幸せについて本気出して考えてみた

 いつの間にか慣れてしまった空間で、沈黙を破るテレビのスイッチを入れる。
 日が長くなったとは言え、この時間帯では外も暗さを増している。街中なので光が途絶え暗やみに沈むことは無いとは言え、心細く灯る街灯だけの道をひとりで行くのは寂しいと感じさせてくれる。
 そんな時間に、家にも帰らず他者の敷居を跨いでのうのうと、テレビを見つめる。しかも膝の上に抱き込んで両腕で挟み込み、顎を預けてくつろぎたい所為を整えるのに使用されているのはこの家の住人が愛用しているオレンジ色のクッションだ。楕円形のそれは丁度立てれば、膝の上から背を伸ばしても顎を置いて疲れない大きさをしている。
 テレビから流れ出す少し騒々しい歓声を聞きながら、ブラウン管に見入る。画面上ではバッターボックスに立つ選手がズームアップで映し出されており、彼はバッドの構えに入るところだった。
 実況中継が入り、その選手のコメントに続き今まさにセットアップに入った投手の説明に入った。解説役の元プロ選手へコメントを仰いでいるうちに、画面では投手がキャッチャーミット目掛けて硬球を投げ放つ。
 さすがに“ズドン”とは言わなかったが、かなり良い感じで球はスピードに乗っていた。素人目にもそう映ったのだから、バッターボックスに立つ選手にはもっと良い感じで映ったことだろう。現に実況も、そんな感じのコメントをやかましく早口に捲し立てていた。
 今日のこの投手は中五日であり、良い具合に調子も上がってきている。おまけに後方支援もばっちりであり、曰く。
 今日は負ける理由がないひとつない、と。
 それは褒めすぎだろう、とクッションに顎を沈めながら聞いていると右頬にひんやりとしたものが触れた。
「んあ?」
 顔を上げて視線を持ち上げると、後方から前方へ回り込んできたそいつが氷の入った麦茶のグラスを差し出した。しかも無言で。
「サンキュー」
 軽い調子で礼を言って受け取り、冷たい水滴をグラスいっぱいに滴らせている麦茶をひとくち喉に押し流す。かなりひんやりとした感覚が口の中から胃の中へ流れ落ちていき、アイスを食べたときのようなきーんとした感じが脳天を刺激する。
 けれどこの冷たさが、放課後の部活を終えて疲れ、火照っていた身体にはちょうど良い具合だ。
「面白いか」
 斜め向かいのソファに腰を下ろしたそいつが、俺の見ていた画面を自分も眺めて呟く。ブラウン管の中では、直球勝負で三振を取った投手が小さくガッツポーズを作る光景を映し出していた。どうやらまだ五回表であるに関わらず、三振の数がこれで八を数えるらしい。頭の中で、最終的には片手も使って計算する俺に、横から、
「十五人中、八人だ」
 手厳しいツッコミが入り、それくらい俺だって分かるっての、と本当は計算が終了していなかった事実を隠して俺は舌を出した。そのまま水滴で濡れた右手を傾け、グラスの麦茶を煽る。
 ごくり、と喉が大きく上下した。
「おばさんは?」
「同窓会」
「ふーん」
 リビングを見回して尋ねるが、単語だけの返事に折角広げようとした会話はそこで終了。新しい話題を振る気分にもなれず、俺はグラスを両手に持ったままやや前傾姿勢になってソファの上からテレビを見つめた。
 スリーアウトチェンジの後に挟まれたCMが終了して、五回裏の攻撃が始まろうとしていた。そして先頭打者が第一球をセンター前に弾き返す。
 効果音を附属させたら「カキーン」となるだろう、見ていてもナイスバッティング、と唸りたくなるような腰の回転と巧く球をバッドに合わせた打ち方を、解説者が頻りに褒め称えている。思わず解説の言葉ひとつに頷いてしまい、俺はふと、視線を感じて斜め前を見た。
「なんだよ」
「面白いのか」
 野球をやる者として、プロ野球を観戦して(テレビだけど)何が悪いのか、とこちらの方が聞きたくなった。それくらいに興味なさそうに、テレビではなく俺の方ばかりを見ているそいつに首を捻り、俺はとりあえず頷いておいた。
