空駈ける風の声に

 自分が沢山のことを同時に出来るほど器用な人間ではないことくらい、もう十五年とちょっと生きているわけだからいい加減、分かっていた。
 自分の失敗を素直に自分の所為だと認めて、相手の顔を真正面から見つめて謝罪の言葉を口に出来るほど、素直で正直な自分では無いことも、分かっていた。
 全部、分かっている。
 自分が悪いって事。みんなが非難して、糾弾して、けれどそうされる程に自分が突っぱねて余計に謝る機会を見失ってしまう、不器用な人間だって事くらい。
 このオレ自身がなにより、よく分かってる。
 言われなくても、ちゃんと分かってるよ。けど、どうしようもないくらいにオレのこの性格は板に付いてしまっていて。
 せいぜい、背中を向けたまま自分の失敗は自分で取り返すと、格好つけるのが精いっぱいだって事も。
 失敗は、取り返す。オレのバッドで。
 オレにはそれしかなくて、本当にそれ以外にみんなへ返してやれる事が見当たらないから。
 それくらいしか、出来ないから。
 分かってるんだ、本当はオレみたいな奴がこの場所に立って居ちゃいけないって事くらい。みんな一所懸命で、勿論オレだって頑張ってるけれど、それでも追いつけないくらいにみんなは今までの沢山の時間を野球に費やしてきた。オレが莫迦みたいにはしゃいで、無駄にしてきた時間をみんなは野球ってスポーツひとつに賭けてきてるんだから。
 今更追いつけるだなんて虫の良い話し、考えた事はない。
 ただ今は、みんなと少しでも肩を並べられる位置に辿り着ける事だけを、目指してきた。
 オレにはバッドしかなくて、バッドを振り回してボールに当てて、それをスタンドへ放り込むだけの事しか出来ないから。それで少しでもみんなが喜んでくれるのなら……。
 ああ、違うな。
 オレ、嬉しかったんだ。あの入部試験の最後で、ギリギリの緊張感を突き破った一打を叩き出した後。塁を回ってホームベースへ戻ってきたオレを迎え入れてくれたみんなの顔がもの凄く嬉しそうで、楽しそうだったから。
 こんなオレをあんな顔で迎えてくれる奴らが居るって事が、オレ自身もの凄く意外で、だからこそ嬉しかったんだと思う。
 結局はそうなんだ、自己満足。
 オレが周りに認めてもらえるなら、何だって良かったんだろう。たまたまその手段が野球だったってだけ、で。
 空を、見上げてみた。
 嫌になるくらいに晴れ渡って、頭上を遮るものなんかどこにもない。
 視線を戻す、土のグラウンドはみんなが駆け回り、スライディングを繰り返したりした所為であちこちが色を変えて抉れていたりする。それはベースの周辺では特に顕著で、オレは黙ったまま間近にあるファーストベースを見下ろした。
 出塁した選手がまず一番に踏む、そのベース。
 誰もがこの場所へ真っ先に到達しようとして、懸命にバッドを振り回し恥も忘れて駆け込んで来る。ここを通過しないことには、誰もホームへ戻ることなんて出来ない。
 そして野球ってやつは、ホームベースへ戻って得点を重ねない限り、永遠に終わりが訪れないゲームなんだ。
 ホームベースは、スタート地点であり同時にゴール地点だ。ファーストはその一番目の経由地。オレは、そんな場所を守っている。
 野球で一番重要なポジションは、どこだ?
 打席に立つバッターを三振に仕留めるピッチャーか? そのピッチャーをリードして、尚かつゴールを守る最後の砦たるキャッチャーか? 
 違う、差なんかない。みんなみんな、自分が守っている場所を一所懸命に守っている、どこかを突破されればそれで終わる、なんて場所は何処にもないんだ。逆を言えば、
どこを突破されても致命傷になりかねない。
 外側から眺めているときは、ただ突っ立っていればいいだけだと思っていたものが実際に内側に入ってみると、決して楽な物ではないことを教えられた。ファーストは、簡単に見えて辛い。
 オレに、なにが出来るだろう。
 オレは、何をしてやれるだろう。
 ここに居て良いのだろうか、時々思う。こんな風に試合中、何度も青空を見上げながらグラウンドの広さを思い知る。
 この土の大地の上で、オレは限りなく、誰よりも小さくて頼りない存在なんだと知らされる。
 オレはグローブのはまっていない手を握りしめた。カラカラに乾いた空気が、拳の間からするりと逃げて行く。照りつける太陽は眩しくて熱かったけれど、そんな事にかまけてなど居られなかった。
 まだ真新しさが抜けないグローブを広げ、その中に握りしめた拳をたたき込んだ。
 視線を巡らせ、マウンド上でひとり孤独に耐えながら立っている子津の背中を見つめた。アイツに言った言葉は、嘘にしたくない。
 オレ達は一緒に入部試験の日に奇跡の大逆転を演出しあった仲間だろう? こんなトコでつまんなく負けてっちまうような、軟弱な気持ちで野球やってるんじゃないんだろう?
