野分 第五夜

「黙って」
 境内と社殿とを繋いでいる朱色の階段、その手摺りに綱吉を凭れ掛からせた雲雀が、擬宝珠に反射する陽光にちらりと目を遣って声を潜めた。
 あまり人に見られたくないし、見せたくもないからと余計な会話を一切省き、小声で囁いて華奢な左胸に掌を押し当てる。布ごと軽く揉むように指を動かし、ヒクン、と爪先を跳ね上げた彼を再度抱き抱え、雲雀は姿勢を前に倒した。
 あ、と思う間もなく目の前に影が落ち、視界が黒く霞んだ。
 反射的に瞼を閉ざした綱吉の唇に触れ、雲雀が浅く息を吐く。微かに湿る柔肌に舌を差し向けた彼は、野苺の粒を転がすように下から上へチロリと舐めあげた。
「っ」
 肩を強張らせた綱吉の左胸を優しく撫で、怖がることは無いと教えてやる。布越しに感じる心音が一瞬だけ速くなり、徐々に落ち着きを取り戻すのを待って、雲雀は硬く目を閉ざす愛し子の唇を塞いだ。
 ゆっくりと捏ねるようにして重ね合わせ、緊張を解きほぐして行く。触れてくる温かさが心地よいのか、綱吉の表情は直ぐに変化を見せ、眉間に刻まれていた皺は一瞬のうちに消え失せた。
 弛緩しきった頬がほんのりと赤みを帯び、逆手で欄干を掴んでいた彼の腕が宙を掻いた。何かを追い求めるように指が動き、雲雀の袖を掴んで強く握り締める。手繰り寄せて中から伸びる腕を探し出し、そこから肩を目指してゆっくりと登っていく。
 首に両腕を絡めて抱き締めると、ついに開かれた咥内にするり、と雲雀の舌が潜り込んだ。
「んん……」
 暖かい湿った感触に、綱吉は最初首を振って嫌がった。しかし諦めることなく雲雀は彼を追い、奥へ逃げた柔らかな舌を求めて首を前に倒す。綱吉の前髪に睫が触れるところまで顔を寄せ、瞼に隠された琥珀の艶を求め、くどいくらいに綱吉の咥内を蹂躙する。
 右手は絶えず綱吉の厚みの無い胸を揉みしだき、時折悪戯に爪を立てて白い肌に赤い引っ掻き傷を刻み付けた。
「や、んっ……ふぁ、あっ」
 大きく首を振った綱吉が可愛らしい声を零し、雲雀の肩に縋りついて膝を震わせた。
 欄干に背中を押し付けられ、圧し掛かられ、退くことも逃げることも出来ず、明るい日差しの下だというのに雲雀に組み敷かれて身悶えている自分を意識させられる。直ぐ其処には黒川も了平もいて、獄寺などはふたりの様が丸見えの位置に居るにも関わらず、雲雀は少しも彼を放そうとしない。
 銀髪の青年は慄然と立ち尽くし、瞳孔まで見開いて、二人の艶事を凝視していた。彼の視線が突き刺さるのがありありと感じられて、綱吉は息苦しさに喘ぎながら雲雀の上腕に爪を食い込ませた。
「ふぁ、うん……や、あ」
 背中からぞくぞくと寒気が襲ってくる。自力で立つのは最早困難を極め、雲雀をよすがとする以外、身を支える術はなかった。
 鼻から零れる甘い吐息を止めることが出来ない。咥内を余すところなく舐め回し、水音を響かせて溢れ出る唾液を吸って飲み干す男の真意を計りかねて、綱吉は目尻に涙を浮かべた。
 身体中が熱くてたまらない。その熱が、触れて来る掌を通じて彼にも一直線に流れて行く。鼓動は高まり、全身を駆け巡る血液は雲雀を求めて蠢き、奥深い場所で鳴動していた。
 雲雀に何もかも奪われる。
 魂さえも彼に食らい尽くされてしまうのではないかという恐怖に見舞われ、首裏の産毛がぶわっ、と膨れ上がった。
「は、あ……ぁ、んっ」
