精霊火 第二夜(第五幕)

 彼は跳ぶのを止め、二本の足を地面につき立てた。
「む――?」
「ひゃひゃ、諦めたのかー?」
 抵抗を中止した雲雀の無防備な姿に、千種が眉を寄せ、犬が嗤った。
「っ、ヒバリさん!」
 空気の変容を読み取り、綱吉が声をあげる。犬は止まらず、高く地面を蹴って飛び上がり、砂埃を振り撒いてふたりへと踊りかかった。
 異様なまでの静寂が場を包む。雲雀は瞑目し、そして顔をあげた。
 暗闇を切り裂く紅い双眸が犬を射抜く。
「犬、退け!」
 びりびりと肌を刺す圧倒的な神気の流れに、千種が裏返った声で叫んだ。
 綱吉を追い回していた村の青年らに放った何十倍もの眼力を浴びせ、犬を圧倒し、その精神を震撼させる。人が許容できる霊力の限界値を軽く上回る圧力に、犬はびくりと全身を痙攣させた後、空中で体勢を崩して頭から落下した。
 嫌な音がして、綱吉が咄嗟に首をすぼめる。
「ヒバリさん、ひばっ……」
 きらきらと雲雀の周囲を飛び交う金色の輝きが、綱吉の目にだけ映し出される。浮かび上がった鎖は、ほんの少しだけ雲雀の体から浮き上がり、綺麗に揺らめいていた。
 千切れてはいない。どこも欠損部分は無い。
 素早く確かめ、安堵した綱吉は泣きそうに顔を歪めて雲雀の肩を殴った。
「なに、が……」
 状況がさっぱり分からない千種が、呆然として喉の奥で低く呻いた。
 雲雀は何もしていない。しかし犬は突如意識を失い、落下した。ひくひくと小刻みに震え、口からは泡を噴いている。
 強大な力をまともに浴びせられ、気を失ったとみて間違いない。現に千種にも余波は届いて、危険を報せる警告が喧しく頭の中で鳴り響いていた。
 千種が骸から教えられたのは、綱吉が蛤蜊家の十代目候補筆頭であり、骸の復讐に必要不可欠な人物である事。彼を手に入れる為ならばどれだけの被害が出ようと構わない、ということ。
 綱吉の周囲には数人の退魔師がいる事も聞いてはいたが、それだけだ。雲雀恭弥という男への前知識を、彼は殆ど与えられていない。
 蛤蜊家を中心として構成されている退魔師の構図は、血縁関係の強固さを盾にして外部からの力の流入を拒んだ。それ故に突発的に力を持って生まれて来た子供たちは、自分が持つ力の正体さえ知らず、誰からも理解されず、翻弄され、振り回された。野に下るしかなかった大勢の同胞は、望まずして手に入れた力を使い、中には悪事を働く者もいた。
 しかし蛤蜊家はそういった退魔師崩れとなった者たちに救済の手を差し伸べるどころか、自分たちの立場を悪くするからと抹殺し、逆に身内で罪を犯した者には目を瞑った。
 自分たちだけがのうのうと楽な暮らしをして、己の栄華に固執してそれを脅かす連中は消して回る。卑怯極まりなく、許し難い行為だ。
 だから千種も犬も、蛤蜊家を恨む。蛤蜊家を支える退魔師を憎む。
 奴らを殺して何が悪い。あいつらはもっと、もっと大勢殺しているではないか。
 復讐の話を持ち出された時、千種も犬も、二つ返事で了承した。骸についていけば間違いは無いと信じて、彼の命令に従い、此処まで来た。
 あと少しで終わるはずだった。
 計画の一端が音を立てて崩れていく気がして、千種は慄然と立ち尽くした。追い詰めたはずなのに、いつの間にか自分たちの方が追い詰められている。焦りを滲ませ、彼は眼鏡に罅が入った所為で若干濁る視界の中心部を睨みつけた。
