「口だけは達者だな」
「ほえ面かくなよ、糞親父!」
峰を向けている打刀の柄を逆手に握り締め、素早く正眼に構える。低い場所にいる山本の方が、立ち位置的に遥かに不利であるが、今までと雰囲気をまるで違えた彼の様子を見てか、剛はなかなか攻め込んで来なかった。
じり、と山本が摺り足で半歩分前に出て、距離を詰める。熱風がふたりの間に流れ込み、煽られた短い黒髪が逆向いて視界を広げた。
「っ――」
なにか、があったわけではない。しかし目に見えないものを鋭敏に感じ取った山本が切り込み、一気に斜面を駆け抜けて父親目掛けて突進した。上段から一息で振り下ろし、受け流した剛が右へ払って即座に鍔を返した。
弾かれた山本は崩れかけた姿勢を強引に押し留め、地面に足の裏全体を叩き込んだ。右肘を突っぱねて肩を高くし、左手を解放する。捻った右手首を胸元に引き寄せ、繰り出された剣戟は鎬で受け止めて彼は上体を後ろへ流した。
宙を掻いた左手が、腰に挿した鞘を捕まえる。
「こんの……っ」
後頭部から沈んでいく最中、山本は地面に残っていた左足でもって無理矢理に仰向けからうつ伏せになるよう体を捩った。奥歯を噛み締め、内臓が裏返る痛みを堪えてみっともないくらいに顔を歪める。帯から引き抜いた鞘を振り回し、彼は右肩から地面に落ちる途中で左腕を襲った衝撃に耐え切れず、呻き声をあげて空っぽの手を空に差し向けた。
山本の体より先に鞘が落ち、あと数寸ずれていたら頭に刃が突き刺さっていたところで、打刀ごと彼はもんどりうって崩れ落ちた。煌びやかに輝く刃を顔の直ぐ先に見て肝を冷やし、慌てて遠ざかったら上から笑われた。
一発食らわされた剛が、鞘で打たれて若干赤くなった左手を腰の高さで揺らしていた。
「くっそー……その程度かよ」
「悪くは無かったが、まだまだ修行が足りんな」
「いてっ」
もう少し深く懐に入り込んでいたら結果は違っただろうに、寸前で悟られていたようだ。
鞘が真剣だったなら、今頃剛の左手は肘から先が無くなっている。さしたる衝撃も与えられず、笑い飛ばされる程度にしか痛めつけられなかったのが悔しい。
渾身の一撃だったのに、と山本は地面に両足を投げ出して拳で地面を叩き、拗ねた子供の顔で父親をねめつけた。
瞳の色は艶を持ち、清涼な彩を放つ。先ほどまでの虚ろで、禍々しい気配は嘘のように消え失せていた。
「……って、あれ?」
がっくりと肩を落として一頻り項垂れた彼は、深い溜息の後に瞬きを三度繰り返し、泥だらけの頭を掻いた。そういえば何故自分は、こんな場所にいるのだろうか。勘当されて以降、全くと言って良いほど足を向けていなかった実家に、用事など無かったはずだ。
何か重大な事柄を忘れてしまっている気がするのに、記憶が混乱していて状況が掴めない。そもそもどうして父親と真剣勝負などしなければならなかったのかと、根本的な疑問が浮かんで、首を捻る。
自分は確か、綱吉や獄寺たちと一緒に祭に参加して。
篝火に囲まれた広場の舞台上で繰り広げられる様々な芸を見て、最後の舞に心奪われて。
「あ、れ。待てよ、なんか俺、すっげー大事なこと」
頭にあった右手を頬に置き、泥を剥いで落とす。視線は自然と下に向いて、落ち着きなく闇に彷徨わせた彼は突然ハッと息を呑み、南の方角に目を向けた。
燃え盛る炎に飲まれた家畜小屋と、逃げ送れて生きたまま火に巻かれる馬の断末魔の叫びが彼の心を凍りつかせた。
「な……」
何が起きている。
いや、違う。
何が起きたのか、自分は知っているではないか。だって、あの場に居たのだ。最初から、全部見ていたではないか。
