野分 第一夜

 轟々と吹き荒れる風が戸板を激しく叩き、大きな雨粒はひっきりなしに屋根を打って、此処を開けるよう訴えかけている。
 暗闇に染まる部屋の片隅では、隙間風に煽られた行灯の炎が今にも掻き消えそうに、頼りなげに揺れていた。
 涙の形にも似た灯明が生み出す薄い陰影の中、身を縮こませた綱吉は、其処にいる人の腕を力いっぱい握り締め、片時も放すものかと決意を新たに深く息を吸い込んだ。
 と、唐突に周囲に静寂が舞い降りる。
「ひゃあ!」
 ふっ、と音が消え、瞬きひとつの末に視線を闇に投げやった瞬間、耳を劈く轟音が大地さえも震撼させた。
 みっともなく悲鳴をあげ、彼は座ったまま飛び上がった。両足揃えて膝から着地し、両腕を広げて雲雀にしがみつく。
 小刻みに震える小さな体躯を優しく受け止め、黒髪の青年は切れ長の目を細めた。
「そんなに怖い?」
「だ、だって」
 からかいながら訊ねれば、綱吉はおずおず顔を上げ、また外を走った雷光に肩を強張らせた。
 雨が吹き込まぬよう、窓の戸は全て閉めてある。しかしそれでもなお、木の板の壁を越えて一瞬の閃光が彼らの視界を焼いた。行灯の炎が大きく波を打ち、浮き上がる影は刹那の間濃くなり、またすぐに闇と同化を果たした。
 止めた呼吸を再開させて、綱吉がほうっと胸を撫で下ろす。絶えず背中を撫でる手は、優しく、温かく、心地よかった。
「雷なんて、今に始まった事じゃないだろう」
「それは、そうかもしれないですけど」
 そもそも綱吉と雲雀が初めて出会ったのも、雷鳴轟き、雨が雹のように降り注ぐ嵐の夜だった。
 まだ十年。されど、もう十年。巡り会ってから今日に至るまでの長くも短かった日々を最初から振り返っていると、心の中に描いた景色が伝わったのか、綱吉はようやく笑みを浮かべるだけの余裕を取り戻した。
 自分が見てきた景色が、雲雀視点で語られるのが妙にくすぐったい。そんな風に感じていたのかと思いを馳せながら、綱吉もまた、同じ日の記憶を胸の奥から呼び起こした。
 雲雀は嘗て、雲雀山の泉を塒とする蛟に食われかけた事があった。
 蛟が彼の血肉、そして魂を得て龍になろうとしたのか、それとも雲雀本人が無意識に龍への昇華を望み、蛟を求めたのか。どちらなのかは分からないし、両方かもしれない。だが幼かった彼に蛟を制御するだけの力はなく、蛟もまた雲雀が潜在的に持つ龍の力を持て余した。
 ぶつかり合い、混ざり合い、互いを飲み込まんとする壮絶な戦いは、周辺の地形を一変させてしまうほどに激しいものだった。
 数日に渡って豪雨が続き、川は氾濫して大地を、人を、容赦なく押し流した。田畑は水に浸かり、農作物は全滅の憂き目を見た。太陽は厚い雲に阻まれて長く顔を出さず、このままでは周辺一帯は水に飲まれて巨大な湖と化すところまで来ていた。
 それを止めたのが、矢張り幼かった綱吉だった。
 父親と共に蛟調伏に出向き、他の誰も気付けなかった雲雀の存在を、彼は見出した。
 雲雀を救い出す事で嵐が鎮まると、この時の綱吉が理解していたわけではない。ただ彼は、救いを求める手を掴んだだけだ。
 神童と言われ、類稀なる力を秘めていた蛤蜊家初代の生まれ変わりとさえ揶揄されていた綱吉とて、まだ当時は五つにも満たぬ幼子。何も分からぬまま彼は、兎に角雲雀を助けたい一心で、系統立てられ、理論に固められた術ではなく、本能が導くままに己だけの術を発動させた。
 綱吉は持てる力の全てを使い、雲雀の中に蛟を封じ込めた。そして代償として、彼はそれまで自在に扱えた霊力を失った。
 否、失われたのではない。雲雀に移っただけだ。雲雀の中の蛟を縛る鎖として、やがては雲雀の中の龍の力を封じる鎖として、彼の力は常にそこに、存在している。
 綱吉の力そのものが、雲雀を人としてこの地に縛り付ける楔となった――ただそれだけ。
