御膳

 薄暗かったキッチンに、パッと明かりが灯った。急激な明度の変化を、目を瞑ってやり過ごし、沢田綱吉は気合いを入れようとしてか右袖を捲った。
 若干興奮気味の頬は紅色で、琥珀の瞳は好奇心旺盛に輝いていた。化学の実験を前にした小学生にも匹敵する表情をリビングから眺めて、雲雀恭弥は膝に広げた新聞を捲った。
 一面に印刷された黒い数字を雑に目で追って、構って欲しそうに足に擦り寄って来た獣は無意識に爪先で払い除ける。だが邪険に扱われたのを、遊んで貰えると勘違いしたオレンジ色の仔ライオンは、主人に負けない大きな眼をきらきらと輝かせた。
 靴下の上から頬摺りされてようやく気付いた雲雀は、新聞の端を持ち上げて見えた光景に肩を竦めた。
「ロールと遊んでおいで」
「ガウッ」
 ここにいても退屈なだけだろうと諭して、腰を屈めて手を伸ばす。頭を撫でられたナッツは元気いっぱいに吼えると、背中に棘を背負った小さなハリネズミを探してきょろきょろし始めた。
 そのロールはといえば暖房器具の前に陣取って、居眠りしているのか丸まったまま動かない。勢いよく駆けていったナッツも体当たりする直前で気が付いたようで、ブレーキを掛けて速度を緩めると、隣に寄り添う形で蹲った。
 二匹が仲良く並んでいる姿に目を細め、雲雀は新聞の続きを読もうと紙面に視線を戻した。直前に盗み見た壁時計は、午後六時手前を指し示していた。
 キッチンでは、夕食の準備を開始した青年が上機嫌に鼻歌を歌っていた。リビングでテレビを前に笑っていた時とは違って、オレンジ色のエプロンを身につけていた。
「今日は、どんなゲテモノが出て来るのかな」
「ヒバリさん、今失礼な事考えたでしょ!」
 前回は正体不明の黒こげの物体を食べさせられた。あの味は人生初だったとまだ新しい記憶に苦笑していたら、どうやって小声を聞き取ったのか、台所から鋭い叱責が飛んで来た。
 剥く前の玉葱を手に怒鳴られても、まるで迫力が無い。ただでさえ童顔で、母親似な所為で顔立ちも可愛らしいというのに。
 二十歳を過ぎても高校生に間違えられる彼にそっと嘆息して、雲雀は聞こえなかったフリをして新聞で顔を隠した。
 折角人が手料理を恵んでやろうというのだから、もっと幸せそうにしてもバチは当たらなかろうに。
 愛想がまるでない態度に腹を立てるよりも呆れて、綱吉は口を尖らせた。
 俗に言う恋人同士、という関係になって既に数年。よく耳にする倦怠期というものに未だ一度もぶち当たらずに来られたのは、つまるところ同棲までしておきながら遠距離恋愛的な日々を過ごしているからだろう。
 互いに仕事を持ち、海外出張も多い。綱吉など、逆に海外で過ごす日の方が多いくらいだ。
 だからこうやってふたりで買い物に行って、中庭付きの一戸建てのリビングで特に何をするでもなく過ごし、ひとつのテーブルを囲んで一緒に夕食を取るのも、随分久しぶりだった。
 ふたりだけの時間がいかに貴重なのかを理解しているから、喧嘩をしている時間すらも愛おしい。でも出来るなら啀み合うより、仲睦まじくしていたかった。
「……もう」
 一向に返事が得られないのに痺れを切らして、綱吉は諦めて腕を下ろした。右手に握ったままだった玉葱の皮をぺり、と剥いで、水を被らない位置に立てかけたモニターを覗き込む。
 中学生時代に家庭科専門の家庭教師がいた彼だけれど、はっきり言って料理の腕はからきしだった。
 そもそもビアンキは、作ったもの全てが毒になってしまうという特異体質の持ち主だ。彼女に真面目に教わったところで、人が食べられるものが完成するわけがない。
 雲雀と一緒に暮らすと決めた時、実母から手ほどきは受けたものの、期間が短かった所為もあって基本的なことしか学べなかった。その為に今の綱吉が作れるものといえば、白米を洗って炊いただけのものと、茹でたジャガイモを潰して作ったポテトサラダと、後はカレーくらいだった。