 最後の仕上げとばかりに、雲雀が舌の根を奪う勢いで口腔を塞ぐ。いつもなら外にまで溢れてしまう唾液も、今回ばかりは殆ど顎に伝うことなく雲雀が飲み込んでしまった。
「ん――」
 布を滑り落ちた綱吉の右手を追いかけ、ずっと胸を探っていた手が離れた。掌を重ねあわせて指を絡め取り、強く握り締めてそこからも遍く熱を奪い取っていく。
 依然鼓動は平常値を越えていたが、次第に軽くなっていく身体と心に、綱吉は薄く瞼を持ち上げて冴え冴えとした黒い瞳を見詰めた。
 艶を帯びた琥珀を瞬かせ、ようやく彼の狙いを理解して淡く微笑む。
「ヒバリさん」
 甘える声で名前を呼べば、安堵した表情で雲雀が右手を広げた。
 離れていこうとするのに追い縋って綱吉は自分から彼の手を取り、引き寄せて胸に抱き締める。どくん、どくん、と安定段階に入った心臓を彼に確かめてもらい、ゆっくりと身を起こした彼に目尻を下げた。
 まだ体内に燻る熱は引かないが、それは根本的に原因が違う。火急に取り除かなければいけなかったものは、全て雲雀が吸い出してしまった。
 つまるところ、綱吉の体内に過剰に供給されてしまった神気を、だ。
「先に言って欲しかった」
 欄干の型がついて軽く痛む背中を撫でた綱吉が、まだ雲雀の感触が残る唇を掻いて愚痴を零す。その額を小突き、一刻の猶予もなかったのだと伝えて、雲雀は肩を竦めた。
 乱してしまった衿を整えてやり、一足先に彼は玉砂利の石畳に降りた。
「沢田、いったい――ぬお、雲雀。何故お前が此処に」
 さっきまで社殿裏にいた綱吉が今は表に、さっきまで神社には居なかった人と一緒に居る。目まぐるしく変わる展開にさっぱりついていけず、風に浚われた綱吉を捜していた了平は慄き、砂の入った目を頻りに両手で擦った。
 説明が面倒臭いと一切を省き、雲雀はくしゃくしゃになっている綱吉の頭を撫でた。
「まったく、なんなのよ、もう」
 黒川も日の当たる場所に戻って来て、突如表れた形の雲雀に嘆息した。こちらは、了平ほど派手には驚かなかった。
 綱吉は胸を撫でて苦笑し、未だ水溜りの真ん中で突っ立っている獄寺を思い出して背筋を伸ばした。泥汚れが目立つ彼に駆け寄り、手を伸ばして額を隠している前髪を断り無しに掬い上げる。
「十代目」
「良かった、消えてる」
 雲雀が沈殿していた神気を吹き飛ばしたお陰か、獄寺の頭皮を突き破って具現化しようとしていた鬼としての象徴は、綺麗さっぱり消え去っていた。
 角の出ていた一帯が僅かに赤みを帯びて、虫刺されの痕のように腫れていたが、それだけだ。綱吉が腕を引いた後で、自分でも触ってみて、自分以上にほっとしている目の前の少年にはにかむ。
「十代目……」
「よかった」
 綱吉が心から喜んでいるのが感じられて、獄寺の胸がかーっと熱くなった。
 下ろした手で胸元を掻き毟り、頬を鮮やかな紅色に染めて奥歯を噛み締める。先ほど少しだけ感じた、産まれた場所の違いによる疎外感は一瞬で掻き消えて、自分は彼に望まれて此処に居るのだという確信が心を埋め尽くした。
 出来るものなら今すぐ彼を抱き締めたい。抱きつきたい。この歓喜を言葉に出し、大声で叫びたい。
 だが右から氷のような冷たい視線も感じられて、獄寺は冷や汗ひとつ流し、出かかった手を急いで背中に隠した。
「獄寺君?」
「はっ、あ、いえ。十代目も、御加減は」
「うん、平気。ヒバリさんが助けてくれたから」
 春の花が蕾を膨らませて一気に咲き誇るように、両手を叩き合わせた綱吉が満面の笑みを浮かべた。
