霞色

 自分以外の人間は、全て敵だった。
 母親とふたりで暮らしていたように思う。思う、というのは、当時の記憶が既に曖昧でしかなく、これが確かにそうだ、という自信がいまひとつ持てないからだ。それくらい幼い頃の自分は、荒んでいたし、今でも無意識下で思い出したくないと記憶に蓋を閉め、鍵をかけてしまっているから、らしい。
 ただひとつ間違いないのは、父親が居なかったことだろう。気がついた頃には既に居なかったし、もしかしたら最初から居なかったのかもしれない。顔も分からないし、名前も知る由無い。
 母親だった(と思う)女性は男にだらしなく、昼間から惰眠を貪り夜は何処かへ出掛けては毎日違う顔の男を連れ帰って来ていた。だから夜になると邪魔者扱いされて家を追い出され、気がつけば生活のサイクルは昼夜逆転。食事などもまともに用意された日はなく、机の上に申し訳程度の金が少し置かれていたのを使うか、もしくは女の財布からこっそり抜き取った僅かな額で買い食いするくらい。暖かいスープなど供された記憶もなく、いつも冷たい路地裏で安いパンを齧ってばかりだった。
 活動時間が夜、日も暮れてからになるので、必然的に他人との付き合いもそれに順ずるようになる。当時暮らしていた地区はアパート代が安いが治安も悪い地区で、似たような境遇の少年少女は沢山居た。移民も多く居た。
 彼らからは言葉を、そして生きる術を様々に教わった。その経験は今でもたまに役に立つことがある。
 盗みも覚えた、恐喝の類にも遠慮がなくなっていく自分を恥と思わなかった。社会の底辺に存在している自分達を高みから見下ろしている奴らが憎くて、いつか自分がその間違った世界をひっくり返してやるのだと、大それた事を考えた時期もあった。
 家に帰れば母親の暴力、母が連れ帰った男からも暴力を振るわれた。母親似で幼少時から性別を逆に見られることもあって、それがとても嫌だった。
 決定打になったのは、母親の愛人だったそういう男達のうちひとりが、女の居ない間に自分を組み敷こうとしたことだった。無論未遂に終わったのだが、未遂に終わってくれた原因が、母親が丁度そのタイミングで帰って来たことだったから大変だ。
 ヒステリックに叫ぶ女、言い訳をしようと懸命になり、やがて自分が誘惑したのだと言い出す男。更にそれを信じる女。頬を殴られ、吹っ飛ぶ自分。棚に背中がぶつかり、積まれてあった缶詰やらなにやらが落ちてきて、一瞬だけ気を失った。
 産むんじゃなかった、こんな子供欲しくなかったのに。夢うつつにそう叫ぶ女の声を聞いた。ぼんやりと自分の事を言っているのだな、と妙に他人事のように感じていたのを覚えている。
 そんな気はしていたのだ、ずっと。殴られ、食事も与えられず、抱きしめられた経験は一度もない。隣のアパートに隠れ住む不法移民の家族の母親の両手は温かかったけれど、あの女の手はいつも傷だらけで冷たかった。
 女自体も連れ帰る男からいつも暴力を振るわれていて、そのむしゃくしゃが自分に向けて吐き出されているのは知っていた。何故こんな女が自分の母親なのだろう、漠然とした疑問は常に胸の中にあった。街中で見かける、明るい場所を堂々と歩く人々は皆幸せそうで、日々暴力に怯えて食べるものに事欠き、ゴミ箱を漁ってでも飢えを凌ぐような自分とはまるで違う生き物のよう。彼らとの間には見えない透明な壁があり、自分はどれだけ望んでもそちらへ到達できない。永遠に、一生、掃き溜めから抜け出せずに朽ち果てるしかないのかと、そんなのは嫌だと、願ったところで幼い自分がひとりで出来ることなどたかが知れている。
 母親の庇護を失い、帰る家を失い、金もなく力もなく、後ろ盾もない。似た境遇の子供がいつしか集団を作り、廃墟となったアパートで肩を寄せ合っていた、そのグループに混じったのは必然だった。誰もがやせ細り、しかし野生の獣よりも鋭い目をしていた。
 親に捨てられ、行き場をなくし、学ぶことも許されず、日々盗みを働いては僅かな食事を全員で分け合う。自分より年上で強い子供に従い、自分より年下で弱い子を守る。生きるためならばなんだってやった。盗みを咎め警察に突き出そうとする店主を傷つけた事もあった。けれどそれも全部、自分が、生き残るために必要な手段だった。
 だが、果たして、いつまでこんな生活を続けなければならない?