 新メニューに果敢に挑んでは失敗の連続で、お陰で最近の献立は散々だ。雲雀が呆れるのも頷けるが、そもそも彼が綱吉の作ったものを食べたいなどと贅沢を言うのが悪いのだ。
 出来合の品ではなく、綱吉が時間をかけて、心を込めて作ったものを、と。
「人をおだてるの、ホント、上手いんだから」
 料理はどれだけやっても苦手なままだけれど、そう言われたら頑張らざるを得まい。
 それにどんなに下手でも、不味くても、彼はきっちり最後まで食べきってくれる。翌日に腹を壊してトイレから出られなくなる可能性だってあるのに、だ。
 だから否応なしに、気合いが入る。今日こそは上出来だと褒めて貰えるものを作りたくて、綱吉は奈々に頼んで用意して貰ったレシピを睨むように見つめた。
「えっと、まずは……玉葱を、細かく」
 まな板の上に先ほどの玉葱を転がして、包丁を利き手に構える。最初に半分に切った後、平らな面が下になるよう置き換えて、彼はぐっと息を呑んだ。
 覚悟を決めて、鋭い刃を曲面に突き立てる。
「く、うぅぅ~~」
 もっともこればかりは精神論でどうなる問題ではなかった。調子よく切り刻めたのは最初だけ。途中から空中に放出された硫黄化合物に鼻の粘膜を刺激されて、綱吉の眼には大粒の涙が浮かんだ。
 奥歯を噛み締め必死に堪えるものの、防ぎようがない。ぼろぼろ泣きながら玉葱を切り刻む姿はあまりにも異様だった。
 畳んだ新聞を置いた雲雀が、小首を傾げながら何事かと目を細めた。
「どうしたの」
「今良いところなんでほっといてください!」
 カウンターキッチンなのでリビングにいる雲雀からも綱吉の顔は見えるが、手元までは確認出来ない。腰を浮かせて立ち上がった彼に罵声を浴びせて、綱吉は自分でも何を言っているのかと鼻を愚図らせた。
 怒鳴りつけられた理由が分からぬ雲雀は眉間に浅く皺を寄せ、口をヘの字に曲げて肩を竦ませた。
 テレビを見る気にはなれないし、かといって折角の休日に仕事のことは考えたくない。新聞は読み終わってしまって、ストーブの方に目をやれば獣二匹は夢の中だ。
 格別やることが無くなって手持ち無沙汰になった雲雀は、数秒停止して逡巡した後、短い後ろ髪を掻き回して欠伸を咬み殺した。
「美味しく出来そう?」
 物は試しと問い掛けて、スリッパを履いた足をゆっくり前に出す。絨毯を敷き詰めたリビング空間から出てダイニングテーブルの横を通り過ぎるが、綱吉の返答は得られなかった。
 手元に集中しているのか、顔すらあげようとしない。真っ赤になった目を擦って涙を拭った彼は、ようやく刻み終えた玉葱をまな板ごと持ち上げて、コンロ上に準備済みだったフライパンへと流し込んだ。
 勢い余って一部が床に零れ落ちる。けれど構いもせず、綱吉は役目を終えたまな板を置いてコンロのスイッチを押した。
 強火を選択して、バターをひと匙分すくって落とし込む。木べらで掻き混ぜながら炒めていく手つきは、一見すると調理に慣れているようだった。
 カウンターを回り込んで冷蔵庫の前で立ち止まり、雲雀は腕を組んで忙しない動きに目を細めた。
「えっと、それから。これを狐色になるまで炒めて……。で、炒めてる間に、次の準備、じゅん……うわあ!」
 奈々の作ったレシピとフライパンを交互に見て、声に出しながら手順を確認していた彼が急に雲雀の方に向き直った。手元にばかり意識が向いていて、キッチンに現れた同居人の気配に全く気付いていなかった綱吉は、素っ頓狂な声を上げてその場で飛び上がった。
 フライパンの上で玉葱が踊り狂う。また一部が床に零れ落ちたのを見て、雲雀は疲れた様子でため息をついた。
「もうちょっと落ち着いたらどうなの」
「だ、っあー、もう。ヒバリさん、そこ退いてください」
 心に余裕を持つよう諭されて、綱吉の顔が見る間にカーッと赤くなった。耳に痛い指摘に大声で捲し立てて、冷蔵庫のドアを開けるべく前に立っている彼の肩を乱暴に押す。