 本当は、あまり興味がなかった。けれど参考になるプレイもあるからと、先輩方に強く勧められて最近は見るようになった。御陰でバラエティが見られなくなってしまったけれど、確かに野球が分かるようになれば見ているとそこそこ、プロ野球も面白い。外野スタンドで応援機を振り回している人の気分も、少し分かるようになった。
 多分俺は、そこまで熱中出来ないだろうけれど……。
 俺は初心者で、野球は素人だけれど、でもこいつはそうじゃない。だからプロ野球は試合があれば必ず見ているだろうと今まで思っていたのに、違うのだろうか。首を傾げている俺に、そいつは見られてることに気まずさを覚えたのか視線を逸らす。
 なんだよ、一体。
 俺はグラスの氷が溶け始めた麦茶をふたくち喉に流した。画面はいつの間にか、ワンアウトだけれど一、三塁とチャンスが巡っていた。マウンドのピッチャーは紺色の帽子を被り直し、深呼吸を繰り返している。
 ベンチの動く気配はありませんね、と実況が誰に言うとも無しに呟く。打順は、タイミング良く四番打者に巡ってきていた。
「面白いのか?」
「当たり前だろ」
 緊張の一瞬である、ここで勝負が決まるかも知れない。今守備についているチームは再三ピンチを迎えてきていたものの、悉く凌いできたのだ。今日三度目のピンチを無失点で抑えられるか否かで、今日の勝敗の行く末が決定されかねない状況である。
 思わずグラスを持つ手に力が籠もる俺を尻目に、あいつは涼しい顔をして俺から画面へ視線を移した。
 直球、球速は138キロを記録した球が直後に打ち返された。球は高く上がり、センターが落下地点へと走る。三塁走者がタッチアップ体勢に入るのが画面左端に、小さく映し出された。
「行け!」
 つい叫んでしまった俺の前で、まるで俺の声を合図にしたかのようにセンターがフライをキャッチ、そして三塁走者が駆け出す。センターからの返球はショートでカットされるだけだった。一塁走者はそのまま塁に釘付けにされたけれど、一点が奪われて均衡が崩れた。
「よっしゃ!」
 また短く俺は叫んだ。
「面白いのか?」
 また、問われる。いい加減にしつこいと睨みを利かせた俺に、しかしこいつは平然と受け流して、それから画面を指さして言った。
「お前、今負けてる方のファンじゃなかったのか」
「あ」
 指摘されてから気付き、俺は顎を外しそうな間抜けな顔を作った。ぷっ、とそれを見てあいつが笑う。
「バカじゃねーの?」
「うっせぇよ!」
 恥ずかしさを紛らわせようとして大声で叫び、俺は麦茶をグラスに残っていた分、一気に飲み干した。氷の隙間に残った茶以外は胃に押し流し、乱暴にソファ前のテーブルにグラスを置く。
 力任せの動作に家主のあいつは渋い顔をしたけれど、それ以上は何も言わなかった。単にまだ笑っていて、喋るのが辛かっただけかもしれないけれど。
「ちぇ」
 舌打ちし、俺は膝の上に頬杖を付いてまた画面に見入る。
 一点が加わった後の打者は内野ゴロで凡退し、六回表に入る前にまたCMが挟まれる。乗用車のCMにビールのCM、生命保険と続き、ようやく野球場の近影が映し出された。
 マウンドでは、目深に帽子を被った投手が一点貰い、さっきよりも更に落ちついた調子でボールを手で扱っていた。打者がバッターボックスに入り、構える。
 今日はいくつの奪三振記録を作るだろう、と実況がやや興奮気味に喋る前で、カーブが投げ込まれた。打者のバッドは虚しく空を切り、ストライクが宣告された。
「あ~、畜生」
 自分が今攻撃に入っているチームの応援者だと言うことを思い出してからは、俺はなるべく打者に打て、打て、と心の中で願うように心がけた。
 しかしそれ以上に、今投げている奴が格好良いのだ、とにかく。
 まだプロになってから二年目か三年目かだとさっき実況が言っていた。高卒でプロ入りしたらしいから、まだ二十歳そこそこなのに自分の倍以上をプロで過ごしている選手から、ばんばん三振を奪っている。
 これを格好良いと思わずして、どう思うのか。
