神渡 第一夜

「っくしゅ!」
 芯から冷える寒気に見舞われて、綱吉は小さくくしゃみをした。
 微かに空気を震わせただけの、か細い声であったに関わらず、居間に居た全員が聞きつけて、一斉に振り返る。それを偶々土間から見ていた奈々は、面白いように皆の首が揃って動く様に、堪えきれずに噴き出した。
 最後に首を巡らせた雲雀が、過剰反応している男達の横顔に深い溜息をついた。
「寒い?」
 肩を落としてすぐさま目線を持ち上げ、奈々に並んで竃の前に鎮座する綱吉に問いかける。囲炉裏を囲む男達、総勢四名が全員自分に注目していると今更気付いた少年は、淡い蜂蜜色の髪を揺らして振り返り、照れ臭そうに舌を出した。
 緩く首を振って返事に代えて、手にした竹筒を握りしめる。そうして再び竃に向き直り、轟々と燃え盛る炎に力いっぱい息を吹きかけた。
 黒く煤けた釜からは、白い泡がぶくぶくと溢れ出ている。今にも木製の蓋を弾き飛ばしてしまいそうな勢いだが、いかにも重そうな石がその上にどっかり腰を据えており、予想に反して微動だにしなかった。
「うん。もう少しね」
「分かった」
 火加減の調整がこれでよいか母親に目で問い、頷かれて彼は微笑んだ。隣では奈々が、七輪に置いた網の上で、切り分けた鹿肉を炙って焼いていた。
 脂の焦げる香ばしい匂いが、仕切りのない居間まで流れてくる。思わず涎を垂らし、山本は慌てて口を手で拭った。
 囲炉裏では味噌で煮込んだ里芋が、煮え立つ湯の中で踊っていた。焦げ付かぬよう定期的に雲雀が箸で掻き混ぜており、乱暴なその手つきに芋の形は徐々に崩れつつあった。
 他の具は乱切りにした人参に、大根の葉が少々。汁気が多くて、実は少ない。
 ごろん、と箸の上を横切って沈んだ里芋の行方を目で追い、獄寺が渋い顔をする。母親と仲良く夕飯の支度をしている綱吉の話し声に聞き耳を立てながらも、表情は不満げだ。
 胡坐をかき、左肘を立てて頬杖を作っている。右手は右の膝に添えられて、時折人差し指が神経質に動いて膝頭を叩いた。
 薄平たい座布団に腰を据えて、食欲を刺激する香りと、それに比例して増大する空腹感を懸命に我慢している様子が窺えた。
 銀の髪を肩の上で揺らし、爆ぜた薪の音にはっとして、浮かせた顎を直ぐに戻す。向かいで見ていたディーノが、声もなく笑った。
 楽しげにしている金髪の青年を鋭い眼差しで睨んで黙らせ、ぐぅ、と鳴いた腹の虫には仄かに頬を赤らめる。右手に居る山本も空腹具合は同じで、彼は笑うどころか大真面目に頷いた。
「しっかし、冷え込んで来たな」
 親しげに白い歯を見せて笑った彼にそっぽを向いた獄寺だったが、山本は気にした様子もなく話しかけてきた。後ろに両腕を流して背筋を伸ばし、太い梁が横切る頭上を仰いで呟く。雲雀は長箸を動かす手を止め、雫を切って鍋から引き抜いた。
 入れ替わりに匙を取り、煮立った汁を少しだけ掬って味を見る。黙々と作業する彼の傍らでは、ディーノが興味津々に波立つ鍋を覗き込んでいた。
「膝」
「うおっと、あぶねえ」
 近付きすぎて、囲炉裏に足を突っ込むところだったディーノが、短く指摘されて慌てて退いた。大袈裟に尻餅をついておどけてみせて、山本の笑いを誘う。
 笹の葉色の長着に、それよりも幾らか濃い色の帯を締め、その上には淡雪を思わせる白い羽織りを。更にその上に、いつもの緋色の打掛を羽織っているので、彼はこの場に居合わせる誰よりも着膨れして、肩が重そうだった。
 裾の長い打掛の形を整えて座り直し、ディーノは夕飯の支度が着々と進む様を嬉しげに眺めた。
 彼は神という存在ゆえに、人の食物を受け付けない。無論食するのは可能だが、食物に含まれる栄養素は彼に対してなんの効果も発揮しなかった。
