空っ風に煽られて、枯れ草の塊が庭先を西から東へと転がっていった。
巻き上げられた砂埃を避けて仰け反り、閉じた両目の上に手を掲げた綱吉は、縁側から垂らした両足を交互に揺らして肩を竦めた。
恐る恐る瞼を開いて、澄み渡る空の色の薄さに目を細める。雲は薄く、長く伸び、随分と高い場所に広がっていた。
「寒くないですか、十代目」
熱波が襲った夏の終わり、秋の始まりから、かなりの時間が流れた。荒れ果てた並盛村も少しずつ復興の兆しが見えて、今は冬篭もりの支度に、どの家も忙しい。
収穫を前に焼け野原と化した田畑も、放っておくわけにはいかない。鍬を入れて耕し、成長が早い作物を臨時的に植えることで、少しでも食糧を蓄えようという家もあった。
緊急事態とあって、村長である笹川家や、沢田家の倉に蓄えられていた食糧も一部開放した。随分後になってから、蛤蜊家本家が村に対して哀悼の意を表明し、村に火を放った罪人の処罰はこちらが請け負うと連絡をして来たが、対応はあまりにもお粗末だったといえよう。
本家の人間は、対魔師殺しの犯人が六道骸一派だと知っていた。彼らの次の目的地が此処、並盛村だというのも把握した上で、これを放置したのだ。
雲雀が火災を鎮火させた後、まるで待ち構えていたかのようにひょっこり現れた特殊部隊こと覇裏鴉の人間が、その場に残っていた千種、犬、ランチアの三名を連れ去ったのがなによりの証拠。彼らがもっと早く介入していれば、最悪の状況だって回避できただろうに。
いったい、本家は何を考えているのだろう。
九代目が病に伏している今、本家を動かしているのは九代目を支えて来た長老たちだ。彼らはいずれも、自分の血縁者を次代後継者にと推しているとも聞く。だから初代の直系という理由だけで、突然候補者にあがった綱吉が気に入らないという理由は、分からないでもない。
六道骸が起こした騒動の最中で命を散らしてくれれば万々歳、もし綱吉がこれを撃退しても、自分たちの手駒を浪費せずに済むので困ることは無い。最後まで傍観者に徹したのはそういう意味合いからで、後は自分たちの都合の悪い部分を揉み消すためにあの三人を連れ去ったのだというのが、導き出された結論だった。
山本が唱え、獄寺と雲雀が同調し、綱吉も否定できなかった。
本家が何を考えているのか、分かるようで、分からない。何故こうも回りくどい事をするのか、綱吉に不満があるのであれば呼びつけるなりして、直接言えばいいのに。
不穏な空気を感じながら、自分から打って出ることが出来ないもどかしさが募る。爪先で空を蹴り飛ばした彼は、裾から覗いた足首の細さに舌打ちし、後ろから声をかけてきた人物を振り返った。
出会った時の彼は、髪が黒かった。元々の色は銀で、地方では滅多に見られるものではない。彼は偏見を持たれぬようにとの配慮で本家が持たせた染料を髪に塗っていたが、実はこの染料には毒が混じっていた。
村人に体調不良者が多数出て、綱吉や母である奈々にも被害が及んだ。
獄寺本人もこの事は知らされておらず、彼は調子の良い言葉で自分を持ち上げて、使い捨ての駒に使った本家を裏切り、綱吉の側についた。以後は綱吉を十代目と呼び、自分の命の恩人だと慕ってくれている。
「平気」
綿入りの袷を着るにしては、まだ天候は穏やかだ。もっと風が冷たくなり、立っているだけで指先が悴むようになったら、行李から引っ張りだしてこなければならないが。
虫に食われていないか、後で点検しよう。思い出して心の中で呟き、綱吉はまだ其処に立っている獄寺に目を細めた。
「本当だよ」
「そうですか」
用事が他にあるのなら、とっくに口火を切っていて良い筈だ。ならば疑われているのかと言葉を重ねるが、予想は外れたようで、彼は微妙な顔をして視線を左に流した。
庭の先、東側。立派な造りの門がどん、と構えているがそれだけで、特に目立つものは何も見当たらなかった。
雀の子が何匹か、可愛らしい声で囀って地面を飛び跳ねている。こちらも冬支度に入っているようで、頭の大きさはさほど変わっていないのに、夏場に比べて胴体がこんもり丸くなっていた。
大きな身体を揺り動かしている小さな鳥に視線を転じ、綱吉は物憂げな表情で両足を揃えて前に蹴りだした。
