距離にしてたった十数メートル。
歩いて十秒と掛からない距離が、今日に限って不思議なくらいに遠く感じられた。
「別に……借りに行くだけだ。顔が見たいとか、そんなんじゃねーし」
教室を出て廊下に顔を出し、誰にも聞こえない音量でひとりぶつぶつと呟く。仄かに赤い顔を隠そうと俯くが、学年でも抜きん出て背が高い彼の努力は無駄にしかならなかった。
入り口付近で立ち止まっていたら、前から来た女子に怯えた顔をされてしまった。
誰も取って食うつもりはないのに、この背丈と目つきの悪さだけで怖い人、と偏見を持たれてしまう。だが逐一訂正するのも面倒で、中学二年の辺りからは完全放置状態だった。
いい加減、慣れた。それに他の奴らがどう思おうと、結局のところ自分には関係無い。
無言で道を譲ってやって、影山飛雄は顔を上げた。
少し離れた場所に、一年一組の札が見える。三組との間を行き交う生徒は大勢いたが、視界の邪魔にはならなかった。
居るだろうか。一抹の不安を抱き、彼はゆっくり歩き出した。
一時間目と二時間目の合間の、休憩時間。次の授業は英語だと、いつものように鞄から教科書、ノート、並びに辞書を取り出そうとした影山は、目当ての物に行き当たらずに空振りした指先に、怪訝に眉を顰めた。
もう一度探って、机の上に移動させて覗き込んで、持って来るのを忘れたのだと気付いたのが二分ほど前のこと。上履きの底で床を踏みしめながら、彼は昨晩から今朝に至る出来事を脳裏に描き出した。
バレーボール部の練習を終えて帰宅して、晩飯を胃に掻き込んで風呂に入り、軽くストレッチをしてから机に向かおうとして止めて、寝床に潜り込んで気がついたら朝だった。
目覚ましは無意識のうちに止めていたらしく、朝練に間に合うかどうかもギリギリだったので、慌てて時間割だけ合わせた鞄を引っ掴んで飛び出して来たのだが、教科書は忘れなくても、辞書にまでは頭が回らなかった。
どうりで荷物が軽かったわけだと、登校時を振り返ってため息をひとつ。二組の教室前を素通りして、彼の足はいよいよ一組の領地に侵入した。
後方の扉は開いていた。全く知らない顔の男子が出て来て、すぐ近くにいた影山に驚いて急ぎ右に避ける。躱し方は随分大袈裟で、あまり良い気はしなかった。
「チッ」
中学時代から孤立しがちだったので今更傷ついたりしないが、気分は悪い。小さく舌打ちして無理矢理溜飲を下げて、彼は気持ちを切り替えようと深呼吸した。
意識した瞬間高揚を開始する心をどうにかねじ伏せて、開けっ放しのドアから教室内部を覗き込む。構造は自分のクラスと全く同じ筈だが、在籍する生徒が違うというのもあって、雰囲気はまるで別物だった。
「いる、……か? いた。おい、日向。ひなたー」
右手を壁に添え、上半身だけを内部に潜り込ませて首を左右に振る。後ろの席から黒板に近い前方の席へ視線を流し、あの目立つ栗色の髪を探し出す。
目的の人物は廊下側の真ん中辺りに座っていた。
すぐ隣の机に浅く腰掛けた男子と、仲良さげに談笑していた。それを邪魔して大声を張り上げ、影山は空いている方の手をちょいちょい、と揺らした。
揃えた四本の指で空を引っ掻く彼に、会話を中断させた日向がひと呼吸置いて振り返った。
「影山?」
団栗眼を丸くした彼の、少しトーンが高い声が賑わう教室に響き渡る。男子高校生らしからぬ声色はよく通って、その瞬間だけ場の空気が変にざわついた。
雑談を止めた女子の数人が、見慣れぬ背高の男子に怪訝な、或いはもっと違う感情を匂わせる表情をした。不躾な視線が方々から寄せられて、影山は居心地の悪さを覚えて浅く唇を噛んだ。
その彼に呼ばれた日向は話の途中での離席をクラスメイトに詫びて、椅子を引いて立ち上がった。
バレーボール部の中ではダントツに背が低い彼だが、同年代の男女の間に紛れてしまえばそれほど小さいとは感じられない。ただ影山と並ぶと、その印象は瞬く間に吹き飛んだ。
「なに?」
彼が一組を訪ねて来るのは、これが初めてだ。珍しいことがあるものだと内心思いつつ、少し嬉しいと感じながら首を上向けた日向に、影山は一瞬言葉を失って息を呑んだ。
無邪気に見上げられる彼との距離が、妙に近い。いや、今までにだってこれくらい、何度もあった。
だのに変に意識させられるのは、周囲に大勢生徒がいるからだろう。
部室や、部活中なら、周りに誰かしらいてもその数は知れている。人目を盗んで触れるのも造作なかった。
