黒南風 第四夜(第二幕)

「ん?」
 両手を後ろに回して支え棒代わりにしていた綱吉が、視線だけを下向けて少し離れた場所に立つ獄寺を見た。言われた内容には即座に返事をせず、姿勢を立て直しながら落ちそうになったランボを支えてやった彼は、そのまま両腕で幼子を強引に胸に押し込める。
 顔を伏したのは、改めて他人から言われて照れているからだろう。
 この数ヶ月、獄寺が綱吉たちと一緒に過ごして来た上で抱いた感想は、自分はどうやっても雲雀に叶わない、という事だった。
 術の精密さ、強さには少なからず自信があったのに、初っ端に全て木っ端微塵に打ち砕かれてしまった。知識量も遠く及ばない、腕力では言わずもがな。綱吉への愛情深い視線も、真似てみたところで追いつける距離ではない。もっと早くに出会えていたならば、と思うことも多々あったが、共に過ごした時間の長さだけがふたりの関係を築き上げたとも、到底思えなかった。
 それは、山本が幼馴染として、それこそ生まれた当初から綱吉の傍に居たのに、十年前に突然やって来たという雲雀に綱吉の隣を簡単に持っていかれてしまった、という面でも強調される。時間の積み重ね以外に、いったいふたりの間には何があるのか、獄寺には分からない。聞いても、誰も答えてはくれなかった。
 そもそも雲雀が十年前に沢田家に引き取られる以前、何処に居て、どういう経緯で並盛にやって来たのか、それ自体獄寺は知らないのだ。彼に両親と呼べるものがいるのか、いるなら何故一緒に暮らしていないのか、考えてみれば獄寺は雲雀の事を何も知らない。
 山本は、知っているのだろうか?
「十代目」
 獄寺が綱吉の右腕になりたい、という気持ちは今でも変わっていない。あの夜の誓いは、彼を生かす原動力となっている。雲雀になど負けない、山本にも譲らない。時々挫けそうになるものの、その強い思いが今の獄寺の全てだった。
「俺じゃ、駄目ですか」
「なにが?」
「……」
 伏せていた顔を持ち上げた綱吉が、心底不思議そうに目を細める。
 話が通じていないのに幾許か傷つきながらも、獄寺は箒を握る手に力を込めた。
「雲雀の野郎じゃなくて、俺じゃ、駄目ですか。俺は、貴方にそんな哀しい顔をさせないし、寂しい思いもさせません。だから、俺を」
「ごめん、無理」
 即答だった。
 俺を選んでください、と言いたかったのに途中で言葉は止まってしまった。一瞬目の前が真っ暗になり、支えを失った箒が獄寺の足元に倒れた。呆然と立ちつくす彼に、綱吉は微かに苦笑してからごめんね、と謝罪の言葉を口にした。
 ランボを膝に載せたまま、綱吉は頬杖をついて遠くを見た。未だ衝撃から復活出来ずにいる獄寺を横目で盗み見て、どうしようか、と迷い気味に瞳を揺らす。立てた肘をランボが小突いて、笑いながら彼の頭を撫でてやった。
「本当は最初に、言っておけばよかったのかな。獄寺君、俺はね、ヒバリさんに、命を、貰ったんだ」
「十代目……?」
「俺の心臓は、本当は、十年前に止まるはずだった」
 嵐の夜、消え行こうとする命。
 空を劈き、轟く雷鳴。軒を打つ冷雨、障子を煽る暴風。
 失われるはずだったものは、ひとつの奇跡により救いを得た。だが支払われた代償も、大きかった。
「十年前?」
「何があったかまでは、ごめん、言えない。けれどあの時から、俺は――」
 視線を持ち上げて彼方を見た綱吉はそこで一旦言葉を切り、急に獄寺を振り返って話を変えた。
「さっきの君の言葉は、昔、山本にも言われたよ」
「あいつに?」
 思いもがけない名前が横から飛び出してきて、獄寺は心臓が口からはみ出るのではというくらいに驚いた。
