草笛

 風が抜けるような音に、微かな笛の音色が混じっている。
 それは音階を刻むものではなく、ただ流されるままに、思うままに、曖昧なリズムで時折呼吸を挟みながら、静かに、穏やかに。
 どこか懐かしい感じがして、行ったこともない田舎道を歩いている自分を想像する。麦藁帽子を被って虫取り網を手にして夕暮れをバックに家路に急ぐ。そんな風景が思い描かれた。
 目を開ける。硬い石ではなく丸められた布を枕にしていた綱吉の目に、一面の青が飛び込んできた。思わず驚いて瞬きを繰り返し、自分が今いる場所が田舎道でもなく、ましてや自宅のベッドでもなく、岩盤がむき出しになっている小高い山の頂近くだと思い出す。かつて住宅地にされるはずで重機も入っていたけれど、バブルがはじけた影響で結局開発は頓挫して中途半端に放置された山だ。だからところどころ不自然な崖があったりもする。人の出入りも少ないので、修行の場所にはうってつけだった。
 そう、修行だ。強くなる為の。
 綱吉は肘をついて身を起こそうとして、胸元から腹部を覆うように布がかけられているのに気付いた。端を抓んで顔の前に引き寄せるとそれは一枚布などではなく、人間の衣服だった。見覚えがある上着に顔を顰める。
 振り返り頭があった位置に視線を落とせば、それは着替えとして用意されていた綱吉の服で、未だトランクス一枚の姿である自分に僅かな焦りを感じ彼は慌てて綺麗に折り畳まれている服を羽織った。靴を履きなおし、最後に自分にかけられていた上着を持って立ち上がる。周囲を窺い見ると、彼が転がっていた場所から十メートルほど先の岩の上で、ひとり佇む青年の姿があった。
 綱吉には背中を向けている。大人ひとり分はありそうな岩は表面が丸く剥げていて、青年はその縁近くに腰を下ろし僅かに背を丸め、右膝は曲げて胸元に寄せ反対側の脚は投げ出すようにして岩に沿わせていた。爪先は地面に届く手前で宙に浮いている。いつもは着ている上着を今は脱いでいて、ズボンに回した金属のチェーンが太陽の光を浴びて鈍く輝いていた。
「バジル君」
 一歩近づき呼びかけると、青年は弾かれたように振り返った。表情に僅かな動揺が感じられ、丸くした目に綱吉の方も驚かされる。彼は危うく岩からずり落ちるところだったのを、両手を突っ張ってどうにか堪えていた。
「あ、は、はいっ」
 岩にしがみつく格好になっているくせに、返事だけは元気が良い。そんなに頑張らなくても良いのにと綱吉は苦笑いを浮かべながら、胸に彼の上着を抱えて更に歩み寄った。近づくと岩の大きさが際立って目立つ。元から背丈の低い綱吉は、背筋を伸ばして彼を見上げねばならなかった。
 気がついたバジルが、慌てて降りてこようとする。
「いいよ、そのままで。俺がそっち行く」
 身体の向きを反転させて岩に顔を向けていたバジルを制し、綱吉は肩を竦めて笑ってから腰に上着の袖部分を回して胸の前で結んで固定した。そして岩の目の前まで行き、上を向く。岩の表面は遠くからだと磨かれたように綺麗に映ったが、近くで見上げると案外でこぼこが残っており、指や爪先を引っ掛ける場所は十分残っていた。
 頭より若干上にある出っ張りに両手を預け、肘から上腕に、そして腹に力を入れて身体を浮かせる。爪先で岩の表面を蹴り上げ、左足で膝の高さにあった出っ張りに体重を移動させる。その作業を三度ほど繰り返すと、灰色一色だった視界が急に開かれた。
 最後はバジルの手を借りて、畳半畳分はありそうな広さの岩の頂上に登りきる。視界が三百六十度開かれて、空の色が少し濃いように思われた。たかだか二メートルほどしか違っていないのに見える風景はまるで違っていて、新鮮な気持ちが綱吉を包んだ。