 ついでにキッチンから追い出そうとする恋人に抗い、雲雀は足を踏ん張らせた。
「どうしてさ。いいじゃない」
「まだ時間かかるし。どーぞ、リビングで待っててください」
「此処で待つのも、向こうで待つのも、同じだよ」
 待つことに変わりはないのだからと嘯いて微笑む彼に、綱吉は言葉に詰まって狼狽えた。確かに彼の言う通りではあるのだが、見られているのとそうでないのとでは緊張の度合いに天と地ほどの差がある。
 だがここで嫌だと突っぱねたところで雲雀は面白がるだけだと分かっているし、早く戻らなければ玉葱が焦げすぎてしまう。
 二者択一を諦めて、綱吉は頬を膨らませてそっぽを向いた。
「大人しくしててくださいよ」
 無駄だと思いつつ言って、彼は冷蔵庫から出した牛乳を手に急いで調理台スペースへ戻った。フライパンを軽く掻き混ぜてから、銀色のボウルに計量しておいたパン粉をひっくり返す。続けて牛乳パックの口を開いて、爪先立ちで背伸びをする。
 高い位置に掲げたモニターに記されている数字を読み取って、
「えっと、大さじ……ま、いっか」
 見付からない計量スプーンを早々に諦めた彼が手に取ったのは、パン粉が入っていたコップだった。
 一応そちらにもメモリがついているが、スプーン一回で計れる量とは桁がひとつ違っている。使えないことはないけれども、正確さは保証出来ない。
 大胆すぎる行動に驚き、雲雀が唖然と目を見開いた。後ろで恋人が絶句しているとは思いもせず、綱吉は牛乳を大雑把にコップに注ぎ、ちょっと多いだろうかと気にしつつも全部をボウルに注ぎ込んだ。
「なっ」
 明らかに、少しどころかかなり多い。雲雀でも、それくらいは分かる。
「ちょっと、君」
「なんですかー? 邪魔しないでください」
 止めようとしたところで無駄なのは分かっていても、口を挟まずにいられなかった。右手を宙に伸ばして彷徨わせた雲雀に、綱吉は顔を向けもせずに言い放った。
 パン粉に牛乳を染みこませて、一方で焦げ色がついた玉葱をフライパンの端に集める。そうして彼は、まだ熱いそれをボウルの中に放り込んだ。
 木べらを使ってざっくり掻き混ぜて、意気揚々と鼻息荒くする。
 奈々のレシピによれば、両者を混ぜるのは玉葱のあら熱を取って冷ましてからだ。だがその部分を読み飛ばして、綱吉は満足げに頷いた。
「さて、次は~」
 調子に乗って歌うように呟き、役目を終えた牛乳を片付けようと踵を返す。ついでに挽肉を取り出すのも忘れないように、と頭の中で行程をなぞった彼の腕を、横から伸びて来た大きな手が掴み取った。
 引っ張られてつんのめり、綱吉は目を見開いた。
「ヒバリさん」
 あれほどに邪魔をするなと言っておいたのに、案の定ちょっかいを出して来た。
 振り回された牛乳パックの中で、残り少なかった液体がちゃぷんと音を立てた。これが満杯に近かったら零れていたと顔を青くして、ムッと口を尖らせる。
「ちょっと、何するんですか」
「君が料理下手な理由が分かったよ」
「なんなんですか、いきなり」
 肩を回して腕を奪い返し、急いで牛乳を片付けて冷蔵庫のドアを閉める。意味が分からないと頬を膨らませて睨み付ければ、雲雀は心底呆れた顔をして首を振った。
 額に手をやって肩を落とされた。目の前でそんな態度を取られたら、いくら温厚として知られている綱吉でも流石に腹が立つ。
「ヒバリさんってば」
 言いたい事があるなら言えば良い。ムキになって語気を荒くした彼に視線を向けて、雲雀は頭の中にあるデータベースからとある無用な知識を引っ張り出した。
「君って、血液型、……Aだったよね」
「そうですよ?」
 唐突に話題が変わって、綱吉は面食らいながらも頷き返した。
 何故急に血液型を聞かれなければならないのか、さっぱり意味が分からない。首を傾げて眉間に皺を寄せた彼をじっと見つめ下ろして、雲雀はやがて深々とため息をついた。