 目の前の一歩に必死になっていて、その一歩ずつが向かう先を見失っていた。顔を上げれば一面の闇、光なんてない。
 学校に行っていない子供が大人になっても、仕事はない。肉体労働をするにしたって、過去に罪を重ねて来た人間を歓迎してくれる会社は少ないだろう。後ろ暗い過去を背負っている以上、死ぬまで夜の世界で息を潜めていなければならない。そんな自分達を唯一迎え入れてくれたのは、マフィアとそれに順ずる社会だった。
 しかし、奴らだって平気で自分達を裏切る。
 知識もなく、知恵もない子供達は、汚い大人の格好の捨て駒だった。見目の整っている女の子は売春婦に仕立てられ、幼い、そうでない関係なしに売られた。血気盛んな男は下っ端として最も危険な仕事を与えられ、対抗手段さえ渡されなかったお陰で蜂の巣になって川辺に捨てられたりもしていた。
 麻薬の売人として生活に潤いを得た奴は、逆に自分が麻薬に溺れて幻聴に魘されてアパートの屋上から飛び降りた。
 十数人いた仲間が、ひとり、またひとり消えていった。それでもまだ数人、動けないほどに衰弱している子も含め、アジトとして古びたアパートに肩寄せあい、年かさの少年がマフィアの下働き的な仕事を請負ながら日銭を稼ぎ、自分は食料調達として一日中、カモになりそうな店を探して歩き回る日々。このままではいけないと知りつつも、それ以外に生きる術を知らない自分達は、こんな生活に縋るしかなかった。誰も、この場所から抜け出す方法を教えてくれなかったから。
 そうしていつもように、夕食にとパン屋で万引きをして、店員に見つかって危うく捕まるところだったのをどうにか逃げ延び、隠れ家に帰ったのだけれど。いつもなら必ずひとりは見張りがいるのに、この日に限って誰一人迎えに出てきてくれなくて。おかしいな、と思いながら塒にしていた奥の部屋に向かったら、物音がする。
「帰ったよ。誰かいない?」
 放棄されて久しい建物は、ところどころ壁にも穴があいている。扉ではなく、その穴にカーテンをして目隠しにしているだけの入り口に立ち、声をかけるが返事は無かった。けれど人がいる気配はする。
 おかしい。手にした裸のままの黒パンを胸に抱え直し、身構える。
 中にいるのが仲間であれば、とっくに顔を覗かせている。けれど返事もせず、出ても来ず、こちらの動きを窺っているような、そんな感じ。背中がざわざわする。この感覚に覚えがあった。向き出しの殺意、相手が誰であろうと全てが敵。針が刺さるような気配に、全身が総毛立つ。右手を引き、左手で胸を庇うようにパンを持ち替えてじり、とその場からゆっくりと後退する。
 中にいるのは敵だ。直感でしかないが、そう判断する。少なくとも自分に好意ある存在ではない。仲間は何処へ行った、動けない子もいるのだ。早く探し出して無事を確認しなければ。いったい、自分が外へ出ている間に何があったのだろう。
 様々に思考が巡り、混乱に拍車がかかる。踵がいつの間にか反対側の壁にぶつかっていた。灰色に汚れた布までの距離は、大体で約八歩。そこから人が出てくる様子は、まだない。
 背中を壁に張り付かせ、そのまま沿って左へ。出口へ向かおうとするけれど、視線は揺れもしない扉代わりの布から離れない。離せない、と言う方が正しい。
 逃げなければ、急かす心が足元を疎かにする。積みあがった建物の残骸、瓦礫に足の裏が乗り上げた。迂闊だ、思う頃にはもう身体のバランスが崩れて呆気なく小さな身体は横倒しになっていた。砂埃があがる、目の前が白んだ。完全に倒れこそしなかったが、支えるために両手を投げ出さねばならなかった。無防備、あまりにも脆く。