突然堰を切って溢れ出した厖大な記憶に押し流され、山本は息を止めてこめかみに爪を立てた。
肘を引き、脇を締めて体を小さく丸める。ガタガタと震える身体を地に投げ出し、信じられないと首を振って彼は浮かんでは消える光景を必死に否定しようとした。だが出来ない、なによりも自分の心が、それら全てが真実だと彼に訴えかけていた。
友人を、隣人を殴り、蹴り、罵倒し、叩きのめす。己に近しい存在を最優先に、愛しいが故に憎しみを滾らせて、襲い掛かり、縊り殺そうと。
山本はまず了平を狙った。しかし返り討ちにあって、そして。
唯一に肉親である父親の元を目指したのは、必然だった。
「…………」
事実を認識する度に、彼の顔から色が消えていく。喉が渇いて仕方が無いのに、いくら唾を飲んでも癒せない。鳴動する心臓が息苦しさを増長して、山本は広げた掌を食い入るように見詰めた。
今は掻き消えている感情――父親を殺したいという願いが、自分の中にあったものだとしたら。
「おれ、は」
父親だけではない。殆ど家族同然の獄寺や雲雀や、綱吉さえもこの手に掛けたいと、一瞬なりとも考えた自分が恐ろしくてたまらなかった。
「俺は、どうすれ――」
「馬鹿者」
「いっでええ!」
瞠目したまま唇を戦慄かせた彼の独白を邪魔して、前触れもなく痛烈な一打が彼の脳天に突き刺さった。
峰打ちとはいえ、何の心構えもなかったところに叩き込まれたら当然痛い。しかも力いっぱいだった、本気で頭が西瓜のように割れるかと思った。
幸いにも丸い形を維持したままでいる頭を両手で抱きかかえ、涙目になった山本が見苦しい悲鳴を上げて飛びずさる。そんな彼の前方では、剛が涼しい顔をして、今しがた愛息子の頭に叩き込んだ日本刀を鞘に納めていた。
人が落ち込んでいる時に、酷すぎる。長衣の裾を乱して足を広げ、うんうん唸っている子に盛大なため息を吐いたその父は、地面に散乱している黒の鞘と打刀も左右それぞれの手に拾い上げ、表面の土を軽く払い落とした。
顔の前に掲げ、音もなく鞘の内側へ刀身を納める。滑らかな動きに見入っていると、どこかから水滴が跳ねて山本の額に落ちた。
冷たさに身を強張らせ、何処から飛んできたのかと探すが、雨が降り始める気配は微塵ともないし、川を流れる水の音は遠い。
「あれ……」
なんだろう、これは。
拭い取った水気を吸わせた手を見詰め、顔を顰める。だが、考えている暇はなかった。
「ほれ」
短い言葉の末、剛に黒塗りの刀を差し出されたのだ。
「え?」
「何をしているか。さっさと行け」
呆けた顔で父親を見上げ、首を捻る。受け取れと再度言われても困るだけで、まさかまた真剣勝負をするのかと誤解した山本は、顎をしゃくって北を示した彼に目を瞬いた。
それでも尚、覚えの無い刀に躊躇を示していると、今度はその黒塗りの打刀で頭を殴られた。
「痛いって、親父」
「当たり前だ。痛くなかったらお前は死んどる」
さらりと言い返され、切っ先を喉元に突きつけられて山本は呼吸を止めた。振り向き、赤に染まる村を瞼の裏に焼き付けて視線を伏す。
平和だった並盛村を突然襲った災禍、その原因を彼は知っている。いや、それだけではない。方々で話に聞いた退魔師を襲った忌まわしい事件、その犯人と思しき存在もまた、村を焼く輩と同じ。
確証は無いが、確信して山本は顔を上げた。
無言の父親に頷き返し、利き腕を伸ばして鍔に近い鞘を握り締める。ずっしりと来る重みに、指に馴染み感覚が一体化したような不可思議な気配は先ほどとなんら変わらない。他にも何本か刀剣を扱ってきたものの、こんな武器は初めてだった。
