夕食はまだだろうかと一階に下りると、リビングのテーブルに向かって座り込んでいる人影を見つけた。
冬場はコタツになる四角形の机に、足が痛くなりはしないのか律儀に正座をして。廊下側に背中を向ける格好で座っているので何をしているのかまでは分からないが、背筋をぴんと伸ばしている。テレビを見ているわけでもなく、リビングは静かだった。
「何してるの?」
台所を覗くと奈々が機嫌よく子供たちの相手をしながらまだ料理の途中で、暫く時間がかかりそうだと判断した綱吉はその背中に何気なく声をかけた。
「え!?」
しかし予想外に驚かれ、大仰に反応を返されて綱吉も驚く。リビングに踏み込みかけていたつま先が宙を蹴り、危うく後ろ向きに転ぶところだった。
寸でのところで堪え、改めて半身を捻り振り返っている人物を見下ろす。
色素の薄い髪の毛、日本人とは異なる肌の色、日本人ではない彩の瞳。大きく見開かれた目は焦りを交えた驚きに染まっていて、声をかけたのは悪いことだったかと綱吉は内心汗をかく。
「あ、ごめん。邪魔しちゃった?」
「え? あ、いえ、違います、沢田殿」
顔の前で手を振って、ごめんねともう一度謝る。すると我に返った風の彼が慌てて大きく首を振った。その必死ぶりが、逆に綱吉に申し訳なさを募らせる。
彼が動いたことで、机の上に置かれていたものが綱吉の目にも入った。ノートとペン、それから分厚い本――辞書のようだ。ノートは広げられた新聞の上に置かれており、体の中心からは若干位置がずれている。書き物をしている最中だったようで、ノートの端の方には随分と乱れた線が残っていた。
恐らく綱吉が声をかけた時に出来たものと、予想される。
「沢田殿は、悪くないです」
手を床について座ったまま身体を反転させ、綱吉に向き直った彼が再度言う。そのまま頭まで下げて一種の土下座状態になりかけたのを、今度は綱吉が慌てて止めた。そこまでさせる道理は無い。
「ああ、何もそこまでしなくても。俺がいきなり声をかけて吃驚させちゃったわけだし。ね?」
両手を突き出して左右に振りながら早口でまくし立てる。しかし、と困惑気味に顔を上げた彼と目が合って、つい肩を竦めた。どうも彼は色々なところで丁寧すぎて、却って扱いに苦労する。
「しかし……」
「俺がバジル君の邪魔をしたのは間違いないんだから。それより、なに? 日本語の勉強?」
これ以上堂々巡りの会話もお互い意固地になっていくだけだと予想がついて、綱吉は強引に話題を変えた。苦笑したまま身を乗り出し、机に広げられているものを再度眺める。辞書は綱吉の部屋にあったものだった。無くなっていたのに気付かなかったのも間抜けだが、恐らくは奈々かリボーンが彼に頼まれて持ってきたのだろう。新聞は、今日の朝刊らしかった。
バジルは少し照れ臭そうにしながら、机に向き直る。そうですと首肯して、ノートから転がり落ちていたペンを握り直した。そしてミミズがのたうった後のような線を見つけ、更に困った風な笑みを作る。
「喋る分には問題がないのですが、読み書きがまだ少し苦手なので。時間があるときに、こうやって」
ペンの尻でノートを小突き、顔を上げて綱吉を見上げてはにかむ。先ほど大げさなまでに驚いたのも、集中していたからなのだろう。矢張り悪いことをしてしまったと、膝に手をやって腰を屈めていた綱吉は思う。
だからひとりにさせてやる方が良いかと、立ち去るべきか考える。だがジッと綱吉を見つめていたバジルが不意に手を叩き、そうだ、と呟くので何事かと首を捻った。
「沢田殿、お時間があるようでしたら御教示いただけませんか」
「ごきょ……?」
「はい。あの、読めない漢字が多いので、教えていただけたらと……だめですか?」
綱吉は単に彼が言った言葉の意味が理解できていなかっただけなのだが、一瞬目を丸くした綱吉をどうやらバジルは誤解したらしい。尻すぼみになる声に、またしても綱吉は慌てて首を振った。最初からそういう優しい日本語を使って欲しかったと、心の中で嘆息する。
