Are You Happy?

 夏休みが始まって、しばらく経って。
 去年までならば、毎日寝て過ごすだけの日々を送る長期休暇も今年から少々趣が変わった。毎朝決まった時間に起き出して、家を出て学校に行って、グラウンドで汗を流してボールを追い掛けて。
 自分でも信じがたい毎日を送るようになってから、もう三ヶ月になる。この健康的な生活の御陰で、今では目覚ましがなくても勝手に身体が目を覚ますようになった。
 けれどその日は、何故かそれとは少し違う感覚で目が覚めて、天国はまだ覚醒仕切っていない頭を怠そうに持ち上げ、仰向けになっていた上半身を起こした。
 もぞもぞと右腕を伸ばし、寝る前に枕許で充電させて置いた携帯電話を取って引き寄せる。
 高校入学の記念にと、親に強請って買って貰った最新機種にはいつの間にか、部員全員の電話番号とメールアドレスが記録されていた。自分から教えてくれるように頼んだものから、気がつけば勝手に登録されていた番号まで多数。
 二つ折りタイプの携帯電話の小さな液晶サブウィンドゥがちか、ちかと着信を示す点滅を繰り返している。どうも先程目覚めた時に感じた違和感の正体は、この着信にあったらしい。眠りを邪魔されたくないからと着信音をオフ設定にしてあったのだが、届いた電波が微細に身体で感じ取れたのだろう。
 被っていた薄手のタオルケットを足許に押しやり、改めて身を起こし座り直して携帯を開く。ショートカットのボタンを押して着信画面を呼び出すと、最初に表示されたのは至極簡潔な、一文だった。
 送った本人の人格をそのまま象徴しているような、用事だけを伝える短いメッセージに、今日がどんな日であったのかを天国は思い出す。
「アイツ……」
 そういえば、そうか。
 首を捻って壁に吊したカレンダーを見る。毎日が忙しく、慌ただしい事や休暇期間中であって授業が無いことから曜日の感覚が薄れてしまっていたらしい。今の今、メールのメッセージを見るまで彼は今日が、7月の25日だという事を忘れていた。
 7月25日、それは自分がこの世に産まれ出た日。
 天国は蒲団を出て、寝間着代わりに着ていたTシャツを脱ぎ捨てると片手で器用に携帯を操り、素早くボタンを押して返信を打ち込んでいった。確か、前に聞いた彼の誕生日は今日からまだ五ヶ月も先だったはず。
 誕生日おめでとう、のそれだけのメッセージに天国はやや表情を緩めながら、クリスマスイブ生まれの彼に電子処理された言葉を返す。
『おう。しばらく俺のが年上だな。兄貴と思ってくれても良いぜ? ありがとな』
 彼はどんな顔をしながら、自分にメールを送ったのだろう。もしかしたら、目覚めてすぐに自分へのメールを送って来たのだとしたら、彼も丁度自分と同じ時間帯に目を覚ましていたのかもしれない。
 そんな事をぼんやり考えながら、着替えに入ろうとしたところでまた着信が。片方の袖に腕を通したところで、携帯を開く。
 画面いっぱいに表示された文字。それは彼の、司馬からの驚くほどに素早い返事で。
『頼りにしてるよ、天国兄さん?』
 冗談のつもりだったのに、冗談で返されて。
「なんだよ、それ……」
 ややにやけた口元を隠し、締まりの悪くなった顔を押さえ込んで天国は暫く、携帯電話から目がそらせなかった。
 声を出して言われたわけではないはずなのに、その呼ばれ方が異様なまでに恥ずかしかった。

