魂祭 第二夜(前編)

 唄が聞こえる。
 可愛らしい子供の声だ。少し高い、音程はやや外れ気味の、けれどとても楽しげな。
 調子よく、気持ち良さそうに、笑いながら。
 いつもの時間に、いつもの場所で、いつものように、いつもの唄を。
 けれど今日に限って途中で唄は行き詰る、どうやら詞を忘れてしまったらしい。
 同じ場所を何度も、何度も繰り返す。そしてまた、同じ場所で詞に詰まる。
 どうやっても思い出せないのか、次第に癇癪を起こして泣き声が混じりだす唄に堪えていた笑みを零せば、溢れんばかりの涙を湛えた大粒の瞳が、初めてこちらの存在に気づいたようだった。
 だからついつい、すっかり覚えてしまった唄の続きを紡いでやる。
 不慣れに詠い諳んじた声に、幼子は泣き出す寸前だった顔をあっという間にほころばせ、嬉しそうに頬を赤らめた。
 そして身を乗り出し、少し戸惑い気味に小首を傾げやる。
 目が合ったのは、これが初めてで。
 陽光に負けない鮮やかな琥珀が、何よりも眩しかった。
「あなただあれ?」
 舌足らずに問う、その声は鈴のようだった。

 ガタゴトと荷台が大きく波打って揺らぐ。人荷が不自由なく通り抜けるだけの道幅は確保されているものの、所々に大きな石が埋まっているので車輪が引っかかるのだ。
 一際大きく波立った荷台に腰を落としていた彼は、道の左右を埋める濃緑の木々の隙間から零れる陽射しに目を細めた。背中が硬い木組みにぶつかるが、痛みに苦悶の表情を浮かべる素振りもない。
 心此処に在らず、とでも言うのか。
 ふと、彼は何かに導かれるように唇を窄め、樹上を渡った鳥の囀りの如く掠れる声で詞を口ずさみ始めた。
 荷台を曳く馬の手綱を持つ男が最初に気づき、深い傷跡を残す顔を上向ける。何処までも続く緑の洞窟に目を眇めた彼は、後ろから聞こえてくる声にやれやれといった具合に肩を竦め、単調な道ばかりが続く中で緩みかけていた気持ちを引き締め直した。
 様々なものを一緒くたに積み込み、落ちぬように荒縄でしっかりと互いを結び合わせた荷の上で寝そべっていた青年もまた、彼の歌声を耳にして身を起こす。危うく張り出した枝に頭をぶつけるところで、寸前で避けた彼の短い髪を緑葉が撫でていった。
 日に焼けたのか、それとも漂白したのか。どうやって染め上げたのかは分からないが、鼻を通って頬から頬という顔の中央に一文字の傷を持つ青年の髪は、さながら唐獅子に見る鬚の如き金色だった。
「うひゃっほぅ」
 がさがさと頭上で音を奏でた葉が後ろへ流れて行く様を見送り、青年が楽しげに鋭い牙を覗かせて笑った。隣に並んでいたもうひとりの青年は、身を低くしたまま右の膝を抱え、前方遥かに目を凝らしている。
「なんれすか、その唄」
 金色短髪の青年が肘をついて匍匐しながら荷台の後部に頭を出し、ほぼ真下に座している声の主に問いかける。彼の眼下では黄土色の大地が瞬きする間もなく後ろへと流れ、無数の光の粒が各所に散って彩りを添えていた。
 紫紺の髪色をした青年が、問う声に唄をやめて上を向く。
 色の濃い瞳が妖しげな微笑みを浮かべた。
「気になりますか、犬」
 穏やかで深みのある、静かな声だ。喉の奥に薄らと笑みを含ませた問いかけを返されて、犬と呼ばれた青年は荷の上で髪の毛を乱雑に掻き乱しながら返答に窮し、視線を逸らした。
 うつ伏せから仰向けに姿勢を替え、両手を投げ出して寝転がる。支える箇所がない首から上だけがだらりとぶら下がり、何も知らぬ者が見かけたならば生首が吊るされているのかと驚いただろう。
