君恋

君恋(気紛れにやわらかい)

 震える指先が、空を掻いた。
 震える声が、悲痛な叫びとなって空を裂いた。
 この瞬間、世界が壊れてしまったと、自分の中の確固たる世界が音もなく砕け散ったと、そう思った。
 必死に伸ばした腕が、悲鳴を上げている。藻掻いた指が在らぬ方向を向き、心が千々に千切れ霧散する。
 涙で歪んだ背中が、けれど。
「ヒバリさん!」
 最後の叫びに、びくんと震えた肩が一瞬だけ立ち止まる。綱吉の虚空を掻くばかりだった指が、辛うじて彼の、きちんと着込まれたシャツの僅かに撓んだ部分を掠めた。もう一度、渾身の力を込めて綱吉は壊れそうな腕を必死に伸ばし、今さっき触れた事で形を変えたシャツの膨らみを掴み取る。
 雲雀が再び歩き出せばすぐにその拘束は解かれてしまうだろう、力の入らない綱吉の不自然な体勢は、もうこれ以上彼を押しとどめるだけの強さを残していない。
 荒い呼吸が続いている。涙で濡れた頬を拭うのも忘れ、鼻をすすって生乾きの喉に唾を押し込んだ。
 雲雀は動かない。綱吉にシャツの一部を捕まれて、身動ぎこそしたけれど次の一歩を踏み出せずにいる。簡単な事だ、歩き続けるということは。しかし彼はその場に留まり、何かを逡巡して表情を険しくさせている。綱吉の位置からでは彼の顎のラインが辛うじて見えるだけで、どんな風に顔を歪めているのかは分からない。
 それでも彼の機嫌が悪いと分かるのは、シャツを通して流れ込んでくるオーラというか、そういう目に見えない気配がささくれ立っているからだ。
 熱い息を吐き出して、綱吉は少し自分の居場所を移した。雲雀のシャツを掴んだまま、身体が崩れてベッドから落ちないように肘を使って身体を起こす。よいしょ、と小さく口の中で呟いて彼はベッドの縁に腰を落とした。
 その頃になってやっと、雲雀は顔を上げた。
「……なに?」
 その問いかけは間延びしすぎた為か、問われた綱吉は一瞬きょとんと目を丸くしてしまった。
「僕に、用?」
 そこまで言われてやっと、綱吉は自分がまだ彼のシャツを掴んだままだというのを思い出す。しかも身体を起こす際にちょっとだけ引っ張ってしまったようで、ウェスト部分からシャツの端が覗いていた。いつも小綺麗にしている彼からしたら、みっともなく見える姿に、綱吉はしまったと大慌てで開いた口を閉じた。
 けれど、手は放さない。
 放せば雲雀は行ってしまう。だから放せない。行かないで欲しいから、綱吉が唯一握る雲雀の手綱であるシャツは絶対に手放せなかった。
 黙り込んだ綱吉に、雲雀が肩越しに振り返ろうと動く。咄嗟に綱吉は自分の腕よりも下を見た。頭を下げる格好で俯く。自分の太股と、床に揃えた自分の靴が視界いっぱいに広がる。床は白色で、掃除の手が抜かれているのか薄く埃が積もっていた。
「ないの?」
 雲雀の声。冷たくて、素っ気なくて、心にゆっくり染みこんでいく少し低い声。
 返事をしない綱吉を拒絶する、声。
 綱吉は目を閉じる、硬く、固く瞼を閉ざして雲雀の声を聞かないように耳に蓋をしようと試みる。けれどダメなのだ、綱吉は雲雀の声が欲しくて、そのことばがどれほどに彼の心に傷を作ろうと、たった一音ですら聞き漏らすまいと神経が働くのだ。
 無意識に、それ程に雲雀を求めて。
 欲しがっている。
 綱吉自身が大きく戸惑う程に、彼は本能的に雲雀を求めていた。
「いかない、で、ください」
 細切れの音が漸くことばを紡いで綱吉の唇からこぼれ落ちていった。痛々しいまでに切実で、辛そうに顔を歪め、けれど本人は俯いていて尚かつ雲雀は彼に背中を向けている為、お互いの表情は相手に伝わらない。
 雲雀が今、とても苦しそうに奥歯を噛んで、何かを堪えているのを綱吉は知らない。そして雲雀は、綱吉が今の自分と同じ顔をしているのに、気付かない。
「なんで?」
 吐き捨てるようなことばが、雲雀の口から落ちた。
「用、ないんでしょ?」
 だから行くよ、そう言いたげな彼に、弾かれたように綱吉は顔を上げる。
