神渡 第二夜

「さあね」
 正月まで、もう残り少ない。綱吉に、十代目候補として本家に参賀するようにとの通達は、少し前にあった。遣いの者を寄越さず、式神に運ばせたのは甚だ不満であるが、九代目の印が入っていたので無礼だと破り捨てるわけにもいかなかった。
 リボーンにも相談したが、彼はこれといって言葉を挟んでこなかった。好きにしろ、行きたくなければ行かなくて良い、その一点張り。
 出来るなら、もう二度とあの地に足を踏み入れたくない。それが綱吉の本音だ。九代目に直接会って話をしたいとは思うが、それにはまずあの魔窟に踏み込まなければいけない。
「むぅぅ」
 雲雀の横顔を窺いながら提案した綱吉だったが、期待したような色よい返事は貰えなくて、鼻を膨らませて低く唸った。
 唇を蛸のように尖らせていると、面白がった雲雀に人差し指で小突かれた。ぷす、と息を吐いて今度はへこませて、恨めしげに傍らに立つ青年を睨みつける。
 クスリと笑い、雲雀は軽く手首を振った。
 彼もまた、リボーンと同じような立ち位置を表明していた。綱吉が下した決断には口を挟まずに、従う。ただそれだけ。
 雲雀がひと言、十代目になどなるな、と言っていたなら、綱吉はとっくに結論を出していたに違いない。此処にいろ、並盛から離れるな。そう囁いてくれたなら。
 だけれど彼がくれるのは、一緒に居る、傍に居る、それだけ。
 十代目になっても、ならなくても、最も近い場所で綱吉を支えるとの約束であるのは間違いなかろう。だが、足りない。満足できない。
 足が地に着かない状態で、他に集中できない。意識を研ぎ澄ませて左手首に目をやれば、絡みつく黄金色の鎖が見える。それは他ならぬ雲雀を地上に、そして綱吉の隣に縛り付ける枷だ。
「……けち」
 言ってくれればいいのに、たとえ音を伴わない伝心であったとしても。
 欲しい言葉をくれない雲雀の背中にいー、と舌を出して、綱吉は奈々に宥められて頭を垂れた。
「それにしても、心配ね」
「え?」
 肩を撫でた母の突然の呟きに、半分聞いていなかった息子は琥珀の目を丸くした。大粒の瞳に映し出された彼女は、愛息子のそういう態度にも慣れており、別段気にすることもなく、綱吉の体温が残る掌を頬に押し当てた。
 ほう、と深い溜息をついて、視線を北に向ける。締め切られた雨戸の手前、東西に走る廊下の先の部屋にひとり引き篭もっている存在を思い出し、綱吉は緩慢に頷いた。
「ああ、うん」
 獄寺の食が細くなっているのは、最早疑う余地が無い。昼間はそれなりに活発に行動しているので、具合が悪いわけではあるまい。雲雀が食事中に指摘した通り、食べ物に慣れないだけだろう。
 全く食べないわけではなく、腹はある程度満たされているので、いきなり倒れる事はない筈だ。しかし、夏の大食漢ぶりを思うと、心配だ。
「沢山食べて欲しいんだけど」
 餓えずに毎日食べられるだけでも、里では充分ありがたいのだ。収穫期が終わり、食糧を備蓄に頼らなければならなくこれからの季節は特に、選り好みをしていられる状況ではない。
 厳しい言葉を使うとするなら、食べないのは獄寺の我が儘だ。
 奈々の言葉に肩を竦め、綱吉は乾いた唇を舐めた。
「獄寺君」
「そういやあいつ、最近あんまり、里に降りてこねーな」
 ぽつり、自分にだけ聞こえる音量で呟くと、聞き耳を立てていた山本がいきなり大声で割って入って来た。櫓に足を突っ込んだまま、床に腹這いに寝転がっている。
 ディーノはディーノで、櫓に寄りかかって至福の表情を浮かべていた。緋色の打掛が掛け布団代わりになっており、そのまま寝入ってしまいそうな雰囲気が感じられた。
「そうなの?」
 綱吉も、囲炉裏の向こう側に居る彼に聞こえるように、努めて大きな声を出した。
 獄寺が里に降りたがらないのは、何も今に始まった事ではない。村の若者は比較的彼に寛容で、既に仲間と認めているけれど、年寄りの中には極端に排他的な人もいる。定住して長い山本の父親でさえ、今でも里の人間だと認めようとしない老人がいるのも、綱吉は知っている。