 結局いつの間にかピッチャーを応援してしまっている俺は、自分の中で、チームとして応援してるんじゃなくてこの投手個人を応援しているだけだ、と折り合いをつけて素直に声援を送ることにした。しかし途端に、あいつがソファの上でふてくされたような顔をしてそっぽを向いた。
 空になったグラスの中で氷が溶け、カラン、と音を立てた。
「犬飼?」
 あまりに不自然なあいつの態度に、俺は首を捻って名前を呼んだ。俺の分と自分の分、麦茶のグラスはテーブルにふたつ並んでいるのにあいつの分は、ちっとも嵩が減っていない。氷が溶けてかなり水っぽくなってしまっているそれに目をやって、俺は手を伸ばした。
「貰うぜ?」
 飲む気がないのなら、と問いかけるが返事はなかった。仕方なく無返事を了承の意味と受け止め、俺はテーブルの上でグラスを動かす。水滴がテーブルの透明な板の上に散りばめられる。
 テレビ上からわっという歓声が上がり、直後に実況の本日九個目の三振、と鼻息混じりのコメントが寄せられた。解説者もひたすら、凄いですねと繰り返している。
「凄いよな」
 俺もつい、グラスを手で遊ばせながら呟いた。
 あいつの眉間に皺が寄る。それを見て、漸く、なんとなくだけれど、あいつの不機嫌の理由が分かった気がした。
 もしかしたら、と思って俺はカマを掛けるつもりで更にことばを重ねてみた。テレビを見ているような素振りで、実のところはあいつを観察しながら。
「このピッチャー、まだ若いのにもうエース級なんだってさ」
 ぴくり、とあいつの片眉が持ちあがった。
「他にもベテランは沢山居るのに、それを押しのけての登板なんだろ?」
 ぴくぴくと、あいつの顔が不機嫌さに拍車をかけて歪んでいく。
「しかも高校からいきなりプロ入りで連続開幕一軍なんだろう? カッコイイよな、さすがだよな」
 ぴくぴく、ぴく。
 腕組みをして必死に抑え込もうとしているのが、見ている方にも嫌というくらい伝わってくる。痩せ我慢は得意じゃないクセに、いじらしいというか莫迦らしいというか。
 俺は含み笑いをして、トドメのヒトコトを口に出した。少し言い過ぎだろうかとは思ったけれど、別に、構わないし。
 これしきでダメになるような奴なんかには、興味ないし、俺。
「誰かサンとは、大違いだな」
 ふっ、とテレビ画面はまだ着いたままで実況も忙しなく続いているはずなのに、空間から音が消えた気がした。勿論俺の錯覚だろうけれど、一瞬にしてこの場の雰囲気が変化した事には違いない。
 あいつがやや剣呑な顔をして俺を見た。
「なんだって……?」
「別にお前のことだなんて、俺はヒトコトも言ってないぜ?」
 にやりと笑い、俺はグラスの中の氷を揺らした。カラカラと音を立てるそれは、まるで俺の代わりに笑っているようでもあった。
 不機嫌さに輪をかけたあいつが俺を睨む。しかし言われて直ぐに自分のことだと了解したあいつは、その分少しは自覚しているのだろう。
 上級生を押しのけてまで十二支高校の野球部でエースナンバーを取れないでいる自分の、何が足りないのか。
「じゃ、お前はこのピッチャーよりも凄いのか?」
 怒る前に、身の程を知れと俺は笑いながら、けれど目は笑わずに言ってやった。ソファから腰を浮かせて立ち上がろうとしていたあいつは、けれど数秒後考え直したらしく再びクッションに背中を預ける。
 返事はなく、俺は重ねてもう一度問いかけてやった。意地悪だろうか?
「お前は、この人より凄いピッチャーなのか?」
 高校野球の部内エースにもなれない奴が、プロの舞台で活躍している人よりも凄いはずは、絶対に無い。けれど、でも、否定して見せろよ。心の中で俺は呟いている。俺は絶対に、誰も文句の言えないような投手になるんだと、言ってのけてみせろよ。
 そういしたら、少しは見直してやるよ、お前のこと。
 あいつはふーっと、長く息を吐きだした。気怠そうに腕を持ち上げ、前髪を掻き上げる。
 銀色の髪の毛が、浅黒い肌の上をはらはらと舞い散っていった。なんだよ、こんな時にカッコつけてどうするよ。
 俺しか見てないんだぜ?