 確かにあの男もまた、自分と同じ匂いを感じさせた。綱吉に対する態度と他の面々に対する態度があからさまに違っていたし、綱吉に向ける瞳だけがとても柔らかく感じられたから。
 だからと言って同じ事を綱吉に既に言い放っていたとは。先を越された、と綱吉と共に過ごした時間の差を抜きにしても悔しくてならない。
 どちらにせよ、両者とも玉砕だったわけだが。
「今の話は、山本の野郎も?」
「うん、知ってる」
 恐らく今の獄寺と同じ事を言われた時に、同じように説明をしたのだろう。重要な箇所は誤魔化したまま、極力相手を傷つけないように言葉を選んで、彼は優しく微笑みながら、ごめん、と、ありがとう、を繰り返したのか。
 その綱吉が、何かを思い出したのか横へ視線を流して難しい表情を作る。折った指を口元に押し当てて、吐き出された息はほんの少し重かった。
「山本は、ヒバリさんが俺を縛ってるって、言ったんだ。……違うのに。逆、なのに」
 独白めいた弱々しい声は、ともすれば風に押し流されて消えてしまいそうだ。辛うじて音を拾うのに成功した獄寺は、きょとんと目を丸くして綱吉の横顔を凝視する。
「十代目?」
「あ、ごめん。なんでもない」
 酷く切なく、そして辛そうな目をしていた彼なのに、獄寺の呼びかけに反応した時にはもう普段の顔に戻ってしまっていた。何か思いつめた様子がしたのに、もう欠片も残っていない。なんでもない、という顔ではなかったのに、結局獄寺は追求できぬまま言葉を飲み込んだ。
 落としたままだった箒を持ち上げ、肩に担ぎ上げる。
 なにやら自分は、まだまだ知らないことが沢山あるらしい。蚊帳の外に置かれてしまった気分もいい加減慣れてきて、獄寺はこっそりと嘆息すると芥拾いを始めるべく境内の中ほどへ向かって歩き出した。
 北に広がる山から吹き降ろす風が、地表をゆっくりと撫でていく。榊の枝が揺れて、先端に溜まっていた雫がひとつ落ちていった。
 綱吉への告白は案の定駄目だったが、ひとつ大切なことを教えてもらえたから、今はよしとしよう。人生はまだ先が長い、ゆっくりと外堀から埋めて行って、いつか雲雀と同じ場所に立ってみせる。後ろ向きに考えるのはもう止めたのだと、獄寺は箒を一度振り上げて地面にたたき下ろした。
 ランボを抱いた綱吉がそんな彼に歩み寄り、手伝うよと足元に落ちていた葉のついた枝を拾い上げた。
 並盛神社の境内は、広い。夏に奉納相撲が開催出来るだけの余裕があるのだ、更には年に数回、巡業の見世物が回ってくるとかで、催し物の内容によっては社殿の前に即席の舞台を用意するらしい。
 大体は盆の時期かそれよりも前、あとは秋の収穫期が過ぎた頃に多いという。娯楽の少ない地域なので、それこそ村中の人間が集まるのだとか。
「凄いですね、見てみたい」
 田植え祭りも見学したが、綱吉は神事を終えると早々に退散してしまったお陰で、最後の早乙女歌まで見ることは叶わなかった。あの後笹川の屋敷では村人に酒や食事が振舞われたらしいが、その席に参加したのも結局は奈々と山本だけだった。
 笹川の家に預けられていた隣村の男は、数日寝込んだ後意識を取り戻し、祭りの数日前に迎えと共に家族の待つ村に帰ったという。獄寺としては田植え祭りの成功よりも、あの男が死なずに済んだことの方が安堵感は大きかった。
 そして気になるのは、雲雀の右目。通常の人間が、万全の状態に程遠いとはいえ自力で歩けるまで回復したのに、常人離れした回復力を持つあの男の目が治らない、その理由。