 動悸がするのは、恐怖心が先に立っているからだ。自分を奮い立たせ、千種は目尻を吊り上げていつでも対抗できるように身構えた。
 綱吉の頭に手を置き、髪を撫でて宥めた雲雀が振り返る。
「っ――!」
 ぶわっ、と千種の目の前にあった空気が膨張し、彼を押し潰さんと雄叫びをあげた。咄嗟に右足を引いて腰を沈めるが、受け止めきれるものではない。ましてや、受け流すなど。
 雲雀は人間の筈だ。少なくとも千種の目にはそう映った。
 しかし、これでは。
 これではまるで、彼も――
「ヒバリさん、それ以上は駄目!」
 甲高い悲鳴をあげて綱吉が叫び、千種を睨み殺さんとする雲雀を懸命に止める。
 彼の瞳には、雲雀を束縛する金色の鎖が震え、今にも弾き飛ばされそうになっている様が見えていた。
 これ以上は抑え切れない。雲雀は大丈夫だと言うけれど、このまま彼が力を放出し続ければ、いずれ綱吉の封印は砕け散る。そうなったら、自分たちは。
 最悪の事態を想像し、綱吉は珠の涙を零して止めてくれと雲雀に縋った。
 きつく閉ざされた綱吉の瞼の裏に、鮮やか過ぎる赤が舞う。
 ちりりと首筋を焼く熱に、彼ははっと息を呑んだ。
「うあっ!」
「ぐ――」
 綱吉が叫び、雲雀が呻く。右手で額を押さえた雲雀が瞬時に綱吉の前に立ち、左肘を脇腹に寄せて拐を握った。
 激震する空気が熱を帯び、ふたりを取り囲む。以前にも増して見晴らしが良くなった中で、雲雀はドクン、と強く心臓が跳ね上がる音を聞いた。
 長く意識の奥底に沈めてきた幼少期の恐怖が蘇り、彼に嫌な汗を流させる。渦巻く空気は赤く色付き、男が歩みを進める度に乾いた大地に新たな火の手があがった。
 綱吉も気付き、雲雀の腰に腕を回す。圧倒的な畏怖に苛まれた彼が思い出したのは、神社に舞い降りた直後のディーノ――抑えもせず、神気を垂れ流していた時の彼だった。
 だが、これは違う。ディーノの気配は澄んで輝いていたが、今迫り来る気配は非常に禍々しく、毒々しい。広場で感じ取った人々の悪意の塊にも似て、その数百倍の濃度と密度が同席していた。
 立ち眩みがして、綱吉は辛そうに息を吐いた。心臓が締め付けられて、まともに呼吸が出来ない。
 首筋だけに感じていた皮膚を焦がす感覚は今や全身に広がり、内側から彼を焼き殺そうと蠢く。雲雀に触れている場所だけが僅かに冷たくて、綱吉は彼の背に顔を埋め、崩れ落ちそうになる体を懸命に支えた。
「……綱吉」
 掠れた声で、雲雀は前を見たまま綱吉を呼んだ。
「ヒバリさん?」
 力を振り絞り、綱吉がどうにか顔を上げて彼の横顔を見る。
 黒髪が宙を泳いだ。
「――え?」
 違う。綱吉の体が、空を舞ったのだ。
 両手が空っぽになり、空気を握り潰した。軽い彼の体は柔らかな土の上で一度だけ跳ね、斜面をずずず、と滑り落ちていく。後頭部が硬い地面に当たって漸く止まり、泥まみれになった綱吉はそれでも尚目を見開いたまま、ぽかんと闇夜を見上げていた。
 自分の身に起きたことが信じられず、視界の左右に伸びる自分の腕を伸ばす。
「綱吉、走って」
 矢を射るような声が飛び、彼は忘れていた呼吸を取り戻した。
「ヒバリさん!」
「いいから、走れ。行くんだ!」
「なんで、一緒に――」
