日が暮れる。
一足先に部活動を終えた生徒が、連れだって正門に向かって歩いて行く。長く伸びた影はいつまでも視界に残って、日向の瞳にちらちらと映り込んだ。
太陽は地平線ぎりぎりのところに辛うじて踏ん張っているところで、先走った街灯が数回明滅した末に仄明るい光を放った。踏みしめた草の青臭さに噎せて、日向は数回咳き込んでから膝に両手を添えて息を吐いた。
「今日はここまでだな」
四月に入ってから、植物も一気に元気になった。たった一日で吃驚するくらいに成長する雑草の元気良さを少し羨ましく思っていたら、頭の上から声が降って来た。
少し機嫌が悪そうな声色にかぶりを振り、日向は顔を上げた。背筋を伸ばして立とうとしたら、脚に来ていたのか少しふらついた。
「おっと」
「なにやってる」
踏みとどまれずに尻餅をついたのを呆れ顔で見下ろし、黒髪の男が馬鹿にしたように呟く。高い位置から睥睨されるのは気に入らなくて、日向は大急ぎで膝を支えに身を起こした。
ジャージの裾に付いた土汚れを払い落とし、ムッと口を尖らせて睨み返す。だが相手は面倒臭そうにするだけで、特に何も言わなかった。
無視されて、面白く無い。足許に落ちていたボールを片手で拾い上げた男に益々眉間の皺を深くして、日向はその場で地団駄を踏んだ。
「もう終わりかよ、影山。この根性無し!」
偶々通り掛かっただけの通行人が振り返るくらいの罵声を上げて、人を指差して牙を剥く。遊び足りない子供が駄々を捏ねるに等しい姿に、影山は疲れた顔をしてため息を零した。
大きな掌の上で、ボールがまるで生き物のように動き回る。同じリズムで、同じ高さで真上に飛ばしたボールを受け止めて、彼は最後、掴んだそれを脇に抱えこんだ。
静かな睨み合いが数秒続いて、日向は息継ぎのタイミングを誤って咳き込んだ。
拳ひとつ分以上背が高い彼を睨み続けるのには気合いが要る。二時間以上ぶっ通しでボールを追いかけていた彼の体力も、そろそろ限界に近かった。
いくら周囲が目を見張る運動神経の持ち主とはいえ、一ヶ月前までは寝る間を惜しんで受験生をやっていたのだ。その間使われる事のなかった筋肉が元の姿を取り戻すには、まだ暫く時間が掛かる。
ぜいぜい息を吐いている日向を冷めた目で見つめて、影山は再び、先ほどより長いため息を吐いた。
「そのやる気だけは認めてやらなくもないが。土曜までまだ日があるんだ、今潰れてどうする」
「うっさい。ほら、投げろよ。おれはまだやれる」
烏野高校、バレーボール部。勢い勇んで入部届けを出したものの、ふたりは未だにコートに立たせて貰えずにいた。
初日からトラブルを起こし、部長の反感を買った結果だ。チームプレイをなにより優先させる球技において、チームメイトとの仲の悪さは致命的だった。
けれど、影山は澤村キャプテンの判断に納得がいかない。優れた技術を持ち合わせている自分が、何故コートから排除されなければならないのか。実力は申し分ないのに。誰よりもセッターという役割が好きなだけなのに。
土曜日の試合でもし負ければ、今の三年が卒業するまで――この先一年間は、セッターをやらせて貰えない。バレーボール部に入れたとしても、これでは何の為に部に入ったのかが分からなくなってしまう。
負けん気を働かせている日向をじっと見て、影山は脇に抱えていたボールを持ち直した。
掌で落ちない程度に転がして、しばし逡巡する。
「ほーら、こい!」
黙ったまま動かない彼に焦れて、日向が声を張り上げた。膝を軽く曲げて腰を落とし、両手を結んで構えを作る。待ちきれないでいると分かる姿にややして肩を竦め、影山は傍を通る人が無いのを確かめてからボールを放り投げた。
弓形に宙を舞う球体を目で追い、険しかった日向の表情がパッと華やいだのも束の間。
「うお、おぉ?」
街灯の明かり、地平線上から消えゆく太陽、そして東から迫り来る藍色の闇。
瞬きをする僅かな間にボールを見失った日向が悲鳴をあげ、後ろ向きにたたらを踏んだ。
おっとっと、と雑草生い茂る地面を飛び跳ねて、どうにか見つけ出したボールに向かって懸命に腕を伸ばす。だが、届かない。握り締めた拳の十センチばかり外側に落ちたそれは、さほど勢いが無かったのもあるだろう、あまり弾まずに草の中に埋もれて止まった。