 目の前いっぱいに現れる雲雀の背中。大きくて、どっしりと構えていて、こんな言い方は彼に失礼だろうけれど父親のような、頼りがいがある背中が、今は綱吉の前に壁となって綱吉を拒絶している。
 辛うじて掴んだシャツの橋が、なんと心細い。
「……あり、ます」
 無いと答えれば雲雀は行ってしまうだろう、綱吉の頼りない細い指など呆気なくふりほどいて、彼は彼の世界へ帰ってしまう。そして二度と戻らない。
 ならば、どうすれば彼を引き留められるか。簡単だ、彼が求める答えの逆を告げれば良い。彼に用があると、そうすれば雲雀は綱吉に意識を向けざるを得なくなる。幾ら冷徹な彼とて、用事があるという相手を無視して行くわけにはいくまい。
 微かな期待に、綱吉は懸命に繰り返した。
「用なら、ありますからっ」
 だから行かないでください。置いていかないでください。
 ひとりにしないでください。
 心臓が直接汗をかいているようだ。息をする度に身体が悲鳴を上げている、言葉を口にすれば色々なものが飛び出してきそうだ。それらを懸命に飲み込んで、押しとどめて、綱吉は自分の指が掴む最後の砦を睨むように見つめた。この繋がりを失えばどうなるか、なんて想像もしたくない。
「用?」
 雲雀は少し笑ったようだ。皮肉そうに口元を歪めて嗤って、綱吉をゆっくりと振り返る。
 目が合った。教室の窓からよりも、廊下ですれ違った時よりもずっと近い距離で、雲雀の細く鋭利な瞳が綱吉を射抜く。完全に振り返ったわけではなく、上半身を捻っただけの姿勢で、彼はベッド脇に腰を力無く落としている綱吉を見下している。
 そう、見下ろすではなく、見下している。
 全てを嫌い、群れるのを嫌い、弱い者を嫌悪し、孤高の人であろうとする雲雀が、紛れもなく綱吉の知る雲雀がそこに立っている。
 シャツを掴んでいた指がたじろぎ、力が弛んだ。その隙に彼は完全に身体の向きを切り替え、綱吉に正面から向き直る。一瞬行き場を失った綱吉の手は、けれど最後の力を振り絞って完全に落ちる前に雲雀の、袖には届かなくて、結局右腰の辺りを彷徨いベルトのすぐ上にあった布が余って膨らんでいた場所を掴んだ。
 ちょっとだけ眉間に皺を寄せた雲雀が顔の位置は変えず、瞳だけで己の腰元を見下ろす。綱吉は項垂れるという表現がぴったり来るくらいに顔を下向けて、殆ど雲雀に縋り付く格好で座っていた。
 指先が虫みたいに動いて、頼りなかった掴み方からもっとしっかりと、握る布の面積を大きくさせた。雲雀は顔を顰めながらも、綱吉のやりたいようにさせてくれている。その沈黙が、余計に綱吉には息苦しい。
 顔を上げられない。そこに雲雀がいると、自分を見ていると解るからこそ、顔をあげる勇気がない。耳の先まできっと真っ赤になっているに違いない。心拍数がどんどん上昇していて、吐き出しそうなくらいに胃の辺りがキリキリ痛む。
「それで、用って?」
 言ったきり次の言葉が続かない綱吉の頭に、金槌で殴ったに等しい衝撃を与える冷たい台詞。ああ、でも、この人はそもそもこういう人だったではないか。今更彼の言葉で傷ついていたら、この先いくら命があっても足りないくらい。
 だけど、あの手は、確かに優しかったのだ。
 眠っている綱吉の頭を撫でる手は、他の誰よりも優しかった。
「ないの? ないなら、放してくれないかな」
「あり……ます」
 だから放しません。首を振って消え入りそうな声で返す。ふぅん、という相槌をうつ声に、彼を見たいという感情が綱吉の胸を揺さぶる。同時に、ただ傷つくだけだと綱吉を守ろうとする声も聞こえて、両側から腕を引っ張られている子供の気分になった。
 心臓は、痛いくらいに脈打っている。このまま張り裂けてしまうのではないか、想像して背筋が波立った。
 ぢくぢくと、見えないところに作られた傷からあふれ出す痛みは止まらない。
「ヒバリさんに、用、あります」
