魂送

 雪洞の橙色の輝きが、ひっそりとした静けさにひと時の安らぎを与えてくれていた。
 油の焦げる微かな匂いが、狭い室内を当て所無く彷徨う。平均よりもずっと華奢で小さな身体を抱き締めていた青年は、身じろいだその存在に気付いて夢現の状態から一歩前に踏み出した。黒く長い睫を揺らし、閉ざしていた瞼を音もなく持ち上げる。
「……起こしてしまいましたか?」
「いや」
 半分眠っていたが、半分は起きていた。細い声の問いかけに首を振って答え、心配要らないと横になっていた身体を起こす。被っていた薄い布団を傍らに預け、楽な姿勢で座り直した彼は、暗がりの中でもはっきりと分かる大粒の琥珀に目を細めた。
 左手を軽く持ち上げ、癖の多い髪を撫でてやる。どれだけ櫛を入れても真っ直ぐにならないくらいに腰が強いのに、触れるとふわりと指の中で膨らんでさらさらと肌に絡み付いた。
 くすぐったい気持ちに駆られたのか、琥珀の瞳が照れ臭そうに瞼の向こうに隠れてしまう。首を窄めて小さく丸くなった肢体は、大半が今も布団の中だ。
 日を追うに従って痩せ細り、体力は衰えて自力で起き上がるのさえ困難を極める。元々細かった手首も、今では軽く握っただけで折れてしまう冬の枯れ枝のようだった。
「そんな顔、しないでください」
 障子戸越しの月明かりは淡く、儚い。風が吹けば飛んで行ってしまいそうだと、伏したまま畳に映る格子の影に目を細め、雪洞の明りを横から浴びている青年に囁きかける。
 本当ならば頬に触れてやりたいところだが、肩は思うように上がらず、彼の腰を叩くのが精一杯だった。
「あの子は?」
「泣き声は聞こえない。眠っていると思う」
「そうですか」
「君と違って、大人しい子だよ」
「ひどい」
 良く眠り、良く食べて、良く遊び、学び、大きく、健やかに育てばいい。大病を患うことや、大怪我をする事無く、無事に天寿を全うしてくれたら、それだけでいい。
 青年の口ぶりに不満げな返事をしつつも、ころころと喉を鳴らして楽しげに笑っている。艶めいた琥珀を見詰め、彼は最後に咳をした背中を撫でてやった。身を乗り出し、右腕を支えにして敷布団の縁を握った彼の身体が影を作り出し、視界が暗さを増す。不安に揺れる黒水晶の瞳をそこに見て、楽になった呼吸に安堵の息をもらした。
「ありがとう」
「礼など」
「言わせてください」
 当たり前の事をしただけだと言い張る青年に首を振り、どうにか捕まえた彼の寝間着の袖を握る。
 自分の命が残り短いと知っているからこそ、なんとしてでも今伝えなければならない事があった。どうか聞いて欲しい、そう真摯に訴える双眸にも、青年は苦悶の表情を作り出して目線を逸らしてしまう。
 彼の苦悩が目に見えて、胸が切なさで張り裂けそうだった。
「幸せでした。貴方に出会えて、貴方に愛されて。貴方を愛せたこと、とても」
「聞きたくない」
「大切にしてくれたこと、嬉しく思います。今こうして貴方と居られるのも、貴方のお陰です」
「言うな」
「今も、これからも、貴方を愛しています」
「知ってる。知ってるから!」
 まるでこれが最期のように言わないで欲しい。怒鳴り声を上げて言葉を遮った青年は、日頃見せる気丈で頑なな態度を何処かへ置き去りにして、酷く頼りなげな姿を薄明かりに晒していた。
 両手を床に突き立てて前屈みに、柔らかな笑みを見下ろす。
 生まれつき虚弱体質で、最初からとても小さい子だったのに、もっと小さくなってしまった。このままどんどん縮んで、やがて消えてなくなってしまうのではないかとさえ思えて、魂が震えた。
「いいんです。だって、本当ならあの時に死んでいたのに」
 居なくなってしまうのは嫌だと、表情で告げる青年の頬を苦心の末に撫で、両手で包み込む。途端にその手を左右から挟まれて、肌に感じた温かさに琥珀が涙で滲んだ。
「ありがとう。たくさん、我が儘を聞いてくれて。ずっと一緒にいて、支えてくれて。ありがとう、こんなにも愛してくれて」
「まだ、出来ることがあるだろう。やりたかったことだって、あるはずだ。まだ君の命は終わっていない、こんなところで終わらせちゃいけない。遣り残したことを全部片付けるまで、君は……」
 必死に呼びかけ、かぶりを振った青年を穏やかに澄んだ瞳が見詰めている。一点の曇りも無いその彩に、深い決意を感じ取った彼はそれ以上言葉を繰り出すことが出来ず、唇を噛んで項垂れた。
「あの子は、どうするの」
 長い沈黙を経て、呻くように呟かれた問いかけにだけは、琥珀が僅かにたじろぎ、揺れた。
 雪洞に映る影が波打つ。月は雲に隠れてしまったようで、斜めに伸びていた格子の影はいつの間にか消えてなくなっていた。
「……お願いします」
「君の力が必要なのに」
「それでも、お願いします。貴方にしか、託せないから」
 辛そうに眉根を寄せ、唇を噛み締めて嗚咽を漏らす。納得して受け入れたつもりでいても、誰だって死ぬのは怖い。時を巻き戻せるのなら、やり直したいことは沢山溢れかえっている。時間が足りずに諦めて、後継に委ねるしかなかった仕事だって山のようにうず高く積み上げられたままだ。
 全てを放り出して無責任だと詰られても、耐えるしかない。本当は悔しい。寂しい。哀しいのに。
「お願い。貴方を遺して逝くことを、どうか許して」
 喉の奥から声を絞り出し、色の抜けた爪で青年の頬を掻く。力の入らない抵抗は肉体になんら痛みを与えなかったが、代わりに心が抉られる思いで青年は口惜しげに頭を垂れた。
 触れるだけの優しいくちづけを贈り、泣かせてしまった事を詫びる。すまない、と掠れる声で囁かれて、そんな事はないと首を振るが聞き入れてもらえなかった。