 明らかに自分を相手にする時と違う表情に、雲を突き破る勢いで駆け上がっていた獄寺の感情は、瞬く間に急降下に転じた。
「そ、そうですか……」
「うん!」
 社殿前で交わされていた濃厚なくちづけは、獄寺にも見えていた。見るべきではないと分かっていながら目を逸らせず、喉を鳴らし、あれが自分だったらと願わずに居られない光景だった。
 いつか必ず、と誓いを新たにしながらも、一生巡ってこないかもしれないという諦めが同時に胸を過ぎる。恐らくこの先三日は確実に夢に見ると、確信を持って言えた。瞼を下ろせば、欲情する綱吉の肢体がありありと目に浮かんだ。
 雲雀はあんな綱吉を、毎晩のように目にしているのだ。
「ちっくしょー」
 少しはこっちにも分けろ、と言いたい気持ちを押し殺し、獄寺は不思議そうな顔をしている綱吉にぎこちない笑みを返した。場の空気を誤魔化し、綱吉を雲雀の方へ押しやって深い溜息を零す。
 怪訝にしながらも素直に最愛の人の元へ戻った綱吉は、待ち構えていた彼の胸に頭から突っ込んでしがみつき、首だけ右に向けて呆れ返っている黒川に小さく舌を出した。
「元気そうね」
「おかげさまで」
 さっきまで顔面蒼白で、今にも倒れそうにしていたのに、雲雀が現れた途端急激に回復している。変化の激しい綱吉に肩を竦めた彼女は、それで、とすっかり行き詰ってしまった探索に話を戻した。
 彼女、及び了平が見たという青年と少女の影は、神社には微塵も残っていなかった。
「里に降りたかどうかも分からないようじゃ、探しようが無いですね」
 気を取り直した獄寺が咳払いひとつの末に発言し、それで思い出した雲雀がそうだ、と声をあげた。
「綱吉、神域に正体不明の精霊が迷い込んでる」
 屋敷の北庭で見た、おさげ髪の少女を脳内に描き出して、彼は綱吉の肩を叩いた。
 伝心で映像も一緒に流れてきて、綱吉は目を瞬いた。赤い上着と白い下穿きの、細身の女性――見覚えの無い顔なので里の人間でないのは一目瞭然だが、それ以上に驚かされたのは、くるりと踵を返した彼女が走り去った方角だ。
 屋敷の北に広がる森は、禁足地。綱吉や雲雀ならいざ知らず、他の人間は結界に阻まれて、髪の毛一本すら通り抜けるのも叶わない場所。
 綱吉が疑念を抱いていた現象だ。
「やっぱり!」
 伝えられた内容に声を張り上げ、彼は了平を振り返った。
 精霊とは、人と神の中間の存在。数はそう多くなく、ましてや霊力を持たない人の目に映るまで強大なものは限りなく稀だ。
 了平が見た少女と、雲雀が目撃した精霊は同一と思って間違いない。ぐるぐると同じところを回るばかりだった思考に一片の光が差し込んで、聞こうとせずとも聞こえてくる綱吉の心の声に、雲雀は顎を撫でて頷いた。
 一方の、伝心が叶わない三人は完全に置いてけぼりをくらい、頭の上に無数の疑問符を浮かべた。
「ちょっと、勝手に納得しないでくれる?」
「そうだぞ。分かるように説明しろ」
 黒川、了平の双方からも非難の声があがり、獄寺も教えて欲しそうな顔をして綱吉を見詰める。新たな真実に興奮していた彼は、胸の前で揺らしていた拳を下ろし、睨んでいる人たちに臆して頬を引き攣らせた。
 前に出た雲雀が、一旦話題を逸らそうと遠くに視線を投げた。
「そういえば、入江正一は?」
「え?」
 本日の清掃当番で神社を訪れたのは、黒川花ひとりではない。もうひとり、里の少年が居たはずだ。