 一言一句を区切りながら、時に掠れそうになる声を振り絞って返す。頭上で雲雀が困惑気味に肩を揺らしたのが、シャツを掴んだ手越しに綱吉にも伝わった。
 彼を困らせている、そんな自分を嫌いになりそうだった。
「なに? あるなら、さっさと言ってくれないかな。聞いてあげるから」
 どこまでも綱吉を見下した口調は、何もない時に聞けば腹立たしかったかもしれない。でも今は彼もまたどこか無理をして、綱吉を突き放そうとしている風に聞こえた。
 こんなにも近い場所にいるのに、相手の顔が互いに見えないまま。綱吉は唇を噛みしめる、生まれてこの方、こんなにも悔しい気持ちになったのは初めてかもしれない。言いたい言葉が見付からない、言わなければならない言葉が確かに胸の中に存在しているのに、それを表現する為のことばが綱吉の中に存在しない。
 早くしなければ、雲雀はこの場から去ってしまう。自分を置いて、ひとり先に。
 再び綱吉の手の届かない場所に。
 それは嫌だ、それだけは嫌だ。雲雀を見ているとこんなにも痛いのに、また遠くから眺めて痛い身体を抱え込むだけの自分なんて、もう嫌だ。見ているだけしか出来ないなんて、嫌だ。絶対に、あんな自分に戻りたくない。
 いかないで。雲雀のシャツを握る手に力を込める。アイロンもきちんと当てられた真っ白いシャツに溝が深くなる。雲雀は静かに、血管が浮き上がる程力を込められて、更に血色が悪く、青白くなっている綱吉の指先を見つめていた。
 どうしてこんなにも必死になっているのか、雲雀には分からない。けれど綱吉の手はとても痛々しく彼の目に映り、俯いたままでも懸命に爆発しそうな感情を堪えている表情が分かって、そんな顔をさせているのが自分だと分かるからこそ、自分自身が腹立たしい。
 それなのに彼を慰め、彼を苦難の淵から救い出すことばを知らない。こんな感情は彼にとって生まれて初めてのものであり、どうすればいいかが分からない。
 雲雀自身、今まで知ろうともしなかった。だからいつも通りの冷たく、愛想無いことばしか投げてやれない。他に言ってやらねばならない言葉があるだろうに、それが分かっていながら、どう言えば良いのか分からない。
 沈黙が漂う。背後を流れる風が冷たい。
 保健室の主であるシャマルはまだ戻ってくる様子がない、授業はどれくらいまで進んだだろうか。時間の経過はとても早いようで、遅いようで、感覚が掴めないままただ無意味に流れていく。吐き出された吐息は、どちらのものだったか。
「痛い、です」
「?」
 ぽつりと、本当にぽつりと。晴れた空から急に一滴だけ雨が落ちてきた時のように、脈絡もなく唐突に、綱吉の唇の隙間からことばが流れた。
「痛い……んです。痛い、凄く痛い」
 譫言のように繰り返し、繰り返す。綱吉の声ではないかのような、冷たく乾いたことばに、雲雀は眉間に皺を寄せて唇を曲げた。ぎゅっ、とシャツを握る手に更なる力が加えられている。このままだと布が裂けてしまいそうだと、視界に入った綱吉の手を見てふと思った。
 解いてやりたい。布に食い込む細い指は今にも折れそうなくらいに力を込められていて、そんな風にしなくても大丈夫だと教えてやりたかった。けれど出来ない。雲雀にはその感情を実行に移す為の前例がひとつも無かった。
 人が行動を起こす為の原動力は、こうすればこうなる、という想像力と、他にはなによりもまず、以前同じような状況になった時に自分はこう行動した、という過去の記憶が大きく物を言う。しかし雲雀にはその両方が欠けていた、今のこの状況で自分が次にどう行動をすればどんな方向に事が運ぶのか、見当が付かない。
 先が見えないというのはとても恐ろしい。だから動けない。
 綱吉が腕全体に力を込める。肘の位置が若干下がり、雲雀を自分の側へ少しだけ引っ張った。抵抗せず、雲雀はベッド側へ半歩寄る。距離が、狭まる。
 雲雀の視界には薄茶色をした、柔らかな綱吉の髪が。今はしなだれ元気を無くしているけれど、大きく跳ね上がった髪の毛は彼のトレードマークでもあり、遠くからでも分かる程に目立った。この髪に、ずっと、触れたいと思っていた。
