魂祭 第四夜(第一幕)

 昔、むかし。
 遠い、とおーい、昔。
 昼にお陽様が消えた日に、子供が産まれた。
 大声で泣きじゃくる赤ん坊は、珠のような男の子だった。
 けれど昼に関わらず日の光が途絶えた刻、母親の命と引き換えに産まれ来た赤子は、一族の長より不吉な子、不幸を招く子として拒絶され、幽閉された。
 それから一年と少しした、陽の光も眩い刻。
 同じ屋敷で、もうひとり、赤ん坊が産まれた。
 元気良く泣く赤ん坊を誰もが歓迎し、諸手を挙げてその誕生を祝った。一年前の暗がりの日、赤子の泣き声以外屋敷中がしんと静まり返った記憶は、最初から無かったものとして消し去られ、先に産まれた赤子の話題を口にする者はひとりとしてなかった。
 陽の子は皆からの愛情を一身に受けてすくすくと成長し、闇の子もまた人知れず、光を知らず、ただ魂が求めるままに生き長らえた。
 互いに互いを知らず、折り重なりあう筈のない時は、けれど如何なる因果か、縁か。
『きみ、だあれ?』
 あどけない手は無邪気に差し出され、闇はその光の眩さを知る。
 己がいかに暗き中にあり、相手がいかに輝きの中に在るかを知らされる。
『どうしてこんなところにいるの?』
 問いかけには何一つ答えられず、ただその琥珀の瞳の美しさに見惚れ、一瞬で心奪われた。
 ふたりを隔てる重き檻は決して解き放たれることはなく、けれど伸ばし触れた頬の柔らかさと暖かさに、己が生きていることを如実に知らされて涙を流した。
『あ、わかったー。わるいことして、おしおきなんでしょう。だめだよー、いたずらしちゃ』
『ちがう。ずっと、ここにいる』
『どうしてー? おそとであそぼうよ』
『でられない』
『じゃあ、おじいちゃまにだしてっておねがいしてきてあげる!』
 眩しくて、きらきら綺麗で。たったひとつの、宝物。
 ほかに何も要らない、誰もいらない。君さえいれば、ほかになにも欲しくなかった。
『うえっ、ひっく……ひっく』
『どうしたの』
『だって、だって、おじいちゃまが、だめだって』
『なかないで。へいきだから』
『でも、でも……』
『おこられたでしょ。ぼくは、ここからでられない、でちゃだめなんだって。だから、もうあいにきちゃだめ』
『ちがうもん、そんなのかんけいないもん!』
 僕なんかのために、目を真っ赤に腫らせて泣いてくれたのは君だけだった。だからこそ君は笑っていて欲しかった。会えなくなるのは辛いけれど、僕に会えば君が怒られるのは分かりきっていた。
 不幸を呼ぶ子、闇を招く子。そう呼ばれ続けた僕に関わることを、一族の存亡を担う君が許されるはずが無い。
 けれど君はとても頑固で、こっそり、ひょっとしたら皆諦めていたのかもしれないけれど、時間を見つけては僕に会いに来てくれた。
 色々な話をした。外に出られない僕の為に花を摘んで、動物を連れ込んで。
 生きた蛙を見せようとして、途中で逃げられて大騒ぎをした事もあった。暗い檻の中を飛びまわる蛙に、初めて僕は心の底から笑ったのかもしれなかった。
 僕には時間が有り余っていたけれど、君はとても忙しいようだった。舞の稽古が嫌いだと言って、僕がいる檻に皆近付きたがらないのに気付いたからか、時間になるとよく隠れにきていた。見せてくれと頼んだけれど、結局、最後まで見せてもらえなかった。
 勉強もした。最初は君が先生だったのに、いつの間にか僕が教える役になっていた。
 檻には結界が張られて、術は発動しないよう仕向けられていたけれど、本は沢山読んだ。君が貸してくれた本は全部、隅から隅まで読み解いて、頭の中に叩き込んだ。そんな事をしても外に出られなければ意味がないと知っていても、たまに訪ねて来てくれる君と話す以外何もすることがない僕にとっては、本の中の世界に浸る以外、道は無かった。
 君は度々、長にかけあって僕を檻から出すよう懇願してくれていたみたいで、答えは最初から分かりきっているのに、ちっとも諦めようとしなかった。