「ごめんなさい」
「君が謝ることじゃない」
「でも……ごめんなさい」
「いい。僕こそ、すまなかった」
 色素の薄い髪ごと頭を抱き上げ、胸に閉じ込める。弱い力で肩を抱き返されて、青年は重く長い息を吐き出し、この苦しい心の葛藤を自分の中だけで昇華させてしまった。
 言いたいことはある、だけれど詰問したところで虚しいだけだ。
 終わりが見えてしまった道先にも、光は残される。
「君を、また見つけ出すよ。どんな姿をしていても、どんな人間になっていようとも。必ず見つけて、また君を抱き締める」
「いつになるかも解らないのに?」
「僕の命は、無限だからね」
 冗談めかせて言えば、潤んでいた琥珀は微笑みを湛えて細められた。
「そうですね。なら、あの人にもまた会えるかな」
「だれ?」
「……彼に」
 気の遠くなるような、遠い先になってしまうだろうけれど。
 命が巡るものであれば、きっとどこかで、すれ違うこともあるだろう。
 抑えた調子で呟かれた代名詞に、思い当たる存在を直ぐに脳裏に浮かべて青年は幾許か驚きを露にした。細い目を見開き、信じ難いという風に首を振る。
「まだ、君は」
「救いたかった」
 青年を遺して眠らなければならない事と、もうひとつ。
 どうしても消せなかった傷、痛み。
 後悔。
 もっと早く気付いていたなら、結果は違うものになっていただろう。
 過ぎ去った時間を今更嘆いたところで詮無く、意味もありはしない。ただ深く刻み込まれた、取り返しのつかないあやまちだけがこの手の中に浮かび上がり、ぽっかり空いた胸への隙間風が魂を軋ませる。
 何故、気付いてやれなかったのだろう。自分のことにばかりかまけて、他者を思いやる心を忘れていた自分が招いた災禍は、大勢の屍を生み出して大地を赤く染めた。
 彼の手を血で汚してしまった。
 そうさせたのは、他ならぬ自分の浅はかさだ。
 どれだけ慰めの言葉を貰おうと、それは違うと周囲から否定の言葉をかけられようと、胸を抉ったあの痛みと熱は、一生を終えても消えることはないのだ。
「救えなかった、救いたかった!」
 そんな風に思いを抱くことすら、傲慢だと断罪された夜もあった。償いきれない罪を背負って生きていくと誓ったのに、いざ命の灯明が燃え尽きようとしていると知った途端、保身に走ったと自分を卑下し、非難した朝もあった。
 他に出来る事はあった筈なのに、周囲が見えていなかった幼き日々。起きてからでは遅いのに、止める事が出来なかった。
 禍根を、遺してしまった。
「ごめんなさい……貴方を巻き込んだ。貴方が失ったものの方が、ずっと大きいのに」
「構わない。こうして温かい君を抱けるだけで」
 君が自分の全てなのだと告げて、青年が愛おしげに震える細い肩を抱き締める。神々の禁忌を侵してまで守り抜いた命を、こんな形で散らせなければならない結末は、未だ承服しかねる部分が大きかった。
 だが、もう抗えない。守る術が見付からない。
 もう良い大人だというのに、小さな子供が母親に縋るみたいにぎゅうぎゅうに抱き締めてくるのは苦しい。けれどそれだけ求められているのだという証明であり、嬉しさを抱えながら、矢張り幼子をあやす時を真似て頭を撫でてやれば、ふっと暗がりに風が流れて、鼻先を掠めた吐息に胸が弾んだ。
 とくん、とくん、と脈打つ心臓の音が心地よくて、もう一度眠ってしまいたい気分にさせられる。しかし許してはもらえなくて、甘いくちづけが降って来て心は易々と彼に捕まってしまった。
「君を待っている」
 浮いていた背中をゆっくり布団に戻され、着地と同時に離れた唇が告げたことばに頷き返す。
 その時こそ、後悔をしないように。
 償いが出来るようにと。
 薄布の上からなぞった左胸の鼓動が伝える切ない願いに、彼は小さな祈りの言葉を口ずさみ、目を閉じた。

 並盛村に隠棲した初代の隣には、常にふたりの男が居た。
 ひとりは黒髪の、ひとりは金髪の。
 金髪の青年は、初代がこの世を去ると同時に姿を消した。
 黒髪の青年は初代の忘れ形見の後見人を務め、独り立ちできるまでに成長するのを見届けた後、行方をくらました。
 ふたりが何者であり、何処へ行ってしまったのか、知る人間は誰もいない。
 ただひとり、この世のものではなくあの世のものでもない存在だけは。
 事のあらましを最初から最後まで見届けた、小さな、小さな存在を除いては――

 怖い人だと思った。
 お山で震えて泣いてた時と、全然ちがう。
 お喋りしないし、ぼくのことすぐ睨むし、ちっとも遊んでくれないし。
 でも、あの人がいないとぼくは死んじゃうから、一緒にいなきゃだめなんだって。
 あの人はぼくにご飯をくれる。今まで食べてたご飯じゃ、ぼくのおなかは大きくならないんだって。
 お母さんが作ってくれるご飯は好き。だいすき。
 なのにお母さんのご飯じゃ、ぼくは大きくなれないってリボーンが言うんだ。
 ぼくが大きくなれるご飯は、あの人がくれるご飯だけなんだって。
 そうしないとぼくは死んじゃうって。
 だから、お父さんたちがいただきますってした時、ぼくも一緒にいただきますってしたんだ。
 あの人のお口から、ぼくのお口に、ちゅって、して。
 あんまり美味しくなかったけど、我慢して沢山食べさせてもらったんだ。
 そしたら、お父さんがびっくりして、お母さんもびっくりして。
 お父さんがあの人に「うちの息子になにしてるんだ」て怒鳴ったの。
 お母さんは真っ赤になって、恥かしそうだけど嬉しそうにしてた。
 なんでかな?