 その毛先が小刻みに揺れている。
 どうしたら良いのだろう、どう言えばいいのだろう。分からなくて、雲雀は顔を顰めたまま綱吉の震える肩を見つめていた。
「痛い?」
 ベッドで横になっていたのだから、どこか具合が悪かったのだろうというのは想像が付く。けれど自分に用事があるのと、綱吉が痛いと訴える事はどう繋がるのか。
「痛いんです、俺、ずっと……なんでか分かんないけど! でも、でもヒバリさんの事見てると、俺、いろんなところがぐちゃぐちゃになるくらい、痛くて……苦しいんです!」
 恐らくは本人も何を言っているのか分かっていないくらいに、一気にまくし立て、綱吉は反射的に顔を上げた。縋るような瞳は戸惑いに大きく揺れている。目尻いっぱいに溜め込んだ涙は、ちょっと触れるだけで直ぐにあふれ出し頬を伝うだろう。
 雲雀の中の何かが、激しく揺さぶられる。
 今すぐこの子を抱きしめたい。心配要らないと告げてやりたい。それなのに身体が動かない、心は波立つのに、その衝動の大きさに全ての神経が麻痺して指一本、彼の思い通りにならなかった。
 綱吉が右の手も伸ばし、雲雀のシャツを握る。両手で彼を捕まえて、大きく首を振り、涙をはじき飛ばす。その動きの大きさに、雲雀の上半身は揺らいだ。抵抗するのも忘れ、綱吉に文字通り揺さぶられる。
「だけど、俺、ヒバリさんが居ないともっと、もっと痛い。なんでか分かんない、分かんないけどヒバリさんが居ないの、俺は嫌だ!」
「……なに、それ」
 他にことばが見あたらなくて、ついつい思ったままに呟いてしまった。言い終えてからしまった、と口を閉ざしてももう遅い。一瞬身体を震わせて硬直した綱吉は、雲雀のシャツに縋りながら呆然と目を見開き彼を見上げた。
 至近距離からの瞳は、やはりとても大きくて。
 宝石のようだと、思った。その水面が揺れている。涙をいっぱいに溜め込んで、それを零すまいと懸命に奥歯を噛みしめて堪えている。
 怯えて、震えて、怖がって、けれども決して雲雀から目を逸らさずに。いったいこの小さな身体のどこにそれだけの力を内包しているのか、確かめたくもあり、脆く崩れていく彼を見たくないとも思う。
 矛盾している。相反する感情を同時に胸に抱えて、雲雀は次の句が継げない。
「……俺だって」
 一度息を吐いて瞬きし、唇を浅く噛んだ綱吉が頭を振って頭頂部を雲雀の胸に押しつけるようにし、瞳を伏せた。雲雀の視界からあのこぼれ落ちそうな双眸が消える。
「俺だって、分かんないんですよ」
 心細さに震える小さな声。ぎゅっと掴んだ雲雀の上着を引き寄せて、額を擦りつけてくる。泣いているのだろうけれど、彼は決して泣き顔を雲雀に見せようとしなかった。
 雲雀の両腕は力無く両脇に垂れ下がっている。行く宛てもなく、行き場もなく。ただ虚空を時折思い出したように掻き乱すだけ。この両手はなんだって掴めた筈なのに、今彼の掌中にあるのは哀しいばかりの無力感だ。
「俺の方が、教えて欲しいくらいです」
 吐き捨てられた言葉に、彼もまた自分と同じなのだと知る。互いに持ち合わせた感情の名前を知らず、その捌け口を知らず、ひたすら持て余し、踊らされて、熱に浮かされ悶えている。
 苦しい。痛い。哀しい。辛い。寂しい。恐い。
 あらゆる感情が複雑に絡み合い、入り乱れ、出口の見えない袋小路で暴れ回っている。助けて、と叫ぶ声さえ壁の中で反響するばかりで外に届かない。
 こんなにも、近くにいるのに。
 届かない。
 雲雀の右手が動く。獲物を求め貪欲に血を吸ってきたその手が、痙攣を起こして二度、三度ヒクついた後、一度ぎゅっと握られた。掌の傷とその痛みなどもう何処かに飛び去ってしまって、乾いた血が瘡蓋になって肌に貼り付いている。爪がまだ柔らかいそこを掠め、表情を険あるものに変えた彼はゆっくりと持ち上げたそれを顔の前で広げた。
