県立十二支高校には、色々と名物と呼べるものがある。
例えば二十年前に伝説のバッター、村中がホームランを直撃させて以来止まったままの校舎の大時計、とか。
女子更衣室に不気味な人影が現れて瞬時に消え去る、だとか。
何故か肉が入っていない食堂のカレーとか。
一部男子に群がる女子の壁、というものまである。
そして新年度を迎えた十二支高校に、新たな名物光景が加わろうとしていた。それは毎日のように、昼休みのベルと同時に開始される。
「きゃー! 犬飼君、待ってー!!」
例えるのならば黄色い歓声、と、悲鳴。あるいは絶叫、鼓膜を貫いて脳天を直撃する甲高い女子の叫び声が今日も、呆れかえる面々を尻目に校舎内の一角に響き渡った。
「お弁当受け取ってー!」
「逃げないでー!」
「待ってよ、犬飼君!」
口々に勝手なことを言い放ち、短距離走選手も顔負けの速度で、しかも制服のスカートがまくれ上がる事にもまるで構わず彼女たちは、ただひとつの目的のために廊下内を走り回っていた。
たったひとつの目的、即ち彼女たちが追いかける先にある背中へお手製の弁当を押しつける……もとい、手渡すという目的の為に。今まで一度として成功した試しがないというのに、飽きもせず今日こそは、と意気込み新たにして挑み続ける彼女たちには、ある意味尊敬と敬意を表したくもなる。
だけれど、こうも毎日追い回される立場にある人物にとってはそれは、決して喜ばしい事ではない。
ましてや、彼は女という存在が非常に苦手だった。
自分は静かに、好きなものを食べていたいだけなのに。別に誰かに好かれたいとか、そういう不純な動機で野球をやっているわけではないのに。
そもそも、こんな自分の一体何処を、彼女たちは気に入ったというのだろう。一度聞いてみたい気もするけれど、それを彼女たちに尋ねる為に立ち止まるのはある意味命取りになりかねない。二度と解放して貰えない気がする。
だからひたすら、彼は逃げる。
校舎内を、逃げ回る。
「あーあぁ、今日もやってら」
どたどたと騒音を巻き上げて廊下を一瞬にして走り去っていった見慣れた横顔に、天国は口に箸を咥え込んだまま呟いた。母お手製の巨大弁当箱も残りはあと半分となり、しかしたった三口でその量を更に半分へと減らした彼は顎を大きく上下させながら、続いて廊下を走っていく女子の姿に嘆息する。
そんな追い掛けっこを続けていて、貴重な昼休みを潰す奴らの気が知れない。
「ダンナも可哀想にねぇ……。ま、天国には一生縁がない光景だな」
向かいの席に腰を下ろし、椅子だけ天国の方に向けてひとつの机に弁当を並べながら箸を進めていた沢松が、カラカラと笑う。
「むっ」
「あ! てめ、オレの唐揚げ!」
けれど、その親友のひとことにかちんときた天国が空いていた箸で沢松の弁当から、彼が最後に食べようと大事に残して置いた唐揚げを奪い去った。沢松が短い声を上げる目の前で、天国はそれを口に放り込み、数回の咀嚼の後呑み込んだ。
見る間に沢松の顔が青くなり、そして赤くなる。
「天国! テメー、返せ! オレの唐揚げ!」
最後に食べようと楽しみに残して置いたのに、と怒鳴りながら沢松が天国の口を広げようと彼の頬と顎を挟み持った。しかし既に呑み込んだ後の天国は、べーっと舌を出してするりと彼の拘束からも逃れてしまう。
しかも素早く、神業的なスピードで自分の残っていた弁当を胃の中に掻き込み、ぱんっ! と両手を叩いてゴチソウサマ、のポーズ。
「あ~ま~く~に~?」
「あー、美味かった。ごっそさん」
ジト目で睨んでくる沢松を楽しげに笑って頭を叩き、天国はやはり素早い動きで弁当箱を片付けた。鞄の中に斜めに押し込んで椅子を引く。
「唐揚げ!」
「オレ様の前で隙を見せた貴様が悪い。んじゃな!」
行儀悪く人を箸で指し示して尚も叫ぶ沢松に、不遜に言い放って天国は自席を離れた。他にも数人、昼食を終えたクラスメイトが雑談する中を紛れ、教室の出口へと向かって歩き出す。
「どこ行くんだ?」
ちぇ、と舌打ちした沢松が最後に眦を細め、問いかける。扉を開けて教室を出ていこうとした天国が、一度そこで振り返った。
「ちっとそこまで」
彼が指さした先には、他にも幾つか教室が並ぶけれども天国が今一番行きそうな場所と言えば、トイレくらいしかない。
ああ、そう、ふーん。行ってらっしゃい。