 彼らにとって、村で産まれた子だけが里の子であり、村の人間なのだ。他所から流れてきた人がどれだけ村の為に尽力しようとも、絶対に認めようとしない。反面、並盛生まれの子にはとても優しく、良いお爺ちゃんなので、綱吉には彼らの落差が当初は信じられなかった。
 里に降りれば、そういう人とも顔を会わせる機会がある。面と向かって詰られて、出て行けと誹られて、疫病神と罵られて、心穏やかでいられるわけがない。
 かといって、ここで生活する以上、里の人々と関わらないわけにもいかない。
「ああ。っていうか、手伝って欲しいこと山盛りなんだけどな」
「そっか」
 年の瀬が迫り、綱吉も山本も、雲雀も、なにかと忙しい。村の用事に、神社の仕事、そして冬篭りの支度と、毎日が大わらわだ。
 獄寺とて、いつまでもお客様で居られるとは思っていないだろう。奈々の手伝いは積極的にやっているのが、その心の現われだ。
 ただ本気でこの村に根を下ろすつもりでいるのならば、容易く流されてしまう浮き草のような現状をどうにかしなければいけない。
「獄寺君、最近あんまり、笑わないね」
「そうだな……」
 洗い物を開始した奈々の立てる水音だけが、広い空間に粛々と響く。重苦しい空気に綱吉は自然溜息をついて、傍らに寄り添う雲雀にしなだれかかった。
 彼の肩に頭を預けると、腰に回った腕に引き寄せられた。逆らわずに従い、布越しの体温に安堵しながら重い瞼を下ろす。
 ただ完全に閉じることはせず、薄く開いた状態で足元の、暗い土間に無数に残る足跡をぼんやりと見詰める。
「そういえば、最近見ないな」
「なにを?」
 仲睦まじくある両者を羨ましそうに眺め、炬燵に頬杖をついた山本が、伸びてきたディーノの足を蹴り飛ばして呟いた。
 遠くに飛ばしていた意識を引き戻した綱吉が、瞬きを数回繰り返した。反射的に聞き返して、僅かに身を乗り出す。雲雀の手がゆっくりと離れていって、綱吉は慌しく沓脱ぎ石の上で草鞋を後ろに弾き飛ばした。
 赤らんだ素足で床板を踏み鳴らし、騒々しく炬燵に駆け寄る。半ば滑り込む格好で山本の布団に爪先を押し込んだ彼は、勢い余って中の火鉢に土踏まずを押し当てて軽く悲鳴を上げた。
 ちょっと押した程度では、火鉢は倒れない。逆に自分の足を捻る事になって、きゃあ、と少女のように甲高い声をあげた彼は、左右で笑っている山本とディーノを前に恥ずかしそうに背を丸め、小さくなった。
「む、ぬう」
 頬を膨らませて、赤い顔を伏して隠す。そういう態度も愛らしいのだが、あまりからかうと本格的に拗ねてしまいかねないので、山本は程ほどのところで真顔に戻り、わざとらしい咳払いで和んだ空気を追い払った。
 奈々が洗い終えた鍋を黙って受け取った雲雀が、高い位置にある棚に裏返しに置いた。人数分ある膳も、壁際に据えられた古い棚に左上から順に入れていく。一番上の右端に置かれている分だけは長く出し入れされず、薄ら埃が被っていた。
 獄寺が来るずっと前から、これは此処に収められたままだ。奈々は水気を払った指先で表面の汚れを拭い取り、寂しげに微笑んだ。
 家光が突然いなくなってから、もうかなりの時間が過ぎた。正月が目前に控えているというのに、便りのひとつも寄越さない。
 無事でいるのか、否か。それすらも分からないのは不安でならない。
 もう、と人知れず嘆息した彼女の華奢な背中から目を逸らし、雲雀は転がっていた薪を拾って火の消えた竃に投げ込んだ。綱吉が脱ぎ散らかした草鞋を拾ってきちんと沓脱ぎ石に並べて、自分が脱いだ分を隣に置く。
 幅広の長方形を足場にして、土間から板敷きの居間にあがった彼は、当たり前のように綱吉の横に進み出て、隣に腰を下ろした。
 男が四人集まると、大きめに作られている炬燵もかなり窮屈だ。襷を解いた奈々が、袂から取り出したものを手の中で躍らせて、自分が混ざる場所が無さそうなのに苦笑した。
「私はお邪魔かしら?」