膝から崩れ落ちた彼の傍に歩み寄り、影山が両手で大事にボールを確保した。張り付いていた草を払い落とし、まだ立ち上がれずにいる自称未来の烏野のエースを振り返る。
「出来てねぇじゃねーか」
素っ気なく吐き捨てられて、どうにか地面に座り直した彼は不満をありありと顔に出した。
その表情も、暗さの為にはっきりと見えない。だのに瞳の輝きだけは、どれだけ闇が押し迫ろうとも楽に見つけ出せた。
へろへろなボールすら拾えないくせに、気持ちはまだ折れていない。一向に失われない気迫に苦笑を漏らし、影山は球面を軽く撫でた。
「今日は終わりだ」
「影山!」
だが告げられた言葉は、日向の前向きな気持ちをあっさり叩き折るものだった。
前のめりに叫んだ彼に肩を落とし、影山は反論を無視して、帰る準備をすべく鞄に向かって歩き出した。
やる気を蔑ろにされて、日向が歯を食い縛る。一発殴ってやりたい気持ちがむくむく膨らんで、鼻息荒く立ち上がろうとした。
しかし。
「――うぁっ」
披露が蓄積されていた膝は言う事を聞かず、思ったほど力が入らない。自分の身体なのに願う通りに動かせない現実に唖然として、日向は雑草に足を滑らせた。
ずるりと重心が低くなる。意図しない結果に筋肉は萎縮して、咄嗟に反応が出来ない。
「日向!」
ヤバイ。そう思って伸ばした手が空を掻く。その向こうから、矢のように鋭い声が飛んできた。
スローモーションの視界に、白いボールが駆け抜けた。一瞬で行き過ぎたその先で、憎たらしいくらい研ぎ澄まされた眼が大きく見開かれているのが見えた。
あれ、と思う。こいつは誰だったかと、馬鹿な事を考える。
後ろに倒れそうになった身体がなにかに引っかかって、肩が外れるかという衝撃にハッと我に返る。手首を掴まれ、力任せに引っ張り上げられ、続けて下ろされて、日向はゆっくり地面に膝をついた。
掴まれた手はすぐに放された。肩がじんじん痛い。だが、それだけだ。
倒れる筈だった日向の代わりに、大事なボールが後ろに転がっていった。左側を無言で通り過ぎ、影山が拾いに向かう。暗がりの中に潜む影を目で追って、日向は右肩を抱き込んだ。
「影山」
「お前が怪我でもしたら、土曜に試合、出来ないだろうが」
「あ、ああ。うん」
つっけんどんに言い放たれて、日向は反発するのも忘れて頷いた。確かにその通りだと素直に認めた彼に、影山は一寸驚いた顔をして停止した。
ボールを抱えたまま動かない彼にムッとして、日向が口を尖らせる。
「なんだよ」
「いや。……遠いんだろ、家。明日の朝練、遅れんなよ」
何かを言いかけて、寸前でブレーキを踏んだ影山がひと呼吸置いて早口に告げる。徐々に勢いを増して声量も上がっていった彼に絶句して、日向は腹に力を込めた。
庇われたのも、気遣われたのも、全部錯覚だった。
結局こいつは、自分のことしか考えていない。いつだって偉そうで、我が儘な、まさしく『王様』の渾名に等しい人間でしかない。
苛立ちを噛み潰し、日向は疲れを押しきって立ち上がった。痙攣を起こしてぷるぷるしている臑を叱咤して鞄へ一足先に歩み寄り、ジャージのまま帰るつもりで肩に担ぎ上げる。
ボールを手の上で遊ばせるだけで、その間も影山は何も言わなかった。
「じゃあな」
「ああ」
顔を見合わせもせずに交わす言葉。自分から切り出しておきながら胸のもやもやが晴れなくて、日向は唇を噛み、背が反り返る勢いで胸を張った。
挙動不審な動きに、近くまで戻っていた影山がぎょっとする。毅然と振り返った日向を見上げて、猫目の男は怪訝に首を傾げた。
膝を折って鞄に荷物を詰め直している彼を見下ろして、言いたい事の大半を押し殺し、日向が口を開く。
「また明日な!」
唾を飛ばして怒鳴られて、影山はぽかんとなった。
二の句が継げずにいる彼の前でふん、と鼻を鳴らし、日向が踵を返す。そのまま駆け出した彼に手を伸ばしかけて、影山は中腰になった体勢を戻し、前髪をくしゃりと掻き上げた。
2012/03/14 脱稿