鴇色

 ざわついていた空気が遠ざかり、静寂が訪れたのにはぼんやりとだが気付いていた。
 お疲れ様だの、また明日だのと飛び交っていた挨拶は聞こえなくなった。シンと静まり返った空間には長年積み重ねられて来た汗臭さや、何とも言えない渋みのある酸っぱさに満ちあふれていた。
 それらは壁や天井、誰が置いて行ったか分からない雑多な品に染みついてしまって、どれだけ換気しようとも、もう取り払えない。床に敷かれた畳も何十年前の物なのか、縁の色さえ抜けてあちこち毛羽立っていた。
 その畳の上に置かれた椅子に座って、影山飛雄はぼんやり壁を見つめ続けていた。
 右を上に足を組み、腕組みをして、若干俯き加減。そして第二体育館での練習が終わってもうかなりの時間が経っているに拘わらず、制服に着替えもせずにジャージ姿のまま。
 汗染みが乾き始めている半袖シャツから引き締まった腕を晒し、気難しい顔をして、唇を真一文字に引き結んでいる。目は開いているけれども、心はこの場にはないようだった。
「んー……」
 吊り気味の眼を半眼させて、彼はゆっくり肩を揺り動かした。口をヘの字に曲げて低い唸り声をあげ、組んでいた脚の左右を入れ替える。長く同じ体勢をとり続けていたからだろう、凝り固まった筋肉が力なく悲鳴をあげた。
 疲労が蓄積された太腿に今頃気づき、影山はハッとして目を瞬いた。
 そして。
「むにゅー」
「ぶっ!」
 自分の足許すぐの場所に蹲り、両手で顔を横から引っ張っている男がいるのに気付いて噴き出した。
 口の端、鼻の穴、そして目尻の三箇所に指を押し当てて外側に向かって力を加えている。縦に向かうべき皮膚を横に引き伸ばして作られた奇妙過ぎる表情は、恐らくこの先十年は忘れられそうにない程の造詣だった。
 油断していたところに不意打ちを食らわされて、影山は椅子に座ったまま仰け反った。
「う、わっ」
 どこから拝借して来たのか、四本足のそれは教室で授業を受ける時に座るものと同じデザインだった。壁際には揃いの机まである。大量生産品の非常にシンプルな構造のそれは、使用者の急激なバランスの変化に耐えられる程上等な作りをしていなかった。
「影山!」
 後ろに傾いだ重心に、椅子の前脚が畳から浮き上がった。後方に倒れそうになった影山に、しゃがみ込んでいた日向が大慌てで手を伸ばした。
 支えるものを探して宙を泳いだ手首を掴み、加減も忘れて引き寄せる。肩が抜けそうな痛みにぎょっとして、影山は残る手で椅子の背凭れを握り締めた。
 五センチ程浮いた前脚を畳に突き刺して、ついでに靴下の裏もしっかり藺草に押しつける。どっと噴き出た汗に荒い息を吐いて、彼は捻っていた肘を戻そうと細いパイプから手を離した。
 汗ばんだ肌をジャージに擦りつけ、未だ囚われたままでいる左手越しに前を見れば、見るからにホッとした顔の日向翔陽が影山を見下ろしていた。
 団栗に似た眼を怪訝に見上げ、肘を振る。震動を受けて、彼は弾かれるように指を解いた。
「吃驚させんな」
「ご、ごめん」
 ぶっきらぼうに言い放ち、影山は少し赤くなっている箇所を撫でた。くっきりと、とは言えないけれど、指の形がうっすら残っていた。
 自分の手と比べると小さく細い指の跡に見入ってから、気まずげに立っている日向に改めて目を向ける。そのついでに視線を左に流した影山は、どこまで行っても他に人影が無いのに気付いてぎょっと目を見開いた。
「っていうか。早く着替えろってば」
「他のみんなは」
「とっくに帰ったー」
 椅子の上で挙動不審にしている影山の爪先を蹴り、日向が頬を膨らませた。振り向いた影山の問い掛けにも愛想無く返して、彼は最初に変な顔をしていた時のように、その場で膝を折った。
 腰を浮かせてしゃがみ込み、太腿に肘を立てて頬杖を作る。不機嫌そうな態度に、影山は小首を傾げた。