 それにも関わらず、奈々は彼の分まで膳を揃えようとする。今日も危うく頭数に含まれるところで、心遣いは有り難いと礼を述べると共に、謹んで辞退を申し出ていた。
「俺は、白湯だけで」
「でも」
「その代わり、こいつらに」
 掌を向けて遠慮を口にしたディーノに、奈々は渋い顔をした。このやり取りも今日に始まった事ではなく、既に過去何十回と繰り返されていた。
 更に言えば綱吉、そして雲雀も、人の食事は不要だった。しかし奈々がひとりで食事をするのは寂しかろうからと、彼らは昔からの習慣として箸を取る。後から加わったディーノだけは、食糧も無限ではないからと、固辞し続けていた。
 朗らかに笑ったディーノに指差された獄寺と山本は、内心彼の提案を嬉しく思いながらも、顔には出さずに口を閉ざした。
 喜んでいたら、食い意地が張っているように思われる。実際その通りなのだが、大っぴらにするのは憚られた。
「水が欲しいなら、自分で汲んでくれば」
「いいだろ、それくらい」
 横で黙って聞いていた雲雀が、茶々を挟んで赤々と熱せられた炭に灰を被せた。細長い火箸を操って鍋から遠ざけ、火加減を調整する。煮え滾っていた汁の水面から目に見えて泡の数が減り、白い湯気がいっぱいに広がって上に流れて行く。目で追っているうちに左手から物音がして、土間でもひと仕事行われようとしていた。
 綱吉が重石を退かせて、釜の蓋を開く。そちらからもどっと真っ白い煙が沸き起こり、黄檗色の長着が霞んだ。
 視界を邪魔する湯気を手で掻き分けて、彼は木を削って作った簡素なしゃもじで中身を大きく掻き回した。傍で控えていた奈々の持つお櫃に移し変えて平らに均し、荒熱を取るうちに、湯気の量も減っていった。
「はい、おまたせ」
 円いお櫃ごと居間に上がった奈々が、待ち構えていた子供達を前に弾んだ声を響かせた。
 山本が両手を叩き合わせ、獄寺も生唾を飲んで帯の上から腹を撫でた。
「いただきます」
 お椀に盛られたやや黄みを帯びた飯を前に手を合わせ、みなの準備が整ったところで各々箸をつける。上座にはディーノが、そしてその膝にはちゃっかり姿を現した黄色い頭巾の赤ん坊が座っていた。
 奈々は囲炉裏から少し離れた場所で、襷をつけたまま雲雀が味付けした味噌汁に舌鼓を打った。
「美味しい」
 率直な感想に、彼は何も言わない。ただ耳が少しだけ赤く染まっており、山本に茶化されながら肘で小突かれた際には、ぞんざいに払い除けて、無言を貫いた。
 鍋の中で煮られている際には大量にあるように感じられた里芋も、小分けにされてしまうと少なく感じる。炊き上がったばかりの飯も、白米だけではなく、麦と稗が多く混じっていた。
 紛れ込んでいる小さな粒を箸で小突き、抓んで口に運んだ獄寺が、あまりの硬さに渋い顔をした。
「うっ……」
 噛み砕けないことは無いが、根気が要る。奥歯で擂り潰して飲み込んで、ほうっとひと息つくまでに数分かかった。
 胸を撫で下ろして肩の力を抜いた彼を尻目に、他の面々は黙々と、雑穀混じりの飯を平らげていった。
 食が細い綱吉も、文句を言わずに箸をこまめに動かしている。山本などは、噛み砕いているのかどうかも分からないくらいに勢い良く、椀を傾けて掻き込んでいた。
「まだあるから、焦らなくても平気よ」
「はい、すみません」
 豪快な食べっぷりに微笑み、奈々がお櫃の蓋をずらして中を見せてやる。山本は顎に張り付いた飯粒を抓んで口に入れ、短く礼の言葉を述べた。そうして遠慮なく、空になった茶碗を差し出して、御代わりを強請った。
 元気の良い山本に、心から嬉しそうにして奈々がしゃもじを手に取った。こんなに大きな息子が、この一年の間にふたりも増えたというのに、彼女はまるで気にする事無く、ありのままに皆を受け入れてくれた。
 獄寺には母の記憶があまりない。だが、奈々のような人であったら良いと、今は思っている。
「隼人君は?」