 テレビ画面の野球中継は、いつの間にか七回の表に入っていた。未だに得点は動かず、最小点差でゲームは続いている。奪三振記録も、着々と積み重ねられているらしい。
 一点差なんて、ホームランが出れば簡単に追いつける、もしくは逆転できる点差だ。けれどその一点をもぎ取ろうとして、ベテラン選手が悉く若手投手に翻弄されている。
 確かにうちの野球部の上級生は凄い、みんな個性があって特徴があって、天性の才能以外でもちゃんと練習を重ねて努力している。だから俺も負けていられないと思わされてやる気になれる。
 でもそれ以上に、同じ学年のみんなが俺よりも頑張って、レギュラーポジション奪取を目指して練習しているから。俺だけ置いて行かれるなんていう格好悪くて情けない事だけは御免だと、躍起にもなる。
 なあ、俺にもっと夢見させてくれよ。
 俺のやる気に火をつけてみせろよ。
 言えよ、お前の言葉で。お前の口から、負けないって、言ってみせろよ。それを実現させるだけの力を見せてくれよ。
 俺の、目の前で。
 あいつは溜息を零した。さっきよりも深くて長い溜息だった。
「バカ猿」
「んだとぉ!?」
 俺の叫びが画面中の打者の、セカンドフライに終わる音と重なり合う。場内の観客が一斉に諦めに似た吐息を漏らす中で、あいつはいやらしくも、不遜な態度で笑いやがった。
「俺を誰だと思ってんだ?」
「犬っころだろ」
「言ってろ、猿」
 即座に切り返した俺の言葉を鼻で笑い飛ばし、あいつは口元を歪めて顎を上げ、尊大な態度で俺を見下ろした。悔しいが、座っていても座高のある分あいつの方が、俺よりも遙かにでかい。
「俺はいずれ、世界を制してやるさ」
「ほー。……言ってろ、バカ」
 自分を親指で指し示して言ってのけたあいつに、俺は冷淡な口調で返す。他にコメントのしようが無かった俺は、けれど意志に反して顔は笑っていたらしい。
「ばっかじゃねぇ?」
「俺は日本なんかで収まりきるタマじゃねーって事だ」
「テメ、これ以上でっかくなってどうする気だ!」
「そっちじゃねぇ!!」
 すぱこーん、と履いていたスリッパで頭を殴られた俺だったけれど、不思議に悪い気分にはならなかった。けたたましく笑う、二点目となるホームランをはじき出した打者を包み込む歓声も室内から掻き消される程に。
 庭先で鎖に繋がれている犬が数回吠える。ピンポーンという呼び鈴が鳴り響き、まだしつこく俺にちょっかいをかけていたあいつが途端に、舌打ちして顔を上げた。
「親父だ」
「じゃ、俺は帰るな」
 結局何しに来たんだか分からなかったけれど、退屈はしなかった。疲れた身体を休めるという目的は達成出来たわけだし、それに加えて少し楽しませてもらったから、悪くはない。
 床の上の鞄を拾い、立ち上がった俺を見てあいつはつまらなさそうに顔を歪める。そんな顔するなよ、と言おうとしたけれど立て続けに呼び鈴が鳴り響いて、早く開けろと急かす人が邪魔をした。
「また明日な」
「ああ」
 ぱたぱたとスリッパをならしてフローリングを滑るように歩く。さほど広くも狭くもない一戸建ての玄関で靴に履き替え、鍵を開けると雪崩れ込むようにほろ酔い気味のスーツなオジサマが入ってきた。入れ違いで、俺は外に出る。
 夏も近いけれど、半袖だと夜の空気は若干冷える。一瞬肌を竦ませた俺に、あいつは父親を受け止めて玄関に寝かせたあと追い掛けて門のトコまで出て来やがった。
「猿野!」
「んあ?」
 そのまま帰るつもりだった俺は、呼び止められて門の前で振り返る。道路とは少しだけ段差がある門の手前で、あいつは母親のものらしき小さなサンダルに足を突っ込んで立っていた。
「バイバイ」
「俺、さっきの冗談のつもりはないからな!」
 別れの言葉が欲しかったのかと早合点した俺がひらひらと手を振る前で、あいつは暗やみの中、それでも分かるくらいに顔を赤くして叫んだ。ぽかんと口を開けて呆気に取られる俺を見下ろし、コホン、と咳払いをひとつして。
「今、決めた。とりあえず、それだけだ」
 また明日、遅れるなよ。
 そう言い残し、あいつは俺に返事をさせる間も与えず家の中へ戻っていってしまった。わん、と犬小屋の手前でトリアエズがひと声鳴いた。
「なんだよそれ……」
 くっ、と喉を鳴らして俺は笑う。噛み殺した息を飲み込み、俺は寒気も忘れて歩き出した。
「ばっかじゃねぇ?」
 呟く。顔は笑ったままで。
「ちくしょー。俺も負けてらんねぇか!」
 本格的な夏の訪れを前にして、俺は帰り道ひとり叫ぶ。
 この夜、あの投手は十三奪三振を達成して見事、今期九勝目を飾った。

02年4月26日脱稿