 ごとん、と車輪が石に乗り上げて犬の首が更に下に下がる。そのまま身体ごと転落するかと思われたが、彼は暫く後、その体勢にも飽きたのか、勢いつけて身を起こすと最初の位置へと戻っていった。
 犬の姿が見えなったのを瞳だけ上向けて確かめた青年は、首の後ろをそっと撫でて産毛を擽った後、その手を膝に載せて静かに後方に流れて離れていく景色に見入った。背中側では相変わらず、がたごとと落ち着き無く荷がぶつかり合う音が響いている。
 行商人や近隣の村々に暮らす人が行き来する街道とはいえ、奥まったこの場所は大街道ほど道が整えられているわけではない。向かう先も人口の多い都市部ではなく、冬場には雪に埋もれて外界との往来も難しくなる山間の小さな村だ。
 彼らはそういった、娯楽に餓えた人々の心を慰めるべく、旅を続けている。
 青年は澄み切った濃い空気を吸い込むと、胸を満たして唇を軽く舐めた。鵯の啼く声が木立の合間を縫って彼らの耳に届いたが、それも直ぐに遠ざかって小さくなり、やがて完全に聞こえなくなった。
「ひふみ よいなむや」
 天頂からは時期外れに暖かな陽光が燦々と注がれ、空気は乾き折れた枝が車輪に踏まれてぱきりと音を立てる。跳ね上げられた小石が青年の足を打ったが、彼は構う事無く舌の上に音を転がし、中断させていた唄をもう一度、最初から奏で始めた。
 頭の下に両腕を敷いて枕にした犬が、頭上を流れて行く木々と木漏れ日に大きく欠伸を零した。傍らの青年はそんな犬の態度に肩を竦め、鼻に架けた眼鏡を押し上げて立てた膝に頬を寄せた。
 さっきからずっと、似たような光景が延々と続いている。出口が見えないのではないかと思える緑濃い道程の先は白い光に包まれており、青年の口ずさむ歌声だけが唯一の変化ともいえた。しかし。
「こともちろらね しきる ゆゐつわぬ」
「骸様」
「そをたはくめか うおえ……どうかしましたか、千種」
 微かな兆候を前方に読み取った青年が、眼鏡の奥の瞳を曇らせて詠う青年の名を呼ぶ。息を吐いた後に一旦唇を閉ざした彼は、千種と呼んだ青年が見えぬと承知で荷台の屋根を仰ぎ見た。
 青年の耳にも、千種が気取ったものが届いていた。
「なんだびょん」
 腕を解いて千種の隣に座りなおした犬もまた、響いてくる幾つもの声に顔を顰めて前方を凝視した。瞳を中央に寄せて前方に進み出た彼は、危うく黒髪の青年が座す御者台に落ちるところで空ぶった手を引っ込め、冷や汗を拭った後、器用に出っ張りを利用して青年の隣に居場所を移し変えた。
 少々手狭になった台の上に在った青年も、変化には気づいている。手綱を握る手に力を込めた彼は、行儀良く前を行く馬を器用に操りながら、近づいてくる、そして自分たちも近づこうとしているものに瞳を曇らせた。
「おやおや」
 後部で立ち上がった骸と呼ばれた青年もまた、横から顔を出して前方から走り寄ってくる子供たちの姿に笑みを零した。
 皆、何れも嬉しそうに歓声をあげ、迫り来る馬に曳かれた荷台と青年らに元気良く手を振っていた。口々に早く、はやく、と急かす声をあげ、進路の邪魔にならぬよう道の両側に避けながら、追い越された子供たちも必死に駆けてついてくる。
 年齢はちぐはぐで、着ているものも皆統一性がない。上物を着ている子も中には混じっている、しかし日に焼けた赤ら顔には鼻水が垂れており、恐らくは時節を迎えるに当たって親が特別に着せただけだろう。汚すなとでも言われているのか走りにくそうにしながらも、子供は皆元気だ。素足で硬い地面を蹴り飛ばし、大きい子は幼い子の手を引いて、腹の底からの笑い声をけたたましく響かせている。