 大切な今日の夕食が床に転がっていく。その行方を目で追いながら、尖っている石の上についてしまった手の痛みを堪え身体を起こす。荒く吐いた息を吸い込み、埃っぽさに咳き込んで伸びるばかりの前髪を梳き上げた。
「バジル!」
 聞き覚えのある声が、それまで静まり返るばかりだった室内に響き渡る。反射的に声がした方角に顔を向け、それがあの、先ほどまで気配だけを漂わせつつ反応の無かったカーテンの向こう側だと気付いたのはその二秒後。
 自分よりも五つほど年上で、今はリーダー格になっている少年――それでもまだ彼は十五、六歳だった――が、布を押し上げて上半身を出していた。顔には焦りが浮かび、興奮しているのかはっきり分かるほど額の血管が浮き上がっている。目は大きく見開かれ、今にも飛び出して来そうだった。
 どうしたのか。彼の焦りの理由が分からず、困惑が広がる。ともかく起き上がって彼の元へ行こう、そうすれば何か分かるはず。しかし立ち上がり歩み寄ろうとしたところで、
「くるな!」
 そう叫ばれる。彼の表情が苦しげに変わり、その唇からワインよりも真っ赤な液体があふれ出す。
「ジョバンニ?」
 名前を呼ぶ。思い出した、彼は確か雇って貰っているマフィアからなにやら重要な仕事を任せられたとかで、数日間行方をくらませていたのだ。荷物を運ぶだけだから簡単だし、危なくもないとは言っていたが、連絡も一切無くどうしているのか気にかけていた。
 それが、今アジトに戻ってきている。呼びかけに最初反応もせず、突然、何をきっかけにしてか飛び出してきて逃げろと怒鳴る。口から血を流し、やがて彼は大きな、どろりとした、真っ赤な固形物までも吐き出した。
 ジョバンニの顔下半分が血に染まる。自分はあまりの事に硬直して動けない。死に体のジョバンニの目がぎょろりとこちらを見た。既に焦点が合っていない、灰色をしたくすんだ瞳。そんな目を知っている、下水道で打ち揚げられた死んだ魚の目だ。
 思わず怯み、息が止まった。ジョバンニは血を吐きながら、それでもぜいぜいと息をして、何かを告げようとしている。壁について身体を支えていた腕を弱々しく持ち上げ、辛うじて立った人差し指で無人の窓を指差した。
 にげろ、と唇が告げている。ハメられた、そう目が告げている。
 裏切られたのだ、自分達は。マフィアに。言いように使われて、必要なくなったら捨てられる。命など紙くずにも等しく、邪魔になれば処分される。
 全身が震えた。心が乱れる、何も考えられない。いやいやと首を振り、崩れ落ちていくジョバンニの身体を見守るばかり。彼の下半身を隠していた布が巻き込まれ、元から弱かった固定が呆気なく外れる。布の向こう側には、べっとりと血のついたナイフを前に舌なめずりしている男がひとり。
 知らない顔、サングラスをかけていて、腕にタトゥーが見え隠れしている。顔色は、良くない。だが狂気に満ちているのだけは分かる。人を殺しておいて笑っているその神経が信じられない。ドラッグか。そう思っても立ち上がることは出来なかった。
 男がジョバンニの、最早物言わぬ肉塊を踏み越えてこちらへ歩いてくる。大股に、時間をかけてゆっくりと。
 逃げなければ、逃げなければ。しかし身体が動かない。
 今まで人を傷つけた事はあっても、殺しにまで手を染めたことは無かった。死体も、遠巻きにしか見たことが無い。だが今、さっきまで、喋っていた仲間が死んだ。動いていた人間が、目の前で動かなくなった。ガチガチと奥歯が鳴っている、腰が抜けたまま後方へ逃げようとするが、背中は無常にも壁にぶち当たりそこから先へ進まない。
 爪先の向こうに、埃に汚れてしまった黒パンが見える。あれはもう食べられないか、苦労したのに。そんな風に考えている自分がおかしくなる。
 助けて。
 呟いたことばは、音になっただろうか。
 助けて、神様。