 それは同時に、綱吉から退魔師として戦う術を奪う事となった。並盛の里の北に高く峰聳える並盛山を守る任を代々受け継ぎ、蛤蜊家分家として存在してきた沢田家の長子でありながら、彼は最早戦えない。
 残されたのは、視る力。
 この世に存在する目に映らぬもの、万物の根源さえをも見出し、視覚に捕らえる事が出来る力だけは、辛うじて彼に残された。
 とはいえ、それだけあっても闘えないのに変わりは無い。故に類稀なる霊力を保持し、たった一撃で易々と魔を祓い駆逐出来るのに、何故か視得ない雲雀が、その任を引き受けている。
 綱吉が妖や魔を見つけ、雲雀がこれを砕く。この方程式は長く、永遠に続くものだと、彼らも、彼らを取り巻く人々の多くも考えていた。
 今年の春が終わる少し前、唐突に蛤蜊家本家に呼び出された綱吉は、そこで蛤蜊家九代目の命がそう長くないのを知らされた。と同時に、次期当主候補として自分の名前が、しかも筆頭で上がっていると告げられた。
 後継者として最有力視されていた九代目の嫡子はもうずっと行方知れずで、今何処に居るのか皆目見当がつかないという。このまま跡継ぎを定めずにいるのは、これまで磐石だった蛤蜊家の礎が崩れることにもなりかねない。遠き未来を考慮し、憂慮しての通達だった。
 四方を山に囲まれ、都も遠く離れた辺鄙な寒村の並盛村で、一生を雲雀と共に添い遂げるとばかり思っていた綱吉にとって、まさに寝耳に水の話。到底即時受諾出来るわけがなく、返事は保留したまま、とうに半年以上が経過していた。
 その間に、実に様々なことがあった。
 蛤蜊家から直接、十代目候補の護衛役として派遣された獄寺隼人の目的が、実は綱吉の暗殺であったりもした。もっとも彼自身も蛤蜊家に騙されていた部分があり、今は改心して綱吉に付き従っている。若干鬱陶しくもあるが、実直で真面目で、悪い人物ではない。
 季節が巡って夏が来る頃には、昨年の秋口に並盛を離れ、修行の旅に出ていた綱吉や雲雀の幼馴染であり、退魔師として一足早く一人前とリボーンからお墨付きを貰った山本武が帰って来た。
 同時期、獄寺の姉である鬼の娘、ビアンキが、人の悪意に当てられて暴走し、結界を突き破って並盛山に侵入した。これを追い払う際に雲雀が負傷し、そこからビアンキを狂わせる元凶ともなった悪意の塊が流れ込んだ。
 それが、彼に封じられていた蛟に力を与えた。
 綱吉は人が心の奥深くに潜めている様々な害悪に触れずに育った。視得過ぎる彼は、人々に巣食う悪しき心まで見透かす。そしてその感情が、たとえ自分に向けられるものではないとしても、影響を受けてしまう。
 元々彼は身体が強くなかった。それなのに無理をして雲雀を蛟の手から救い出して、一時は死の縁を彷徨った。
 彼を助けるために、雲雀は蛟が持っていた龍珠を、負担が大きすぎて壊れる寸前だった彼の心臓の代用品として与えた。そこに綱吉が本来持つ力、即ち雲雀の中に今は宿る封印の鎖の力を送ることで、綱吉は命を繋ぎとめた。
 ふたりの魂はこういった経緯で、部分的に混ざり合った。互いの心が、ちょっとでも油断すれば相手側にまで伝わってしまうようになった。伝心、と彼らはこの現象に名を付けている。言葉を介さずとも、ふたりは自在に会話が可能だった。
 ところが雲雀は、蛟の暴走を押し留めて自分ひとりで解決しようとはかり、この伝心さえも遮断してしまった。
 雲雀の声が聞こえない、雲雀に声が届かない。触れさせてもくれない、近付いても来ない。
 今までずっと、着かず離れず一緒に過ごして来た雲雀が、急に遠くへ行ってしまった。綱吉を避け、距離を置こうとした。
 不安が胸を過ぎり、嫌な予感に苛まれる。ひとりで眠る夜が怖くてならず、雲雀を求めて泣くのに伸ばした手は空を掴むばかり。押し潰されてしまいそうな綱吉に、それまでふたりを見守っていた山本が動いた。
