若桜

「うひゃ」
 部屋の戸を開けた瞬間、綱吉は甲高い悲鳴をあげた。
 右手に握ったドアノブを手放して首を竦ませれば、左手に持っていたマグカップが煽りを受けて大きく震動する。縁ぎりぎりのところまで注がれていたココアが激しく波打って、防波堤を越えて外に飛び出そうとした。
 寸前で気付いて両手で支え、被害を最小限に食い止めたところでホッと安堵の息を。徐々に静まり行く焦げ茶色の水面に胸を撫で下ろして顔を上げた彼は、開けた筈の扉がひとりでに閉じてしまっている状況に苦笑した。
 慣性の法則、というものを思い浮かべながら小さく舌を出し、今一度慎重にドアを開く。隙間からまたしても冷たい空気が飛び出して来たが、覚悟が定まっていたお陰もあって、先ほどよりは驚かずに済んだ。
「うわぁ、俺、開けっ放しだったよ」
 全開にした扉を潜り、部屋の中へ。ゴミが散乱していた床は一応綺麗に片付けられて、片隅には漫画雑誌が紐に縛られた状態で積み上げられていた。
 約一年分、ここまでよく溜め込んだものだと自分でも思わずにいられない。流石に置き場所に困ったので廃品回収に出すと決めたのだが、整理ついでに読み始めた所為で作業はなかなか進まなかった。
「よっ、と」
 ちらりと壁の時計を見てから数歩進み、部屋の中心に置かれたテーブルにオレンジ色のマグカップをおろす。白い湯気を揺らめかせているそれににんまり笑いかけて、彼は身を屈めて口を尖らせた。
 息を吹きかけ少し冷まし、行儀悪く音立てて啜って目尻を下げる。お湯に粉を溶かしただけのインスタントだが、充分に美味しかった。
 窓の外では春先の冷たい風が吹き荒れて、室内の気温は著しく低下していた。部屋の掃除で埃が舞い上がるからと開けておいたのだが、一段落ついて休憩、と階下に降りる際、閉めるのを忘れたのが災いした。
 動き回っている最中はあまり寒さを感じなかった。吐いても白くならない呼気を眺め、綱吉は些か量が減ったカップを右手で持ち上げた。
 今度はちゃんと背筋を伸ばし、コップの方を顔に近づけて飲む。音も立てない。身体の中から温まっていくのを感じながら、彼は窓を閉めるべきか、このままにしておくかでしばし悩んだ。
 掃除はまだ完全に終わっていなかった。出来るものなら押し入れの中も整理しておきたい。もう着られない、小さくなってしまったシャツやズボン、それに穴が空いてしまった靴下もまとめて捨ててしまいたかった。
 ゴミ箱の中身は袋に移し替えて、先ほど階下に降りた時に、玄関を出たところに置いて来た。こうしておけば明日、学校に行く際にゴミ捨て場に持って行くのも忘れないで済む。
 問題は、古雑誌の山だ。
「どうしよっかなー」
 廃品回収の車が運良く通りがかってくれれば良いのだが、世の中そう上手く事は運ばない。半分近くまで減ったココアから開けっ放しの窓に視線を移し変え、綱吉は小声でぼそりと呟いた。
 ふたつの事を同時に悩みながら、ゆっくりと立ち上がる。コップは右手に握ったままで床の上を滑るように移動して、アルミ製の窓枠の前に居場所を移し変える。
 ベランダの向こう側は一ヶ月前となにも変わっていないようで、著しい変化を見せていた。
 冬が去り、春になった。空の色は濃くなり、雲の形も心なしか大きく膨らんで見える。太陽は眩しく、直射日光は暖かだった。
 遠くから手前に視線を戻し、自宅の庭に目を凝らせば、昨秋に種を蒔いたパンジーが色とりどりの花を咲かせていた。
 他にも何種類か、名前の分からない花が咲き乱れている。冬場は酷く味気ない光景だったのが一転して、眺めているだけで幸せな気分になれた。
 鳥の声も賑やかだ。朝方、カーテンの隙間から差し込む光と共に目覚まし代わりを果たして、綱吉を夢の世界から連れ出すのに一役買っていた。