「うえ?」
 残り僅かとなった飯を前に物思いに耽っていたところに、いきなり横から問われた。吃驚して声が裏返ってしまい、正座したままびくりと肩を揺らした彼に、リボーンと雲雀以外の全員が変な顔をした。
 大振りの湯飲みを両手で抱え、熱い茶を啜っていた赤子が顔を上げる。黒目がちの瞳と目が合って、獄寺ははたと我に返って急ぎ居住まいを正した。
「あ、いえ、俺は」
「雑穀飯に慣れてないって、素直にそう言えば?」
 まだ食べ切っていないと、椀に残っている飯の塊を示して奈々に見せる。そこへ反対側から、芋汁を飲み干した雲雀が低い声で言った。
 淡々とした口調のお陰で、一瞬誰もが、それが獄寺に向けての台詞だと分からなかった。自分に話しかけられたのかと勘違いした綱吉が、真ん丸い目を雲雀に遣ってから、慌てた様子で獄寺に顔を向け直す。皆の箸が止まってしまい、注目を浴びせられた青年は冷や汗を流した。
「や、その」
「硬い?」
 言い訳を必死に考えていたら、綱吉にまで心配されてしまった。
 冬の初めに差し掛かり、このところは雑穀を混ぜた米が食事の主体になり始めていた。
 秋の走りに村を襲った大火で、収穫前の稲田が軒並み被害に遭った影響が大きい。上に納める分はどうにか確保できたが、その分村の人々の口に入る分が減った。並盛神社に献上される俵も例年よりずっと少なくて、それはそのまま、お下がりを食する沢田家の食卓を直撃した。
 しかし、だからと言って食事の回数を減らしていては、成長期である男子の胃袋は到底満たせない。多少味は落ちるが、量を増やす努力をすることで、どうにか日々を過ごしていた。
 不満を言える立場にないのは、獄寺も重々承知している。取り立てて手に職を持たず、村の生活にも未だ慣れない彼は、日がな一日日向で本を読むくらいしかすることのない、いわば石潰しの居候だ。
 鬼と人の間に出来た子は、どちらの種族にも属しながら、どちらにもなりきれない半端者だった。
 退魔師一族の宗家たる蛤蜊家の十代目候補筆頭として名が挙がっている綱吉を支え、彼の右腕になると心に誓いはした。されど退魔師としての実力は兎も角、それ以外についてはとんと無知な彼は、例えば畑仕事ひとつにしても、里に来るまでは鍬さえ握ったことすらなかった。
 少しでも皆の、綱吉の役に立ちたい。そう強く思ってはいても、先ず何より経験が物を言う村での仕事で、彼は役立たず以外のなにものでもなかった。
 鬼の血を引いているなら力も強い、というわけは全くなくて、彼は綱吉に次いで非力だった。下手をすれば奈々にさえ負ける。手先は器用だが、得手、不得手の差が激しく、料理は軒並み駄目。字が綺麗でも、それが効を奏するのは彼が得意とする呪符を作るときに限定されていた。
 綱吉や雲雀の寝床がある離れの、更にもっと東側には菜園がある。夏場、そこの草むしりを頼んだ際は、まだ芽吹いて間もない苗まで引っこ抜いてしまって、奈々を大いに落胆させたこともあった。
 屋根の修繕を手伝わせたら、足を踏み外して地面に落ちる。薪割りを頼んだら、失敗して空振りした斧で自分の足を断ち切りそうになる。雨笠の手入れをさせたら、何故かぼろぼろに分解してしまう、等など。ある意味器用とも言える失敗の連続に、最近は流石に反省したのか、自ら進んで何かをしようとはしなくなった。
 冬が終わり、春が来れば、彼が並盛に来てちょうど一年になる。季節が一巡すれば、多少は里での生活にも余裕が出てくるだろうが、人の輪に混じるのを苦手としている手前、今後も巧くやっていけるかどうか、周囲も幾らか不安があった。
「いえ、凄く美味しいです」
 答えに窮した彼は、緩く首を振って否定し、残っていた飯をひと息に口に放り込んだ。
 作った笑顔を浮かべながら、ごりごりと奥歯を動かして大きな塊を擂り潰していく。だが咀嚼が二十回を越えても、なかなか嚥下するところまで到達出来なかった。