 僕はこのままでも構わないと言っても聞かなくて、悔しいと僕の為に泣いてくれた。
 嬉しかった。
 君が僕だけの為に大事な時間を削ってまで何かをしてくれるというのが、とても贅沢に思えて、幸せだった。
 それなのに。
 時が過ぎ、季節が巡り、初めて僕が君を見つけ、君が僕を知ってから数年が過ぎた頃。
 数日顔を見ないと思っていた君が、興奮した様子で階段を駆け下りてきた。暗がり、灯りも持たなくては慣れていても当たり前だが足元は危ない。案の定転んで、みっともなく鼻を潰した君は、それなのにもの凄く楽しそうだった。
 何か良い事があったのだろう、僕は顔を上げて君を待ち構えた。
『聞いて! あのね、すごく……凄く綺麗な人に会ったんだ!』
 檻を挟み、向き合った僕の耳に君の弾んだ声が響き渡る。久方ぶりに見た君に口元を綻ばせていた僕は、急速に顔から表情を消していったのに、君は少しも気付きはしなかった。
『綺麗、っていうのは変? 男の人なのに失礼、かな。でも本当に、綺麗な人だったんだ』
『……』
『笛がとっても上手なんだ。神様に……初めて会ったよ』
『神』
『うん!』
 嬉しげに目尻を下げた君の、心からの笑顔が忘れられない。
 今まで僕のためだけに笑っていた君が、僕の知らない、僕の届かない場所にいる奴に向かって笑っている。僕に向ける以上の、きらきらと眩しいばかりの笑顔を浮かべている。
 それからの君は、僕を前にしてその知らぬ誰かの話ばかりを繰り返した。今日は何処で会った、今日は会えなかった。どんな事を喋った、どんな楽を奏でてもらった。何を教えて貰ったか、何処へ連れて行ってもらったか。
 僕に話すことでその時の記憶を呼び覚まし、桜色に頬を染めてまた笑う。君の琥珀色の瞳に映っているのは僕なのに、君が見ているのは僕じゃない。こんな屈辱は初めてで、けれど檻を出られない僕は何も出来ないと同じ。
 曖昧に笑い返し、相槌を返し、良かったねと囁いて。君が笑うたびに僕は、心で、泣いていたんだ。
 知らなかっただろう、気付きもしなかっただろう。
 僕の心の中を、真っ黒い闇が覆う。あの日君が照らしてくれた光は、もう、何処にも残っていない。
『あのね、あのね。今日は金色の人に会ったんだー』
『金色……?』
『うん。おともだち、なんだって。でも違う、って言ってた。どっちだろ?』
 指を唇に押し当てて考え込む君に、裏切られた怒りが蓄積していく。君は何も知らぬままで、最初に会った時の綺麗さのままで、だから余計に哀しくて、悔しくて、どうして僕は此処にいなければいけないのかをずっと考えていた。
 闇の中で生まれたから、どうだというのか。
 僕を鎖に繋いだのは誰だ。
 僕を此処に閉じ込め、僕から光を奪ったのは何故だ。
 不幸が怖いか、死ぬのが恐ろしいか。
 僕はひとり、底知れぬ闇の中で死よりも深き世界に身を浸して来たというのに。
 全てが憎い、すべてが恨めしい。
 怨嗟の炎が魂を駆り立てる、憤怒の炎が身を焦がす。
 ならば、すべてを薙ぎ払え。僕からすべてを奪っていった者たちに、復讐の刃を。
『――霧……』
 どうして、と問おうとした君の柔らかな唇から、真っ赤な血が溢れ出す。
 その様を僕は、とても美しいと思った。
 簡単だった。長年に渡って僕の中で蓄積された厖大な知識は、僕に容易く報復の手段を導き出してくれた。僕の中にある霊力が、結界の術者を上回っていると気付いた時にはもう既に僕は外に居て、燃え盛る屋敷と二度と動かぬ屍を見下ろし、貧弱な輩を嘲笑していた。
 今まで僕を蔑ろにし、侮辱し、顧みずにいた連中が、呆気なく朽ち果てていく様は実に滑稽で、愉快でならなかった。
 同時に、彼らが何を恐れていたのかも知った。彼らは、僕のこの力を恐れていたのだ。僕が彼らに牙を剥き、その喉元に噛み付いて切り裂くのを畏れていたのだ。