「いえ、そんな事は」
 寝床に入るには、まだ少し早い。一家団欒の安らぎの時間を過ごすのに、彼女を除け者にするのも宜しくない。
 おどけてみせた奈々に山本は慌てて退こうとして、それより先にディーノが立ち上がった。
 打掛を片手で押さえ、もう片手でリボーンを抱きかかえて場を退く。どうぞ、と会釈と笑顔で奈々を促して、彼自身は綱吉たちの後方、囲炉裏側に回り込んだ。
「いいの?」
「気にしなくて良いよ」
「なんでお前が言うんだよ……」
 言い出したのは自分だが、本当に譲られるとは思っていなかった奈々が遠慮がちに問う。返事をしたのは、雲雀だった。
 しれっとした顔で言われて、金髪の青年は渋い表情をした。が、気にしないで欲しいのは本当で、奈々に向かって重ねて頷き、そこにあった座布団を自分で引き寄せた。
 緋色に金の馬と牡丹が踊る打掛の裾を広げ、胡坐を掻いた足までしっかりと覆い隠す。そうすれば熱は外に逃げない。ついでにリボーンも包んでやると、彼は満足そうに頷いた。
「ありがとう」
 礼を言った奈々がいそいそと炬燵に入り、押し寄せてきた寒さに身震いした。手にしていたものを天板に転がし、爪で弾いて開く。二枚貝を加工して作られた薬入れで、中には濁りのある糊状のものが入っていた。
 貝自体にも彩色が施されて、とても可愛らしい。物珍しげな様子で綱吉が覗き込む中、彼女は小指の先ほどの量を掬い取って手の甲に塗った。
 両手を重ね合わせて揉み、手全体に伸ばしていく。水仕事で赤くなり、皹になっている箇所には特に念入りに塗りこんでいった。
「それは?」
「お薬よ」
 奈々との生活は長いが、彼女がこんな真似をするのは初めてだ。きょとんとしたまま問いかけると、彼女は笑顔で貝を閉じ、ディーノを振り返った。
 遠巻きに眺めていた彼が、頬杖をついた状態で白い歯を見せて笑った。奈々もつられて目を細めて、少女のようにはにかんだ。
「む」
 妙に通じ合っているふたりの間で、綱吉がむすっと頬を膨らませた。至極分かり易い彼に雲雀は嘆息し、山本は興味津々に貝の表に描かれた繊細な図柄に見入った。
 御伽噺に聞く、大昔の女性の絵だった。
「前に、ツナ、言ってたろ。水仕事で手が荒れるって」
 リボーンを抱え直したディーノが、背筋を伸ばして明るい声を響かせる。行灯の薄明かりに照らされた端正な顔立ちを見詰め、そんな事もあったかと、綱吉は緩慢に頷いた。
 冬場の水仕事は、辛い。指が凍えて、荒れた肌に滲みて痛い。
 だから、と彼はもったいぶった口調で告げて、奈々をちらりと見た。
「ディーノ君が作ってくれたのよ」
 紛うことなき神を捕まえて、君付けする人間は彼女くらいではなかろうか。そんな事を考えながら、雲雀は先ほど見た軟膏の成分を想像して後ろを窺い見た。
 彼の考えている中身を察したディーノが、声もなく笑って小さく頷く。
「薬草を調合した人間用だから、無害だぜ」
 下手に神の力を加えて効力を強めでもしたら、一大事だ。そんな愚かな真似はしないと、ディーノは彼の懸案をあっさり否定した。
 雲雀はそれでもまだ疑い深い眼差しを育ての親に投げ、綱吉に袖を引かれてようやく視線を逸らした。
 神の座にある存在が、不用意に人間に介入してはならない。それは太古の昔より定められた不文律だ。
 自ら神の立場をかなぐり捨て、愛したひとりの人間の元へ走った嘗ての雲雀ならいざ知らず、ディーノは力の大半を封じられてはいるものの、今でも神の位はそのままだ。迂闊なことだけはしてくれるな、との無言の威圧を受け流し、彼は物言いたげにしている奈々に気付いて目配せした。
 発言の順番も譲られた彼女は、照れ臭そうに微笑み、少し前と比べて明らかに赤みが薄まった手を広げた。
 前後を何度も入れ替えてじっくり眺め、ほら、と綱吉たちの前に差し出して見せてやる。
「凄いのよ、本当に」
 失われた水分が戻り、肌は赤子のように瑞々しい。思わず自分の傷だらけの手に目をやった山本は、ディーノに向かって感嘆の声を零した。