 負けるなよ、子津。オレも絶対、取り返すから。
 次の打席、オレの奇跡をもう一度見せてやるよ。だから、頑張れよな、子津。
 ふぅ、と息を吐き出す。ゆっくりとセットポジションに入った子津の向こう側で、腰を落とし気味に構えを作る司馬の姿が見えた。
 相変わらず無表情で、サングラスの奧の瞳がどこを見ているのかはこの場所からじゃ全然見えない。
 あいつにも悪いことをした。オレは結局、司馬の奴に謝ることが出来なかったわけだし。気にしてる……よな、やっぱり。この回が終わったら、打席に向かう前にちゃんと謝ろう。じゃないとすっきりした気持ちで打席になんか立てない。
 折角あいつの十八番である守備で良いところを見せてくれたのに、それにオレが応えられなかった。本気で、悪いと思ってるんだ。
 けれどオレって奴は、そんな風に分かっていても周りから矢継ぎ早に責め立てられて言い訳を封じられると、余計に言いたいこととは逆の事ばっかり口にしちまって本音を隠しちゃって、それで結局喧嘩したままお別れ、なんつーことが何度もあった。
 沢松の奴はいい加減長いつきあいだから、オレの性格とか全部知られてる所為でまだ見限られてないけれど。他の奴ら、野球部の連中とかは知りあってまだひと月しか経ってないわけで。直さなくちゃって思ってる性格も、どうしようもないままだし。
 いつみんなから完全に見限られて、嫌われるのか内心びくびくしてるオレがココにいる。
 みんな知らないだろ、オレって案外小心者なんだぜ?
 はーっと吐き出した息が風に押し流されてどこかへ飛んでいった。攫われていく吐息の行方を確かめていたら、オレの視線に気付いていたらしい司馬がサングラス越しにファーストの方をじっと見つめて立っていた。
 いや、勿論今は試合中だからアイツに限ってオレに意識取られるような莫迦な事はしていないはず、なんだろうけれど。
 気がついた時には、アイツはオレを見ていて。
 ガラにもなく照れながら、居心地悪そうにオレは辰羅川の方へ視線を流してしまった。
 頼むから封じ込めてくれよ、子津。そう切に祈る。そんな傍らで、しっかりとショートポジションへ目を向けてオレは、またばっちり司馬と視線をぶつからせたように、感じた。
 もともとアイツってばサングラスを掛けっぱなしだから、どこを見てるのかさっぱりだ。だからひょっとしたら自意識過剰なオレの思いこみなのかもしれないけれど。
 司馬は、オレを見てる。オレの事、気にしてる。
 オレが謝りたくて、出来なかった事……もしかして、ばれてるのかな?
 そんな事を考えながら、話しかけたくても出来ない状況を呪いたくなった。側に駆け寄る事も出来ない、オレはこのファーストベースを死守しなくちゃいけないんだから。
 今度アイツが投げはなったボールは、絶対に受け止めてみせると誓い直す。同じミスは二度として堪るもんか、辰羅川にだってこれ以上余計な心配やフォローをさせるわけにはいかない。
 みんな勝ちたいんだ、負けたくないんだ。
 だから必死なんだ。
 オレも、負けたくない。
 青空が心に染み渡る。不思議に喧噪が遠く感じられた。
 視界の片隅で、ベンチに座る不機嫌そうな奴が見える。胸の前で両腕を組んで、司馬に負けないくらいの無表情さの中にマウンドに立つことが出来ない状況に苛立ちを隠せないでいる、アイツ。
 そうだ、犬飼だってまだ投げてない。
 あいつがマウンドに立つときは本当に、子津がどうしようもなくダメになった時だろう。子津には最後まで頑張ってもらって、九回まで投げさせてやりたい気持ちはでかいけれど。
 でも。
 やっぱりオレ、犬飼の野郎が投げてるトコもちゃんと見たい、かな?
 あ、悪い子津。お前がさっさとダウンしちまえとか、そういう意味じゃ決してないからな? 違うから拗ねんなよ?
 聞こえても居ないだろうオレの心の声に、思わず子津の背中へと謝罪してしまってからオレは改めてバッターボックスの打者に目をやる。
 今一番、オレが追いついて追い抜かすべき相手がそこに立っている。
 色々と認めたくない部分が多い先輩だけれど、純粋の野球選手ってところだけを抜き取って考えれば、素直に凄いって認めても構わない人、だ。悔しいことにあの人は、それだけの実力を持っている。
 だからこそ、オレはあの人が目下の目標であり、追い抜くべきライバルだから。
 負けない、絶対。
 もう一度握り拳をグローブに叩き込んだ。
「っしゃぁ!」
 唐突な威勢のいい掛け声に、隣のポジションであるセカンドを守っている兎丸がびくっ、と肩を震わせた。
「スバガキ、つまんねーミスなんかするんじゃねーぞ!?」
「んもう。急にどうしたのかと思えば……それは、お猿の兄ちゃん自分の事じゃないの?」
「うっせぇ。とにかく、ぜってーに、この回は零点で終わらせるからな!」
 ツーアウト、ランナー二塁。バッターは雄軍の三番打者、クリーンナップの一番手を飾る虎鉄。彼を塁に出してしまっては、次に待ちかまえるのは四番、牛尾。
 絶対に彼まで回してはならないという意識は、グラウンドに散った九人の一年生全員が感じている事だろう。だからなんとしてでも、虎鉄は打ち取っておかなければならない。
 オレの叫び声に兎丸はやれやれと肩を竦めながらも、しっかりと頷いて返してくれた。見れば、ショートの司馬もまた同じように、真っ直ぐにオレを見つめながら頷いている。
 子津が苦笑しながら、手の中のボールを握りなおした。辰羅川がキャッチャーミットを構えた。
「ちっ」
 ベンチ上で、ひとりぽっちの犬飼が舌打ちをする。
 オレは、笑っていた。
 握りしめていた拳を開く。指の隙間を風が流れていった。
 どこまでも澄んだ蒼が、邪魔者の居ない天空に広がっている。
 オレは顔を上げて深呼吸をした。
「ぜってーに、勝つ!」
 力いっぱいに叫ぶ。
「「「おう!!!」」」
 グラウンドに、青臭い声が響き渡った。

02年5月21日脱稿