 先ほどから失礼極まりない。そして、こうしている間にも時間は刻々と過ぎていく。貴重な休日をこんなつまらない口論で終わらせてしまうなど、絶対に御免だった。
 作業に戻ろうと、綱吉は踵を返した。身体を反転させて歩き出そうとしたところで、挽肉の存在を思い出して冷蔵庫へと手を伸ばす。
 その手首をまた横からかっ攫われて、彼はいい加減にしろ、と勝手な事ばかりする男に怒鳴りつけた。
「なんなんですか、もう」
「本当にA型?」
「しつこいですね。そうですよ。で? それがどうしましたか」
「A型……なんだよね」
「だから、それが」
「A型って、もっと几帳面な人間かと思ってた」
「はあ?」
 くどいくらいに同じ確認をされて、苛々が募る。段々と対応がおざなりになっていく彼に落胆の表情を浮かべて、雲雀は額の真ん中に人差し指を衝き立てた。
 首を振りながら小声で呟かれて、危うく聞き逃すところだった綱吉は目を丸くした。
 世間一般に言われている、根拠に乏しい血液型別の性格づけの事を言っているのだろう。ようやく合点がいって、彼は頬をぷっくり膨らませた。
 窄めた口から息を吐いて、上目遣いに雲雀を見る。
「大雑把なA型で、どうもすみませんでした!」
「誰も悪いとは言ってないよ」
「同じですよ。どーせ、俺はA型っぽくないです」
 レシピ通りに料理をするのが苦手ならば、掃除も不得手だ。整理整頓が出来ず、余程好きな事以外はまるで持続しない。嘘が下手で誠実なところはA型らしいかもしれないが、完璧主義者とはお世辞にも言えそうになかった。
 雲雀を押し退けて目的の物を冷蔵庫から回収して、封を破りながら歩く。ふやけたパン粉に浸った玉葱は、いつの間にか冷めていた。
 ラップを剥いだトレーをひっくり返して中身をボウルに落とし、塩を、これもまた計測を無視してひとつまみ。木べらで雑に掻き混ぜた後は、石鹸で洗い直した手で力強く捏ねていく。
 先ほどの会話で生じた苛立ちを全部ぶちまけるかのように、ぎゅっ、ぎゅっ、と。
 今夜のハンバーグの味を想像して、雲雀は肩を竦めた。
 これ以上会話を続けたところで、口論になるだけだ。夕食が真っ黒焦げになるよりは良い、と自分に言い聞かせて、キッチンから離れようと右足を浮かせる。
「そういえば」
 そこへ綱吉が手を休めずに話しかけて来て、腰を捻る直前だった雲雀は片足立ちで飛び跳ねた。
 すぐさま体勢を戻して二本足で立ち、小首を捻る。疲れを訴える肩を回した綱吉が、捏ねているうちに機嫌を取り戻したのか、楽しげに笑った。
「ヒバリさんは、B型っぽいですよね」
「僕が?」
 混ぜ合わせた肉を少しだけ抓んで捏ね回す彼に、雲雀は眉を顰めた。
 下らないとは思いつつも、一応血液型による性格の分類は把握済みだ。今し方綱吉に言われたB型の中身を記憶の引き出しから引っ張り出して、彼は不機嫌な顔をした。
「調べた事ないから、知らないよ」
「そうでしたっけ。でも、B型だと思いますよ。なんかそれっぽい」
「どうして?」
 憶測だけで断言してみせる綱吉に、雲雀の顔が益々歪んだ。感情を隠しもしない彼に呵々と声を立てて、綱吉はもう良いだろうかとボウルの中身を押し潰した。
 掌サイズになるよう一部を引きちぎって、両手の間を往復させて形を整えていく。挽肉を叩く音がしばらく続いて、雲雀は足でリズムを取りながら無言の時間をやり過ごした。
 カウンターの端に寄り掛かっている彼を一瞥して、綱吉が小判型になった肉の塊をバッドに並べていった。全部で四つ。ひとり二つずつの計算だ。
 後は焼くだけとなったそれを一旦脇に置いて、綱吉はべたべたになった手を流水に浸した。
「座ってればいいのに」
「僕がどうしようと勝手だろう」
「ほら。やっぱりそういう所、B型みたい」
 その間も、雲雀は動かない。顎をしゃくってリビングを示してやっても、すげなくあしらわれた。
