放生会(後編)

 秋風に乗って呼び声が聞こえた気がして、雲雀は最後の一段を前に後ろを振り返った。
 薄水色の空に白い雲が無数に広がり、太陽は夏場の険しさを忘れて穏やかに微笑んでいる。色付いて、枝から落ちる寸前の葉を揺らしている木々の隙間から、遠く遥かに広がる並盛の村が見えた。
 そろそろ家々では夕餉の支度に取り掛かるところだろうか。黒い瞳を細め、雲雀は右の耳に手を添えて意識を彼方へと傾けた。
 肩に停まっていた鳥が、彼の動きに気付いて素早く翼を広げた。鮮やかな黄色い羽根を器用に動かし、空中に身を滑らせて高く、高く舞い上がっていく。
「あまり遠くに行かないようにね」
 行方を追って顔を上げた雲雀が言い、言葉が分かるのか黄色い鳥は彼の頭上でくるりと二周して北へ身を滑らせた。妖や悪霊といった類を寄せ付けない結界がその先にあるのだが、鳥は何の抵抗もなく虹色の薄い膜をすり抜けていった。
 聞こえた気がした綱吉の絶叫は、距離があるからか今はもう聞こえない。錯覚だったかと首を傾げ、雲雀は残していた一段を登りきると、少々趣味が悪い造詣の山門を潜り抜けた。
「あら、お帰りなさい」
 正面やや左手に大きな屋敷があり、右手には古めかしい道場が。その裏手には棟続きで離れが聳えている。
 道場の更に右奥には小さな菜園があって、そこから戻って来る途中だった奈々が泥に汚れた両手にいっぱいの野菜を抱え、雲雀を出迎えた。
「戻りました」
 運ぶのを手伝うと、口に出すより前に広げた両手を前に出して、雲雀は彼女の方へ歩み寄った。小さく頭を下げて会釈した彼に目を細め、奈々も躊躇なく持っていたものを全て彼に任せてしまう。抱え込むと、ずっしりと重かった。
 よくぞあの細腕で、と感心してしまう。母は強し、という事かとひとり勝手に納得して、雲雀は屋敷の勝手口に向かって突き進む奈々を追いかけた。
 いつもは大抵、綱吉は庭に面した座敷にいる。しかし今日は姿が見えず、中に居る気配も感じられない。中の間に座卓を出した獄寺がひとり、大量の紙に囲まれて座っているだけだ。
「綱吉は」
「出かけたみたいよ」
 途中で会わなかったのかと、勝手口の戸を開けながら奈々が逆に聞いてくる。雲雀は緩く首を振り、南に目をやって先ほどの声を思い出した。
 ならば矢張りあれは、綱吉が自分を呼んだのだ。それにしては反応が鈍いと、伝心で呼びかけるがまるで応答が無いのに眉根を寄せる。他に意識が向いており、届いていないようだ。
「此処に置いておきます」
「有難う、助かったわ」
 水瓶の傍にあった大きな丸盆に、運んで来た野菜を並べていく。奈々は一足先に手を洗って、手拭いで水気を拭い落としていた。
 臆面ない感謝の言葉に照れ臭そうにして、雲雀はもうひとつ頭を下げて台所を出た。勝手口を閉めて井戸に歩み寄り、釣瓶を引っ張って冷たい水を掬い上げる。
 頭から被るには、少し気温が低い。一瞬躊躇して、結局両手で掬った分だけで顔を洗い、口を濯ぎ、濡れた黒髪に袖を押し付けた。
 濡れた肌を擦って長い息を吐き、前髪を梳き上げる。額を晒して肩を落とした彼は、肌を撫でる風に異質なものを感じ取り、眉目を顰めた。
 湿った袖を叩いて皺を伸ばし、草履の裏で水が点々と散った砂地を踏みしめる。浅い溝を刻んだ彼の背後で、人ならぬものが蠢いた。
「哲」
「此処に」
 ひっそりと名を刻めば、即座に応じる声がする。鼓膜を震わせる音にゆっくりと振り返った雲雀は、右手を顔の前に翳し、ゆっくりと視界を広げていった。
