甘露

「じゃあな、ツナ」
 そう言われて振り返ると、帰り支度を終えた山本が部活に行くのだろう、教室を出て行くところだった。
「また明日」
 定型句な挨拶を返し、綱吉は小さく手を振る。クラスメイトが続々と教室を出て行く中、日直である綱吉は今日一日の報告を、あらかじめ用意されていたプリントの項目を埋める事で完成させた。それを出席簿と一緒にして職員室に持っていけば、仕事は終わる。
 綱吉の作業が片付くのを待っていた獄寺が職員室にまで一緒について来ようとしたのを制し、ひとり教室を出て階段を下りる。既に部活動を開始した声があちこちから聞こえており、授業が終わっても中学校全体はにぎやかだった。
 ただそれも、生徒が使用する施設が少ない一階まで来ると別の話。静まり返った廊下に響く自分の足音を聞きながら、綱吉は目的の職員室を目指した。担任はちゃんと自席に座っており、特に問題もなく用事は済まされる。黒板の名前を明日の日直に書き換えておく事だけを依頼され、解放された。
 職員室のドアの前で一礼をして、ドアを閉める。視界が木製のドアに埋もれた途端、胸を撫で下ろしホッと息を吐いてしまうのは、やはり職員室という独特の空気に当てられた所為だろう。問題行動を起こして呼び出されたわけではないけれど、ここに足を踏み入れると無用の緊張を強いられてしまう。
「帰ろっと」
 教室に獄寺も待たせているし、遅くなるとまた遊び相手が居ない子供たちが騒ぎ出す。小さく苦笑して廊下を急ぎながら、綱吉はポケットに何の気もなしに手を突っ込んだ。指先が何かに当たる。おや? と首を捻り、足を止めて取り出してみるとそれはキャンディーだった。赤い包み紙で、イチゴ味だと知れる。
 入れた覚えはないのにな、と手の平で転がして記憶を掘り下げているうちに、あっと叫びそうになって慌てて口を閉ざす。そういえば今朝学校に向かう前、機嫌が良かったランボがひとつくれたのだ。置いていくには時間がなくて、そのままポケットに入れておいたのを、今頃思い出す。
 校内は昼休み以外飲食禁止。しかしおやつ時も過ぎており、健全な中学生である綱吉にしてもこの時間帯は空腹も絶好調。飴玉ひとつでどれくらいもつのか、むしろ余計に空腹感を増大させるきっかけになりはしないかと一瞬思ったが、実際目の前に食べ物があるのだ。選択肢はひとつしかない。
 それにどうせ、もう家に帰るだけだし、たとえ空腹感が増しても帰り着きさえすれば食べ物は用意されているはず。赤い色をした甘い誘惑に、綱吉は耐えられなかった。
 だが警戒すべきは、厳しいとして知られる風紀委員。学則で定められている校内飲食禁止を破るわけであり、彼らに見つかれば何を言われるか分かったものではない。注意深く周囲を窺い、誰も居ないのを確認してから綱吉は左手の上にある小さな飴玉の包み紙を解いた。
 カサカサとセロファンがこすれ合う音がして、現れるのは親指大の飴玉。確か昨日奈々がおやつに出していたもので、ランボの好物。いじらしくも大好きな飴を綱吉に分けてくれた時の幼子を思い出し、つい頬が緩んだ。
「いただきます」
 律儀に食前の文句を述べ、左手を口の前に動かす。舌の上で転がった飴玉は唾液に表面が溶かされ、特有の甘い匂いで綱吉の鼻腔を内側から刺激した。きっと食べ終わる頃には舌の表面が赤くなっているだろうな、と思いながら右から左の頬袋へと幾度か移動させる。その度に綱吉の頬が膨らんでは凹み、見る人が見れば何かを食べているとすぐに分かってしまうだろう。
 ただ、恐らくは誰も綱吉の迂闊さを笑えないに違いない。
「へぇ、美味しい?」
「もちろん」
 上機嫌に飴玉を口の中で転がしている最中、低く落ち着いた声にそう聞かれ、反射的に何も考えず綱吉は答えていた。答えて、左の奥歯で飴玉の表面を軽く削ってから、我に返る。それが聞き覚えのあるよく通る声であるという事実に、背中を冷たい汗が伝った。
 綱吉の記憶が間違いでなく、声の主がそっくりさんでない限り、今現在綱吉の背後に立っている人物は他ならぬ、並中最高権力者及び、喧嘩の強さランキング第一位。綱吉がどう足掻いても太刀打ち出来る筈のない人物その人。
 このまま走って逃げ出してしまおうか。しかし後ろを確認せず、もし思い違いであったなら相手に失礼ではなかろうか。激しい葛藤に苛まれ、額からも嫌な汗がだらだらと流れていく。視線が宙を泳いで定まらず、飴玉の味さえ遠くなってしまうのに数秒とかからない。
