燈火

 病院は嫌いだ。走らないよう、けれど小走りに近い速度で両足を交互に動かしながら山本武は思った。
 白い壁、白い天井、消毒薬臭い空気、薄暗い廊下。行きかう人の姿は少なく、通りがかるストレッチャーを押した看護師に道を譲りながら、山本は沸きあがる焦燥感に苛まれつつ、電話で聞かされた病室を探して視線を左右に動かした。
 静まり返った空気、そこに嫌な予感を抱かずにいられない。病院は元からこういう場所なのだと分かっていても、重苦しい雰囲気に呑まれてしまいそうになる。
 やがて一般病棟から少し奥まった場所にある、特別室の区画に差し掛かる。すぐ隣が看護師の詰める部屋で、部屋の前には中が覗けるように窓がありその向かい側には背凭れの無い長椅子。
 髪の長い細面の女性が座っていた。膝には幼い子供を抱いている。遠目にも彼女が憔悴しているのが分かり、山本は足を止めて息を呑んだ。彼女と膝上の子供には彼も覚えがあり、己の目的地がそこであると容易に知れた。喉を鳴らして唾を飲み下し、一歩前に出る。冷たい廊下に思いの外喧しいくらいに音が響いて、ハッと顔を上げた女性と視線が合った。
「えっと、その……」
 山本が受けた電話は長谷川京子からのもので、あちらもかなり狼狽した様子で綱吉と獄寺が病院に運ばれたという事実だけを伝えるものだった。だから慌てて綱吉の実家に連絡を入れ、偶然荷物を取りに戻っていた彼の母親から病院と、病室とを聞きすのに成功した。彼が病院に到着したのは、夜の九時を軽く回ってから。教えられた病院は彼らの住む町から随分と離れており、タクシーを使う所持金も持たない彼は自宅から自転車で走るしかなかった。恐らく明日の朝には、筋肉痛で悶え苦しまなければならない。
 膝が震えるのは果たして急な運動による疲労からなのか、もっと別の要因なのか。判別がつかぬまま、山本は何を言って良いのか分からず伸ばした手を宙ぶらりんにしたまま、荒く肩で息をした。ガーゼとテープで固定した左頬が、ズキリと痛む。
 山本を呆然と見上げていた女性もまた、告げる言葉を持たず視線を逸らす。胸の中で抱きしめた小さな赤ん坊だけが、普段と変わらぬ感情の読めない瞳で山本を見ている。
「遅かったな」
 小さな唇から放たれたことばに我に返り、山本は自分が悪いところは何も無いはずなのだが、悔しさのあまりに拳を握り締めて俯いた。足元の、白い廊下と己の靴を睨みつけ、何かを殴りつけたい気持ちを懸命に押し殺す。女性――ビアンキの膝から飛び降りた子供が歩み寄り、彼のジーンズの裾を引っ張るので、山本は仕方なく彼を抱き上げた。いつものように、肩に載せて座らせる。
「ふたりは?」
 綱吉の家の居候であるリボーンに問うと、彼は無言で病室の窓を指差した。促されて数歩進み、ビアンキが沈痛な面持ちで両手を握り締めているのを見ない振りをして、窓から中を覗き込む。
 置かれているベッドはひとつで、透明なビニルのようなもので周囲を囲まれている。更になんだか良く分からない機械がいくつか並んで、山本にでも辛うじて分かる心電図では定期的に線が山を刻んで画面を流れていく。ベッドに横たわっているのは、獄寺だった。綱吉の姿は無い。
「ツナは?」
 肩の上に座るリボーンを横目で見ながら問うと、短く隣の部屋にいると教えられる。
「撥ねられたのは獄寺。ツナはそれを見て発作的に過呼吸症状を起こして倒れただけ」
 リボーンが語った直後、背後で座っていたビアンキがビクリと肩を揺らしたが、後ろを向いていた山本は気付かない。気配を読んだリボーンだけが、ちらりと背後を窺ってため息を零す。
「獄寺は……どうなんだ?」
「撥ねられる直前、小型ダイナマイトを使って向かってくるトラックの勢いを相殺しつつ、直撃を避けたお陰で命に別状は無い。衝突する時に身体を庇った右腕が折れて、肋骨にも罅が入っているくらいだな。あとは頭を打っているから、明日に精密検査を受けることになっている。意識は回復していないから、な」
 意味深な言い回しに、山本は自然眉根を寄せて険しい表情を作った。気付いているのかいないのか、赤ん坊に等しい年齢しか刻んでいないはずのリボーンは、しかし老齢の狡猾な人間の如き感情を読ませない表情を貫き、胸の内を明かさない。
「完全に避け切れなかった分、獄寺もまだまだだな」
 聞く人が聞けば激昂しそうなことを口にし、山本はぐっ、と爪が肉に食い込む程拳を握って耐える。相手は分別もまだつかぬ子供だ、堪えろと自分に言い聞かせ、眉間の皺を一層深くさせて。噛み締めた上唇からは、うっすらと血の味が広がった。
 山本の天をも憎む表情にやれやれと、悟られぬよう溜息をついたリボーンは、再び視線を窓で隔てられた先にいる獄寺に向ける。それからゆっくりと首の角度を変え、何も無い廊下の壁を伝ってやがて閉められている扉で止まった。その先に、眠っている相手を思う。
「ツナも、まだまだだな」
「酷いのか?」
 呟きを聞きつけた山本の質問に、扉を見つめたまま、
「一度意識を取り戻した後、記憶が混乱したんだろう、暴れたから鎮痛剤を注射して今は眠っている」
 今度は山本の眉が片方、ぴくりと反応を示す。リボーンの視線が彼に戻った。
「何か知っているのか?」
 それは問いかけというよりも、知っていると確信しての尋問に近い。山本は視線を浮かせ、無機質な反応を返すだけの心電図をなんともなしに見つめる。けれど肩口から追いかけてくる視線からはどうやっても逃れられず、また頬の痛みも、今更呼び覚まされたかのようにずきずきと彼の心を突き刺してくる。
 具体的に何があったのかなんて、現場に居合わせていないのだから山本だって知る余地はない。だが少なくとも、今こういう状態になってしまった原因のひとつに、自分が絡んでいるのは理解できて、だからこそ尚更、山本はことばを選ばざるを得なかった。知らせてよいものなのか、どうなのか。当事者の心情を察すると、黙って胸の奥に潜めておいてやりたいとも、思う。