 まさにこの瞬間の、この状況が起きるのを憂いていたのだ。
 そして回避できなかった。
 なんて愚かしいのだろう、人間は。実に醜く、痴鈍で、脆弱で。
『ど……し、て……』
 ずっとこうしていたかった。君を思う存分抱き締めて、僕だけの君にしてしまいたかった。
 生まれて初めて手にした君の心臓は、とても暖かく、思っていた通りの綺麗な緋色だった。
 君が息をする度に赤みを帯びていた頬は白さを増し、苦しげに表情は伏せられる。驚愕から哀しみに変わっていく琥珀を見下ろして、僕は嘗て無いほどの充実感を胸に抱いていた。
『貴様!』
 本当は君が寂しくないように、全部を闇に葬ってやるつもりでいた。けれど、悔しいかな僕にはまだ少し、力が足りないようだった。
 屋敷の人間は、触れれば簡単に折れた。でも君を僕から奪い取っていった奴はそうはいかなくて、僕は諦めるしかなかった。
『――雲、やめろ。そんな事をしたらお前が!』
『構うものか。死なせはしない、失いはしない。この子なくして僕に、僕が、神座に固執する意味などありはしない!』
 君が九死に一生を得たとは風の噂で耳にして、僕は安堵と同時に深い憎しみを覚えた。
 君を殺し損ねた屈辱感、君を救ったのがあの黒髪の男だという事実。何処まで僕から君を奪えば気が済むのだろう、あの男は。
 許さない、許しはしない。必ず君を、取り戻す。
「もうじき、叶いますね」
 遠く響く太鼓と鉦の音に耳を傾け、風に煽られた髪を梳いて呟く。
 願いは果たされる。
 漸く、長き時を経て、ついに。
 愛しい君を、再び、この手の中に。

 祭囃子が賑やかに里を駆け抜けていく。
「おー、やってる、やってる」
 額に手を添えて庇代わりにした山本が、背伸びをして遠くを見やり、嬉しげに顔を綻ばせた。
「なんなんだ、ありゃ」
「魂祭りの神幸だよ」
 傍らに佇む獄寺が、山本と同じものを見下ろして呟く。返事は即座にあったが、耳慣れぬ単語に彼は顔を顰め、遥か前方に広がる村の中心をゆっくりと、そして騒がしく行進する集団に肩を竦めた。
 先頭に榊を据えた幡が掲げられ、持った若者が威勢良いかけ声と共に上下左右に振り回していた。
 緋色と金の派手な衣装を纏って化粧をし、顔は白粉で真っ白に塗って、紅を頬と唇にさした村の童子がふたり、続く神輿の前を行く。但し彼らは地面に足がつかぬよう、それぞれ父親の肩に担がれて、自分で歩きはしないのだ。
 太鼓に鉦、笛が賑やかに楽を奏で、村人が行列の周囲を取り巻いて口々に囃し立てている。光景は遠いが騒々しい声は沢田の屋敷前にもしっかりと届き、門前から見下ろす獄寺はよく分からない、と首を捻った。
 綱吉は朝から忙しく動き回り、彼を支える雲雀も朝食さえ取らずに村中を走り回っている。山本は良いのかと窺えば、彼は今年、本当はこの季節に戻ってこられるかも分からなかった為に役を外されていて、することがないのだと笑った。
 奈々も村の女性らと仕出しに勤しんでおり、ふたりは目下身を置く場所がなくて居心地の悪さを共有している。出来ることなら一緒にいたくはないのだが、山本がいないと並盛村の事がなにも分からない獄寺は、渋々彼に倣って山の中腹から南に向かって広がる里の光景を眺めていた。
 村はずれの広場には、昨日まで無かった櫓が組まれようとしていた。あれは昨日訪れた旅芸人一座が使う一夜限りの舞台で、山本の説明ではそれ以外に、村人が里神楽を奉納する舞台も既に用意されているのだとか。それは南の端にあり、彼らが立つ並盛山とはちょうど正面向き合う格好だった。
「見えねえな」
「ま、遠いしな」
 行列の中心である神輿は、並盛神社の急な石段を降りて村中を練り歩き、里神楽の舞台前に設けられた御旅所を目指す。そこで今宵を過ごし、明日の夕暮れを待って再び並盛神社へと戻って来るのだ。