「気持ち良いね」
「はい」
 岩に座り直したバジルが、立ったままの綱吉を見上げてにっこりと微笑み頷く。彼は、今度は両脚を揃えて投げ出し、完全に寛いだ姿勢を取っていた。綱吉が来たことで若干窮屈そうであるが、小柄なふたりならば並んで座るのも問題ない。
 深呼吸を二度ほど繰り返し、落とさぬよう腰に巻いていたバジルの上着を解く。そう長時間結んでいたわけではなかったので、袖部分の皺は少なくて済んだ。軽く表面を叩いて岩を登っている時に着いたと思われる小石を払い落とし、彼に返す。
「ありがとう」
「いえ……」
 礼を述べるとバジルははにかみながら両手を伸ばし、綱吉から上着を受け取る。彼はすぐに袖を通さず、膝にかぶせるようにしておいた。白い上着の上に重なる両手はところどころ傷が出来上がっていて、治りかけの瘡蓋が痛々しく映った。
 日々綱吉の特訓に付き合ってくれている彼も、決して無傷では済まないの。だのに彼は自ら進んで綱吉に手を貸してくれている。それがとてもありがたかった。
「そういえば、リボーンは?」
 死ぬ気弾を使って疲れ果て、気を失うように眠ってしまった綱吉は、あれからどれくらいの時間が経過しているのだろうと気にしつつ、忘れかけていた存在を思い出す。彼の家庭教師たる幼子の姿が見当たらない。何処へ行ったのだろう、きょろきょろとしていると、バジルは口元に手をやって小さく噴出した。
「なに?」
「いえ。リボーンさんならあそこに」
 怪訝に声を潜めた綱吉に見下ろされ、バジルは少々ばつが悪そうにしながら岩の足元近く、下草が生えている茂みの手前を指差した。なるほど、注意深く見ないと非常に見分けがつきにくいが、薄暗いその場所に自分の上着を布団代わりに敷いたリボーンが、顔の上に帽子を載せてレオンと一緒に寝転がっていた。
 時々鼻ちょうちんが出ているから、眠っているのだろう。綱吉がなかなか起きないから退屈したのか、それとも赤子故に昼寝が不可欠といったところか。
「俺、どれくらい寝てた?」
 バジルの横に腰掛けながら問いかける。彼は少し右にずれて綱吉に居場所を譲りながら、そうですね、と呟いて視線を浮かせながら手に持っていた木の葉をくるくると回した。まだ瑞々しさの残る濃い緑色をした葉っぱは、彼の指に根元を抓まれて平面でありながら立体的な残像を綱吉の目に残す。
 綱吉もまた、空を見上げた。西から東へ流れる雲は穏やかで、彼らがやっている荒々しい特訓を笑っているようだ。もしくは頑張れよ、と手を振って去っていく雲の行列に目を細め、隠れては現れる太陽に顔を顰める。
 まだ日暮れには遠いが、暑さのピークは過ぎたらしい。幾分過ごしやすい気候にホッと息を吐き、足元に伸びる影の長さを計った。
「詳しくは分かりません。が……恐らくは三十分ほどだったかと」
 綱吉の指先が岩の破片を弾き飛ばす。地上に落下していくそれは、地面にぶつかる前に同系色の岩と保護色の地面に紛れて分からなくなってしまった。バジルの声を遠くから聞いている気持ちで、綱吉は目を閉じる。
「そっか。頭、置いてくれたのもバジル君だよね」
 頭、と言いつつ綱吉は自分が今着ている服を抓んで引っ張っていた。その仕草に、枕代わりにされていた服のことかと理解した彼は、少し間を置いて「はい」と返した。
「変な使い方をして、すみません」
 律儀に、そして丁寧に頭を下げて謝罪を口にする。綱吉の方が慌てさせられてしまい、両手を胸の前で広げて大袈裟に左右に振り回した。
「いいよ、いいってば。有難うって言ってるんだから、謝らないでよね。それに、石を枕にさせられるよりはずっと良いし」