 まだ少し肌寒く、外に出る時には上着が欠かせない。けれど着実に昼間の気温は上昇して、日暮れも前に比べればずっと遅くなっていた。
「回ってないなー」
 耳を澄ましても、風の音くらいしか聞こえない。ココアの残りを飲み干して二分ほど待ってみるが、期待するような拡声器の声は響いて来なかった。
 古雑誌は一旦階段下の物置に引っ込めて、奈々に後の処理を頼むしか無さそうだ。カップの底や内壁に残った黒っぽい残り滓に肩を竦め、彼は片付けを再開しようと身体を反転させた。
 窓はもうしばらく開けておくことに決める。強い風が吹きさえしなければ、どうにか耐えられそうだった。
「んじゃ、やるか」
 ココアの飲み終えてしまった事だし、と自分に言い聞かせて、綱吉は気合いを入れ直した。軽くなったカップをひっくり返さない程度に揺らして、何から手を着けようかと思考を切り替える。
 まずは用済みとなったこのコップを台所に戻すべきか。ならば一緒に、古雑誌の束のひとつも持って降りるのが効率的か。
 あれこれシミュレーションしながら室内をぐるりと見回して、最後に手付かず状態の机の上に目を遣った綱吉は、そこに覚えの無い色が紛れ込んでいるのに気がついた。
「あれ?」
 三月までお世話になっていた教科書やノートが乱雑に散らばっているその中に、十分前には確かに無かったものがあった。
 首を傾げ、進路を変更して近付く。
 いったいどこから入り込んだのだろう。訳が分からなくて困惑して、手を伸ばすものの、触れるにはかなりの時間が必要だった。
 恐る恐る人差し指で小突き、爆発しないのを確認してから摘み上げる。細い枝を人差し指と親指で挟んで、顔の前まで持って行った彼は、益々怪訝な顔をして眉間に皺を寄せた。
 季節も季節であり、今が丁度満開の時期であるのは間違いないのだが。
「桜、だよなあ」
 独白が幾分自信なさげなのは、沢田家の庭にこの木が生えていないからだ。
 いや、自宅の敷地を飛び越えてご近所まで範囲を広げても、桜を育てている家は無かった。
 二百メートルほど離れた場所にある公園になら三本ほど植えられて、淡いピンク色を散らしているけれど、いくらなんでも遠すぎるだろう。それにこれは、風に散る花弁ではない。五枚の花びらは綺麗な形を保ち、綱吉をじっと見つめていた。
 誰かが花の根元で手折ってきたとしか思えない。だが、いったい誰が。
 押しかけ家庭教師であるリボーンは、綱吉が台所に降りる前から一階にいた。リビングでビアンキと一緒に寛いでいるところを、綱吉自身が目撃している。席を離れている間にこっそり二階に駆け上がり、悪戯をしていったとは考え難かった。
 同じ理由で、沢田家に居候中の子供達の仕業とも思えなかった。
 そもそも、こんな分かり辛い悪戯をしでかす理由が分からない。あの子たちならこっそりやろうとせず、桜を摘んできたと堂々と見せに来るだろうに。
 もっとも桜の枝を折るのはいけないこと、と教え込んであるので、たとえ綺麗に咲いているからといって勝手に持ち帰ろうとはしない筈だ。
 ならば誰が、これを、ここに。
 思考がぐるりと一周してスタート地点に戻ってしまい、綱吉は難しい顔をした。上唇を浅く噛んで顎を突き出し、たった一輪だけ部屋に現れた桜を無言で睨み付ける。
 そんなことをしたところで花が答えてくれるわけがないのは知っているが、やらずにはいられなかった。
「むぅぅ」
 喉の奥で唸り、数秒後、綱吉は両手を挙げて降参のポーズを作った。
「ダメだー」
 さっぱり見当がつかない。考えるだけ時間の無駄と諦めて、彼は思索の一切を放棄した。
 それよりも、他にやるべき事が残っている。今日中に片付けを終わらせてしまわないと、リボーンが五月蠅い。
