寒雀(後編)

 そんな顔をされると何も言えなくなってしまう。口を尖らせて頬を膨らませた綱吉に目尻を下げ、ディーノは問いかけつつ彼の前髪を梳き上げた。
 白い額が晒されるが、大きな手から逃げた髪の毛がすぐに素肌を覆い隠してしまう。綱吉の髪は癖だらけで硬そうなのに、触ってみれば存外に柔らかい。
 見た目にそぐわない質感には、最初随分と戸惑わされた。
 質問の意味が直ぐに理解出来なかったのか、綱吉は小首を傾げた。真ん丸い目が平らに引き伸ばされて、ディーノは肩を竦めると、右手を広げて木の根に寄りかかる形で落ちていた本を拾い上げた。
 軽く振って土汚れを落とし、見えやすい角度に掲げる。紺色の表紙を目の当たりにして、綱吉は目を見張り、次いで渋い顔をした。
 下唇を咥内に巻き込んだ彼に、ディーノは「おや?」と首を捻った。
「ツナ」
「見ました?」
「ああ。勉強、頑張ってんだな」
「……誰にも言わないでくださいね」
「? なんでだ?」
「だって、隠れてこそこそやってるのがばれたら、格好悪いじゃないですか」
 てっきりリボーンに居眠りをしていたのを知られるのが嫌だと思っていたら、違った。想定外の返答を貰って、ディーノは口を窄め、怪訝な顔をした。
 彼から沢田家の秘蔵書を取り返した綱吉は、表面に残っていた汚れを爪で削ぎ落とし、大事に胸に抱え込んだ。ぱらぱらと広げ、傷が増えていないのかを確かめて、安堵の息を吐く。
 その態度からは、リボーンに言われて渋々、という雰囲気は感じられなかった。
「自分で?」
「言わないでくださいよ」
「ああ」
 誰かに命じられたからやるのではなく、自ら進んで書を手にしたのだ。勉強が大嫌いで、術の修行もなにかと理由をつけて怠けたがる綱吉が、珍しい。
 しつこく念押ししてきた彼に頷いたものの、思っている事が顔に出ていたらしい、睨まれてディーノは照れ笑いを浮かべた。
 膝を伸ばし、綱吉が座る空間を広げてやる。いつまでも寝入っていた時のまま、背中を丸めているのは辛い。彼の無言の気遣いに感謝の言葉を述べて、綱吉は両手両足を目一杯伸ばした。
 ディーノに斜めに寄りかかっていた姿勢を改め、彼の胸に背中を預ける。裾の長い打掛は、膝を伸ばした綱吉の足首まですっぽりと覆ってくれた。
 細い腰に腕を回して手を握ったディーノに、綱吉は肩を揺らして笑った。
「暖かい」
 そんな事をせずとも、逃げるつもりはない。雲雀からは、極力ディーノに近付かないよう言われているけれど、寒空の下に於いて、彼の暖かさは貴重だった。
 太陽の運行を司る神たる彼は、日の出ている時間帯に限ってだけ、とても温かいのだ。
 自立式巨大懐炉、或いは毛布。天界に座す神格を捕まえてその表現は失礼極まりないのだが、言い得て妙で、綱吉は満足げに頷いた。
「ディーノさんは、どうして此処に?」
「散歩」
「……」
「お前の姿が見えないって、山本の奴が騒いでたからさ」
 大楠は並盛山の聖域内にある。沢田家の血を継ぐ者か、或いは特別な資格を有した存在のみが立ち入りを許されている領域であり、山本は足を踏み入れることすら出来ない。
 並盛山は巨大な結界に幾重にも囲まれた、特別な場所。山の頂に近付くにつれて霊気は澄み、尖り、濃度を増して行く。聖域を包む結界に無資格者が立ち入ろうとしても、山はこれを拒み、何処かしら別の地に飛ばしてしまう。
 並盛山が神隠しの山とも呼ばれている所以だ。
「昼飯に帰ってこなかったから、心配してたぜ」