 空間が不自然に波打ち、揺らいだかと思えば、それはやがて人の輪郭を模して形を成し、色を持って彼の前に歩み出た。膝を折ってその場に跪き、右手を地面に突き立てて畏まる。
 深淵の闇を思わせる黒装束に、額の上に束ねた黒髪はまるで庇のように前に突き出ている。今は屈んでいるので分かりづらいが背はかなり高く、厳しい顔つきをして、顎はふたつに割れていた。
 仰々しく頭を垂れる男に嘆息し、腕を下ろした雲雀はそれを腰に宛て、素早く周囲に目を走らせた。
 特に勝手口方面には注意して、奈々が出てこないのを確かめてから男に向き直る。左手で空気を上に押し出す仕草をすれば、男は操られているかの如く立ち上がった。
 見上げなければならないのを若干癪に感じながら、雲雀は神妙な顔つきの男を鋭い眼で見詰めた。
「どうかした」
「ひと通り調査は完了しました。ご指摘の通り、東の稲荷前の一帯は、かなり汚染されています」
「そう」
 低い声での問いかけに頷き、男が説明を開始する。告げられた内容に渋い顔をして、雲雀は思案気味に半眼して指の背で顎を撫でた。
 予想通りの結果が出ても、嬉しいとは感じない。むしろ、想像が外れてくれることを少なからず祈っていた。骸によって解き放たれた火烏に焼かれた大地は、慈雨の力をもってしても本来の活力を取り戻すのは難しい。地力が衰えたままでは、これまでのような豊作は期待出来ないだろう。
 冬を越え、春が来るまでにどれだけ回復させられるかにかかっている。だが並盛は広い。雲雀ひとりの手では、とてもではないが補いきれない。
「稲荷の社前は、元々荒地で放置されていたから、そっちは後回しでいいよ。先に中央から南の一帯の耕地を、順次範囲を北に広げて」
「承知しました、ア……――」
 腕を軽く振り、空中に並盛の地図を広げて優先順位を指示した雲雀に、男は承諾の旨を表明して名を呼ぼうとした。しかし全部を言い切る前に、主たる青年の形相を知って慌てて首を振る。
 腰より深く頭を下げ、自分の非礼を詫びた。
「失礼しました」
「いい加減、慣れて」
 それはもう自分の名前ではない。そう暗に告げてそっぽを向いた雲雀に、男は顔を上げて苦笑した。
 見た目の厳つさに反して、表情は優しく柔らかい。子供っぽい拗ね方をする雲雀に目尻を下げて、男は長く突き出た庇髪に手をやった。油を塗って固めているのだろう、その表面はやけに艶々しており、黒いのに光を反射した。
「なに笑ってるの」
「いいえ」
 膨れ面の青年に睨まれても、男はまるでへこたれない。顔の前で手を横に振って誤魔化し、表情を引き締めた。
 雲雀の態度は、綱吉や、ディーノを前にした時とはまるで違っていた。気を許すと同時に全幅の信頼を寄せていると分かる、力みの無い顔つきをしている。それを遠巻きに眺め、綱吉は此処まで駆けて来た疲れを吹き飛ばし、呆然と立ち尽くした。
 息は乱れ、心臓は激しく波打って苦しい。全身を駆け巡る血液は熱くてならず、頭は真っ白で何も思い浮かばない。
 雲雀が知らない男と一緒に居る。それも、今まで綱吉以外誰にも見せたことが無い、否、綱吉ですら見たことがないくらいに安らいだ顔をして。
 シャマルに言われた事が蘇り、彼は全身に鳥肌を立てて奥歯を噛み締めた。
「……誰」
 あんな人は知らない。並盛の人ではない。沢田の敷地に、綱吉の知らない男が居る。入って良いと、誰が言った。勝手に人の領地に踏み込んで、荒らしていくなんて許せない。
 許せない。
 こんな醜い気持ちになる自分自身が、なによりも許せない。
「ヒバリさん!」
 十歩も行けば手が届く距離にいるのに、雲雀は背中を向けたままで綱吉に気付かない。今まではこんなことはなかった。近付けば雲雀は、まるで後ろにも目があるみたいに勘付き、振り向いてくれたのに。