*

 素早く朝食を摂る。母親が早起きして用意してくれた食事は、とても簡単に作れるものばかりだったけれど、育ち盛りの自分にとっては、こうやって自分よりも早く起きだして用意してくれるだけでも充分有り難かった。
 エッグトーストを牛乳で胃袋に押し流し、ヨーグルトとブルーベリーを混ぜたものを一気のみして、それから荒っぽく歯磨き。
「行ってきます!」
 鞄をひっ掴み、靴を履いて玄関から飛び出そうとしたところで水筒を放り投げられて慌ててキャッチ。危ないから止めろ、と母親に叫び返すとそれくらい掴めなくてどうする野球少年、と言い換えされてぐうの音も出ず。
 恰幅の良い体を揺すって豪快に笑う母を軽く睨み付け、行ってきますと短く呟き玄関を開けて外に一歩踏み出す。空は青く、快晴。今日も一日暑くなりそうだと予感させる空模様に舌打ちし、鞄を背負い直して安っぽい門構えを押し開き、公道に出ようとしたところで呼び止められた。
「猿野君」
 この青空と同じくらいに爽やかなオーラを、朝っぱらから余すことなく全身から発している存在を目にした瞬間、感じたのは「げっ」とか、とにかくそういうなんで貴方が此処にいるんですか、という疑問だった。
 顔に出てしまっていたのだろうか、天国の表情を読みとった相手がやや不満げな顔をして両者の間にあった距離を自分から一方的に詰めてきた。あと二歩で完全に横並びになるだろう位置で彼は立ち止まり、若干だけ上にある目で天国を見下ろした。
「おはよう」
「お、おはようございます……」
 だからどうして、貴方が此処にいるのでしょうか。確か貴方のご自宅は、学校を挟んで自分のこの家とは正反対側にあるのではなかったでしょうか。
 言いたい事はぐるぐると天国の頭を巡ったものの、爽やかな笑顔を無駄に振りまいている先輩の顔をまともに見上げる事も出来ず、天国はごもごもと口ごもりながら朝の決まり切った挨拶だけはなんとか返した。
 にっこりと、牛尾が微笑む。
「良い朝だね。今日も寝坊せず、ちゃんと起きて来られたようだし、偉いね」
 毎朝のラジオ体操に遅刻しなかった小学生を褒める大人のような、そんな口振りについムッと来て天国は顔を上げた。目の前に満面の笑みを浮かべた、自分よりもふたつ年上の先輩がいる。表情に湛えている笑顔は、どんなに怒っていても毒気を抜くのに充分な威力を持っていて、今の天国も例外ではなかった。
 柔和な笑みを向けられ、微笑みかけられると何故か不機嫌さも吹き飛んでしまうくらいに照れてしまって、恥ずかしくなって小さくなってしまう。
「遅刻したら……グラウンド外周10周、でしょう?」
「そうだね」
 厳しい練習でも知られている十二支高校野球部は、規則と時間にも割と厳しい。一分でも遅刻すれば、基本トレーニングに加え、グラウンドの外周ランニングも追加される。それも遅刻した時間が長ければ長いほど、周回数も増えていく罰則だった。
 天国は最初の頃に、数回、外回り50周なんていう事を連続でさせられてそれだけでへばってしまい、以後よっぽどの事がなければ遅刻はしなくなった。むしろ今では、誰よりも早くグラウンドに出てトンボ掛けをするようになっていた。
 それもすべて、他の部員に迷惑をかけたくないことや、野球のスタートラインが皆よりも遙か後方になってしまった自分を少しでも高い場所へ連れて行きたくて、という気持ちからだ。けれどそれ以上になにより、目標とする人に一歩でも近づけたならと思ったから。
 真似からしか入ることが出来ないけれど、あの人が自分から進んでやる事を自分もやれば、あの人の考え方に近づけるかもしれない、なんて浅はかに考えた事がきっかけだった。
 誰よりも早くグラウンドを目指すのも、トンボ掛けに精を出すのも、ちょっとでもあの人の側であの人を見ていられたらと思うから。
 でもまさか、その当人に朝、自宅の前で遭遇するとは予想だにせず。これで驚くな、と言う方が無理だろう。
「で、今日は一体なんの用ですか?」
「用が無ければ、猿野君に会いに来てはいけないのかい?」
「なんですか、それ」
 一瞬、天国の心臓がどきりと跳ね上がった。けれど常ににこやかな笑みを絶やさない彼の表情からはその心内は読みづらく、何を考えての発言か探りきれなかった天国は、内心の動揺を隠しつつ肩を竦めて呆れてみせた。牛尾が口元に手をやってくすっ、と笑った。
「いや、ね。この辺りをうろうろしていたら、確か君の家が近くだったと思い出したんだよ。それで、どうせなら一緒に学校に、と思って誘いに来たんだけれど。どうかな?」
 こんな朝早くから近所をうろうろしているなんて、挙動不審だと言い返し笑い飛ばして誤魔化そうとした天国だったけれど、それよりも早く牛尾があれでね、と言いながら右手で後方を指さした。
 そこには通り過ぎる車の邪魔にならないよう、道路の端に寄せて停められた一台のバイクがあった。中型の、ブラックメタルの外装をしたかなり高そうな、そしてまだ新しいバイクだ。
「え……」
 まさか、と天国は牛尾を見上げ直した。にこりと、微笑んだ彼が頷く。
「買ったんですか!?」
 というか、その前にあなた免許持ってたんですか、という疑問が先だった。誰よりも熱心に部活動に勤しみ、朝早くから夜遅くまで野球三昧だと思われていた人の意外な一面に、天国は素直に驚きそれを隠さない。
 コロコロと変わる天国の表情を満足そうに見下ろし、牛尾は天国の唇へと己の人差し指をそっと押し宛てた。
「他にみんなには、内緒だよ」
 どこまでも優しい笑みで囁かれ、天国は反論出来ぬまま頷いた。