「へえ、いいな」
「ツナにも作ってやろうか」
「いいの?」
「ああ。お前には特別、愛情たあっぷりのを用意してや――いでっ」
 感心したのは山本だけではなくて、綱吉も羨ましげに眉を下げて後ろを振り返った。
 調子に乗ったディーノが、身を乗り出して呵々と笑う。しかし言い終える前に、機嫌を損ねた雲雀の容赦ない一撃を頭に食らって撃沈した。
「ヒバリさん!」
「君には、僕が居るでしょ」
「あ、……ぅん」
 いきなり何をするのかと、何処から取り出したかも分からない青銀色の拐を利き手で握った雲雀に、吃驚した綱吉が咎める声を出した。が、真顔で訴えられて面食らい、五秒後に頬を紅色に染めてもぞもぞと腰をくねらせた。
 その場に実の母親がいるにも関わらず、ふたりだけの世界を作り上げてしまった彼らに苦笑を禁じえない。山本は両肘を立てて顎を置き、本当に仲の良いふたりを楽しげに見詰めた。
 大きなたんこぶを撫でたディーノが涙目で居住まいを正す中、拐を仕舞った雲雀は綱吉の荒れた手を握りしめた。容易く解けないよう、指と指を絡めてしっかりと重ね合わせる。
「ヒバリ、さん」
「それで、何を最近見ないって?」
「んあ?」
 人目を憚らず、恥ずかしがりもしない彼の豪胆さに舌を巻いた綱吉が、指先に走った甘い痺れに頬を染めた。だが雲雀は彼には目をやらず、すっかり寛いでいる山本に話題を振った。
 いきなり話しかけられた方はきょとんとして、数秒黙り込んだ後に嗚呼、と肩を竦めた。
 最初に話を投げたのは自分だった。すっかり忘れていた彼は鼻の頭を掻いて誤魔化し、火鉢を挟む格好で伸ばしていた足を折り畳んだ。
 開いた場所に綱吉がすかさず足を入れて、真っ直ぐ伸ばす。そうして足が温もったら次に譲り、順々に回していく。
 奈々が行灯を引き寄せて、その分影が動いた。障子紙に透ける炎にちらりと目をやって、山本はほら、と綱吉に向かって同意を求めるように囁いた。
「あいつ。いたろ? 獄寺の、ねーちゃんの」
「ビアンキ?」
「そそ」
 彼の言葉を受け、脳裏に美しい鬼の娘の姿が蘇った。語尾を僅かに持ち上げた綱吉に頷いて、山本は天板の上で手の上下を入れ替えた。
 言われてみれば確かに、最近はすっかりご無沙汰だ。秋祭りの夜以降、ビアンキの姿はまるで見ない。獄寺と何かあったようだが、彼はお喋りな方でもないので話題に登ることもなかった。
 何か知っているのではないか、と彼女が惚れている存在に目をやると、リボーンはディーノの膝の上でにっ、と意味深に笑った。
「あいつなら、自分の村に帰ってる筈だ」
「村? って、鬼の?」
 訝しんだ綱吉の言葉に鷹揚に頷き、黄色い頭巾を撫でて形を整える。奈々は裾を揃えると炬燵から足を抜いて立ち上がり、白い湯気を吹いている囲炉裏の茶瓶の蓋を外した。
 茶筒を出してきて、手早く湯飲みと急須を準備する。熱い湯を注いだ茶を、彼女はリボーン、ディーノ、綱吉、雲雀、山本の順に出していった。
 最後に出がらしを自分の湯飲みに注いで、何事もなかったかのように炬燵に加わった。
「なんでまた。遠いんじゃないのか、ここから」
「人の足じゃ、結構な距離があるだろうな」
 山本の質問に、リボーンはまだ熱い茶に息を吹きかけて冷ましながら答える。表情は先ほどとあまり変わらず、彼の頭の中がどうなっているのかは、さっぱり分からない。
 綱吉もまた、自分にと母が出してくれた茶を啜って、乾燥しがちな喉を潤した。
 ビアンキは獄寺とは違い、父も母も共に鬼だ。だから彼女の額には左右一対、小さな角があった。前髪の生え際あたりにちょこん、と出ている程度なのであまり目立たないが、それでも角であるのには違いない。
 獄寺も以前、同じ場所に異形の証たる角が顕現しかけたことがあった。神社で起こった一件を思い出して、綱吉は無意識に自分の額を撫でた。
 嵐の夜の翌日、村を見舞った珍妙な騒動。並盛神社の楠に雷が落ちたのが発端だったあの事件の最中、高密度の神気に触れた獄寺の頭に、ビアンキと同じような角が現れ出ようとした。
