吐く息が白く濁るようになって、数日が過ぎた。空には雲が多くなり、日が照っている時間は目に見えて短くなった。
日の出と共に起き出し、日の入りと同時に寝床に入る。そういう生活だから必然的に冬場は夜が長くなり、短い日中は何かと慌しかった。
もう少しすれば雪が降るだろう。そうなれば農地は真っ白に染まり、川も一部は凍りつく。そうなる前に越冬に向けて食糧を保存し、薪を確保する必要があった。
お陰様で沢田家も、御多分に洩れず大忙しで、身に沁みる寒さに震える暇さえ許されなかった。
「お前、こういうのは器用なんだな」
「うっせえ、邪魔すんな」
縄に大根を巻きつけ、軒先に吊るして行く作業は獄寺が担当で、山本は等間隔に並べられた根菜の群れを見上げ、感心した様子で頷いた。
珍しく褒めてやったのに邪険に扱われ、肘で追い払われた黒髪の青年は、肩に大きな麻袋を担いでいた。
並盛山を代表とする険しい山に囲まれた盆地に、彼らの暮らす村はあった。南から伸びる細い山道だけが、唯一里と外界を繋いでいる。東西に迫る山並みは、慣れた足であればどうにか越えられないものではなかったが、北に聳える雲よりも高い並盛山だけは、霊山という特性もあって、人の立ち入りは一切禁じられていた。
その山の中腹に、一軒の屋敷があった。南から見上げてその左側には神社があり、只人が入山を許されるのはそこまでだ。
そこより奥は禁足地。限られた血族と限られた存在だけが、霊力を遙かに上回る神気に満ちた大地を踏む事を許されている。
「ただいまー」
秋も深まり、暦は間もなく冬の入り口を迎える。吹き抜ける風は冷たく、鋭く肌を刺す。
夏場ともなれば常時開け放たれている裏の勝手口も、今は風を避けて閉ざされていた。山本は左手で戸を左に滑らせて開き、敷居を跨いで屋内に入った。明かりの乏しい土間は薄暗くて、外から帰ったばかりの目は闇に慣れず、足許も覚束無かった。
「お帰りなさい」
奥に向かって声をかけたが、返事は思った以上に近くからあった。逆さにした桶に乗り、襷で袖を縛った奈々が、神棚に置かれた小皿を下ろしているところだった。
掌程の大きさで、底は浅い。綺麗な三角錐に盛られていた塩は、動かした際の衝撃で崩れて平らになった。
「よいしょ、っと」
彼女が残念そうに顔を顰める横で、山本は居間に上がる為の沓脱ぎ石の傍らに、背負ってきたものを置いた。絞っていた口を開き、中身に手を掛ける。蹲った彼の後ろに来た奈々も興味津々に覗き込み、直後歓声を上げた。
両手を叩き合わせ、出て来たものに目尻を下げる。
「凄いわ」
「鹿と、あと猪も。任せちゃっていいですか」
村の狩人に頼み込み、冬場を乗り切るのに必要な肉類を分けてもらってきたのだ。
今すぐ塩を振って焼いて食べたい衝動に駆られるが、目先のことに溺れていては春を迎えられない。燻すなり、塩漬けにするなりして、長期間保存できるよう加工するのだ。
山本の頼みに奈々は二度頷き、麻袋いっぱいに詰め込まれた鹿肉に早速手を伸ばした。血抜きはされているが生臭く、山本の登場により獣臭さが土間に充満する。けれど奈々はまるで意に介さなかった。
大根を吊るし終えた獄寺が入って来て、後ろ髪をひとつに縛った彼だけは露骨に顔を顰めた。山本が後ろを通り過ぎた時から薄々感じていた悪臭に鼻を抓み、顔の前で大袈裟に手を振る。その仕草を奈々は笑い、山本は不思議そうに見守った。
「くっせー」
「んだよ。旨いんだぞ」
くぐもった声で文句を言う彼に、山本は上がり框に広げた肉を指差した。
幼い頃は鬼の里で、姉であるビアンキの保護下にあった彼は、その村で問題を起こして以後、人間である父親に引き取られた。退魔師として名を馳せる蛤蜊家の、その傍流である獄寺家は、嘗ての栄光に縋り、落ちぶれていても身なりと食事だけは立派だった。