最後の楽しみを奪われ、途端に空虚に感じられる弁当箱に視線を落とした沢松は恨めしげに天国の背中を見送って、梅干しが乗った白米を口の中に掻き込んだ。
窓の外は初夏の陽気、白いカーテンが時折吹き付ける風に貴婦人のスカートのように揺らめいてはためく。広いグラウンドでは何人かの生徒が、食後の運動なのだろう、バレーボールを持ち出して輪を作っていた。
遠く響いてくる歓声の中で、ふと眉根を寄せたくなるような異質な声が時折混じる。
カタン、と沢松は空になった弁当箱を今は主不在になっている天国の机の上に置いた。瞬間的に吹いた風に膨らんだカーテンを押しのけ、直ぐ横にある窓から真下を覗き込んだ。
「まだやってるよ……」
呆れ半分に呟き、弁当箱に蓋をしてそのまま机に肘をついて眼下を見下ろす。追い掛けられている本人の声は当然聞こえないが、特徴のある追い掛ける側の人間の叫び声は断続的に、校舎内に轟いているようだ。その反響具合によって、大まかに今どの辺りを彼が走っているのかを想像する。
多分、今は特別校舎棟のあたりか。
「大変だねぇ、犬飼の奴も」
誰かひとりに絞ってしまえば、こんな面倒な事にもならないだろうに。
そんな思考に思い至って、けれどふっ、と沢松は別の思考も同時に頭に浮かべてしまい犬飼を哀れむような、それでいてからかうような笑みを口元に浮かべた。
それが出来ないから、奴は今日も逃げ回っているのだという事実を思い出したからだ。
「なーににやついてんだ、スケベ」
「誰がだ、誰が」
「テメー以外に居るか?」
「お前にだけは言われたくないぜ」
いつの間に戻ってきたのだろう、頭上から降ってきた天国の声に心なしか驚いてしまった沢松は、けれど表面にそんな様子は一切出さず言葉を返す。普段からの悪言を用いたじゃれ合いに似たやりとりに、沢松は別の意味で苦笑する。
弁当箱を片付け、頬杖を付き直した彼は窓の外、未だ遠くから聞こえてくる黄色い歓声を顎でしゃくって指し示してやった。天国も席に座り直し、促されるまま窓の外を見やってうんざりといった顔を作る。
「まだ逃げ回ってんのか、ガングロ」
羨ましいけれど、同時に悔しい。自分は一度たりとも女の子からお弁当を貰った事なんてないし、自分があの立場だったら逃げもせず喜んで受け取ってその場で平らげる事だろう。
恵まれているくせに、それを全身で拒絶しているあの男。顔を思い出してしまい、慌てて首を振って頭の中から追い散らす天国を見やり、沢松はやれやれと肩を竦めた。
「いっそ、誰かとひっついちまえば面倒なくて済むのにな」
「え、あいつ好きな奴とかいんのか!?」
それは初耳だと、一応情報通を自称している(あくまで自称しているだけ)天国が机の上に両手を突っぱねらせ、沢松に叫んだ。両目が大きく見開き、驚きをそのまま顔で表現している。
「気になるのか?」
「へ? あ、いや……だってあいつ、全然女の子に興味ないみたいだし」
野球一直線野郎で、いけ好かない奴だとしか認識してこなかった天国にとっては、その犬飼に思い人が存在するという事自体、青天の霹靂である。今まで散々嫌味の応酬ばかりであるけれど、会話を多数こなしてきた自分にはひとことも、そんな発言をしてこなかった奴が。
それって、なんだか悔しい。
ような、気がする。
椅子に座り直し、飛び出していた両手も引っ込めた天国はいまいち自分でも理解しかねる今の自分の気持ちを落ち着けさせようと、改めて窓の外を眺めた。今度は下ではなく、上を。
もう犬飼を追い回す女子の声は聞こえなくなっていた。
喧噪がほんの少し遠ざかった気がして、ホッとする。今日も犬飼は無事、逃げおおせたらしい。
……無事に?
ハッとなり、天国は慌てて自分が今思い浮かべた単語を必死にうち消した。
自分は別に、犬飼がどうなろうと気にしないしどうだって良い。女子に捕まろうが逃げ仰せようが、結局自分に損得は訪れないわけだから関係ないはずだ。それなのに、今一瞬だけ、犬飼があの子たちに捕まらなくて良かったと、そう思ってしまった。
「天国?」
ぶんぶんと首を振り回している親友に怪訝な顔を向け、沢松は首を捻る。
「なんでもねー! それで、犬飼の奴が好きなのって……誰だ?」
まさか凪さんじゃあるまいな、とありもしない事を想像して叫び、天国は沢松の胸ぐらを机越しに掴んだ。自分の方へ引っ張り寄せ、顔を近づけて声を潜める。
で、本当のところどうなんだ?
