日が誕生日だったんだな。じゃあ明日にでも、特別コースでレシーブの練習をさせてやろう」
「う、……あざーっす」
 残る上級生からもプレゼントを提示されて、日向は心底嬉しそうに声を弾ませた。
 澤村の一言には若干嫌そうな顔をしたが、彼がレシーブを苦手にしているのは周知の事実だ。防御がしっかり出来てこそ、攻撃に転じられる。ひとりの欠点がチーム全体の流れを悪くすることだって十分ありえるので、ここはおとなしく好意を受け取ることにする。
 大柄な体格に見合う大きな笑い声を響かせ、澤村が丸まった日向の背中を叩いた。
「さ、お前ら、早く出ろ。鍵閉めるぞ」
 あまり遅くまで居残っていたら、見回りの教頭に見つかってまた説教を食らわされる。無用のトラブルは回避しようと手を鳴らし、澤村は集まっていた一堂を見回し言った。
 コクリと頷き、真っ先に清水が歩き出した。少し遅れて菅原と日向が続き、最後に出ようとした澤村が動かない影山を振り返った。
「影山?」
「え? あ、はい。すみません」
 呼びかけられるまで茫然としていた一年生が、弾かれたように顔を上げた。早口に返事をして、長い足を交互に動かし前を通り過ぎていく。
 トス回しは県内でもトップレベルの技量を持ちながら、その歯に衣着せぬ物言いと傲慢なプレースタイルから中学時代は仲間に恵まれず、実力の一部しか発揮できずにいた埋もれた天才。烏野高校で日向翔陽と出会うことで劇的な変化を見せた彼だが、横暴な性格は元かららしく、その点は未だ改善される見込みが無かった。
 日向との口喧嘩は日常茶飯事。同じ一年の月島との相性も悪い。少しずつ歩み寄ってはいるものの、近づいては離れ、の繰り返しだ。
 今日が日向の誕生日だというのは、彼も初耳だったのだろう。知らされた直後から押し黙って悲壮な顔をしていたのは、澤村の位置からだとよく見えた。
「おめでとう、くらいは言ってやれよ」
「――――」
 シューズを脱いで下足に履き替えている最中の背中に言って聞かせるが、返事は無かった。
 ただ小さく首を縦に振ったような気がして、澤村は肩をすくめて苦笑した。
 先に部室に向かうよう言われて、影山は部長に頭を下げて歩き出した。街灯の細い灯りを頼りに薄暗い敷地を暫く行けば、他よりも若干明るい場所に出くわした。
 前を行く日向と菅原が、部室に通じる外階段を上っていくのが見える。この後の予定でも話し込んでいるのか、日向の横顔はとても楽しそうだった。
 部室に入れば他の部員は既に帰った後で、広い空間はがらんどうとしていた。日向は菅原と並んで喋りながら帰り支度を急ぎ、影山が中に入っても振り向きすらしなかった。
 微妙な疎外感を覚え、苛々した。こんなことはこれまでにも何度だってあったのに、今日に限ってやけに腹が立つ。
 自分から話しかければ良いだけなのだが、ちゃちなプライドが邪魔をしてそれも出来ない。悶々としたままロッカーにシューズを放り込み、影山は入れ替わりに鞄を引っ張り出した。
 汗だくのTシャツは、臭う。急ぎ替えの一枚を取り出して袖を通し、使用済みの分は鞄に詰め込んでファスナーを閉める。全ての準備を終えて肩に担ぎ上げると、既に支度を終えていた菅原たちが一斉に腰を上げた。
「帰るか」
「はい!」
 どうやらふたりは、影山を待っていてくれたらしい。とっくに仲良く家路についているものとばかり思っていた彼は驚き、唖然と眼を丸くした。
「なんだよ、その顔。ほら、もう遅いんだから急げよ。大地も」
「ちょっと待ってくれ、スガ」
 ぽかんとしていたら菅原に笑われた。急かす副部長に澤村も慌てて鞄の中身を整理し、脱げかけた靴下をずりあげた。