彼は母国語が日本語の綱吉より、ずっと日本語が達者だ。少々時代がかった物言いをするが。
誰に教えられたのだろう、想像したらひとりしか思い浮かばない。あの男は決してバジルのような言葉遣いはしないのに、いったいどういう教え方をしたのか。
「沢田殿?」
苦虫を噛み潰したような顔をした綱吉だが、バジルの不安そうな呼び声で我を取り戻す。
「ああ、ごめん。ん、いいよ。晩御飯までどうせ暇だし」
夕食は当分先のようだし、今の時間帯はニュース番組が多くて綱吉が見たいテレビ番組も特にない。暇を持て余していたのが正解で、バジルの申し出はむしろ願ったり叶ったりだ。頷いて返すと、途端バジルの顔がぱっと明るくなる。
「有難う御座います!」
そんなに喜ばれることでもないだろうに、とても嬉しそうに礼を言われ綱吉はくすぐったい気持ちになった。
バジルが座っている辺の右側に座り、綱吉は横から彼のノートを覗き込んだ。あのミミズの線以外は綺麗な字で、とても読みやすい。自分が授業で使っているノートとは明らかに違っていて、綱吉は乾いた笑い声をあげてバジルに不思議がられた。
どうやら彼は新聞の社説をノートに書き写し、読めない漢字は調べてルビを振り、更に意味を調べてイタリア語に直しているらしい。手間のかかる作業だ。自分がイタリア語の新聞を相手に同じ事をやっている姿を想像して、それだけで気が滅入りそうだった。
しかし上機嫌のバジルは気付かず、目が疲れそうな細かい文字を指で追いながら、口の中で何やらぶつぶつ呟いている。そして唐突に眉間に皺を寄せ、指を止めて顔を上げた。身を乗り出していた綱吉と、危うく額がぶつかりそうになる。
「うわっ、と。なに?」
仰け反って避け、綱吉もバジルを見返した。彼は一瞬ボーっとした風に綱吉の目を見て、それから慌てて下を向いた。指で新聞の社説の一文を指し示す。
「ここ、なのですが」
「どれどれ?」
促され、綱吉も身体を捻って置かれている新聞が出来るだけ真っ直ぐになるように向きを変えた。本当はバジルの横に座るのが一番良いのだろうが、ふたり並ぶのには机が少々狭すぎる。バジルが座る位置をずらして綱吉に場所を半分譲ってくれたので、綱吉は机の四隅にある脚の傍まで身体を寄せた。
新聞などテレビ欄とスポーツ欄くらいしかまともに読まないので、何が書かれているのかさっぱり分からない。しかしバジルに頼られたのは素直に嬉しくて、慣れない為たどたどしい舌使いではあるが、ゆっくりと読み上げていく。その文章は堅苦しくて、教科書を読んでいるような気にさせられた。
内容は天気予報ついでに見るニュースが時々伝えている社会問題で、バジルが分からないと言ったのは「石綿」と呼ばれるものだった。カタカナの後ろにカッコつきで書かれていたもので、綱吉も読めるものの意味が分からず顔を顰めた。
聞いた覚えがある、むしろ最近はよく聞く部類に入る単語なのだが、殆ど聞き流しているので理解は出来ていない。
「えっと、いしわた……で良い筈なんだけど」
「いしわた、ですか」
「うん。ちょっと待ってね、辞書に載ってるかな」
意味を聞かれる前に、分からないのだと白状して綱吉は腰を浮かせた。ほぼ反対方向に置かれていた辞書に手を伸ばし、自分の前に引き寄せる。開いていたのを一旦閉じて、厚めの表紙をめくった。
中学校レベルの辞書に載っているかどうか甚だ疑問ではあったが、調べてみないことには始まらない。適当にページを飛ばして、「あわ」の項目から綱吉は順次ページを捲っていく。さして興味も無い国語辞典の文言を眺めるのは退屈で、ついつい彼はバジルの前だというのに空いた手で頬杖をついた。
その光景を、バジルが姿勢正しく構えて眺めている。なんとも珍妙な組み合わせだ。