 まったくもってマイペースで、人の意見を聞かない。意地っ張りで、自分で決めたルールを最後まで貫き通す。
 まさに貴方の性格そのままだと明け透けなく言われて、雲雀はそんな風に思われていたのかと今更にショックを受けて凍り付いた。
 そんなつもりはなかったのだが、思い返せば確かにその通りかもしれない。この歳になって自分はマイペースだったのかと知って驚いている彼に肩を竦め、綱吉は残りのメニューを思い浮かべて目を細めた。
 米は朝方に炊いたものが残っている。スープまで作るのは手間なので、これはレトルトに頼ることにしよう。
 忙しく動き回る彼から目を逸らし、雲雀は意味もなく自分の手首をじっと見つめた。
 太い血管が走っているのが、皮膚の上からでも確認出来た。
「B型、ね」
「あ、でもやっぱりちょっとAっぽいかも」
「どっちなの」
「いや、あー……うーん?」
 綱吉が言うのであればそれでも構わないかと思い始めていたところに、甲高い声が割り込んだ。直前までの主張を百八十度転換させた彼に呆れて、雲雀はしどろもどろな返答に苦笑を浮かべた。
「どうでもいいじゃない。血液型なんて」
 占いだって、あてにならない。結局は生まれ育った環境や、親などの身近に居る人間達との関わり方次第で、いくらでも性格は変わるものだ。
 百人の人間が居れば、百通りの考え方がある。血液型如きで人間を四通りに分類しようとする方が、どうかしているのだ。
 結論に至って、雲雀は妙にすっきりとした顔で頷いた。ひとり勝手に納得してしまっている彼に目を細めて、綱吉はフライパンに油を引きながら首を竦めた。
 急に噴き出されて、雲雀が怪訝に振り返る。口元を手で覆い隠して、彼は小刻みに肩を震わせていた。
「綱吉?」
「そうですね。ヒバリさんの言う通りかも。でも俺、やっぱヒバリさん、A型だったらいいのになって、思う」
 黒い盤面に油で渦を描きながらぼそぼそと、祈るように言葉を紡いでいく。切なげに揺れる睫毛の意味が分からなくて、雲雀は眉間の皺を深めた。
 リビングに戻るつもりでいたのを撤回して、爪先を彼に向ける。次第に狭まっていく距離に気付いているだろうに、綱吉は顔を上げなかった。
 暖かなリビングで、ナッツが身を起こして大きな欠伸をした。ロールが細長い鼻の先を上向けて、キュィ、と可愛らしい声で鳴いた。
 相手を気遣い、棘で傷つけないよう、傷つかないように注意しながら、ぴったりとくっついて離れない。幸せそうに目を閉じた二匹は、もう暫く夢の中。
 キッチンでは傍らに詰め寄った青年を久方ぶりに見上げて、琥珀色の瞳の青年が悪戯っぽく笑った。
 照れ笑いの表情に、雲雀が不思議そうな目をする。真一文字に引き結ばれた唇が不機嫌な声を放つ前にと、綱吉は笑みを押し殺して深呼吸した。
 胸に手を添えて、エプロンごと握り締める。
「沢田綱吉」
「えっと。馬鹿らしいって思うかも知れないけど。A型だったら、俺と同じじゃないですか」
「生真面目だとか言いたい?」
「そういう意味じゃなくてですね。……怒らないで聞いてくださいね」
 血液型による性格の分類の話では無い。首を振って否定して、彼は恐る恐るといった風情で背の高い青年を見つめた。
 中学時代より広がった身長差を若干恨めしく思いつつ、言葉を選び、頭の中で推敲を重ねて息を吐く。
「もし……あ、もしもですよ。ヒバリさんになにかあった時、血液型が同じなら、すぐに輸血出来るじゃないですか」
「それって」
「でも、ないですよね。ヒバリさんが、そんな大怪我するだとか……あって欲しくないし。だから、この話はナシで。なしなし。さっ、焼くぞー」
 音量を絞った囁きに、雲雀が目を剥く。驚きを露わにする彼に気まずさを膨らませ、綱吉はわざとおどけて両手を叩いた。