だが今は、常に他人の目が自分達に張り付いている。変に思われるのではないかという危惧が突然生じて、影山は用意していた台詞を危うく忘れそうになった。
「影山?」
「あ、あ、あー……わるい」
「ん?」
「辞書、貸してくれ」
ふわふわの髪の毛を見下ろしたまま黙り込んでいたら、流石に可笑しいと感じたようで、日向が首を右に倒した。
上目遣いのままそんな仕草をされたものだから堪った物ではなくて、変な声が出そうになったのを急ぎ堰き止める。口を右手で覆い隠した影山の台詞に、日向はきょとんとして今度は左に首を傾けた。
「なんの?」
「ぐっ」
至極真っ当な質問を投げかけられて、影山は言葉足らずな自分に唸った。
口元にやっていた手を上に滑らせ額に当てて、彼はいやに疲れた様子でかぶりを振った。
前に副部長の菅原から、お前はひと言余計だと指摘されたが、それだけではなかったらしい。馬鹿みたいに緊張した所為で嫌な汗が流れて、触れた肌はしっとり湿って気持ちが悪かった。
「英語」
「ん、分かった。ちょっと待って」
掠れる小声での呟きを拾い上げ、日向が元気に頷いた。
幸いにも、影山の葛藤に気付いている気配は全く無い。脳天気を絵に描いたようなチームメイトは、にしし、と白い歯を見せて笑うと、此処で待つよう告げて小走りに駆け出した。
短い距離を、飛ぶように移動していく。足取りは軽い。
練習中以外でもずっとあんな感じでは疲れないかと心配になるが、とぼとぼ歩く日向はあまり見たくない。部活後に腹が減ったと言ったら、今日くらいは礼も兼ねて肉まんのひとつでも奢ってやろう。
まだ当分先の放課後に思いを馳せていたら、視線を感じた。
「?」
なんだろう、と顔を上げて辺りを探るが、それらしき人物はいない。一組の教室をぐるりと見回して首を捻っていたら、またしても人の動向を窺っている気配が肌を刺した。
今度こそ正体を掴んでやると意気込み、前方を睨む。
影山にサッと背中を向けたのは、自席に戻った日向だった。
「……ン?」
そもそも、英語の辞書を探すのに、そんなに時間がかかるものだろうか。
椅子に座って机に齧り付いている彼を認めて、影山は眉間に皺を寄せた。
どうにも、鞄や机の引き出しを探っている様子は見受けられない。ならばいったい、彼はあそこで何をしているのか。
敷居を跨ぐ格好になっていたのを、右足を引く事で全身を一組の教室に忍び込ませ、影山は踵を浮かせた。
元から上背がある彼が背伸びをすると、ドアの上辺に頭が激突しそうだ。間近に迫った障壁を右手で押さえてバランスを取り、彼はせっせと右手を動かしている日向の背中を興味深げに眺めた。
なにかを懸命に書いている。机上に広げられている物は、ノートではなさそうだ。
「日向?」
あと少しでチャイムが鳴ってしまう。担当教諭が現れる前に席に着いておかないと、後々面倒な事にもなりかねず、影山は内心焦ってその名を呟いた。
聞こえたわけではなかろうが、丁度のタイミングで日向は猫背だった背中を伸ばし、勢いよく立ち上がった。
膝裏に押し出された椅子がガタガタ音を立て、そこだけが喧しい。クスクス笑う女子にも構わず、彼はなにやら含みのある笑顔を浮かべて影山の方へ駆けだした。
その手には厚さ五センチ以上はある辞書が握られていた。
外箱は無く、中身だけだ。中学時代から愛用しているものなのか、白い表紙は手垢がついてかなり汚れていた。
大事に使って来たのが、見ているだけでも伝わって来た。
「悪いな、助かる」
「おれ、四時間目が英語だから」
両手で受け取ると、ずっしり重かった。
自分の知らない日向を見て来たであろう辞書の背表紙を人差し指でなぞり、謝罪と礼を込めて囁く。彼はくすぐったそうに笑って、右手を広げて親指だけを折り畳んだ。
「分かった。それまでに返しに来る」
四本並ぶ指も、影山のそれに比べれば随分短かった。掌も全体的に小さい。小指の爪など、言わずもがな。
小学生か、と言いたくなる仕草をした日向に頷いて、影山が右足を退いた。ドアのレールを踏み越えて廊下に出て、身体を反転させる。
そのまま立ち去ろうとして、クイッと背中を引っ張られた。何事かと思って首を後ろに振り向ければ、両手を背中に隠した日向がつーんとそっぽを向いて立っていた。
非常にわざとらしい態度に、影山は左手で学生服を軽く撫でた。
「後でな」
右手は高く掲げ、握った辞書を加減して振り下ろす。厚みのある角で頭の天辺をぽすん、と叩かれて、日向は咄嗟に首を竦めて小さくなった。