綱吉が調べている間、バジルは大人しく膝の上に軽く握った両手を置いて正座を崩さない。一方の綱吉は随分とリラックスした雰囲気で、胡坐をかき、頬杖をついて背中を若干丸めながら、不慣れな手つきで辞書を引いている。
「いしわた、いしわ……っと。あった」
当初の目的を忘れそうになるので、口の中で何度か単語を繰り返し、ページを捲る。右上から左下へ視線を流しながら目的の単語を見つけるのに、二分は軽く必要だった。普段からいかに辞書をひく作業をやっていないのか、窺い知れる。
「どれですか?」
「ほら、ここ。読める?」
机に肘を乗せて身を乗り出したバジルに、綱吉は辞書を彼の側に向けてやりながら指で目的の単語を指し示す。単純で簡潔な説明しか記されていなかったが、両手で抱えないといけないような辞書でもなし、詳細な解説を求めるのは贅沢といわざるを得ない。これで納得できなければ、バジルはもっと大きな辞書を使って自分で調べるだろう。
たった二行そこらしか書かれていない文面を読み、バジルは小さく頷いた。綱吉も流し読みしてみたものの、細かいところは理解できていない。ただそういう物質があるのか、と認識した程度だ。
だが彼には十分だったようだ。顎を手に頻りに頷いて、意味を吟味した上でノートにペンを走らせる。素早く、けれど丁寧な文字で彼なりに理解したと思われる解説を、書き写した社説の傍に残していく。
今度このノートを借りてみよう、眺めながら綱吉は思った。母国語でバジルに負けるのは悔しいし、少しばかりイタリア語にも興味が沸いてきた。日本の言葉が彼の国ではどんな風に表現するのか知りたいし、英語を習うよりも身近に喋られる人がいる分、親しみも抱きやすい。
それに日本には、習うより慣れろ、という慣用句まで存在する。
「分かった?」
「はい。有難う御座います、沢田殿のお陰です」
バジルがペンを置くのを待って問いかけると、すっきりとした表情でバジルは嬉しそうに頷いた。そしてまたしても両手を膝に乗せ、丁寧にお辞儀をする。額が机の天板に当たりそうな位置まで頭を下げて、たっぷり二秒停止してから彼は顔を上げた。
たいした事をしたつもりはなかったので、綱吉は困った風に照れ笑いを浮かべ頬を掻いた。
「いやまぁ、なんていうか。俺なんかで良ければいつでも聞いてくれていいから」
目を細め、にこりと微笑む。つられるように瞳を細めたバジルもまた、微笑みながら「はい」と頷いた。そして早速、新聞に指を伸ばし、先ほどの続きを指し示す。どうやら彼にとっては難解な文章が続いていたらしい。
綱吉が再び身を乗り出そうとするので、今度はノートを浮かせ、バジルは新聞ごと綱吉に渡してくれた。受け取り、端を折って必要な場所だけを前にし、綱吉はまた肘をつく。
「ええと、なになに? アスベスト(石綿)の主因となる中皮腫の多発も、登録制度があればもっとはや、早く把握できたとの指摘もある。基本法は国と自治体に癌患者のり……りかんじょうきょいてっ!」
音読もそういえば得意ではなかった。今頃思い出した綱吉は、堅苦しい文章を読む最中に勢いよく噛んでしまった。持っていた新聞も手放し、じんじんと痛みを放つ舌をいっそ切り取ってしまいたい心境に駆られ、涙目で斜め上方の天井を睨み付ける。
「沢田殿!」
バジルもまた突然悲鳴を上げた綱吉に驚き、膝から上を浮かせて綱吉を覗き込んだ。涙目の綱吉と、元から赤いのだけれど、更に赤みを増している舌とを交互に見比べる。
この時のバジルは、綱吉の叫びに動転し、かなり焦っていた。
「だ、大丈夫ですか!? 包帯……違う、絆創膏、消毒、ええとええと、どうすれば」
綱吉が痛がっているのを前に本気で狼狽し、頭を抱えて左右をうろうろと見回す。しかし自分の住み慣れている家ではないので救急箱がどこにあるかなど知るはずもなく、ましてや患部は舌だ。通常の怪我と同じ対応をするわけにもいかない。
どうしよう、と真剣に悩んでいた彼に、不意に過去の記憶がよみがえる。いつの出来事だったか忘れたが、綱吉の父でありバジルの師である男が、豪快に笑いながら言ったことば。