 骸はその子供たちひとりひとりに視線を走らせ、手を振り返し、急速に開けようとしている道の前方に笑みを零した。
「随分と歓迎されているようですね」
「そうですね、千種」
 自分たちの存在は、こんな山奥の辺鄙な村にまで届いていたらしい。いや、むしろそうなるように仕向けたからこその結果か。
 荷台を降りてきた千種の呟きに緩慢に頷き返し、骸は風によって乱れた髪を梳いてやがて眼下に現れた広い盆地に目を細めた。
 鮮やかな若緑が、開かれた台地の半分以上を埋め尽くしていた。水も豊かな川が、平地のほぼ中央を南北に一直線に駆け抜けている。水源を求めて先を辿れば、見る者を圧倒させる色濃き山がどんと聳え、彼らの前に立ちふさがっていた。
 肩を寄せ合う家々の幾つかからは白い煙が棚引き、田畑で働く人の姿は小さな胡麻粒の如く見えた。
 平和で、長閑。そんな表現がぴったりと合わさる穏やかな景色が展開されている。思わず溜息を零しそうになり、骸は紺絣の袷を揺らして下り坂に差し掛かった所為で傾いた荷台に身体を押し当てた。
 背後からは子供たちの歓声が、相も変わらず響いている。外から来る人間が珍しいのか、恐々馬に近づいては駆け足で逃げていく子供もいた。手綱を握る青年の強面顔に驚き子供たちは逃げ惑って、微妙に衝撃を受けて落ち込んでいる彼の様子にはつい頬が緩んだ。
 この場所は、安らぎの空気に満ちている。
 静かに瞼を閉ざした骸の横顔を窺い見て、千種は神経質気味に眼鏡を押し上げた。視線を彼から逸らして、背中を丸めて反対に向き直る。
「どうされますか?」
 低く問う声は骸にしか聞こえない。
「そうですね」
 幾分迷う素振りを見せ、彼は傍らの千種の心配に笑みで返した。
 柔らかで、穏やかで、落ち着き払っており、だからこそ逆に底が知れずに他者を不安に陥れる笑みで。
 彼はクツクツと喉を鳴らして嗤い、実に愉しげに表情を綻ばせた。
「折角歓迎してくれているのですから、今宵は気合を入れて舞わねばなりませんね」
「……」
 閉ざしていた瞼をゆっくりと広げ、雲をまとって頂上を隠している眼前の深き山を見詰めて彼は言った。
 何よりも業深き深紅の瞳をゆらりと輝かせ、怨嗟の炎に魂を焦がしながら――

「てやぁぁぁ!」
 渾身の一撃を打ち出し、足を前に強く踏み出した山本の掛け声に驚いた小鳥が、羽根を広げて空へ飛び立っていった。
「よっ」
 軽い羽音を聞き流したディーノが、切り込んでくる山本の間合いから素早く距離を取って後ろへ退く。
 空を切った木刀が硬い地面に突き当たって反動で跳ね返り、衝撃が彼の手首を痺れさせる。思わず顔を顰めて右手の握りを緩めてしまった山本へ、すかさず横に回りこんだディーノが愛用の鞭を撓らせて風を唸らせた。
 ひゅっ、と空気を切り裂く音が一瞬遅れて山本の耳に届く。最早本能だけでぎりぎりのところを避けた彼は、目の前で真っ二つに切り裂かれた己の汗に唖然とし、感嘆の表情を浮かべて降参だと左手を広げた。
 汗に湿った木刀が地面に落ち、数回揺れた後に沈黙する。汗びっしょりの上に息も絶え絶えで、肩を激しく上下に動かして白く濁った息を吐いた山本に対し、ディーノは地面に触れる寸前に引き寄せた鞭を胸の前で易々と受け止め、涼しげな表情を崩さぬまま破顔した。
「なんだ、もう終わりか?」