 お山に行った後は頭の中がぼうっとして、いっぱい痛かった。
 お布団で横になって、ずっとずっと変な夢を見てた。
 目が覚めたらあの人がいて、ぼくのこと、心配そうに見てた。
 どうしてそんな顔するのって聞いたけど、なんにも教えてもらえなかった。
 ずうっと一緒にいなきゃいけないのに、なんにも言ってくれない。
 仲良しになりたいのに、あの人はぼくのこと、きらいなのかな。
 お熱を出すまでは、なんだかぼくの周りはきらきらしてたんだって。
 でも、お山に行った後のぼくは、それまで出来てたことがなーんにも、できなくなっちゃった。
 でもほんとうはね、ちょっと嬉しかったんだ。
 リボーンは、お前の力は大きすぎるから体が耐えられないって言ってた。
 だけどあの人が、ぼくの力を引き受けてくれたから、ぼくは前よりもずっと楽になったんだって。
 むつかしくってよくわかんなかったけど、そういうことなんだって。
 あの人はまだ、ぼくの名前を呼んでくれない。
 ぼくはあの人のお名前を知らない。
 なんて呼べばいいのって聞いても、教えてくれないの。
 困ったお父さんが、あの人のいたお山の名前をあの人にあげたの。
 ひばりやま、っていうんだって。だからあの人はひばりさん、なの。
 ひばりさん。ひばりさん。
 嬉しくっていっぱい呼んでたら、なんだかひばりさんは不機嫌になっちゃった。
 どうして? て聞いてもやっぱり教えてくれないの。
 いっつも意地悪なひばりさん。ぼくのこと、ほんとにきらいなのかなあ。
 でもね、ちゃんとご飯はくれるから、やっぱりきらいじゃないのかな。
 ひばりさんは、よくわかんない。
 よくわかんないから、ちょっぴりこわい。けど、好き。
 ひばりさんはね、ぼくにご飯をくれるの。
 いっぱい意地悪だけど、ぼくのこと、ちゃんと待っててくれるんだ。
 ぼくが森の中で迷子になった時だって、ひばりさんはぼくのこと、みつけてくれた。
 いつでも、どこにいても、ひばりさんはぼくのことが分かるんだ。
 ひばりさんが居てくれたら、だいじょうぶ。
 ひばりさんがいっしょなら、こわいものなんてなにもない。
 ヒバリさんと一緒なら、俺は。
 俺は――――

「いぢっ」
 冷たく硬いものに額を叩かれ、綱吉は痛みと衝撃から目を覚ました。
 へっぴり腰が木の枝の隙間から下に垂れ下がり、両腕と足は緑の葉が全て落ちてしまった枯れ木に引っかかって止まっている。仰向けで見る空は白く濁っていて、薄目を開けた先でまたさっきと同じものが、今度は鼻の頭に落ちて砕けた。
 ひっ、と喉を詰まらせて悲鳴を堪え、不安定な自分の状況に驚きつつ何故こうなったのかを懸命に思い出そうと試みる。唇の隙間から流れ込んできた水分から咥内の渇きを思い出した彼は、浅い呼吸を繰り返して胸を上下させ、低い位置から降り注ぐ無数の水滴に呆然となった。
「雨……」
 急斜面の途中に迫り出した一畳もない段差に生えた木に、彼は居た。この枯れ木が彼を拾っていなければ、綱吉は奈落の底とも思える暗闇の斜面を、今もまだ滑り落ちていただろう。
 骸に追い詰められて禊の泉に逃げ込み、雲雀に助けを求めた。しかし雲雀も深い傷を追って自身を守るので手一杯であり、綱吉は二者択一を迫られた。
 綱吉が骸と対峙してこれを退けるか、大人しく骸の手に掛かって命果てるか。
 考えるまでもないように思われる選択肢だけれど、綱吉にとって、長く手放していた闘う力を取り戻すという事は、即ち雲雀に施した封印の解除を意味している。
 彼の力を制限し、束縛することによって、雲雀は人としての姿かたちを維持していた。綱吉の鎖に囚われることで、彼は神気の流出を防ぎ、地上での生活に支障が出ないよう配慮していた。
 その壁がなくなる。
 雲雀は人の形を保てない。
 溢れ出した大量の神気は、地上を汚染する。
 強すぎる薬は、毒。神の力もまた、その百分の一にも満たない霊気しか持ちえぬ人間には、強すぎる。
 一度解かれた封印を再度施すのは、容易ではない。そうでなくとも、雲雀を縛っていた鎖は、幼少期の綱吉が無意識に発動した、系統立てて整理されている退魔師の術から大きく逸脱したものだった。
 同じ術が出来るとは到底言い難く、当時とは比較にならない強さを手に入れた雲雀を――龍神となった彼を抑え込むなど、いくら神童と言われた綱吉でも不可能に近い。
 二度と雲雀は、もとの姿に戻れない。
 雲雀はもう、村には居られない。
 綱吉から離れてしまう。
「……約束したんだ」
 溢れ出た涙を雨で洗い流し、綱吉は鼻を啜って嗚咽を堪えた。
「約束したんだ!」
 行き着く結末を大声で否定し、彼は鎖を引き千切る直前に交わした雲雀との会話を思い出した。
 帰って来ると言った。だから綱吉は彼を信じた。雲雀は今まで、一度だって綱吉との約束を破ったことがない。なにがあっても彼は綱吉の元に駆けつけてくれる、一緒に居てくれる。
 ずっと傍にいてくれる。
 奥歯を噛み締めて虚空の闇を睨み、彼は降りしきる雨の中でぽっと灯った赤い点に目を瞬いた。
「――!」
 拙い。鋭く尖った熱波が襲い来て、咄嗟に両腕を胸の前で交差させた綱吉の前方にもう、邪悪に歪んだ骸の顔が迫っていた。
 赤黒い炎を全身にまとい、串刺しにしようと銀の槍を振り翳す。その背には不可触の禍々しい翼が広がり、空を焦がして綱吉の視界を覆った。
「なんてものを!」
 翼が羽ばたくたびに、地獄の瘴気が周囲に撒き散らされる。掠めるだけでも人の骨を溶かし、植物を腐らせ、大地を汚染して微生物さえも根絶やしにしてしまう猛毒を放つ骸に、綱吉は咄嗟に両手に霊気を集約し、炎に変換させた。
 意識が集中する場所だからか、額までもが熱い。琥珀の瞳の艶を強め、彼は炎が巻き起こす気流の変化を瞬時に爆発させ、推進力に作り変えた。
 衝撃で左右に突っ張った両腕を強引に前方に向け、骸目掛けて炎を放つ。一瞬の目くらましにでもなればいい。脱出を優先させた綱吉は、骸の注意が日の出の色の炎に向かう間に、足に絡まっている木の枝ごと後ろへ身体を弾いた。