冷静に考えればそれはおかしいと分かるだろうに、今のバジルにその余裕は無かった。
一方の綱吉はというと、口を開けて噛んだ舌を外に出していたからか、外気に触れて痛み自体は少しずつ収まりだしていた。まだジンジンしているけれど、我慢できないほどではない。もう少し時間が経てば完全に痛みも消えるだろう、血が出るまでは強く噛んでいない。
ただバジルに説明できるほどには回復してはおらず、痛みを堪えて目を閉じてもいたので、目の前の彼がどんな行動を起こそうとしているのか事前に察知出来なかった。唐突に左右両方の上腕部を強く捕まれ、身体を引き上げるようにして机の方へ引っ張られる。何事か、と目を開けるともうそこには壁のようなものが迫っていて、反射的にまた目を閉じた。
一緒に引っ込めようとした舌に、柔らかく、それでいて生暖かいものが触れる。
他人の体温に、咄嗟に身体を引こうとしたけれど両肩をがっちり固定されていて叶わない。気持ち悪さに眉を寄せ、息を止めて堪える。だが柔らかなそれは綱吉の舌を絡め取ると表面を撫でるようにゆっくりと動き出した。
怯え竦んだ綱吉の舌を絡め取り、窄められた先端を包むようにして吸い、逃げようとする綱吉を追いかけてついには彼の口腔内へ潜り込む。
「んむっ…………ぁ、っんん」
次第に頭にも血が上ってきて酸素が足りない。必死に逃げ回って塞がれた口の隙間から息を吸う。その間にも囚われた舌は時に優しく、時に乱暴に愛撫を受け続けていた。綱吉の目尻に痛みからではない涙が浮かび、飲み込めない唾が苦しさを増長させる。顎が上向き、震える身体が熱を帯び沈んでいく。
唾液の絡む音が耳に響く。水音と、水分を表面に浮かばせているものを吸い込む音が、綱吉の脳髄に直接響き渡って背筋が震えた。逃げたいのに身体が動かず、力が段々と抜けていく。崩れそうな身体を支えるものが欲しくて、綱吉は目の前にあるものに手を伸ばした。柔らかい布に指先が滑る。
これはなんだろう、と靄のかかる頭で考える。ちゅ、という音が口元から聞こえ、恥かしさに頬が染まった。薄く瞼を開き、綱吉は漸く世界を見る。白い肌に薄茶色の睫。髪の色と一緒なんだなと、ぼんやりしたまま思った。
「んぁ、はっ……あ」
絶え絶えになる呼吸を合間に挟み、しつこいくらいに攻撃は止まらない。呂律が回らなくて噛んでしまった時の痛みはとうになく、しかし変わって痺れるような痛みに背筋が震える。絡み合った舌を伝う唾液を飲み干せず、薄く開いた唇の隙間から溢れさせる。
仰け反らせ、無防備に晒した喉。浅く上下するそこを、自分のものではない指先が撫でて零れた唾液を拭っていく。くすぐるようにして動かされる指に、言い表せぬ感覚が皮膚を覆い尽くす。藻掻くように首を振れば、今度は顎を捕まれてより奥深く、舌の付け根にまで侵入者が綱吉を責め立てる。
「んっ」
鼻で息をする時に漏れた彼の声に、綱吉はまた目を閉じた。普段聞いているものとは違う、色の混じった吐息に肌が粟立つ。自分が立てる声ですら聞いていられない程上擦っているのが分かるから、綱吉はぎゅっと瞼を閉ざして目の前で己を捕らえている男の服を握りしめた。
どうしてこんな事をしているのだろう。薄ぼんやりする意識の中で再び考える。
舌を噛んだ。読み慣れない新聞の社説を読み上げている最中に。油断していたのもあってかなりの勢いで噛んでしまったから、相当痛かった。だから舌を出してまで痛みを堪えていたら、不意に視界が暗くなった。
そして気付けば、この状態。
ちゅくちゃくと水音が咥内で跳ねて響く。耳からではなく、直接神経に触れる音に耳の先まで真っ赤になって、綱吉は溺れそうな唾液の海で懸命に呼吸を繰り返した。
水面に浮き上がった金魚のように口を開けば、尚更交わりが深くなり、啄まれるというよりはむしろ貪られている状態に近い。
「はっ……ん」