 地獄の鬼より恐ろしい家庭教師を思い出し、ぶるりと背筋を震わせる。風が吹いたわけでもないのに鳥肌が立った腕を撫でさすって、彼は愛くるしくもある桜の花を机に戻した。
 ゴミ箱に放り込んでも良かったのに、何故か出来なかった。もとあった場所にそっと置いて、寂しそうに寝転がった花を慈しんで撫でてやる。
「……ヒバリさん?」
 そして手を引っ込めようとしたところで、不意にその名前が口を突いて飛び出した。
 声のトーンが高いのに、自分でも驚いてしまった。疑問系で呟いて、琥珀色の目をぱちぱちさせる。呟いた瞬間ぞわっと来て、居竦んだ彼は慌てて周囲をきょろきょろ見回したが、無論、部屋には他に誰もいなかった。
 息を殺して気配を窺っても、なにも見つけられない。念の為クローゼットの扉も開けてみたが、収納ケースがごちゃごちゃ積み上げられているだけで、人が隠れられるスペースなどどこにも無かった。
 安堵と失望が半々で混じり合ったため息を零し、綱吉は離れた場所からでも目立つ一輪の桜を振り返った。
 まったくもって、どこからやって来たのか。
 いや、勿論それも気に掛かるのだけれど。
「なんでだろ」
 ひとりごち、彼は眉間の皺を深めて首を右に倒した。
 何故自分は今、雲雀の顔を思い出したのか。確かに彼には桜にまつわるエピソードがあって、印象深く胸に刻まれてはいるのだけれど。
 それがどうして、彼がこれを持ってきたなどと、そんなあり得そうにない結論に行き着くのか。
 頭を引っ掻き回し、綱吉は盛大に口を尖らせた。
「いいよ、もう。明日聞こうっと」
 分からないままでいるのはもやもやして、気持ちが悪い。違うなら違うではっきりさせたくて、綱吉はぼそぼそ小声で呟くと、腹に力を込めて握り拳を作った。

 翌朝も空は青く澄みわたり、白い雲がぷかぷかと暢気に泳ぐ快晴ぶりだった。
 風は幾分弱まり、気温は順調に挙がり調子。布団から出るのも、眠気の点を除けば随分と楽になった。
 目覚ましが鳴ると同時に目覚めて、準備を済ませて玄関を出る。予定通りゴミ袋ひとつ抱えて門扉を潜り抜けて、綱吉はゴミ捨て場を経由して学校を目指した。
 ゆっくり歩いても、遅刻は回避出来そうだ。清々しい朝の空気を胸一杯吸い込んで、綱吉は道端に咲いていた桜の木を仰いだ。
 足許には花びらが無数に散らばって、ピンク色の絨毯が敷かれているようだった。
 靴で踏んで汚してしまうのがなんとも勿体ないが、ここを通らなければ学校に行けない。背に腹は代えられないと腹をくくり、彼は大股に道を急いだ。
 駅に向かう途中らしきサラリーマンも、ついつい目が上に行きがちだ。自転車を漕いでいる人まで満開の桜に心を奪われているものだから、ふらふらと危なっかしくてならなかった。
 もう少しで跳ね飛ばされるところだった綱吉は通り過ぎていった二輪車を思い切り睨み付け、美しい景色を眺めることで溜飲を下げた。
「もう」
 自分も足許が覚束無いところがあったので、一概に相手が悪いとは言い切れないが、謝罪のひと言くらいくれても良かろうに。湧き起こった怒りを丸めて遠くに投げ捨てて、彼は右の頬をぺちりと叩いた。
 学校まであと少し。見慣れたベージュの制服は次第に数を増し、綱吉の左右を取り囲んだ。
 まだ時間が早いからなのか、それとも今日は服装検査が予定されていた日ではないからか。
 正面玄関に風紀委員の姿は無かった。
「……あり?」
 昨日からの疑問を朝イチで解消するつもりでいただけに、拍子抜けしてしまった。嬉しがるべき事実なのに落胆を隠せず、彼は笑顔で校門を潜る生徒らの中でひとり憤慨して地団駄を踏んだ。
 後ろから来た生徒に怪訝な顔を向けられてハッとして、慌てて取り繕って咳払いをする。無意味にジャケットの襟を撫でて鞄を担ぎ直し、彼は早足に校舎に駆け込んだ。