力任せに殴られる恐怖に負けて身構えた彼を鼻で笑い、辞書ごと手をひらひらさせた影山は一組の前から離れた。
「ぬあ、も……この、バカげやま!」
「その呼び方、ヤメロ!」
瞬間背中にとんでもない罵声が飛んできて、反射的に大声で怒鳴り返してしまう。あっかんべーと舌を出した日向は、けれどどことなく楽しげだった。
悪戯っぽく笑う彼に肩を竦め、影山は休憩時間の残りを気にして足を速めた。
三組の教室、前のドアから中に入って真ん中後方にある自席を目指す。入学当初は出席番号順で前の方の席だったのだが、後ろの生徒から黒板が見えないとのクレームが出た所為で変更になったのだった。
お陰で居眠りをしていても、見付かりにくい。いや、座高も高い影山の姿が見えない段階で、居眠りしていると周囲に丸分かりなのだけれど。
まだ半数の生徒が戻って居ない教室を颯爽と横切り、椅子を引いて腰を下ろす。机の下に両足揃えて入れると窮屈でならないので、右足は通行人の邪魔にならない程度に、外側にはみ出させる。
これで授業に必要な物は全て揃った。真面目に聞くつもりは毛頭ないけれど、形だけでも整えておくのとおかないとでは、教諭らの心証も多少は違って来よう。
狡いことを考えて苦笑して、影山は日向から借りて来た辞書を撫でた。
チャイムが鳴る。ただでさえ賑やかだった教室が、一層騒々しくなった。
ばたばたと席に戻るクラスメイトを尻目に、彼は汚れが目立つ辞書を興味本位に捲ってみた。
「ん……?」
そうして、気付く。薄い用紙の集合体である辞書の、とあるページの角が内側に折れ曲がっていることに。
なにかに目印か。過去に単語の意味を調べたまでは良いものの、メモを取れなかったので、後から探しやすいようにと手を加えたのか。
ただ、それならば他のページにも折り目が残されているべきだ。頻繁にページを折る癖があるわけでもなさそうで、汚れてはいても丁寧に扱われて来たと分かる辞書に、影山は顔を顰めた。
「なんだろ」
そういえば日向は、これを渡しに来る直前、机でなにかをやっていた。
思うに、彼が広げていたのはこの辞書ではないか。元気よく動き回っていた右手を思い返して、影山は好奇心に負け、その折れ目が入っているページに短い爪を押し当てた。
アメリカ合衆国の地図が書かれている内表紙から数えて、三分の二辺り。かなり後ろの方だ。慎重に広げてみれば、真っ先に目に入ったのはSの文字だった。
「エス、イー……、ティー。セット。ん? こっちじゃない?」
紙面の上端には千三百台の数字が見えた。小口側にはそのページの先頭に記されている英単語が太文字で印刷されている。犬の耳を真似て折れ曲がっている箇所を抓んで伸ばして読み取って、彼は更にもう一ページ分、捲った。
様々な意味を持つ単語なので、その分説明も長い。二ページ半に渡って記述されている単語の次には、これを用いた名詞が並んでいた。
ある程度は想像がついていたので、別段驚きはしない。問題なのは、赤ペンで丸印された「setter」という言葉から引っ張られている矢印だ。
欄外に向かって伸びている鉛筆書きの線は、「865」という数字に繋がっていた。だがこれが何を意味しているのか、直ぐには理解出来なかった。
半眼し、考える。クラスメイトの大半が着席し、教諭が入って来るのを内心どきどきしながら待つ頃になって、彼はそれが辞書のページを表しているのだと気がついた。
「八百、六十……五。ここか」
まだ授業が始まらないのを良いことに、日向が出したクイズの続きを追い掛ける。適当に広げた所が前過ぎて、大雑把に数枚まとめて捲った影山は、突然目に飛び込んで来たピンク色に目を瞬いた。
さっきは細い赤ペンだった。
今度は、蛍光ペンだ。
「あの、……バカ」
いの一番に視界に入るよう、無駄とも思えるくらいに装飾されていた。後日、別の友人にこれを貸した時、彼はどんな言い訳をするつもりなのだろう。
あまりの馬鹿らしさに呆れて、他に言葉が出て来ない。勝手に緩んでいく口元を覆い隠して、影山は背中を丸めて机に突っ伏した。
他の誰にも見られないよう注意しながら、開きっぱなしの辞書に額を押し当てる。
「くだんねーこと、してんじゃねーよ」
己の影で視界が暗くなるが、それでも蛍光色で彩られた単語ははっきりと見えた。
Lで始まり、Eで終わるアルファベット四文字が、お日様さながらの微笑みで彼を見上げていた。
2012/05/22 脱稿