農作業も、獣の解体も、彼はした事が無い。目にすることすらなかった。鬼の里でも、父親の屋敷でも迫害されていた彼は、日々口に入れる食物がどういう経路を辿って彼の元にやって来るのか、そんな基本的なことすら教わってこなかった。
獄寺にとって畑仕事も、山で実っている果実を採取するのも、何もかも並盛に来てから初めての経験だった。
虐げられながらも、食事はきちんと与えられていたし、衣服も清潔なものを毎日用意してもらっていた。尤も、自由に外出も出来ず、書を読んで独学で学ぶ以外することがなかった日々と今とを比べて、どちらがより充実しているかは言うまでも無い。
だが、慣れないものは、未だ慣れない。少し前まで生きていた動物を、人間が食べる為とはいえ縊り殺し、血を抜き、皮を剥いで捌くのは、もうじき里に来て一年になろうとしている今も出来ないことのひとつだ。
「食わねえのか?」
「……食うよ」
「じゃあ、いい加減慣れろ」
植物にだって命がある。獣にも、人にも、無論。
己が生き長らえるためには、他の命を奪い取る必要があるというのも、此処に来て学んだ。
素っ気無く言われ、獄寺は渋々頷いた。鼻を開放して息を吸う。嗅覚は麻痺してしまったようで、最初感じた喉が抉られるような臭みは、もう二度と得られなかった。
綱吉や雲雀、そしてディーノのように、山に満ちる霊気を糧として生きられたなら、余計な殺生もせずに済む。しかし人として生きながら、豊かな味覚を知らずに過ごすのも寂しいと言ったのは、他ならぬその綱吉だ。
幼少期のとある事件をきっかけに、彼は生命維持に必要な栄養素を、食物からでなく霊気から得るようになった。とはいえそれまでの習慣もあって、本来は必要ない食物を胃袋に入れる生活を、今も続けている。
雲雀も綱吉に倣う形で、皆と一緒に囲炉裏を囲む日々だ。
必要が無いのに、食べる。それを最初、獄寺は無駄な行為と考えた。けれど彼が沢田家に来る以前、家光が出奔して後は、この広い屋敷には綱吉、雲雀、そして奈々の三人しか住んでいなかった。
その中で食事が必要なのは奈々だけ。彼女ひとりが膳を前にするのは寂しすぎるという思いから、綱吉は今も一日三回、箸を手に取る。
それにたとえ栄養分が霊気で補えようとも、それは基本無味無臭。綱吉から味覚が消えたわけでもないので、美味しいものを食べたいという欲求もまた、彼の中には残されていた。
「それ、どうするんだ」
「塩漬けと、味噌漬けと、あとは燻すのかな」
「どれが食べたい?」
獄寺が問えば、山本が視線を奈々に流して呟いた。彼女は立ち上がると襷の結び目に手を伸ばし、するりと解いて皺の寄った袖を開放した。
手早く身なりを整え、微かに音がした方に駆けて行く。男子ふたりも土間から続く玄関に顔を向けたが、立ち位置の所為で見えなかった。
「はいはーい……あら?」
一方で奈々は手櫛で髪を梳き、玄関に顔を出して小首を傾げた。誰も居ないように思えたのは一瞬で、彼女の声を聞きつけた人物が、慌てた様子で戸口の前へ戻って来た。
どうやら庭から直接、南に面している座敷を覗きに行こうとしていたらしい。
日が出ている間は其処が屋敷で最も明るく、温かい。必然的に、囲炉裏のある居間よりも人が集まる。
だがこの時間は、残念なことに誰もそちらには居なかった。
「了平君じゃない」
「こんにちは」
よもや台所に集合しているとは思っていなかったようで、照れ臭そうに短く切り揃えた頭を撫でた了平が、戸を開けて表に出た奈々に会釈して笑った。
夏場は晒しに股引という非常に身軽な出で立ちを好む彼だけれど、流石にこの季節ともなると、その格好で出歩くのは本人にも、周囲の目にも寒すぎる。丈の短い半纏に袖を通し、裾を絞った野袴を穿いた彼は、背伸びをして奈々の後方を窺うと、首を撫でていた右手を下ろした。