「っう」
 圧し掛かる重力が一気に加速し、空気に押し潰される感覚に見舞われて彼は呻いた。しかもどうすれば減速できるのか分からなくて、綱吉は手首を重ね合わせた状態のまま腰を捻り、無理矢理進路を地面に変更させた。
 骸の行方を追う余裕もなく、茂る樹木がない不自然な広場へと落下する。
「ぐあ!」
 受身は取ったが、完全ではない。打ちつけた背骨から直接内臓に衝撃が走り、高く舞い上がった綱吉の体はそこでようやく停止した。歯を食いしばって闇に閉ざされようとする視界を辛うじて確保し、上空でバチバチと火花を散らす無色の壁に気付いて息を呑んだ。
 いつの間にか結界が張られていた。
「リボーン?」
 綱吉でもなければ、雲雀でもない。即席で、尚且つ並盛山広域を覆う結界を張るだけの力を有した存在など、そう多くは存在しない。
 ならばずっと姿を見せていないあの赤ん坊の仕業で間違いない。本来外部から山への不法侵入を阻むものが、今は山から里に瘴気が流れ出ないようにする為に働いているというのは、なんとも皮肉な話だった。
 しかしこれで、村への被害は食い止められる。
 懸案事項がひとつ減り、ほっと胸を撫で下ろした綱吉は、直後背筋に走った悪寒に視線を右へ走らせた。
 骸の放つ禍々しさを、視覚よりも先に無意識の感覚が捕らえていた。歯軋りして再び両手に炎を宿し、掌に一極集中させて重ね合わせる。
「――!」
 ギンッ、と甲高い耳障りな音が脳天を貫き、綱吉は右前方から突進してきた槍の一撃を炎の壁でどうにか受け止めた。
 力負けした足が、地面を抉って新たな溝を掘る。切り裂かれた木々の幹が痛々しい姿を晒しており、自分以外の誰かが少し前にこの場で戦闘していたという空気に、綱吉は目を見開いた。
 短く息を吐き、眼前に迫る骸の嘲笑に怖気づいた彼は咄嗟に両手を下に向けて広げた。
 ぶわっ。
 行き先に迷った橙色の炎が綱吉の足元を穿ち、彼の華奢な体を弾き飛ばす。そのまま宙を泳いだ綱吉は、どうにか身体が理解した炎の操作に頼り、骸との距離を広げる事を優先させて空を奔った。
「クハハ。いったいどこへ行こうというのです」
 地上に取り残された骸が高らかに吼え、右目に血塗れた指を添えた。ヴン、と羽虫が飛ぶ音を周囲に響かせ、歪んだ視界の中心に綱吉の姿を据える。
 逃げの一途を辿る綱吉は、村を飲み込もうとしていた炎が少しずつ勢いを弱めていく様を見て、濡れそぼる自身にぶるりと身を竦ませた。
 雲雀はどうなっただろう。どんなに離れていても感じられた彼の気配が、今はとても遠かった。
 一ヶ月以上降らなかった雨は、乾ききった大地を優しく撫でた。稲荷神社前の広場を起点に燃え広がった赤黒い炎は規模を縮小し、真紅に染まっていた村は闇に濡れて沈黙する。空を覆う雲の隙間から覗く雷光は、宙に漂う綱吉を気まぐれに照らした。
「ヒバリさん……ひば、うあぁ!」
 心細さに負けて、幾度目かしれないその名を口ずさむ。
 気が緩んでいたのだろう。すぼめた唇から息を吐いた途端、脳を砕く強烈な耳鳴りに襲われて綱吉は仰け反った。
 炎を巻いた両手で頭を抱く。瞳孔を開いた彼の目に映し出されたのは、静謐に包まれた並盛山の姿ではなかった。
 灼熱の溶岩を垂れ流し、真っ赤に燃え盛る岩石を吐き出す活火山。噴火口に立ち上る火柱は眩く夜を照らし、灰に覆われた樹木は死に耐えて生命の息吹はどこにも感じられない。
 触れるだけで大火傷確実の岩肌が綱吉を手招き、罅割れた斜面から唐突に吹き荒れる熱風は、自由に身動きが取れない中空にある綱吉を翻弄した。
「な、ん……ぶわっ」
 泉で然地面が割れた時と感覚が似通う。幻覚だろうと分かっていても現実味が強すぎて、綱吉は咄嗟の判断が出来ずに狼狽した。
 視覚が骸に支配され、頭が冷静な判断を下せない。心臓がぎゅっと縮こまり、身体中を巡る血液が沸騰して熱い。足元を焦がす熱は紛れもない本物で、綱吉は顔を引きつらせ、慌てふためいたまま両手を下に投げ出した。
 炎を噴射させ、より高く、遠くを目指して上昇する。恐怖に怯え切った彼が今出来るのは、それが限度だった。
 固く瞼を閉ざしてまやかしの世界を振り払い、涙を堪えてかぶりを振る。心の中で雲雀を呼び続けた綱吉は、いつの間にか上に進んでいた自分が地上に激突寸前になっている現状に瞠目した。
 どこで狂わされたのか解らない。しかしこのままでは確実に、綱吉の体は地面に叩きつけられる。
 逃げ惑っていただけあって、勢いだけは凄まじい。こうしている間にも地表は眼前に迫り、待ち受ける骸が両手を広げて歓喜の笑みを浮かべている姿が見えた。
 恐怖が全てを飲み込む。
 金切り声で悲鳴をあげ、綱吉は子供のように小さく体を丸めた。

 あの日も雨が降っていた。
 ヒバリさんはもう忘れているかもしれない。
 だけど俺は、きっと、絶対に、永遠に、忘れないと思う。
 まだ俺が小さかった頃。ヒバリさんも幼かった頃。
 ヒバリさんがうちに来て、まだそんなに経っていない頃。
 ヒバリさんを追いかけて、裏の山に入って、置いていかれて、俺は迷子になった。
 ヒバリさんは多分、ずっと後ろをついて回る俺が鬱陶しかったんだと思う。
 だからちょっとだけ、悪戯のつもりだったんだ。
 俺はそれにまんまと引っかかって、泣きながらヒバリさんを探して回った。
 ヒバリさんはとっくに家に帰っていたのに、俺だけが山に取り残された。
 方角も分からなくて、段々暗くなってきて、慣れ親しんだ筈の森がとても怖かった。
 おまけに雨まで降ってきて、俺はそれでも、ヒバリさんを探してた。
 ヒバリさん、どこ。どこにいるの。
 ずっと、ヒバリさんばかりを探して。探した。
 俺はあの人に見捨てられたんじゃないかって、頭の片隅で考えて、そんなことないって必死に否定した。
 日が沈み、夜がきて、雨は止む気配がない。
 俺は足を滑らせて崖から落ちて、少しの間気を失っていたらしい。