 悔しくて、哀しくて、寂しくて、切ない。胸が引き裂かれそうなくらいに痛んで、心臓が破れそうに苦しくて、肩で息をして、綱吉は琥珀の目にいっぱいの涙を浮かべた。
 叫び、呼んで、彼の注意を惹き付ける。背後から突如響いた生の音に驚き、雲雀は男から慌てて意識を引き剥がした。
「綱吉?」
 存在を認識すると同時に、それまで無意識に蓋をしていた心を開く。幼き日、雲雀を救う為に綱吉が執り行った術がきっかけで一部が混ざり、繋がりあった魂から、途端に怒涛の勢いで混乱しきった綱吉の思考が流れてきた。
 誰。嫌。行かないで。盗らないで。好き。怖い。違う。嫌い。許さない。認めない。駄目。御願い。早く。邪魔しないで。
 支離滅裂で、まるで脈絡の無い単語が次から次に溢れていく。押し潰されてしまいそうで、雲雀は咄嗟に綱吉の心の流入を制限するべく、扉を閉めて鍵をかけようとした。
 だが、綱吉の視線を通じて見えた黒々しい景色から、彼が何に対して怯え、恐れ、哀しんでいるのかが分かった。
「――っ」
「はい?」
 思わず振り向いて、其処に立つ男を仰ぐ。頬を引き攣らせて強張った表情をする雲雀に、黒ずくめの男は怪訝に眉を寄せた。
「ア――ではなく。恭さん?」
 またも途中で言い直し、事情がさっぱりつかめない男が雲雀を呼んだ。その呼び方さえも綱吉の疑念を膨らませて、勢いを強めた心の声に雲雀は無駄と分かっていながら両手で耳を塞いだ。
 大粒の涙をボロボロ零し、実際の声ではなく雲雀にだけ聞こえる声で責め立てる少年に肩を落とし、彼は苦心の末、首を横に振った。
「違う、綱吉。彼は、そんなのじゃなくて」
 なんとか会話に発展させようとするが、すっかり疑ってかかっている綱吉はまるで聞く耳を持たず、両手を振り回し、地団太を踏み、まるで駄々を捏ねる子供だった。
 頭に直接響く泣き声は脳を激しく揺さぶり、内側から破裂させようとでもいうのか、兎に角聞くに堪えないものだった。
「綱吉、落ち着いて。違うから、彼は」
「ヒバリさんの、馬鹿!」
「だから、綱吉、違うんだ。頼むから、待って。僕の話を聞いて」
 ついには実際の声にも出して叫び、彼は琥珀を歪めて音立てて鼻を啜った。騒ぎ声を聞きつけて奈々も勝手口から顔を出して、泣きじゃくっている愛息子と、それを前に狼狽している雲雀とを交互に見て目を細める。
 この光景は、どう見ても痴話喧嘩だった。
 そしてこの場合、奈々は綱吉の味方だ。
「あらあら、恭弥君。どうしたの?」
 問いかけは至極穏やかだが、彼女の目は笑っていない。平素の柔和さからは想像がつかない、般若を背負った彼女の迫力に気圧され、雲雀はたじろぎ、思わず後退を図った。
 其処に居た男に肩がぶつかり、よろめいたところを支えられる。
 綱吉の目には、後ろから抱き締められているように、見えた。
 華美に脚色された光景が脳内に広がって、駄々漏れになっている綱吉の突飛な思考に頭が痛くなる。雲雀は肘で黒ずくめの男を押し返して立ち、ふらつきながらどうにか綱吉の方へ歩を進めた。
 何事かと、獄寺までもが筆を休めて表から顔を出す。
「なんだ?」
 綱吉は未だ嘗て見たことがないくらいに大泣きしており、雲雀もまた今までにないくらいに慌てふためいている。
 ひょっとしなくても、これは喧嘩別れ直前ではないか。一瞬あざとい考えが浮かび、ふたりの不仲を喜んでいる自分に気付いて、彼は握り拳を急いで解いた。
 観客が徐々に増えていく中、雲雀は舌打ちし、綱吉との距離を詰めて大股に進んだ。