「よっ」
勢いを利用して、素足のまま冷たい砂地に着地する。置いていかれた獄寺は、咄嗟に右手を前に出して半端なところで止めた。
「十代目」
「ちょっとうろうろしてくる」
胸の中に蓄積されたもやもやは、あまり快いものではない。本家の事を考えると、どうしても気分が悪くなる。
発奮させるには、他の事をするのが一番だ。一箇所に留まってじっとしているから、嫌なことばかり考えてしまう。
散歩に出ることに決めて、綱吉は沓置きにしている細長い石の方へ歩み寄った。足の裏の砂を軽く払い除けて、雲雀が編んでくれた草履の鼻緒に指を通す。
霜が降りてしまうと、好き勝手素足で走り回るのも辛くなる。今年の初雪はいつ頃かと思いを巡らし、同時に思い浮かんだ人の姿に目尻を下げ、彼は乱れていた衿を整えた。
木綿の襦袢は暖かく、肌触りも優しい。乾燥している空気は適度に熱を持っているけれど、風が吹くと途端に体温を攫っていかれるので、その時だけは少し肌寒さを覚えた。
身なりを軽く整えた綱吉が、散歩と称して朝から姿の見えない誰かを探しに行こうとしていると知り、獄寺は下唇を噛んだ。
いかに自分が彼を好いていると訴えようとも、訴える先の人物が違う人に心向かせている限り、声は永遠に届かない。もし相手が山本や、他の連中であったならいくらか勝機は得られただろうが、なにぶん相手が悪すぎて、獄寺は太刀打ち出来ないと自覚している自分が嫌になった。
「雲雀の野郎なら、さっき、里の方に」
「そうなの?」
「はい」
深呼吸をひとつ挟んで教えてやれば、綱吉はくるりと反転して笑顔の花を咲かせた。鮮やかな琥珀色が嬉しそうに細められ、丸い頬はほんのりと紅色に染まった。
たったそれだけで、彼がいかに雲雀を好いているのかが伝わってくる。両手を顔の前で重ね合わせ、堪えきれない笑い声を小さく零している華奢な少年に見入り、獄寺は小さく息を吐いた。
胸を撫で、その手で臍の辺りで結ばれていた太い紐を解く。前を開いて袖から腕を抜いて半分に折り畳み、彼はそれを軒下の綱吉に差し出した。
「着て行ってください」
海老茶色の羽織を押し付けられ、左右の手で持って広げた綱吉は首を傾げた。
「平気だよ」
「今は問題なくても、夕刻になれば冷えましょう」
昼餉の時間を過ぎて、これから先は陽が西に沈んでいくばかり。夏場に比べれば、日の入りの時刻もずっと早くなった。暗くなれば、それだけ気温も下がる。
少しきつめに訴えた獄寺に、数秒の逡巡を挟んで綱吉は頷いた。
「ありがとう」
気遣ってくれた彼に礼を述べ、にっこりと微笑む。季節が一巡りして春がやって来た気分になって、獄寺は生きていて良かったと心の底からあらゆる物事に感謝した。
この羽織は、昨年までは雲雀が着ていた。
春先にこの地にやってきた獄寺は、当時はまさかこうも里に長く居着くとは考えておらず、衣服の替えも少ししか持ち合わせていなかった。新調する程懐に余裕があるわけでもなく、だから雲雀が小さくなって着られなくなったものを、お古で譲り受ける事が多かった。
故に綱吉が着ると、少し大きい。雲雀や獄寺が着ていると腰の少し下辺りに裾が来るのに、綱吉が袖を通せば尻に届いてしまう。肩幅も随分と違っていて、かなり不恰好だった。
「……ちぇ」
袖が余って、指先しか出ない。体格差が露骨に出ているのを嫌がり、綱吉は面白く無さそうに舌打ちした。
獄寺はと言うと、最愛の人が、自分が少し前まで身につけていたものを羽織っているという現実に、感極まって言葉も出ない様子だった。ひとり幸せに浸り、紐を結ぶのにも一苦労の綱吉を前に身悶えている。
「それじゃ、ちょっと出て来るね」
「はい、お気をつけて」
いつもなら、獄寺も一緒に行くと言い出すところだが、残念ながら彼にも用事があった。
この家で現在最も字が達者なのは、自分で使う札や符を作っている獄寺だ。その為、本日は綱吉の代筆として本家からの弔問の返礼文を書くという役目が彼に与えられていた。
代筆、といっても文章を作ったのは雲雀とリボーンの二名で、獄寺の仕事は清書のみ。綱吉は書の最後に名前を入れる事くらいしか、出来ることが無い。