 新調したての上履きに履き替え、教室を目指す人の波に乗って上を目指そうとする。だが途中で思い留まり、彼は二階に続く踊り場手前でユーターンを決めた。
「わっ」
 偶々真後ろにいた男子生徒が吃驚して悲鳴をあげて、ざわめきが同心円状に広がっていった。急に反転した彼に皆が不思議そうな顔をするけれども、綱吉は構わず、二段飛ばしで登ったばかりの階段を駆け下りた。
 忘れ物でもしたかと首を傾げる生徒らを置き去りにして、一階に戻った段階で右に進路を取る。それは正面玄関とは反対方向であり、通常の授業で使う教室棟とは別棟に繋がる道でもあった。
 誰もが下駄箱から近い階段を使いたがるので、奥に行けばいく程人の気配は薄くなった。窓から差し込む太陽光だけで充分明るいので、照明も総じて消されていた。
 角を曲がり、少し行ったところで別の階段が現れた。登校したての生徒でごった返している玄関近くとは違い、シンと静まり返って、空気は乾いて埃っぽかった。
 もっともここは、教室棟から遠いという理由だけで人通りが少ないわけではなかった。
 この上の階に、なにがあるか。それこそ並盛中学校に通う生徒ならば全員が知っており、許されるなら三年間一度も前を通りたくない部屋に他ならなかった。
 応接室。
 その響きだけならば豪奢で優雅な雰囲気が感じられるけれども、この学校においてだけは、その単語は恐怖の対象でしかなかった。
 本来ならば来客を出迎える為に用いられる部屋は、今は風紀委員が占領していた。実質的に並盛中学校を支配している男の、個人的な部屋として用いられていた。
 風紀委員長、雲雀恭弥。その名前を聞くだけで震えが来る、という生徒も多い中、綱吉は諸般の事情により、比較的彼と接触する機会が多く与えられていた。
「いるかなあ」
 苦手意識が完全に払拭されたわけではないが、一時期に比べれば無駄に恐れを抱く事はなくなった。いきなりトンファーで殴りかかられる事はないと信じて、彼は在室かどうかを心配して呟いた。
 斜め上の薄暗い踊り場を見上げ、鞄を胸に抱く。
 あの桜の花は、処分に困った末に小さなコップに水を張って、その中に浮かせて来た。それで長持ちするとは思えないが、折角美しく咲いたのだから、放置して枯らしてしまうのも可哀想だと考えた末の対処だった。
 机の片隅に置いて来た一輪を瞼の裏に描き出して、彼は上唇を舐めた。
 既に出足から躓いているのだ、居なかったら昼休みにまた挑めばいいだけのこと。そう自分に言い聞かせて心を奮い立たせ、上階に向かうべく右足を前に繰り出す。
「教室はそっちじゃないよ」
 そこへ唐突に声が飛んできて、つんのめった綱吉は危うく顔面から階段に倒れ込むところだった。
 すんでの所で踏み止まり、斜めに傾いだ体勢を大慌てで真っ直ぐに戻す。右足の爪先だけを段差に残して胸を撫で下ろして、彼は冷や汗もそのままに後ろを振り返った。
 いったいどこから出て来たのか、そこには案の定、これから会いに行くつもりでいた男が涼しげな顔をして立っていた。
 綱吉たちが着ているベージュのブレザーとは違い、黒い学生服を肩に羽織って、スラックスも勿論黒。空っぽの左袖には緋色の腕章が揺らめき、右手を腰に当てて肘を外向きに突き出している。
 物静かな佇まいは凛として、異様なまでに威圧感があった。
「どこに行く気だったの?」
 一瞬で跳ね上がった心拍数に、身体がかっかと熱くなる。抑揚に欠ける問い掛けに奥歯を噛んで首を振り、綱吉は言うべき言葉を探して鼻を膨らませた。
 質問に対する回答になり得ない反応を見せられ、雲雀は怪訝に顔を顰めた。元から細い目をもっと細められて、綱吉は荒い息を吐き、咥内にあった空気を唾ごと飲み込んだ。
「あ、あのっ」
「?」