「雲雀と、沢田……ご子息は」
「ツナに御用?」
慣れている呼び名を口ずさもうとした了平は、告げてから奈々も「沢田」であるのを思い出し、ぎこちなく言い直した。そんな不器用ながら実直な彼に目を細めた彼女は、愛息子の名前を声に出し、彼が首肯するのを待って頬に手を添えた。
困った様子で視線を脇に流し、後ろからやって来た山本達を振り返る。
だが彼らも、今し方話題に出た人物とは、朝食時に会ったきり、顔を合わせていない。
「雲雀だったら、山で薪を集めに」
「十代目は神社の掃除で、今は外してるぜ」
屋敷の裏手には、雲雀が何往復かして集めた枯れ枝が、それこそ山のように積み上げられていた。
三人で生活していた時は此処まで集める必要がなかったのだが、今は成長期の食い扶持がふたりも増えてしまったので、どれだけ蓄えておいても足りないような気がしてならない。
「いつ戻るかは」
「ツナなら呼べば帰って来るだろうけど。急ぎ?」
「ああ、いや。出直そう。もしくは近いうちに、こちらに顔を出してくれると助かる」
山本の説明に頷き、顎を撫でた了平は少し考え込んでから首を振った。だが口調からは、なるべく早く相談したいことがあると窺えて、獄寺はちょっと眉を寄せて奈々を見た。
了平らしからぬ、奥歯に物が挟まったような物言いに、彼女も少々困った様子で顔を顰めていた。
「俺らじゃ無理なのか」
試しに彼が手を挙げると、意外だったようで了平は細い目を丸くした。そして直後に破顔し、両手を腰に当てて首を横に振った。
迷いもせずに決断を下されて、それで腹が立たないわけがない。役立たずだと言われたようなもので、顔を赤くして憤慨した彼に、けれど了平は冷淡に言い放った。
「気持ちは有り難いが、大晦日の祭礼の話だ。お主では分からんだろう」
「くっ……」
かなり先の話ではあるが、年が変わる前日に、並盛神社では茅輪くぐりが行われる。夏の始まりにも行われたが、あの時とはまた趣が異なり、今度は夜行われる。毎年恒例で、村で育った人からは慣れ親しみある行事であるが、並盛に来てまだ一年経っていない獄寺は経験した事が無い。
言われても直ぐに想像出来なくて、獄寺は言葉を詰まらせ、悔しさを噛み締めながら大人しく引き下がった。
代わりに前に出た山本が、頭の後ろで手を結んで気の早い了平に小首を傾げた。
「随分先の話なんだし、未だいいんじゃねーの?」
「俺もそう言ったのだが、老人どもが五月蝿くてな」
早いうちから準備を進めるのは良いことだが、初雪もまだのこの時期からというのは、少々気が急き過ぎている。怪訝に感じ取った山本に目配せし、了平は腕を組んで苦々しい面持ちで呟いた。
言われ、村の年寄り株の顔を順に思い浮かべた山本は、小言の多い連中から吊るし上げを食らう了平の姿を想像し、心から同情を表明した。
笹川了平は、並盛村の村長の息子にして、次期村長の座を確約された人物だ。今は年若い村の子らを纏める役目を担っており、口ばかり達者な老人らとの仲介役も兼ねている。
記憶力に少々難があるが決断が早く、熱血漢で行動力に溢れる彼を慕う若者は多い。そんな彼でも、己の三倍近く歳月を重ねている村の重鎮らとの対話は疲れるのだろう。言葉の節々から、恨み言めいた感情が垣間見えた。
「けどなー……」
「今年は春先から、色々とあっただろう」
「ん、と、悪い。俺戻って来たの、夏だから」
頬を引っ掻いた山本が、あまり気乗りしない様子で言葉を濁らせる。畳み掛けた了平だったが、忘れていた事項を指摘されて、そうだったか、と右に首を倒した。