文章自体は既に出来上がっており、現在は獄寺が、リボーンとふたりで清書作業に取り掛かっている。
「休憩は終わりだぞ」
「分かってます」
一文字でも間違えれば最初からやり直しで、根気と集中力が必要な作業だ。さっきから何枚も失敗して、そのうちに獄寺の足が痺れてしまったので休んでいただけで、まだ完了までには暫く掛かりそうだった。
リボーンの冷たい言葉に振り返り、獄寺は居丈高に言葉を返した。
綱吉はそんな彼らのやり取りを遠巻きに眺め、後ろ向きに少し進んで、途中で身体を反転させた。
並盛山の中腹に、沢田家の屋敷はある。里へ降りるには山の斜面に沿って設けられた、百段を越える九十九折の石段を通るしかない。一度は粉々に破壊され、後にディーノによって修復された立派な門を潜り抜けた彼は、足首に絡まないよう長着と襦袢の裾をちょっとだけ持ち上げて、元気良く駆け出した。
転ばないように注意しながら何度か石段を折り返し、枯れ芒が目立つ野原の入り口へ到達する。それまでの硬い石段とは違い、柔らかな土は草履越しでもほんのり温かかった。
「何処にいるのかなー」
独白し、綱吉は探し人の気配を探して視線を宙に流した。
晩秋の空を見上げ、心を遠くまで広げる。雲雀の名前を繰り返し呟き、呼びかけるが、気配は感じても向こうからの返事は無かった。
人が呼んでいるのに気付いていながら無視しているのか、それとも本当に気づいていないのか。どれだけ待っても応答が無いのにむっと頬を膨らせ、彼は右足で強く地面を蹴ると、飛び散った土が落ち切る前に広い野原を駆け出した。
並盛村は、四方を山に囲まれた盆地の中にあった。北には霊山として名高い並盛山が控え、並盛神社のある中腹以上には一般の人々は立ち入れない。強力な結界が張られている為で、そこに迷い込んだ人は知れず別の場所に飛ばされてしまうため、神隠しの山としても有名だった。
村から街道に出るには南の細い一本道を進む以外ほかになく、東西の山を越えるには、よほど山歩きに慣れた足でない限り難しい。冬場は深い雪に閉ざされて外界から隔絶されるような、非常に不便な土地柄だった。
しかし並盛山から溢れる水は豊かで、土地も肥えて農作物を育てるには申し分ない。神に守られた地、と古くから伝えられており、村人はその恩恵を享受し、感謝してきた。
秋の初めに村を襲った災禍は、これまでに類を見ないものだった。
一晩にして稲田は焼け野原と化し、多くの村人が巻きこまれて死んだ。だのに被災者の村人の多くは、事の真実を知らず、知らされず、目の前で起きた現実に対して誰かに咎を訴え出ることも許されず、鬱々とした日々を過ごしている。
それでも、時間は過ぎる。
やがて人は、悲しみを風に流し、記憶を薄れさせていくのだろう。
「骸……」
事件の張本人たる男の名を呟き、綱吉は秋風奔る空を仰いだ。
薄く伸びた筋状の雲が、まるで鱗のように並んでいた。太陽はその向こうに隠れてしまって、光の輪郭がぼんやり浮き上がっていた。
小さな虹に囲まれた太陽は、其処に輝いているのに影しか見えない。雲雀の行方も同じで、村の中に居るのは確かなのに、綱吉の目にははっきりと見えてこなかった。
「ちぇー」
落ちていた小石を蹴り飛ばし、綱吉はひとまず村の中心部に通じる経路を選び取った。
骸の手を拒み、綱吉は雲雀を選んだ。その選択に迷いは無かったし、これで正しかったと自信を持って言える。罪を犯した骸は罰を受けなければならず、裁かれなければならない。
だが、彼が暴走した原因の一端が自分にあると思うと、胸の奥はちくちくと、針に刺されたように痛んだ。
雲雀は気にしなくても良いと言う。あれは骸の自業自得であり、綱吉が責任を感じる必要は一切無い。むしろ火烏の強奪を防げなかったディーノが責められるべきであり、綱吉は被害者だと主張して憚らない。
罪の在り処ははっきりとしている。だのに釈然としない。引っかかる。
それはきっと、少しだけ、ではあるが、綱吉は骸が好きだったからだ。ディーノに襲われて、逃げ出した際に、彼は綱吉の足の怪我を手当てしてくれた。優しくしてくれた。