 魂祭り自体は厳かに、祖霊への感謝を込めて厳かに行われるが、その前後の賑わいは朝から獄寺も圧倒されるほど。普段は静かな里がまるで他所へまるごと引っ越そうとしているかのような慌しさと騒々しさに、本当に昨日までの村と同じ場所なのかと目を丸くさせられた。
 日々農作業に勤しみ、慎ましやかに過ごすだけの村人も、様々に心内に抱えるものはある。それらを一気に発奮させているのだと山本に言われれば、そういうものかと頷くほか無い。
「お前って、本当なんにも知らねーのな」
「うっせえ。ほっとけよ」
 袖口に手を交差させて入れ、腕を組んだ山本が呆れた様子で笑うのを跳ね除け、獄寺は地団太を踏んで自分の無知ぶりに自分で腹を立てた。
 もっとも、彼は生まれも育った環境も特殊で、最初からこの村で生まれ育った山本とは違う。知らないことは聞いて、覚えていけばいいのだと慰めの言葉をかけらえても素直に頷けず、彼はわざとらしく話題を変えて背伸びをし、行列の中に見知った人の姿を探した。
「あれ、山本に獄寺君。どうしたの、そんなところで」
 しかし探していた人物の声がすぐ真後ろから聞こえてきて、吃驚仰天した獄寺は前に傾けていた姿勢を崩してその場でおっとっと、と片足で飛び跳ねた。
「うわ、あぶねっ」
 気付いた山本が咄嗟に手を伸ばし、彼の首根っこを捕まえてくれなければ、本当に倒れて石段を飛び出し、木々生い茂る急斜面を滑り落ちるところだった。声をかけた綱吉も肝が冷えて、山本に引きずられてじたばたと暴れながら尻餅をついた獄寺の無事な姿に、ほっと胸を撫で下ろす。
 両手の平に砂利の感触を受け止め、自身も冷や汗を流した獄寺は数回瞬きを繰り返した後、大きく息を吸って吐いてから傍らの山本を見上げ、ゆっくりと腰を捻って背後を振り返った。綱吉と目が合って、何故彼が此処に居るのだろうか不思議そうに首を捻る。
 見上げられた綱吉も、彼が何を驚いているのか疑問を抱いた様子で大粒の瞳を細め、走って来た所為で額に浮いた汗を指で弾き飛ばした。
「十代目?」
「うん、なに?」
 白の袍に同じく白無地の差袴。外した冠は手に持って、素足のまま乾いた地面を捏ねた綱吉が獄寺に聞き返すが、その見慣れぬ格好にまた目を瞬かせた獄寺は、質問事項も忘れて彼の格好をじっと見詰めた。
 一直線な視線に気付いた綱吉が、照れ臭そうに舌を出して袍に垂れる紐を揺らす。
「ツナ、終わったのか」
「うん。まだ細々した片付けは残ってるけど、とりあえずこっちのは終わったよ」
 彼は魂祭りの神事で朝から席を外したままで、獄寺が目を覚ました時には既にその姿は屋敷に無かった。本当は様子を見に神社へ出向いても良かったのだが、村人が大勢詰め掛けている中に足を運ぶのに気後れして、結局出来なかったのだ。
 神事という話だったので、綱吉は今日一日中神社に詰めるか、神輿と一緒に御旅所まで出向くものとばかり思っていた彼にとって、今この場に綱吉が居合わせている現実はにわかに信じがたいものであり、地面に腰を落としたまま獄寺は呆然と口もあけて、間抜けな顔を作っていた。
 ぽかんとしたままの彼とは会話になりそうになくて、綱吉は山本に視線を移し変えて彼の問いに頷く。ひと仕事終わったと嬉しそうに目を細め、若干疲れた肩を交互に揉み解した。
「そっかー。んじゃ、少し時間出来たな」
「だね」
 やっとご飯にありつける、と本来食事とは無縁なくせにそう嘯いて、綱吉は手にしていた冠を頭に被せた。
 紐は結ばず、ただ載せただけ。当然彼の強情な癖毛にあっという間に跳ね返されて、一度弾んだ後右に傾いて地面へ落ちた。
 何をやっているのかと山本が笑い、漸く起き上がった獄寺が足元に転がって来たそれを拾って渡してやる。礼を言って受け取った綱吉は、もう一度同じ事をして同じ結果を導き出し、今度こそ獄寺も笑った。
「何をやってるんですか、十代目」
「えー……変?」
「いえ、そういう意味では」
