陽のあたる坂道(馬Ver.)

 人気の少ないホームの、さび付いたベンチに腰を下ろして列車が来るのを待つ。足許には妙にかさの少ない、真ん中で拉げているスポーツバッグがひとつと、背中にはリュック。
 こんなぼろっちい鞄を盗む奴は居ないだろうが、一応念のためと言うことでしっかりとスポーツバッグの持ち手は握ったまま、だが握り込む手は力無く、いつ落ちてしまうかも分からない。
 時刻表で調べた時間まで、まだ十分以上ある。その間こうやってぼんやりと遠くの景色を眺めているだけの自分を思うと、少しだけ自分を哀れに思った。
 今日この街を出ていく。思い出など大して残っても居ないこの街を、オレは出ていく。
 目的地はちゃんとあるけれど、その場所にだっていつまで居続けるか分からない。気が向けばずっと居るだろうし、その気になればいつだって出ていける場所。思い出なんていう重さをひとつとして持たない場所、それが次の目的地。
 誰ひとりとして見送りに来る奴は居ない。当然だろう、誰にも今日出発することを教えてやしないのだから。
 ひとりで、オレは逃げるようにこの街から出ていく。
 ……いや、違うな。逃げるように、じゃない。
 本当にオレは逃げ出すんだ。
 この街から、この街でオレが過ごしてきた日々から。この街で出会い、知り合い、仲間となった連中から。
 仲間達と過ごした苦しかった、そして楽しかった沢山の思い出と記憶を置き去りにしてオレはこの街を出ていく。
 さようならの言葉さえ告げずに。
「……あと、何分だ」
 ずっとベンチに座ったままだったからだろう、関節が音を立てる中で腕を動かし、首を引いて腕時計を見下ろす。文字盤が刻む現在時刻は、さっき確かめた時からまだ一分と少ししか経過してくれていなかった。
 もう列車の到着時刻手前だと思っていたのに、存外に時間の経過が遅いことに苛立ちを覚えオレはベンチの下に半分潜り込んでいるバッグを軽く蹴った。
 中身も数日分の着替えと洗面具や、そんな最低限必要なものしか入っていないバッグはオレの蹴りを受け、抵抗もせずに側面を凹ませた。
 まるで今のオレみたいだ。
 不意に浮かんだ思いに頭を振ってうち消し、けれど現れてしまった情けない自分という奴に嫌気しか残らない。更に二度、強めに頭を振っていると向かいのホームに列車が到着するのだろう、少し遠めに警告音が鳴り響き始めた。耳を澄ませれば、駅の向こうにある踏切で遮断機がおりる音がする。 
 遠く過ぎてよく見えなかったが、通行人が慌てて降りきる直前の遮断機を潜り抜けて走っていった。
「あーあ、危ねぇの」
 他人事を笑いながらオレは頬杖を付き、向かいのホームに滑り込んでくる列車を見つめた。利用者は少ないのか、こちらから見える窓の向こう、車内の人影はまばらだ。
 乗降が済んだ列車は警笛をひとつ鳴らし、ドアを閉じる。車掌の合図で列車はゆっくりと動き出した。そして少しの間を置いて加速し、あっという間にカーブを曲がって見えなくなった。
 一連の動きを目で追いかけている間に、オレが待つ列車の到着時間も近付いてきているようだった。さっきまでは誰も居なかったホームに、疎らだけれど人影が現れるようになっていたから。
 小さな鞄を肩に掛けている女性、孫らしき子供の手を引いている老婆、スーツ姿のサラリーマン風の男性、そしてオレ。あ、オレだけなんか存在が浮いてる感じがする。
 ひと通りホームを見回し、オレはまた視線を目の前に戻して頬杖を付き直す。一緒になって零れ落ちた溜息を拾うこともなく、オレはぼんやりと目の前に広がる世界を眺めた。
 今日で見納めになるだろう、この街の姿だ。