 神気から遠ざかることで事なきを得たが、獄寺が紛れもなく鬼の血を引き継いでいるのだと痛感させられた。
「そういや、なんで獄寺のねーちゃんは、人里に降りて来たんだ?」
「それは、獄寺君を探す為に」
「いやさ、でもあいつ、元々鬼の里を追い出されたから、こっちに出て来たんだろう?」
 左手一本で顎を支え、右手で布団を引き寄せた山本が独白する。綱吉が合いの手を挟むが、逆に聞き返されて答えに詰まった。
「弟に会うのに、理由が要るのか?」
 割り込んできたのはディーノだ。未だに雲雀に殴られた箇所を気にしているものの、痛みは引いた様子だ。
 彼のやや垂れ下がり気味の目が、山本から雲雀へと移動して、見詰められた青年は嫌そうに顔を顰めた。
「会いたくなったから、探した。それだけなんじゃないのか」
 続けてディーノは綱吉を見て、自分に言い聞かせるが如く、頷きながら呟いた。肩越しに振り返った蜂蜜色の髪の少年は、直後にはっとして若干恥ずかしそうに、それでいて申し訳無さそうに首を竦めた。
 ディーノの言わんとしている事は、山本にも分かる。それでも釈然とせず、彼は巧く説明出来ない自分をもどかしく思いながら、口を尖らせた。
「でもなぁ……」
「たかだか弟に会いたいが為だけに、鬼が禁忌を犯して里を出るわけがない」
 渋る山本の斜め向かいで、不意に雲雀が囁いた。
 湯飲みに踊る湯気を睨むように見詰めながら、滔々と言葉を紡ぎ上げる。いきなりだったので誰も彼に注意を向けておらず、聞き逃しかけた綱吉とディーノは互いの顔を見合わせて、山本は一呼吸置いて手を叩いた。
 乾いた音は、行灯から遠ざかるにつれて増す暗闇に吸い込まれて消えた。
「そう、それそれ」
「禁忌?」
「鬼は、人里に降りてはならない。代わりに人は、鬼の里に立ち入らない。蛤蜊家初代が定めた取り決めだよ」
 蛤蜊家初代は人々から迫害され、行き場を失いつつあった鬼たちをひとつ所に集めて匿い、霊域を守らせる任を与えた。彼らも退魔師同様、人間と少し異なるというだけで、住処を追われた存在に他ならなかったからだ。
 鬼は人を嫌い、人は鬼を嫌う。だから獄寺がこの世に誕生したのは、非常に稀有な結果といえた。
 お互いを守る為に、距離を置かねばならなかったのだとしたら、それは哀しい。だけれど共存できない以上、初代の判断はやむを得ないものであり、最善の方法だった。
 お互いの領分を侵さない、それが暗黙の了解。決して違えてはならず、破ってはならない。
 ところがビアンキは、その禁を犯してまで人里に降りて来た。獄寺を探す為に。弟に会うために。
 人の邪気に当てられ、気を狂わせてまで。
「ん……」
 黙りこんだ綱吉の沈んだ横顔を見やり、雲雀は何か知っているはずの存在に目をやった。ディーノの膝に鎮座する赤子は、胴体の割に大きな頭を左右に揺らして鼻を鳴らした。
 訝しんでいる雲雀の険しい視線を目の当たりにしても、まるで動じない。意味深な笑みを口元に浮かべるだけで、答えようとしない。
 ディーノが茶を飲もうと湯飲みに手を伸ばした為に、雲雀の視界に緋色の打掛が割り込んできた。肘を外向きに張って、仰々しく茶器を傾ける彼に舌打ちし、黒髪の青年は炬燵に頬杖ついた。
「大丈夫なのかな」
「え?」
「だって、ビアンキは、禁を犯したんでしょ。それなのに、村に戻ったりなんかしたら」
 顎に指をやって俯いていた綱吉が、眉間に皺を寄せてぼそりと呟く。
 顔を上げた山本の前で、彼もゆっくり視線を上向けた。訴える眼差しを浴びせられて、山本も彼の言葉の先を想像して奥歯を噛んだ。
 彼女が勝手に抜け出したことに、里の鬼達が気付いていないわけがない。幼い獄寺を、人の血が混じっているからと言って迫害して来た連中である。いかに鬼の個体に女が少ないからとはいえ、彼女が無事で済むとは思えない。
 愁いに満ちた表情を浮かべる綱吉に、何故かリボーンは笑った。
「心配いらねーぞ」