 そして「痛い」と訴え続けている目の前の小さな存在もまた、こんな風に痛みを抱えているのかと、ぼんやり考える。
 痛いのであれば、取り除いてやりたかった。
「痛いの?」
 掠れた声の問いかけに、綱吉はそのままの体勢でコクン、と頷いた。跳ね上がった彼の髪の毛が雲雀のシャツを擦る。あんなにも柔らかかったものが、今は針の山となって彼の胸を刺しているようだ。
 この震える肩に手を置けば、彼はどんな反応を示すのだろう。想像してみても雲雀の頭には綱吉がどんな顔をするのか、浮かんでこない。
 分からない。
「どこが?」
 だから雲雀にとっては真剣でも、そのことばは綱吉にとって非常に愚問で、綱吉は涙で濡れた頬をキッと持ち上げて精一杯に彼を睨んだ。自暴自棄になる手前の綱吉の顔に、若干気圧されて雲雀は息を呑む。
 こんなにも荒々しく、物悲しい表情を向けられて返すことばも出ない。
「全部っ!」
 泣きわめく幼子の癇癪にも似て、綱吉は雲雀のシャツを握ったまま両手を左右に振り回し、彼の身体を大きく揺すった。
 伝わらないもどかしさと息苦しさに呼吸も絶え絶えで、肩が上がっている。一瞬だけ爆発した感情を吐露し終えて若干落ち着きを取り戻したのか、音を立てて息を吸って吐き出した綱吉は肘の角度を更に細めて雲雀へと頭を近づけた。
 優しかった太陽の匂いが、今はただ、切ない。
「全部……全部が、痛いし、苦しくて……なんで俺、こんな風になっちゃったんですか」
 自問自答の呟きに返される答えは無い。雲雀の両手が何かを掴もうと宙を漂ったけれど、結局その開かれた両手は何を掴みもせずまた元の位置へと戻される。いたずらにふたりを撫でる風は生暖かく、こんなにも歩み寄りながらもまるですれ違えないで居る彼らを笑っている。
「ヒバリさんが居ると苦しい。ヒバリさんが居ないと哀しい。ヒバリさんが見付からないと訳もなく寂しくて、胸が痛い。ヒバリさんを見つけたら、息が止まる。なんで? 俺、なんでこんなになっちゃったの?」
 ぐり、と額を一層強く雲雀の胸に押し当てて綱吉が繰り返す。千々切れた言葉が、砕けたガラスの破片よろしく雲雀の胸に次々と突き立てられて、それぞれから甘く暖かな血が流れ出す。
 雲雀は自分自身が傷だらけになっていくのを知覚して、けれどその元凶である綱吉を責める事が出来なかった。彼もまた、ことばを発する度に見えない場所に傷を作り、生暖かな血を流しているのだ。血の涙を、雲雀の見えない場所で流しているのだ。
 カラカラに乾いた舌が、大気中の水分を求めて蠢いた。
「……僕の、所為で?」
 君が痛がっているのは。君が苦しがっているのは。君が涙を流すのも、辛そうに顔を歪めるのも。
 全部が全部、雲雀が居るから? けれど雲雀が居ない時も綱吉は苦しみを訴えている。雲雀の知らないところで、綱吉は胸の痛みを訴えかけていたのだとしたら。
 雲雀は、いったいどうすれば良いというのか。
 綱吉は顔を上げた。目線が合う、さっきよりも涙は薄くなり瞳の色は翳りを帯びて。雲雀の口調に何を悟ったのか、ちがう、と唇だけ動かして囁く。
 ちがう、貴方の所為じゃない。そう言い返したいのに、綱吉の喉はまるで発声機能が一切失われて無能の産物に成り果てたみたいに、パカパカと空気を吐き出すだけの能力しか発揮出来なくなっていた。酸素を求める金魚のように、ただ口の開閉を繰り返すばかりで。
 首を振っても、雲雀の酷く傷ついた顔は、綱吉の気持ちを読み取ってくれない。必死に縋って彼のシャツをそれこそ指先で切り裂きそうなまで強く握り、彼にしがみつくけれど、項垂れた雲雀には届かない。
 あんなにも雲雀を見つけて心臓が止まるくらいの衝撃を受け、雲雀と目が合って喚起に心を震わせて、雲雀に背を向けられて世界が崩壊するよりもずっと激しい絶望に陥ったのに。
 何故だろう、目の前の雲雀が綱吉の所為で傷ついた風に俯く今の方が、ずっと綱吉は哀しいと感じている。
 でも、どうなのだろう?