 迫り来る彼に嫌々と首を振り、綱吉が「馬鹿」と連呼して右手を高く持ち上げた。自分を裏切った男に鉄槌を下すべく、手を広げて指を揃え、勢いよく振り下ろす。
「ヒバリさんなんか!」
 絶叫した彼の手は、雲雀にとって躱すのになんら苦労するものではなかった。
 だというのに、乾いた音がひとつ、高く秋空に吸い込まれていき、誰もが信じられない光景に目を見開いて驚きを表明した。
 黄色い鳥が旋回し、ゆっくりと速度を落として滑空に入った。
「……落ち着いた?」
 雲雀の頬に添えられた手が、赤い肌を撫でて沈んでいく。最後に残っていたひと粒の涙を零した琥珀の瞳は、長く忘れていた瞬きを取り戻した。
「ひ、ば……」
 ぽふ、と空気を押し出して雲雀の黒髪に黄色いものが着地した。
 緊迫した場の空気にそぐわない、可愛らしすぎる珍客の登場に、綱吉は、はっ、と息を吐き、気まずげにしている青年を凝視した。
 まさか頭の天辺に降りられるとは予想していなかった雲雀が、打たれた時以上に頬を赤くして顔を逸らす。獄寺は思わずぶっ、と噴き出し、奈々は思いがけない出来事に微笑んだ。
 今頃になって綱吉に追いついた了平と山本も、珍妙な空気に包まれている庭先に疑問符を大量に浮かべた。
「なんだ?」
 間の抜けた山本の声を合図に、一旦停止していた雲雀の時間が動き出す。彼は頭に黄色い鳥を乗せたまま、言葉をなくしている綱吉の手を握り締めた。
「聞いて、綱吉。彼は……そういうのじゃないから」
「で、でも、さっき」
「よく考えて、綱吉。一応僕は、面食いだっていう自覚はある」
 自分で言うのも恥かしいので音量は控えめに訴え、両手で小さな手を握る。雲雀以外の全員から注目を浴び、どうやら自分の所為で揉めていると今更理解した黒ずくめの男は、右往左往して小声で雲雀を呼んだ。
 恭さん、という親しい間柄でなければ出来ないような呼び方に、綱吉の顔がまた泣き出すところまで歪んだ。
「やっぱり!」
「だから……」
 話を振り出しに戻す綱吉の相手に疲れ、雲雀は額に指をやり、男を手招いた。
 応じて、庇髪が前に出る。ディーノ以上に上背があり、着衣も黒いとあって近くからだと圧倒されてしまう。最初は睨んでいた綱吉も尻込みさせられて、へっぴり腰で片手を握ったままの雲雀に顔を向ける。
 黒髪を掻き上げた青年は、深呼吸の末に一度息を止め、説明をしようと口を開いた。
「彼は――」
「あっれー、草壁じゃん。お前がこっち居るって事は、里の調査終わったんだ?」
 刹那。場の空気を読まない存在第二段が一瞬にして綱吉の後方に出現し、緋色の打掛を揺らした。
 至極明るい声に、雲雀が脱力して膝を突く。引っ張られて前のめりになった綱吉は、怒りを堪えて小刻みに震えている雲雀と、突如現れたディーノとの間に立たされて戸惑いを顔に出した。
 話しかけられた男――草壁も、困惑した表情でディーノを見た。
「あれ?」
 間の抜けた声を零し、衆目を浴びている自分に気付いたディーノはぐるりと周囲を見回して頬を掻いた。
 そして。
「――っ!」
 緋色を翻し、打掛を抱いて後方へと跳ぶ。彼がつい今し方まで立っていた地面が大きく抉れ、中央部には青銀色に輝く拐が深々と突き刺さっていた。
 風を受けて膨らんだ黒髪がゆっくりと沈み、間から覗く赤く濁った瞳にディーノは大慌てで両手を顔の前で振り回した。
「ちょ、待て、恭弥。落ち着けって」
「貴方のお陰で全部台無しだ!」
 黄色い鳥は翼を広げてのんびりと空を泳ぎ、地上に渦巻く感情の一切を関知しない。奈々は夕餉の仕度があるからと、早々に台所に引っ込んで姿を消し、獄寺や山本も展開についていけずに呆然とするばかり。