家にあったのさえ知らない。新しく拵えるにしても、そんな金銭的余裕は無かったと思う。
肘を引き、のんびりしている時間的余裕は無いと知りつつも、改めて鞘から抜いて興味津々に刀身を眺めてしまう。惚れ惚れとするくらいの美しい鎬は、気のせいか時折流れる水のように波形を刻み、揺蕩っているようでもあった。
「親父、これ」
「お前の刀だ」
黒い、見慣れぬ刀。素人目にも業物だと分かる造りに溜息さえ零し、何処で手に入れたものか聞こうとして振り向いた山本の出鼻を挫いて、剛がいきなり言った。
面食らった山本が間抜けにもぽかんと口を開き、二秒後、そんなわけが無かろうと頬を引きつらせる。しかし父親の表情は一切変動なく、睨みつけるような目つきで彼を見下ろしていた。
息を細かく吐き、山本が両手で握った日本刀に目を落とす。
「……母さんの形見だ」
「え」
それもまた、初耳だ。
即座に顔をあげた山本の両目が、どういう事かと説明を求めて見開かれた。
母は山本が十になるかならないかの頃に病死している。並盛の村で生まれ育った純朴な女で、剛がこの村に流れてこなければ、武士などというものと一生係わり合いなど持たなかったと思える程の、村しか知らない人だった。
田畑を耕し、慎ましやかに日々を過ごすだけの稼ぎしかなかった彼女が、こんな、見るからに高価なものをどうやって手に入れたというのか。剛の実家に伝わる家宝だと言うのなら、まだ信憑性があろうに。
疑わしき目を向ける息子ににやりと笑い、彼は迫り来る炎に照らされて濃い影を地表に落とす家を振り返った。
「それはな。母さんが、お前と一緒に授かったものだ」
「……?」
話が良く見えない。急にしんみりとした声を出して語りだした父親に首を傾げ、疑問符を頭に浮かべた山本が黒い打刀の鍔を鳴らした。
見た目は金属なのに、何故か水を弾いた時のような感触が掌に伝わってくる。下唇を突き出して怪訝に眉を寄せた息子に向き直り、剛は腰に手を当てて唐突に豪快に笑った。
ぎょっとする山本の前で胸を張り、
「まあ、なんだ。ひと言で片付けるのなら、お前は俺の息子じゃないってことだ」
いきなり変なことを言った。
山本がぽかんと、呆気に取られた顔をして凍りつく。
気のせいだろうが、どこかで烏が鳴いた。
「――はあ?」
裏返った素っ頓狂な声を出し、山本は勢い勇んで地面を蹴り飛ばした。
「なんだよ、それ。そんなわけねーだろ、聞いてねーぞ俺は!」
憤りが頭の先を突き抜けて爆発する。今は冗談を言っていられるような状況ではないし、内容だって軽々しく言って良いようなものではない。
目尻を吊り上げて怒鳴った山本の反応を予想していたのか、剛はもうひとつ声高に笑った後、視線を脇へ流した。
握り拳を震わせた山本が、今にも殴りかかりそうな距離で父親を睨みつける。
「だが、全く感じて来なかったわけじゃないだろう?」
「っ!」
どきりとするところを指摘され、山本が大袈裟すぎるほどに肩を強張らせた。
竦みあがり、左足を後ろへ流す。腰が抜けて尻餅をつきそうになって、彼は打刀を縦に突き立て、杖代わりにしてそこに縋った。
笑った時の顔が父親そっくりだと、母によく言われた。布団を豪快に蹴り飛ばす寝相までそっくりだと、朝が来るたびに呆れられもした。
けれど確かに、両親には無い不可思議な力が自分にだけ宿っているのは、長年の疑問だった。