 あちこちをぶつけて、血が出ていた。身体中が痛くて、動けなかった。
 そんなになっても俺は、俺を置いていったヒバリさんを責める気になれなかった。
 だって、信じてたんだ。
 ヒバリさんはきてくれるって。
 俺のこと探して、俺のこと絶対に見つけてくれるって。
 嬉しかった。
 本当に、ヒバリさんが俺を見つけてくれたこと。
 初めて俺の名前を呼んでくれたこと。
 俺のこと、ぎゅっと抱き締めてくれたこと。
 ヒバリさんは、あったかかった。
 あったかくて、優しくて、だから俺は、嬉しくてまた大声で泣いた。
 それまで寂しくて、哀しくて、怖いから人は泣くんだと思ってた。
 でも人は、心から安心すると自然と涙が出てきてしまうものだと知った。
 俺はヒバリさんの腕の中ならいくらでも泣ける。
 ヒバリさんの腕の中が、俺の一番安心出来る場所だから。
 嗚呼、そうか。
 あいつには、そんな場所が、そんな人が。
 いなかったんだ。
 

 とすん。
 地面に向かって真っ逆さまだったはずの身体は、不意に何か柔らかいものに触れて反対側に跳ね上がった。
 枯れ草をたっぷりと敷き詰めて、その上に綿入りの布団を何枚も重ねたような、そんな弾力を背中に感じて、綱吉は丸い目を大きく見開き、口の中に飛び込んできた冷たい空気に肺のみならず肝を冷やした。
 火照っていた身体から急速に熱が取り払われる。空から降り注ぐ雨の雫さえも途絶えて、身震いした彼は犬を真似て水分を周囲に吹き飛ばし、浅い呼吸を二度繰り返した。
 どくどく言っている心臓を乱れきった長着の上からそっと撫で、少しずつ落ち着いていく気配に胸を撫で下ろす。
 斜めになった足元は丸みを帯びており、爪先を下に向けると重心が傾いた所為かつるん、とした表面に背中が滑った。
「うあっ」
 春、若草茂る丘の斜面を勢い乗せて転がり落ちる遊びが、つい頭に思い浮かんだ。
 急降下していく下半身に引きずられ、両手を跳ね上げて頭を抱え込んだ綱吉は、面食らって一瞬息を詰まらせた。しかし、不思議なことに恐怖は一切感じず、それどころか言い表しようのない高揚感に包まれていった。
 安心していい。大丈夫、問題ない。
 直感がそう告げて、綱吉は肩の力を抜いて成り行きに身を任せた。
 艶やかで柔らかく、温かい。時々背中が凹凸にぶつかり、都度小さな綱吉は跳ね上がり、沈んだ。
 段々と楽しくなってきて、険しかった表情は和らぎ、子供のようにけらけらと笑い声をたてた。
「うあっ」
 油断しきっていた綱吉を叱るのか、巨大な滑り台は最後に綱吉の尻を叩いて空中に投げ放った。ぽーん、と蹴り飛ばされた鞠玉になって三回転した彼は、再び地面とは違う感触の上に着地を果たし、琥珀の目をぱちくりさせた。
 ふわふわの鬣が、太股の下敷きになって潰れている。その下にあるのは、澄んだ空を思わせる蒼い鱗。
 白樺を思わせる太くしなやかな角は途中で幾つかに枝分かれして天を指し示し、中空でゆらゆらと揺れ動く髭は淡い青紫の燐光を発していた。
 綱吉は左右一対の角のほぼ中間に座らされていた。
「あれ」
 遠く、鎮火に向かう並盛の村が見える。北には雲に頭部を隠した霊山が聳え、はるか彼方は闇に沈み星さえ見えない。
 頬を撫でる風は荒々しく、再び両肩にかかる雨は冷たい。けれど寒さを感じずに済むのは、綱吉全体を包み込む淡く輝く燐光のお陰だった。
 掌を上にして前に差出し、柔らかな雨雫を受け止める。よくよく見れば酷い火傷状態の両手に染みこんだ水滴は、未だ燻る熱のみならず、痛みさえも取り除いてくれた。
「霊水……」
 火烏の放つ炎は、河川を流れる水では容易く消えない。
 人々の傷を癒し、穢された大地を浄化するこの雨は、紛れもなく神の起こした気まぐれな奇跡だった。
「ヒバリさん」
 綱吉の視界高度が緩やかに下がっていく。身体に降りかかる水滴の量が減って、両側を流れて行く空気の行く末に顔を上向ければ、低い位置に立ち込める雲は相変わらず霊水の大放出を続けていた。
 脚を広げて丸太のような足場から投げ出されないように半身を支え、綱吉はそっと鬣に隠れた鱗を撫でた。腰を曲げて前のめりに倒れこみ、両腕も使ってしがみつく。
 綿毛を思わせる鬣がむき出しの肌に触れて、くすぐったかった。
「ヒバリさん」
 真下に垂らした手で鱗を何度も撫でる。伸ばした指が触れそうで届かない場所に窪みがあるから、多分そこが瞳なのだろう。この位置からでは見えないのが残念だった。
「わっ」
 べったり張り付かせた胸元から流れてくる鼓動は、優しくて、暖かい。ほっとする音色に綱吉は眠気すら覚え、うつらうつらと瞼を半分下ろした。
 そこへ急に下から突上げる衝撃が来て、大慌てで身を起こして左右を見回した。
 こげ茶色の土に覆われた地面が、直ぐそこにあった。
 腰掛にしていたものが音もなく前に傾ぎ、急角度を作って綱吉を下に落とそうとする。必死に抵抗したが、先ほどの震動で挟んでいた太股が弾かれており、綱吉は膝を抱える状態でごろん、とでんぐり返しをさせられた。
 肩の後ろに突き出ていた骨を痛打して、そのまま大の字に寝転がる。両手両足を投げ出し、無防備甚だしい格好を晒した綱吉の上に影が伸びて、重い瞼を揃って持ち上げた彼は、ようやく見えた深い静かな闇を思わせる黒の双眸に目を眇めた。
「ヒバリさん」
 崖の頂上に突き出した、酷く狭い空間だった。前方には深い樹林が広がり、緑の葉に落ちる雨の音が軽やかな楽を奏でている。
 綱吉が寝かされたのは僅かに確保された平らな地面で、覗きこむ存在はその巨体さ故からか未だ空にとぐろを巻く形で漂っていた。
 頭部だけを綱吉に差し向けるその瞳は涼やかで、穏やかに凪いでいる。その彩を見紛うはずがなく、綱吉は安らいだ表情で微笑み、袖のない右手を翳した。
「ヒバリさん」
 喉に触れれば、他よりも少し色も厚みも薄い鱗の感触が柔らかい。指によく馴染み、見た目は全然違うのに、人間の皮膚を思わせた。
