魂祭 第三夜(第三幕)

「ええ、少しその辺を」
 緩慢な動作で頷き返した骸に、俄然元気を取り戻した犬が勢い良く右手を掲げて垂直に立ち上がった。飛び跳ねた、と言って良いかもしれない。威勢の良さにランチアが後ろに仰け反るが、傍らの千種は呆れ顔だ。
 俺も行く、と言い放つ彼に、しかし骸は笑顔を絶やすことなく彼を見詰め返す。
「犬は、やること他に、ある」
「うぅ……」
 骸の反応が芳しくないことに頬を膨らませ、いじけ始めた犬へ千種の一言がとどめとなる。再び膝を抱えて座り込んだ彼に、ランチアは既に疲れた様子で肩を竦め、振り返り屋敷の軒先で佇んだままの男達を視野に収めた。
 数は先ほどと変わっていない、ただ最初にこの地を訪れた時よりは減っている。
 旅芸人の一座として、場所を貸して貰えないかという問いかけに、彼らは最初から随分と乗り気ではなかった。
 若い連中や子供たちは一斉に不平不満を口にして、どうしてだと騒ぎ立てた。しかし彼らが最初に求めた、神前である境内の使用は、土地の権力者代表である村役といえども勝手に許可を下すことは出来ない、という言い訳を盾にされては歯が立たない。
 ならばどうすれば良いのかという次なる問いかけにはだんまりを決め込まれ、まるで収拾がつかない。
 痺れを切らしたのはその村役代表たる庄屋の息子の青年で、ならば俺が聞いて来ようと場を去って、果たしてどれくらい過ぎただろう。
 そろそろ戻って来る時間なのか、旦那衆は肩寄せ合って頻りに屋敷と外を繋ぐ門を警戒している。
 いったいどんな厳しい奴が呼ばれてくるのか。面倒ごとは全部自分に押し付けていく、とランチアは表情に考えの片鱗を覗かせて骸を探したが、既に時遅く彼は身ひとつで既に屋敷の敷地を出て行ってしまったようだ。
 相変わらず、素早い。
 千種を窺えば頷かれたので、想像は正しいらしい。今度こそ大仰に溜息を零し、彼は額に垂れた前髪を梳きあげて後ろへ流すと、両腕を腰に押し当てて左足で地面の小石を蹴り飛ばした。
 弾みもせず、半円の軌道を描いて地に沈む。その向こう側では村人が一斉に身を小さくして震え上がる様が見て取れて、自分の外見もかなり人々に警戒心を抱かせてしまうものだと改めて思い知らされた。
「……あれ」
 だが落ち込んでいる暇もなく、千種に背中をつつかれた上にその指を門前へ向けられた。促されてランチアは視線を上げ、生まれつき小さい黒目を細めて表情を険しくさせた。
 現れたのは、骸や千種たちとそう年端も変わらぬ若者だった。
「すまん、待たせたな」
「いや」
 先頭を切って入ってきて最初に手をあげたのは、この屋敷の住人でもある庄屋の息子だ。見覚えのある顔に大声で謝罪され、屈託無い彼の態度に苦笑しつつランチアは彼の隣に立つ青年を見た。
 黒髪、短く刈り上げた姿にすらりとした体躯。腰には木刀を挿してランチアたちではなく、門の向こう側を気にして首を向けている。だが射るように向けられるランチアの視線に気付くと、一瞬だけ警戒心を露にした後はやはり穏やかな、そして内面を悟らせない笑みを浮かべた。
「どうかしたか、雲雀」
「いや。誰か、居た気がしたんだが」
 そして未だ中に入ってこないもうひとりに呼びかける。声だけが先に聞こえ、直ぐに敷居を跨いだ青年が、長めの黒髪を靡かせながら首の裏を気にしつつ敷地に姿を現した。
 瞬間。
「――っ!」
 目まぐるしく、なにか、がランチアの内部を駆けずり回り、歓喜とも憎悪とも取れない感情を荒波立たせて彼を掻き乱した。
 思わず額に手をやり、膝を折って身を丸める。脂汗が滲んで悲鳴をあげたい恐怖を噛み殺し、異変に気付いて千種が瞳を煙らせるのも知らず、ランチアは己に潜む悪鬼が如き存在を懸命に押し留めた。
「どうかした」
「……いや」
 汗を悟られぬように拭い、長い息を吐いて姿勢を戻す。未だ腹の内側で煮え滾る感情が渦を巻いているものの、それが自らに起因するものではないと分かっている分、彼は幾らか平静でいられた。
 骸が早々に立ち去った理由をそれとなく察し、右脇腹を撫でてランチアは近付いてくる青年らを迎える。