 毒が神経を直接焼いた可能性は否定できないが、自分の知らないところで何か別の要因があるのか。それとも単に、獄寺が気にしすぎているだけなのか。
「あー……ったく。頭がいてぇ」
 雲雀と綱吉がぎくしゃくしているお陰で、沢田家全体も若干空気が重苦しいのだ。なんとかしたい気持ちは山々で、獄寺は苛立つ気持ちを抑えながら乱暴に頭を掻き毟った。
 離れたところで枝を拾い集めていた綱吉が、その様を見て首を捻る。
「どうしたの?」
「いえ、こっちの事っす」
 言いたいのに言えない心の葛藤に苦心しながら、獄寺は箒で石畳に散らばる芥をかき集める。自分が掃いた場所から綺麗になっていくのは嬉しくて、余計な事も考えずに済むと自分の心にも箒をかけていた獄寺だったが。
 ふと、境内に自分たち以外の気配を感じ取って彼は顔を上げた。
 見詰める先、丹色の鳥居が立ちふさがる地上から神社を繋ぐ道の終わり。
 人の姿が、左右に大きくふらつきながら少しずつ大きくなりつつあった。
「げっ」
「ん?」
 それは獄寺も綱吉も見知った姿であり、おおよそこの神聖な場所には無縁と思われる人物だった。
 まだ午前中だというのに酒を飲んでいるのか足元は覚束なく、よくそんな調子で石段を踏み外さなかったなと言いたくなる。着物は着崩れていてだらしなく、赤い鼻に脂性の髪はまるで手入れがなっていない。無精髭が汚らしく伸び、いつから顔を洗っていないのかと問い詰めた上で川にでも投げ込みたくなった。離れていても酒の匂いが空気の流れと共に鼻をついて、先に気づいた獄寺の声に反応した綱吉が、同じく男の姿を見てひくりと頬を引き攣らせた。
 無意識にランボを抱える腕に力が篭もる。獄寺の手からまた箒が落ちた。
 ぱさり、と集めた落ち葉の山を崩した箒の音に、何処を見ているのか分からない澱んだ目をした男が顔をあげた。ひっく、としゃっくりをひとつして、年寄りでもなし腰を前に丸めながら歩いていた彼は右に左に揺らめいて、それから視界の中央に綱吉を捕える。
 途端、男の顔に生気が戻った。
 否、精気か。
「ツナちゅぁぁぁぁ~~~~ん!」
「ひぃぃぃっ」
 咄嗟に動けなかった綱吉が、ランボをきつく抱き締めてその場に蹲る。男はそんな綱吉に、これまでの動きからは全く想像つかない速度で駆け寄り、直前で空高く飛び上がった。両手を前に突き出して、恐怖に顔を引き攣らせる綱吉に飛び掛る。
「なーーにやってやがる!」
 但し到達する直前に真横から獄寺の蹴りが飛んだ。
 鬼の形相で牙を向いた獄寺が、汚いものを蹴ったと下駄の歯をがしがしと地面にこすり付けた。吹っ飛ばされた方は二度、三度横向きに転がって地面に落ちる。砂埃が立ち登り、捲れ上がった男の着物の裾からは生え放題の脛毛に覆われた足が。咄嗟に受身を取ったようだが、酔っ払っているから完全ではなかったらしい。暫く動く気配も無くて、獄寺は殺してしまったかと本気で心配になった。
 膝を折ってしゃがみ込んでいた綱吉も、不安顔で獄寺を見上げる。
「うー……いってーな。何しやがる、折角の俺とツナちゃんの運命の邂逅を邪魔しやがって」
「どこがだ!」
 最近別人からも似たような台詞を聞いた気がする、と一瞬遠い目をしそうになった綱吉を脇に置いて、獄寺は蹴られた頭を抱えつつ起き上がった男に怒鳴りつけた。一緒に拳も繰り出して、避けもしない男はごん、と素晴らしい音を残しまた砂利の上に横になる。
 それでも見た目、怪我らしい怪我をしていないのが不思議だ。
 ただ頭に血が上っている獄寺はその真実に気づかない。