 だのにすっかり忘れていた四名が、きょとんとした顔で隣に居る人を振り返った。知っているかと目で問い、それぞれに首を振って、改めて雲雀を見上げる。
 黒髪の青年は眉間に皺を寄せ、手近なところにあった綱吉の頭を叩いた。
「いてっ」
 ぽかり、といい音がして、綱吉は亀のように首を引っ込めて両手を上にやった。
「君たちね……」
 立ち込める神気に綱吉が意識を持っていかれたのは仕方が無いとしても、一緒に神社を訪れたはずの黒川まで、今の今まで思い出しもしなかったのには、呆れざるを得ない。
 はあ、と非常にわざとらしい溜息をついてみせた雲雀を前に、彼女は顔を真っ赤に染めた。
「だって、仕方ないじゃないの!」
 自分はあの牛柄の青年に夢中だったのだから、端から眼中に無い正一に気を止める余裕なんてあるわけが無い。いつだって綱吉に夢中の雲雀に責められる道理は無いとまで叫ばれて、話の論点がずれていることに雲雀は肩を落とした。
 今はそういう議論をする為に、此処に集まっているのではない。
「君が見たという青年は、なら、入江正一も見ている可能性がある――とは思わないの?」
「あ!」
 現場に居合わせた、もうひとりの人物。彼ならば恋心に浮かれてぼうっとしていた彼女とは違い、しっかりと青年が何処から現れ、何処へ行ったのか、見ているかもしれない。
 指摘されて気付いた黒川は、ぱちん、と両手を叩き合わせて目を見開いた。
 目の前の事にしか気が行かず、少し引いた場所から物事を眺めることが出来ていなかった彼女に辟易した様子で雲雀は首を振り、そしてやおら後ろを振り返った。
 急な彼の動きに綱吉は視線を上向け、袖を引き、同じく後方に目をやった。
「ああ」
 境内のその向こうに聳える大きな鳥居を潜り、少女がひとり、こちらに向かって駆けてきていた。
 それはこの場に居る全員が知る人物であり、特にうちひとりは一つ屋根の下に暮らす間柄だ。南に顔を向けたふたりに倣い、腰に手を添えた了平も視線を投げて、息せき切らして走ってくる己の妹の姿に目を見開いた。
「京子!」
「良かった。こんなところにいたー」
 名前を呼んで、塊になっていた場から三歩ばかり外にずれる。京子は右手を高く掲げると前後左右に振り回し、萌黄色の長着の裾を揺らして兄の腕の中に飛び込んだ。
 先ほど、誰かが誰かに同じ事をしていた。黒川の冷めた視線を受け、綱吉が照れ臭そうに頬を掻いた。
 無視を決め込んだ雲雀は身体ごと社殿に向き直り、先ほど自分で弾き飛ばした神気について記憶を辿った。眦を裂いてまだ微かに残っている天雷の力を読み解こうとして、異質なものが其処に紛れ込んでいるのに気付いて小首を捻る。
「ヒバリさん?」
 難しい顔をした雲雀を見上げた綱吉の声にも反応せず、彼は一歩、神社裏に進もうと踵を浮かせた。
「もー、お兄ちゃんってば。鍛錬に出るって言って、全然帰ってこないんだから」
 しかし彼の思考を邪魔して、甲高い声で京子が叫んだ。握り拳で兄の厚い胸板を殴り、頬を膨らませて可愛らしい顔で拗ねてみせる。
 出鼻を挫かれた雲雀は誰にも聞こえない音量で舌打ちし、不安げな眼差しの綱吉を下に見て表情を緩めた。
 なんでもない、と薄茶色の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回して軽く叩き、後頭部を抱いて自分の胸に引き寄せる。そこまで甘えるつもりはなかった綱吉だけれど、彼の気遣いとも言うべき気まぐれな優しさが嬉しくて、腰に両手を回し、ぎゅっとしがみついた。