 昨日からずっと胸の中にあった疑問を駆逐しようとして、声が上擦った。雲雀から投げられた質問も忘れて、興奮に頬を赤らめて身を乗り出す。
 階段に残していた右足を引っ込めて完全に振り返った彼に、雲雀の眉間に皺が寄った。
「あの、ヒバリさん」
「なに」
 一メートル半ほどの距離を大股に詰めた綱吉が、声を弾ませて言葉を繋ぐ。不機嫌になり始めている雲雀に気づきもせず、彼は琥珀色の瞳に期待の色を滲ませた。
 低音の相槌に深く頷いて、
「昨日、俺の部屋、来ましたよね?」
 半ば確信を抱いて、訊ねる。
 だが雲雀はきょとんとして、数秒停止した末に口をヘの字に曲げた。
「行ってないよ」
「え、嘘」
 素っ気ない返事に、今度は綱吉が驚いた。目を丸くして何度も瞬きを繰り返して、同じ質問を投げては雲雀につれなくあしらわれる。
 そんなやり取りが三度ばかり続いて、痺れを切らした雲雀が床を強く蹴った。
 バンッ、と近くから響いた轟音に、綱吉の華奢な肩が跳ね上がった。落としそうになった鞄を慌てて抱き留めて、瞬きを五度も連発させて深く長い息を吐く。
 苛立ちを隠しもせず、雲雀は爪先で小刻みに床を叩いて首の後ろを引っ掻いた。
「どうして僕が、君の家に行かなきゃならないの」
 吐き捨てるように訊き返されて、綱吉の目が途端に平らになった。気難しい表情でしばし考え込んで、その顔のまま首を右にゆっくり倒す。
「……あれえ?」
 彼が嘘を言っているわけではない、というのは、流石に理解出来た。
 そうして次に湧き上がった疑問は、そもそもどうして自分は、彼が部屋にやって来たと決めつけていたのか、ということだった。
 昨日の段階では半信半疑だった。雲雀かもしれない、と思いつつも、違うような気もしていた。
 だのに一晩明けて今日になってみたら、あれは彼の仕業に違いないと、微塵の疑いも抱かずに信じ込んでいた。
 憤然としている雲雀を前に頬をヒクリとさせて、綱吉は鞄を抱く腕に力を込めた。
 傾いた弁当箱の角が肘の内側に当たって痛い。だが角度を変える余裕すらなく、彼は摺り足で後退を計り、追い掛けた雲雀に瞬く間に距離を詰められた。
 射殺す勢いで睨み下ろされて、綱吉は次第に首を竦めて小さくなった。
「あ、あの。いや、いえ。なんていうか、……うん。違うなら、良いんです」
 人の認識とは、かくも簡単に入れ替わってしまうものなのか。自分のことながらショックを隠せず、掲げた鞄で頭を庇った綱吉は小声でぼそぼそ言い訳して、迫り来る気配から出来るだけ離れようと試みた。
 だが二度目の挑戦は呆気なく終わりを迎えた。進む方角を間違えて、壁際に追い詰められてしまったのだ。
 肘が硬い物にぶつかり、続けて背中が冷たい物に行き当たった。垂直にそそり立つ壁面を後ろに見て、彼は震え上がり、前方で怪訝にしている雲雀に愛想笑いを浮かべた。
「えへ、へ」
 だが誤魔化しは通用せず、彼は却って追求を強めて綱吉を睨んだ。
「沢田綱吉?」
「う……」
 フルネームで名前を呼ばれて、綱吉は呻いた。
「小動物」や「草食動物」ではなく、個人名で呼ばれるとどうにも弱い。反抗はここまでと諦めて、覚悟を決めざるを得ない心境に追い遣られてしまう。
 奥歯を噛み締めて肩を落として、彼は弱々しくかぶりを振った。
「えっ、と。なんていうか、その。昨日、俺の部屋に……、まあ、要するにですね」
「……」
「桜の花、が。一輪だけ、落ちてて」
 無言の圧力が怖くて、しどろもどろだった綱吉は急に早口になって指を小突き合わせた。
 鞄を抱いたまま胸の前で左右の人差し指をぶつけ合わせた彼に、雲雀の右の眉が少しだけ持ち上がる。だが表情の変化はそれくらいで、相槌のひとつも得られなかった。
 気まずい沈黙に、綱吉の視線が自然と下がって行った。俯いて爪先を床に擦りつけた彼に嘆息して、雲雀は長い前髪を掻き上げた。