 だが実際のところは、自分はこの件に関係が無いと逃げたがっているだけなのかもしれない。綱吉に発破をかけたのは山本で、獄寺を殴り飛ばしてまで綱吉と和解するよう諭したのも彼。仲裁のつもりで間に入ったのに、余計にこじれた上取り返しのつかない事態にまで発展させてしまった、その罪から、逃れたいだけの言い訳なのかもしれない。
「俺は……」
 正直に告白して楽になると同時に責められるか、ダンマリを押し通して苦しみを抱えたままでいるか。二者択一。
「悪い。分からない」
 暗い面持ちで首をゆるりと振る。隠し事があるのは表情を見れば分かるだろうに、リボーンは「そうか」と短く返しただけであとは無言。ホッとすべきなのか、問い詰められるのを覚悟していた山本は少々肩透かしをくらいつつ、白いベッドで白い布団に包まれている獄寺に視線を移す。
 彼の姉は疲れきった表情で長い髪を梳きあげ、けれど気丈な立ち振る舞いでそれを悟られぬように動き、山本の隣に並んで冷たくも暖かくも無い窓に手を触れる。指先は、彼女の視線からちょうど獄寺の頭に当たるだろう位置を撫でている。
「……あの」
「ツナに、会っていく?」
 耳に心地よい、年上の女性の声。これが病院の廊下などという場所でなければ、うっとりと聞きほれてしまいそうになるのだけれど、消毒薬に汚染された空気が漂う空間では無理がある。慰めの言葉ひとつでもかけてやりたかったのだが、未だこの世に生まれ出て十五年と経過していない山本には、彼女にかけてやれることばを持ち合わせていなかった。逆に、言うに言い出せずにいた内容を先に聞かれてしまう。
 山本は遠慮がちに、恐縮しながら頷いた。
「会っていくっていっても、寝ちゃっているから顔を見るだけね。起こさないであげて」
 本当は彼女こそ休まなければならないだろうに、顔色の悪さを長い髪で誤魔化して彼女は山本からリボーンを引き取った。山本はそれ以上ここに留まる理由を見失い、頭を下げると踵を返し教えられた病室のドアをノックもせずに開いた。
 背後で、ビアンキが無言のままリボーンを抱きしめる。その声に出されない悲痛な思いが、山本の足を速くさせた。
「失礼します」
 ドアを開けてから、中に綱吉の家族がいるかと思って声をかけたが返事は無い。中は個室で、広々と――違う見方をすれば閑散として、どこか寂しい感じがする。後ろ手に扉を閉めると、予想よりも大きな音が響いて山本はびくりと背筋を震わせた。
 大きな身体をして小さくなりながら背後を振り返り、何もないのを確認して前方に向き直る。半端に引かれたカーテンの陰にパイプベッドの足が見えた。数歩進み、カーテンの端を手で押しのける。点滴の管がまず見えて、その先に細く白い綱吉の腕があった。
 最低限手元が見える程度にまで落とされた照明の中で、綱吉は静かに眠っていた。怪我をしている様子もなく、本当に眠っているだけのようで、獄寺の病室のような物々しい設備は何一つ見られない。ただ据付らしいテレビと小型の冷蔵庫が、申し訳程度に壁際に設置されていた。
 山本はざっと室内を眺めてから、更に歩みを進めて綱吉の眠る顔を見下ろす。薄暗い中でもはっきりと分かる蒼白の顔は生気が感じられなくて、思わず手を伸ばし彼の呼吸を確かめずにいられなかった。
 夢を見ているのか、時々苦しそうに表情を歪めて耐えている姿は直視に耐えず、山本はなおも強く唇を噛んでやがて力なく、ベッドサイドにあった丸椅子に崩れるように腰を落とした。両手で頭を抱き、絶叫を押し殺す。
 綱吉に発破をかけて、獄寺にも発破をかけ、ふたりをうまく仲直りさせたかったのだが、うまくいかなかった。望んでいなかった結末に、山本もまた苦悩し、己の浅はかさを恨む。何故、どうしての繰り返しばかりで答えは見つからない。
「悪い、ツナ、それに獄寺も……」
 どこで狂ってしまったのか、深く息を吐いて山本は天井を仰ぐ。ぴくり、と綱吉の指先が痙攣にも似た動きを見せたのに気付かない。
「俺が、変に唆したりしなきゃ良かったんだろうな」
「山本は、悪くないよ」
 不意に。
 予測不可能なところから聞こえた、小さな声。目尻に熱いものがこみあげていた矢先だっただけに動揺を隠せず、ギョッとした山本が慌てて視線の位置を落とすと、しっかりと両目を開いた綱吉と目が合った。不意打ちに、ポロリと涙が一滴だけこぼれ、急ぎ顔を逸らす。
 綱吉は笑ったりしなかった。ただ少し寂しげに、山本を見上げる。
「悪い、起こしたか」
「ううん」
 右目を擦って涙を払い、取り繕うように上ずった声で言った山本へ、今度は首を振って綱吉が顔を背ける。素っ気無い白壁がそこにはあって、綱吉の視界を埋め尽くす。だけれど網膜に焼きついた光景は消えなくて、見たくない光景に硬く目を閉じる。
 なのに、どう足掻いてもあの瞬間、血に染まるアスファルトと獄寺の腕とが記憶に貼り付いて剥がれない。見たくもないし、思い出したくもないし、胃の中のものは全部吐き出したはずなのに嘔吐感が静まらない。
 泣き尽くせない涙が、また頬を辿って枕を濡らす。
「あのさ、ツナ」
 何かを言わなければと、山本は中空に視線を飛ばしながら言葉を捜す。しかし場を和ませる気の利いた冗談のひとつも言えず、かといって黙り込むのも綱吉に悪い気がして、結局先ほどまで綱吉が見ていた壁に目を向けた。
 その向こう側には、獄寺が眠っている。
「あいつ……獄寺、怪我、大丈夫だって。骨が折れてるって言ってたけど、命に別状はないからって。なんか、良く分かんねーけど、直撃は避けたとかどうとか、言ってた」
 だから、あんまり気に病むなよとは、言えなかった。
 獄寺の症状を初めて聞かされたらしい綱吉は大きく目を見張り、それから山本と同じ方角を向いて心底安堵した顔を作る。声は聞こえなかったが、山本の目には彼の唇が「良かった」と刻むのが見えていた。
 だからこそ山本は、綱吉に告げることが出来なかった。