退魔師として綱吉や雲雀と共に修行を重ねて来た彼は、一足先にリボーンに一人前と認められ、昨年からこの夏先まで、実戦修行の旅に出ていた。戻って来たのは彼が言うように梅雨に至る直前で、春に村を襲った原因不明の病に関しては、話を聞きかじった程度しか知らない。
玄関の影で聞いていた獄寺だけが、どきりと心臓を跳ね上げたが、ふたりはそれに気付かなかった。奈々は子供たちだけで話し込み始めたと見るや否や踵を返し、台所に戻ってしまっていた。
乾いた唇を舐め、挙動不審に目を泳がせる獄寺を知らず、話が解らないのならば仕方が無いと早々にこの話題は切り上げ、了平は耳の後ろを掻いた。
「兎も角、夏場の長雨や、秋口の猛暑の件もある。先だっての大火もな。今年の並盛は厄が付きまとっておる。これを早いうちに、祓いたいらしい」
「ああ、……なるほどね」
並盛の里は、神に愛された地とも言われてきた。
並盛山から流れ出る水は、周辺地域がどれほどに旱魃に喘ごうとも涸れることなく、村の田畑を潤してきた。天災ともほとほと無縁で、平和で穏やかな生活が約束されていた。
だというのに今年に入ってから、妙な出来事が頻発するようになった。特に秋祭りの夜に起きた大火災は、村人の心を恐怖のどん底に突き落とした。
大勢が命を落とした。住処や田畑を失った人も多い。夏を前に雲雀が雲を読んで得た結果は豊作だったのに、終わってみれば稲穂は刈り取る前に殆どが灰と化した。
村を焼いた火事の原因を彼らは知っているが、里に暮らす人々の大半は裏に隠された真実を知らないままだ。
解らない。が、不吉に感じる。信心深い人の中には、自分たちが祈りを疎かにした所為で、山の神の怒りを買ったのだと言いだす者まで居た。了平が相手をさせられた年寄りたちも、その一派だろう。
祭事を急ぐのは、一刻も早く厄払いを済ませ、元の生活に戻りたい心の現われともいえる。気持ちはよく分かると頷き、山本は暗い表情で後方の山を仰いだ。
建物の所為で殆ど見えないが、目を瞑れば光景がありありと浮かんでくる。どれだけ望んでも、山本は裏庭に設けられた結界石を越えられない。それを悔しく感じながら、姿勢を戻す。
「ふたりが戻ったら、伝えておきます」
「すまんな」
感情を表に出さず丁寧に告げた彼の肩を軽く叩き、了平は即座に踵を返した。軽く手を振って見送って、山本は暗がりで何故か蹲っている獄寺を見つけ、肩を竦めた。
「拗ねんなって」
白い歯を見せ、着流し姿の青年は素足で険しい表情をしている獄寺の脛を蹴った。
「うっせーよ」
「しっかし、そうか。正月か」
不貞腐れた声が下から放たれたが無視し、両腕を頭上に掲げて背筋を伸ばす。日の当たる場所はまだ幾らか温かかったが、日陰に入った途端に肌寒さが襲って来て、山本はすぐさま脇を締めて固く均された地面に両足を並べた。
土間と玄関の間には四畳ばかりの空間があり、板戸で仕切られていた。昔は実に多くの人がこの屋敷に出入りし、朝から晩まで賑やかだったというが、八代目当主家光が出奔して以降はそれもすっかり途絶えてしまった。
この板戸の境界線を潜らずに左に上がれば、座敷はもう目の前だ。三間続きで、訪ねて来た人の地位に準じて奥に続く襖は開かれる。獄寺が最初訪ねて来た日、通されたのは真ん中のニの間だった。
呪符や札を作る際、作業をするのに借りるのは大抵最も手前の、三の間。ディーノがやって来た時は、問答無用で最奥の一の間が用いられる。
彼は神格者だから、というのは頭では分かっていても、見た目や性格からはどうしても神々しさが感じられなくて、釈然としない。リボーンによってその力の大半を封じられているので、今の彼はただの人と相違ないのに。
「正月……」
何時までも玄関先で座っているわけにはいかず、獄寺は埃を払って立ち上がった。