最初に違和感を覚えたのがいつだったかまでは解らないが、少なくとも綱吉と知り合った頃には既に、己が異質である事を両親は認めていた。
退魔師崩れ、というものがある。
退魔師としての素質を持ちながら退魔師とならず――或いは、なれなかった者達の総称だ。
現在、退魔師という職は蛤蜊家が一括で管理している。血の繋がりという強固な鎖で守られた塀の中にあり、その門は巨大で且つ、高い。
蛤蜊家というものは、初代が作り上げた当初はただの退魔師管理共同体だった。それがいつの間にか方向性を見失い、巨大な利権組織へと変貌し、外からの参入を拒むようになっていった。
その弊害から現れたのが、退魔師崩れ。即ち、蛤蜊家の縁者以外から現れ出た霊力に優れた者達。
彼らの多くは生まれながらの不可思議な力に振り回され、惑わされ、人生を滅茶苦茶にされる場合が多い。山本は幸運だった。同じ村の中に蛤蜊家とも繋がりがある、良識的な人格者がいたお陰で、彼は道に迷う事無く、持って生まれた力を正しい方向に導くことが出来た。
しかし、では、もし沢田家がこの村になかったら。
人間というものは、自分とは異なるものを極端に恐れる。知ろうともせず、ただ怖がる。排除しようとする。時にそれが集団心理に働きかけ、陰惨な事件を引き起こすこともある。他者に見えぬものを視るという事は即ち、人と異なる視点を持つという事だ。
退魔師とは常に少数派で、古くは迫害の対象にもなった。それを憂い、正しい知識を広めるという意味合いも込めて、蛤蜊家は作り出されたのだ。ひとりずつで対抗し得ぬものも、集団でなら成せることは多い。それ故の組織だ。
けれど蛤蜊家に所属できないものは、今やその蛤蜊家から外憂として排除の対象と目される。
本来守るべきと定めた存在を駆逐するという、大きな矛盾。
ざわりと胸に不快なものが沸き起こり、山本は臍を噛んで父親を睨みつけた。
「どういう、ことだよ」
脂汗が滲み、横殴りの熱風に煽られて視界が歪む。肩幅に広げた両足を大地に衝き立て、泥を付着させて重くなった袂をはためかせている息子に目を細め、剛はやや困った様子で頭を掻いた。
どこから説明しようか迷っている素振りに、痺れを切らした山本が迫り来る炎の壁も気にして舌打ちする。
「とっとと説明しろ、三言でまとめろ!」
「それは難しいな」
「あと二言」
早くしなければ、村全体が火に巻かれて全滅の憂き目に晒されてしまう。それに、なにより。
この騒動を引き起こした輩が山本の想像通りならば、奴らの狙いは退魔師の――蛤蜊家の後継者候補である綱吉に違いない。
村はずれのこの場からでは、彼らが今現在何処にいて、どういう状況に置かれているのかさっぱり解らない。広場で一緒だった獄寺や了平たちの行方も気に掛かる。綱吉は雲雀と一緒ならば大丈夫だとは思うが、あの雲雀だって複数人相手に一度に攻められたら太刀打ち出来ないかもしれない。
焦燥感に表情を険しくした山本の姿に、力を抜けと剛が掌を下に向けて腕を上下に動かした。
「うっせえ! 大体、親父が俺を此処に足止めしてんだろうが。言わねえなら、俺はもう行く。話は後で聞く!」
胸の奥底でざわざわと囃し立てる不愉快な声は消えない。だが、今優先させるべきは、そちらではない。
大切な仲間が危険な目に遭っているかもしれないのだ、とてもではないがじっとしていられない。
その場で足踏みを開始した山本に、剛は一向に聞き入れない息子に焦れて再び腰の刀に手をかけた。鞘ごと引き抜き、素早く振り下ろす。だが流石に三発目は食らうまいとし、山本は身体を右に流してこれを回避した。