 開放された手を胸に抱いた綱吉は、雲雀がディーノに怒る理由が見出せず、困った顔で傍らの人を見上げた。
 庇髪の男――草壁もまた、乾いた笑いを浮かべて肩を落としていた。
「落ち着け、恭弥、だから待てって。どわっ」
「冗談じゃないよ、なんで貴方にばらされなきゃいけないのさ。人の苦労も知らないで」
「しょうがないだろ。大体、俺は大地に関しては専門外だ」
「だったらこれ以上余計な事を言わないように、その口、縫い付けてあげるよ」
「その前に俺の頭が潰れんだろうが!」
 庭全面を使って壮絶な鬼ごっこを開始したふたりを遠巻きに眺め、放置された面々は巻き込まれないように縁側に避難した。綱吉だけが道場のある東側に寄って、草壁もそちらに。
 雲雀が怒り狂っているところを眺めているうちに冷静さが戻って来て、綱吉はやっと、草壁が人ならざる存在だと気付いた。
 山本よりも、ディーノよりも、綱吉が知る中で誰よりも背が高い。見上げ続けると首が疲れそうで、半歩下がって改めて視界の中心に据えた存在は、綱吉の視線に気付いて穏やかな笑みを浮かべた。
 見た目の厳つさに反して、優しい目をしている。さっきまであんなにも彼に対して激しい憤りを抱いていたというのに、今綱吉の胸の中にあるのは、ほっこりとさせてくれる、焚き火のような暖かさだった。
 雲雀は相変わらずディーノを追い掛け、両手に持った拐を振り回している。途中からはディーノも逃げるばかりを止め、鞭を取り出して攻撃を受け流す方向に切り替えた。しかし防戦一方で、次第に庭の南端にあるひょうたん型の池の縁に追い詰められていった。
 剣戟の音が喧しく耳朶を打つ中、綱吉は雲雀に通じるなにかを草壁から感じ取り、居心地悪く肩を揺らした。
「あの、貴方は」
 問えばにっこりと微笑まれて、草壁に抱いていた黒い感情が一気に薄れていく。握り締めた拳を心臓に押し当て、ぎこちなく問いかけた綱吉の後ろでは、高らかと水柱をあげて、ついにディーノが池に落下した。
 ばっしゃーん、と凄まじい音が響き渡り、転落の勢いがいかに強かったかが窺い知れる。飛び散った水滴を弾き、拐を横薙ぎに払って袖の内側に収納した雲雀が、後ろを振り返る事無く早足で戻って来るのが見えた。
 艶やかな金髪に大量の藻と苔を付着させたディーノが、波立つ水面に浮き上がる。溺死体になる前に、と山本が引っ張り挙げるべく走って行った。
「まったく」
「ヒバリさん」
「綱吉、お願いだからちゃんと聞いて。哲、……彼は、君が思うような、そんな、だから、ええと」
 憤懣やるかたなしの表情から一転して、ディーノが闖入してくる前の弱りきった表情に戻った雲雀が、言い辛そうに言葉を濁して黒髪を掻き回した。視線を泳がせ、自分をじっと見詰めている愛らしい少年に向き直る。
 唇を噛んだ彼は緩く首を振り、力の無く肩を落とした。
「間男じゃないから」
「ぶっ」
 頭の中に直接流れ込んできた、混乱の極みにあった綱吉の思考。その大半は、草壁が誰で、彼と何をしていたのかという疑問で、それはやがて綱吉には言えないこと、綱吉には知られては困ることをしていた、という方向に流れ、最終的に、雲雀が浮気をしている、という結論に達した。
 そんな事実は一切無いが、確かに隠れてこそこそやっていたのは間違いなくて、強く出られない。答えに窮している間に、状況は変な方向に流れて行って、結局秘密にしていた行動はディーノの発言によって露見してしまった。