 彼もまた、綱吉を好いていたから。
 雲雀が並盛に来たのは、約十年前。綱吉がこの世に現れ出たのは、十三年と少し前。
 ふたりが出会うまでの四年間、綱吉の傍に居たのが山本だった。
 後から来た雲雀が、山本の席を奪った。綱吉を攫い、今まで山本が居た隣に陣取ってしまった。
 ふたりの結びつきの強さを幼心に感じ取り、自分は身を引いて彼らを見守る側に回ろうという諦めと、絶対に雲雀を引き摺り下ろして綱吉を取り戻すという決意が入り混じり、ずっと苦しみ喘いできた彼にとって、傍から見れば綱吉を蔑ろにする雲雀の行動は、非常に許しがたかった。
 だから彼は動いた。綱吉をこの手にすべく、雲雀と決闘を申し込んだ。
 そして初めて、雲雀が誰の為に己を傷つけてまで孤独に耐えていたかを知らされる。
 山本の結界に閉じ込められ、雲雀と繋がっていた鎖が途切れそうになっていた綱吉は、同時に命の糧を補充する術を失い、息絶えようとしていた。
 全ては山本が、良かれと思ってやったこと。綱吉を雲雀の呪縛から解き放とうとした彼は、結果的に守りたかった存在そのものの消滅を引き起こそうとしていた。
 寸前で雲雀が救い出したものの、彼がその為に暴れ狂う蛟を喰らい、己のものとして昇華した影響は大きかった。
 とはいえ、表面上は穏やかに、日常は過ぎていく。綱吉は山本を赦し、山本は己の犯した罪を背負って綱吉の為に生きる道を選んだ。
 そうしてまた季節は巡り、実りの秋が来る、筈だった。
 ところが、夏が終わらない。過ぎ去るべき暑さがなかなか引かず、逆に気温は上がっていく。精霊会を前にしてこの気象は異常だと、人々が薄ら感じ始めていた頃。
 並盛神社に突然、高濃度の神気が襲来した。
 何事かと腰を抜かした綱吉に飛びかかってきた存在、それがディーノ。太陽の運行を司る、天の神の座に在る者。
 そんな人外が何の用かと思えば、更にびっくり仰天の事実が待ち構えていた。なんと彼は、雲雀が蛟に襲われるより以前、つまりは綱吉と出会う前の幼き日々を共に過ごした、雲雀の養父だった。
 彼の来訪で、精霊会の祭の準備に慌しかった沢田家はひと際賑やかになった。一方、祭りを盛り上げる趣向として、丁度こんな辺鄙な場所にも旅芸人の一座がやって来た。
 蛤蜊家に属する退魔師が惨殺される事件が相次いでいる中、綱吉たちの周囲はまだ平和だった。自分たちがまさかその渦中に巻き込まれるなど、誰一人として予想せず、関係ないこととして気軽に構えていた。
 地上を焼く灼熱の太陽、その太陽にかかずらうディーノの来訪。
 死者が戻って来るという、精霊会の夜。
 一年で最も死霊が騒ぐ日に、並盛の里は焼かれた。
 大勢が死んだ。収穫を間近にした稲田はあっという間に炎に飲まれ、大地は蹂躙された。旅芸人一座が引き起こした騒乱の目的は、ただひとつ。彼らの首魁である六道骸が、沢田綱吉を掌中に納めること。
 時は移ろい、命は廻る。過去の過ちは再び今に蘇る。
 失われた命、求めた心、朽ち果てる肉体、そして芽吹く新たな生命。
 愛されたい。抱き締めたい。儚い願いひとつをかなえるためだけに、自ら輪廻の海に沈んだ哀しい男がいた。全ては、それだけのこと。
 されどその為に失われたものは、あまりにも大きくて。
 砕け散った心を拾い上げても、もう元には戻らない。ぽっかり開いた胸の穴を埋める事が出来ず、綱吉は己の終わりを引き寄せようとした。
 約束をしたのだ、必ず帰って来ると。それが違えられた以上、綱吉がこの地に在り続ける理由は無い。
 けれど、最後の最後になって、願いは果たされた。打ち砕かれた約束は、か細い糸で繋がり、結ばれた。
「……変なの」
「なにが?」
「ヒバリさん」
 ぽつり呟いた綱吉の独白を拾い、雲雀が彼の頬を撫でる。指の背の感触に擽ったそうに身動ぎ、綱吉は肩を揺らした。