 まだ名残惜しそうに綱吉を指咥え見詰めている中年男は流石に鳥肌が立つほど気持ち悪く、離れろ、と足で綱吉から遠ざかるように命令する獄寺に、これ以上蹴られてたまらないと男は渋々ながら従った。遠巻きに見詰める綱吉にひらひらと手を振って愛想笑いを浮かべるものの、その綱吉は怯え切った顔で身を竦ませるのみ。
「ツナちゃーん、今度おじさんと一緒に裏山で良い事しような~」
「誰がするか!」
「ってぇな! お前に言ってねぇだろうが」
 そのくせまた綱吉を怯えさせるようなことを言うものだから、遠慮なしに下駄を履いた足を振り上げた獄寺に、男――シャマルは唇を尖らせて文句を言うと、彼の足を避けて腕を伸ばしその胸倉を掴み返した。
 虚を衝かれ、獄寺は一瞬息を詰まらせる。
「お前さんが読みたがってた本、またひとつ見つけておいてやったから、後で取りに来い」
 頭がぶつかる寸前ところまで引っ張られ、同時に潜められた声に獄寺は目を見張った。間近で見たシャマルの瞳は、普段彼が見せるだらしなさとは無縁の色をしており、声質も低く抑えられている。いったいどちらが本当の彼なのか分からず、混乱する獄寺はそれでも告げられた内容を脳裏に刻み込んだ。
 分かった、と頷けばあっさりと解放され、獄寺は後ろ向きにたたらを踏んで倒れるのを回避した。
 改めて顔を上げて見たシャマルは、矢張り酔っ払いの表情を一変させた状態ですくっと天に向かって垂直に立っている。今までは演技だったのかと言わざるを得ず、納得がいかない風情で獄寺は眉間に皺を寄せた。
 綱吉もまた、離れた地点から彼のあまりの変わり様に唖然としていた。
「けどなー、お前、鬼の文献、調べるのはいいけどよ」
 長い間剃刀も当てていないだろう顎を撫で、シャマルが愚痴るように言葉を連ねた。
 今度の声は少し大きい、先ほどの獄寺にだけ聞こえるように告げられたのとは調子も若干異なっている。彼の真意が読み取れず、獄寺は片方の眉を持ち上げて口を閉ざした。
 なんだろう、と全く初耳の綱吉もまた、首を傾げる。
 それ以前に獄寺が、綱吉の知らないところで彼と接触を持っていたというほうに驚いている様子だ。
 いつの間にか村はずれに勝手に住み着いた男は、田も耕さずに落穂を拾っては酒を造り、昼間から酔っ払ってなんの役にも立たない。住んでいる家は家とも呼べない有様で、辛うじて雨風を凌げる程度。だが自分の持ち物だとして大量の書物を所有し、更に有り余る知識で医者の真似事もしてみせた。
 ただ性癖に若干どころではない問題があり、男を極端に嫌う。面倒ごとも嫌う、手間がかかることも酒造り以外はとことん無縁。ある日突然ふらりと居なくなり、また気づけば戻って来て小屋の外で酔っ払って寝転がっている日も多い。何処から流れてきたのか、何をしていたのかも良く分からない男だが、蘭学と本草学にも精通しているのだけは村人にも知れ渡っていた。
 獄寺が興味を引かれたのは、そこだった。
 正直性癖がどうこうとか、身分が怪しいとかその辺りはどうだっていい。元々獄寺だって人には言えぬ生い立ちをしているし、長くこの地に根を下ろしている村人からすれば余所者扱いのままだ。村人が嫌っていても、自分には関係ない。それよりも、知りたい事があった。
 鬼の知識、鬼の知恵。
 獄寺は幼い頃、鬼の里で暮らしてはいたものの、あそこでも余所者扱いを受けていたから、鬼が実際、どういう歴史を辿り、どういった存在なのかを詳しく知らなかった。姉からある程度教わり、術を叩き込まれてきたものの、自分の炎の特性にしか興味が無かった彼は、他の鬼がどんな特質を持っているのか学ばなかった。実際に姉の戦う様も見たこともなかったので、彼女が毒を作り出すのは得意と知っていても、その毒が何から作られているのか、具体的なところは一切分からない。