一瞬離れた上唇の隙間から、どちらともつかない声が漏れる。艶を帯びた吐息に、直ぐさま空間は塞がれて僅かな距離も一瞬で埋め尽くされる。
食い尽くされる。本気でそう思った。
「んぅ……あ。ん、だめ……」
舌の先が完全に痺れ、吸い尽くされて感覚も遠い。自分の身体ではないようで、このままぐちゃぐちゃに溶けていってしまいそうだ。堪えきれない涙が頬を伝い、気付いた彼が首を傾けた。久方ぶりに口元が解放され、新鮮な空気が綱吉の喉を通り抜けていく。
生暖かな感触が今度は頬に走り、顎の辺りから目尻にかけて下から上へ、ゆっくりと涙を舐め取って行く。口腔内に残っていた唾液を数回に分け、しゃくりをあげるように飲み下した綱吉は、閉ざしていた瞼をゆっくりと持ち上げた。
しかし完全に開ききる前に、再びバジルの唇が降りてくる。今度は、触れあうだけの口づけを。
「ん……」
綱吉の額にバジルの柔らかな髪が触れる。先程までの荒々しいキスとは違う、軽い感じの柔らかな触れ方に、綱吉は自然また目を閉じて彼を受け止めていた。ちゅ、と甘い音が小さく響く。
頭の芯がぼうっとしている。身体全体がふわふわしていて、今にも空へ舞い上がりそうだった。
両頬をバジルの手が柔らかく挟んできて、薄目を開けると彼の赤い濡れた舌が、やはり真っ赤になっている唇の上にはみ出ていた。つられるように綱吉もまた唇を開き、首に角度をつける。再び迷い込んできたバジルの舌に舌を絡み取られ、合わさった唇は深く、深く交じり合う。
どうして自分たちはこんなことをしているのだろう。僅かに残っていた冷静な部分が考えを巡らせる。けれど、バジルの手が頬を撫で、次いで右の耳をくすぐり襟足を撫でて項へと降りていき、そちらに意識が向いてしまうと、もうだめだった。
しなやかな指が綱吉の首根を彷徨う。シャツと素肌の間に紛れ込む空気が熱い。更に綱吉へ近づこうとしたバジルの身体が、間に挟まっている机に邪魔されてぶつかる。ガッという衝撃が綱吉にも届いた。下方では半月版の周辺がぶつかりあい、胡坐をかいていられなくなった綱吉はもぞもぞと下半身を動かして足を伸ばした。膝の内側に、バジルの膝が潜り込む。
後になって冷静さを取り戻してからバジルは、この時間に机があって良かったと心底思ったらしい。曰く、障害物がなかったらどうなっていたか分からない、と。
聞いた綱吉は耳の先まで真っ赤になって、もはや笑うしかないという感じで笑っていたが、バジルだってまさかそこまで自分が暴走するとは思っていなかったのだろう。ただこの時ふたりは、お互いに机を邪魔だと感じていた。
「はっ……ぁ、さわだ、どの……」
熱に浮かされたようなたどたどしい呼び声に、綱吉は矢張り体中を駆け巡っている熱に浮かされながら目を開ける。僅かに開きが出来ていたお互いの顔の間には、根元まで絡み合った二人分の舌が露出していた。それがゆっくりと、頭の動きに合わせて離れていく。綱吉の先端を撫でたバジルとの間に、細く透明な糸が走った。
ふたりしてその糸を見つめる。やがて張力に耐えられなくなった糸が音も無く途切れた。飛び散った唾液が互いの口元に、その思いがけない冷たさに綱吉は目を丸くし、バジルもまた驚いた風に数回瞬きを繰り返した。
視線が合う。その距離、僅か十センチにも満たない。まるで今頃になって初めて、そこに相手がいることに気付いた顔をして、ふたり。
「え……」
「あ……」
声が出なかった。
赤くなっていた綱吉は更に湯気が立ちそうなほど赤く、バジルもまた茹で上がったばかりの蛸のように真っ赤になって、けれどふたりして相手から視線をそらすことも出来ずに見詰め合う。何か気の利いたことばひとつでも言えたらいいのに、生まれて初めての体験に困惑が先立った。
思い描くのは、つい今しがた自分たちがやっていた行為。恋人同士が繰り広げるような、濃密な時間。