 ディーノは神格なので、結界は彼を拒まない。綱吉が屋敷や里に居ないのならば、残る居場所は此処しかなくて、だから彼が探索係に抜擢されたのだというのは、すぐに分かった。
 最初から正直にそう言ってくれればいいのだ。頼まれて探していたのなら、どうしてもっと早く起こしてくれなかったのだろう。不満を顔に出せば、頬を無邪気に小突かれた。
「ディーノさん」
「だってお前、すんげー気持ち良さそうに眠ってるし」
「別に、起こしてくれたって」
「起こしたさ」
 寝顔を彼に見られたのも、恥ずかしい。頬に朱を走らせた綱吉の苦情をさらりと受け流し、ディーノは肩越しに顔を摺り寄せた。
 頬を押し当てられて、肌の間に髪の毛が混ざりこむ。隙間がないくらいにぴったりと張り付かれて、綱吉は腰を捩った。
「ディーノさん」
「起きなかったのは、お前だろ」
 もうちょっと離れてくれるように頼むが、あえなく無視された。手探りでディーノの顎を掴んで後ろに押し返すが、そもそも腕力の差は歴然としており、何の役にも立たなかった。
 あまつさえ唇に触れた指を舐められ、綱吉は背筋を粟立てた。
「ひっ」
「だってさー、ツナ、触っても撫でても、さすっても。……吸っても、全然起きないんだからさー」
「すっ……?」
 喉を引き攣らせた綱吉に気を良くしたのか、ディーノの鼻の下がだらしなく伸びた。折角の美男子ぶりが台無しだったが、本人はまったく気にも留めず、綱吉を抱える腕に力をこめると、それこそ痛いくらいに頬を擦りつけた。
 調子に乗って声を大きくし、少々大袈裟な表現で事の次第を語って聞かせてやる。実際にやったのはさすったところまでだったが、真っ赤になった綱吉の反応があまりにも可愛かったので、つい羽目を外してしまった。
「ふふーん。あーんなことしても、こーんなことしても? 可愛い声で鳴くだけで、ちーっとも起きねーんだもんなー」
「やだ、嘘!」
 案の定狼狽え始めた綱吉にしたり顔をするが、彼に背中を向けている綱吉はそれに気付かない。慌てふためいて叫び、黄檗色に朱を散らした長着の裾を抓んで左右に割り広げた。
 ディーノに腰を固定されたまま身を乗り出した彼の目に、長襦袢に包まれた細い足が浮かび上がる。着衣に大きな乱れはなく、帯も朝締めた時となんら変わっていなかった。
 緩んでいないのを確かめ、襦袢の上から褌の縁を指でなぞったところで、綱吉は真後ろに座る青年が笑いを堪えているのに気がついた。
 小刻みに肩を震わせ、くくく、と隠し切れない声を漏らしている。右肩に額を押し付けられた綱吉は騒然として、唇を戦慄かせた。
「ディーノさん!」
「あはっ、はははは。はははっ」
 からかわれたのだと理解した瞬間、綱吉の顔面は真っ赤に染まった。頭の天辺から白い湯気を噴き、自分で捲った裾を大慌てで閉ざして足を引っ込める。三角に膝を立てて両手を回し、彼はディーノの視界から己を隠そうとした。
 ディーノは金髪を波立たせ、楽しそうに笑い声を響かせた。途中から右手を解いて自分の太腿を何度も叩き、息継ぎに失敗して、ひーひー、と歯の隙間から息を吐く。
 笑っているのか、苦しんでいるのか分からない彼にばつが悪い顔をして、綱吉は彼の腹筋を肘で突いた。
 油断していたところを攻撃されて、防ぐどころではなかったディーノが瞬間、うっ、と唸った。綱吉自身、随分と深く入ってしまった自覚はあって、急いで腕を引き、狭い中を振り返る。
 だが予想に反し、彼は太々しい顔をして笑っていた。
「駄目だぜ、ツナ。簡単に騙されてちゃ」
「ディーノさんってば、酷い」
 軽やかに言って、綱吉の肩を抱いて引き寄せる。左の耳朶にくちづけられて、綱吉は皮膚に触れた熱に身じろいだ。