「どういう意味?」
 馬鹿にしている様子ではないが、そう感じずにいられない。眉根を寄せて即座に聞き返した綱吉に落ち着くよう促し、彼は小さな手を上下に揺らした。
 山本も炬燵から身を乗り出し、一言一句聞き逃すまいと構える。本来関係ないディーノまでもが、興味津々に膝の赤子の言葉を待った。
「あいつは、里の代表として出て来たんだ。まあ、禁を犯したにはちげーねぇが、こっそり黙って出て来たわけじゃねえ」
「え?」
 初めて知らされた思いがけない事実に、綱吉は息を呑んだ。
「へえ……。それはまた、どうして?」
 冷静に見える雲雀が続きを促し、顎をしゃくる。切れ長の目を右に流した彼は、握り合わせたままの綱吉の手を軽く揺らした。
 それで呼吸を再開させた綱吉は、落ち着きなく何度も瞬きを繰り返した。
 リボーンが茶を飲む音が、しばしの間場を占める。集中力が続かず、山本も温くなった茶を一気に飲み干した。
 沈黙が、日が沈んで夜も更け行く沢田家の居間に落ちる。重苦しい空気に居心地の悪さは否めず、身じろいだ綱吉は、湯飲みを両手で抱いたままじっと動かない母親に小首を傾げた。
「母さん?」
「隼人君のお母様、ご病気だそうよ」
「えっ」
 予想外の人物の口から発せられた新事実に、動揺した綱吉は見事に声をひっくり返した。どきん、と跳ねた心臓を綿入れの上から撫で、何故知っているのかとそわそわしながら目で問いかける。
 彼女は淡く微笑み、湯飲みの中で揺れる狭い水面に首を振った。
「ビアンキちゃんがね、教えてくれたわ。お母様がご病気で、もう長くないかもしれないって。里長は、以前は彼女のお爺様に当たる方が務めてらしたそうだけれど、その方ももう鬼籍に入られて、今は名ばかりの長をお母様が務めているという話だったわ」
 獄寺とビアンキの母親は、里を抜け出して人間の男と駆け落ちした罰を受け、岩牢に幽閉されている。殺されなかったのは、彼女が希少な雌であるからと、その血筋のお陰だった。
 形ばかりの長として、長い間湿った暗い場所に閉じ込められていたのだ。身体を壊さないわけがない。そうして彼女に自由が利かない間に、村には粗暴な男達がのさばって、我が物顔で振る舞うようになった。
 鬼の世界では、強い者こそが正義。強いものが弱いものを守り、そして従える権利を有する。
 非常に単純で、だからこそ絶対の法則だ。けれどビアンキの母親の代から、状況は少しずつ変化していた。
 里長には責任が課せられる。ところがこの責任を嫌い、ただ強さだけを欲する輩が増えた。強さをひけらかし、弱いものを守るではなく、甚振る。幼い獄寺が被害に遭ったのなどがその典型だ。
 牢から出られないビアンキの母に全ての責任をなすりつけ、己は傍若無人に振舞う。そういう連中が増えれば、里は立ち行かなくなる。
 そんな中で長の女が倒れたとあって、村の混乱には益々拍車がかかった。
 村を纏めるには、誰もが認める強い鬼が必要だ。しかし今の里に、そのような存在は居ない。
 旧態依然に囚われていては、状況を打破できない。ビアンキが里を出たのは、村の未来を憂う鬼達の後押しがあっての事だ。
 彼らはビアンキの母の罪を許した。獄寺を、鬼の里に迎え入れる覚悟を決めた。
 彼を次の長に据える準備に入った。
「……え?」
 木訥と語られる奈々の言葉には、現実味が乏しい。まるで寝物語を読み聞かせられている気分になって、綱吉は間の抜けた声を発した。
 ぽかんとしていたのは、山本も同じだ。
 雲雀も、表情にこそ表れないものの、内心は驚きを隠せない。何故誰も知らない、知らされていない事実を、この場で退魔師に最も縁遠いと思われていた奈々だけが知っていたのか。
 振り返ればディーノは、話の内容についていけていないようで、一気に興味を失ってリボーンの手を弄って遊んでいた。
 そのリボーンはというと、ディーノの好きにさせながら、雲雀の視線に気付いてにっ、と不敵な笑みを零した。
「おばさん、その話」
「本当よ?」