 最初から興味なかった雲雀は自分の食事を続け、山本も椀いっぱいに盛られた飯を貪るのに夢中だ。
「なら、いいんだけど」
 三十を越えたところで綱吉も飽きて、じっと見詰めていた獄寺の顔から視線を逸らした。長く休めていた自分の箸を握り締め、冷めて硬くなっている鹿肉の炙り焼きをそっと、雲雀の皿に移し変えた。
 当の雲雀がこれに気付かないわけがなく、すぐさま彼の皿に、箸で抓んだそれを戻す。そうすればまた綱吉は、何も言わずに皿ごと彼の前に押し出した。
「要らないなら、山本武にでもあげればいいだろう」
「なに、ツナ。くれんの?」
 痺れを切らした雲雀の声に、二杯目もあっさり空にした山本が伸び上がった。嬉しそうに頬を綻ばせた彼は、臆した綱吉が頷くのも待たずに鹿肉を皿から掻っ攫っていった。
 猪も、鹿も、この里では貴重な栄養分だ。冬を越える為に、保存作業を執り行ったのはつい最近のこと。少し前まで生きていた獣の肉の生臭さを思い出し、獄寺は吐き気を堪えて麦飯を飲み込んだ。
 喉に詰まりかけたのを叩いて落とし、漸く人心地つく。手探りで湯飲みを探すと、気付いた綱吉が素早く差し出してくれた。
「すみません」
「いいよ」
 消え入りそうな小声で礼を告げ、会釈の後に一気に飲み干す。
 鬼の里で暮らしていた頃は、食事の支度は全てビアンキの仕事だった。彼女の作る飯は総じて不味く、中には毒混じりのものもあった。
 鬼の胃袋なら平気でも、半分人間の血が混じっている獄寺には毒抜きが必要な食材が、あそこには多々あった。お陰で何度か死線をさまよい、内臓だけは強靭になって、多少の毒ならば耐性がついたものの、あそこでの日々は常に生きるか、死ぬかのどちらかだった。
 それを考えれば、ただ硬いだけの飯などなんでもない。
 そうは思うのだが、もうひとつ、都の屋敷での生活もが比較対象に入っているので、すぐさま自分を納得させることも出来なかった。
 一日誰とも言葉を交わさぬ日さえあったが、衣食住は事足りていた。恐れられていたからかもしれないが、粗末な食事を出されることもなかった。毒に関する耐性は出来ていたので、味が変な時も幾度かあったが、のた打ち回って苦しむこともなかった。
 体の頑丈さだけが取り得で、後は無駄に広い知識くらいか。
 ひとりでなんだって出来ると豪語していたが、それは単に世間知らなかっただけ。これまで様々な人に影ながら支えられていたのだと、並盛に来て初めて思い知らされた。
 闘いが得意な人も、毎日闘争に明け暮れているわけではない。生きているのだから、腹が減れば眠くもなる。食事と寝床の確保は必須であるし、身につけるものがなければ冬は凍えてしまう。
 毎日決まった時間、同程度の量を、同じ回数だけ。屋敷で出されていた食事ひとつにとっても、自分で用意するとなると様々な苦労を強いられるのだと痛感した。
 自分はなにも出来ない。
 だから出来るようになりたい。
 自分に出来る事をもっと増やしたい。
 願うのに、生来の不器用さと人付き合いの下手さから、里の人々に巧く馴染めない。銀の髪を持つ彼を名指しして、不吉だと叫ぶ老人も、中にはいた。
 あんなことがあったばかりだから、村人が用心深く、そして信心深くなるのも致し方ない。綱吉や山本は、気にしなくて良いと言ってくれているが、肩身が狭いのは事実だ。
 自分が誰かの役に立ったという実感が欲しくて足掻くのに、どれもこれも巧く行かない。歯車がかみ合わず、苛々する。
 すっきりしない喉元を頻りに撫でて、獄寺はひとり苦虫を噛み潰したような顔をした。唇を掻いて咥内に残っていた雑穀を唾と一緒に飲み込み、残る汁物もさっさと片付けて席を辞す。
「もういいの?」
「はい」