筈だった。
「うぁで!」
それなのに彼の動きを追尾した切っ先は見事に山本の脳天を打ち鳴らし、目の前に星を散らした彼はその場で蹲ってうんうん身悶えた。
確かに躱して、剛の剣は空を切ったのに、瞬きの間に方向を転じて次の攻撃に移る。鋭さに変化はなく、一撃は重く、痛い。目にも留まらぬ早業と表現するに充分な一手で、涙で視界を濡らした山本は、偉そうに踏ん反り返っている父親を恨めしげに見てから膨れ面を作って頬を丸めた。
「感情に流されるな。心が乱れれば、即ち剣筋も乱れる。そうでなくともお前は、動きがまっすぐ過ぎて読まれ易いんだからな」
「それ、……ディーノさんにも言われたな」
数日前に鍛錬をつけてくれた金髪の青年を思い出して、山本がひとりごちる。当然ディーノの存在を知らない剛は怪訝な顔をしたが、深く気に留めずに話を続けた。
ひゅっ、と鋭く鞘を振り落として縦に空を切り裂き、ぴたりと山本の鼻先で止める。左手を腰に当てて姿勢を真っ直ぐにした彼は、その動きを瞳だけで追おうとして失敗した息子に不遜な笑みを返し、だから、と繋げた。
「相手が太刀筋を読んでも避けられない速度で、お前が動け」
「……んな無茶な」
つまりは今の剛がしてみせたような動きを、と。
助言を与えているつもりかもしれないが、無謀だと山本は思う。しかし小手先だけの小細工は苦手で、不意打ちのような卑怯な手段も出来るなら使いたくないと思っている自分にとって、格上の相手に対し闘いを有利に運ぶには、それぐらいしか方法は残されていない。
認めるしかないのかと歯軋りし、山本は落とした打刀を探して地面に指を這わせた。
だが一度手首を振っただけで、呆気なく見付かる。まるで刀の方が彼に近付いてきたみたいで、奇妙な感覚だった。
「親父、この刀」
「お前を授かる前に、子授け祈願で訪ねた水神様の社で、母さんが一寸の間行方不明になってな。見つけた時、母さんは水辺でひとり倒れていた。あいつが言うには、靄の中で水神様に会って話をしたという。お前が産まれるという、な。その刀は、母さんを見つけた場所で一緒に落ちていたものだ」
狐に抓まれたような話で、半信半疑だったが、刀を鞘から抜くと僅かに水の匂いがして、実際に飛沫が散ることもあった。
それから十月十日後、お告げ通りに子供が生まれた。長らく待ち望んだ、待望の男子だった。
けれど、疑問は拭えない。本当にこの子が自分たちの子なのか、それとも神からの授かりものなのか。
あれは夢だったと半ば笑い話にしていたものが、急に現実味を帯びて目の前に現れる。子が授かるという宣託と共に与えられたと思われる刀と共に、夫婦はいつかこの子が自分たちの前から消え去るのではないかという恐怖にも晒された。
こんな話、誰が信じるだろう。お礼参りで訪ねた水神の社は静寂に包まれ、霧は晴れてあの日の再現は果たされなかった。自分たちで分かる範囲で調べてみても、明確な答えは見出せない。月日はその間も変わらぬ速度で流れ続け、子は育ち、一通り言葉を覚えて会話を楽しむようになった。
親に見えぬものたちと交流する、という形で。
最後の砦で沢田に縋った。その強い霊力に彼の家の主は興味を抱いた様子だったが、産まれる前の謂れに関して夫婦はついに語らなかった。突然こういう子が産まれることもあろう、と、家光がさほど気にかける様子が無かったのには、心底安堵したと剛が笑う。
笑う父親を前にして、山本が言葉を失って立ち尽くす。
「……んだよ、それ。なんでそういう事、もっと早く!」