「お前は?」
 先輩達と一緒に帰ればよかったのに、何故ひとりだけ居残っているのか。
 短いひと言に込められた疑問を正確に読み取って、日向は作ったばかりの頬杖を解いて口を尖らせた。
「鍵当番」
「ああ」
 部室の鍵は個人所有を許されておらず、その日の活動が終了したら学校に返却しなければならない決まりだった。職員室に持って行く係は特に決まっておらず、大体いつも、無駄に熱いジャンケン大会で決められた。
 そういえば今日は日向が負けたのだった。ネットやボールを片付けた後の出来事を思いだして、影山は緩慢に頷いた。
「悪い。すぐ着替える」
 部室に時計は無い。探せばあるのだろうが、見える範囲には無かった。
 皆が帰宅してから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。感覚的にそう前の事ではないと思うが、正確なところはまるで見当が付かなかった。
 素直に謝罪して、影山は立ち上がろうとした。が、前を塞がれている所為でやりにくい。横に逃げる方向で調整しようとして、目に入った表情に彼は眉を顰めた。
 謝ったのに、日向は膨れ面のままだった。曲げた膝を抱いて小さくなり、影山と視線が合わないように顔を背けている。だのに時々様子を窺って、瞳だけを動かしていた。
「日向?」
 邪魔だ、と浮かせた腰を椅子に戻して爪先を斜め上に向ける。黒いズボンの裾辺りを突いてみるが、反応は芳しくなかった。
 声は届いているだろうに聞こえないフリをして、こちらを見ようともしない。露骨に無視してくる彼にムカッと来て、影山は右の眉をピクリと跳ね上げた。
「おい」
 もう一度呼び掛けてみるが、結果は変わらなかった。少し力を強め、再度蹴りを入れても同じだった。
 力ずくで退かしてもいいし、椅子を後ろに下げてしまうのもひとつの手だ。なにも自分からトラブルの火種を撒き散らす必要が無いのは分かっている。
 だが日向のこの態度はいただけなくて、影山は胸のむかつきに耐えながら奥歯を噛んだ。
「踏むぞ」
 威しをかけてみても、日向は動かない。意地でも退かない様子の彼の上腕を、本当に足の裏で押してみても、ダルマのように揺れるだけですぐ元の位置に戻ってしまった。
 腹に力を入れて踏ん張っているのが感じ取れて、なにに対してそんなに意地を張っているのか分からず、影山は肩を竦めた。
「謝っただろ」
 自分が考え事に没頭していた所為で、鍵当番の日向の帰りまで遅くなってしまったのはちゃんと詫びた筈だ。だから今からさっさと着替えて、なんだったら職員室まで一緒に行ってもいいと思っているのに。
 だが日向はふるふる首を振り、腰を床に沈めて俯いてしまった。抱き抱えた膝に額を押し当てて、外部からの呼びかけをシャットアウトして殻に閉じこもる。
 動こうとしない理由も、答えない理由も、なにひとつ説明せずに口を噤んで黙り込む。直前に見えた酷く不満げな、恨めしげな眼差しを思い返して嘆息し、影山はやれやれと肩を竦めた。
「なに怒ってんだよ」
「怒ってない」
「じゃあ、拗ねてる」
「拗ねてない」
 変顔をして人を驚かせた時とはまるで違う、無愛想な低い声。下を向いている為か若干くぐもって聞こえる返答に目尻を下げて、影山は汚れが目立つ彼の爪先を親指で踏んだ。
 ピアノの鍵盤を叩くみたいに順番に押していき、最後に足の甲に土踏まずを押し当てる。すると踵を支点に、爪先を跳ね上げられた。
 重力から切り離された左足を引っ込めて、影山は依然顔を上げようとしない日向に相好を崩した。
「拗ねてるだろ」
「拗ねてないってば」
「だったら顔見せろ」
 言葉尻を取り、畳に戻る前の彼の爪先を掬い上げる。指の付け根を擽られて、日向は反射的に伸び上がった。