 噴き出した草壁の脛を蹴って黙らせた雲雀は、左目から額にかけてを左手で覆い、ほうほうの体で池から這い出た男に目をやった。
 軽い蹴りだったのでさほど痛くもなく、肩を震わせてまだ笑っている草壁が、戸惑いに揺れる綱吉に笑いかけて手を振った。
「私は以前より、ア……恭さんからお役目を賜っている者です」
 名前を呼ぶ寸前で一瞬詰まり、わざとらしい咳払いを挟んで続けた彼の言葉に、綱吉は分かったような、分からなかったような顔をして小首を傾げた。大きな目を丸くして、左後ろに立つ雲雀を振り返る。頷かれても、まだ理解が追いつかない。
「僕の。……昔の、僕の、眷属」
「あ、ああ」
 微妙な言い回しを使った雲雀に、やっと合点がいって、綱吉は両手を叩き合わせた。
 雲雀は今こうして人の姿をとっているけれど、実際は人ではない。本来は天界に住まい、人間と係わり合いを持つのを禁じられるべき存在。即ち龍神。
 その神たる彼が何故こうして此処に居るのかは、実に複雑怪奇な出来事の連続であり、始まりから説明をするにも、様々な事項が絡み合っている為に一筋縄ではいかない。
 ともあれ雲雀であった龍神は過去に一度死に、雲雀として生まれ変わった。
 過去に雲雀であった神の力は、今の彼に多くが引き継がれている。地上で暮らすにはあまりに大きすぎる力であるので、現在は綱吉の手によって封印が施され、自在に扱うのは叶わない。
 また、引き継がれたのは何も力だけではなかった。
「僕はいいって言ったんだけどね」
「そういうわけには参りません。貴方様あっての、私達で御座います」
 長く主不在となり、苦汁を舐めた草壁たちは雲雀の復活を喜んだ。ところが彼は、一旦天界に帰ったもののディーノの策略により地上にとんぼ返りしてしまい、眷属たる彼らはまたも置いてけぼりを食らった。
 今度こそという思いで、神々の盟約を反故にしてまで雲雀を追いかけて来たのだ。無碍に追い返すことも出来ない。
 草壁の言葉から真摯な彼の想いが伝わってきて、僅かな時間であっても、両者の関係に邪な想像を持ち込んだ自分が恥かしくなり、綱吉は下を向いた。
 落ち込んでいる彼の心を感じ取り、雲雀は嘆息して腕を伸ばした。癖だらけの髪の毛をもっとくしゃくしゃに掻き回して、誤解が解けて良かったと短い言葉で告げる。
 上目遣いに雲雀を見詰め、綱吉は頬を赤く染めてはにかんだ。
「よかった」
「良くねえ!」
 心の底から安堵した綱吉の声を打ち消し、緋色の打掛までもずぶ濡れにさせたディーノが怒鳴る。拐で殴られたのだろう、左の頬が真っ赤に膨れ上がっており、折角の美男子が台無しだった。
 頭から細長い藻を垂らした彼の姿は、申し訳ないが非常に滑稽であり、振り返った綱吉は懸命に笑いを堪え、怒りの矛先を向けられている雲雀は鼻で笑ってそっぽを向いた。
 自業自得だと言い放った彼の肩に、悠然と黄色い鳥が舞い降りる。
「あ、さっきの」
 先ほど雲雀の頭に着地した鳥だ。思わず声に出した綱吉に、雲雀は左に首を回して指を伸ばした。
 そちらに飛び移った小鳥の足には、怪我の治療の跡がある。ほんの少し引きずるようにして動き回る小鳥に目を輝かせ、綱吉は両手を広げた。
 雲雀の手を経由して綱吉の掌に乗った小鳥は、円らな目をくりっとさせて不思議そうに彼を見上げた。横に長い嘴に、真ん丸い身体。頭を撫でても逃げず、人を怖がらない。
「どうしたんですか、この子」
「先の嵐で、巣から落ちたらしい。治してやるのは簡単だけど、問題があるからね」
 衰弱していたところを見つけて保護したが、手当てするにも方法が分からない。頼るのは癪だったが、最も知識が深そうなシャマルに頼み、自由に飛びまわれるところまで回復したと聞いて、引き取ってきたばかりだと彼は言う。