「そう、美味しいんだ」
 実に冷ややかで、こういう状況でなければうっとりと出来るだろう声が響く。さっきよりも距離が近くなっているような気がしたが、綱吉は怖くて振り返られなかった。逃げようかと爪先が虚空を掻いたが、それより早く右の肩を掴まれた。ぐっと力を入れられ、強引に振り向かされる。勢い余ってそのまま右肩が壁にぶつかった。
「いっ……」
 突然過ぎて理解が状況の変化についていけず、痛みに顔を歪めていると顔に影が落ちてきた。首の角度は右肩に向けたまま、視線だけを持ち上げると案の定雲雀がそこにいて、綱吉の肩と掴んでいる。怒っているような、呆れているような、しかし表情は笑っているようにも見えて、心の内側は読み取れない。
 肩を囚われたままなので逃げ出すわけにもいかず、綱吉は観念して大人しくなる。視線を落として俯き、背中全体を壁に預けると肩の痛みはすぐに引いていった。転がすのを止めた飴玉が、前歯の裏側にぶつかって止まる。握り締めていた包み紙が指の隙間から落ちた。
 雲雀がそれを、瞳だけ動かして見下ろす。
「飴?」
「はい」
「校内は飲食禁止、知ってるよね?」
「……はい」
 口答えは許さない物言いに、しょんぼりとしながら素直に答える。声に力はない。よりによって一番見つかりたくない相手に目撃されてしまうとは、なんと運がないのだろう。己の不運さを呪いながら、綱吉は雲雀の動向を見守る。
 食べている最中のものは、いくらなんでも没収とはいかないだろう。なら一発くらい殴られるか、覚悟を決めなければなるまい。赤く腫れた頬を見て獄寺がどういう反応をするか想像し、溜息が出た。
 しかし、予想外に、
「じゃあ、没収」
 あっさりと言われた。
「えぇ!?」
 どうやって、と聞き返そうとして顔を上げる。雲雀の顔が、知らぬ間にそこにあった。え、と驚いて反応出来ずにいる綱吉の顎を掴まえた手が、彼の顔の角度を固定する。瞬きさえするのを忘れている綱吉が次の瞬間思ったのは、雲雀の睫は綺麗だという、この際どうでも良いことだった。
 触れ合った唇から、吐息が零れ落ちる。
「……んっ」
 呼吸の合間を突いて雲雀が更に重なりを深めて来て、強引に舌を捻り込ませてきた。唇の裏側にまで潜り込んできた異物に気付いて、初めて綱吉は自分が雲雀に口付けられているのだと知る。途端頭から湯気が湧き上がる感覚が襲いかかり、目を開けていられない。
「ん、ぅ……」
 しかし雲雀は構う事無く舌を進め、歯列を割り開き綱吉の口腔に到達する。生暖かな柔らかい感触に舌の表面を撫でられ、背筋に走った電撃をきつく瞼を閉じてやり過ごす。自分のものではない舌が、綱吉の咥内で飴玉を転がした。
 押し付けられ、転がされ、奪い去るかと思いきや舌の裏で押し返して戻される。飲み込めない唾液が唇の端から溢れ出て、息継ぎも出来ずに胸が苦しい。無意識に雲雀にすがり付いて、彼のシャツを皺くちゃにしていた。
「ふぁ、ん……っ」
 雲雀が呼吸の為に唇を少しだけ離したら、追い縋ろうとしている自分に気付いて綱吉は慌てた。開いたままだった唇の間から恥かしい声が漏れて、つい目を開いてしまい、間近に雲雀の切れ長な瞳を見つけて心臓が跳ねた。赤く濡れた唇に視線が行って、落ち着かない。
「あ、あの……」
「イチゴ味」
 何か言おうとして言葉を捜すが見つからず、困っていると雲雀が口を舐めながらそんな事を言った。あ、と思って舌を使い口腔内を確かめると、いつの間にか飴玉は溶けてなくなり、イチゴ色に染まった綱吉だけがその場に残されていた。飴玉は、確かに雲雀に没収されていた。
「もっと、他に方法あったんじゃないんですか?」
 釈然としなくて、赤い頬を押さえながら唇を尖らせる。雲雀は薄く笑って、親指でその綱吉の唇を軽く押さえた。右から左へ、柔らかく濡れた唇をなぞっていく。細められた瞳に見つめられ、心臓が落ち着かない。握ったままの雲雀のシャツから手を離すタイミングも、見失った。
「あの……」
「今度は、その生意気を言う口を塞いであげようか?」
 困った末に見上げた先で、獣の視線に射竦められる。魅入られて動けない綱吉は、迫り来る黒い影を前にして今度は静かに、目を閉じた。