 ――不便なものだ。
 最後尾の、さして自分たちに興味を抱いてもいない様子の男。目が合ったが一瞬で逸らされ、何かを探しているのか頻りに周囲を窺っては瞳を細めている。
 骸が出て行ったのは、この男と直接顔を合わせるのを拒んだからなのか。ならば、敢えて遠回りをしてまでこの地に足を向けた理由も、その辺りに事情があるのだろう。
 尤もランチアには、その内情を知る権利はないし、知るつもりもない。だがこうも唐突に怨嗟を滾らせてもらってはこちらの身がもたないのだから、予め教えておいて欲しかったとは思う。
「紹介する。こいつは、此処並盛の祭事全般を取り仕切っている――」
 確か了平とかいう名前の青年がランチアの数歩手前で足を止め、掌を上にして黒髪の青年に指を向けた。
 呼ばれて初めて気付いた様子で、彼が顔を正面に向ける。
 途端、どくんと強く心臓を握られた気がして、ランチアは乾いた口腔に唾を飲んだ。

 時が止まったかのようだった。
 呼吸をするのさえ忘れ、綱吉は瞳が乾くのも厭わずに目を大きく見開く。その零れ落ちそうな琥珀にディーノは気を良くしたまま、触れ合わせた唇を甘く噛んで舌先で小ぶりな形をなぞっていった。
「んっ……や!」
 しかし半分にも行かぬうちに綱吉が拒絶の声をあげ、ディーノを押し返す。外れた合わさりに冷たい雫が散って、頬にとんだ分を拭い取った綱吉は荒い呼吸のままずるずると後ろへと下がった。
 しかしディーノの打掛を羽織り、余りは尻に敷いたままだったので思うように進まない。じきに行き詰ってしまって慌てて緋の綿入りを払いのけようとしたが、その頃にはもう距離を詰めたディーノの腕が伸び、抗う彼の手首を掴むと床に縫い付けてしまった。
「いっ――」
「逃げるなって」
「いやだ、放して!」
 肩ごと床に倒されて、背骨を強かに打ちつける。打掛が衝撃を吸収してくれたとはいえ全部ではなく、一瞬息が詰まって抵抗を弱めた隙にディーノは綱吉の膝を割り、彼の上に本格的に圧し掛かってきた。
 必死に抵抗して両足を蹴り上げるが、これもまた打掛が太股に絡んで高く持ち上がらない。ディーノは薄笑いを浮かべて左手を下向け、乱れた襦袢からはみ出ている彼の柔らかな腿を撫でた。
「っ!」
 全身に鳥肌が立ち、熱に煽られた綱吉はカッと頬を赤らめて声を堪えた。
 しかし直接触れられていたが為に、隠そうとしたものは如実にディーノに伝わってしまった。彼は奥歯を鳴らして愉しげに表情を綻ばせると、気を大きくしたのか綱吉の首筋に顔を寄せ、息吹きかけつつ細い華奢な頚部をゆっくりと舐めあげた。
「い……や、あ」
 左腕の自由は奪われたままで、右手を血管が浮き上がるまで硬く握り締めてディーノの胸元にねじ込む。懸命に押し返して足掻くが巧くいかず、段々と力が抜けて逆に潰されてしまいそうだった。
 腿を撫でる手は、軽く揉みしだく度に綱吉の背が浮いて跳ねるのが面白いのか、何度も同じ場所を往復しながら綱吉の反応が特に顕著な部分を探しているようでもあった。
 甘く耳朶を噛み、ディーノが顔を上げる。奥歯を噛み締めて必死に堪えている綱吉の顔があまりにも可哀想で、頬を摺り寄せ合わせた彼は細い鎖骨にも舌を這わせ、冷えようとしている彼の身体を温めた。
 上では綱吉が喉を引き攣らせ、鼻から吸った息を一旦喉の奥で止めている。きつく閉ざされた瞼の隙間から零れ落ちた涙にも舌を伸ばしたディーノは、小さく震えている綱吉の背に左腕を差し入れると彼の上半身を持ち上げ、抱き締めた。
「なあ、……俺のこと、好き、だろ?」
 耳元で囁かれる問いかけ。その気弱すぎる声色に綱吉はかみ合わせた唇の柵を解き、浅く胸を上下させて息を吐いた。
 答えは言葉にせず、ただ首を横に振る。
 さっきは散々迷った末に逆の結論を導き出した、けれど今は考えることもしない即答だった。
 ディーノの胸倉に額を押し当て、苦しげな体勢で何度も綱吉は首を横に振る。掠れて音を刻まない唇はずっと雲雀の名前を呼び続け、ディーノの心を容赦なく抉った。
 それでも彼は、聞かぬ振りをして綱吉を強く抱き締める。