 上級生のやり取りを高い位置から眺めた影山は、最後に出口前に立っている同級生に顔を向けた。
「ん?」
 目が合った途端、日向が小首を傾げた。
 その小動物めいた動きは、とても今日、影山より一足先に十六歳になったとは思えないものだった。よくて中学生、下手をすれば小学生でもそんな仕草はしない。
 一瞬くらりと来て、彼は右手で顔を覆った。
「お前が俺より、半年も年上……」
「なんだよ。悪いか」
 たかだか数ヶ月の違いであるが、先を越されたのは相応にショックだ。もっと先のものと確証もないままに漠然と思っていただけに、衝撃は大きい。
 思わず声に出してしまった影山にぴくりと眉を持ち上げ、日向が牙を剥いて噛み付いた。
「はいはい、そこ。喧嘩しない」
「ほら、帰るぞ、日向。影山も行くぞ」
「はーい」
 ちょっと目を離した隙にまた口喧嘩を開始したふたりに呆れ、三年生ふたりが仲裁に入る。菅原が膨れ面の日向の頭を軽く撫で、靴を履いてもない後輩を手招いた。
 上級生を先頭に部室を出て、鍵は澤村が閉めた。なくさないよう鞄のポケットに押し込む傍らで、日向は早速鈴をぶら下げた自転車の鍵を振り回した。
「とってきます」
「転ぶなよ」
「そこまでガキじゃねーよ!」
 自転車置場は、部室棟と正門の間にある。だが直線コース上からは少し離れているので、徒歩組と一緒に学校を出ようと思ったら、先に引っ張り出してこなければいけない。
 灯りは少なく、この時間は人通りもほとんどない。足元に変なものが転がっていても、気づけない可能性は高い。
 一応心配して言ってやったのに、日向は親切心からの発言だとは受け取ってくれなかった。反発して怒鳴られて、影山は階段を駆け下りていく背中をむっとしながら見送った。
 常に騒々しい二人のやり取りに、後ろで聞いていた菅原が笑った。
「どうしてお前、いつも一言多いのかなー」
「……そうですか?」
 中学時代はむしろ一言少ないと言われてきただけに、この評価は意外だ。きょとんとしながら聞き返されて、菅原は一瞬黙って澤村と顔を見合わせた。
 自覚が足りていない後輩に肩を竦め、日向も大変だと口には出さずに目を細める。にやにやしている上級生に眉を顰め、影山はつま先をとんとん、と地面に叩きつけた。
 鞄を担ぎ、二人の後ろについて歩き出す。東北地方も先日入梅したが、ここ数日の天候は落ち着いていた。
 雨が降れば地面が濡れる。傘が必要になる。少し前に合羽姿で学校に現れた日向を見た時は、照る照る坊主が動いていると吃驚してしまった。
 明日も晴れてくれればいい。早く、夏になればいい。
 雑談しながら歩く三年生から少し距離をとり、影山はまだ明るい教室が残る校舎を見上げた。電気の消し忘れだろうかと考えながら歩いていたら、暗がりからキィキィとなにかが軋む音が聞こえてきた。
 足を止め、目を凝らして待つ。程なくして鞄を襷がけにした日向が、愛車を引きずって姿を現した。
「遅せーぞ」
「誰も待っててくれなんて頼んでない」
 白い歯を見せて肩を弾ませる彼に、ついつい悪態をついてしまう。すると日向も盛大に頬を膨らませ、つっけんどんに言い放った。
 ぷいっとそっぽを向いて、影山の前を素通りして菅原たちの方へ走っていく。置き去りにされて、影山はなにもない宙を思い切り蹴り飛ばした。
 なれなれしく上級生の間に潜り込み、自転車を押しながら甲高い声でまくし立てている。話題の中心は勿論バレーボールで、日向の今後の課題に始まり、やがて日本代表選手に移り、果ては世界トップレベルのプレイヤーについての論議に辿り着いた。