 綱吉が苦しいのは、あちこち痛むのは、雲雀の所為ではないと本当に言えるのだろうか。
 雲雀と出会わなければ、知り合わなければ、彼が振り向かなければ、彼と目が合わなければ、きっと、お互いこんな風に互いを傷つけ合って涙を流す事だって無かった。ふたりしてすれ違いばかりを繰り返して、堂々巡りの袋小路に落ちる事だって、無かった。
 それでも綱吉は、自分の胸の痛みが彼の所為だと、どうしても言えなかった。
 言いたいけれど、言えない。だって、この感情は。
「俺、俺……は、本当、は……ヒバリさんの事、遠くから見て、時々話をして、本当に偶にで良いから、俺……俺と、一緒に居てくれたら……」
 本当に、それだけで良かったのだ。
 遠くから眺めるだけで。雲雀が元気にしていて、時に大立ち回りをしでかして、けれど最後は必ず勝利して、綱吉の中で最強の人であってくれれば、それだけで良かったのだ。
 しかし、もうその頃の気持ちには戻れない。
 目が合ってしまった。彼の視線を求めるようになった。彼に触れられて、その優しい手の動きを知ってしまった。
 自分にだけ向けられる鋭い視線、自分にだけ与えられる優しさに、綱吉の中で静かに根を下ろしていた感情が一気に芽を吹き、両手を広げて今や空にも届きそうな巨木にまで育っている。
 けれど、雲雀は違うのだろう。
 綱吉がこんな風に思っている事も、彼の髪を撫でてくれる手をどんなに嬉しく思っているのかも、気付かない。綱吉が訴える痛みの意味も、理由も、なにひとつ。
 こんなにも、綱吉は雲雀を。
 雲雀の事を。
「痛い……です」
 ツ、と新しい涙が綱吉の頬を伝う。雲雀はその涙を拭い去ってやる術を知らない。ただ、ただ自分に向けられる前例のない感情を前に圧倒され、次に進む一歩を向ける方向さえ分からずに佇んでいる。
 彼は今、道標の全く無い一面灰色の平面世界に立たされているようなもの。ひとつ間違えれば奈落の底へ真っ逆さま、しかし戻る道はとうになく、進むべき道も分からない。目印にする空の光さえ見つけられず、彼は呆然とする他ない。
 たったひとつ、とても簡単なきっかけさえあれば、抜け出せるのに。
「俺……ヒバリさんが居てくれ、って……嬉しかった、から」
 目が覚めた時、そこに貴方が居た。優しく撫でる手の持ち主が雲雀であってくれて、嬉しかった。
 でも綱吉の目には、彼はそれがただの気紛れに与えた優しさで、もう二度と与えられる事のない一時の夢であったのではないかとさえ、映し出される。雲雀の心が見えない、それが綱吉の中に深く暗い影を落とし込んでいる。
 自分ばかりが、と。
 自分だけ、が。
「俺ばっかり、痛い想いして、苦しくて、胸が詰まって、でもヒバリさんが居てくれて嬉しかったし、だからヒバリさんが居なくなっちゃうのは嫌なのに、こうしてるのに、俺、まだ苦しい……」
 なんで、と固く目を閉じて綱吉は前のめりに身体を倒した。頭が雲雀の胸を突く。瞼が閉じきる寸前に見えた自分の爪先は、頼りなくベッド脇から垂れ下がって床すれすれの位置に揺れていた。
 とても小さくて、この広い世界で生きるにはあまりに頼りない。
 迷い子の、叫び。
「なんで、俺だけ? 俺ばっかり、ヒバリさんの事、すっ――――」
 息を吸って、その動きを利用して発せられた音が、そのままの状態で停止した。
 綱吉は目を見張る。床の上に自分の素足と雲雀の爪先が高さの違う位置で並んでいる。いつの間にこんなにも至近距離に来ていたのだろう、彼は。真上から見下ろす綱吉の瞳には、ふたりの爪先が重なり合い、ゼロ距離で接し合っているように映った。