あれが骸の本当の姿だと思いたい。彼を嫌うことで自分の心が軽くなるのなら、しこりを残した今のままでも良い。
誰かを嫌いになる、負の感情を常に胸に抱くのはもっと嫌だから。
「何処に」
綱吉のそんな考え方が、雲雀は気に食わないのか。最近の彼は、少し綱吉に素っ気無かった。
夜は、これまで通り綱吉の求めに応じて、或いはその逆も然り、肌を重ねあう日々が続いていた。しかし朝昼夜と関係なく、一日中べったり張り付いていた日は遠くなり、特にここ数日、彼は露骨に綱吉を避けた。
朝早くから他所に出かけ、夕方日暮れ直前まで帰ってこない。行き先ははぐらかされて教えてもらえず、何をしていたか問い詰めても答えてくれない。
嫌われたのだとは思わない、思いたくもない。肌を触れ合わせれば感じる、彼の優しさや気遣いは本物で、綱吉をとても大事に思ってくれているのはありありと感じられる。
だから心変わりを疑うつもりはないのだが、隠し事をされるのは矢張り気分がよくない。
「今日こそ、絶対に見つけてやるんだから」
それでなくとも、妙な話がここ数日、村中を駆け巡っているのだ。
雲雀が、綱吉とは違う人物と親しげに話をしていた、と。
それは背が高い男で、黒髪を額の上で、さながら庇の如く結い上げており、非常に厳しい顔をしているのだとか。そして雲雀は、彼と一緒に居るところを村人に目撃されると、慌しくその場を去ってしまうのだという。
まるで、誰かに見られると困ると言わんばかりの態度だと伝え聞いており、綱吉の心情は穏やかでなかった。
特徴的過ぎる髪型の人物に、覚えは無い。村の人とも違う。骸たちの先例もあるので、村人達の余所者に対する視線はいつになく冷ややかだ。先日のランボが引き起こした騒動の余波も、未だ村の中に燻っている。
雲雀は村人からある程度の信頼を得ているが、余所者と親しくしているという話はあっという間に広まって、中には彼を疑う人も出て来た。
村が炎に包まれた夜が明けて数日、雲雀は村を離れていた。事情が事情なので事の次第を説明することも出来ず、怪我をして臥せっていたと言ったところで、元から頑丈だと知れ渡っている雲雀だから、素直に信じてくれた人は少ない。
彼の立場が悪くなれば、彼を幼少期から庇護してきた沢田家の立場も怪しくなる。そうでなくとも、家長である家光が長く村を留守にしており、一部の神事が執り行われずにいるというのに。
「今は、俺に内緒で、こそこそやってる場合じゃないのに」
いったい雲雀は、何を考えているのだろう。
思考を巡らせるうちに段々腹が立ってきて、綱吉は荒々しい足取りで進み、民家の屋根が見え始めたところで歩調を緩めた。
火事の惨さを象徴するかのように、畦の先で枝を伸ばす樫の木は幹の表面が真っ黒に焼け焦げ、煤けていた。表皮が割れて、触れれば呆気なく砕けて崩れていく。指の腹に残った汚れを擦って落とし、忙しく農作業に勤しむ村人の背中をぼうっと眺める。
たとえ全焼の憂き目に遭ったとしても、そのままで置いておくわけにはいかない。来年の春には水を引き、苗を植え、稲を育てなければならないのだ。でなければ、人は食べていけない。
食べないでは、人は生きて生けない。
「こんにちは」
「おや、こんにちは」
樫の木の根元に立っていたら、腰の曲がった初老の男性が顔をあげた。目が合って会釈をし、挨拶を送る。向こうも会釈を返してくれた。
鍬を片手に、首から提げた手拭いで汗を拭った男性は、窄めた唇からふーっと息を吐いて人心地つくと、屈託無い笑みを浮かべた。欠けた前歯が見えて、ひょっとこのような顔につい、綱吉も笑みを浮かべた。
雲雀の行方を問えば、今日は見ていないと言われた。がっかりしつつも礼を述べ、もうひとつ頭を下げて道に戻る。村の中心に行くに従ってすれ違う人の数は増えていったが、こちらに出向いていないのか、たった一人を除いて雲雀を見たという人は現れなかった。
「雲雀なら、昼過ぎに会ったぞ」
「本当? お兄さん」
その唯一の人の言葉に綱吉は声を張り上げ、隣に居た京子に笑われて恥かしそうに舌を出した。
村のほぼ中心部、ひと際大きな屋敷の前で偶然会った兄妹は、此処並盛村の村長を勤める男性の実子だ。どちらも綱吉とは古い馴染みで、妹の京子は同い年というのもあって特に親しくしていた。兄である了平は、雲雀とそれなりに仲が良い。