 獄寺が未だ意識を取り戻しておらず、こん睡状態に陥ったままであることを。我ながら、自分はずるくて弱い人間だと思いながらも、彼は綱吉に追い討ちをかけるかのような真実を語る術を持たなかった。
「お前も、元気出せよ」
 目の前で友人が交通事故に遭った瞬間を目撃してしまったのは、限りない不幸だろう。ましてや相手が、少なからず好意を抱いている相手ならば、なおさらに。そしてショック症状を起こし、病院に担ぎ込まれるような状態にまで精神的に追い詰められていた綱吉に、だからこそ。
 山本はこれ以上、綱吉を傷つけたくなかったし、傷ついて欲しくなかった。なにより、傷ついて苦しむ綱吉を見ていたくなかった。
 彼が――好きだから。
 他の誰より、自分自身よりも、彼が大切だから。
 綱吉にならばどれだけの汚い言葉を投げかけられようと、詰られようと構わない。だがその逆は、絶対に嫌だった。
 黙りこんだ山本をどう受け止めたのか、綱吉は数回瞬きを繰り返し、枕に深く頭を預け、それから小さく頷いた。
「うん、ありがとう」
 ありがとう、ともう一度呟いて。
「俺は平気だから……ね? 山本」
 泣かないで、と言われて初めて、山本は自分が涙を流していたのを思い出す。
「ばっか、ちげーよ。これは、泣いてるんじゃなくってだな」
 ぐいっと乱暴に頬を拭い、赤くなった顔を隠しながら山本は言い訳をしようとして失敗する。ベッドの上で綱吉が目尻を下げて笑い、もう彼が笑ってくれるのならなんだって構わないと思い直すことで自分を慰める。
 笑いやまない綱吉の額を軽く指で弾き、自分も声を立てて笑ってみた。
 何故だか余計に泣きそうになって、山本は更に大きな声で笑った。

 その日はもう遅いこともあり、山本を帰した後リボーンとビアンキも様子を見に来てそれぞれ家に帰っていった。綱吉も特別具合が悪いわけではないので帰ると主張したが、今日一日くらいは病院でゆっくり身体を休めるようにビアンキに諭されて、結局ひとり居残ることに。
 かといって一度目が覚めてしまうとなかなか寝付けない。点滴は看護師が外してくれたので動き回るのに支障ないけれど、時計を見るともう深夜もいいところで、そんな時間帯に病院をうろうろするのも不謹慎だろう。
 仕方なく、ベッドに横たわりながら闇の中で天井を見上げるばかり。
 目を閉じると、嫌でも昼間の光景を思い出してしまう。目が乾燥するのも構わず、瞬きの回数を減らしていても気付けば涙が溢れ出てとまらなくなる。
 会いに行こうか、そう思い起き上がろうとした時もあった。しかし眠っているのを起こすのも悪いし、看護師に見つかって咎められるのも面倒。どうせ明日の朝になれば会えるのだからと、逸る気持ちを抑えて布団の裾を軽く蹴り上げる。
 まずは謝ろう。酷いことを言った、酷い態度を取った、彼に傷を負わせた、危険な目に遭わせた。それを謝って、それから伝えよう。
 君をどう思っているかを、君に伝えよう。
 理解してもらうには時間がかかるかもしれないけれど、ゆっくり、少しずつ歩み寄れればきっとふたりの間にある溝は埋まるのではないかと信じる。自分から突き放して、逃げてばかりではダメだと思い知ったから、勇気を振り絞ってこちらから歩み寄る努力をしようと思う。
 考えれば獄寺はずっと、綱吉に歩み寄ろうとしていたではないか。綱吉が気付けなかっただけで、彼は綱吉の傍にずっといたのに。
 これからは、今までよりも良い関係が築けると思う。だからこそ自分も、元気を取り戻さなければと綱吉は寝返りを打ち布団を被り直した。寝不足の顔を見せたら、獄寺もきっと心配するだろうから。
 目を閉じて視界を闇に閉ざせば、気がつけばうとうととして寝入っていたようだ。夢を見ているのだと分かる空間に投げ出され、綱吉はぼんやりと何も無い虚空を見上げていた。
 光は無く、そこはあの、溝に阻まれた世界とよく似ていた。
 不安材料はもう消え去ったはずなのに、またこんな夢を見るなんて不本意である。綱吉は釈然としないまま、夢だと分かっているけれども出口を求めて真っ暗な空間を歩き出した。足音だけが不気味に響き渡り、手探りで壁にぶつからぬよう広い場所を歩き続ける。まっすぐ進んでいるのか、いないのかも分からない曖昧な世界で、綱吉はふと、誰かが前を歩いているのではと思うようになる。
 視線を落とした先、己の足元に他人の長い影が見えた。やはり誰かいる、ひとりぼっちにも飽きてきて心細ささえ覚えだしていた綱吉は表情を明るくし、前方に目を凝らした。すると真っ暗闇だというのに視界が開け、ぽつんと見慣れた背中が浮かび上がった。
 あ、と思わず口に出してしまうほど唐突で、けれど綱吉の心臓を跳ね上がらせるに十分な背中。良かった、無事だったんだと、まだ実際には会えてもない相手に喜んで、緩みかけていた足取りを速めた彼はその背中を追いかける。
 けれど、届かない。
 もう少しで追いつけるという距離で、急に背中は小さくなり遠ざかる。理不尽に思いながらもまた走って追いかけて、手を伸ばして腕を掴もうとしたら、するりと彼の背中はまた逃げていった。あまりの足の速さに、立ち止まってくれないかと懸命に呼びかけるのに、背中は振り返りもせず、また歩みを止めない。
 徹底的に無視され、徹底的に避けられて、拒絶されて。
 最後、綱吉は動けなくなった。
 ――なんで……?
 呆然と見送る背中は段々小さくなっていく。泣きそうになるのを堪え、もう一度歩き出して後を追うが、やはり互いの距離は縮まらず、逆に開いていくばかり。
 ――待って。待ってよ、ねぇ。
 その背中に呼びかける。声を枯らし喉が潰れるくらいに大声を張り上げるが、まったく反応は見られず綱吉を打ちのめす。肩が抜けそうになるまで腕を伸ばし、もがいて、捕まえようとしても指先は虚空を掻くばかり。
 ――待って、行かないで。置いていかないで!
 悲鳴が。
 絶叫が。
 ――獄寺君!