鬼の里は人の暦とは違っていたので、そういう祭事があると知ったのは獄寺家に引き取られて以後だ。無論、知っただけで体験したとはまた違う。彼が覚えているのは、その日の食事が普段以上に質素で乾き物だらけだった、という事くらいだ。
あまり楽しくなかったと嘯くと、何故か山本は呵々と声を大にして笑った。
「なんだよ」
「お、お前……あー、そうか。正月の意味も知らねえのか。歳神様は?」
「なんか、違うのか?」
初耳の神の名に、戸惑いを隠さずに聞き返す。並盛の里は並盛山の加護を受けており、山こそが神。だのに他にも神がいるのかと、真面目な顔で問うた彼にまた肩を揺らし、山本は顔の前で手を横に振った。
言外に違う、と言われて、獄寺の眉間の皺が一段と深くなった。
「歳神様ってのは、一年の初めにやってくるまれびとのこと。その歳の幸福を約束してくれる神様なんだけど、あんまりこっちが騒いでたら吃驚して帰っちまうからー……」
説明しながら彼は土間に戻り、忙しく動く奈々を邪魔せぬよう、勝手口を抜けて裏に出た。
裏庭の様子を見に行くと、山本が里に降りる前の三倍近い薪が積み上げられていた。しかし雲雀の姿は見えないので、まだ山なのだろう。
いったいどれくらい集めるつもりなのか。せっせと働く彼を思い浮かべ、山本は苦笑した。
後ろを振り返り、獄寺が不満顔でついてきているのを確かめて、庭掃除に使う箒を指差す。これは何をする道具かと問えば、彼は仏頂面を崩さぬまま、芥を掃き出すものだと的確な回答を告げた。
寺子屋での問答のお手本にも使えそうな言い回しに思わず拍手し、機嫌を損ねた獄寺を宥め、山本は使い古された箒を持ち上げた。
「続きだけど。正月は、掃除はしない。なんでだか分かるか?」
「知るかよ」
「折角歳神様が運んでくれた幸を、掃き出しちまうからさ」
先ほど獄寺が語った内容をなぞり、山本は目を細めた。
茶化されたように感じた獄寺が顔を赤くするが、意に介さず彼は続けた。
「風呂にも入らない、ついた幸を洗い流しちまうことになるから。飯も作らない。忙しく働いてたら、うっかり幸を見逃しちまいかねないからな。そういう日さ、正月って奴は」
朝早くに起き出し、御来光を拝んだ後はとにかく何もしない。ひたすら大人しく、静かに過ごすのを心がける。年がら年中働いている農民にとっては、この日はかけがえの無い終日休業でもあった。
何も獄寺ひとりだけが、乾き物を食べさせられていたわけではない。食事は別で摂っていたろうが、その家にいた他の面々も似たり寄ったりの食事をしていたはずだ。
箒を置いた山本の言葉に口を尖らせ、獄寺は視線を伏した。巧く言い包められたような気もするし、彼の言う通りのような気もする。次の正月でことははっきりするからと、もやもやする気持ちを宥め、彼は腰の辺りを掻いた。
骨の上を二度叩き、ふっと思い浮かんだ疑問に眉目を顰める。表情の変化をつぶさに見て取った山本は、首を傾げながら落ちていた小枝を山積みの薪へ放り投げた。
「十代目は、参賀されるのか?」
「……なにに」
「されないのか?」
怪訝に問い返した山本の言葉を受け、彼は更に訊いた。但し主語の欠けた質問で、山本には意味が理解出来ない。
険しい表情を作った彼を上に見て、獄寺は何かを言いかけて半端に開いた唇をすぐ閉ざした。どう言うかで迷っている様子が窺えて、頻りに顎を撫でては地面を蹴り、砂埃を何度も巻き上げた。
「参賀って?」
「だから、……本邸に」
途切れた会話が気になって、山本から質問を繰り出す。獄寺は最初渋り、数秒の間を置いて低い声で小さく呟いた。