 まだ残暑が残る季節で、直射日光を浴びているので暑いというのに平然な顔をして寄り添いあうふたりに肩を竦め、付き合っていられない、と黒川は走って来た京子に矢面を向けた。
 首筋の汗を了平に拭ってもらっていた彼女も、親友の視線に顔をあげた。
「あんたが走ってくるなんて、珍しいわね。なにかあったの?」
 いつもおっとりして、綱吉に負けず劣らずぼんやりしているところがある彼女が、慌てふためいて了平を捜し求めていた。その狼狽振りから、状況の緊迫ぶりが垣間見えた。
 内面を読み取られた彼女は少し恥かしそうにし、了平の法被を掴んで引っ張った。
「あのね、お兄ちゃん。村が大変なの」
「どうしたのだ、いったい」
「それがね、よくわかんないんだけど」
 背伸びをして踵を上下させた彼女の、焦りを含んだ口調に、了平の顔がにわかに曇った。
 笹川の家は、並盛村の里長を代々受け継いでいる家系だ。了平はその跡取りで、つまるところ、彼はいずれこの里を治める役目を、生まれながらにして与えられていた。
 記憶力は少々難があるが、決断力と行動力に優れ、なにより身内、仲間を大切にする、胸に熱いものを秘めた男だ。
 大きな声で喋ろうとして咳込んだ妹の背中を撫で、ゆっくりで構わないと諭した彼に京子が頷く。広げた両手を重ねて胸に添えた彼女は、深呼吸を二度ばかり繰り返した後、真剣な眼差しで兄を下から見詰めた。
「あのね。村に、変な男の人が」
「男の人ですって!?」
 男、に掛かる形容詞は、どうやら黒川の耳には入らなかったらしい。事情を語り出した京子の声を遮り、彼女は血相を変えて叫んだ。
 裏返った怒号にびっくりした京子が、親友のあまりの変貌振りに怯えて、表情を強張らせた。ずんずん近付いてくる黒川に目を丸くし、コクン、と小さく頷いて了平の背中に隠れてしまう。
「どんな人だったの、その人は」
「え……、と」
 なにがなんだか分からぬまま、京子は黒川の詰問に視線を泳がせ、声を潜めた。
「多分お兄ちゃんか、雲雀さんくらいの歳で」
「服装は!」
「白と、黒の、斑模様」
 髪の毛は黒く、左目の下に小さな傷があった。背が高く、この辺りではまず見ない顔。そしてなにより――
「見つけたわ!」
 まだ続きがあるというのに、またも京子の説明を途中で邪魔して、黒川は両手を結び合わせて歓喜に表情を染めあげた。うっとりと恍惚に耽った顔をして身を捩り、狂おしさに喘いで胸を押さえ込む。そのまま彼女は、周囲が止める間もなく一目散に走り出した。
 その他の面々が呆気に取られる中、まるで酔っ払ったかのような足取りで鳥居に向かって駆けていく。
「待っていて、愛しいお方~」
 恋に狂うとは、まさしくああいう状態の事を言うのだろう。あっという間に彼女の姿は石段の下へ消えて見えなくなり、名も知らぬ、一度遭遇しただけの男を呼ぶ声だけが余韻を残してやがて消えた。
 吹き抜けた乾いた風に頬を撫でられ、どっと押し寄せた疲れに、京子以外の全員が肩を落とした。
「なんだったのだ、あ奴は」
「さあね」
 嵐のように訪ね来て、嵐のように去っていった。黒髪を掻き上げて相槌を打った雲雀は、気を取り直すように咳払いをひとつし、話の途中だった京子に目をやった。
 腕組みした獄寺にも睨むように見詰められ、彼女は真っ先に兄を窺い、頷かれて視線を落とした。
