催睡

 小さく欠伸を零す。口元を右手の甲で覆い隠し、重くなりそうな目を数回瞬きさせて首を振り、綱吉は迫り来る眠気を追い払った。
 不安定な足場に腰掛けているので、その小さな動きだけでもふらふらと上半身が揺れ動く。落ちないようにバランスを保ちつつ、彼は腕を伸ばして目の前に聳える書棚へと指を伸ばした。親指の長さほどありそうな厚みを持つ古い本を、ゆっくりと引っ張り出す。表紙は革張りで、タイトルが金で箔押しされている。
 それを膝の上に置き、慎重に表紙をめくる。埃が薄く飛び散り、咳き込みながらも綱吉の目は真剣にそこに記されている文字を追いかけていた。左から右へ流れるようにして描かれた文字は、無論彼が生まれ育った故郷の文字とは大きく異なっている。
「ええと、これが……」
 辞書を持ってくるべきだったかと後悔しつつ、覚束ない記憶を頼りに読み進めるが、案の定一ページも進まぬうちに知らない書面は単語で溢れ、意味が読み取れなくなってしまった。
 頭が痛くなりそうで、こめかみを人差し指で押さえる。ざっと居並ぶ稀覯本の群れに圧倒されながら、辛うじてタイトルだけ読み取れるものを探し出してみたのだけれど、当初の予測通りの結果が得られそうだ。
 ボンゴレ秘蔵の書籍を集めたこの部屋は、彼が通っていた中学校の図書館よりも遥かに規模が大きく、本格的過ぎる。数百年前に発行された本が当たり前のように並ぶ書棚は、二メートル近くある天井に達する程に背が高く、人がふたり並んでどうにか通り過ぎられる幅で均等に配置されている。床にはレールが走り、可動式の脚立がそこに。これを使えば手の届かない位置に収納されている本も楽に取り出せる仕組みだ。
 今現在、綱吉はその脚立の天頂に腰を下ろしている。自分の身長よりも高い脚立は最初こそ怖かったが、慣れてしまうとどうってことはない。レール上でしっかりと脚立を固定しているので、大きな地震が来ない限り、綱吉の不注意さえなければ落下の危険性も無い。
 広げたばかりの本を閉じ、膝に抱いて綱吉は溜息をつく。
 眠いけれど眠りたくなくて、本を読んでいれば眠らずに済むかと思いこの薄暗く、湿度も低くて寒々とした場所に潜り込んでみたけれど、効果はなさそうだ。むしろ難しい文面に頭を悩ませて余計に眠くなった。
 再度欠伸をかみ殺し、ずっしりと腕に重い本を元あった場所に押し戻す。狭い隙間に強引に捻じ込むので、引っ張り出した時よりも力が必要だった。両足を脚立に絡ませて腹に力を入れ、両手と上半身全体を使って漸くそれは元通りになった。
 段差無く収まる稀覯本の群集に、満足げに笑みを浮かべて額に浮いた汗を拭う。
「ツナ」
 足元から声がして、右腕を額にやったまま視線を落とした。こげ茶色の床に同調気味の服装で、危うく見落としそうになった場所にリボーンが立っている。手に何かを持っているが、綱吉の位置からでは小さすぎて見えなかった。
 彼は愛用している帽子の鍔を人差し指で押し上げ、顔を上げる。日に焼けない白い肌に、漆黒の瞳が綱吉を射た。この数年ですっかり背も伸びて大きくなった彼は、もうじきすれば綱吉を追い抜いていくだろう。毒のある物言いと傲慢な性格は、少しも変わっていないけれど。
「何?」
「お前、また寝ていないんだってな」
 ボンゴレの地位を継いだ綱吉の家庭教師だった彼だが、今現在はその綱吉の片腕として働いている。実行部隊を指揮する彼は各地を点々とする機会も多く、思い返せば直接顔を合わせるのも久しぶりである。しかし再会を喜び合う前に、開口一番告げられる内容が、それとは。
 リボーンに教えたであろう面々を想像し、綱吉は苦笑した。
 ここ最近、綱吉は寝つきが悪かった。眠気はある、身体が欲しているのだから当然だ。だが眠りは常に浅く、三十分もうとうと出来るかどうか、という状態が続いている。それでは十分に休まるわけもなく、逆に疲れてしまうというもの。無理に眠らせようとしても、ボンゴレの十代目である綱吉に、彼を取り巻く仲間も強引な方法を使えずにいた。
 原因は複合的なものが想像されるが、恐らく綱吉が精神的に、夢を見るのを怖がっているからではないかというのがシャマルの結論だった。夢を見たくない、眠りたくない。だから眠らない。これではいつか綱吉の方が参ってしまうから、薬に頼ってでも眠ってくれと仲間たちは懇願してくる。だが綱吉は受け入れない。
 眠りたくないという本人の意思を強引に覆させられる存在は、最早リボーンしか残されていなくて。