 どうにも彼は性格的に丁寧すぎて、何事にも大雑把な綱吉は扱いづらい時がある。綱吉の周囲も、割と大味な性格をした面々が多く集まっているので、逆に言えば新鮮だった。
 人との出会いには様々な発見がある。それを実感しつつ、綱吉はやっと顔を上げたバジルに微笑みかけた。つられるようにして、不安そうにしていた彼も表情を崩す。そうすると綱吉と同年代の少年になるので、綱吉の中で彼に対する親しみがぐっと増していく。
 そういえば、と。
 綱吉は依然バジルの手の中で踊っている木の葉に目を向けた。視線の位置の変化に気付いた彼も、自身の膝元を見て、ああ、と頷く。
「五月蝿かったですか?」
 照れ臭そうに笑うので、何のことだろうと綱吉は首を傾がせた。するとバジルは回していた木の葉を口元へ運び、ちょっとおちょぼ口になったかと思うと唇で挟むように葉の裏面をそこへと押し付けた。
 ふっ、と空気が動く。
 静かに、厳かに響き渡るのは夢心地の中で確かに聞いた素朴な音色。どこかで聞いた事のあるメロディーを刻みながら、口笛とは異なる優しい音楽が綱吉を包み込んだ。
 思わず目を閉じ、聞き入ってしまう。
「良い音だね」
 何気なく呟いたその一言で即席の音楽会は突然終わった。目を開けると、葉っぱが口の中に入りそうな位置で手を止めて、バジルが驚いた風に目を丸めていた。その顔が若干赤い。
「え?」
 言ってはいけないことだったのだろうか。けれど口をついて出た言葉はもう取り返しがつかなくて、綱吉は狼狽しながらどうしよう、と冷や汗をかく。着替えたばかりのシャツに汗が滲み、額にも小さな粒が浮き上がった。
「え……?」
 鸚鵡返しにバジルの口からそんな声が漏れ出る。その自分が発した声に我を取り戻したらしい彼が、数回の瞬きの末首が飛んでいきそうなくらいの勢いで頭を振った。違います、違いますとなにやら譫言のように呟いて、それから。
 手を下ろし、抓んでいた葉っぱをまた回す。
「その……そういう風に言っていただけると思っていなかったので」
 なんだ、単に驚いていただけなのか。真っ赤になったバジルの横顔を見ながら綱吉はくすくすと声を立てて笑った。すると余計にバジルは恥かしさに顔を染める。山本や獄寺はこんな反応をしてこないので、楽しくてならなかった。
「そうなんだ? 凄く上手だと思ったけど。俺、草笛吹けないし」
 だから羨ましい、と素直な感想を述べるとまたしても彼は恐縮して、肩を窄めて小さくなった。耳の先まで赤くなっている。
「かっ、簡単ですよ。練習すればすぐに吹けるようになります」
 自分の頬を片手で抑えたバジルが、若干上ずった声で言う。そうかな、と曖昧な表情を作った綱吉に、そうです、と強気に返して彼は思い切り頷いた。その表情に後押しされ、綱吉はそうかな、と先ほどの呟きとは違う意味で繰り返した。
「じゃあ、教えて?」
 言って、綱吉は拳を作っている彼の手からひょいっ、と葉っぱを抜き取った。そして前後を確かめ、バジルが何かを言う前に表側を前にして緑の匂いが残る葉を唇に押し当てた。
「あ」
 唖然とするバジルの耳に、綱吉が息を吹く音だけが聞こえてきた。細い管から吐き出された空気が壁にぶつかって拡散していくような、そんな音。お世辞にも音楽と呼べるような代物ではなく、ほらね、と綱吉は舌を出して笑う。
 バジルは目を瞬かせて、綱吉から返って来た葉っぱを受け取った。
「ええと、あの」
「本当に、練習すれば上手くなるかな?」
「……だと、思います」
 綱吉の不器用っぷりを思い出し、バジルは自信なさげにそう返すのが精一杯。彼の心情を察してか、気にしないで、と綱吉は軽く自分を笑い飛ばした。