*

 昼休憩。暑さも盛りで、日陰に皆してこぞって集まり弁当、もしくはコンビニで購入した食糧を各々広げる時間帯。
 今日は母が持たせてくれた弁当があって、天国はグラウンド端のひときわ大きな木の根本で中身を楽しみに蓋を開けた。二段重ねの大きな弁当箱、一段目には白飯がてんこ盛りにギュウギュウ詰めにされ、真ん中にちょこんと赤い梅干しが埋め込まれている。二段目にはおかず。熱さで傷んでしまわぬよう、なるべく火を通したものを中心に栄養バランスもある程度考えられているメニューに、母への感謝を心に浮かべながら両手を合わせた。
「猿野君、隣良いっすか?」
 箸を持ち、早速食べようとしたところで足許に影が伸びてきて、顔を上げると同じような弁当箱を持った子津や兎丸たちがそこに立っていた。断る理由もなく、天国は了承の意味をかねて頷く。
「おう、一緒に食おうぜ」
 軽い調子で頷いて、天国は膝の屈伸運動で居場所を変え、場所を広げた。ぐるりと一本の木を囲む形で、野球部の一年生メンバーの半数近くが集まってしまった格好になる。
 けれどそれは大抵いつもの事なので、天国も特別気にも留めず自分の弁当に意識を集中させていた。さて、どれから食べようか……悩み、冷凍物なのだろうけれど好物に違いない海老フライからまずは食す事に決めた瞬間。
 横から伸びてきた手が、天国の狙い定めていた獲物をかっさらって行った。
「ぬあ!?」
「いっただき~」
 至極楽しげな調子で笑い、今天国から奪った海老フライを即座に口に運んだ兎丸が頬袋を上下させる。もぐもぐ、と数回咀嚼する動きに続き、小さな喉仏が膨らんだ直後に凹み、嚥下されてしまった事を天国は知る。一瞬の出来事につい反応しきれなかったが、兎丸のご馳走様、という言葉にぷちん、と何かが切れた。
「てめっ、スバガキ!」
「ガキじゃないもんっ」
 同い年なんだからその言い方は止めてよ、と叫んだ兎丸と天国の間で戦争が勃発しそうな勢いで、反対側に座っていた子津がやめましょう、と声を張り上げる。その更に隣に座っていた辰羅川が呆れた顔で眼鏡を持ち上げた。犬飼は我関せずの顔でもそもそと食パンを囓っている。
 まだ御立腹の様子さめやらない天国に、子津はやれやれと肩を竦めて溜息を零した。そして自分の弁当箱を開け、やけに今日は見栄えの良い中身をしているおかずの中から照り焼きのハンバーグを箸で摘んだ。それを、天国の弁当箱に押し込む。
「これで、我慢してくださいっす」
 控えめな笑みを浮かべる子津の優しさに、ささくれ立っていた天国の心がじーん、となった。感動を隠さないキラキラとした目で子津を見つめ、両手を結んで有難う、と何度も連呼する。
 一方の兎丸は、自分の右隣に座っている司馬の涼しい顔を恨めしげに見上げてから、自分が買ってきたコンビニの袋に手を突っ込んだ。がさがさと中身を探り、自分の食事以外のものを取りだす。
「はい」
 これ、あげる。そう言って彼が天国の膝の上にぶっきらぼうに置いたのは、天国が好きなチョコレート菓子だった。熱でも溶けないのに口の中では溶ける、という謳い文句がついている菓子で、他のチョコレートよりも少し値段が高めに設定されているものだからなかなか、貧乏学生には手を出しにくい一品でもあった。
「良いのか?」
 しかし確かこの菓子は兎丸も好物だったはずで、本当に貰っても良いのかと封も開けていない箱を振った天国だったけれど。兎丸は良いの、と一点張りで発言を撤回する様子はなかった。そのうちに本格的に拗ねてしまったらしい兎丸がサンドイッチを豪快に貪り始め、苦笑を漏らした天国も弁当に箸をつけ直す。
「んじゃ、これ食べ終わってから半分こ、な」
 俯き加減で食べている兎丸の頭をぽむ、と軽く叩きながら天国は笑って言った。
 直後、前触れなしに兎丸に脇腹から抱きつかれて箸で掴んでいた卵焼きが落ちてしまって、振り出しに戻る。
 今度は辰羅川からカレーコロッケの差し入れがあって、事なきを得る。
 犬飼だけが、もそもそとコーヒー牛乳で食パンを胃に押し流していた。