 名前を呼んだだけで、後は続かない。その代わりに心の中で嬉しげな声が、鈴の音のように軽やかに響き、雲雀は目を閉じると引き寄せた綱吉の額に淡くくちづけた。
 照れ臭そうに綱吉は頬を染め、小さく舌を出した。がたごとと依然嵐が軒を打ち、ふたりが寝起きする離れの屋根を揺らしているけれど、彼と一緒に居ればもう怖くなかった。
 雷が忘れた頃に轟き、鼓膜を弾くときだけは、流石にびくりと肩が強張るけれど、悲鳴を上げる事はなくなった。
「ディーノさん、大丈夫かな」
「平気だろう」
 行灯の暗い光に顔を向け、座り直した綱吉が不意に思い出した顔を案じて呟いた。
 昼の太陽を思わせる鮮やかな金髪の、雲雀の育ての親。数百、或いは数千年の時を生きる、気まぐれな神。
 されど人と同じ目線に立ち、決して驕らず、偉ぶらない彼を、綱吉は気に入っていた。彼も、とある事情があるものの、綱吉を好いてくれている。それが雲雀は気に入らないようで、ディーノの話題となると途端に不機嫌になった。
 今回もそうで、むすっと頬を膨らませて唇を尖らせた彼に目を細め、綱吉は肩を落とした。
「もう……」
 どうして仲良く出来ないのかと思うのだが、不仲の最たる原因が自分自身であるという自覚もあるので、綱吉は言わずに留めた。
 独占欲の強い雲雀は、綱吉にちょっとでも邪な感情を抱く相手がいると、即刻排除に取り掛かる。その中でも数人、彼の妨害にめげずに綱吉に付きまとい続ける人間がいるのだから、雲雀はいつも気が気で無い。
 しかも綱吉は、彼らに対して警戒心が皆無に等しいから、尚更厄介だった。
 綱吉がしょぼくれた顔をするので、雲雀は誰に向ければ良いか分からない怒りと苛立ちを押し殺し、黒髪を掻き上げた。外が雨だからか、少し湿気を帯びている。前に目を向ければ、綱吉の癖毛も今宵は少し大人しかった。
「雨風になれば、社殿に引き篭もっているだろうから」
「ああ、そうか」
 諸事情により天界に帰れなくなったディーノは、リボーンに神気の大半を封じられて、今は人間と大差ない生活をしている。沢田の屋敷に彼が居座るのだけは、雲雀が断固拒否したので、現時点で彼のねぐらは、並盛神社の社殿だ。
 元々あの神社は彼を奉ったものなので、なんの不都合もない。どれだけ雲雀に邪険に扱われようと、飽きもせず毎日のように屋敷に顔を出しては、綱吉にちょっかいを仕掛けて帰っていく。
 こちらは先だっての骸が引き起こした騒動の後始末やら何やらで忙しいというのに、全くもって呑気なものである。
「あ、ランボも」
 そして自然と、もう一匹の呑気な存在を思い出して、綱吉は雲雀に凭れかかったまま唇を掻いた。
「ああ、ご神木の?」
「うん。大丈夫かな」
 妖や魔を見破る目を持たない雲雀は、精霊の姿さえ捉えることが出来ない。綱吉との伝心を介して存在や姿を知ってはいるものの、実際に己の瞳があのご神木から産まれた存在を映し出したことはなかった。
 ディーノやリボーンくらいになれば、霊力を持たぬ人の視覚にまで影響を及ぼして、姿を晒すことが出来るが、幼いランボにはまだそこまで力が無い。
 あの子は並盛神社のご神木が、雷に打たれて朽ち果てた後、そこから芽吹いた芽に宿った精霊だ。悪戯好きで、腕白で、無邪気で、とても泣き虫だ。いつもリボーンに意地悪をされて、大泣きしながら綱吉の胸に飛び込んでくる。
 その様に獄寺はいつも奥歯を噛み締めているのだが、雲雀は見えないので、彼ほど激しい怒りを覚えることは無い。
 並盛神社には他に、ランボと同じくらいの女の子の精霊も棲んでいる。海を渡った先の国から飛んできた種が芽吹いたようで、この近辺では先ず同類を見かけない。操る言語もどうやら異国のものらしく、彼女がなにを喋っているのか、綱吉はいまいち良く分からなかった。
「ディーノさんが一緒なら、平気かな」