「俺は、やっぱり、自分で吹くよりもバジル君の演奏聞いてる方がいいや」
 あはは、と口を大きく広げて笑い、気を遣っているバジルにもう一度気にしなくてよいから、と呟きかける。
「ですが」
「ね、また吹いてよ。俺、聞いてるから」
「はい」
 目を細め、バジルの前に身を乗り出して顔を覗き込んだ綱吉のおねだりに、断る理由もないバジルは小さく頷き返した。そしてふたりの手を行ったり来たりしたお陰で、少し元気を失い気味の葉っぱに目を落とす。
 草笛を吹く時は、葉の裏側を唇に押し当てると良い。しかしこれは、ついさっき、綱吉のそれに触れたばかりだ。
 一度意識してしまうともうだめで、葉を顔の前に持っていってじっと凝視する間に体温はどんどんと上昇して、気分は噴煙を上げる火山の中にいる感じだ。汗もだらだらと流れ出して、なかなか動けないでいるバジルに、痺れを切らした綱吉の言葉が降りかかる。
「もしかして……いや、だった?」
 綱吉が考えているのは、バジルが、綱吉に草笛の演奏をねだったことがいやだったのではないか、という部分。それは現実と大きく乖離している考えなのだが、間接的に綱吉に触れることになるバジルは咄嗟に綱吉の思っているとは違う方向に彼の言葉を解釈した。
 つまりは、自分が触れた葉に触れるのはいやなのか、と。
「まさか! そんなわけないですむしろ大歓迎と言うか嬉しいというか……いえ、あのっ、だから……あ、えっと……」
 気が動転しすぎていて自分で何を言っているのかよく分からない。喋っている間に冷静な自分が若干戻ってきて、バジルは視線を宙に浮かせながら微妙にかみ合っていない会話を続けるべきかどうか悩んだ。指をもじもじとさせて膝にかぶせていた上着を落としそうになり、それをきっかけにして、どうにでもなれと開き直ることに心を決める。
 大きく息を吸って、吐き出し、バジルが使っていて綱吉が触れた葉に、唇を押し当てる。
 意識しない方が無理というものだったが、息を吐くと一緒に瞼を閉ざすと、身体全体が空に浮かび上がる気持ちになって優しい音色が、静かに彼の周囲に広がっていった。
 バジルの狼狽ぶりに目を見張っていた綱吉も、彼がひとたび草笛を吹き始めると、自身も瞼を下ろして静かに呼吸を整え、流れていくメロディーに心を委ねる。安らぎを与えてくれる優しい音はバジルによく似ていて、何度でも聞きたいと思った。
 ずっと、聞けたなら良いと思った。
「……聞かせてさしあげます、貴方が望むのなら」
 いくらでも。
 綱吉の何気ない呟きに、手を下ろしたバジルが告げた。
 掌を広げ、風に木の葉を預ける。くるくると回転しながら緑色のそれは、やがて空の彼方に姿を消した。
「……ありがとう」
 真正面から見詰めてくるバジルの真剣な表情に、綱吉は照れ臭くなって頭を掻いた。他にもっと気の利いたことばが返せただろうに、何も浮かんでこない自分の語彙の少なさに悲しくなる。
「また、聞かせて」
 だからその気持ちを誤魔化したくて、綱吉は傍らのバジルに凭れかかった。触れ合った肩の温かさに、心から安堵を覚える。
「ええ、もちろんです」
 バジルが笑って言葉を返す。
「貴方が望むのであれば」
 いくらでも、この喉が潰れるとしても。
 バジルもまた、綱吉に肩を預ける形で凭れかかった。互いに互いを支えながら、頭を小突き合ってしばし笑い、ふたり揃って目を閉じる。
 頬を撫で、髪を攫う風は優しい。
 ずっとこうしていられたらいいのに。その願いはきっと叶わないと知りながら、祈らずにいられない。
「また、聞かせて」
「はい」
 繰り返される約束に、淡い期待を胸に刻んで。
 綱吉も、バジルも、それ以上は言わなかった。