 神様なんて、生まれてこの方信じたことが無いのに。教会で祈ったこともなければ、ミサに出たことも、それ以前に洗礼さえ受けているかどうか。しかしこの時は他に縋るものが思い浮かばず、遠くから眺めたことしかないマリア像に祈った。
 助けて、まだ死にたくない。こんな風に、理由も分からないまま知りもしない相手に殺されるなんて嫌だ。ちっぽけな自分のまま、社会の記憶の片隅にも残らないで死ぬなんて嫌だ。まだ何もやっていないのに、出来ていないのに、何も遺せていないのに。
 死にたくない、生きていたい。助けて。誰でもいい、自分を此処から連れ出してくれるのなら、それが悪魔だって構わない。
「助けて――――!」
 振り絞り、ありったけの力で叫ぶ。腹の底から、魂を震わせて。
 動きの怪しい男がにたりと笑う。ナイフを振り上げ、自身の勝利を確信しながら、最後の足掻きを見せる子供を一刺しにしようと狙いを定めて。
 常軌を逸した瞳から、目が逸らせない。ナイフに残るジョバンニの血が滴り、額に落ちる赤い液体はまるで毒のように全身から力を奪う。抗う気持ちを根こそぎ奪っていく。
「助けて……」
 奇跡など起きないのか。祈りは通じないのか。慈悲深きマリアなど何処にも居ない。絶望が、果てしない闇の向こうで嗤っている。
 目を閉じる。涙は流れてこない。そんなもの、とっくに乾ききってしまっている。ただぽっかりと胸に空いた空洞を埋めるものが欲しくて、がむしゃらに日々を懸命に生きてきただけだったのに。
 耳を劈く爆発音が轟く。空気を切り裂く一陣の風に、人のものとは思えない、蛙が踏み潰された時に発するような音が続き、そしてまた静寂。何が起きたのか、分からない。
 ただ呆然と、自分は、どこからか疾った鉛の弾がナイフを構えていた男の脳天を貫き、反対側の壁を抉る光景を見ていた。一瞬遅れ、男に空いた穴から鮮血が、脳漿と一緒に噴き出す。鮮やかな赤いシャワーに汚されても、感慨すら浮かばず、ただ、本当に、自分の中が真っ白になるだけ。
 人の話す声、複数の足音。飛び込んでくる拳銃を構えた黒服の男、女も居る。どう、と崩れ落ちる男の死体、ぴくぴくと痙攣してまだしつこく生きているのかと思わせたが、見る間に萎びてミイラのようになっていくそれは二度と起き上がることは無かった。
「生存者確認!」
 髪の長い女が後方を振り返りながら叫ぶ。導かれるままに、しゃがみ込んだ状態で振り返ると、ぽっかり開いた空洞の扉の向こうから、矢張り黒いスーツに身を包んだ無精ひげの男が歩いてくるのが見えた。それに続き、そして男を追い抜いて駆け寄ってくる数人の男。いずれも手に拳銃を構え、油断なく周囲を警戒しながら進んでいる。
 それは訓練された動きであり、軍隊のそれに似ていた。無論、この国の軍隊を直接見た事など無いのだけれど。
 警察? いや、違う。奴らは腐敗しきっていて正義感だけで動くお人好しはひとりも残っちゃ居ない。ならば、誰だ。自分を助けても、一銭の得になりはしないだろうに。
 残る可能性は、敵。油断させておいて近付いて、あっさりとこの頸部をかっ切るつもりかもしれない。
 もう立ち上がる気力も残っていないのに、せめて気迫だけは負けるものかと強い目で睨み付ける。腹の底に力を込め、男にしては大きすぎて迫力が足りないと評された目でひげ面の男を威嚇する。
 どたばたと走り回る足音、掃除もろくにされていないので埃が立ち上る。ジョバンニの亡骸に黙祷を捧げている男の向こう側から、両手に白い布に包まれた物体を抱いた黒服の男が現れる。隠しようがない生身の腕が、そこからこぼれ落ちて垂れ下がっていた。
 青白い肌、滴る赤。自力で動く事は、恐らく二度とない。
「――――っ」