 そんな三人の話を後ろで聞きながら、影山は何度も身を乗り出しては、口から出そうになった言葉を飲み込み、煮え切らない自分に苛立ちを募らせた。
 両手をズボンのポケットに突っ込み、百八十を超えた身長をもてあますように背中を丸める。猫背になって口を尖らせる彼を盗み見て、菅原が困った顔で笑った。
「日向」
 右隣を行く一年生の名を小声で呼んで、同時に肘で小突いてやる。つっつかれた日向はきょとんとしてから、後方に顎をしゃくった上級生にはにかんだ。
「影山、お前はー?」
「っ」
「誰が好きー?」
 目を細めて笑い、いきなり振り返って叫ぶ。夜闇を切り裂く大声にびくりとして、影山は零れんばかりに目を見開いた。
 続けて放たれた質問の意味が一瞬理解できず、人前でなんてことを、とガラにもなく動揺してしまう。焦って上手く言葉が発せられずにいたら、にこにこしていた澤村が腕組みしつつ視線を浮かせた。
「俺は、そうだなー。やっぱりロシアの……」
「あー、分かる」
 開幕を目前に控えたオリンピックの代表選手を口にした彼に、菅原が両手を叩いて頷いた。憧れるよな、というふたりの台詞にはっとして、影山は恥ずかしい思い違いに気づいてひとり顔を赤らめた。
 変なことを口走らなくてよかった。涼しいが少し湿度が高いのか空気がじっとり肌に張り付き、汗は蒸発せずに首筋を流れた。温くて美味くもない唾を飲み込んで、彼は安堵の息を吐き出した。
「やっぱりお前は、セッター?」
「当たり前だ」
 深呼吸して乱れた心拍数を整え、日向に聞かれたのを機に歩幅を広げる。三人との距離を一気に詰めれば、道を占領するわけにいかないからと、自然ふたりとふたりに列が分かれた。
 坂ノ下商店の看板も見えて、日向の横顔がにわかに活気付いた。そわそわと落ち着きが無く、いつも以上に足取りも速い。
 酔っ払っているわけでもないのに千鳥足になられて、影山は肘を掠めた茶髪に肩を竦めた。
「日向、先行って選んでていいぞ。影山も」
「俺は、別に」
「遠慮するなよ。でないと、日向が二本食べちゃうぞ」
「……いただきます」
 誕生日でもないのに奢られるわけにはいかないと拒もうとしたが、押し切られた。こんな時間から冷たい菓子をふたつも胃に入れたら、腹を壊しかねない。この後山越えがある日向に無理はさせられないと自分に言い聞かせ、影山は一呼吸置いて頷いた。
 横で聞いていた日向が不満そうに口を尖らせたが、菅原も澤村も笑うばかり。子供じみた拗ね方をする彼に影山もプッと噴き出せば、我慢の限界が来たのか日向は頭から煙を吐いて地面を蹴った。
「おっさきー」
 開口一番叫び、ずっと押していた自転車のハンドルを握り締める。ふわりと舞い上がった身体がサドルに着地して、空回りしていたペダルが強く踏み込まれた。
 烏野高校は緩い坂道を登った先にある。行きはそれなりに大変だが、帰り道はその逆だから楽だ。ブレーキを握らなければ、漕がなくても自転車はひとりでに進んでくれる。
 そして漕げば、登りとはまったく異なる速度が出る。
「あ、こら」
 影山が止める間も無く、日向は走り出した。サドルに置いた腰を浮かせて前傾姿勢で風を切り、一瞬のうちに遠くへ行ってしまう。
 突然びゅん、と横を走り抜けていった彼には三年生も驚きを隠せない。アイスは逃げないのだからなにもそこまで急がなくても、と思うのだが、言ったところで日向に届くわけが無かった。
 店に着いたらまた怒られるのか。一足先に帰ってしまった鬼コーチの顔を思い浮かべ、澤村はがっくり肩を落とした。