 大袈裟なくらいにビクッと肩を震わせて、怯えた子犬のように全身を毛羽立てる。上唇を噛み締めたチームメイトの赤い頬を満足げに見下ろして、影山は他人に触られた事など無さそうな場所をゆっくりなぞっていった。
 しまった、と言わんばかりの顔をして、日向は足首を振って逃げた。
 腹が立つくらいに偉そうな王様に軽くあしらわれてしまう、そんな自分が嫌になる。けれど当の影山の事だけは、どうしても嫌いになれなかった。
 近頃はすっかり慣れてしまった部室の臭いに軽く噎せて、日向は口をもごもごさせた。
「だって、お前。……今日、なんか、ずっとおれの方、見ないし」
「ん?」
「それに、それに! 俺が何回も呼んでんのに、ぜんっぜん返事しなかった」
「……いつ」
「さっき!」
 最初は小声で、喋っているうちに気持ちが高揚して来たのか、最後の方は怒鳴り声で。
 両手を握り締めて上下に振り回した日向の罵声に、影山は目を丸くした。
 さっき、と言われてもまるで覚えが無い。本当にいつの事なのか、思い当たる節が無くて首を傾げていたら、ぜーぜー息を切らした日向がハリセンボンのような顔をした。
 下膨れの表情が可笑しくて、可愛らしい。つい噴き出しそうになって口を押さえた影山は、顎に指が触れた瞬間にはっと息を呑んだ。
 部室に戻ってこの椅子に座ってから、日向の変顔を拝むまでの記憶がまるで無かった。
 考え事に集中していて、部員が帰宅したのに気付かなかったくらいだ。その間に話しかけられていたとしても、耳は音を拾わない。
 どうやら返事が無かったのを、日向は無視されたと思い込んでいる。
 合点がいって、影山は脱力して深い溜息をついた。
「なんだよ」
 その嘆息も勝手に悪い方向に汲み取って、日向が牙を剥く。
「豆柴」
 そのサイズと、頭の色から連想された獣をぼそりと呟いて、影山は椅子の上で居住まいを正した。
 背筋を伸ばし、脚を肩幅より少し広めにして深く座り直す。その上で、巧みにボールをさばいてみせる手でぽんぽん、と自分の右膝を叩いた。
「日向」
 唸っている小さな生き物の名前を呼んで、もう一度、トントンと。
 なにかを促す仕草を繰り返されて、彼は怪訝な顔をした。
「影山……?」
「ほら」
 意味が分からず困惑していたら、もう片方の手を差し出された。四本並んだ指を伸ばしたり、曲げたりされて、それでやっと理解した日向が恐る恐る膝を伸ばす。
 立ち上がった彼に、影山が不遜に笑った。
 癪に障る笑顔に文句を言いたくなったがぐっと堪えて、日向は代わりに湧き上がって来た別の感情に身を任せた。
 影山の脚の間に膝を着き、勝ち誇った顔をしてふんぞり返っている彼に体当たりする形でしがみつく。
「てい!」
「って、お前。こらっ」
「へっへ~~」
 勢いよくぶつかって来られて、受け止めきれなかった影山は椅子を揺らして両足を畳に擦りつけた。
 傾いた座面を太腿で挟んで重心を前に移動させ、日向は落とさないように腰に腕を回して抱き留める。額の位置に学生服の大きなボタンが来て、骨に当たって痛かった。
 首を振って顔を上げれば、一瞬で機嫌を取り戻した日向が白い歯を見せて悪戯っぽく笑っていた。
 膨れ面も良いが、こっちの方が断然良い。つられて相好を崩し、影山は学生服の粗い生地を撫でて右手を下に滑らせた。
 瞬間。
「……馬鹿!」
 上から罵倒とチョップが降って来た。
 脳天に一撃を食らい、影山の頭がクラリと揺れた。尻と背中に回されていた腕が解けて、狭い場所で膝立ちになっていた日向は支えを失い、後ろに落ちそうになった。
「どわわ」
「馬鹿はどっちだ、この馬鹿」
 必死に両手を振り回してバランスを取ろうとしたところで怒鳴られて、ぐいっ、と乱暴に引き寄せられる。前以上に窮屈に腰を束縛されて、彼はホッとしつつも複雑な気持ちで口を尖らせた。
「馬鹿って言う方が馬鹿でーす」
「最初に言ったのはお前だろ」