 冠で遊んでいることを言ったつもりなのに、綱吉はその格好自体を差したのだと勘違いする。腕を揺らして自分の姿をまじまじと見下ろした彼に苦笑し、しかし矢張り格好自体も気になっていた獄寺は、そのまま質問を続行させた。
「あー、えっと。まだ神事の最中なのでは?」
 祭囃子は風に乗ってまだ里から届けられている。神輿の神幸も大切な祭事のひとつだ、綱吉が係わり合いを持たないわけがない。
 けれどその綱吉はあっけらかんとして首肯し、その後直ぐに否定した。
「そうなんだけどね。御神体を神輿に預けたら、それで今日の俺の役目はお終い。あとは明日、戻って来てからだよ」
「え、そうなんですか?」
 思いもよらない綱吉の返答に獄寺は素っ頓狂な声をあげ、何故か、と立て続けに質問を繰り出した。
「それは、えーっと……なんでだっけ」
 綱吉は一瞬言葉に詰まって返事に窮し、視線を泳がせた。
 理由を聞かれても、昔からそうだった、としか言えない。里に伝わる古い慣習をそのまま継続させているだけで、今のような形式が出来上がった経緯まで、考えた事もなかった。
 山本も、神幸や里神楽には関わった経験があるものの、神渡しの神事への知識は皆無。勿論村の祭りにどんな由来があり、歴史が隠されているのかはある程度伝え聞いているものの、年に一度だけの祭りを楽しむのを優先させて、まるで気にしてこなかった。
 綱吉に視線で問いかけられても、自分だって知らない。首を振って返した山本に綱吉は落胆の表情を浮かべ、顎を撫でて考え込んだ。
 聞いた気もするが、思い出せない。幼い頃は家光について神事の内容や手順を覚える方に必死で、それどころではなかったから。
「えーっと」
「並盛神社の系譜は、一度途切れているんだよ」
「ヒバリさん」
 いったいどこから現れたのか、気付かぬうちに綱吉の斜め後ろに雲雀が立って、黒髪を温い風に揺らしていた。
 綱吉と同じ白の上衣に、袴は薄い青。冠はなく、ただいつもは雑に乱している髪に一応櫛が通されているようで、日頃耳を覆い隠す両横の髪の毛も耳に引っ掛けて、普段よりずっとすっきりした顔立ちになっていた。
 その表情をやや不満げに歪ませて、彼は数歩の距離を一瞬で詰めた。胸の前に冠を抱いた綱吉の頭を断りなしに拳で殴り、どうして覚えていないのかと彼の記憶力の貧弱さを大声で嘆く。
 痛い、と涙目で頭を撫でた綱吉に、当然ながら獄寺が雲雀を非難する声をあげた。けれど彼の言葉に好奇心を刺激された山本に制されるどころか押し出され、今度こそ横向きに石段に倒れて悲鳴を飲み込んだ。
「それ、どういう意味だ?」
 痛そうな音を立てた獄寺を無視し、山本が一歩前に踏み出して雲雀との距離を詰める。
 まだ殴られた箇所を気にする綱吉を撫でて宥めていた雲雀は、興味津々に目を輝かせている山本に小さく嘆息して、場所を移そうと提案した。立ち話で終わらせるには少々時間がかかると見越してだろう、後は綱吉を休ませたいという心配りか。
 頷かない理由は無くて、山本はまだ倒れ伏している獄寺の脚をひょい、と飛び越えて向こう側に着地した。途端、人を跨ぐなと顔を上げた獄寺が怒鳴る。
「あっれー、まだお前、そこにいたんだ」
「うっせえ、黙れ! つか、謝れ!」
 誰の所為でこうなったと思っているのか。声を荒立てて喉を枯らす獄寺をけらけらと笑って、綱吉は山本に背中を押されるままに歩き出した。
 が、彼が近場の道場を目指そうとしていると気付くと、途端に足を重くして地面に二本の筋を刻み込む。
「どした?」
 抵抗を感じ取った山本が首を傾げ、肩越しに綱吉を覗きこんで問うた。
 頬に触れた呼気に、彼は一瞬で表情を青褪めさせた。唇を噛み締め、なんでもない、と首を横へ振ろうとする。
 けれど巧く出来なくて、前髪が微かに揺れただけに終わった。
 血の気が引いた顔の綱吉に、並んで横を行く雲雀が眉を顰める。何を思い出しているのかを瞬時に理解した彼は、苦虫を噛み潰した表情を作って首を振った。
「茶でも入れよう」