何故そんなおどおどしているんだ? と沢松は聞きたい気分にさせられたが、それなりにナイーブな面を持ち合わせている幼なじみの心情を察し、軽く笑って首を振り否定してやった。
「安心しろよ、彼女じゃない」
予測の領域を抜けきれないで居るけれど、間違いなく鳥居凪ではないはずだ。そう告げた途端、天国の顔から緊張が抜け落ちていくのが見ていてはっきりと伝わってくる。だが直後、また天国の顔が引きつったものに変わった。
「じゃあ、誰だよ」
その、犬飼が好きだって言う女は。まさかあの暴力巨乳女や、縫いぐるみ抱きかかえた怪しい宗教やってそうな女じゃないだろな。
おおよそ本人が聞いたならパンチの一発や二発では済みそうにない暴言を小声で零し、天国は開きかけた沢松との距離を再び詰めた。ひそひそ声になってしまうのは、やはり少々ながらももみじに聞かれては殺されかねない、という事を理解しているからだろう。
沢松はふー、と長い息を吐き出す。と同時に身体を後ろに傾がせて椅子の背もたれに体重を半分預けた。オールバックで髪の毛を後ろに一括りにしているから、前髪などありはしないくせに髪を掻き上げる仕草だけをして、一緒に首を横に振る。
「違うと思うぜ」
恐らく、近くで犬飼を眺める機会がある人物の大方見当がつく、というか分かりそうなものであるのに。
「……オレの知ってる女か?」
可愛いと目星をつけた女子であれば大抵はチェック済みであり、顔も名前も知っている天国である。変なところにだけ記憶力が優れている幼なじみの顔を暫くじっと見つめ、沢松は眉間に皺を寄せた。
知っているも何も、知らない方が可笑しいだろうに。
「ま、報われてないみたいだけどな」
へっ、と鼻で笑い飛ばし沢松は肩を竦めて両手を広げた。
瞬間的に変化してしまった彼の台詞に、ついていけなかった天国は椅子を蹴り倒しそうな勢いで立ち上がって未だ背もたれに身体を預けきっている沢松に詰め寄った。しかし彼は一向に視線を合わせず、それ以上ヒントになりそうな事も言ってくれなかった。
天国の知る人物であるのかどうか、という問いかけにも結局、答えていない。
「それってどういう意味だよ」
「望み薄、って事に決まってんだろ?」
犬飼の思い人は、犬飼の気持ちにまったく気付かずに今日ものんびり楽しく過ごしているのです。改まったような口振りで、しかもその相手の事をしっかりと良く理解しているらしい沢松の言葉に、天国は顔を顰めた。
どうしてお前がそんな事に詳しいんだよ、と視線で問いかけると、彼は揺らしていた椅子を戻して座り直した。
「オレは情報通なんだよ」
誰かサンと違って、部活でしっかり活動しているもんだからその辺りのゴシップなんかにも、耳聡くなっちまうんだ。そう言いながら自分のこめかみを数回指で叩いてみせた沢松に、天国はふぅん、と生返事をひとつだけ送る。
「で、誰?」
この辺は純粋に興味の領域。再び声を潜めさせた天国だったが、丁度そのタイミングに予鈴を告げるチャイムが教室に響き渡った。
顔を見合わせ、それから揃って教室前方に据え付けられたスピーカーを眺めたふたりの耳に、ざわめきが一瞬止んでまた騒ぎ出した教室の生徒達の声が木霊する。沢松もまた、天国の机に置きっぱなしだった自分の弁当箱を掴み、椅子を引いた。もとよりその席は彼の席ではなく、授業が始まると同時に本来の持ち主に明け渡さなければならない。
逆向きにしていた椅子を正位置に戻した沢松は、食堂に行っていたらしい天国の前の席の住人であるクラスメイトに軽く手を振り、廊下側の前から三番目という自席へと戻っていった。休憩時間中は半分ほどに減っていた教室内の人口が、徐々に全員集合になりつつある。
天国は、取り残された子供のようになりながら机に突っ伏していた。
自分の机に座り、弁当箱を鞄に押し詰めて教科書を引き出しから取りだした沢松は、ちらりとそんな幼なじみの姿を確かめて肩を竦めた。あの様子では本気で、犬飼の思い人が誰であるのかに気付いていないようである。
もっとも、気付きそうになったなら自分が全力を挙げて阻止するつもりだけれど。
なにせ、幼なじみである。自慢ではないが、天国の事に関しては奴が今何を考えているのかさえ分かりそうなくらい、理解できているつもりだ。そして奴の思考回路がどういう順番で繋がっているのか、も。