「なんで? さっきは好きって言ったじゃねーか!」
 聞こうとしないディーノから逃げたがる綱吉を再び床へ押さえ込み、彼は声を荒立てて怒鳴る。空色の鋭い眼光が綱吉を射抜き、視線を逸らすことを許さない。なればこそ大きな瞳に大粒の涙を浮かべ、綱吉は嫌々と怯えた表情で彼を見返した。
 助けて、と動いた唇を強引に塞ぎ、彼から声を奪う。抵抗らしい抵抗も出来ぬまま綱吉は咥内を蹂躙され、引き出された舌に艶めかしく唾液を滴らせて顔を汚した。
 荒く息を吐き、ディーノがそんな綱吉をじっと見下ろす。
 両腕で抱きかかえても、彼は自らは微塵とも動こうとしなかった。
「ツナ」
「……りさ……ん……ど、こ……」
「ツナ!」
「いや、いや……ひばりさん……ヒバリさん……」
 虚ろな瞳が何も無い空間を見詰めている。そこにディーノの姿は映らない。
 こうにも求めているのに、何故応えてくれないのか。
 何が違う、何が足りない。こんなにも焦がれて、時を超えて想い続けて来たというのに、まだ届かないなんて。
「……なんで、だよ」
 苛立ちが胸を埋め尽くす。堪え切れなかった感情が、百余年抱き続けてきた感情が大渦となってディーノを飲み込んでいく。
「なんでだよ、なんで。そんなに俺よりもあいつの方がいいのかよ!」
 浮かび上がる雲雀の姿、その向こう側にある今の彼よりも幾分育った姿。
 似て非なるもの、否、根本は同質か。時の巡りの気まぐれか、或いは裏切り。それとも、誰かの作為――?
 床を殴りつけて怒鳴ったディーノに、意識を彼方へ飛ばしていた綱吉がびくりと震え上がる。恐怖に竦んだ瞳を持ち上げて影を落としているディーノの金髪に気付き、初めて彼が其処に居ると知ったかのような顔をして、心臓を縮める。
 こわい、と表情が告げている。その小動物を模した動きも腹立たしい。
 真似をするな、と叫びたかった。いっそ殴り飛ばせたらどれだけ楽だっただろう、せめて同じ顔姿でなければ、出来たかもしれないのに。
「……んで」
 日に焼けない白い脚を襦袢の下でくねらせ、綱吉が楽な姿勢を探して動く。ディーノは綱吉に口付けようと顔を寄せたが、寸前で避けられてしまい、柔らかな頬に触れるだけに終わらせた。
「そんなに、恭弥がいい?」
 硬く唇を噛み締めている彼が横を向いたままながら深く頷くのを見て、ディーノは自嘲気味に笑う。
 答えなど訊くまでも無いと分かっていながら、問わずにいられなかった。結局は自分が傷ついただけなのに、同じくらい綱吉も傷ついた顔をするから余計に哀しくなる。
 握り過ぎた彼の手首はディーノの指の型が浮かんで赤くなっており、力を緩めて持ち上げ、唇を押し当てる。いとおしむように舐めあげてやれば、綱吉は肩を強張らせて声を堪えた。
 指を絡めとり、掌同士を重ね合わせて握り締める。辛そうに眉を寄せた彼が整理しきれて居ない気持ちをどうにか落ち着かせ、もの言いたげにしているのを小さく笑ってディーノは彼の薄い皮膚に牙を立てた。
 骨の脇に浮かび上がる細い血管を刺激され、綱吉がまた首を振る。絶えず呼び続ける声に反応が無いのがそろそろ不安なのだろう、目尻に溜まっていた涙が頬を伝って床に落ちた。
「……りさ……」
「恭弥は来ない」
 彼の手首に絡みつく鎖に目を眇め、ディーノはちょっと力を入れれば容易く折れてしまいそうな綱吉の手に口付ける。
 綱吉は一瞬狼狽しかかり、しかし直ぐ、貴方の言う事は信じないと気丈にもディーノを強く睨み返した。
 その健気さに苦笑して、ディーノは結んだ綱吉の手を顎で示した。
「知ってるさ、お前らが繋がっていることくらい」
「っ……」
 幼い日、逝きかかる綱吉を呼び戻そうと魂の段階で一部が混ざり合ってしまったが為に、偶発的に得られた繋がり。互いの心が相手に無条件で伝わってしまうというのは、時に不便ではあったけれど、両者の心をより近づけさせるのに十二分の効果を発揮した。
 何処に居ても、見つけ出せる。離れていても繋がっている安心感が、この状況の綱吉を辛うじて支えていた。
 その絆を、ディーノは無駄だと言い放つ。
「届かないよ、ツナ。恭弥には」