 落ち込む部長の肩をぽんぽん叩いて、菅原が苦笑する。店に入ると案の定、エプロンをした店長が猛スピードで現れた教え子を顰め面で叱っていた。
 頭ごなしに説教されているにもかかわらず、日向の表情はどこか嬉しそうで、幸せそうだ。澤村が代理で詫びることでどうにか許された彼は、早速影山と並んでアイスクリームが入ったケースに噛り付いた。
 上級生は最初から烏養に用があったようで、カウンターを挟んでなにやら熱心に話をしている。漏れ聞こえてくる内容は今後の練習メニューや、チーム編成についてだった。
 聞き耳を立てながらアイスを選ぶのは難しい。
「影山?」
「なんでもない」
 手が止まっているのを隣に不審がられて、影山は急ぎ冷えたケースを覗き込んだ。
 数秒の逡巡の末、小さい頃によく母親が買ってきたものを選び、蓋を閉める。ふたりが希望を選び終えたのを見て、菅原が早速財布を取り出した。
「お前が払うのか」
「今日は日向の誕生日なんで」
「ほ~?」
 満面の笑みを浮かべて腕を振った日向に、烏養がタバコを咥えたまま呟いた。疑問に思うのも当然と手短に理由を説明した菅原に、彼はもの珍しいものを見る目を小柄なバレーボール部員に向けた。
「えへへ」
 それは目出度いな、といわれ、照れくさかったのか、日向は頭を掻きながら小さくなった。あまり祝われている雰囲気は無かったが、本人はまんざらでもないらしい。至って自然と呟かれた一言に、影山は手にしたアイスを握り締めた。
 澤村にああ言われたのに、自分は未だに日向を祝えていない。たった五文字の短い言葉が、嫌に重苦しくて難しい単語に思えてならなかった。
 それに、プレゼントだって。
 知ったのがついさっきだったのだから、当然準備など出来ていない。鞄の中身は教科書に空の弁当箱、着替えいった必要最低限のもので埋め尽くされて、人に渡せるような代物は一切入っていなかった。
 何故先に教えてくれなかったのかと腹が立つが、自分だって日向に教えていないのを思い出す。菅原の誕生日が過ぎていたのだって、今日知った。中学時代のチームメイトの分だって、自己主張が強くて自分から公言していた奴以外は知らない。
 興味が無かったから当然といえば当然だが、もう少しちゃんとリサーチしておくべきだった。今からでは何も準備できないし、アイスは菅原が代金を支払ってしまった。これを食べながら帰るのに、追加で食べ物を押し付けるのは少し無理がある。
 それに、とってつけたように渡すのはどうにも嫌だった。
 菅原に対抗して、ではなく、自分できちんと選んで渡したかった。けれどその中身が思いつかない。理想だけ高くても現実が追いついてこないのは、別のことでとっくに経験済みだというのに。
「日向」
「んー?」
 澤村達とは、坂ノ下商店で別れた。彼らはもう少し、烏養と話があるそうだ。いくらチームの司令塔たる正セッター候補だからといって、そこに入部三ヶ月の一年生が混じる余地は無い。
 店を出て早々パッケージを破き、氷菓を口に入れた日向が自転車に鞄を押し込んだ。冷たい雫で唇を濡らした彼の瞳が、街灯が照らす狭い範囲に立つ青年を捉えた。
 あまりに差がつきすぎてもう羨ましいとさえ思えない背丈の影山が、未開封のアイスを手に目を逸らす。自分から呼んでおいてなんだと脛を蹴り飛ばしてやれば、彼は嫌がって足を引っ込め、仏頂面で日向を睨んだ。
 けれど周囲が暗くてはっきり見えないお陰で、あまり怖くない。平然と受け流し、彼は表面が解け始めたアイスに前歯をつきたてた。