 肩を広げ、綱吉は顔を上げる。何故気付かなかったのだろう、雲雀の顔は直ぐそこで、じっと綱吉のことばに耳を傾けて真剣な表情をしていた。綱吉の所為でアイロンの形跡など皆無に等しいシャツが、彼の心そのままのように見えた。
 ぐしゃぐしゃで、傷だらけの心が、そこに見えた。
「――――き……」
 吸い込んだ息を、吐き出す。たっぷり十秒はかかった。
 綱吉は目を丸くして、今自分が無意識で言い放った言葉を脳裏に反芻させる。自分は何を言ったのか、言ってから理解するなんて。
 けれど瞬きを二度繰り返してから、綱吉は胸の中にあった巨大な溶岩の塊が、山奥の谷間を流れる清澄とした水によって冷やされ、粉々に砕かれていくのを感じた。あれほどに胸を突いていた痛みが嘘のように消え去る。残されたのは、妙に清々しいまでの澄んだ気持ちだけだった。
 ああ、そうか。
 そういう事だったのか。
 綱吉は強ばり過ぎて血の気を失いつつあった指の力をスッと引いた。雲雀が驚いた風に身体を揺らす。しかし彼が何か行動を起こす前に、綱吉は両手を自分の膝の上で結んで、代わりにコツン、と目の前にある彼の胸に自分の上半身を預けた。凭れ掛かる。雲雀は避けなかった。
「……?」
「好き」
 考えてみれば、なんて簡単なことだったのだろう。たった一言で片づく感情に気付くのに、随分と遠回りをしてしまった。
「俺、ヒバリさんのこと、好き」
 すとん、とまるで心の中に『好き』という感情を収める穴があって、そこに清水で浄められた赤い暖かな宝石がすっぽりと、綺麗に収まったみたいだ。
 胸が痛いのも、無意識に姿を探してしまうのも。目が合うとドキドキと心臓が高鳴るのも、離れていく彼の背中に身体が引き裂かれそうなくらいに苦しかったのも。全部。
 全部、いっこの感情に起因していたのだと、やっと気付いた。
 綱吉は結んだ両手を祈るように組み直した。顔を上げ、自然と浮かび上がった微笑みで雲雀を見る。
 なによりも、彼の事が好きだという自分に気づけた事が嬉しかった。ちゃんとこの痛みに理由があり、意味があると知れた事が、喜びだった。
 雲雀から返されることばを、想像もしないくらいに、綱吉の心は舞い上がっていた。
「すき……?」
 淡い、低い声。感情のこもらない、ほんの少し戸惑いを含んだ声。
 綱吉の表情がゆっくりと凍り付く。さっきまでと変わらない、何一つ、眉ひとつ動いていない雲雀の顔。綱吉のことばからくみ取ったものなどありませんと、そう言い表している無表情。
 ズン、と綱吉の晴れ渡った心に暗雲が忍び寄る。それは音もなく迫り、一瞬にして彼の心を覆い尽くした。今にも降り出しそうな雨雲の色は綱吉の顔色と同調し、冷え冷えした空気が彼の全身を包み込む。
「なんで?」
 つい、という感じで呟かれた雲雀の問いかけに背筋が凍った。
「そんな、の……」
 聞かれても、分からない。綱吉だってたった今気付いたばかりなのだ、理由など問われても答えは直ぐに見付からない。
 そもそも誰かを好きになるのに、あれこれ理屈めいた説明が必要なのだろうか。ただ気になる、目に付く、意識する、そこから始まる感情に、理由などあるのだろうか。
「分かんないの?」
 淡々とした雲雀の台詞に、綱吉は表情を強ばらせたまま首を振った。
 泣きたい気持ちが押し寄せてくる。けれど泣いたところで、雲雀には伝わらないし、届かない。彼は本当に分からないのだ、綱吉の感情の名前も、意味も、理由も、なにひとつ。
 だって雲雀は、そんな感情を他人に抱いた過去はなく、興味もなかったから。
 誰かひとりを強く意識し、想い、見つめる自分を思い描いた事が無い。それはとても哀しいことなのだけれど、彼はそういうなれ合いを嫌っていたから気にした日もなかった。自分は過去も未来も一人きりで、それで良いとずっと、考えていた。