 文句を言うが、真剣に受け取ってもらえない。調子よい謝罪がひとつ告げられて終わりで、不満を覚えた彼は盛大に頬を膨らませた。
 そういう子供じみた拗ね方が、余計にディーノを上機嫌にさせているのに気付きもしない。膨れ面をした綱吉の頬を両手で挟んで潰して、前屈みになって追いかけ、背中を丸めた。
 後ろから押し潰さん勢いで体重を預けられ、逃げ場のなかった綱吉はぐっ、と腹に力を入れて耐えた。
「重たい」
「ほらほら、どうしたー?」
 必死に押し返すが、上から加えられる圧力は容赦なかった。本気でぺしゃんこにされそうで、脇腹を擽る手を掴んで苦し紛れに引っ掻くが、ディーノは全く意に介さなかった。
 耳元で意地悪く囁かれて、綱吉は鼻を大きく膨らませた。全筋力を総動員して抗い、首を振って頭突きをお見舞いする。それは予想していなかった彼は、どうにか寸前で避けたものの、拘束は緩めざるを得なかった。
 束縛が弱まり、はっ、と息を吐いた綱吉が急いでディーノの手から遠ざかろうと膝を起こした。
「いってぇ、……やったな」
「先に嗾けてきたのはディーノさんじゃないですかー」
 それを片手で制し、肩を掴んだディーノがじたばた暴れる綱吉を再び己の胸元に引きずり込んだ。つんのめって真後ろに倒れた綱吉は、後頭部を彼の逞しい太腿に転がして、恨みがましい目をして叫んだ。
 潤んだ瞳が真上に陣取る青年を睨むが、迫力は皆無に等しい。長く伸びた金髪を垂らしたディーノに笑いかけられて、綱吉はぶすっと口を尖らせた。
「俺の勝ち」
 いったいいつから勝負事になっていたのだろう。変な角度で折れ曲がった膝が痛くて、綱吉は諦めて力を抜くと、息を吐いて大の字になった。
 朱色の衿の間から、中に収めておいた書の頭がはみ出ている。落ちないように押し込んで上から撫でると、本の厚み分だけ、長着に凹凸が出来た。
「なんで急に?」
 ごろん、と横になった綱吉の頭を撫で、ディーノが声の調子を落として言った。彼が先に何を見ていたか、分かっていた綱吉は気の抜けた笑みを浮かべ、寝返りを打って左を下にした。
 胡坐を組んだディーノの足首に手を添えて、寝転んだまま背筋を伸ばす。閉じた瞼の裏に浮かび上がるのは、雲雀の姿だ。
「邪魔しちゃ悪いと思ったから」
「恭弥のか?」
「うん」
 短く告げられたひと言には、大事な部分が多々抜け落ちていた。が、綱吉が気にする相手は多いようで、実は少ない。どうせあの男のことだろうと当てずっぽうで名前を出せば、間髪いれずに肯定の返事があった。
 綱吉の思考の八割方が、雲雀に関わる事柄だ。それは周囲も、本人も認めている。残る二割のうち、自分はどれくらい占められているのかを想像して、ディーノは薄茶の髪を指に絡めた。
 軽く引っ張ると、痛がって綱吉は上を向いた。
「だって俺、馬鹿だし」
「そんな事は、……うん」
「べー、だ」
 きっぱり言った彼に否定を返してやりたいところだが、出来ない。返事を誤魔化したディーノに舌を出し、綱吉は憤慨して浮かせた頭を落とした。
 どすん、と太腿に頭突きされて、ディーノは苦笑いを浮かべた。
 綱吉が言いたいところは、教えられずとも大体想像がついた。村の用事に忙しい雲雀の負担を少しでも減らしてやりたいが、力仕事に不向きな所為で手伝えることは少ない。ならばせめて神社の祭事くらいは自分ひとりで取り仕切って、彼の手を煩わせないようにしよう。つまるところ、そういうことだ。
 リボーンに頼るのも癪だし、雲雀に筒抜けになってしまうだろうから、自力で頑張っていた。誰にも言わないようディーノにしつこく求めたのも、その辺りに理由があるのだろう。