 桜の咲かない場所に、桜の花、一輪。外部から持ち込まれたとしか考えられない、酷く不自然な光景を想像して、並盛中学校風紀委員長は眉目を顰めた。
 左人差し指で顎を撫で、行き過ぎた場所を親指の爪で軽く引っ掻く。凍り付きそうな静寂が嫌で身を捩った綱吉は、上目遣いに前を窺い、目が合いそうになると慌ててパッと逸らした。
 ほんのり紅色に染まった頬を盗み見て、雲雀は口を尖らせた。
「知らない」
 はっきり響く声で、とてつもなく不機嫌そうに呟く。
「僕じゃない」
 沢田家の二階の、綱吉の部屋に。
 一輪だけ残されていた、桜の花。
 意味深すぎる情景に歯軋りしながらも、否定せざるを得ない。昨日は一日中風紀委員の仕事に忙しく、終日校内に詰めていた。外に思いを馳せる事はあっても、足を伸ばす真似はしなかった。
 朝から晩まで、応接室に引きこもっていた。それは間違い無い。きっぱり断言した雲雀を久方ぶりに見上げて、綱吉は間を置いて気の抜けた笑みを浮かべた。
「そう……ですか。っていうか、ですよねえ」
 何故あの時、彼の仕業ではないかと考えたのだろう。そんなわけが無いと思いつつも、彼に違いないと一方的に思い込んでしまったのだろう。
 口に出せない疑問を胸に抱えたまま、綱吉が照れ臭そうに頬を掻いた。変な誤解をしてすまなかったと詫びて小さく頭を下げて、鞄を持ち直す。今一度深くお辞儀をして教室に向かおうとして、背中に呼び掛けられた。
「どうして僕だと思ったの」
 投げつけられた疑問に、出しかけた足が引っ込んでしまった。
 空中でヒクリと痙攣を起こした太腿が、力を失って真下に落ちた。倒れないよう踏ん張って、腰を捻って後ろを向く。雲雀は窓辺に立ち、真っ直ぐ綱吉を見つめていた。
 黒い瞳に射貫かれて、逸らせない。息を呑み、綱吉は困った顔で笑った。
「どうしてって、言われても」
 自分にだってよく分からないのだ。聞かれても、答えられるわけがない。
 ただひとつ言える事は、綱吉が知る人の中で、桜の花に最も縁深いのが彼だということ。
 花見席での騒動に、黒曜中学校との抗争も、そう。直接の関わり合いはこのふたつくらいしかないが、兎も角雲雀恭弥という男には桜の花が良く似合った。
 散り際の潔さが好まれるというが、儚くもあり、力強くもある花だと綱吉は思う。今となっては、薄紅色の花が咲いているところをみると、彼の顔が自然と思い浮かぶくらいにすり込まれてしまっていた。
 関連性は低いのに、強く結びついてしまっている。雲雀と言えば桜、桜といえば雲雀と、片方を思い出せばもう片方も勝手に頭に浮かび上がるくらいに。
 それを辿々しい言葉遣いで、時間を掛けて告げれば、最初は気難しげだった雲雀の表情も、じわじわと緩んでいった。
 最終的にどことなく嬉しげな顔を向けられて、綱吉はひと息ついて首を傾げた。
「ヒバリさん?」
「……そう。君は、桜を見たら僕を思い出すの」
「って、絶対そうってわけじゃないですからね!」
「分かってるよ」
 細められた目は優しげで、どきりとしてしまう。思わず名前を呼んでしまって、からかわれたと思い込んだ彼は途端に頬を膨らませて強調した。
 拗ね顔で訴えられて、雲雀は喉を鳴らして笑った。肩を揺らし、憤慨して煙を吐いている少年を宥めて右手を振る。
 少し前まで胸の中にあった憤りとも言うべき感情は、いつの間にかすっかり消え失せていた。後には妙な清々しさだけが残されて、彼は頬を緩め、相好を崩した。
 珍しい表情を唖然としながら眺めて、綱吉が二度、立て続けに瞬きした。それで我に返り、雲雀が咳払いで誤魔化して顎を撫でた。
 彼に連なる花を思い浮かべ、綱吉は空中を蹴った。
「でも……ヒバリさんじゃないなら、誰だろう。なんか、気持ち悪いな」