「言う前にお前の方が出て行ったからな」
「あれは、親父が一人前になるまで帰って来るなっつったからだろ!」
揚げ足を取るな、と山本が声を荒立てて叫び、剛が表情を真面目なものに切り替える。
凛とした空気が走りぬけ、山本はこの熱風吹き荒ぶ中で寒気を覚えて右肩を抱いた。
「とまあ、こういう経緯だ。だからお前は、ひょっとすれば俺の子じゃないのかもしれん」
涼しい顔をして言い切り、屈託ない笑顔を見せた彼をどうしようもなく殴り飛ばしたくてならず、山本は握り拳を戦慄かせると下を向き、唇を噛み締めて肩を小刻みに震わせた。
父親を殴るのは最低だと思う。けれど、今のは許せない。
ずっと黙っていたことも、隠していたことも。今日になって、こんな状況で教えたことに対しても。
けれどそれ以上に。
緩く首を振り、山本は息を吐いた。一緒に力が抜けて、頑なだった拳は勝手に解け、脇に垂れ下がった。
涙は出ない、哀しいわけではないから。言葉も出ない、思いつかないから。
彼は顔を上げた。十四年間父親だと信じていた男を見た。よく知っている顔だが、記憶に残る最後よりも皺が少し増えて歳を取っていた。
父の横には、母がいた。今はもう居ないけれど、そこに居た。控えめに笑って、よく気がついて、この盆暗には勿体無いくらいの出来た女性だった。料理が上手で、裁縫が得意で、艶のある黒髪が自慢だった。怒らせると怖くて、あの鉄拳は父親のよりも痛かった。その代わり、後でちゃんとぎゅっと抱き締めてくれた。
ふたりの間には自分が居る。小さな、まだ子供の。この家で暮らしていた頃の。
怖いものを沢山視た、不思議な出来事もいっぱい経験した。ただそういう話をしても両親は困った顔をするので、いつの間にか自分からはしないようになった。
その分を差し引いても、充分幸せだった。
楽しかった。川の字になって三人一緒に眠るのが好きだった。
自分は愛されていると思っていた。今もそう、思っている。
だのに足元が崩される。
周囲に羨まれるような家族像が、真っ向から否定された気がして――
「……ちがう」
額に手を翳し、熱を持った前髪を梳いて山本は掠れた声を零した。
瞠目した瞳が乾燥し、痛みを放つ。充血した眼球を虚空に向け、彼は鈍い動きで身体を起こした。
「違う、そうじゃない」
まとまらない思考の中で、見つけた一筋の光。
そもそも、家族とはなんだ。血の繋がった関係だけが、家族となりうるのか。それでは外部への門戸を閉ざし、殻に閉じこもって膿を溜め込む現蛤蜊家の体質と全く同じではないか。
居候先である沢田家も、彼にとっては帰るべき家のひとつだ。綱吉は家族だ、雲雀も、奈々も。獄寺だって。
彼らとの間にある関係性とはなんだ。親子でもなく、兄弟でもない、赤の他人がひとつ屋根の下に寄り集まっているだけなのに、どうしてああも暖かな気持ちになれるのか。心安らげる場となりえるのか。
「関係ない、そんなの」
山本は広げた手を握った。ぎゅっと、捕まえたものを今度こそ逃がさないように。
心が揺れる必要なんて最初からどこにも無かった。
そっくりな親子だといわれてきた。当たり前だ、誰よりも近いところでずっと見上げてきた背中だ。こんな背中になりたいとずっと思っていたからこそ、自分は。
この人を。
「ああ、くそっ!」
ごちゃごちゃに入り組んだ迷路に嵌り、山本は腹立たしげに罵声を上げると両手で黒の鞘を握り締めた。顔の前で縦に構え持ち、金属製の鍔を額に翳す。
何をするのかと剛が丸い目で見守る前で、彼はそれを。