 ほうっと長い息を吐いて、綱吉は起き上がった。
「ヒバリさん」
 声に出して名前を呼び、前に突き出た鼻の頭をそっと撫でる。くすぐったかったのか、ぱかっと開いた巨大な口には真っ赤な舌が踊り、鋭い牙が何本も並んで縁を飾っていた。
 澄んだ黒水晶の瞳が笑っている綱吉を見詰める。仕返しに吸った息を鼻から吹きかけてやれば、勢いが強すぎた所為で甘茶色の前髪が一斉に逆さを向き、強風を避けて彼の腕が顔の前で交差した。
「ヒバリさん! もう……」
 顔の輪郭をなぞっていた雨粒まで一緒に吹き飛ばされて、綱吉は垂れ下がって額に張り付いた薄茶の髪の毛を掻き回しながら頬を膨らませた。
 悪戯を叱られ、円い黒の瞳が僅かに眇められる。落ち込んでいるともとれるその姿に、胸をふんぞり返していた綱吉は直後、盛大に噴出してこれまで以上に楽しげな声で笑った。
「笑っている暇などありませんよ!」
 両手で口元を覆い、肩を揺らして横隔膜を痙攣させる。身を屈めた綱吉の左前方から矢のような鋭い声が飛んで、指の隙間から投げた視線の先に、綱吉は迫り来る骸の影を見た。
 深紅の翼をその背に広げ、森の木々を薙ぎ倒し、焼き払い、一直線に突き進んでくる。霊水の雨に打たれてその炎は幾許か弱まっているものの、骸本人の意思を反映してか、綱吉たちを前にそれは大きく膨らみ、他者を圧倒した。
 後ろは急角度の崖、落ちれば今度こそ命はない。血管を浮き上がらせ、禍々しい仮面を被った骸の姿に、綱吉は逃げ場を失って硬直した。
「っ!」
 咄嗟に両腕で頭を抱え込む。精一杯の抵抗を示した彼の前方でギンッ、と鼓膜を激しく震わせる金音が鳴り響き、脳髄を揺すられた綱吉は右膝を折って姿勢を傾けた。
 肩が硬いけれど、柔らかさも内包するものにぶつかっていって、それ以上進まない。擦り寄れば冷たくて暖かいものに頬が触れて、首筋を撫でた柔らかな毛の感触に強張った心が解されていく。
「……ぅ」
 やってくると思っていた衝撃は訪れず、閉ざした瞼を持ち上げて腕の間から恐々前方の様子を窺い見る。
 そろりと広げた視界で、赤と青がぶつかり、鬩ぎあっていた。
「ほえ……」
 あまりにも現実味に乏しい光景に、綱吉の唇から緊張感とは無縁の声が漏れる。間抜けに開いた口を慌てて閉ざした彼は、首を擡げて高く伸び上がった雲雀の鼻先で、骸が歯軋りをしながら渾身の力で抗っている姿を見て腰を抜かすところだった。
 ばちばちと火花が飛び散り、反射的に後退しようとした綱吉の腕にビリッと電流が走った。空気が凄まじい高速で回転し、空から降り続く雨さえも瞬時に蒸発して周囲には湯気が立ち込めた。
「おのれ、おのれ……おのれぇぇぇ!」
 腹の奥底から搾り出した声で骸が喚く。人間の口から発せられる音とは明らかに異なる、骸本人からではなく、彼の背後に在るものが叫ぶその声のおどろおどろしさに、綱吉は頭部を叩き潰される錯覚を覚えて身体中の毛を逆立てた。
 びりびりと骨格を覆う皮膚が波立ち、脚が震えて立っていられない。内臓が食いちぎられ、心臓を握りつぶされる恐怖が鮮やかに脳裏に描き出され、肩を抱いてか細く震えた彼を見下ろした骸が、にたりと口角を歪めて笑った。
「――!」
 しかし彼が表情を緩めたのはその一瞬だけで、即座に前方から襲い来た青紫の炎に押し返された彼は空中で一回転し、先端が溶けて変形した槍に舌打ちをしてそれを地面へと投げ捨てた。
 使い物にならないと判断されたそれは、大地に突き刺さると同時に形を失って霧と化して消え去った。あの鋭利な武器さえも幻覚によるものだったのかと、空恐ろしい現実に綱吉は身震いし、頼る先を求めて傍らで蠢く巨大な存在に体重を傾けた。
 触れたところがひんやりとして、それだけで心を支配した恐怖感が薄れていく。此処に居れば大丈夫だと、本能的に思わせてくれる気配に微笑みさえも浮かんで、だからこそ骸は気に食わないと獣の咆哮をあげた。
 この世に存在するあらゆる物質を震撼させる激情に、吹き飛ばされそうになった綱吉は即座に青紫の燐光に包まれた。蜷局を巻いた龍の囲い――硬い鱗で覆われた狭くも暖かい空間に隔離され、如何なる外圧をも跳ね除ける強靭な壁に守られる。額に腕を置いて眇めた眼で見える限りの光景を瞳に焼き付けた彼は、骸が放つ凄まじいまでの憎悪も悉く雲雀の前では無力な様に、驚き、呆然となった。
 骸の顔は赤黒く変色し、異形へと切り替わろうとしていた。
 禍々しく天を貫く赤黒い炎の翼が一瞬掻き消え、骸の骨格が歪み始める。背中が不自然に隆起したかと思えば、めりめりと音を立てて皮膚を突き破り、内側から黒々しい蝙蝠にも似た羽根が突如として現れた。
 喉を引きつらせて悲鳴を堪えた綱吉は、人としての魂さえ捨て去ろうとしている骸にはっとし、息を呑んだ。
「ま――待って!」
 一度は憎しみを抱いた相手だ。
 村を襲い、皆を傷つけた。大勢を殺め、その手を血で濡らした。彼の行いは許されるものではなく、たとえ如何なる理由があろうとも正当化されるべきものではない。
 だけれど。
 生きながらにして地獄に魂を堕とし、蘇って尚憤怒に身を焦がし、神の力を求めて人の領域を踏み越えた。
 そこまでして、彼が求めた願いとはいったいなんなのか。
 牙を剥き、結界を張り巡らせる雲雀に踊りかかる骸の体は、動くたびに表皮が剥げ落ちていく。内側から覗くのは穢れた火烏の限りない憎悪の闇。このままでは骸という存在自体が火烏に飲み込まれ、取り込まれ、本当に消滅してしまう。
 彼に同情は出来ない。
 だけれど、このまま朽ち果てるのを黙って見てもいられない。
「駄目。だめ……待って、ヒバリさん。待って!」
 根本的な何かを、自分たちは見落としている。あんなにも憎く、恐ろしかったはずの存在が、自分たちを傷つけようとしている彼の腕が、どうしてだろう、今の綱吉にはもっと別の意味を持って差し伸べられているように思えてならなかった。
 かぶりを振って蒼い鱗を叩き、綱吉は十寸もない隙間から身を乗り出した。腕を伸ばし、頭を無理矢理捻じ込んで狭い空間から這い出ようと試みる。