 いじらしい。
 ぶすっとしながらも、表情に照れと恥じらいが紛れている綱吉を見下ろし、ディーノは目を細めた。
「ツナは、可愛いな」
「むぅ」
 偉いな、と言おうとしたのに口から零れ落ちたのはそんなひと言だった。
 即座に綱吉が不満を顔に出し、唸った。それで言い間違いに気付いたディーノだったが、可愛いのも事実なので訂正は加えず、拗ねる綱吉の小鼻を突くに留めた。
 目に入れても痛くないくらいに可愛い、とはまさに彼のような存在を指しているのだ。愛おしく思う気持ちがむくむくと膨らんで、ディーノは幸せな笑顔を浮かべた。
「ツナ」
「なんですか?」
「俺が手伝ってやろうか」
「え?」
 ぬっ、と首を前に倒して木漏れ日を遮ったディーノの提案に、綱吉が両の目を見開いた。
 真ん丸い琥珀の双眸に不敵な笑みを返し、任せろ、と自信満々に胸を叩いた彼を見上げ、綱吉は数秒間停止した後、ふにゃりと顔を緩めた。
 気の抜けた笑みに、確かな手応えを感じたディーノは満足げに頷いた。
「良いです」
 だのに桜色の唇から飛び出て来たのは拒否の文言で、彼は一瞬きょとんと、目を点にした。
「ツナ?」
「よ、っと。だって、ディーノさんに手伝ってもらったら、結局、俺はひとりじゃなんにも出来ないままじゃないですか」
 掛け声を合図に両手を地面に突きたて、彼は身を起こした。ディーノの爪先で正座をして居住まいを正し、妙に畏まって告げる。気負いのない口ぶりと態度が、彼の決意の深さを物語っていた。
 雲雀の為だと思っていたが、違う。きっかけではあったかもしれないが、今、綱吉は自分の為に、自分が出来ることを増やそうとしている。
 このままでは駄目だと悟り、自分の足だけで立とうとしている。
 彼の志を邪魔するような、無粋な真似はすべきではない。思い至り、ディーノは先ほどとはまったく違った意味で頷いた。
「そっか」
「はい」
 短く言うと、綱吉が威勢よく返事をして首を縦に振った。
 朗らかな笑顔に、一瞬沈みかけた気持ちも直ぐに浮き上がる。肩を竦めて力を抜いたディーノは、向かい合う形で座る綱吉に手を伸ばし、寝癖が残る髪の毛をくしゃくしゃに掻き回した。
 首を竦めてくすぐったそうにしつつも、綱吉は逃げない。照れ臭そうに相好を崩して、しつこく撫でてくるディーノの手を両手で挟んだ。
「もう、やめてくださいってば」
「ツナ、好きだ」
「――う?」
 父を思い出させる大きな手を押し返そうとして、不意に聞こえたひと言に動きが止まる。目をぱちくりさせた彼に目尻を下げ、ディーノは同じ台詞を繰り返した。
 これまでにも何度か、その言葉を貰っている。冗談交じりの時もあれば、とても真剣な眼差しと共に告げられたこともあった。
 雲雀とは色の異なる瞳が、真っ直ぐに綱吉を射抜いている。嘘偽りのない心からの言葉だと分かるからこそ、迂闊なこともいえなくて、綱吉は息を飲んだ。
 いつぞや、押し倒された記憶が蘇るが、あの時のような情欲に溺れた彩は感じられなかった。
「ディーノさん」
「好きだ、ツナ。……駄目だな、俺」
 前後の脈絡もなしにいきなり言われて面食らった。そう顔に書いた綱吉に名を呼ばれ、彼は短く息を吐き、恥ずかしそうに頭を掻いた。
 自嘲交じりの笑みを零し、肩を竦めて小さくなる。緋色の打掛を引き寄せた彼は、不思議そうにしている綱吉に首を振り、額に手を置いて顔の右半分を隠した。
「?」