 神の力は万能に近いが、得てして人には強すぎる。ましてや鳥相手では。
 動物が本来持つ自然の治癒力に頼ったので、傷が治るのに時間が掛かった。しかしお陰で、こんなにも元気になった。
「教えてくれたら良かったのに」
 何も後ろめたいことをやっているわけではないのに、どうして秘密にしようとしたのか。その点だけは納得が行かなくて頬を膨らませた綱吉に、雲雀は何故か息を詰まらせて赤い顔をした。
 事情を知っているのか、草壁が控えめに笑ってまたも彼に蹴り飛ばされた。
「いいだろう、別に」
「ヒバリ、ヒバリ」
「うわ、喋った」
 語気を荒くした雲雀に反応してか、急に綱吉の手の上で小鳥が騒ぎ出した。
 はっきりと聞き取れる発音に、居合わせた面々も吃驚仰天して間抜けな顔をした。輪の中心にいる鳥は何度も雲雀の名前を口ずさむと、羽根を広げて風を起こし、宙に浮き上がった。
 飛びあがり、綱吉の頭上を旋回する。
「ヒバリ、ツナヨシ、ツナヨシ」
「俺の名前だ」
 上から聞こえて来た声に目を真ん丸にして、綱吉は唖然と口を開いた。一方で雲雀は膝を折り、一層顔を赤くして蹲って耳を塞いでいた。聞きたくない、というよりは、聞かれたくなかったという意思表示に思われた。
 誰が教え込んだかと考えれば、あの面倒臭がりのシャマルなわけがないので、犯人は一人に絞られる。居合わせた全員から見下ろされ、雲雀はしゃがんだまま、逃げようとしてか道場の方へ這いずっていった。
「ツナヨシ、カワイイ。カワイイ、スキ、ツナヨシスキ」
「っ!」
 そんな彼の努力を知らず、黄色い鳥が翼を折り畳み、低い位置にいる雲雀の頭に着地すると同時に姦しく連呼する。聞こえてきた雲雀の声ではない雲雀の言葉に、綱吉はボッと顔から火を噴いた。
 まさかそんな事まで覚えてしまっていると思わなかった雲雀もが、耳の先まで真っ赤にして勢い良く立ち上がり、鳥を払い除けた。
「ヒバリ、ツナヨシスキ」
「……確かに、こりゃ、隠しておきたくもなるわな」
 鳥を相手に喋っていただけでも充分なのに、話していた内容まで大勢の前で諳んじられては、自分だったら耐えられない。
 呵々と笑った山本に、了平と獄寺が深く頷いて同調を示す。
「だから嫌だったんだ!」
「恭弥、お前……友達作れよ?」
「貴方には言われたくない」
 池に落とされた恨みも忘れ、同情めいた視線を投げたディーノに怒鳴りつけ、雲雀は奥歯を噛み締めた。
 草壁は微笑むばかりで、話の中に割って入ることは無い。終始穏やかな表情を浮かべる彼に顔を向け、目が合った綱吉は照れ臭そうに目尻を下げた。
 喧々囂々、騒がしい彼らを高い位置から見下ろす黄色い鳥を仰ぎ、綱吉は降りてくるよう誘って右腕を高く伸ばした。すぐに気付いた鳥が方向を変え、跳ね放題の頭を巣と勘違いしたか、彼の指を素通りして翼を折り畳んだ。
 ぼふっ、と座り込まれ、首を引っ込めた綱吉が苦笑する。
「えへへ」
 ついに唄まで歌い出した小鳥に、雲雀は益々狼狽し、獄寺や山本が水を得た魚のように彼をからかい始めた。
 軽快に詠う鳥を両手で包み、頬を寄せる。反論もやめてひたすら恥じ入っている雲雀に目を細め、彼がいかに深く思ってくれているかを知り、綱吉は暖かい気持ちになった。
「ね、俺の言葉も覚えてよ」
 騒々しい場から少しだけ離れ、小声で囁く。
「ヒバリさん、好き。覚えて、伝えてね」
 不思議そうにしている鳥に向かって繰り返し、綱吉は悪戯っぽく微笑んだ。

2009/12/27 脱稿