 外は暴風が吹き荒れて非常に危険であるに関わらず、綱吉は歯を食いしばって、龍の身体で構成された檻を抜け出そうと足掻いた。彼の目的を察した雲雀もまた、自らとぐろを弛めて綱吉に道を開いた。
 雲雀のことだから、絶対に綱吉が危ない事をするのを止めると思っていた。呆気ないほど簡単に許してもらえたことに驚き、綱吉は身の丈ばかりの高低差を腰から滑り落ち、熱いのか冷たいのかもう解らない雨の中を飛び出して天を仰いだ。
 リボーンの巨大な結界が見える。
 燐光を放つ龍が綱吉の後ろにいる。
 空中で次第に弱まる炎を懸命に吐き出し、骸が切ない声で叫んでいる。
「おのれ……何故だ。なぜ、また邪魔をする。どうして僕の邪魔をするのです、何故僕の願いは叶わない。貴方の所為で、貴方が居るから!」
「骸」
 両手を前に突き出し、霊水の影響をまともに受けながら、それでも残り少ない火烏の力を振り絞る彼の言葉は、苦い。
 我が儘を言う子供のようだ。自分の思い通りにいかないからと癇癪を爆発させて、失敗を誰かの所為にして。
 誰も叱ってくれなかったのだろうか。誰も、彼に教えてあげなかったのだろうか。
「むくろ」
 彼の声は、哀しい。
 あの時。最初に綱吉が彼に会った時。
 ディーノに押し倒されて、泣きながら彼から逃げて。雲雀を探して里をひとり彷徨っていたとき。
 綱吉は、四人一緒だったではないかとの声を聞いた。あれは、今思えば骸の声ではなかったか。
 ただ思い当たる記憶を探っても、綱吉のものではない記憶を紐解いても、四人が一緒に居た時間は一度しか存在していない。屋敷が燃えて、家族が殺されて、綱吉が――綱吉の前のつなよしが、心の臓を抉り取られた、あの一瞬だけしか。
 それなのに彼は、『四人』と言った。
 生れ落ちてからその日まで、太陽の明るさを知らず、月の優しさを知らず、星の瞬きさえ知らず。風の温かさ、大地の柔らかさ、緑の眩さ、水の冷たささえ教えられる事無く、暗い牢にひとり囚われてきた彼が、四人一緒だった、と。
 外の世界を知る術は、ひとつきりしかなかった。
 誰も相手をせず、早く死ねば良いとさえ言われていた中で、たったひとりだけ心から彼の存在を喜んだ。唯一愛おしんでくれた人によって語られる言葉が、彼の世界の全てだった。
 だからこそ。
 あのね、今日とっても綺麗な人に会ったよ。
 昨日の人と、また会ったよ。お話をしたよ。
 その人のお友達とも、仲良くなったよ。
 三人で一緒にお歌を歌って、笛を奏でて、舞いを舞ったよ。
 そんな日々を飽きる事無く語り聞かされて、いつの間にか彼自身も、外で三人と共に在る錯覚を抱いたのだとしたら。
 叶わないと知りつつも、思い、願うのは自由だ。もし本当に、この封じられた牢を出る夢が叶ったら、なにがしたいかと訊かれたから。
「むくろ」
 おいで。
 囁き、綱吉は両手を広げ、真っ直ぐに伸ばした。
 雲雀は止めない。火烏の燃え滾る翼がいよいよ火勢を失っていく様をじっと見詰め、力尽きるままに崩れ落ちる骸の姿に目を閉じた。
 空中で体を支える術を持たない彼が、真っ直ぐに地面へ転落する。弾みもせず、ぬかるんだ大地に倒れた彼に歩み寄ろうとした綱吉は、呻きながらもうつ伏せの状態から頭を擡げ、上半身を起こした骸に一瞬たじろいだ。
 気迫が薄れているとはいえ、睨み殺す勢いで眼力を強められて、怖気づきそうになる。矢張りまだ彼を怖がっている自分が居て、不安に胸を掻き回された綱吉は救いを求め、後ろを振り仰いだ。
 高い位置に、雲雀の涼やかな黒い双眸が輝いている。雨避けに長い首を伸ばした彼の姿に息をつき、綱吉は左手で胸を押さえて指先で鼓動を数えた。
 大丈夫。だいじょうぶ。
 呪文のように繰り返し、深呼吸を二度行った彼は、臆して引っ込めていた右足を踏み出し、雲雀の傘から身を滑らせた。
 悔しげに、憎々しげに牙を剥く骸が、最後の力を振り絞って綱吉へ抵抗を示す。右目が妖しく輝いたかと思うと、彼の手の中に現れたのは、先ほど骸自身が投げ捨てた三叉の槍だった。
 先端が溶けて折れ曲がっていたはずだが、もとの形状に戻されている。その屈強な精神と、頑なさに綱吉は吐息を零し、肩を竦めた。
「むくろ」
 右手を差し出した綱吉の声に、姿に、生き写しの影が重なる。
『もし外に出られたら、最初になにがしたい?』
 牢に張られた結界を外すよう、何度も無駄な訴えを繰り返しては駄目だと突っぱねられて泣いていた。
 どうしてそんなに、他人の為に頑張れるのだろう。どうせ叶いっこないと分かって諦めているのに。
 放っておいてほしい。そっとしておいて欲しい。静かにして欲しくて、最初は邪険に扱って、追い返そうとした。
 訪問を待ち焦がれるようになったのは、いつからだろう。よく覚えていない。
 だた、そう。確か、こんな風に言われた時からだ。
「お前の目、綺麗だな。夕焼けの太陽と、空の色」
 槍を手にしながら呆然と蹲る骸の頬に手を添え、膝を折った綱吉が彼の顔を覗き込む。泥汚れを親指で拭い取り、今までは恐怖が先走ってちゃんと見ていなかったので気付かなかったと、綱吉は若干の茶目っ気を含んだ口調で告げた。
 鮮やかな琥珀が、骸の目に大きく映し出される。
「俺の日の出の色と、――お揃いだな」
『おそろいだね』
 にっこりと嬉しそうに微笑む姿が、涙で滲んだ。
「…………ぁ」
「俺はさ、ごめんな。俺は、お前の願いを叶えてやれない」
 骸の為に死んでやれない。
 骸のためにも生きてやれない。
 綱吉の命は、綱吉だけのもの。だからお前にはやれない。彼はそう呟き、微かに笑った。
「けど、さ」
 綱吉は振り返り、先ほどよりも頭の位置を低くした蒼い龍に目を眇めた。
 あれ程に恐ろしかった、自分自身が抱いた憎しみという感情はもうどこにもない。
 彼を許そうとは思わないし、許せない気持ちに変化はない。ただ、贖いきれない罪を背負っているからといって、簡単に消えてなくなっても良いような存在は、この世の何処にもありはしないのだと、曖昧な感情でしかないけれど、そう思っている。