 これでこの話題は終了だと宣言して、夕飯の支度に戻るべく気合いを入れ直す。明らかな空元気に、雲雀は丸めていた目を細めて口角を歪めた。
 不吉な話は、不吉な現実を引き寄せる。嫌な予感や想像は、否定してしまうに限る。
 血まみれで倒れる自分自身の姿を脳裏から追い払って、雲雀は耳の裏まで赤くなっている青年にもう一歩、近付いた。
 真後ろに立ち、邪魔にならない程度に身を寄せる。
 もっとも綱吉は首筋に浴びせられた熱風にぞくりとして、フライパンを落としそうになった。気遣いは無駄となって、睨まれた雲雀は大人しく後退した。
「夕飯、抜きにしますよ?」
「それは困る」
「だったら、いい加減大人しく――」
「Aでいいよ」
「はい?」
 凄みを利かせて言い聞かせれば、空腹を持て余している雲雀は降参だと白旗を振った。ホールドアップのポーズを作った彼に溜飲を下げて作業を再開させようとして、綱吉は唐突に戻って来た話題に素っ頓狂な声を上げた。
 ハンバーグを抓もうとした箸を空振りさせて、まん丸い目をより大きく見開いて振り返る。顎が外れそうになっているのを笑い飛ばして、雲雀は両手を腰に当てた。
 胸を張って、言う。
「Aでいい。違うな。今から僕は、A型だよ」
「言っている意味がよく……」
「僕が言うんだから、Aなんだよ」
 珍妙な主張を繰り広げる彼に唖然として、綱吉はうんざりした顔で首を振った。真面目に相手をしていたら疲れるだけと思い直して、温めたフライパンに小判型に整えた肉を滑らせた。
 四つ全部入れたところで蓋をして、焼け目がつくのをじっと待つ。
 退屈なのだろう、後ろに立っている雲雀が欠伸をした。
 それでもキッチンを離れるつもりはないらしい。どこまでも彼らしいと苦笑して、綱吉は蓋の中心にある黒い把手を小突いた。
「Bっぽい、かなぁ……?」
「なに」
「ヒバリさん。やっぱりAじゃないと思う」
 調べない限り結論が出ない押し問答に相好を崩して、綱吉が言い放つ。少し前には「Aがいい」と言っていた本人の突然の翻意に、雲雀はムッとした。
 どことなく子供っぽい態度をクスクス笑って、綱吉は深く長い息を吐いた。
「じゃあ、なんだと思うの?」
「んー。なんでもいいです」
「綱吉」
 答えを急がせる雲雀に曖昧な返事を送り、そろそろだろうかと蓋を持ち上げる。片面に焦げ目がしっかり入っているのを確認して、彼は右上から時計回りにハンバーグをひっくり返していった。
 肉の焦げる、良い匂いが辺りに立ちこめた。思わず喉を鳴らした雲雀を笑って、綱吉ははにかんだ。
「だって、ヒバリさんは、何型でも、ヒバリさんじゃないですか」
 たった四種類しかない血液型で、人を推し量れるわけがない。雲雀だって言っていたではないか、所詮は誰かが勝手に決めた目安でしかないと。
 こんなもので区切られてしまうほど、雲雀恭弥という人間は小さくない。
 カラカラと愉快そうに笑い飛ばしながら言い切られて、雲雀は一瞬凍り付いた末に肩の力を抜いて首を振った。右手で顔を覆って、左足で床を蹴り、勝手に浮かぶ笑みを隠して歩き出す。
「早くしてね」
「生焼けで良ければ直ぐに」
「それは嫌だ」
「じゃ、大人しくしててください」
 左手をひらりと振って、彼はキッチンを出て行った。そのままリビングを横断して、サンルームを抜けて離れ扱いの和室へ姿を消してしまう。
 真横で響いた足音に、ロールがいち早く反応して顔を上げた。僅かに遅れてナッツが立ち上がって、興味津々に彼を追いかけ走って行く。
 和室は、ここ最近はすっかり雲雀の趣味の部屋と化していた。畳の上の方が落ち着くらしく、和服でよく寝転がっている。
 そしてその押し入れの奥には。
「飲み過ぎ注意、ですよ」
 きっと今頃、秘蔵の日本酒を前にして、どれを開けようか悩んでいるに違いない。
 ささやかながら楽しい晩餐を想像して、綱吉は上手く焼けたように見えるハンバーグに微笑んだ。

2012/01/30 脱稿