 しゃくりと先端を削り、美味しそうに飲み込む。火照っていた体が一気に冷えていき、心地よい風が身体を包んだ。
「うまー」
 店長に騒ぐなと怒られそうな大声で吼えて、頬を緩ませる。心から幸せそうな彼に肩を落として、影山は右手に持った小豆味のアイスに目を落とした。
 いつまでも開封しない彼に小首をかしげ、日向が右手でハンドルを握った。左手で棒アイスを落とさぬよう支えながら、動かないチームメイトに顔を顰める。
「影山?」
「いや、……」
 アイスを頬張りながら呼ぶが、彼の反応は芳しくなかった。
 宙を泳ぐ瞳が日向を中心に行ったり来たりして、一つどころに落ち着かない。変な奴、とそわそわしている彼から視線を外し、日向は自転車を押して歩き出した。
 ワンテンポ遅れて、影山が後ろをついてくる。彼とはもう少し先にある三叉路まで道が同じだった。
 それを過ぎてしまったら、暗い夜道にひとりになる。
 毎日のことなので、さすがにもう慣れた。きちんと整備されており、街灯も等間隔で配置されているので怖いとは思わない。
 ただ、少し寂し。
 学校というにぎやかな場所で、大勢の友人や仲間と共に過ごす時間が終わってしまったのだと思い知らされる。長年の目標にしていた学校に入学できた上に、喉から手が出る程欲しかったチームに入れたのだから後悔などしていないが、この一人ぼっちの帰り道だけはどうにも苦手だった。
 溶けて流れるアイスを舐め、やわらかくなったところを噛み千切る。舌の上に転がせば瞬く間に水になり、ひんやりした感触だけが口内に残った。
 温い唾液に混ぜて飲み込んで、息を吐く。視線を感じ、日向はちらりと傍らを盗み見た。
 影山はまっすぐ前を見据えたまま、黙々と足を動かしていた。
 アイスは依然、袋の中だ。このままでは食べる前に全部溶けてしまう。残りわずかになっている自分の棒アイスに視線を落とし、彼はちろりと舌を伸ばした。
 そういえば彼に、まだ何も言ってもらっていない。
 あと数時間で今日が終わってしまうのを遅ればせながら実感して、日向は空振りした舌を口内に引っ込めた。
 白く濁った液体が棒を伝い、指に落ちた。
「あ……」
 ぬるっとした感触が指の腹に広がって、しまった、と心の中で舌打ちする。表に漏れ出た小さな呟きに反応してか、影山の肩がぴくりと跳ねた。
 濡れてしまった手を拭おうと、日向は持っていた棒アイスを口に含んだ。落ちぬよう唇と前歯で挟んで、右手は自転車のハンドルを握ったままにして、おもむろに足を止める。
 隣を行っていた影山の足もつられて止まった。白いシャツの、右脇腹に濡れた指を擦り付けた彼を暗がりから見下ろして、不意に何かを決意した顔で口をきゅっと引き結んだ。
「日向」
「ん?」
 名前を呼ぶ声に瞬時に反応し、明るい茶色の髪が揺れた。
 顔を上げようとした彼の視界に、黒い影がいっぱいに広がった。近づいてくる。少し荒い鼻息を感じて、どんぐり眼がまん丸に見開かれた。
 自動的に後ろに仰け反ろうとする彼を制して、斜めに傾いだ自転車に手を伸ばす。銀の車体と影山の間に挟まれた日向が、影を帯びて迫り来る気配に戦いて口を開いた。
「か……」
 唇が支えていた冷たい菓子のことも忘れ、その名を呼ぼうとして刹那、はたと我に返る。するりと滑り、重力に引かれて下へ向かうバニラアイスに意識を持っていかれた日向が反射的に俯いて、予想外の展開に影山は目を剥いた。
 今更避けるなど不可能だった。
「いって!」
「ぎゃっ」
 ごちん、とぶつかり合った頭部が盛大に音を立て、衝撃は骨を超えて脳にまで届いた。