 嵐の夜に、まさか外をうろうろする事もあるまい。心細さを覚えて震えている可能性を思ったが、今は社殿で寝起きする人がいるので、彼が保護してくれていると信じよう。
 どうしてもあの男を善良な存在にしたがる綱吉の甘い考えに辟易しながらも、それが彼の持ち味だと思い直し、雲雀は相槌を打って頷いた。
 薄茶色の髪を梳いてやり、そろそろ寝床に就くよう促して肩を押す。だのになかなか、小柄な少年は雲雀から離れていかなかった。
「綱吉?」
「もうちょっと、だけ」
 そろそろ寝ないと、明日に差し支える。嵐の翌朝は庭も、神社にも、飛んできた木屑や葉が山盛りで、後片付けが大変なのだ。
 沢田家には男手が揃っているものの、雲雀の号令では梃子でも動かない連中ばかりだ。綱吉が頼んで回り、見張っておかないと、作業はすぐ雑になって余計大変な事にもなりかねない。
 忙しくなるから、と背中を撫でて促すが、今日に限って綱吉は反抗的だった。
 甘えて擦り寄り、雲雀の首に鼻を押し当てて薄い皮膚に唇を寄せる。
「……こら」
 吸い付いて来た彼に軽く噛まれて、雲雀はチクリと来た痛みに顔を顰めた。
 止めるように綱吉の手を掴もうとするが、直前で逃げられた。するりと肩を撫でた細い指が、しなやかな体躯をなぞって彼が羽織る寝間着の衿を広げ、内側に隠れる胸板を暴き出した。
 行灯の弱い光に照らされた引き締められた体躯にうっとりと見入り、魅了された琥珀の瞳が何かを求めて雲雀を仰いだ。
「だめ、ですか?」
 彼がなにを欲しがっているか、分からないほど野暮な雲雀ではない。だが今日は昼間のうちから互いを貪り、身体を絡めあった。嵐の前触れであった突風がなければ、日暮れ前までずっと清めの滝の前で仲睦まじくしていたに違いない。
「足りないの?」
「う、ん」
 雲雀が並盛に戻って来てから、十日以上が経過している。離れていた数日間を穴埋めするかのように、連日激しく彼を抱いてきたが、お陰で綱吉は随分と欲深くなってしまった。
 食事の為以外にも、常に雲雀にべったりで五分と離れたがらない。
 戦う力を手に入れた分もあって、強気に出て来るようにもなった。これまでは遠慮していた事を、堂々と主張して憚らない。以前は雲雀から求める機会が多かったのに、今や形勢は逆転していた。
 恥かしそうに俯き、頷いた綱吉の真っ赤な耳を擽り、雲雀は丸くなっている彼を胸に抱え込んだ。
「しょうがない子だね」
「だって、全然足りないもん」
 嘆息しながら言うと、雲雀の態度が不本意だった綱吉は両腕を広げ、しがみつきながら言い返してきた。
 胴を圧迫された雲雀はからからと喉を鳴らして笑い、頬を膨らませて拗ねる綱吉の頭を叩くように撫でた。そうして広げた手で頬を包み、正面から顔を覗き込んで目を眇める。
 黒水晶に映し出された自分の、艶を帯びた琥珀に驚き、綱吉は初めて気まずげに視線を反らした。だが煽ったのは彼であり、こうなった雲雀はもう止まらない。
「そんなに僕が好き?」
 華奢な腰を抱いた雲雀が静かに問いかけ、一組だけ敷かれた薄い布団の上に綱吉を寝かせた。そのまま覆い被さり、視線を合わせたまま意地悪く微笑む。
 答えに詰まった綱吉はふいっと首を右に倒し、今更の質問を繰り出した彼の脛を蹴り飛ばした。
「知ってるくせに」
「うん。でも聞きたい。聞かせて、綱吉」
 不貞腐れた声に対して優しく語りかけ、雲雀は額にかかる薄茶の髪を脇に払い除けた。視界を遮るものを取り除かれ、綱吉が渋々首を戻して雲雀を見る。
 闇に同化する黒色の髪ながら、彼の姿は薄明かりの中でもはっきりと捕らえることが出来た。
 自分だけを見詰める瞳に、胸が熱くなる。動悸を堪えて唇を噛み締めていたら人差し指が降りてきて、右から左へとなぞって離れて行った。
「傷になるよ」
「む、う」
 低い声で囁いた彼を上目遣いに睨み、力みを解く。言わなければずっとこの状態が続くと悟り、綱吉は諦めの心境で深々と溜息をついた。