 全身が引き裂かれそうな思いで、振り絞った声は虚しく闇に溶けて、彼の姿かたちもまた失われ。呆然と立ち尽くす綱吉だけがその場所に残り、世界は再び沈黙に閉ざされる。
 暗く、冷たく、寂しい世界へと――

「――――っ」
 ハッと、意識があると自覚した瞬間に開かれた両目は真っ白な天井を一面に映し出していた。
 自分が目覚めたのだと理解するのに少しの時間が必要で、綱吉は荒い呼吸を繰り返し全身の筋肉へ足りない酸素を送り出す。体中が汗まみれで、夢の中で蹴り上げたらしい布団から両足がはみ出ていた。
 白く清潔なカーテン越しに日の光を感じて、今が朝なのだと知る。首を傾けて、母親が持ってきてくれた自分の目覚ましを見ると午前六時を少し回った頃。日が昇るのが早いこの季節、外は既にかなり明るかった。
 しかし普段ならばまだ眠っている時間である。意識するとまた眠気が迷い込んで来そうだったが、夢見が悪かった所為か心臓の拍動も耳に五月蝿く、眠るのがどことなく怖く感じる。正夢ではないかという一瞬胸に抱いた不安を、そんな筈が無いと否定するものの、確信を得るのに決定打を持たない綱吉は熱い息を吐きながら、もう一度否定を頭の中で繰り返し呟き首を振った。
 光の眩さにさえ涙が出そうになって、重い腕を持ち上げて顔を覆う。
 随分と泣き虫になったものだ、すっかり緩くなったまま元に戻らない涙腺に苦笑を禁じえない。パジャマの袖口が濡れていくのを受け止めながら、綱吉は荒い呼吸を再度数回行い、漸く落ち着きを取り戻す。
 空腹感は無かった、眠る前まで受けていた点滴のお陰だろうか。あとは夕方からずっとベッドの上で眠っていたからかもしれない。動いていなければ、あまり腹は減らないものだなとぼんやり天井を見上げ、考える。
 今日の朝食はどうなるのだろう。緊急的に病院で一泊する羽目になったが、入院したのとは若干状況が異なっているから、もしかしたら病院食は出ないかもしれない。病気や怪我をしたのとも違うので、そもそも病院食を食べる必要性もないわけだが。意識し出すと途端、薄情な胃袋がぐぅ、と音を立てた。
 誰かに聞かれたわけでもないが、罰が悪そうに顔を歪めて綱吉は慰めのつもりで布団の上から腹部をさすった。
 五分ほどが経過しただろうか。退屈は限界に達しようとして、あくびさえ出ない状況に辟易した綱吉は数回目の溜息の末、諦めて身体を起こした。あちこちの関節が嫌な音を響かせ、多少の痛みを伴って綱吉に生きていることを実感させる。顔を顰めながら軽く両肩を回して背筋も伸ばし、首を回すストレッチを行ってから彼はベッドサイドに座りなおす。踵が擦れそうで当たらない絶妙な高さで、ぶらぶらと揺らしているとベッド下に隠されてあった靴に足の裏がぶつかった。
 身体を丸めて覗き込み、引っ張り出すとそれは通学に毎日履いている、少々くたびれ気味のスニーカーだった。
 ほんの少し迷って、綱吉は踵部分が潰れかかっているその靴につま先を突っ込んだ。素足のまま踵を踏んで簡易スリッパにし、立ち上がる。右膝がバキっと言ったが、気付かなかったことにする。
 靴底を引きずるようにして、まずは病室の中を歩き回る。五歩もいけば向かい側の壁に到着してしまう広さしかないが、病院の個室を借りるだけでも結構なお金が必要だろうに、大丈夫なのかと自宅の懐具合を真っ先に心配してしまった。
 真っ白に塗られ、ひとつも汚れていない壁に手を添える。ひんやりとしており、まだ眠っていた身体の細胞が目覚めていく感覚に、瞳を細めた。
 首を回して振り返り、カーテン越しの日差しを見つめて今度はそちらへと歩み寄った。端を摘み、少しだけ引いて外を見る。知らない町並みが広がっていて、小学校の修学旅行で宿泊した宿から眺めた光景を思い出す。高速道路が右前方にカーブを描きながら走っていて、早朝だというのにトラックや乗用車が忙しなく流れていく。
「……ちょっと覗くくらいなら、いいよね」
 自分に言い訳をしながら呟き、綱吉はカーテンから手を離した。まだ本調子とは言い難い身体を引きずり、窓と反対方向に進路を定めてゆっくりと進む。銀色のドアノブは白壁よりもずっと冷たく、扉を開けるのに力が必要だった。
 半分ほど開けて、廊下に身体を滑り込ませる。ツンと鼻を刺激する空気と、刺さるような冷たさ。吐く息が白く染まっていないか確かめてしまいそうで、綱吉は誰もいない廊下に立ち尽くす。等間隔で天井に並ぶ蛍光灯は沈黙しており、廊下の突き当たりにある非常扉の窓から差し込む光が、ぼんやりと景色の輪郭だけを浮かび上がらせていた。
 反対側を向くと、今度は物悲しい光景が一変して、ナースステーションから漏れる皓々とした灯りを廊下が反射している。僅かながら人が動く気配もするのは、夜勤で詰めている人がいるのだろう。誰かが出てくるだろうかとしばらく待ってみたが廊下に動きは無く、安堵なのか分からない吐息を零した綱吉は、ナースステーションと自分が泊まった病室の間にもう一部屋あるのに漸く気付いた。
 最初は何故あんな中途半端な位置に長いすが置かれているのだろうと疑問に思い、近づいたのがきっかけだった。そして壁に窓が設けられ、病室内が覗けるようになっているのだと知る。綱吉が窓前まで来た時にはカーテンがかけられ、中の様子は窺えなかった。
 だが、確信する。この向こう側に獄寺がいるのだと。
 昨晩の山本との会話を思い出し、頭の中で反芻してみる。怪我はしているが、命に別状は無い。彼はそう告げた。だから綱吉は勝手に、彼はもう大丈夫なのだと勘違いしていた。山本が言った「怪我は大丈夫」という意味を、彼自体がもう大丈夫なのだと錯覚した。
 そう信じたかっただけなのかもしれない。後から考えれば、あれは山本の、優しさだったのだろう。
「あら、目が覚めたのね」
 声に振り向くとまだ若い、二十台前半の女性が立っていた。男であれば最低でも一度は憧れを抱くナース服の女性に不意打ちを仕掛けられ、動揺した綱吉はそのままよろり、と身体を傾がせて肩から壁にぶつかってしまった。幸いにも体重がさほど乗っておらず、痛みも小さい。