 縫い付けられた手を懸命に暴れさせ、持ち上げようとする綱吉だったが、肘が浮くだけで手首から先は微動だにしない。
 低く囁かれたディーノの声に抗うが、実際雲雀の声は返ってこない。これだけ呼んでも反応がないのは、雨の時期以来だ。
 離れているとはいえ、同じ村の中。綱吉の伝心が届かない距離ではない筈なのに、見えぬ壁に阻まれて綱吉の声はどうやっても雲雀の元にまで響いていかなかった。
 信じない、ディーノの言葉など聞きたくない。
 かぶりを振り、固く目を瞑る。穏やかに佇む雲雀の姿を思い浮かべてそこに縋るが、伸ばした手は虚しく空を掻くだけ。
 頬を嬲る舌の感触に背筋を粟立て、綱吉はじわじわと沸き上がる感覚に嫌悪を抱いて自分の身体を投げ捨てたい気持ちを堪えた。膝を裂いたディーノの脚が、下敷きになっている己の色打掛を巻き込んで綱吉の腿に圧し掛かる。
「いっ……」
 体重を預けられ、重みに耐えかねた綱吉が苦痛に顔を歪めた。喉を引き攣らせて口から息を吐き、噛み締めた唇の拘束を緩めた隙を狙って再び口付けが落ちてくる。熱を持つ柔らかな肉に軽く牙を立てられ、逃れようとするがしつこく追い回されて逆に強く吸われる。
 小刻みに肌が震え、少しずつであるものの確実に熱が綱吉に襲い掛かる。荒く短くなる呼吸に、ぜいぜいと息を吐いて胸を上下させる彼を見下ろし、ディーノは溢れ出た唾液を舌で掬い取って飲み込むと押さえつけたままだった綱吉の手を解放した。
 手首をなぞり、そこに絡みつく鎖を指で弾く。
「っ」
「これ、……恭弥まで繋がってるんだっけ」
「触らないで!」
 瞬間声を荒立てた綱吉の悲痛な叫びを無視し、彼は幾重にも頑丈に絡み付いているそれを擽った。
 とはいえ、実際に質量があるものでもなく、触れたところで感触は無いに等しい。ただ鎖を取り巻く淡い光が、ディーノの指の動きに従ってくるくると輪を描くように飛び散った。
 呆然と見開いた瞳で光景を見詰め、綱吉が濡れた唇を噛み締める。それは自分と、雲雀にだけしか見えないもののはずだった。それなのにディーノは簡単にふたりの秘密を暴き、突き崩そうとしている。
「いや……やだ、やめて……」
「これ、切っちゃったらどうなるかな」
 弱々しく懇願する綱吉を他所に、細い手首を持ち上げて薄く輝く鎖の上から舌を走らせたディーノが抑揚に乏しい声で小さく告げる。刹那、驚愕に目を見開いた綱吉は言葉を失い、茫然自失状態のままディーノの綺麗過ぎる顔を見返した。
 優しく微笑んでいる彼に恐怖心を抱かずにはいられず、綱吉は力なく首を横へ振った。
 この鎖が途切れること、それはつまり、今ある綱吉と雲雀の関係を壊すことになる。
 綱吉を生かしている、命脈が途絶えることに直結する。
 綱吉の、死を意味している。
 それを、この男はいとも容易く。何でも無い事のように。
「恭弥の声、なんで聞こえないか知りたい?」
 圧倒的な力でねじ伏せられ、抵抗も無意味。けれど恭順を示すなど絶対に嫌で、綱吉はなんとか此処から抜け出す方法を懸命に、働かない頭で考える。
 ディーノは最後まで足掻き通そうとする彼に冷ややかな笑みを返し、暖かい肌を舐めて彼が震える様を楽しそうに見下ろした。
「俺が、あいつよりも強いから、だよ」
 たとえ蛟を食らい、龍に昇格したとしても、神の位に座すディーノには程遠い。無論時間をかければ肩を並べるくらいまではいくだろうが、それには綱吉の心臓が――宝珠が必要不可欠だ。
 宝珠の無い龍に、なんの意味があろう。自ら望んで力を放棄した雲雀を、ディーノは愚かだと言う。
「そんなこと!」
 雲雀を悪く言うのは許さないと瞳に力を込めた綱吉を冷淡に見詰め、ディーノは大事に彼の手を床に下ろすと小さな溜息を零した。
 どうして分からないのだと、そう言いたげな視線を向けられて綱吉は歯軋りする。ディーノこそ、どうして分かってくれないのかと。たとえ力で屈服させられても、この心は絶対に譲らない意思が何故、聡いはずの彼に理解してもらえないのか。
 哀しくなる、何が彼をこんな風に狂わせたのか。
「――ナ」
「それは俺の名前じゃない!」