 揚げ足を取り、悔し紛れに影山の頬を抓ってやる。好き勝手弄られるのを嫌がり、日向を片腕で抱え直した彼は、残る腕で悪戯な手を追い払った。
 そんな攻防戦が三回ほど続いて、
「聞こえてなかったんだよ。悪かった」
 不意に言われて、日向は目を丸くした。
 細い手首を囚われて、視線を合わさずに早口で捲し立てられた。ぶっきらぼうな言い方がいかにも彼らしいが、その生意気な表情がほんの僅かだけ朱に染まっているのを、日向は見逃さなかった。
 虚を衝かれて唖然となり、ぽかんと間抜けな顔になってしまう。呆然と見つめ返されて、影山は気まずそうに下唇を咬んだ。
 恥ずかしげにしている彼に遅れること十秒、つられた日向が顔を真っ赤に染め上げる。ボンッ、と頭を爆発させた未来のエースアタッカーにぎょっとして、影山はこみ上げて来た笑いを腹の奥に押しこめた。
 そうして少しばかり戻って来た余裕を使って、口を開いた。
「先輩や、お前達の動きを見てて、どうボールを上げれば巧くいくか考えてた。悪かったな、返事してやれなくて」
 顔を伏し、呟く。胸に額を押し当てられて、日向は上半身を前後に揺らした。
 黒髪の中心に旋毛が見えた。普段見上げてばかりだった分、こうやって見下ろすのは新鮮であり、妙に落ち着かなかった。
 変な感じだった。胸の中がむずむずして、くすぐったいような、こそばゆいような感覚に襲われて、じっとしていられない。
 身じろぐ彼に顔を上げ、影山が小首を傾げた。
「日向?」
「うぁ、……っでも。でもでも! 今日、一回も目ぇ合わなかったし!」
「はあ?」
 名を呼べば、唾を飛ばして怒鳴りつけられた。
 繰り返し謝罪しているのにまだ怒られるのかと絶句して、影山は数秒置いて疲れた顔で首を振った。
「お前さ。俺と目が合うと、笑うだろ」
「……そう?」
「そう。しかもすっげ-締まりのない顔で」
「えー、んなこと無いって」
「んな事あるんだよ。分かり易いんだよ、お前は」
 練習中にあんな顔をされたら、力が抜ける。他の部員も確実に気付く。だから日向が余所を向いている時を狙って様子を窺い、観察していた。
 それが却って彼を不安にさせていたのだとしたら、反省すべきだろう。
 叱りつけながら同時に内省して、影山は落ち込んで項垂れている日向の頭を撫でた。外向きに跳ねている癖毛を梳り、丸みを帯びた後頭部に沿って掌を頸部へと滑らせる。
 下向きに力を加えられて、押さえ込まれた日向がガクンと頭を前に倒した。
「っ!」
 突然のことに吃驚して大きく見開かれた団栗眼に、影山はふっ、と笑った。
 癇に障る表情に、文句のひとつでも言ってやろうと日向が口を開いた。隙間から息を吸い、一旦肺の中に留めて吐き出そうとする。
 その一瞬の間に。
 下から掬い上げるようにして、影山が。
 唇を。
 攫う。
 ち、と端を掠めた熱の正体が何であるか、見ていた筈なのに理解出来ない。頭の上にクエスチョンマークを生やし、きょとんとしている彼にくっ、と喉を鳴らして、影山は薄く開いた唇からほんの少しだけ舌を覗かせた。
 赤く濡れた色に目を奪われた日向の首が、じわじわと赤くなる。その色はやがて頬に達し、耳を越え、やがて頭の天辺まで至って。
「っ!!!!!!!!!!」
 二度目の大噴火を起こし、彼は影山の束縛を振り払って床へ真っ逆さまに崩れ落ちた。
「いでえ!」
 畳とはいえ、後頭部から落下したら当たり前だが痛い。
 聞き苦しい悲鳴をあげてのたうち回る彼に苦笑して、影山は椅子から立ち上がった。真っ直ぐロッカーへ向かい、着替えるべくシャツの裾をたくし上げる。
「影山の馬鹿!」
「お前に関してだけなら、馬鹿で良いとは思ってるけどな」
 鼻声の苦情にしれっと言い返してやれば、三度目の爆発音の後にはもう、なにも聞こえて来なかった。

2012/05/04 脱稿