 顎と額をぶつけ合わせた双方が反動で後ろに倒れそうになり、影山が自転車を引っ張ることでどうにかバランスを取る。鈴の音が喧しく響く中、ぐらぐら揺れる視界に涙を浮かべ、日向は慌てて足元を確かめてがっくり肩を落とした。
 アスファルトに横たわる棒アイスはぐしゃぐしゃに潰れて、もはや原型を留めていなかった。
 まだ沢山残っていたのに、泥と埃にまみれてもう口に入れられそうにない。靴にまで飛び散った白い水滴に泣きそうな顔をして、彼は右手で顎を覆っている男を睨みつけた。
「なにすんだよ」
「お前こそ、急になにしてくれてんだ」
 あんなタイミングで頭突きを食らわせてくるなど、反則もいいところだ。そんなに自分が嫌いかと、日向が怒っている理由を一割も理解していない影山が悪態をついて、そこで初めて彼の手が空になっているのに気づく。
 俯きついでに右足を引っ込めて、ぐちゃぐちゃになっているアイスの残骸をそこに見出す。慌てて顔を上げて日向を見つめても、彼の機嫌は簡単には直らなかった。
 あれは菅原からの誕生日プレゼントだ。それをこんな風にないがしろにされたら、影山だって怒ったかもしれない。
「わ、悪い……」
「影山なんか嫌いだ」
「だから謝ってんだろ。これやるから、許せ」
 少しも緩まない眼力に怯んで、渋々謝罪を口に出す。だが許しは得られず、却って臍を曲げられてしまった。
 仕方無く妥協案を探し、影山は手をつけていなかった自分のアイスを差し出した。表面に沢山の水滴を浮かべているそれをずいっと前に出して、膨れている頬に張り付かせる。
「ひゃっ」
 そのあまりの冷たさに驚き、日向がビクッと背を震わせた。
 首を引っ込めて縮こまった彼が面白くて、影山は嫌がっているというのにしつこく顔に押し付けた。体温を吸って中身が溶けてしまうなど、これっぽっちも考慮していない。
 だんだん温くなっていく包装紙と柔らかな感触に奥歯を噛んで、日向は横薙ぎに手を払った。
 影山の大きな手からアイスを浚い、角を咥えて片手で器用に封を切る。取り出された小豆味のアイスクリームは、案の定表面が溶けて角が丸くなっていた。
「げー」
「嫌なら返せよ」
「やだ」
 ぼたぼたと水滴を垂らす氷菓に顔をしかめた彼に、影山はすかさず右手を差し伸べた。手のひらを上にして広げ、肩を揺らして返却を急かす。
 その傲慢ともいえる仕草にむっとして、日向は慌てて噛み応えがすっかりなくなった氷菓子を口に押し込んだ。
 しゃく、と易々通った前歯が小気味のよい音を立てた。奥歯で磨り潰すまでもなくするりと喉に流れ込み、快い冷たさと味わいだけが舌の上に残される。
 美味しそうにほおばる彼の、子供じみた嬉しそうな顔を眺め、影山は何も言わずに手を引っ込めた。
 分かれ道はもうそこまで迫っていた。時間も遅い。もたもたしていたら、寝床に入るのがどんどん遅くなってしまう。
 明日の朝だって練習がある。睡眠時間は多いに越したことはない。
 もやもやと渦を巻いている感情を抑え込み、影山は深く長い息を吐いた。穏やかとは言いがたい胸の内に無理やり整理をつけて、黒髪を掻き回して口を開く。
「あ……と。なんだ。気をつけて帰れよ」
 だのに舌の上を滑っていったのは、頭の中で何度も繰り返された一言とは似ても似つかぬ言葉だった。
 ぶっきらぼうに言い放たれて、日向の目が丸くなった。
 ずいぶんと食べやすくなったアイスをもう三分の一まで減らしていた彼は、そっぽを向いて地面を蹴っているチームメイトをぼんやり見上げ、しばしの逡巡を経てにっと笑った。
「お前もな」
「早く寝ろよ」
「言われなくても」
「遅刻すんなよ」