「ちょっと、すいません、休憩」
 よく撓る頑丈な鞭をぴしっと直線に伸ばしたディーノのからかう声に、山本は心底疲れ果てた様子で膝を曲げた。そこに両手を置き、ぜいぜいと苦しげに息を吐いて乱れた心拍を整えながら汗を拭う。
 今はディーノも邪魔になる緋色の打掛を脱ぎ、山本に借りた単衣姿だった。相変わらず鮮やかな金髪は日の光によく映えて眩しいくらいで、山本は短く切った黒髪の先からも汗を滴らせながら、畜生、とどうやっても敵わない彼に悪態をついた。
 雲雀を相手にしている時と、どこか感覚が似通う。矢張り義理ではあっても兄貴だからか、と偽りの情報を信じたまま彼は顎に滴った汗を手の甲で弾き飛ばし、上半身を後ろへ反らして姿勢を戻した。背骨を鳴らし、肩を回して爪先で木刀の端を蹴り上げる。勢いつけて真上に弾かれたそれはくるくると回転しながら落下に転じ、空中で見事山本の手に掴まれた。
 再度構えを作った彼に、ディーノは嬉しげに口元を緩めやる。
「根性あるじゃねーか」
「負けず嫌いなんで」
 体力的にはもうくたくただろうに、まだ瞳からは輝きが消え失せない。常人ならばとっくに倒れていて可笑しくないのだが、さすがリボーンの愛弟子といったところか。
 此処の連中は面白い素材が揃っている、昨日からの感想を心の中で呟いてディーノもまた隙を見せぬよう山本の直線上に構えを取った。
 右手、右足を前に出して左足は反対側へ。山本からはディーノの姿が一枚の薄い板の如く映し出される、引き気味の左手には地面を経て再び尾を持ち上げた鞭の端が握られており、地面に水平になるよう握られた鞭の柄だけが横に長く伸びていた。
 短い影が庭に落ち、山本の拭いきれなかった汗が地上に落ちる前に乾いて消え失せる。胸を大きく上下させて呼吸を整えながら攻め入る一瞬を探す山本に対峙するディーノは、呼吸も落ち着いて表情は至って涼しげで、あまりにふたりは対照的だった。
 雨戸も全面解放されている座敷の中の間では、獄寺が間借りしている自室から運び込んだ座卓を前に硯を摺っていた。南に面しているこちらの方が、北側にある彼の部屋よりもずっと明るいためで、目の前には短冊状に細長く切り揃えた半紙が並べられている。
「しっかし、よく飽きないもんだな」
 他人事のように呟き、掛け声と共にディーノに向かっていく山本の影に目をやって獄寺は呟いた。
 果敢にディーノに挑みかかるのはいいが、いとも容易く、それこそ赤子の手を捻るみたいに簡単に地面になぎ倒され、或いはすべての攻撃を受け流されて先に根負けする。にも関わらず一寸の休憩を挟んでは、諦めもせずに、山本は幾度となく果敢にディーノへ食らいついていった。
 最早我慢比べの域に達しているふたりの組み手に呆れた表情を浮かべ、獄寺は硯から一旦手を離して真新しい小筆を指先で掬い取った。
 とてもではないが、彼らにはついていけない。自分はこうやって精神を統一させて心を磨く方が良い、と座卓に向かって居住まいを正した彼は、墨池に真っ白な筆先を浸して先端を黒く染め上げた。
 袖が邪魔にならぬよう左手でたくし上げ、眼前に置いた短冊に視線を転じる。書き損じは許されないと頭の中にしつこいくらい呪符の完成図を刻み込んで、彼は深呼吸の末に滴らぬよう余分な墨を落とした小筆を硯から引き離した。
 獄寺は己の吐く呼気、応じる心音、身体中を巡る血液の流れを意識しながら半眼し、左手を座卓の角に添えて真っ直ぐに筆を構え、乳飲み子を撫でる時の手首の動きで以って真っ白に漉かれた紙に素早く筆を走らせた。