 狼狽を隠そうとしない雲雀の声に逆らい、綱吉は体を表返して斜面の上に居残る背中を見上げた。だが全部言い終える前に、目に見えぬものが彼に迫り、綱吉から言葉を奪った。
 ギンッ、と硬い金属がぶつかり合う音が天を貫く。
「綱吉!」
 雲雀の怒鳴り声に目を瞬き、刹那の時で移動を果たした彼に綱吉は震え上がった。
 本気で怒っているのが伝わり、そして日頃感情の露出を極力抑えている雲雀が、己に課した枷を取り払う原因となった相手を目の当たりにして、彼は唇を戦慄かせ、恐怖から自覚ないままに後退した。
 鉄の鎖に繋がれた巨大な球体が地面を深く抉り、雲雀の数歩手前に沈んでいる。灰色の鎖の先に佇むのは、犬や千種同様、旅芸人一座の舞台に立っていた男だった。
 じゃらりと重い音を立てる鎖を引き、見るからに重量がある鉄球を易々と取り戻してその肩に担ぎ上げる。鉄球表面には蛇が這った跡のような歪な紋様が刻まれ、不気味さを増長していた。
 立っているだけでもやっとという威圧感を放つ男を負けじと睨みつけ、雲雀は肩に残る痺れを気にして左腕を少しだけ下げた。
 拐で弾き返したまでは良かったが、衝撃はあまりにも重く、無傷でいられなかった。雲雀同様に凝縮した霊気を表面にまとわりつかせ、破壊力を増大させている。もう一発正面から打ち込まれて、次も同じことが出来るかと問われたら正直自信が無かった。
 左腕の感覚は鈍いままで、暫くは役に立ちそうにない。それを隠して悟られぬようにしながら、雲雀はちりちりと足元から登ってくる熱を嫌って乾燥した土を蹴った。
「行くんだ、綱吉」
 距離を取りつつも、逃げ出すのは躊躇している綱吉に振り返らず訴え、雲雀は右を高くして拐を構え直した。
「けど」
「行くんだ。……直ぐに追いつく」
 一緒には行けない。言外に告げ、彼は戸惑う彼を急き立てる。
 疲れた様子の千種がランチアの傍へ寄り、若干口惜しげにその背中を見詰めた。邪魔をしてくれるなと言いたげな表情ではあるが、あのまま雲雀の力に圧倒され続けていたら、彼もまた犬同様、地面に突っ伏していただろう。
 助けられたのを不本意そうにしている千種を横目で見て、ランチアは直ぐに雲雀に向き直った。
「行くんだ!」
 瞬間、雲雀が叫ぶ。
 急き立てられ、綱吉は素足で地面を蹴った。
 背を向けて駆け出す。小さな背中は直ぐに闇に融け、見えなくなった。
「……ランチア」
 綱吉は捕らえろ、というのが骸の指示だ。それを蔑ろにし、見逃す姿勢を見せたランチアに、千種が咎める声を出す。
「構わない。それにどうせ、あれを倒さなければ此処は通れない」
 あれ呼ばわりされた雲雀が思い切り不機嫌な顔をして、ランチアの乾いた笑いを誘った。
 綱吉をひとり行かせたのは不安極まりないが、此処に置いておくよりはずっと良い。巻き込んでしまう可能性は否定できない、自分を制御しきれる自信さえ。
 勝てるか。雲雀は珍しく弱気になっている自分に焦れ、しこりとなって胸の奥底に残っている幼き日の出来事を必死で振り払った。
 あの頃の自分と今とでは、大きく違う。巨大な力に翻弄され、怯えて泣くことしか出来なかった自分はもういない。それに、負けるわけにはいかないのだ。
 綱吉を守る為に。
 二度と奪われぬために。
 絶対に。
 決意を新たにした雲雀を前にし、ランチアは無表情のまま千種にさがるよう指先だけで指示を出した。
「偉そう」