 特別目立った施設もなく、繁華街もしけたもので遊び場にも苦労させられ、バスの路線は短い上に本数も少ない。それは電車も同じで、普通電車しか停まらないし。
 自慢できるところなんかなにひとつとして存在していない、オレが育った街だ。
 春になれば河川敷の桜が溢れるくらいに咲き誇って、その下で花見もした。
 その河川敷で夜遅くまで秘密の特訓をして、汗水流して怪我もいっぱいして、格好悪い事も沢山した。
 がむしゃらにボールを追いかけて、ただそれだけで終わった気がする高校生活も、もう終わり。
 最初は不純な動機で始めたはずの野球、でもいつかそれがオレの目指すものになったのはいつからだろう。もっと巧くなりたい、強くなりたいと願うようになったのは、一体いつからだったのだろう。
 それさえも思い出せないくらいに、今じゃオレにとって野球は外すことの出来ないオレ自身の一部になっているのに。
 オレはその全部を棄てて、逃げようとしている。
 何もかもが、このままじゃ終われない。けれどこのまま続けていく事も、出来ない。
 みんなゴメン、オレってば滅茶苦茶格好悪くて、ダサいよな。あんなにも打ち込んで、自分の一生賭けるつもりでもいたはずなのに、その気持ちも投げ出してオレ、今からこの街を出ていくよ。
 やっぱりオレには、重すぎたのかも知れない。
 列車の到着を告げる笛の音が鳴り響く。ぼんやり考えている間に時間が迫っていたらしい、腕時計で確認するともう予定時刻を少し回ってしまっていた。
「遅せーっての」
 わざと悪態をつき、オレは立ち上がる。するりと握ってさえいなかったスポーツバッグの持ち手が抜け落ちてしまい、腰を屈めてそれを拾い上げる。
 ホームに煤けた感じの色をした列車が滑り込んできた。けたたましいブレーキ音を立て、それはホームに描かれた丸印に沿わせる格好で停車する。タイミングを合わせ、蒸気の抜ける音と同時にドアが一斉に開いた。
 ぞろぞろと列車から人が降りてくる。その群れを掻き分けるようにオレは鞄を肩に担ぎあげ、カメのような歩みで車体に近付いた。
 みんな、ごめんな。
 心の底から、だけれど心の中だけで呟き、オレは振りきるように足を前に伸ばした。右足が後一歩でドアの踏切線を越える。
 そして。
 季節外れの風が吹いた。
「猿野!」
 改札口がなにやら騒がしい。何事かと振り返る前に、オレはその叫び声に全身を硬直させた。
 あと一歩、なにもかもを投げ捨てる覚悟で踏み出せればそこで終わる。終わらせる事が出来る。だのにオレはまだ迷っている、もう決めた事なのに今のこの一瞬でオレは、迷ってしまった。
「猿野!」
 もう一度、彼は叫ぶ。今までに聞いた数少ない声色の中で一番、怒っていて、必死で、哀しそうで、悔しそうで、そして。
 辛そうな。
 列車の出発を予告するベルが頭上で騒々しく鳴り響く。改札口ではまだ押し問答が続いているのか、駅員の怒号が止む気配はなかった。
 オレは振り返ることも出来ず、ただ閉まり行く列車のドアを見送るだけ。
「猿野!」
「聞こえてるっての……」
 電車、行っちまった。これで次まで、また十五分近く待たなくちゃいけないじゃないか。
 オレは振り返った。担ぎ上げていた鞄を下ろす、中身なんか殆ど入ってないに等しいはずなのに、やたらと今になってずっしりと重く感じられた。
 多分、あいつの所為。
 鈍い足取りでオレはホームを戻る。そして駅員に、払い戻しの利かない切符を手渡して駅を出た。
「よ」
 重すぎる鞄を引きずるようにしてあいつの前に行き、軽い調子で片手を挙げる。直後に、乾いた音が駅舎の中に響いた。