「それで、その男とやらは」
 特徴が一致しただけで、黒川の言っていた人物と果たして同一かどうかは分からないが、先ずそう思ってもよかろう。もし里に危害を及ぼすような危険な輩なら、今すぐ探し出し、彼女には可哀想だが、捕まえて、村から追い出さなければいけない。
 村長の息子として、里の治安を守るのも了平の仕事のうちだ。握り拳を作った彼に、京子はほっとしたような、複雑な表情を瞳に浮かべた。
「なにかされたのか」
「ううん。ただ、聞かれたの」
「なにを」
 変な、との説明がなされていた男の全容は、いまだ見えてこない。解決していない問題が山積みなのに、次から次へと騒動が巻き起こって、整理が必要かと雲雀は溜息を零した。
 山本の鼓膜を破った衝撃波は、神社裏の楠に蓄積された雷の力が爆発した際に生じたものと思って間違いない。高密度の神気が其処に沈殿していたのもその影響だ。深く考えずに綱吉を行かせた少し前の自分を悔い、雲雀は京子の説明を聞き流そうとした。
「えっとね。僕が見えるんですか、って」
「っ!」
「なんだそれは」
 奇妙な質問を繰り出す男だと了平が正直な感想を述べる中、雲雀と綱吉、及び薄々感づいていた獄寺が揃って息を呑んだ。
 人が人を捕まえて、自分が見えるかどうかを問うのは、まったくもって無意味だ。見えない人間など居ない、目くらましの術でも使っていない限りは。
 しかし京子に冗談を言っている様子はなく、彼女に質問を投げかけた男もまた、大真面目だった。見えると頷けば、まるでこの世の終わりだとばかりに絶望的な目をして打ちひしがれ、ふらつき、倒れそうになって踏み止まって、どこかへと走り去っていった。
 事情もなにも聞くことは叶わず、京子は呆気にとられた。聞けば他にも大勢、同じ質問をされた人が居て、誰もが同じように首を縦に振り、青年を嘆かせた。
「見えないって言ってあげた方が良かったのかな」
 嘘をついてでも、男の質問に頷くべきだったか。だが見えるからこそ質問にも答えられるわけであり、行動に矛盾が生じてしまう。
 だから変な、分からない男だと京子は里に現れた謎の青年を評し、了平も賛同して頷いた。
「あの、ヒバリさん。俺、ちょっと思ったんですけど」
「ああ、綱吉。僕も少し思うところがあるんだ」
「十代目、俺もです」
 沢田邸に現れた少女は、結界に阻まれることなく神域を移動出来た。了平が何往復もさせられたものを、彼女は一発でいとも容易く通り抜けてしまった。
 人間ならば、資格を持つ者以外許されない。沢田の血筋は限られており、ならば考えられる可能性は自ずと絞られる。
 だが果たして、この憶測を信じてよいものか。
 三人が額をつき合わせて思い悩む中、京子の頭を撫でていた了平が目に入った陽射しを避けて顔を背けた。風に揺れる樹林に向き直り、そのまま何気なく北を向いて、ぶわっと全身の毛を逆立てる。
「お兄ちゃん?」
 下から上に震えが登っていった彼に、最も近い場所に居た京子が怪訝に眉を寄せた。自分の肩を抱く青年が見ているのと同じものを視界に収め、小首を傾げる。
 煌々と照りつける太陽の下、乾き始めた大地に佇むひとりの少女。長い黒髪を左右に分けて編み、少し面長の丸顔で額は若干広め。赤い胴衣の身ごろは胸元で白い紐を結んで固定して、了平が履く股引よりもゆったりと、且つ丈が長い下穿きを履いている。足元は下駄ではなく、爪先から踵まですっぽり覆う黒い靴だった。