 一言一句乱れず、間違えず、神経を集中させたまま、一気に上から下まで駆け抜けていく。
「……っし!」
 最後に筆を跳ね上げる瞬間だけは気合いのこもった声が漏れて、勢い余った筆が手の中から危うくすっぽ抜けていくところだった。
 慌てて膝を立ててお手玉するように筆を両手で抱きとめ、最後は床に上半身をこすり付けるように前屈みに。幸いにも筆は毛先を上にして手の中に残されており、夏前に交換したばかりのまだ柔らかな匂いが漂う畳は無事だった。
 墨の一滴でも落とそうものなら、雲雀からどんな鉄槌が下されるか分かったものではない。もっとも獄寺としてみれば、一番怖いのは奈々のにっこり微笑む笑顔であり、綱吉の冷たい視線なのだが。
 畳は無事だったが、頬には線が一本走ってしまった。不用意に擦ると余計に面積を広げるだけだと分かっているので拭わずに乾くに任せ、獄寺は乱れた足を再び座布団に戻して正座を作り、作り終えたばかりの呪符にしばし見入った。
「うっし」
 上出来だ、と自分で自分を褒めて白い歯を見せた彼は、まだ半乾きにも至らないそれを大事に脇へと退かせ、次の短冊を正面に据えた。そして先ほどと同様に呼吸を整え、精神を落ち着かせて一球入魂とばかりに筆を繰っていく。
 庭からは山本の掛け声ばかりが響き、彼の声に掻き消される形で微かに笛の音が流れていた。
 いったいどこから、と思って先ほど確かめてみたら、綱吉の部屋がある離れに隣接する道場からだった。
 まだ葺き替えられたばかりの屋根に加え、外観も手直しが施されたばかりだ。建物自体は古いが、見た目はそれ程ではない。昔は此処で村の人々に体術その他を教えていたというが、今では偶にリボーンが雲雀や山本、そして綱吉を鍛錬するのに、雨で屋外が使えない時に用いられるくらいだから、獄寺とはほとほと縁がない場所でもある。
 今現在は綱吉と雲雀がふたりして引き篭もっている。外からは覗けないように窓も閉じられたままであり、思わず綱吉の身に何か起こったらと飛び込んだなら、笛を奏でていた雲雀に思い切り蹴り飛ばされて放り出されたのはつい半刻ほど前のこと。
 思い返すと蹴られた腹がまたちくちくと痛んで、顔を歪めた途端筆の道筋までもが歪んでしまった。
「うあっ」
 しまった、と思ってももう遅い。大きく予定の進路を外れた黒筋が他の呪に混じってしまって、これでは本来の意味を成さない。札に使う和紙は貴重であり、一枚一枚を懇切丁寧に扱わねばならないのに、気の緩みで一枚無駄にしてしまった。
 哀しみに打ちひしがれながら、獄寺はもう使えない短冊を悔しげに睨みつけ、一緒に諸悪の根源たる雲雀に恨み言を零し、気を取り直そうとくしゃくしゃに丸めて握りつぶした。屑箱は持ってこなかったから、後でまとめて棄ててしまおうと最初に作った札とは別の場所に置いて、今一度深呼吸を繰り返す。
 庭の山本は汗を散らしながら間断なくディーノに剣戟を繰り返し、最後の一撃で彼の右肩を狙い打とうと試みたようだが、寸前で察知され、遭えなく反撃に遭って撃沈していた。
「あー、くそっ。勝てねえ!」
 とっくに精も根も尽き果てていて可笑しくないというのに、まだ余力を感じさせる大声をあげて彼は心底悔しそうに地団太を踏んだ。
 顔にまで飛んでくる山本の汗を避けたディーノは、若干乾いた笑いを口元に浮かべてまだ諦めてくれない彼の根性に心底呆れ返る。ただの人間であるはずの山本にここまで食い下がられるとは思っておらず、不慣れな地上での動きともあって彼もいい加減疲れてきていた。