 彼女は厳しくて、ちょっとでも失敗すれば遠慮なく獄寺を新しい毒の実験台に使ってくれた。お陰で彼女のことは好きだが、顔を見ると反射的に腹痛が起こる体質になってしまった。基本的に育ててくれた恩はあるし今でも感謝している、並盛山に潜り込んだときに殺されなかったと聞いて安堵したのも嘘では無い。
 だが正直苦手だ。
 苦手ではあるが、彼女が罪なき人々を襲った原因は自分に在る。
 彼女は獄寺を探していたのだ。彼が鬼の里に居続けていたならば、という前提は意味が無い。本来獄寺は責任を感じる必要は何処にもないのだけれど、たとえ半分であっても血の繋がった存在を無碍に扱うのは彼には不可能だった。
 直接は関与していないものの、自分の存在が今回の騒動の引き金になったのは事実。罪滅ぼしのつもりではないけれど、雲雀に対しても、出来ることはしたかった。
 そのためにはまず、獄寺は自分から触れるのを拒んでいた“鬼”にまつわる事実を知るところから始めなければならない。それも、出来れば綱吉や雲雀に勘付かれないように。
 ハルの父親を頼る方法も考えたが、そのハルは思った以上に口が軽い。彼女を通じて綱吉たちに知られるのは避けたかった。
 だから獄寺は、シャマルを頼った。
 彼ならば村人も好んで近づこうとしないし、綱吉も言わずもがな。雲雀だって綱吉に悪さをしようとする男に自分から接触しようとはしないだろうし、山本は元々村の人間だ。
 獄寺にしてみれば、男の酒臭さと体臭の酷さを除けばまさに願ったり叶ったりの存在。そんな男に嘘を言って鬼にまつわる文献を探してもらい、見付かったものから先に借りてきたのだが、まだ残っていたのかと驚かされる。
 みすぼらしい、嵐が来れば一瞬で吹き飛ばされてしまいそうな狭い小屋なのに、書物だけは呆れるくらいに詰め込まれていた。しかも整理もされずに上に、上に積み上げられていっており、下に埋もれている分を漁るのは至難の業。適当に探せ、と訪ねた最初に言われたのだが、あまりの悲惨さに獄寺は数分間、自分の背丈よりも高い本の山を前に呆然とさせられた。
 もっとも、山の表面を飾っていた本の大半は、表紙を開くのも躊躇する春画だったわけだが。
 偶々足元に落ちていた所為で表紙が開いていた一冊に見てしまった、女のあられもない姿を描いた図を思い出し、獄寺は赤面して慌ててシャマルから一歩離れた。あの時の彼の動揺具合はかなり見ものだったこともあり、彼の想像したものに予測がついたらしいシャマルは、喉を鳴らして愉快そうに笑った。
 ひとり置き去りの綱吉が、渋い顔をして獄寺の背中を睨む。
「獄寺君?」
 綱吉としては、一秒でも長くシャマルとは一緒にいたくない。人を女扱いした上で所構わず顔を合わせた途端に襲いかかってくるような男とは、会話するのさえ汚らわしくて嫌だというのに。
「あ、はい、すみません十代目」
 拗ねた声で呼ばれ、だらしなく鼻の下を伸ばした獄寺が振り返る。自分は一切無視か、と少なくない悲しみに浸ったシャマルだったが、歩き去ろうとしたふたりの背中に眼光鋭い視線を投げつけると、獄寺にだけ向かって言い放った。
「けどな、鬼の坊や。いくらお前が鬼の知識を得たところで、雲雀の右目はあのままじゃ治らないぜ」
「――――!」
 がばっ、と反射的に獄寺が振り返り、綱吉は出した右足が半端なところで止まってしまってそのまま前に倒れそうになった。