綱吉の左薬指が無意識のまま己の唇に触れた。艶めかしく、他人の唾液に濡れた唇を、ゆっくりとなぞりあげる。
先に我に返ったのはバジルだった。綱吉が薬指を動かす様に、弾かれたように飛び跳ねて後ろへ下がる。明らかに動揺していると分かる動きで、文字で表すならば右往左往、そのもの。あたふたと視線を泳がせながら閉じるのを忘れた口を手で覆い隠す。
「え、あ……いえ、あの、ですから、そのなんていうか、怪我は舐めておけば治ると以前親方様が言っていたので、だからあの、えっと……」
身振り手振りで当時の状況を思い出しながらバジルは一所懸命言い訳がましく説明を展開するが、綱吉にしてみればいつも冷静沈着で大人しい彼がこうも狼狽するのを見るのが珍しくて仕方が無い。あの父親ならそう言いそうだと、常日頃から無責任ぶりを発揮している実の父親を思い浮かべ、綱吉は頭を掻いた。
しかしバジルはそうやって苦笑している綱吉を見て、もっと違うものを想像したようだ。突然両手を床について頭がぶつかりそうな勢いで謝ってきた。
「本当に申し訳ありません!」
その必死な声に、綱吉は余計に困ってしまう。
「いや、あのさ。なにもそこまで謝らなくても……」
ひとまず彼の頭をあげさせなくては。そう思って綱吉は机から脚を引き抜いて彼の方へ座ったままにじり寄る。しかし気配を間近に感じても顔を上げようとしないバジルに、綱吉は心底疲れた溜息を零した。
「えーっと、ね……なんていうのかな。その、そんな風に思いっきり謝られちゃったりすると、俺としても、その、……ちょっと傷つくんだけど」
言っている最中で自分が何を言っているのか分からなくなる。視線を宙に飛ばし、胸の前では行き場の無い両手が互いの指を絡めてもじもじと動き回っている。視線の先は一定せず、ちらちらと横目でバジルを窺っては、気付かれる前に逸らす繰り返し。
落ち着かない。心臓がさっきから耳に五月蝿い。バジルの顔を真っ直ぐに見返せなくて、綱吉は言葉を捜しながら天井のシミを数えていた。
「傷つく……ですか?」
「いやー、うん。まぁ、その……バジル君が俺のこと心配してくれてたわけだし。別に悪いこと……されたわけじゃないし。ね?」
我ながら苦しい言い訳だとは思う。だがこのまま放っておいても、バジルがどんどん沈んでいくばかりで埒が明かない。それに、と綱吉は一呼吸置いて、漸く顔を上げたバジルを見据える。顔はまだ、赤い。
「ちょっと吃驚したけど、気持ち悪いとかそういうの、なかったから。なんていうか、むしろ気持ちよ……」
最後を言いかけて、はたと我に返る。言われた瞬間きょとんとしたバジルが、間をおいて耳の先まで再び真っ赤に染まった。それを待って綱吉までもが、自分の今の台詞を振り返って全身から湯気を立てた。もっと漫画的に表現するなら、頭の上で火山が爆発したような、本当にそんな感じで。
「えぇえええぁぃぇえと今のはちょっとそのアレだからあれなわけで」
言葉のあやだと言いたかったけれど舌が回らずことばにならない。バジルもまた膝の上で両手を置いて、けれど若干前のめりになって赤い顔を床に向ける。ふたりして向き合って座りながら、お互い斜め前の床と相手の膝元ばかりを見ている。
何をやっているのだろう、と本気で思った。
「ツッ君、バジル君、ご飯出来たわよー?」
そこへ、天の計らいか。食事の支度を終えた奈々が廊下で叫んだ。彼女は恐らく綱吉が二階の自室に居るのだと思っているのだろう、階段下まで来ているもののリビングまでは覗いてこなかったのも幸いした。きっと今この場に来られて、揃って赤くなっている理由を聞かれても答えられない。答えられるわけがない。
顔を上げた綱吉は返事を返そうとして、同じく顔をあげていたバジルと真正面から向き合ってしまった。
「あ、えと、ご飯だから」
「そっ、そうみたいですね」
非常にわざとらしく、ぎこちない会話で乾いた笑い声をたてて場を誤魔化す。あははは、と背を反り返して大袈裟な素振りをして、それから二人揃って盛大に溜息をついた。