 不用意に攻撃を返すわけにはいかず、本気を出すのは論外だ。相手は雲雀とは違って、ただの人間。余計なことはせぬように、出来るだけ受け流すだけでこちらからは手を出さないよう心がけてはみたが、そろそろ集中力が切れそうだった。
 下手なことをする前に、ここらで終わらせたい。
「簡単に勝たれたら、俺の立場がないしな」
 表向きは雲雀の義兄にして、リボーンの弟子。その実は天を統べる神々の末席に名を連ねるディーノが、人間相手に膝をつかされたとあらばいいお笑い種だ。
 地上に垂らした鞭をひと動きのうちに手元に納めた彼の言葉に、山本は木刀を杖代わりにして肩で息をし、塩辛くなっている唇を舐めた。
「それに、お前の太刀筋はどれも素直すぎるんだ。性格なんだろうけど、まっすぐ過ぎて読みやすい。嫌かもしれないが、もう少し相手を騙すくらいの心づもりでやらないと」
 鞭の柄の表面を撫でたディーノが、呼吸を整え、一際長く息を吐いた山本を見据えながら呟く。
 リボーンが育てたとあって、嘘の付けない素直な剣筋には好感が持てる。しかしそれだけでは生きていけないのが世の道理だ、このままではいずれ、近いうちに彼は壁にぶち当たる。その時、彼がどう戦局を打破して生き延びるのか、興味はあるが果たして見届ける事は出来るだろうか。
 暗くなりそうになったディーノを前に、連戦連敗で一度として繰り出す木刀の切っ先がディーノに掠めなかった山本は、それだけ実力差があるのだと体感させられ、むしろ清々しい気持ちを抱きながら彼に深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
 今後目標にする相手がまたひとり増えた、と嬉しげに笑った彼は、背筋を伸ばして肩に木刀を担ぎ上げて腰を捻った。
「ちょっと、水被ってきます」
「おー、井戸には落ちんなよ」
「落ちませんってば」
 汗に張り付いてくる布地を嫌って単衣の胸元を広げて風を呼んだ山本が、屋敷を振り返ってから言った。止める必要は何処にも無く、ディーノは鞭を持ったままの手を顔の横で振って彼を見送る。そして若干乱れた髪を手櫛で直してから、どうしたものかと肩を竦めた。
 駒鳥が庭の枝に停まって啼いている。特徴ある声に耳を傾けて視線を持ち上げたディーノは、南の空に輝く灼熱の太陽を目にして力なく首を振った。
 問題解決の糸口が何一つつかめていないのに、自分は此処でいったい、何をやっているのだろう。
 リボーンが怒るのも無理は無い、自分にはもっと他にやるべきことがある。地上への災厄をこれ以上増やさぬ為にも、出来ることは全部やっておかなければならないというのに。
「くそっ」
 打開策が見えない、四方が闇に閉ざされているようなものだ。こうやってのんびりしている間にも、段々と太陽の熱はあがって地表は干乾びていく。
 焦燥感に打ち拉がれた彼の目の前を、宥めるように穏やかな優しい色が流れて行く。瞼を閉ざせば尚のことはっきりと映像が浮かび上がり、それはディーノに淡く微笑みかけるのだ。
 華奢な体躯に似合わずに強情で、頑固で、一度決めたらよほど間違っていない限り撤回しない。最後まで貫き通す意地と信念、揺るがない瞳の強さは尊敬に値する。柔らかな笑みを絶やさず、周囲への気配りも忘れず、計り知れないほどの力を持ちながらも驕らず、常に誰かの立場に立って考え、行動して。
 この世でたったひとりだと、そう思っていたのに。