 悲鳴さえ、喉の奥に引っかかる。ある程度は予想し、覚悟はしていても、実際に目の当たりにするのでは矢張り衝撃は違っていて、だらんと伸びた指を伝う血の生々しさに吐き気がする。既に感覚は麻痺していると思っていたのに、口の中に酸っぱいものが押し上げられて、勝手に持ち上がった掌が口元を押さえ込んでいた。
 目の前に立ち止まったひげ面の男が、膝を曲げてまずはナイフを握っていた闖入者に目を向けた。事切れているのを確認してから、思い詰めた表情で息を吐く。
「済まなかった」
 その謝罪は、果たして誰に向けられたものだったのか。
「親方様……」
 傍に控えていた髪の長い女性が、心配そうに男を呼んだ。
「俺たちがもっと早く動いていたなら、あの子たちも死なせる事は無かったんだろうな」
 顔を上げた男が見た先には、シーツにくるまれた肉塊。ベッドから起きあがるのも骨だったあの子は、抵抗する間もなく一刺しだったそうだ。苦しみの時間が短かったのが幸いだと、後に事実を聞かされた時に思った。
 全ては事後に知らされた話でしかない。どこまでが本当なのか、嘘が混じっているのか、判断は自分に一任された。信じるのも、信じないのも自由だと、そう断りを入れられている。しかし彼らが与えてくれた情報以外に、自分はこの事件の詳細を何も知らない。
 ナイフでアジトを襲ったのは、モントバーニ・ファミリーの準構成員だったらしい。ジョバンニはボンゴレの末端で、特に年若い連中とつるんでいた筈なのに、何故そこにモントバーニの名前が出てくるのか、最初は分からなかった。だが、ジョバンニの上に居た連中は、実際はモントバーニと結託し、ボンゴレが扱っている品物を横流ししていたというのだ。更にその穴埋めに不良品を紛れ込ませ、ボンゴレの名前にじわじわと傷がつくようにし向けていたらしい。
 ジョバンニは、何も知らないままその手伝いを――運び屋をやらされていたのだ。
 しかし悪い事は必ず公になる鉄則通り、悪事は発覚する。既にモントバーニが裏で手を引いているという情報を得ていたボンゴレは、取引現場へ直接乗り込み、今回の事件に関わっていた全員を捕らえようとした。だが運悪くひとりを取り逃がした。それが、あの男。
 何故情報が外に漏れたのか、誰が漏らしたのか。仲間を失い、途方に暮れた男はジョバンニの存在を思い出した。あいつが告げ口をしたに違いない、報復には報復を。そんな理由で、ジョバンニは殺された。しかもこの件では本当に、彼は無関係だった。そもそも、運んでいる荷物が何であるのかさえジョバンニは聞かされていなかったし、取引の詳細は聞いてはならないのが暗黙の了解だったのだから。
 運が悪かった、そうとしか表現できない。
 そうして、コンシリエーレが直接乗り込んでの事件は一応の解決を見た。被害者多数、生存者は一名。
「坊主、お前、名前は」
「親方様?」
 再び視線を戻した髭の男に問いかけられても、自分は、すっかり気が抜けてしまっていて、返事をするのも忘れていた。ただ泣きたいのに泣けない己に呆れながら、世界が白い霞みに包まれていくのを感じ取る。
 ああ、まただ。自分はまた行き場を失った、生きる場所を失った。家族を、仲間を、折角手に入れたものが次々に両手からこぼれ落ちていく。
「なあ、坊主。俺にもお前くらいの息子がいるんだがな」
 大きな掌が振ってきた。殴られるのかと一瞬身構えたけれど、それは予想外にゆっくりと、優しく、暖かく、頭に下ろされた。がしがしとやや乱暴に、手入れも殆どしていない所為で伸び放題の髪の毛を掻き回す。
 撫でられているのだと、この行為はそういう呼び方の親愛の情を表現する仕草だと知ったのは、もっと後の事。