「もしかして、呼び戻されたとか?」
「与えられた仕事は終わらせてきた。問題ない」
 綱吉だってそれは考えた。仲間がリボーンを呼び戻すのも時間の問題だと知っていたから、敢えてこんな人気の無い、綱吉自身立ち寄りそうにない場所を選んで引きこもっていたのに。
 当初の予定よりも随分早く戻って来てしまったリボーンに肩を竦め、綱吉は脚立を降りようと腰を浮かせる。だが下の方から緩い振動が伝わってきて、下を向くとそのリボーンが爪先を一段目に載せたところだった。
「俺がそっちに行く」
 確かに人間二人分くらいなら余裕で支えられそうな脚立ではあるが、上で待たされる綱吉にしてみれば彼が動く度に足元が揺れるわけで、どうも落ち着かない。仕方なく天頂で座り直した綱吉は、徐々に迫り来るリボーンから顔を背けて近い場所にある天井を見ていた。
 三十秒と経たない間に、リボーンの頭が綱吉の視界に綺麗に収まる。彼は綱吉が足を置いている段に右足を、そのひとつ上の段に左足を置いた。左手で脚立を握ってバランスを取り、右手には残量の少ないペットボトル。
「目が赤いな」
「ウサギみたい?」
 背を伸ばして顔を覗き込んできたリボーンの率直な感想を茶化して返すと、あからさまに人を馬鹿にした笑みを浮かべられる。
「リボーンこそ、少し痩せた?」
「お前よりは、元気だ」
 素っ気無い返事。下から見上げてくる年下の男の瞳は、飾らない性格そのままに、暗い色をして綱吉を映し出す。彼の瞳を覗き込んでいる自分の姿をそこに見つけて、確かにあまり元気がある様子ではないな、と綱吉は自嘲気味に笑った。
「少し、眠れ」
「嫌だって、言ったら?」
「眠れ」
 拒否権は与えられていないらしい。相変わらずの強引さに綱吉から笑みが消える。リボーンの親指が、手の中に隠し持っていたものを弾いた。白っぽいなにかが、眉間に皺を寄せているリボーンの口に吸い込まれていく。
「ツナ」
 ただ、彼を呼ぶ声はどこまでも優しい。
 吸い込まれるようにリボーンを見た綱吉の唇に、リボーンのそれが食らいつく。警戒していなかった彼が目を見開き、慌てて唇を閉ざそうとするけれど、それよりも先にリボーンの舌が道を開いた。押し込まれた舌と、それとは違う何かに、綱吉は首を振って拒否を表す。
 だが唾液と一緒に受け渡されたものは吐き出せなかった。許してもらえず、息継ぎも出来ない綱吉は苦しさに耐えかねてそれを飲み込んだ。舌の上にざらついた粉状のものが残る。苦い。
「ケホっ、なに今の……」
「シャマルに調合させた。言ってもお前は、自分で飲まないだろう」
「――そんな、いやだって」
「お前の意思は、俺には関係ない」
 きっぱりと断言し、リボーンは右手だけで器用にペットボトルの蓋を外した。数秒遅れで床に落ちた蓋の跳ねる音が微かに響く。
 綱吉は左足をリボーンの身体に阻まれた格好で、逃げ出すことも出来ず脚立に磔にされていた。後ろにも前にも逃げられない、彼が自分からこの位置に来た理由は恐らくそれだろう。綱吉が逃げると分かっているから、逃げ道を最初に塞ぐつもりで。
「逃げるなよ、落ちるからな」
 至近距離からそんな風に言って、彼は持ってきたボトルの水を全て口に含んだ。空になったそれを遠慮なく床に落とす。蓋の時よりも大きな音が響く。自由になったリボーンの右手が、綱吉の後頭部に回された。
「んっ……う」
 自分の側へ引き込むようにして、再び強引にリボーンが唇を重ねる。綱吉に潜り込ませた舌を通り道に生温い水が口腔に注ぎ込み、嚥下を促して舌の表面を撫でる。綱吉の口の端からは飲み込めない水が漏れ出て襟を濡らす。リボーンの舌は生き物のように動き回って、綱吉の咥内に残っていた薬剤の欠片も余す事無く飲み下すよう強要した。
 深すぎる口付けに堪えられない綱吉が固く目を閉じる。生々しい水音に目の奥でちかちかと光が明滅し、螺旋を描く思考が徐々に沈んでいく。意識が混濁して、リボーンの姿さえ歪む。目尻に涙が浮かんだ。
「即効性だ。夢さえ見ない」
 既にうつらうつらし始めている綱吉の唇を舐め、耳朶を軽く噛んでリボーンは彼を抱き寄せた。力が抜け切った綱吉を支えるのは容易で、それでもいやいやと首を振る彼の髪を撫でて落ち着かせる。
「傍に居る。だから、俺の死ぬ夢になんて怯えるな」
 囁きかけたことばは、果たして綱吉に届いただろうか。闇の中でリボーンもまた祈るように目を閉じた。