「大丈夫?」
 しかし元々怪我人、病人を看るのが仕事の彼女は食いついてきて、綱吉は曖昧に笑いながら平気です、と小声で返す。そのまま獄寺がいるだろう部屋の窓に視線を流してカーテンの皺を数えていたら、何故か残念そうにした看護師も気付いたようで、同じ方向に視線を流した。
 それから、かわいそうにね、と小さく呟く。
「え?」
 どういう意味かと、綱吉が問いかける前に、おしゃべりな性格らしい彼女は聞かれてもいない事を教えてくれた。綱吉と獄寺とが親しい間柄であるのは既に周知の事実だったからだろうが、彼女の迂闊さを綱吉は責められなかった。
 責め立てる余裕すら、なかった。
 まずは獄寺が格好いいという見た目を褒めるところから話は始まった。ここは適当に相槌を打ってやり過ごし、綱吉は本題に入ろうとしない彼女を思わず睨みつけてしまった。ただ元から顔に迫力が足りない為か彼女には通じず、諦めと呆れで溜息が出そうになったところで不意に、彼女は声を潜めた。
 でも、このまま意識が戻らなかったら、可哀想過ぎるよね、と。
 綱吉は耳を疑った。両目を見開き、看護師を見上げて呆然となる。彼女は綱吉の変化に一切構わず、今日は午前中に脳波測定を行って調べることや、腕の骨折具合では一ヶ月以上ギブス生活を強いられるだろうと語り続ける。おしゃべりな女性の声は後半以降綱吉の耳に殆ど届かず、どこまで聞いたのか彼自身も分からない。
 ただ放っておけば彼女は永遠に喋り続けていそうで、
「あの」
 上ずった音が、綱吉の声帯を震わせて表に出る。気付けば人差し指だけを立てた右手が、窓の脇にある、閉じられている扉を指していた。
「中、良いですか」
 語尾は上がらない。問いかけではなく、確認。中に入って良いですか、ただそれだけ。
 しかし声と表情から何か薄ら寒いものを感じ取ったのだろう、看護師はぴたりと喋るのをやめてコクコクとしつこいくらいに頷いて返してくれた。
「どうも」
 目礼して綱吉はドアノブに手をかける。音も無く開いたそこから身体を滑り込ませ、中に入り込む。扉を閉める直前、看護師が胸に手を当てて冷や汗を拭う姿が見えた。
「やだ、ちょっと……今すごい、怖かった……」
 十歳近く年が離れている少年の眼力に気圧されてしまったとは思いたくなかったが、思わず口について出たのは本心だろう。聞かなかった振りをして、綱吉はドアを閉めた。
 中は綱吉の部屋よりも白さが薄い気がした。それは、隣の病室よりも物が、特に無機質な機械類が多く並べられているからだろう。耳につく電子音は一定間隔で流れ、呼応するように濃緑のモニタに白っぽい線が浮き上がる。跳ねては沈み、沈んでは跳ねる。そのリズムは至極安定しているように見えて、平常とどう違ってくるのか、専門知識を持ち合わせていない綱吉には分からなかった。
 ベッドを囲んでいるカーテンは半分近くが閉められて、寝かされている人の姿は見えない。浅く息を吐いた綱吉は、音を立てぬように慎重に歩み寄り、居並ぶ機材を避けてベッド脇に立った。
 白い布団に包まれて、獄寺はそこにいた。穏やかな顔をして、呼吸を補助する機械で顔の下半分を覆われているが、表立って目立つ傷跡は見当たらなかった。ただ布団からはみ出ている彼の右腕が、上腕部から指先にかけてギブスで固定されていた。
 本当に、ただ眠っているだけで。
 頬を抓んでやれば、痛みですぐに目を覚ましそうなのに。
 実際に手を伸ばして、閉ざされた瞼に被さる前髪を払いのけ、柔らかい頬に触れて、撫でて。頬を抓るのはさすがに気が引けたので、耳たぶを掴んで軽く、引っ張ってやった。
 反応は、無かった。
「……っ」
 声は出なかった。代わりに涙が一気に溢れ出て綱吉の顔を汚した。嗚咽が漏れて、空っぽの両手で顔を覆い隠す。いやいやと子供のように首を振っても、変化を見せない現実がただ押し寄せてくるばかり。
 全身から力が抜け、綱吉はその場に崩れ落ちた。膝立ち状態で倒れるのだけは回避したが、いっそ床に転がって両手両足を投げ出して暴れてしまいたかった。
 信じない。こんな現実は信じたくない。
 頭を振って綱吉は受け入れがたい現実に拒絶反応を返す。だが安定したリズムで送り出される電子音と、耳を澄ませば聞こえる、呼吸器越しに拡張された獄寺の呼気や、扉越しに感じる人の気配に、夢であればいいという願いは虚しさに打ちのめされる。
「なんで……っ」
 このことばを、この数日間でいったいどれくらい呟いただろう。
 心の中で、独り言として、自分自身に対して。そして獄寺に対して。
 幾度と繰り返しされたことばは、今度も答えを見出せぬまま、静かに朽ち果てていく。積もり重なった灰で、身動きが出来なくなりそうだ。
 扉が開いて、看護師が検診の為に入って来たが、ベッド脇に佇む綱吉に事情を察したのか、何も言わずに静かに扉を閉めて出て行った。
 声を上げて泣きたいのに、声すらも出ない。ただ止め処ない涙に翻弄されながら、綱吉は辛うじて搾り出した声で、獄寺の名前を呼んだ。
 返事は、なかった。

 数えるのも億劫で、カレンダーはなるべく見ないようにしていた。
 朝は目覚ましが鳴るよりも先に目が覚めて、二度寝も出来ぬままベッドの上でぼんやりと時間を過ごす。迎えに来る人がないままに学校に行って退屈な授業を受けて、山本と言葉少なに昼食を片付け、聞いているのかいないのか分からないままに午後の授業を終える。掃除もそこに教室を飛び出してバス停まで走り、本数の少ないバスに駆け乗ってお年寄りに囲まれながら隣町の病院に通う毎日。
 最初はクラスメイトなんかもついてきてくれたが、日を置くに従って綱吉につきあう人はいなくなった。