*

 夏場は夜7時を過ぎても、まだ外は充分に明るい。東の空から徐々に広がりつつある闇を背に、家路に向かうのはもう慣れた。
 昼間の熱気を未だ孕んでいるアスファルトを踏みしめ、土で汚れたスニーカーを引きずるようにしてゆっくりと歩く。チカチカ、と点灯を始めた街灯を見上げ、足許に落ちる影が色を薄くして行くのを見下ろし、天国は不意に立ち止まった。
 そのまま静かに振り帰る。すると、自分の真後ろ数メートル向こうを歩いていた人物もまた、同じように足を止めた。
 嫌でも目立つ高身、浅黒い肌に際立つ銀色の髪。不良ですか? と何も知らずに街で出会ったらそう聞いてしまいそうな風貌をした人物が、じっと見つめる天国の視線に居心地悪そうに身体を揺らした。
 なにかを言いたそうにしていながら、なにも言わずに口澱んで視線を泳がせている。暫く天国は立ち止まったまま待ったが、一分後にはまた身体の向きを戻して歩き出した。
 すると、案の定後ろの人物もつかず離れずの距離を保ちながらしっかりとついてくる。多分今駆け出しても追い掛けてくるのだろうな、と考えると溜息しか出なかった。
 重い鞄を背負い直し、練習後に猪里から分けてもらった田舎から直送して貰った野菜で作った、と言っていた野菜ジュースを思い出す。色味は悪かったが味はなかなかのもので、一発で気に入ってしまった天国は、事もあろうに二杯目を要求し明日も作ってきてくれるよう、強請ってしまった。
 更に、虎鉄からは身体が固いから、と柔軟を手伝って貰った上に筋肉の凝りをほぐすマッサージまでサービスして貰った。蛇神には守備練習をつきっきりでコーチして貰い、三象からはバッティングの時に効果的な力の運び方を教わった。鹿目には、多少は使えるようになったと褒められたのか貶されたのかいまいち分からない言葉をもらった。
 てく、てく、てく。
 かつ、かつ、かつ。
 ふたり分の足音が人気の少ない住宅地の間をすり抜けていく。交差点で信号にぶつかっても、しっかり距離を守って近付いて来ない彼の徹底ぶりはいっそ呆れを通り越して感心してしまいそうで、天国はふぅ、と息を吐いた。
 家まで、あと数百メートル。そろそろ遠目に自分の家の屋根が識別出来そうな距離になっていて、ちらりと視線だけで後ろを窺うと、やはり彼は最初から変わらない距離を保ったままゆっくりと歩いていた。
 まったく、と分からない程度で肩を竦める。家まであと百メートルを切った。早くしないと追いつけなくなるかもしれないのに、彼は一向に動く気配がない。いっそ意地悪でこのまま逃げてしまおうか、そんな事を色々と考え巡らせているうちに本当に、家の門前まで辿り着いてしまった。
 外からでも見えるリビングの窓から明かりが漏れている。カーテンが引かれているので中まではちゃんと見えないけれど、人影が動いていたからきっと父親も帰っているに違いない。キィ、と控えめに閉じられている門を押し開けて僅かな段差を登る。
 後ろで、呼吸する音が聞こえた。
 段差の上に立ち、門を閉める動作と一緒になって身体ごと振り返る。ようやく距離を詰め終えた彼との視線の高さの差が、ほんの少しだけ埋まっていた。
「ストーカー?」
「……うっせぇ」
 人の家まで何も言わずについてきたくせに、しかも下手でばればれな尾行で。軽くバカにしたように笑い飛ばしてやると、犬飼は不服そうに言い返しそっぽを向いた。また黙り込む。
 口べたなのは知っている、あまりたくさん喋ることが好きでないことも。
 でも、だからと言って言いたいことを言わずにいるのも、結構辛いことじゃないだろうかと思う。俺は言いたいことは考え無しに言っちまうからな、と犬飼を見つめながら天国は考える。
「あ、そう。んじゃ俺は帰るし」
 と言っても、玄関はすぐそこだ。間違っても寄って行け、とは言ってやらない天国がふわりと笑って踵を返すのを見て、犬飼は慌てて手を伸ばした。
 けれど門越しになった事や、天国がするりと躱してしまった事もあって彼の手は、虚空を滑り結局届く事がなかった。引き戻されていく腕と相まって、彼の視線もまた沈んで行ってしまう。
「あ……」
 言いかけた言葉が、続かない。喉元まで出てきているのに再び呑み込んでしまった彼の銀色い頭を、家の中から溢れてくる光の中で見つめ、天国は幾度目か知れない嘆息を零した
「じゃーな」
 いい加減不毛な会話を終了させて、夕飯にありつきたいのだけれど。空腹を正直に訴えかけてくる腹に片手を置いて、ぶっきらぼうに別れの言葉を口に出した天国に対し、犬飼が弾かれたように顔を上げた。
「お前」
 今日……、と。
 そこまで言って置いて犬飼の台詞がまた止まった。言いにくそうに、口元に手をやって表情を懸命に探している彼をこれ以上苛めるのも、かわいそうかもしれない。ふとそう思った。
 こちらとしても、空腹だし。眠いし。シャワーも早く浴びたいし。 
 ぽりぽりと頭を掻いて、色々と考え倦ねた結果、最終的な結論として自分から折れてやるしかないと導き出された。
 大人しく待っているだけなんて、性じゃないし。
 だから、笑って言ってやった。
「テメーなんかに祝ってもらったって、嬉しくなんかねーっての。んじゃな!」
 言葉だけを乱暴に、けれど彼の言いたい事だけはちゃんと分かっている。彼も、自分も、面と向かってこういう事を言い合えるような性格をしていないから。
 今は笑って、全部誤魔化してしまう自分は卑怯かもしれない。
「けっ。こっちだって頼まれたってお断りだ」
 吐き捨てるように、あ、今コイツ本気で唾吐きやがった。暗がりで見えづらい犬飼の台詞と態度に少々むかつきを覚えたりはしたが、それはそれで、いつもの事、だし。
 憎まれ口を叩き合って、それからお互いに顔を見合わせ合って、笑って。
 軽く手を振って天国は玄関を開ける。犬飼は踵を返し、夜の住宅街をまた歩き出した。