 並盛の近辺ではまず見ない、異国風の装束。その赤い裾を握り締めた彼女は、どことなく怯えた様子で、真っ先に自分に気付いた了平ではなく、雲雀に向かって救いを求める視線を投げた。
 媚びを売るものではない。だがあまり気分宜しいものではなく、綱吉はついむっとして、雲雀に身を寄せた。
「師父!」
 だが彼女は構うことなく叫ぶと、雲雀と綱吉に向かって一歩を踏み出した。悲壮感漂わせる眼差しに警戒感を強め、雲雀がすかさず綱吉を背中に庇った。
 替わって前に出たのが、了平だった。京子をその場に残し、黒川にも通じる歓喜に満ちた表情を浮かべ、口元を綻ばせて少女に向かって両手を広げた。
「おぉぉ!」
 狼の遠吠えにも似た声で吼え、地を蹴って駆け出す。
「お兄さん!」
「お兄ちゃん?」
 綱吉と京子とが同時に叫ぶ中、彼は一直線に少女目掛けて猪宜しく突進し、高く掲げた両手を強く握り締めた。
 止める暇もない。
「はあぁ!」
 緩んでいた表情が引き締まったかと思うと、彼は気合の篭もった雄叫びをあげて少女目掛け、痛烈な一撃を繰り出した。
 雲雀を除く全員がぽかんと口を開き、間抜けな顔で境内に沸き起こった砂埃に目を瞬いた。地面に深々と穴を作り出した了平は、土煙の中、咄嗟に後ろへ跳んで避けた少女に不敵な笑みを浮かべた。
 宣戦布告なしの攻撃を躱した彼女は、着地と同時に身を低く屈めて構えを作り、了平の繰り出したニ撃目を掌で受け止めた。
 柔軟な身のこなしで力の矛先を巧みにずらし、衝撃を吸収、相殺して受け流す。上半身の重心を崩された了平は、右腕を前に突き出したままたたらを踏んだ。
「うお、っと――ぬん!」
 転びそうになったのを数回横に跳んで調整した彼に負けない素早さで、少女はすかさず反撃に転じ、拳を打ち出した。だが正面からの攻撃は捉え易く、最初の土埃も既に消え去っている。正直すぎる打撃に了平は笑みを零したが、直後彼の表情は凍りついた。
 受け流したと思った拳は実は囮で、彼の注意が逸れた瞬間、彼女は玉砂利を蹴って高く空へ舞い上がった。腰を限界まで捻り、遠心力を利用して了平の頭部目掛けて痛烈な蹴りを叩き込む。
「ぐ、……おのれ」
 今度こそ倒れそうになった彼だったが、根性で堪えて頭部と少女の足との間に挟んだ左腕を引き抜いた。即座に逃げに入った彼女を許さず、細い足首を下穿きの上から捕まえて強引に引っ張る。頭が下を向いた彼女は、振り回されようとしていると悟って慌てて両手を地面に突き出した。
 自由の聞く右足に無理をさせて、全身を撓らせて了平の肘を掬うように爪先で蹴り飛ばした。
 ばしん、と硬い音が空を切り裂き、指の力が緩んだ隙に彼女はあっさりと脱出を果たして了平から距離を取った。
 両者ともに多少息は乱れているものの、表情は準備運動を終えてこれからが本番だと言わんばかりだった。
 いったい何のつもりなのか、状況が飲み込めずに綱吉は口を開けたまま雲雀を振り返った。だがいくら雲雀でも、了平が考えている中身など分からない。
 神社に居た少女に執心していたから、てっきり黒川と同じ理由だと誰もが思った。実際、そういう側面も一部分はあるだろう。ただ強い相手と戦いたいという欲求が、純粋な好意を上回っただけで。
「さすが俺の見込んだ相手だ」
 不遜な態度を崩さずに言い放った了平に、言葉が通じているのかは分からないが、呼応して少女もなにやら異国の言葉を発した。誰の耳にも理解出来ない言語だったのだが、拳を交えた了平には、伝わるものがあったらしい。