 綱吉は骸ににこりと微笑みかけ、挟み持っていた頬から両手を外した。
 虚ろな彼の目が、行き場を失って左右に泳ぐ。不安げな表情がまだ親離れも出来ていない幼子を思わせて、綱吉は揃えた膝を肩幅にまで広げた。
 下から斜め上に、腕を。
 冷え切ってしまった骸の身体が、温まりますようにと。
 願いをかけて。
 祈りを込めて。
 彼は骸を、力強く抱き締めた。
「みんな、お前と一緒にいるよ」
 だからそんな、真っ暗闇の牢に中にひとりでいないで、早く外に出ておいで。
 そっと囁きかけた綱吉の声に、骸が身じろぐ。力をなくした指が虚空を掻き、手にしたばかりの槍が地面に倒れて形を消した。
 彷徨う両手が、綱吉の肩に触れる。上腕を辿り、滑って、背中へと回された。
「うっ……」
 唇を噛み締めて唸り、ぎゅうっと、ぼろぼろの長着を握り締める。何かを堪えながら、彼は乱暴に、力任せに、思い切り綱吉に縋りついた。
 音もなく、静かに、目に見えぬものが融けて行く。消えていく。ゆっくりと、少しずつではあるけれど、此処にあったものが薄れていくのを、綱吉は触れ合わせた肌を通して受け止めた。
 雨が、止んだ。

『おそとにでられたら、なにがしたい?』
 君が訊いた。
 僕は答えた。
『君に、触れてみたい』
 君は笑った。
『そんなのでいいの?』
 僕は頷いた。
『君に触れたい』
 君がはにかんだ。
『じゃあね、ぎゅーって、してあげるね』
 君は、陽だまりのような笑顔を浮かべた。

 少し重くなった骸を抱きかかえ、綱吉は彼の肩に回した右手を少しだけ下にずらした。
 俯いている彼の様子を窺い、熱を持っていた四肢の崩壊が止まったことに安堵の息を零す。
 これでよかったのかどうかは、解らない。ただ、こうすべきだったと思ったから、それに従った。
 自分の選択が間違っていなかったのならいいのにと願い、雨だれを滴らせる木々深い森に目を凝らす。
 人影がそこにあった。
「ツナ」
「ディーノさん」
 聞き覚えのある声で名を呼ばれ、現れた彼に綱吉は驚きの表情を浮かべた。
 同時に苦々しい思いも呼び覚ましてしまい、正面から向き合うことが出来なくて唇を噛んで他所を向く。けれどディーノは構わず、足音もなく綱吉の元へ歩み寄った。
 緋色も鮮やかな打掛を肩に羽織り、黄金色の髪をして、夜深き刻であるに関わらず彼の存在自体が眩い。何故今頃になって現れるのかと、彼が影ながら手を差し伸べてくれていたと知らない綱吉は奥歯を噛み締め、意識のない骸を抱えたまま膝立ちで後退した。
 もっとも、ぬかるみの真っ只中にいる所為で思うように動けない。一方のディーノは、地表すれすれのところで足を浮かせて移動しているので、悪路は全く関係なかった。
 ずるい。心で舌打ちした綱吉の前で歩みを止めた彼は、どこか疲れた顔をして、そして怖い表情をしていた。
「ツナ」
「なんですか」
「そいつは、俺が預かる」
 ディーノの声が聞こえたのではなかろうが、綱吉の腕の中で骸の身体がぴくりと痙攣を起こした。危うく落としてしまうところで、はっとして胸元を覗き込んだ彼は急ぎ骸の脇に腕を入れ、下から掬い上げる形で彼を抱えなおそうとした。
 そこへディーノの長い腕が伸ばされる。
「え、どうして。待って」
「だめだ、ツナ」
 骸の首根っこを掴んで引っ張り上げようとした彼に逆らい、綱吉は身を捩って骸を庇った。右手を払われたディーノは、若干傷ついた顔をして唇を噛み、力なく首を振った。
 どうして彼が、そんな顔をするのか。
「そいつは、火烏と同化している。今は弱って大人しいが、時間を置けばまた、暴れだすだろう。地上には置いておけない」
 重苦しい気持ちと一緒に言葉を吐き連ね、ディーノは聞き分けてくれるように綱吉に再度頼んだ。
 意識のない骸からは、これまでの禍々しさも、火烏が発していた瘴気もまるで感じられない。気を失っているただの人間と、なんら変わらない。
「置いておけない、って……じゃあ」
「連れて行く」
 ディーノは人ではない。
 神の一員である彼が住まう場所もまた、此処とは異なる。
 人が決して辿り着けぬ地。
 連想を完結させた綱吉が瞠目し、声もなくディーノを見詰めた。揺らぐ琥珀から溢れた涙に、金髪の青年は駄目だ、と重ねて首を振った。
「そん、な」
「あいつも」
「っ!」
 掠れた声を出した綱吉から視線を外し、ディーノは彼方を見た。彼がなにを指して言っているのか、説明を聞かずとも理解した綱吉がばっと勢い良く振り返る。
 綱吉の後ろに控え、近いところに居たはずの雲雀が、今は遠い。
 遠い。
 遠くなる。
「……うそだ」
 雨を降らせた雲は切れ、朧月が姿を見せる。淡くはかない光を放ち、蒼い龍が空へ昇っていく。
「うそだ」
「ツナ」
「嘘だ。うそだうそだ、嘘だ!」
 叫び、彼は身を乗り出した。小さくなっていく姿を捕まえようと、懸命に腕を伸ばす。立ち上がって、背伸びをして、跳び上がって。
 それなのに綱吉の声は、手は、届かない。
「嘘だ、うそだよ。帰って来るって言った、約束したじゃないか。ずっと一緒だって、そう言ったじゃないか!」
 涙で景色が霞む。世界が歪む。
 骸を抱え上げ、ディーノはすまない、と綱吉にも聞こえない声で呟いた。
「こればっかりは、俺でもどうにもしてやれない」
 黄金色の光が瞬き、彼を包み込む。次に現れ出た金色の鬣を持つ馬は、哀しげな嘶きをひとつ残し、空を蹴った。
 空っぽの両手を握り締め、綱吉は呆然と立ちつくす。
「なんで……なんでだよ。待ってよ。おいてかないで、帰ってきて。ヒバリさん、ヒバリさんっ!」
 要らない。
 貴方がいない未来なんか、いらない。
 いらないのに。
「ヒバリさん!」
 暗闇が並盛の空を包み込む。
 綱吉の絶叫が響き渡る山は、ただ、静かに。
 しずかに――

2009/04/11 脱稿