 小首を傾げている少年に小さく舌を出し、残る手を上下に振って手招く。上と下、交互に見た綱吉は、深く考えもせずに誘いに乗り、膝立ちで少しの距離を詰めた。
「わっ」
 と、途端に腰を掬い上げられて、ディーノの膝に下ろされてしまった。
 片腕で易々と扱われ、男としての沽券に傷がついた。折角脱出したのにまた戻されて、綱吉は悔し紛れに彼の肩を殴り、身体を揺すった。
 太腿の上で暴れられて、ディーノが呵々と喉を鳴らした。落ち着いてくれるよう頼んで背中を撫で、肩を包んで引き寄せる。
「むぅ」
「ほら、駄目だろ、ツナ。こんなに簡単に男の膝に乗ったら」
「ええー?」
 膨れ面をしていたらそんな事を言われて、綱吉は素っ頓狂な声を上げた。
 そっちから仕掛けておいて、その言い草はあんまりではなかろうか。ディーノに指示されたから従っただけなのに、まるで自分の所為のように言われて、綱吉は目を吊り上げた。
 迫力に乏しい怒り顔に肩を揺らし、ディーノは可愛らしい額を指で小突いた。
「知ってるだろ。俺はお前が好きで、それで、お前を攫って逃げるくらい簡単だってこと」
 ディーノの外見が二十台前半の青年を模している事、そして口調が砕けていて綱吉たちにとても近しいところから、日頃はうっかり忘れそうになるけれども、彼はれっきとした、神だ。
 地上に降りるに当たって力の一部を封じた上に、リボーンによって更にその束縛を強められているけれども、彼は人の身に堕ちたわけではない。
 その気になればリボーンが施した封印くらい、自力で壊せる。そうなれば彼を止められるのは、ディーノと同格、或いはそれ以上の神格だけだ。
 雲雀が本気を出しても、恐らくは太刀打ち出来ない。
 空恐ろしい事をさらりと口にして、ディーノは綱吉の反応を窺った。脅しと取るか、どうか。恐がって、嫌われる可能性もあるだけに、内心どきどきが止まらなかったのだが、綱吉は彼の意に反し、無表情だった。
 頭の上に疑問符が生えている。言葉の意味を理解していないのかと勘繰ったディーノだったが、幾らなんでもそこまで馬鹿な子ではないと思い直し、仕方なく綱吉が何か言ってくれるのを辛抱強く待った。
 珍妙な沈黙が流れ、空気が重くてならない。綱吉相手にこんなにも居心地悪く感じるのは始めてで、彼はそわそわと腰を捩り、抱えている綱吉ごと身を揺らした。
「あ、あー」
 それをきっかけにして、綱吉が急に甲高い声をあげた。目をぱちくりさせて口を開けたまま数回頷き、やがて悪戯っぽい笑みを浮かべて右手を高く持ち上げた。
「いてっ」
「駄目ですよ、ディーノさん」
 いきなり首寄りの肩を叩かれて目を瞑り、ディーノは聞こえて来た綱吉の笑い声に眉目を顰めた。
 隻眼で見詰めると、綱吉は満開の花のような微笑みを浮かべ、もう一発、今度はディーノの胸を衝いた。
 上半身を前後に揺さぶって、ディーノは彼の背に手を回した。落とさぬよう支え、首を傾げる。不思議そうにしている青年に笑みを返し、綱吉は一旦切った言葉の続きを音に述べた。
「そんな事、軽々しく言ったら駄目じゃないですか」
「う、ん?」
「俺だったから良かったけど。信じちゃう子がいたら、どうするんですか?」
 話が妙な方向に転がっている気がして、ディーノは視線を浮かせた。怪訝にしている彼を知らず、綱吉が両手を口元にやって肩を竦める。
 彼がディーノの弁を冗談として受け止めた、というのは間違い無さそうだった。それを証拠に、途中から堪えきれなくなった綱吉は腹を抱え、ディーノの屈強な体躯をこれでもか、というくらいに何度も叩いた。