 でも。
 理由も意味もなく、雲雀は自分の目の前にいる存在から目が離せない。乾きかけた涙で頬を汚し、つぶらな瞳で真摯に見つめてくる双眸から顔を逸らせない。瞳の奥に宿る輝きが、懸命に雲雀へ何かを訴えかけている。そこに含められた感情をまだ正しくつかみ取れないでいるけれど、確実にそれは、雲雀の無機質な心を揺り動かしている。
 揺さぶられる。根底から、雲雀恭弥という存在を支えていたものが、沢田綱吉というひとりの人間によって覆される。
「分からないのに、君は僕が『すき』なの?」
 向けられた問いかけに、綱吉はぐっと腹に力を込めた。
 確かに言われる通り、綱吉はまだ彼が好きな理由が分からない。芽生えたばかりの感情に押し流されて、不安定な足下で懸命に振り落とされないようしがみついているだけ。少しでも否定したら真っ逆さまに落ちていく自分を冷静に見つめて、綱吉は深く頷いた。
「好き、です」
「色々痛いのに?」
「はい」
「苦しくて、哀しかったり、寂しかったりするのに?」
「それでも」
 俺は、貴方が好きです。そう自信を持って言えた。言えた自分に驚いた。
「そう」
 雲雀は小さくそう呟き、綱吉の顔から視線を逸らした。今度は心が傷を訴えず、綱吉もまた雲雀が見た方向に視線を向ける。
 たった今、それまですれ違うばかりだったふたりの心が、見えない糸で繋がった気がする。
 何故だか分からないけれど、綱吉にそれが分かった。雲雀もまた、心の中にぽっと明るく灯る光を見た。
 灰色の世界で、ただひとつ。揺るぎない夜明け星の輝きを見た。
「そう……」
 暖かく、力強く、彼が今まで持っていた強さとはまるで異なる、時には非常に脆く儚い、けれど時としてどんな力よりも強さを発揮するもの。
 カーテンに覆われた窓から日が差し込んでいる。暖かく眩しく、優しい光が部屋に満ちあふれている。今頃になって、そんな当たり前の日常にいる自分を意識した。
 開け放たれた窓、カーテンの裾を揺らして流れ込んでくる風の匂いを思い出す。それは綱吉の緊張する頬を気紛れに柔らかく撫で、大丈夫だよと囁きかけて飛び去っていく。
「これが、そう……」
 ずっと見えなかった出口が、とても近い場所にあった。手を伸ばせば届くくらいに、すぐそこに。
 理由のない苛立ちも、妙に癇に障る山本とかいう生徒の動きも。一度目が合うと磁石が引き合うように逸らせない瞳も。本来は咬み殺したくなる弱さでさえ。
 雲雀の手が動く。とてもゆっくりと肘が持ち上げられ、右手が彼の戸惑いそのままに一度虚空を掻き、そして。
 綱吉の柔らかな髪に触れる。撫で下ろす仕草は彼が寝入っている時の動き、そのままに。
「ヒバリさん……?」
 驚きに目を丸くする綱吉は、他になにも言えずただ自分の髪に触れ、優しく撫でる腕の持ち主を呆然と見つめる。元から読み取りづらい鉄面皮の雲雀は、今もまた感情が表に出ぬままただ綱吉の髪をなで回している。
 但し、綱吉の目には少しだけ、周囲が認識する雲雀と違う表情を見つけた。
 もしかしたら目の錯覚だったのかもしれない、彼の思いこみが見せた幻だったかもしれない。でも、それでも良かった。充分だった。
「くすぐったいです、ヒバリさん」
 不意にまた泣きそうになり、綱吉は誤魔化そうと笑った。だのに涙はひとつぶ頬を伝って顎から彼の手に落ちる。
「そう?」
「でも、やめないで」
 どうかもう暫く、このままで。
 ベッドの縁に腰を下ろし、両足を交互に揺らす。無理に笑おうとして失敗した綱吉の顔を、雲雀はどこまでも優しい顔で見つめていた。