 腹立たしげに千種が言うが、自分がいては邪魔になるだけだと悟っている為に大人しく従う。犬の様子を確かめようと表面が凸凹して一部が崩れている小山の縁を回り、彼を土の中から引き抜いて一緒に遠くへと避難した。
 雲雀とランチアだけとなり、ふたりは向き合ったまま遠く嘶く炎の声を聞いた。
「すまんな。俺は直接は、あんたと面識はないし、恨みもない」
 手にした鎖を胸の高さまで持ち上げ、ランチアは無感情に淡々と言った。
 一度は手元を見た瞳で雲雀を見る。冴えた瞳には、悪意も、殺意も皆無だった。
 あるのは、ランチアという殻を突き破らんとする、解放を求めて止まない、天を統べる神々に怨嗟の炎を向け続ける悪しきものの叫び。
 嘗て煌々と空に輝きながら、その輝きの強さ故に疎まれ、落とされた太陽の欠片。
 火烏。
 天上の神々全てを呪い、恨み、憎み、ありとあらゆるものを焼き尽くさんと咆哮する、狂気に満ちた嘗ての――神。
 身の毛がよだつ禍々しさの中で、ランチアはいかにも重そうな鉄球を軽々と担ぎ、雲雀を見据えた。
 彼自身には感情の変化が窺えない。ただあるのは、彼が纏い、滾らせている夥しいほどの邪気、邪念。
 よくぞあんなものを、平然と受け止めていられる。浴びせられる熱風と其処に混じる穢れきった空気に渋面し、雲雀はこんな異端なものが並盛に入った時点で何故気付けなかったのかと、己の怠慢ぶりを謗った。
 とはいえ、今は盆。様々な魑魅魍魎が、神々と同じく力を取り戻し、騒ぎ立てる時期。
 そちらに気を取られ、誤魔化され、紛れられたのだとしたら、気付けなかった雲雀に落ち度はない。
 ただ、直接顔を合わせた笹川の家でも見過ごしてしまったことは、雲雀にとっては致命的であり、かつ屈辱的な失態だった。
 あそこで勘付いていられたなら、どこかで状況は変わっていただろう。少なくとも雲雀はもっと警戒を強めていたし、綱吉を祭りに連れて行く愚行にまで至らなかったはずだ。
 もっとも、それらはすべて過去の話。あれこれと、もしもだの、だった筈だの、言い出したところで、現状は一切変わらない。
 ランチアは抑揚に乏しく、淡々とした声で告げた。
「悪いが、俺の中に居る奴は、どういう事情かは知らないが、お前を殺したくて仕方が無いらしい」
「へえ……」
 これだけの熱量と質量を兼ね備えた憎悪を内側に宿しておきながら、表向きの人間部分は平然とし、冷静さを失っていない。恐ろしいまでの強靭な精神力の持ち主であり、もし出会う場所が違ったならば、雲雀は彼を強者として賞賛できたかもしれなかった。
 巡り会わせが悪かった。強い相手と戦うのは大歓迎だが、今は素直に喜べない。
 ぞわっとする気配を背中に隠し、雲雀は拐を構えて視界を広げた。
 綱吉を此の場から遠ざけてよかったと、心底思う。とてもではないがあの子を庇い、守りながら戦える相手ではない。手加減や躊躇を挟む余裕すら与えてもらえそうにない相手を前に、しかし雲雀は、言い表しようのない高揚感をも感じていた。
 ぬるま湯に浸かった平和過ぎる並盛の空気とは違う、肌を刺す殺気に高まる緊張感と興奮。遠慮不要で全力を出し切れる相手と真っ向勝負が出来る事に、喜びさえ抱いている己を自覚し、雲雀は乾いた唇に舌を這わせた。
 目を眇め、其処に在る倒すべき存在を射抜く。
 ランチアが構える。
「……咬み殺す」
 雲雀が嗤った。