「行こうか」
「はい」
ひとまずこの件は、置いておこう。考えたところで支離滅裂になるだけだし、すぐに結論やそういったものは出てこない。そもそも、結論を見出すとして一体それは何に対してなのか。
綱吉はバジルを見上げた。
「あっ」
その、ちょうど立ち上がろうとしていた彼は、しかしあろうことか膝を立てたところで急に顔を顰めバランスを崩した。綱吉身構える間もなく、前方に倒れこむ。避ける余裕も無かった綱吉は咄嗟に彼を受け止めようとしたが、本来運動神経とは無縁の彼、上手くいくはずもない。両手を真っ直ぐ前方に突き出したまま、後頭部から床にぶつかった。ごちん、といい音が響く。僅かな間をおいて、綱吉の顔の真横にバジルの白い腕が落ちてきた。肘を床に突き立てて正面衝突の回避を狙ったのだろう、反射的に目を閉じた綱吉の頬を風が、そして柔らかい髪が続けざまに通り過ぎていった。
間近に息遣いを感じる。
「すみませっ……足が、痺れ、て……」
ぶつけた後頭部の痛みを堪えながら右目だけをあけると、とても近い位置にバジルの顔があった。サラサラの髪の毛が両側に垂れ下がって揺れている。真下から改めて見上げると、彼は本当に整った顔立ちをしていて、純粋に綺麗な人だと思った。
驚いているような、焦っているような、何かを押し殺している彼の表情に、綱吉は大丈夫だから、と無理に笑顔を作って返してやる。ずっと正座をしていたのだから、痺れてしまうのも無理ない。彼を受け止めようとしてすり抜けられてしまった綱吉の手は、力を失ってバジルの背中に落ちる。出来る限りそっとした動きを目指したのだが、出張っている背骨の辺りで手首を交錯させた瞬間、彼はびくりと全身を振るわせた。
瞳が宙を泳ぐ。顔は綱吉に向けられたままなのに、視線だけが彼を避けて床の上を行ったりきたりしていた。
「ああ、ごめん」
彼の緊張に気付いて綱吉は軽く笑いながら手を浮かせようと腕に力を入れた。しかし、
「いえっ、あの、すみません」
弾かれたようにバジルが綱吉の目を覗き込み、必死な様子で謝ってきた。そしてまた、心の迷いを表してか、横を向く。頬が赤く染まっていた、天井を背にしているのと顔の両側に髪の毛が下りているからだろう、僅かに表情が暗く感じられる。
彼は首を横向けたまま、瞳だけを動かして綱吉を見た。
「すみません、その……」
目が合えば即座に逸らし、けれどまたソロソロと見つめてくる。綱吉の顔すぐ外側にあるバジルの手が僅かに動き、指先が髪に触れる。音を響かせぬまま彼の唇が動く。
このままで。そう読み取れる動きに、綱吉は腕の力を抜いた。
「いいよ」
唇が勝手にそう音を刻む。無意識に出たことばに自分自身驚きながら、しかし綱吉は意識してもう一度、同じことばを繰り返した。
「いいよ……」
心臓が早鐘を打つようにドクドクと波打ち、耳に五月蝿い。彼に聞こえやしないだろうかと不安になる。
バジルは綱吉の声に僅かに目を見開き、それから花が咲くようにふわりと、嬉しそうに微笑んだ。
「……はい」
目を細め本当に嬉しそうに笑う彼を見て、綱吉もまた心が温かく、嬉しくなる。
綱吉のそれよりも薄い色の髪が首筋を撫でた、喉元に飢えた獣に似た息遣いを感じる。急所である喉仏を舐められる感覚に身震いし、綱吉は目を閉じた。
すぐそこに人がいる気配がした。夕食に呼ばれたのに返事もしない自分たちを探す奈々だろうか。廊下側からは机が視覚になってすぐには気付かれないとは思う、だが綱吉はぎゅっと腕に力をこめた。察したバジルが、小さく笑いながら身を寄せる。
どうか、どうか気付かれませんように。そう祈りながら目の前の温もりに縋り付く。バジルもまた、綱吉の頭に手を添えて引き寄せながら強く祈っていた。
どうか、どうか。
この想いが恋ではありませんように――
この想いが、彼の行く道の妨げになりませんように――――