*

「疲れたー」
 荷物を置きに一度部屋に戻った天国は、鞄を下ろすと同時に敷いたままだった蒲団の上にぼすん、と倒れ込んだ。頭が着地した反動で足が浮き上がり、それも収まると愛おしげに枕に頬を擦り寄せてズボンの後ろポケットから固い触感を引っ張り出した。
 ごてごてとした、キーホルダー付きストラップが無駄に大量にぶら下がっている。その分重いのだけれど、ひとつずつに色々な思い出が残っているものだから、外すに外せない。
 その中でも、特に真新しい今日貰ったばかりのストラップを見つけて指ではじきとばす。眠そうな顔をした羊の飾りが跳ね上がった。
 一体あのヒゲオヤジはこんな可愛らしいものを、どんな顔をして買ったのだろうかと想像して、不気味なものを感じつつおかしくて笑ってしまう。
 寝返りを打った天国は、そのまま二つ折りの携帯を広げてメール送信画面を呼び出した。メモリに登録されている番号から、手早く目的の人物を見つけだす。
 階下から母の、夕食だと呼ぶ声が飛んできて今行く、と返事をしながら大慌てでメッセージを打ち込んだ。短く、たったひとことだけ。
 今日はありがとう、と。
 いつもと大差ないけれど、いつもより少しだけ嬉しさを感じられた一日だった。その中でも、特に「彼」との触れ合いが一番、嬉しかったから。
 面と向かって言えなかったお礼を、電子処理されたことばに頼って返したかった。
 ばたばたと着替え、天国は汚れ物を掴んで階段を駆け下りた。その後方で、部屋に置き忘れられた携帯電話から着信のメロディが静かに流れ、そして止まった。
 開きっぱなしの携帯画面に表示された、こちらこそ、というタイトルがつけられたメールの送信者は……

02年7月末脱稿