本邸、と言われても、何を指しているのかがすぐに分からず、疑問符を浮かべた山本に、彼は歯軋りした。元々あまり頭が宜しく無いとは分かっていたが、こうまで回転が鈍いと腹が立つ。綱吉自身があまり触れて欲しくない話題に関係しているので遠回しに話しているのに、ちっとも勘付いてくれなくて、獄寺は苛立ちのままに山本の足を蹴り飛ばした。
弁慶の泣き所に一撃を見舞い、その場で飛び跳ねた彼は、あろう事かその痛みからひとつの事項を思い出し、天を仰いで目を見開いた。
「蛤蜊家か」
「おっせーよ!」
最初からそう言っているのに、と獄寺は怒鳴り散らし、拳を震わせた。
だが、まだ分からない。本邸とは退魔師を統括している蛤蜊家を指すが、だからといって何故綱吉はそこに参賀しなければいけないのか。どこまでも愚鈍な彼に舌打ちし、本当にリボーンから一人前と認められたのか甚だ怪しく感じながら、獄寺は山本をねめつけた。
照れ臭そうにしている彼の足をもう一度蹴り、腕を組んで居丈高に構えて北西に視線を投げる。その方角遥かに、獄寺が嘗て暮らした町――蛤蜊家が邸宅を構える都があるはずだ。
「蛤蜊家に名を連ねる退魔師は、毎年正月、本邸を訪ねて長老方に挨拶するのが慣わしだ」
「えっ」
「……なんで知らねーんだよ、お前が」
獄寺も今年の正月に、父親に伴われて出向いた。その場で彼は才を見出され、後に蛤蜊家十代目に内定した綱吉の護衛役として抜擢されたわけだが、それが方便だったと分かったのはこの里に来てからだ。
ともあれ、独り立ちを許された山本が、この事を知らない方が可笑しい。
そこを指摘すると彼は困惑を顔に出し、遠くに視線を泳がせた。
「だって、本当に知らないものは知らねーし。そもそも俺、蛤蜊家っつーより、沢田家の退魔師だし?」
「なんだそりゃ」
山本の名前は、蛤蜊家の退魔師として登録されている。故に、彼もまた正月に本邸へ顔を出さないのは非礼に当たる。ただ、今年の正月時分に彼は都から遠く離れた場所をひとりで旅していたので、物理的にも訪ねるのは不可能だった。
そういう点を考慮されたのかもしれないと、深く考えもせぬまま彼は白い歯を見せて笑った。根っからのお気楽ぶりにほとほと呆れ、獄寺もこれ以上言うのが面倒臭くなって肩を落とした。
垂れ下がった前髪を掻き上げて後ろへ流し、曇り空に唇を噛む。
参賀の話をした時の山本の反応からして、この手の話題は沢田家ではあまり扱われてこなかったようだ。
「へ~、そういうのあるんだ。今度から気をつけよう」
教えてくれたことに感謝を述べ、呑気極まりない台詞を吐いた山本に三度目の蹴りを入れるが、今度は躱されて獄寺の足は空を切った。真上に跳んで着地した背高の青年は、直後に渋い表情を作って口をヘの字に曲げた。
どうしたのかと目で問うた獄寺に、彼は一瞬だけ答えを渋った。
「いやさ。じゃあ俺、来年の正月はあっち行かなきゃ駄目なのか」
「当たり前だろ」
「ちぇー。ツナと正月過ごしたかったなー」
己を指差した彼の言葉に、獄寺は大仰に頷いた。何を今更、という思いがむくむくと膨れ上がり、気分が悪い。だが次に聞こえた独白に、獄寺の表情はにわかに綻んだ。
この鬱陶しい男が正月に居ない。蛤蜊家のある都はそう遠く無いが、それでも一日で往復するのは無理だ。強行軍で二日、余裕を持たせて三日は必要で、その間彼が並盛の里を留守にするというのは、獄寺にとって並々ならぬ朗報だった。
これで雲雀もどこかに雲隠れしてくれれば、綱吉とふたりきり。実際には奈々やリボーン、ディーノもいるのだが、彼の頭からはすっかり抜け落ちていた。
「行って来い、行って来い。そんで、二度と帰ってくんな」
犬猫を追い払う仕草で山本に手を振り、獄寺は地面に向かって唾を吐いた。酷い言われ様に山本は苦笑し、お前はどうなのかと話の矛先を向ける。だが獄寺は腰に手をあて、自慢げに踏ん反り返った。