「そうだね。不法侵入者が並盛町を徘徊しているのなら、ゆゆしき問題だ」
 扱く真面目な顔をして言われて、綱吉は苦笑した。頬をヒクリとさせて、悟られないようため息を零して前髪を掻き回す。
 その時カツン、と硬い音が聞こえた気がして、顔を上げてはみたものの、廊下を歩いてくる人の影は無かった。
 前に雲雀が居る以外、目立った変化はない。挙動不審に首を巡らせる彼に眉目を顰め、雲雀も小さく響いた音に瞬きを繰り返した。
 空耳ではあるまい。立て続けに三度も鳴った物音に、ふたりは顔を見合わせた。
「今」
「あっ」
 どこから、と改めて左右を見回した綱吉が先に気付き、甲高い声を上げた。間近で響いた高音に肩を跳ね上げた雲雀もまたすぐに気付いて、目に飛び込んで来た黄色い物体に肩を竦めた。
 閉ざされた窓の向こう側に、羽毛に覆われた丸い生き物がいた。横に長い嘴に、小さめのまん丸い瞳がふたつ。羽をパタパタさせてバランスを取り、鍵を開けてくれるようせっつく小鳥がガラスを叩いていた。
 一瞬ポルターガイストを想像してしまった綱吉は、幽霊ではなかったとホッとして目を細めた。
 小鳥はひっきりなしにガラスを嘴で小突いており、そのうち割れてしまうのではないかと危惧された。見かねた雲雀が盛大なため息を吐いて、渋々といった風情で鍵を外す。透明な戸を左に滑らせ道を作ってやれば、嬉しそうに身を揺らした黄色い鳥が大きく羽を広げた。
 風を起こし、校舎内に身を躍らせる。正面衝突を避けてふたりの周囲を迂回して、一度天井近くまで舞い上がってからゆっくり降下に転じて、最後は雲雀の左肩へ。
 慣れた調子で着地した小鳥に心の中で拍手を贈った綱吉は、鳴きもせず、歌いもしない姿に眉を顰めた。
 よくよく見れば、嘴に何か挟まっている。いや、正確には咥えていると言うべきか。
「これって」
 その見覚えがありすぎる色と形に目を瞬き、綱吉は雲雀を見た。
「どうしたの」
「あ、いえ」
 彼からは、小鳥の後頭部しか見えないようだ。気付いている様子がないのに戸惑って、綱吉は両手と一緒に首を振った。
 そんな彼をじっと見つめて、外から帰って来たばかりの小鳥が愛らしく頭を振った。
「ピ」
 ヒヨコのような鳴き声をあげて、再び翼を広げる。そして羽ばたくのではなく、滑空する形で宙を舞った。
「うわ」
 胸元に飛び込んで来られて、正面にいた綱吉が吃驚して悲鳴をあげた。咄嗟に受け止めようとして両手を広げ、己を庇う。その窪みに自ら突撃して、愛くるしい小鳥が細い嘴を上下に広げた。
 咥えていたものを解放して、左右並んだ小さな手にぽとりと落とす。
 匂いはしない。だがふんわりと、春の香りが鼻腔を擽った気がした。
「ピヨ」
 呆然とする綱吉の指先で、小鳥が満足げに胸を張った。鳩胸を見せつけられて、黄色い羽の前で際立って白く映る花に綱吉は目を見張った。
 雲雀も今頃になって気付いて、瞠目した後、降参だと笑った。
「君の仕業か」
「ピッ」
 飼い主の呟きに元気よく返事をして、小鳥は綱吉を期待の眼差しで見上げた。褒めて欲しそうなまん丸い瞳を見つめ返して、彼は息を呑み、間を置いて破顔した。
 小鳥一羽と、もうひとつ。
 摘み取られて来たばかりと思われる桜の花一輪を掌で受け止めて、頬を緩める。
「俺にくれるの?」
「ピ!」
 問い掛ければ即座に返事があった。昨日の桜も、まず間違い無く、この小鳥の仕業に違いない。
 答えが得られて、すーっと胸がすく。心まで軽くなって、綱吉は洒落た事をする黄色い鳥に頬を寄せた。
 その微笑ましい光景を眺めて、雲雀はなんとも言えない顔をして黒髪を掻き上げた。
「先を越されたかな」
 独白は幸いにも、誰の耳に届くことなく風に流されて消えた。

2012/04/10 脱稿