 彼らを薄情だと詰るつもりはない。人にはそれぞれ生活があり、重きをおくものがある。綱吉はたまたまそれが病院への見舞いであっただけで、他の人は違うのだから。彼だってクラスメイトでも、特別親しい相手でなければ一度顔を出しただけで、以後はよほどでない限り見舞いになんて行かないだろう。
 バスを降りて少し歩くと大きな病院が聳え立っていて、正面の自動ドアを抜けるとまずは外来の患者用のロビーがある。綱吉は手前側にある三階までしかないエスカレーターではなく、もっと上の階まで繋がっているエレベータに乗り込んだ。目的の階のボタンを押し、下から何かが競り上がってくる感覚に耐えながら段々と数字が大きくなっていく階数表記を見上げる。
 ポーン、という軽い音を響かせてエレベータは止まり、綱吉を降ろすと無音で扉は閉まった。病室が居並ぶ廊下は明るく、エレベータホール前のロビーではソファに座った入院患者が、テレビを見ながら雑談している姿が見られた。
 既に毎日訪れている綱吉の顔は知れ渡っていて、励ましや慰めをくれた人の姿も見られる。彼らは綱吉の姿を認めると、気楽な調子で片手を挙げて挨拶をしてくれる。逐一返すのも億劫なので、まとめて一礼して挨拶に代え、綱吉は目的の病室へそそくさと向かった。
 すれ違う看護師たちとも既に顔見知りであり、軽く会釈だけをしてすれ違う。
 綱吉が目覚めたその日の午前中に精密検査を受けた獄寺は、脳波に異常なしと診断されてしまい、意識が戻らない理由は結局分からないままだ。綱吉やビアンキが呼びかけても反応はなく、最悪このままずっと意識不明のままかもと心配していたら、医者はこともなげに、何かきっかけがあればすぐに目を覚ますだろうと楽観的なことを言っていた。
 実際怪我はしているものの、頭へのダメージは殆ど見受けられないのだという。とはいえその全容が未だ解明できていない脳だから油断は出来ないわけで、獄寺は病室をもっと奥にある個室に移しそこで過ごしている。
 引き戸タイプの扉を開け、一歩足を踏み出す。ビアンキが来ていたのだろうか、いつもは閉まっている窓が開放されてカーテンが静かに揺れていた。鞄を下ろしながら綱吉は部屋を見回すが、誰もいない。既に帰った後だろうか。
「こんにちは、獄寺君」
 妙に他人行儀な挨拶だと、自分でも思う。ベッドサイドに近づきながら呼びかけ、鞄を椅子に預けた。枕元の棚には花瓶が置かれ、綺麗な花が咲いている。彩りや種類の趣味の良さで、ビアンキが持ち込んだものだろうと容易に想像できた。昨日も別の花が飾られていたから、毎日買い換えているのだろうか。
 獄寺は、今日も変わらない寝顔でそこにいた。
 最初は間近で見つめるのも辛くて、すぐに泣き出してしまいそうになっていた綱吉だったけれど、時間という薬がじわじわと効力を発揮してきているのか、今では涙も浮かばなくなっていた。その代わり、胸を締め詰められる痛みは酷さを増している。
 綱吉は椅子に置いた鞄を持ち上げて腰を落とした。鞄を膝に載せて口を広げ、中から学校で渡されたプリントを取り出して広げる。複数枚あるそれは課題であったり、学校からのお知らせであったり様々だ。主不在の机に置かれているものを、毎日綱吉が回収して届けている。
 それらを一枚ずつ、眠っている獄寺に向けて広げ、内容を説明していくのが彼の日課だった。返事はないし、反応すら返ってくることはなかったが、言ってしまえば他にすることがなく退屈であり、顔を見て過ごすだけの時間は綱吉の心を締め上げるばかりなので、虚しくても何かをしていたかった。
「あと、今日すごい事があってさ。ほら、獄寺君も知ってるでしょ?」
 バスケ部のクラスメイトが、全国大会への選抜チームに選ばれた。掃除の時間にバケツに足を突っ込んでひっくり返るという馬鹿な奴がいた。学校へ行く途中にある畑の傍で、綺麗に花が咲き乱れていた。
 たわいもない話を、延々と繰り返す。相槌を返してくれる相手がいないのは寂しい限りだけれど、自分が沈黙してしまうとそれだけで空気が重苦しくなってしまう。ラジオでもあれば良いのに、と綱吉は呼吸の合間に思った。
 視線を上げて窓を向く。明日の天気予報は曇りになっていたが、その通りを予見させる曇り空に、太陽だけが妙に赤々と浮かび上がっている。雲がなびく地平線は灰色なのに、太陽だけが赤く染まっている。
「ねえ、獄寺君」
 君は今、どんな夢を見ているのだろう。追いかけても、追いかけても、追いつけなかったあの日の夢を思いながら、綱吉は呟いた。
 視線は窓を向いたまま。ちらちらと揺れ動くカーテンが視界から消えては現れ、彼の意識をぼやけさせる。
「ごめんね、なんか色々。俺、獄寺君に怪我や、命に関わるような真似事を、本当はして欲しくなんかなかったのに」
 結局綱吉が原因で、獄寺は傷を負い、今も意識は戻らぬまま。
「俺、獄寺君が恐かった。でもずっと、その恐い理由が分からなかった。ううん、違う。考えなかったんだ、考えないようにしてた。でも、もう気づいた、解っちゃった。獄寺君が恐かった理由、分かったんだ」
 君はいつも、自分の身体を顧みずに敵にぶつかっていく。自分を巻き込んで、傷つけてでも倒そうとする。その危うい戦い方は、綱吉の望むところではない。ただでさえ誰かを傷つけたり、自分が傷ついたりするのを怖れている綱吉だからこそ、獄寺のように、自ら戦いを求め、敵を呼び寄せる存在は恐怖以外の何物にもなり得ない。
 マフィアの十代目をかたくなに拒むのも、無論自分の意志を尊重されない事への反発心からというのもあるが、大切な友人や、仲間を危険な目に遭わせてしまう環境が何より、好ましくなかった。自分ひとりが傷つき、倒れるのならば、自分が我慢すれば事足りるけれど、今の状態は決してそうならない。本当は戦いたくない相手と拳を交えるのも、単純に勝った、負けた、の問題で片付けてしまうのも、綱吉は嫌だった。
 何より獄寺には、ボンゴレ十代目として在る自分ではなく、ただの沢田綱吉として見て欲しかった。それは、彼が、綱吉が危険に巻き込まれた際には他の何を置いてでも綱吉を庇い、守り、自分が傷を負うのを躊躇わないからで。