「俺は、破門されてるからな!」
「……誇ってんじゃねーよ」
立てた親指を己に向けて尊大に言い放った彼に呆れ、山本は小馬鹿にした様子で嘆息した。
破門とは、即ち彼は獄寺家を既に放逐されているという事。そして二度と戻らないという本人の意思表示でもある。
蛤蜊家本家の意向を無視して綱吉を生かし、以後傍に付き従っている彼の勝手ぶりに、獄寺家が愛想をつかしたという向きもあるにはあるが、根底はもっと複雑であり、それゆえに単純だ。
獄寺は表向き、十代目に内定した沢田綱吉の護衛の役目を担うために里に派遣された。しかし彼を寄越した本家には、それとは異なるひとつの思惑があった。
綱吉の名前が突如後継者候補に挙がったのには、病床に伏した九代目の意向が強く影響している。病に倒れたとはいえ、九代目は九代目。その発言は決して無視出来るものではない。
次代を決めぬまま九代目が逝去すれば、一大事だ。後継者選びは加速し、権力に縋る老獪たちはこぞって自分や、子供たちを推薦した。
そこに降って湧いたように現れた、沢田綱吉という分家筋の嫡子。元を辿れば初代に通じる純血種であり、血筋だけで言えば他の追随を許さない。それ以外で必要となるのは退魔師としての力量であるが、五歳当時までの彼は、初代再臨と謳われるほどの神童だった。
血も、能力も申し分ない。だけれど都で、我が物顔で踏ん反り返っていた輩からすれば、田舎出身のまだ齢十五にも満たない子供に支配されるなど、言語道断だった。
九代目の要望は無視できない。しかしこのまま綱吉を首魁として迎え入れるのも許しがたい。となれば、後は命が潰えてくれるのを待つしかない。
そういった思惑を受け、遣わされたのが獄寺だ。鬼と人の合いの子である彼は、素性を隠すために銀の髪を黒に染めて村に現れた。その染料に、毒が使われていた。
獄寺はそうと知らぬまま、並盛の里に毒の粉を振り撒いたのだ。
雲雀の活躍により最悪の事態に至る前に露見し、直接綱吉の命を狙った彼を、あろう事かあの少年は赦した。
綱吉の死を望んでいたわけではない。獄寺とて迷いが全くなかったわけではない。彼の不幸な境遇が、そうせざるを得ない状況に追い込んだのだ。
そして彼は綱吉の度量の深さに完膚無き程に打ちのめされて、彼に一生を捧げると誓った。蛤蜊家から与えられた任務を放棄し、此の地に根付き、今に至る。
無論この暴挙に、蛤蜊家が怒らぬわけが無い。万が一九代目の耳に入ってはならぬと、表立つことは無かったけれど、画策した者達を恐れた獄寺家首領、即ち獄寺の実父は、彼とは縁を切ったと公言した。
お家取り潰しの憂き目を逃れんが為の判断であったのは、疑う余地が無い。獄寺隼人は最早我が家には一切係わり合いはなく、彼が何をしようとも我々は関知しない。そう言ったも同然だ。
元々折り合いが悪く、あまり快く思っていなかった家だけに、獄寺は固執しなかった。むしろこれ幸いと有り難く受け止め、悠々自適に並盛の里で日々を送っている。
退魔師の家を破門されたのだから、蛤蜊家とももう縁は切れた。二度とあの広大な屋敷に足を向けることは無い。
からからと喉を鳴らして笑った彼に肩を竦め、首を振った山本は短く切り揃えた髪を撫でた。遠く、山から響く鳥の声に耳を傾け、他の事で埋没しかけていた最初の疑問に立ち返る。
「ああ、そうか。んじゃツナはもしかしたら、来年の正月は本家に参賀するかもしんねーのか」
「ぐっ」
行くか行かないか、までは解らない。だが充分可能性はあると踏み、山本は言った。
瞬時に言葉を喉に詰まらせ、獄寺が目を真ん丸に見開く。最初にその可能性に言及したのは己だったのに、山本が知らなかったのなら綱吉も行くわけがない、と勝手に決めつけていた。