 正直言えば、食べ足りない。しかし彼は奈々の問いに頷き、両手を合わせて深く頭を垂れた。
 先に休ませてもらう旨を伝えて、居間の北に出る。最近は昼間でも気温が低く、風が強いので、一日中雨戸を閉めたままでいる事が多い。外からの光は一切入らず、居間を照らす行灯の細い明かりも、北の廊下にまでは届かなかった。
 記憶を頼りに手探りで進み、奥の部屋の障子戸を開けて中に滑り込む。山本の寝床とは、襖を挟んで隣り合わせだ。
 夏場は蚊帳の数から枕を並べねばならなかったが、今は虫も飛ばぬ冬場だ。彼は左の袖口に右手を入れると、中に納めていた札を一枚取り、口の中で呪を唱えた。
 呼応して、札の先にぼぅ、と火が灯る。それを、昨晩使った油が残る行灯に移し変えた。
 橙色の光が仄かに彼の顔を照らし、この瞬間だけ、彼はほっと息を吐いた。
 札の火を消して行灯の傍に腰を下ろし、仄明るい光を眺める。この明かりひとつで部屋中を照らすには至らないが、彼は人よりは若干ながら夜目が利く。困ることはなかった。
 まだ夜も早いというのに部屋に引き篭もってしまった獄寺の去った方角をしばし見詰め、綱吉は奈々に急かされて茶碗を空にした。最後に残していた里芋を箸で半分に切って口に入れ、もう片方は雲雀へと。これは断らず、彼は身を屈めて口を開けた。
 人目を憚る事無く綱吉の箸から直接芋を受け取り、奥歯で擂り潰した雲雀は、口端に着いた煮崩れた実の一部を親指で拭い取って、恨めしげな顔をしているディーノを鼻で笑った。
「なに」
 羨ましいのならば、正直にそう言えば良い。先ほどと似たような台詞を吐いた彼の勝ち誇った笑みに舌を出し、ディーノは拗ねた顔をしてリボーンを抱き締めた。
 ぎゅうぎゅうに締め上げられているに関わらず、赤ん坊は平然とした顔で湯飲みを傾けている。そして中身を飲み干すと同時に、手の中の陶器をぽんっ、と白い煙の中に消した。
「いでっ」
 刹那、ディーノの頭上に出現したそれは、重力に引っ張られるままに彼の後頭部に直撃した。
 実に良い音がして、跳ね返った湯飲みが床に激突する寸前でまた消える。リボーンが何事もなかったかのように戻って来た茶器を受け止めて、綱吉は苦笑いを浮かべた。
「ディーノさん、大丈夫ですか?」
「って~……どうしよう、死ぬほど痛い。ツナ、慰めて」
「調子に乗らない」
 前屈みになって出来上がった瘤を撫でるディーノに、綱吉が心配そうに下から覗きこんで問う。瞬間、顔を上げた彼はべそをかきながら細い手首を捕まえた。
 すかさず雲雀の鉄槌が落とされて、とどめを食らった彼は今度こそ前のめりに倒れた。直前でリボーンは彼の膝から脱出しており、巻き添えを食らう事も無かった。
 野太い悲鳴を上げて痛がる彼に、雲雀はふん、と鼻を膨らませ、綱吉はどうしたものかと頬を引っ掻いた。山本は足で床を叩いてげらげら笑っており、奈々も控えめながら目尻を下げて右手で頬を押さえている。
「いってぇ……。ったく、お前ら、もうちょっと俺を敬え」
「どうやって」
 力の大半を封じられてはいるものの、ディーノはこれでも神の端くれだ。並盛神社に奉られている太陽の運行を司る神そのものだ。
 だというのに、この屋敷ではその権限が全く及ばない。蔑ろにされ、苛められ、それでも彼が毎日のように此処に来るのも、ひとえに綱吉が居るからに他ならない。
 冷たい言葉で一刀両断されたディーノは、情けなくめそめそ泣いて、その涙で飴色の床に「の」の字を書いた。
 相変わらずのふたりのやり取りに肩を竦め、綱吉は食事の片付けを手伝うべく、使い終えた膳を抱えて土間に降りた。
 山本は三杯目も空にして、面倒だからとお櫃ごと抱えて直接食べている。行儀が悪いが、食べ残しが出るよりは良いと奈々も呆れつつ好きにさせていた。
 雲雀は手早く残っていた炭に灰をかけ、まだ熱い鍋を素手で平然と取り外した。入れ替えに五徳を置いて、鉄瓶を乗せる。