 雷雨が町を襲った日に、獄寺が当たり前のように綱吉を胸に抱き込んで庇ったような出来事の、もっと酷い状況がいずれ訪れると、綱吉自身気づいて、それがなにより、恐ろしかった。
 その恐怖を認めてしまったら、本当にそんな日が来ると認めてしまった事に繋がるようで、恐かった。
 だから逃げて、逃げ回って、見ないふりをして、気づかなかったことにして、忘れようとした。無かった事にしてしまいたかった。
 夕暮れ時の少し冷たい風が窓から吹き込み、綱吉の髪を揺らす。西の空に浮かぶ赤い太陽は徐々に、だけれど確実にビルの谷間に沈んで行く。あと少しで面会時間も終わるので、綱吉は帰らなければならない。病院での夕食の時間も早いから、そろそろ獄寺への食事も用意されて運ばれて来るだろう。
「俺さ、獄寺君の事、好きだよ。うん、大好き……だから」
 不意に泣きそうになって、綱吉は口元を手で覆い隠した。
「だから、ね? 俺は、獄寺君に……死んで欲しくない……」
 堪えきれない涙が一粒、頬を伝って綱吉の指先を濡らした。続いて反対側も、彼の手首を薄く濡らす。
 静かに横たわり、微動だにしない獄寺の右の指先が、僅かに痙攣に似た動きを示す。だがそれは一瞬過ぎて、綱吉の視界には入らなかった。
「俺、ごめんね、馬鹿だから気が付くの遅くて。もしかしたら獄寺君は俺の事、愛想尽かして嫌いになっちゃったかもしれないけど、俺はそれでも獄寺君の事、大好きだから」
 袖で乱暴に両目の涙をぬぐい去り、綱吉は無理矢理に笑顔を作って言った。そして口を開けたまま膝の上で待ち惚けしている鞄を片付け、持ち込んだプリント類はベッド脇の棚の、一番上の引き出しに押し込む。
「じゃあ、俺、帰るね。明日もまた来るから」
 もう一度目を擦って最後の涙を拭い、綱吉は窓を閉めようと鞄を椅子に置いて立ち上がった。獄寺に背中を向け、のろまな亀の動きで歩き出す。
 後ろで獄寺の唇が、息を吸って吐くのとは異なる動きを見せているのに気付かずに。
 両手を伸ばし、額を窓ガラスに押し当てるようにして、窓を閉めて。
「……め……」
 微かに耳に届く、風や、廊下からの響く機材を動かしたりする金属音、人の声、足音とは全く異なる音があるのに、漸く。
 気が付いて。
「……じゅ……ぃめ……?」
 振り返る。
 瞬間、膝が抜けそうになるのを必死で堪えている綱吉がそこにいた。タイミングを計ったかのようにドアを開けて入ってきた看護師が気付いて、奇声のような大声をあげながら慌てて廊下に飛び出して医者を呼びつけて、あとはもう、散々だった。
 ビアンキも連絡を受けてすっ飛んできたけれど、彼女が来るまで綱吉は帰れなくて、彼女が来てからも何故か帰して貰えなくて。状況が一番分かっていないのは獄寺本人で、彼はトラックに撥ねられる直前からの記憶が丸ごとすっぽ抜けていた。
 意識が戻った事で更に検査が行われ、どたばたしている間に日は暮れていて、綱吉が自宅に帰り着いたのは結局夜中になろうとしている時間だった。しかも山本が、どうしてだか綱吉の家で彼の帰りを待っていて、「良かったな」と言われて頭を撫でられた途端に現実感が戻ってきて、綱吉は今度こそその場で腰を抜かし、起きあがれなくなってしまった。
 何がきっかけで獄寺の意識が戻ったのかは、よく分からない。何かあったのではないかと医者にも聞かれたが、答えられる筈もなく、綱吉は曖昧に笑って誤魔化すのが精一杯だった。
 ただ、後日。
 幾度かの検査の末、異常なしと診断された獄寺がやっと退院の日取りが決まった、その一日前。
 いつものように放課後の時間を利用して病院を訪れていた綱吉は、獄寺に散歩に誘われて屋上へと出向いた。そこは学校の屋上とは違い、物干し竿が等間隔で並んで真っ白いシーツが干されている手狭感を抱かせる場所だった。
 だが風は絶え間なく吹き、重苦しい雰囲気がある病院内とは開放感からして違っていて、綱吉は思わず足を止めて深呼吸をしてしまった。
「十代目、ここから町並みが綺麗に見えますよ」
 シーツの海の向こう側で獄寺が手招きをして、綱吉もそちらへと向かう。背の高いフェンス越しに、綱吉の住む町が小さく見えた。
 あれから獄寺との関係が何か変わったかと言えば、それは全く、何も無かった。ただ彼は事故に遭った時の状況を綱吉や、他の面々から聞かされて状況を理解し、自分の力量の足り無さにひたすら恐縮していた。
 彼は綱吉が最後に言い放った台詞を、覚えて居なかった。無論綱吉が眠っている獄寺に向かって語りかけた内容も、聞こえていた筈がなく、何も覚えていない。
 それは綱吉にとって、救いであったか、否か。
 結論は彼自身にも、まだ出ていない。確かに寂しくはあるが、以前と変わらぬ接し方が出来るのは有り難かった。
「いよいよ、明日退院だね。学校があるから来られないけど、気をつけてね」
 煽られる髪の毛を片手で押さえ、綱吉は未だギブスが外れないで居る獄寺の左腕を見た。上腕部からがっちりと固定されている為、大分動きづらそうだし日常生活にも支障が出るだろう。予想よりも怪我の治りが早いとかで医者を驚かせていたが、当分は不自由な生活を強いられる事になる。
 だが獄寺は何でもないように笑って、大丈夫ですよ、とことばを返す。
「俺、見た目よりも頑丈ですから」
 にっ、と歯を見せて笑って、彼は右腕を持ち上げる。肘は曲がらないので、白く太い棒が前後に揺れる感じに近い。綱吉は肩を竦め、気丈に振る舞いたがる彼に嘆息した。
 そんな綱吉の横顔を見つめ、獄寺が瞳を細める。
「ご心配、おかけしました」
「本当だよ」
 神妙な口調でしんみり言うものだから、つい綱吉は反発するような事を言ってしまった。
「すっごい、心配したんだから」
 フェンスに両手の指を絡め、視線を遠くに投げつけて、綱吉は身体を前後に揺らす。
「死んじゃったらどうしようって、凄く心配した」
「すみません」