 上にいる雲雀が、楽しげに笑った。
「好きです」
「どれくらい?」
「世界で一番」
「本当に?」
「知ってるくせに!」
 この世のどこにも、雲雀の代わりを勤められる人は居ない。綱吉には雲雀が必要で、雲雀にも綱吉が必要で。
 互いの足りない部分を補い合う形で、ふたりはひとつとして存在している。雲雀が欠ければ綱吉は綱吉でなくなり、その逆もまた然り。
 大声を張り上げて胸を上下させた少年は、憎らしいほど満面の笑みを浮かべている男をねめつけ、不意に湧いた涙を堪えた。鼻を啜り、数日前の虚無感を思い出して息苦しさに悲鳴をあげる。
 手を伸ばし、雲雀の長着を握り締める。
「だから、……もう置いていかないで。俺のこと、ひとりにしないで」
 堪えきれずに流した涙を頬に伝わせ、彼は喘ぐように叫んだ。
「行かないで。ずっと、俺の、傍に居て。何処にも行かないで」
 約束をしたのに、雲雀は一時の間綱吉の隣を離れた。もう二度と戻ってこないかもしれないと思い悩んだ彼が、自ら命を絶とうとした記憶は新しい。
 鼻を啜って口から息を吐き、噎せてしまった彼の頭を抱き締めて、雲雀は綱吉を胸の中に閉じ込めた。それでも泣き止まない彼の慟哭に心を抉られながら、中から覗いた新しい血肉に彼の願いを刻み込む。
 遠く、雷鳴が空を劈いた。
 轟々と風が撓る。家屋を打つ嵐に掻き消されないよう、雲雀は腹の底から声を絞り出した。
「いかないよ」
「……ほんとに?」
「置いていったりしない。君のこの手は、絶対に放さない」
 たとえその行為が天に弓引くことになろうとも、誓いは果たす。強い意志がこめられた雲雀の言葉にようやく安堵したのか、綱吉は泣きながら笑った。
 気の抜けた笑顔に雲雀も微笑み、指の背で温かい涙を拭ってやる。擽ったがった綱吉は首を振って嫌がり、違うものを求めて顎を突き出した。
 露骨過ぎる催促に、四つん這いになっていた雲雀は肩を竦めた。
「ちょっとだけだよ」
「えー」
「君の身体がもたない」
「やだ。平気だから、いっぱい欲しい」
「駄目。明日は君にも沢山働いてもらわないといけないんだから」
「えー、いーやーだー」
 駄々を捏ねる子供に戻ってしまった綱吉に目尻を下げ、雲雀はどうしたものかと油も残り少ない行灯を見やった。
 両手両足を振り回してじたばた暴れ、人を殴っては蹴ってくる少年に目配せして、肘を折る。望み通りにくちづけてやり、その柔らかさに眩暈を覚えた彼は、もう一度細い光を放つ行灯に顔を向け、顎をしゃくった。
 満足げにしていた綱吉が、首を後ろに倒して逆さの景色に光を見出す。
「あの火が消えるまでね」
「ヒバリさんの、けち」
「綱吉の業突く張り」
 互いに謗りあい、罵って、数秒間睨み合った末に堪えきれなくなった綱吉がぷっ、と噴き出す。それにつられて雲雀も表情を緩め、生意気を言う彼の頭をくしゃくしゃに掻き回した。
 声を立てて笑った綱吉が、足をばたつかせた末に雲雀の内腿を膝で擦った。
 息を詰まらせた彼に婀娜な視線を投げ、衿から外した手を首に絡める。距離が狭まり、呼気がふたりの間を往復した。
「ん……」
 どちらからともなく目を閉じて、唇を重ね合わせる。最初は鳥の戯れにも似た、どこかぎこちない、触れるだけのくちづけだったものが、時を経るに連れて次第に激しく、深く、相手を貪るくちづけへと変わって行く。
 呼吸は荒くなり、心臓は激しく波を打つ。外の嵐は続いているのに、最早ふたりの耳には届かない。
「んぁ、あ……んっ、ヒバリさ、ん」
「此処に居るよ、綱吉」
 一切の光も届かない暗闇の中で喘ぎ、手を伸ばす。重なり合った掌の確かさに心解されて、自然と浮いた涙を雲雀が舌で転がし、掬い取った。
 体の奥底を満たす熱に蕩け、綱吉はひと際高い声で鳴き、この世で最も愛しい人の背を掻き抱いた。