日に焼けすぎて色が抜け、白くなってしまった髪の毛を掻き回し、了平は豪快に笑って、しっかりと頷いた。
「ああ、俺が言うのだ、間違いない」
記憶力が非凡なまでに悪く、三分前の出来事も綺麗さっぱり忘れてしまえる彼の弁は、力強いがあまり信用ならない。もっとも、親友だと公言する雲雀の顔を見間違えるとも思えないので、今回は間違いなかろう。
期待の眼差しで続きを待つ綱吉に手を伸ばし、跳ね放題の髪をくしゃくしゃに掻き回すのは、彼の癖だ。首を引っ込めて逃げた綱吉をまた呵々と笑って、了平は南に続く道を指差した。
それも街道に続く方向ではなく、湿地帯に続く方角だった。
「足腰の鍛錬で走っている時にな」
あの辺りは地面がぬかるんでいるので、歩いているだけでも体が沈んでいく。場所によっては抜け出せず、溺れてしまう危険性もあるので、子供達はなるべく近付かないよう大人から言われていた。
だが了平は、そのぬかるみ具合が鍛錬に丁度いいと言って構わない。彼のことだから、胸まで沈んでも平然と走り抜けてしまいそうだが。
「雲雀さん、どうしてそんなところに?」
「さあな。声をかけようとしたら、俺を見た瞬間に立ち去りおった」
「……」
綱吉の疑問を京子が代弁し、了平は顎を撫でて首を捻った。
彼の言葉は、村人が噂している内容と相違ない。人に見られて困る事をしているにしても、目撃場所はてんでちぐはぐで統一性が無かった。強いて挙げるとするなら、大抵が人気の無い村の端という事くらい。
そして。
「そうそう、誰かと一緒だったぞ」
「やっぱり」
思い出した了平の一言に低い声を吐き、綱吉は踵で地面を抉った。
苛立ちを隠そうとしない彼を珍しいと眺め、了平は上目遣いに自分を見る幼馴染の少年に肩を竦めた。
「怪しい事をしている様子はなかった。村の連中の噂は、あまり気にするな」
人々の口から吐き出される雲雀に対する不審は、村長の息子である了平の耳にも当然ながら届いていた。しかし村人以外の男と一緒に居るという以外で、雲雀に不審な点は見られない。確かにこそこそと動き回っているので、珍妙に感じるところはあるが。
「それに、だ。あの男が何か企むのに、わざわざ人に見られるようなところでやると思うか?」
「それ、褒めてないですよ、お兄さん」
悪巧みをするなら、絶対に誰にも悟られないようにする奴だ。了平の弁は言い換えればそういう意味で、さりげなく雲雀を貶している。
呆れ声で反論し、綱吉はひらひらと手を振った。緩く握って了平の肩を軽く叩き、教えられた場所に行こうと決めて踵を返す。だが、あの辺りは綱吉の年齢でも危険を伴うので、当然ながら了平は止めた。
「止めておけ。探さずとも、そのうち帰って来るのだろう」
「それは、……まあ、そうなんですけど」
出し掛けた足を引っ込め、綱吉は決まり悪い顔で言った。
「でも、俺に隠れてこそこそされるの、なんか。なんていうか」
「雲雀さん、ツナ君にも言ってないの?」
「うん」
巧く説明出来なくて言葉を濁した彼に、京子が目を丸くした。雲雀と綱吉の仲の良さは村中の人が知っており、その彼らの間に隠し事が成立しているというのは、京子にとって驚きだった。
だけれど、了平の主張は違う。
「ひとつやふたつくらい、隠しておきたい事だってあるだろう」
男とはそういうものだ、と腕を組んで胸を反らした彼を睨み、京子が肘で彼の脇腹を衝いた。
京子は綱吉の味方で、了平は雲雀の味方だ。最愛の妹にまで咎められて、了平は困りきった様子で短く刈り揃えた頭を掻き、深々と溜息を吐いた。
「しかしなあ、沢田」
彼の言いたい事も、分かる。だけれど、性格上の問題かもしれないが、綱吉は雲雀に隠し事が出来ない。嘘がつけないというのもなかなか厄介で、巧く誤魔化せなくてついつい早いうちに観念してしまう。
雲雀にばかり秘密が増えて、綱吉だけ丸裸というのは、不公平だ。
唇を尖らせた綱吉に、京子もしきりに頷いて同調する。不利な状況に追い込まれ、了平は額の傷の辺りに手を翳し、困った顔をして奥歯を噛んだ。
「お前達」