 顎を伝う汗を弾き、彼は口角を歪めて笑った。
 格闘術に関してのみであるが、了平は雲雀と比べても遜色のない実力の持ち主だ。いや、素手同士での戦いであれば、雲雀が、ごく稀にではあるが負けることさえあった。
 拐無しでは不慣れな分、雲雀はどうしても劣勢に回らざるを得ない。その代わり、了平が承諾して武器を手にした際は、ほぼ負け無しだ。
 里でリボーンとディーノを除き、生粋の人間で雲雀に勝利寸前までいける唯一の人間が、彼。その彼とほぼ互角に遣り合っている少女もまた、相当の手練れだ。
「……止めます?」
「やらせておけばいいよ」
 一対一の戦闘に水を差すような、無粋な真似はしたくない。言葉尻に含みを持たせ、雲雀は心配そうに見守る京子の肩を軽く叩いた。
 振り向いた少女の揺れる瞳に頷き、その手で綱吉の頭も撫でてやる。
「それに、多分もうじき、切れる」
「なにがだよ」
「神気」
 合いの手を挟んだ獄寺を見もせず言い、雲雀は乱戦を繰り広げている了平たちを尻目に歩き出した。
 これまで何度も邪魔が入って行けなかった社殿脇を通り過ぎ、鬱蒼と樹木が繁る薄暗い広場へと足を向ける。遅れて、訳が分からないまま綱吉と獄寺、そして兄の戦闘を見ていられなかったらしい京子が続いた。
 周囲に立ち込めていた雷の余波は消え去って、小鳥の囀りが戻っていた。日射しが遮られているので地面はまだかなり湿っており、気温も若干低いのか、ほんの少しだけ肌寒かった。
 長着の上から両腕をさすった綱吉は、さっきまでとは随分濃度が下がった霊気に胸を撫で下ろし、同じく頭を触っていた獄寺に苦笑した。
「ヒバリさん、山本は大丈夫でした?」
「問題ないと思うよ。今、里に降りてる」
「里に?」
「そう」
 あの人も一緒に、とすっかり村での生活に馴染んでしまっているディーノを思い浮かべた雲雀に、綱吉は眉目を顰めた。
 一応、神格者である彼の存在は、公にできるものではない。並盛神社の社殿で寝起きしていると知られでもしたら、村の年寄りたちはこぞって罰当たりだと大騒ぎするに違いない。
 彼がその神社に祀られている神様そのものだと、言ったところで信じる人など居ないだろう。
 無闇に里に行かせるべきでないと主張していたのは、雲雀当人であったのに、どういう心境の変化なのか。探る目で彼の心を覗き込もうとした綱吉だったが、寸前に雲雀は鍵をかけてしまったので扉は開かなかった。
「ちぇ」
 悪態をつき、落ちていた小石を蹴り飛ばした彼に前を見たまま肩を竦め、雲雀は長着の袖に手を引っ込めた。次に出て来た時には、どこに仕舞ってあったのか、青銀色の拐がしっかりと握られていた。
 左右に一本ずつ、愛用の武器を手にした彼に驚き、獄寺が素早く周囲に目を走らせた。臨戦態勢には入っていないが、凶器を取り出した以上はどこかに不穏な輩が隠れていると彼が判断したのは、ある意味仕方が無い事だ。
 だけれど雲雀は、獄寺の期待に反して拐を緩く握ると、つかつかと歩み寄った楠の傍、こんもりと繁る薮目掛けてそれを真一文字に振り下ろしただけに終わらせた。
 緑を左右に割り開き、其処に隠れていた人物を衆目に晒す。
「あーっ!」
「ひぃぃぃ!」
 瞬間、綱吉は現れた少年を指差して叫び、鼻先数寸のところを拐が走り抜ける恐怖に竦んでいた彼は、びくりと全身を震わせた。