「火鉢、良いか?」
「好きにしなよ」
「そうする」
 腹八分目を通り越して満腹に至った山本が、ご馳走様と元気良く手を合わせてから立て続けに雲雀に問うた。余計な語句は一切挟まず、必要な分だけを掻い摘んだだけの会話は、他人には通じづらい。
 山本は空になった櫃を綱吉に託すと立ち上がり、部屋の隅に鎮座していた陶器の火鉢を引きずって、囲炉裏端に移動させた。
 すかさず雲雀が、灰から引き抜いた墨を火箸で抓んで灰の上に移し変える。まだ赤く燻っているそれを三つ、四つ置いて形を整えている間に、今度は山本が納戸から四角い木組みの枠を持って来た。
 何が何処にしまわれているのか、居候生活が長い彼だから、自分の家と同じくらいに弁えている。彼は身を引いた雲雀の前で火鉢にその櫓を被せると、今度は北の通路に走っていった。
 一分と経たず戻って来た彼は、日頃眠るのに使っている布団を一抱えにしていた。
「もーらいっ」
「あー、ずるい」
 それを勢い良く、火鉢を囲んだ櫓に覆い被せる。中央が凹まぬように両端を引っ張って形を整え、上に四角い板を置いて、これで完成だ。
 あっという間に仕上がった置き炬燵に、土間にいた綱吉は頬を膨らませて拗ねた。しかし山本はどこ吹く風と受け流し、羨ましいだろう、と胸を張った。
 こうやっておけば、火鉢の熱が外に逃げない。布団の中に足を入れれば、温かい。そして布団自体にも熱が篭もるので、夜眠る際に被れば、暫くの間は暖かく過ごせる。
「ツナは、雲雀の肉布団があるだろ」
「その言い方、なんか、やだ」
「…………」
 だからひとり寂しく寝る自分に譲れ、と山本にあっけらかんと言われても、綱吉は膨れ面のままだ。
 横で聞いていた雲雀が、こめかみに鈍痛を覚えて指を置く。早速炬燵に足を突っ込んだディーノは、初体験の温もりに顔を綻ばせた。
「へー、いいな、これ」
「でしょう?」
「……」
 楽しげな彼の声に、山本が嬉しそうに同調する。火鉢を挟んで向かい合った大男たちは、途端背中に登った寒気に揃って身震いした。
 ふたりには混じらず、雲雀は薄ら湯気を立て始めた鉄瓶の座りを安定させてから、底の方に汁を少しだけ残した鍋を持って土間に降りた。待ち構えていた綱吉に渡して、外の様子を窺うべく勝手口から身を乗り出す。
 日没は日ごとに早まり、西の空に薄らと橙色の輝きが残るのみ。東の空はすっかり藍色の闇に落ちて、ぽっかり浮いた月がよく磨かれた鏡のようだった。
 雲は少ないので、夜間荒れることは無さそうだ。しかし風が出始めており、断言は出来ない。
 冷えた空気が流れ込むのを嫌い、彼は急いで戸を閉めた。
「降りそう?」
「どうだろうね」
 今のところはその気配を感じないが、確証は持てない。正直に吐露すると、綱吉は顎を抓んで俯いた。
 例年通りであれば、そろそろ本格的に雪が降り始める。触れれば溶ける、さらさらとした粉雪は、既に何度か里にまで舞い降りてきていた。
 並盛の里は、霊山として名高い並盛山の裾に広がる盆地にある。四方を山に囲まれて、他所の村に行くには村の南に伸びる街道を通るのが唯一の手段だ。それも真冬になれば雪で閉ざされてしまい、越えるのは容易ではない。
 並盛山には結界が張り巡らされて、特殊な血族と許された者以外の侵入を拒む。もし立ち入ろうとしても別の場所に飛ばしてしまうので、この地は神隠しの山としても有名だった。
 それ以外の、東西に広がる峰を越える道も、全くないわけではない。しかし大半が獣道で、手練れの狩人ですら時に迷うことがあるので、あまり一般的ではなかった。
 特にこれからの季節、雪が降って大地が白に染まると、目印を探すのも容易ではなくなってしまう。
「年始の挨拶、道が無くていけませんでした、とかは駄目かな?」