 横目でちらりと獄寺を盗み見ると、彼は綱吉に向かって九十度の角度で腰を曲げて頭を下げていた。思わずぽかんと口を開けたまま見守ってしまう。ゆっくりと顔を上げた彼は、しかしどこか真剣な顔をして、
「でも、俺はあれくらいじゃ死にませんから」
 十代目を置いて、死んだりしませんから。
 瞳の裏にそんな思いを滲ませて、彼は綱吉を真正面から射抜く。ドキリと心臓が跳ねて、顔が赤くなっていくのを自覚して、見られているのが恥ずかしくなった綱吉はまた西の方角を向いた。夕焼けを浴びていれば、顔の赤みはきっと誤魔化せるだろう。
 しかし獄寺の視線を感じて、どうにも落ち着かない。フェンスに絡ませた指を意味もなく動かしながら、頬を撫でる温い風を感じて、いつもより早い呼吸を繰り返す。
「俺、意識が無い間ずっと夢見ていたみたいなんスね」
「夢?」
「はい。暗いばっかりの場所で、俺はそこにひとりで突っ立ってました」
 周囲を見回しても何もなくて、誰かいないかと叫んでも返事はない。歩き続けても出口は見えず、壁にもぶつからない。聞いていて、綱吉は自分が見ていた暗闇の中にある溝を思い出した。
 無意識に、両手に力が入る。フェンスがカシャン、と軽い音を立てた。
 追いかけても、追いつけなかった背中。呼びかけても振り返ってくれなかった背中。心が引き裂かれそうになった、あの暗闇には二度と戻りたくない。奥歯を噛みしめて綱吉は熱い息を吐く。
 その背中に、暖かなものが触れた。自由な側の左腕を綱吉に回して、獄寺が後ろから綱吉を抱きしめた。
 びくっ、と綱吉は全身で震える。ますます強くフェンスにしがみついて、逃げだそうと腰が引けてしまう。獄寺も分かっているのだろう、ややしてから押し殺した声を零した。
「でも、聞こえたんです。十代目の声が、俺を呼んでいる声が聞こえて、俺は……」
 彼はそこで言葉を切った。思い詰めるような間合いに、綱吉は動けない。
 ややあって、獄寺は首を振った。瞼を閉ざし、何かを堪える。
「……嫌なら、逃げてください。前みたいに」
 その声があまりに切迫していて、苦しそうで、綱吉はハッと目を見開いて前方を凝視する。獄寺の顔は、恐くて振り返られない。腰に回された彼の左手が、遠慮がちに綱吉を拘束する。暴れれば今すぐにでも逃げ出せるように、獄寺はギリギリのところで耐えている。
「お願いです、十代目。今拒否してくれたら、俺はもう追いかけません。だから嫌なら嫌と、今ここで、そう言って下さい」
 左の肩口に重みを感じた。獄寺が凭れ掛かり、そこに額を押しつける。ややくぐもった声で苦しそうに紡がれる彼の言葉に、綱吉は目を閉じた。
 目の前の世界が闇に堕ちる。静かな、寂しい景色が広がって、目の前には深く広い溝があった。
 向こう側には獄寺がいる。小さいと感じていた光が、今はとてもとても、大きく見えた。
 綱吉は黙って手を伸ばす。あれだけあった距離が、一瞬で縮まるのが分かった。
 この手がどうか、届きますように。そう祈りを込める。
「十代目……」
「獄寺君、お願いがあるんだ」
 綱吉はフェンスから手を離した。錆びがついた手のひらを見下ろし、ぎゅっと握りしめた。
「危ない事は、これからはできるだけ、しないで」
「……努力します」
 低い声で、実に不安な返事が戻ってくる。それがあまりにも彼らしくて、綱吉はつい笑ってしまった。
「あとね、それから」
 綱吉は獄寺の緩い拘束を利用して、身体を反転させた。背中をフェンスに預けて凭れ掛かる。少し視線を持ち上げると、予想外な事に驚いている獄寺の顔があった。
 こんなに身近から見上げるのは、随分と久しぶりの気がした。
「出来れば『十代目』じゃなくて、名前で呼んで欲しいんだけど」
「え!?」
 それこそ予想外だったらしい。獄寺はあからさまに驚いて、綱吉から手を離して半歩も後ろに後ずさった。あまりの失礼さに、綱吉の表情が険しくなる。唇を尖らせて不満を露わにすると、恐縮した彼は何度も首を横に振りつつ、それは出来ないと繰り返す。
「そんな、十代目のお名前を呼ぶなど、自分には恐れ多いです!」
 両手を振り上げて力説されて、綱吉は苦笑するしかない。
 最早彼の中では、「沢田綱吉」=「十代目」の図式が完成しているのだろう。綱吉が拘っていた「十代目と呼ばれたくない」という思いも、彼の中では的外れな意見だったに違いない。獄寺にとって、十代目即ち沢田綱吉。どちらも同じで、違いなんて無いのだろう。
 獄寺のあまりの狼狽ぶりに、綱吉はつい声を立てて笑ってしまった。
「じゃぁ、さ。一回だけ。ダメ?」
 悪戯っぽく片眼を閉じて尋ねると、暫く黙って考え込んだ獄寺が眉間に深い皺を刻んで、本気で悩み出す。何をそんなに葛藤するものがあるのだろう、たかだか名前を呼ぶだけなのに。
 不思議でならない綱吉は、だから余計に彼に名前で呼んで欲しかった。例え一度きりであっても、それはきっと綱吉の中で永遠に消えない思い出のひとつになるだろうから。
 それに、一度呼んでしまえばそのうち慣れてくれるのではないかとも、思う。「十代目」と呼ぶ彼の声が聞こえなくなるのは、彼らしいところがひとつ消えてしまうようで、それはそれで、少し寂しくもあるけれど。
 カラカラと笑い声をあげる綱吉に、今度は獄寺が不機嫌に顔を歪める。
「では、十代目」
 開いていた距離を詰めて、綱吉に躙り寄った獄寺が低い声で呟く。
「もし俺が、十代目の名前を呼んだら」
 キスをしても、良いですか?
 その突拍子も脈絡もないひとことに、ぴたりと笑い止んだ綱吉が呆然と彼を見上げる。夕暮れ時、逆光を浴びた彼は輪郭がぼやけて顔がはっきりと見えない。残念だな、と思いながら綱吉は赤くなる頬を隠すのも忘れた。
 小さく、頷いた。
「でも次からは、そういう事、言わなくて良いから……」
 掠れた声での反論は、夕闇に解けて、消えた。
 耳の奥で獄寺の声が反響して、消えない。今夜眠れなかったら彼の所為だ、そんな風に考えて、綱吉は静かに目を閉じた。