けれど綱吉は、次期当主候補なのだ。その彼が正月に、九代目に挨拶に行かないなど、ありえるだろうか。
「そうだった……」
言われて思い出した獄寺が、哀愁を帯びた声で呟いた。
山本の言葉は一理ある。去年の今頃の綱吉は、まだ沢田家九代目でしかなかったけれど、今の彼には蛤蜊家十代目筆頭候補という肩書きが付け加えられているのだ。
普段はつい忘れがちだけれど、一年前と、今とでは、彼の立場は大きく異なっている。
「って事は、だ。やりぃ。俺、ツナと正月一緒かも」
ぱちん、と指を鳴らして喜びを表現する山本の前で、獄寺は今し方自分で言った内容を振り返り、絶望に暮れた。両手をわなわなと震わせて唇を噛み締め、その場で蹲ってしまう。
話しているうちに思い出したが、山本は年の瀬に、蓑笠を背負ってどこかに出かける家光の姿を何度か目撃していた。あの頃は退魔師にまつわる細かい決まりごとなど知らなかったので、どこへ行くのか不思議であったのだが、正月の参賀で本家に出向いていたのだとしたら、納得が行く。
今はその家光が出奔して行方知れずで、沢田家の当主は不在のままだ。綱吉は九代目だが正式に家督を継いだわけではないし、退魔師として一人前と認められてもいないので、本家に出向かずとも特にお咎めなしで過ごしてこられたのかもしれない。
ただ次ばかりは、そうはいかない。
山本は喜びに浸り、獄寺が悲壮感漂わせて地面に涙で文字を書く。甲高い鳥の囀りだけがしばしの間空を包み、山全体に張り巡らされた結界が虹色の光を放つ中、彼らはやがて俯き、重い溜息を吐いた。
「十代目は、どうなさるおつもりなんだろう」
獄寺の、自問とも取れる呟きに首を振り、山本は舌打ちした。
「さあな」
十代目継承を正式に受諾するのか、否か。綱吉はまだ答えを渋り、結論を先送りにしていた。
雲雀も特に何も言わない、リボーンでさえ。しかし周囲は、彼を待ってはくれない。
断るとしたら、早いうちに返答するに越した事は無い。先延ばしすればするほど、外堀が固められて身動きが取れなくなってしまう。
十代目の最有力候補と目されていた人物は、別にいた。主に退魔師崩れの討伐を目的として編成されている蛤蜊家特殊部隊、通称覇裏鴉の首魁をも任せられた男だが、数年前に突如姿を消してしまった。
生きているのか、死んでいるのか、それすら解らない。現在覇裏鴉の頂点は空位で、綱吉が十代目を受け入れれば、その椅子には当面彼が座ることになろう。
あの組織に属する人間は総じて能力値が高く、気位も非常に高い。綱吉のような平々凡々として、無益な争いを好まない人間が加われば、反発は必至だ。
情景を思い描き、ふたりは奥歯を噛み締めた。
「……いかせたくねえな」
「ああ」
お互い、一度は蛤蜊家本邸に出向いた経験があるだけに、その思いは余計に強かった。
綱吉も十代目候補に名前が挙がったと知らされた際、奈々を伴って本家まで出向いている。帰宅直後に雲雀に語った感想は、二度と行きたくない、だった。
大勢の思惑が渦巻き、何処で何が飛び出すか解らない。顔を合わせた退魔師たちは、いずれも綱吉の力量を測ろうとしてか視線は不躾で、慇懃無礼だった。
伏魔殿、或いは魔窟か。人の心に敏感な綱吉にとって、あの場所は生きるに適さない。
しかし十代目を継承すれば、彼はあの地に行かざるを得ない。
御役目など、拒めばいいとふたりは思う。しかし病に伏し、日に日に弱っていく九代目のたっての願いとあらば、心優しい彼の事だ、愛息子の生死さえ分からずにいる年老いた男を安心させる為にと、その手を取ることだってあるかもしれない。
すべては綱吉の心ひとつ。
「寒くなりそうだ」
枯れ色が目立ち始めた山並みを見上げ、山本はぽつりと呟いた。