 駅員が目を見開いて驚きに顔を染める前で、オレは若干赤くなった自分の左頬に挙げていた手を置く。ひりひりとした痛みは、けれど嫌な感じじゃなかった。
「悪い」
 それだけを、告げる。
 お前は何も言わず、普段から装備しているサングラスも変な風に片方が下がった状態のままオレを睨んでいた。サングラス越しからでも伝わる、その思いが嬉しくて、哀しい。
 オレが一番、逃げ出したかった感情が其処にある。
「ゴメン、司馬」
 そして思い出した。
 さっき、降りようとしていた遮断機を無理矢理押しのけて踏み切りに突入して行った奴が居た。あれが、コイツだったって事に。
 司馬はひとしきりオレのことを睨んだ後、唐突に方向を転換して歩き出した。オレが呆気に取られている間に、駅舎を出てしまった背中が街中へと消えていく。
 ちょっと待て、引き留めるだけ引き留めて置いてそのままさよならかよ、おい。
 悔しくて、駅員に渡してしまった切符を返してもらおうかとさえ思ったオレだが、もう二言三言苦情を言ってやらねば気が済まないと考え改め、重くのし掛かる鞄を担ぎ直しオレは司馬を追いかけた。
 西日が眩しく照りつけるアスファルト上で、視線を巡らせれば目立つあの青い頭は感嘆に見付かる。小走りに駆けて追いかけるものの、身ひとつの司馬と鞄をふたつも持っているオレとでは進むスピードが違って当たり前。
 必死に追いかけているのにいつまで経っても追いつけないオレは、けれど悔しくて司馬に声をかけることもせずひたすら坂道を上り続けた。
 商業地を抜け、住宅地も抜け、この街で一番高い場所にある高台の公園へ続く急峻な坂道。特訓だと言ってよく駆け上った記憶のある坂道に、照りつける太陽はどこまでも明るい。
 前だけを見て進んでいく司馬、その後ろを追いかけるオレ。
 なにかがだぶったのは、一瞬のこと。
「猿野」
 泣きたい気持ちに駆られたオレを見透かしたように、夕日を背に受けて司馬が立ち止まり、振り返った。
 坂道の向こう、太陽が輝いている。
「まだ、行きたい?」
「今日はもう疲れたから、帰って寝る」
 そう、と司馬はオレのやや乱暴に、ぶっきらぼうに言った言葉に微笑んだ。
「明日も、迎えに行くから」
「…………」
 何度でも、何十回でも何百回でも。
 司馬はサングラスを外した。共に過ごした高校生活の中でも数え上げられる程にしか見たことのない司馬の素顔に、オレは居心地悪くなって顔を背ける。けれどオレの位置まで戻ってきた司馬に阻止された。
 伸ばされた両手は長く、強く、暖かい。
 畜生、反則だそれ。今更に涙まで出てくるじゃねーかよ。
「猿野、好きだよ」
 知ってる、知ってるよそれくらい。その思いがどれくらい重くて、どれくらい棄てがたいものであるかぐらいオレだってよく分かってるよ。
 分かってて、けれど棄てようとした意味、お前本当に分かってるのかよ。
「言うのおせーんだよ、お前」
 三年間、一度として言われた事のなかった言葉。
 気付くの遅すぎるんだよ、お前。もっとお前が早く気付いてたら、オレはこんなにも苦しんだり、悩んだり、似合わない格好悪いことしようとは思わなかったんだから。
 だから、だから全部お前の所為! さっきオレが無駄にしちまった電車賃返せ!
 そう司馬に抱きしめられたまま叫ぶと、司馬は今までにないくらい楽しそうに笑って、尚更強くオレを抱きしめた。
 窒息寸前になったオレの耳に、心地よいテノールが響く。
「好きだよ、猿野」
「……畜生。オレもだよ莫迦」
 司馬の体温の心地よさに酔いながら、オレも三年間一度も言わずにいた台詞を吐きだした。

02年4月10日最終脱稿