 さほど痛くないといっても、同じ場所を何度も叩かれると痒くなってくる。苦虫を噛み潰したような顔をしたディーノが狼藉を働く手を捕まえてねじ上げると、綱吉は涙の浮いた目で彼を見上げ、白い歯を覗かせた。
「ツナー?」
 彼がディーノの弁を冗談だと思ってくれたのは、ある意味救いだ。真に受けて嫌がられ、二度と傍にいけなくなるよりはずっと良い。
 だがそれでも、全く傷つかなかったわけではない。
「駄目ですよー、そういうこと簡単に言っちゃ。誤解されても知りませんよ」
「……そっか」
 綱吉は先に、「自分だったから良かった」と前置きした。だから彼も、一応は真面目に考えたのだろう。そしてからかわれたのだと結論を出した。
 他の、たとえば里に暮らすいたいけな少女相手に同じ台詞を述べたりしたら、相手はころりと騙されてしまう。それくらいに言葉には真実味があった。
 だけれどついさっき、ディーノにはまんまと騙された。だから今回の発言も冗談なのだと、綱吉はそう解釈した。
「駄目なのか」
 信じてもらえなかったのは悲しい。
 だが別の見方をすれば、綱吉はディーノを、それこそ心から信頼していた。
 彼は、綱吉と雲雀の絆の強さを知っている。綱吉がどれだけ雲雀を思い、雲雀がどれほどに綱吉を愛おしんでいるかを理解している。両者が離れ離れになるのを望んでおらず、万が一そんな事になればふたりとも壊れてしまうのも、分かっている。
 だからディーノは、しない。綱吉から雲雀を取り上げることも、その逆も。
 自分の欲望を満たす為だけにふたりを引き離す暴挙を冒し、綱吉を泣かせることはしないと、信じている。
「そうです。まったく、もう。俺じゃなかったら、今頃大騒ぎになってますよ?」
 偉そうに腕を組んで深く頷いた綱吉の顔は、真剣だった。
 それが可笑しくて、ディーノは破顔した。
「そっか。じゃ、お前ならいいのか?」
「へ?」
「お前になら言ってもいいのか?」
 他の女の子には言っては駄目だが、自分になら構わない。聞きようによってはとてつもない独占欲を向けられた気分になれるひと言に心が浮き足立って、ディーノは早口で綱吉に詰め寄った。
 自分の発言に凄まじい落とし穴があると気付き、綱吉は目を見張った。
「え、あ……ええ?」
「じゃあ、言う。お前が好きだ、ツナ。お前を俺のものにしたい。今すぐくちづけて、抱き締めて、それから、それから」
 見事に揚げ足を取られてしまい、反論できない。逃げ出す暇も与えてもらえなくて、綱吉は慌てふためき、迫り来る男の胸を強く押し返した。
 だが、叶わない。口を蛸のように尖らせて接吻を強請る男に顔面蒼白になって、彼は咄嗟に目を閉じ、心の中で助けを求めた。
 刹那。
「どがはぁ!」
 聞き苦しい、野太い悲鳴が短く響いて、綱吉の前から圧迫感が消え失せた。
 今の今までなかった第三者の気配を間近に感じ、身を竦ませていた綱吉は恐々瞼を開いた。頬を撫でる風にディーノとは異なる匂いを感じ取り、数回瞬きを繰り返して顔を上げる。
 大楠の根元に頭をめり込ませたディーノの背後で、青銀の拐が木漏れ日を反射して輝いた。
「何度言わせれば分かるよ」
「うひゃ」
 心に響いた耳に痛い説教に首を引っ込め、綱吉は舌を出して頭を抱え込んだ。
 ディーノには近付くな、と過去幾度となく釘を刺されていたに関わらず、今日もまた、同じ過ちが繰り返されるところだった。もう少し到着が遅ければ、綱吉の貞操が奪われていただけに、雲雀としては腹立たしくてならない。
 が、必ず彼が助けに来てくれると信じていた綱吉は、さして悪びれた様子もなく微笑み、両手を叩き合わせた。

2010/06/19 脱稿