「そっちこそ」
 毎日のように繰り返される、別れ際の押し問答。短い言葉のやり取りをしばらく続けて、ふとした瞬間、影山は押し黙った。
 最後のひとかけらを飲み込んだ日向もまた、妙な気まずさを覚えて口を噤んだ。
 日の暮れた道端で向かい合い、時間が過ぎていくのをただひたすら待つ。早く帰らなければと思うのに足は動かず、互いにさよならと手を振るきっかけを探して瞳を泳がせる。
 湿った木の棒を左手に握り締めて、日向ははっ、と息を吐いた。
 冬場だったら白く濁りそうなそれを胸で受け止めて、影山が僅かに身じろぐ。人ごみの中でも目立つ身体を揺らして、彼は薄く唇を開いた。
 音にはならない。声は響かない。
 だけれど日向の耳には確かに届いた。
「かげやまっ」
 名前を呼ばれた気がして、勢いよく顔を上げる。瞬間、鼻の頭を熱が掠めた。
 覚えがある柔らかい感触に驚き、口がぽかんと開いた。間抜け顔を晒している彼を見下ろして、影山は気まずそうに口元を覆って目を逸らした。
 額を狙ったつもりが、動かれた所為でずれた。予定外の結果にしかならない自分を恥ずかしがってか、顔は暗がりの中でも分かるくらい赤かった。
 照れている彼を呆然と見上げた後、日向はぷっと吹き出した。肩を震わせ、左手で脇腹を押さえながら、喉を引きつらせてひーひー言う。
 笑い転げている彼をむっと睨みつけて、影山は悔し紛れに短くて小さい足を蹴り飛ばした。
「いってえー」
「うるせえ。さっさと帰って風呂入って寝ろ!」
「う――わ」
 弁慶の泣き所を一撃されて、小柄な体躯が飛び跳ねる。捨て台詞をまくし立てて腕を伸ばし、影山はひょこひょこ動き回る胸倉を乱暴につかんだ。
 襟を捻り、力任せに引き寄せて。
 吐息と共に押し当てられた熱に瞠目し、直後日向は静かに目を閉じた。
 ふわりと香るのは、食べたばかりのアイスに含まれていた香料か。そこにたっぷり流した汗の匂いが紛れ込み、最後に太陽よりも暖かい彼独特の匂いが影山の鼻腔に広がった。
 いつになく甘い唇を軽く食んで舐め、ちゅ、とかわいらしい音を残して離れる。ようやくちゃんとしたキスになって、安堵すると同時にいつになく照れくさくなった。
 爪先立ちを強いられた日向の踵が地面に降りて、膝に力が入らなかったのか後ろにふらついた。自転車にぶつかってがしゃがしゃ言わせた彼に驚き、影山は慌てて離したばかりの手を広げた。
 上腕を掴んで支えてやって、横顔を盗み見れば耳まで赤い。
 是が非でも目を合わせようとしない彼に目を細め、影山は熱を持っている耳たぶに意地悪く息を吹きかけた。
 ふっ、と掠めた吐息に首を竦めた日向が、一秒後目をまん丸にして彼を見た。
「かげ……っ」
「おやすみ」
 今のはどういう意味か、教えて欲しくて口を開いた矢先、追及を拒む言葉を贈られた。
 意地悪く眇められた瞳が、分かるだろうとささやいている。そんな顔をされたら聞くに聞けなくて、日向は少し不満そうに口を尖らせた。
 そんな可愛らしい拗ね顔に相好を崩して、影山が右手を振って歩き出した。
 大きな背中が街灯の光から外れ、暗がりに消えて見えなくなった。しかし彼が残した言葉はいつまでも耳に残り、簡単には消えてくれなかった。
 おめでとう、ではなく。
 ありがとう、と。
「やっぱあいつ、……バカだろ」
 出会ってくれて有難う。
 チームになってくれて、ありがとう。
 好きになってくれて、ありがとう。
 短い一言に込められた沢山の想いを胸に広げ、日向は持て余す熱を振り切るように自転車で漕ぎ出した。

2012/06/19 脱稿