思い切り。
力いっぱい。
「うらぁぁ!」
怒号と共に自分に叩き付けた。
ゴッ、と骨を粉砕する音が聞こえ、あまりの唐突さに剛も声が出ない。一瞬吹き荒れた熱風に視界が遮られ、腕で顔を庇った彼は額をぱっくりと割って血を流しながらも、いやにすっきりとした顔をしている息子に顎を外した。
滴る血は眉間でふたつに分岐して鼻筋を伝い、唇を乗り越えて顎に至って大きな雫をぽたぽたと落としている。だのに瞳の輝きは今まで一番の鮮明さで、晴れ晴れとした表情には迷いを振り切った彩が漲っていた。
「武?」
「親父。悪いけど俺は、誰がなんと言おうと、あんたの息子だ」
水神様だとか、そういう、小難しくて面倒そうなことはどうでもいい。大体、赤ん坊だった自分をここまで育ててくれたのは、話に聞くその水神様とやらではなく、母であり、父であり、並盛の村の皆だ。
水神様のお告げがなかったら生まれてこなかったかもしれないというのは、結果論に過ぎない。山本武は山本武であって、それ以上も、それ以下でもない。
今此処に在る自分が、彼のすべてだ。
「だから、今の話は忘れる。いや、一応忘れねぇようにはするけど、あれこれ考えるのは止めにする。それより前に、俺にはしなきゃなんねー事があるからな」
迫り来る炎を仰ぎ、夜だというのに明るい空に眉目を顰めて山本は言い切った。
唖然とする父親に屈託なく笑い、彼は玄い打刀を肩に担いで鼻の穴に入ろうとした血を拭った。
「俺は、俺を育ててくれた村を守りたい。親父も協力してくれ」
闇に広がる炎に鋭く視線を向けて言い、山本は落とさぬようしっかりと帯に打刀を挿して掌で押し、角度を調整した。
そして父親の返事も待たず、自分がすべきことを見出した彼は踵で地面を蹴り、駆け出した。
熱風に煽られた空気から、乾燥した草が焦げ始める。耐え切れずに小さな炎を先端から発したそれは、見る間に茎にまで広がって地表を舐めた。
此処もそろそろ危ないかもしれない。続けて隣り合う葉にまで燃え広がろうとした種火を踏み消した剛は、もう見えなくなってしまった息子の背中を思い浮かべながら広げた手でぺちん、と額を打った。
「あの野郎、簡単に言いやがって」
こんな大火、どうやって消せというのだ。最早人間の手には負えないところまで幅を利かせつつある炎の壁を見上げ、彼は落胆と共に首を振って弱気な考えを否定した。
この村に拾われて、この村に骨を埋めると決めた。しかしそれは、突如襲った災禍に巻き込まれて終わるためではない。
それに、下手をすれば北西にある墓地にまで火の手は及ぶかもしれない。
やれやれと肩を竦めた彼は、腰に手を押し当て、深く長い息を吐いた。続けて熱を含んだ空気を腹いっぱいに吸い込み、胸を限界まで膨らませたところで止めて、肩を引く。
広げた両手を顔の横に携え、自分に活を入れるべく力いっぱい頬を叩いた。
小気味の良い音が響き渡り、身体中にあった不要なものを一気に押し出す。再開させた呼吸にはもう迷いなく、感じた熱さは幾らか遠ざかった。
「格好良いところを見せてやらんとな」
息子だって頑張っているのだ。その手本となってやるのが、父親の役割であり、勤めではなかろうか。
紛れもなくあの子は、自分たちの子供。自慢の、何処に出しても恥かしくない、山本家の立派なひとり息子だ。
渦巻く炎に紛れ込む、心を凍らせる凄まじい憎悪に目を眇め、拳を振り上げる。並盛を取り囲んだ正体も分からぬ悪意に対し、自分も決して折れてはやらぬと誓って、彼もまた、明るく照った禍々しい大地を踏みしめた。