 ただこの時は、本当にぽかんと男を見上げるばかりで、どちらかといえば馬鹿にされているような気がしてならなかった。反応が芳しくない事に親方と呼ばれた男は苦笑し、今度はぽんぽん、と数回軽く頭を叩いてくる。目線を自分に合わせ、細い目を更に細めさせた。
 自分に父親が居るとしたら、こういう人なのだろうか。漠然と、胸にそんな感情が浮かび上がる。
「行くところが無いなら、俺たちのところへ来ないか。なにせ仕事が厳しいもんで、いっつも人手が足りないんだよな」
「親方様の人使いが荒いからですよ」
 後ろで聞いていた若い男が声を立てて笑う。すると髭の男は照れたように頬を掻き、そしてまた真剣な表情で自分を見つめて来た。
 これくらいの歳の男が、自分とまともに正面切って会話を試みようとしている。生まれて初めての経験だった。それくらい、自分は大人というものに縁がなかったし、同じくらい浮浪児は大人に嫌われていた。
 照れ笑いを消した男が、再度問いかける。
「将来、俺の息子は大きな争いに巻き込まれるかもしれない。その時に、ひとりでも多く息子を守ってくれる力が欲しい。俺は直接守ってやれないから、な。だからもし良ければ、その役目の一端をお前に担って貰いたい。俺と一緒に来ないか。勿論、無理にとは言わないが」
 話が飛躍しすぎていて、一気に理解するのは難しかった。けれど、分かるだろうか。果たして、正しく理解して貰えるだろうか。
 自分がどれだけ、この時、彼の言葉を聞いて、嬉しかったのかを。
 生まれて初めて、誰かに必要とされた。誰かに、生きる目的を与えて貰った。自分が、生きる意味を見つけた。
 生きていて良いのだと、許された。
 要らないと言われ続けてきた自分が、今の今、この命が無駄なものではないと言われたのだ。必要だと言われたのだ。
 仲間を目の前で失ったばかりの自分が、その感動を、喜びを素直に表現する事は出来なかったけれど、如実に輝きを取り戻していく瞳を見て、親方と呼ばれる男は満足げに微笑んだ。
「それで、お前の名前はなんて言うんだ?」
 にっ、と白い歯を見せて笑う。後ろで、先程の黒服の男が「また親方様が野良犬を拾ってるよ」と呟く。その彼を、髪の長い女性が「貴方もそうだったでしょ」と小突いていた。
 世界が、変わる。白い靄に包まれて何も見えず、ただ藻掻くばかりだった自分の世界が、開けていく。
「バジル」
 己の名前を。誰が与えたのか、どんな気持ちで与えたのかも分からない名前を、けれどしっかりと、それが自分なのだという気持ちを込めて、告げる。
「バジル……か」
 そりゃ良い、と彼は人の肩を乱暴に叩いてもうひとつ豪快に笑った。かなり痛かったけれど、自分もつられて表情を綻ばせた。そうして、今頃になって思い出したかのような涙が一粒、頬を伝った。
 仲間を弔ってやって欲しい、丁寧に。彼らを天に還してあげて欲しい。せめて、最期くらいは人らしく。
 願いは聞き届けられ、その日のうちに小規模ながら厳かに葬送は執り行われた。そしてそれが、自分があの町で過ごした最後の一日になった。
 
 今、自分は、あの町から遠く離れた異国の地に立っている。
 約束を守る為。そして、果たす為。
「バジル君。俺の顔に何かついてる?」
 見つめた先にいて、不思議そうに首を傾げる貴方に、首を振り、ただ黙って微笑む。
「変なの」
 そう言いながらも、自分でも噴き出して楽しげに笑う貴方を、今では心の底から、守りたいと思う。
 約束や、誓いや、そんなものに関係なく、ただ、純粋に。
「沢田殿を、お守りします」
 囁く言葉は、決して貴方に届く日は来ないだろうけれど。
 それでも、貴方を。
 今はそれが、自分が自分として生きる意味だから。
 誰がつけたか分からないけれど、この名前に、その意味に、感謝する。
 貴方と出会えた。それはなんという幸運――――