天国は基本的に、自分が他人に差し向ける感情には割と敏感だけれど、他者から自分へと向けられる感情――特に好意といった部類に属するものには極端に、疎い。誰かが自分を好いてくれている、という隠された感情にまったくきづかない。その感情が、微妙で複雑かつ、純粋で重いものになるに従って、天国は自然とその感情から視線を逸らしてわざと、無かったものにしてしまう傾向にある。
無意識のままで。
間もなく本鈴が教室のみならず校舎内全体に轟き渡った。間髪入れず教師が教室に入ってきて、出席簿を広げて点呼を取り始める。天国はその声に怠そうな顔を崩さないまま返事をし、もそもそと教科書を取りだして広げた。
「ったく。あいつのどこが良いんだか」
鈍い動きでノートを広げ、しかしメモを取るわけでもなく教科書に落書きを始めた天国の姿を、クラスメイトの隙間から眺めつつ沢松は頬杖をついた。
頭に浮かぶのは、学校中を逃げ回っている男と、本来その男に追いかけ回されているはずなのに当の本人はまったく自覚していない、あのバカ。
少なくとも、自分が味方につくとしたら後者の方である。大事な幼なじみであり、親友である存在を、中途半端に女子から逃げるだけでいつまでも断ち切ろうとしない奴に、ほいっと投げ渡してやろうとは微塵も思わない。
幼なじみを、変な道に走らせようとは考えたくもない。ボディーガードを気取るつもりはないが、天国を誰かの手に奪い取られるのは癪に障る。あいつは、絶対に自分が認めたこれなら大丈夫、と思えるような相手じゃないと譲れない。
微妙に親の気分を味わいながら、沢松は黒板に教師が記していく単語や年号を素早く、なるべく読みやすく丁寧に書き写していった。もうじき学期末が来る、どうせ天国はこのノートを頼ってくるのだから、少しでもあいつに理解しやすいようにまとめておいてやらないと。
さらさらと真っ白かったノートに文字を連ねていく最中、ふと視線を感じて沢松は頭を振り、どうも気にかかる方向を向いた。
教師はテキストを手に、黒板へと一心不乱に文字を書き連ねている。クラスメイトも、書いては消すの繰り返しでしかない教師の文字を追い掛けるのに必死で、机にかじり付くかもはや諦めて食後の睡眠に走るかのどちらかだった。
皆がみなして頭を下向けている中で、ひとり首を伸ばした沢松の視界に、揺れるカーテンを後ろにして天国が彼を見ていた。視線が重なると、気付いて貰えた事が嬉しかったのか、天国はひらひらと気付かれない程度に手を振った。
それから、両手を顔の前で重ね合わせ、頼む、と唇を動かす。授業中なので、当然音は零さない。
はいはい、承知いたしましたよ。
しょうがない奴、と呆れ調子に溜息をついて、沢松は今度、なにか奢れよ、と持っているシャーペンを彼に突きつける仕草をする。巧く伝わったかどうかは分からないが、一応承諾したらしい天国が深めに一度頷いた。
黒板に向かいっぱなしだった教師はようやく、端から端までを文字で埋め尽くし終えて満足したようにチョークを下ろす。慌てて沢松は一言一句、書き損じないように気を払いながら書写し始めた。
天国が、彼のその姿を見送ってから教科書を机に立てる。広げたノートは結局一行も文字を記す事がなく。
その上に肘を置き、手の平をしたにして交差させた上に額を預ける。
麗らかな午後、ポカポカ陽気に温められた風は丁度良い具合に眠気を誘って天国を取り囲んでいた。
ものの十秒としない間に、天国の意識は朦朧と夢の中へと消えていく。
本当、どうしようもなく面倒のかかる奴。
教師が黒板に書いたばかりの内容を説明し始めたのを片耳で聞きながら、頬杖をついた沢松は遠くに小さく見える天国の眠る姿を見つめ、目を細めた。
だからあいつは、オレが面倒見てやんなきゃならないんだよな、と。
昔からの腐れ縁を思い出して薄く笑い、そしてまた教師の説明を聞き漏らさないように神経を前方へと戻す。
腐れ縁や幼なじみだから、といった理由だけでそこまで出来るものなのかどうか、その疑問さえ頭の片隅に浮かべることを一度としてしないままに。
彼は今日も、当たり前のように天国の隣に居る。
02年4月18日脱稿