 見開いた目が己の足元と白い砂利を同時に捉えている、けれど綱吉はそんなものが見えていない顔をして小刻みに唇を震わせた。呼吸するのも忘れて顔面が蒼白になり、苦しくなった身体が強引に息を吐き出させて吸い込むが、噎せた彼は抱いていたランボを落としその手で顔の下半分を覆い隠した。
「てめぇ!」
 自分が“鬼の子”と呼ばれたことにさえ気づかず、獄寺はその後に続けられた言葉にだけ反応を示した。
 何故シャマルがそれを知っているのか。獄寺が教えた覚えが無い真実をぴたりと言い当てた彼は、口元を歪めると、へっ、と鼻を鳴らして不遜な表情を作り上げた。
 綱吉の肩だけでなく全身が痙攣を起こしているのに、彼に背を向けている獄寺は気づかない。シャマルはそんな綱吉の姿を視界の端に納めると、やれやれと肩を竦めて両腕を左右に広げた。
「なんだ、ツナちゃんは気づいてなかったのか」
 わざとらしい仕草で首を振り、まるで言わなかった獄寺が悪いという目をする。見開かれた綱吉の瞳がシャマルを射抜いたが、其処にはまだどこか、彼の言うことなど信じないという意思表示が残されていた。
 信じない、信じるものか。
 雲雀の右目に何か異常が起きていたなら、彼ならば真っ先に綱吉に教えるはずだ。彼の傷は綱吉にしか癒せない、確かに驚異的な回復力を持つ彼だけれど、綱吉を頼って治癒を求めてくるのは彼なりの愛情表現のひとつだと綱吉は認識している。
 彼は綱吉の体調を気遣いながらも、結局は綱吉の好きなように許してくれるのだ。どんな些細な怪我であろうと、綱吉は彼の身体に傷が残るのは許さない。彼の体に傷を刻んでいいのは自分だけだから。
 だから他人の空言など聞き入れない、絶対に信じない。
 けれど、迷う心が在るのも確かだ。
 鬼の襲来があったと聞いてから、急に冷たい態度をとり始めた雲雀。綱吉からいくら求めようとまるで応じず、最低限の食事だけしか与えてくれない彼。不満は募るのに理由も教えてくれず、素っ気無い態度で綱吉の前から度々姿を隠してしまう。
 綱吉の晴れ舞台でもある田植え祭りの神事にも、顔を出してくれなかった。
 常に付きまとっていた“何故”という思い。もしシャマルの言う通り、雲雀の右目になにかがあって、それが原因で彼が綱吉を遠ざけていたのだとしたら。
 けれどそれを、何故無関係であるはずのこの男が知っている?
「あれ、あれ~? その顔は、おじさんを信じてないのかな。哀しいな~、おじさん傷ついちゃう」
「黙れ、この糞野郎!」
 腰をくねらせた言ったシャマルに、今にも殴りかかりそうな体勢を作った獄寺が怒鳴る。が、シャマルは彼に全く構おうとせず腰に右手を当てて胸を反り返し、浮かべた自信に満ちた表情にはきつく引き締められていた綱吉の心が僅かに揺らいだ。
「お前もさ、遠まわしせずに、雲雀の奴の右目を焼いた鬼の毒を調べたいって言えよな。そうすりゃ俺だって、ちょっとは手を貸してやったのによ」
「っ!」
 いきなり槍玉に挙げられた獄寺が、頬を引き攣らせて愕然とシャマルを見上げる。本当に何処まで気づいているのか、獄寺の、矢張り誰にも言ったことのない考えも呆気なく見破った男は、言葉を失い行き場を無くした右手を震わせるだけの彼ににやりとほくそ笑む。
 彼の後ろでは綱吉が、最早睨みつけるだけの力も無く呆然としていた。
 シャマルの一方的な言い分だけならば、嘘だと突っぱねることもできた。けれど今の発言に対する獄寺の反応を見てしまうと、全てが全くの出鱈目だと言い切れなくなってしまう。
 獄寺は知っていたのだ。
 綱吉は、知らなかった。
 綱吉だけが、知らなかったのだ。
 自分に最も近い場所にいると信じていた男が、自分にだけ、真実を伝えていなかった。
「本当、なの……?」
 ゆるりと持ち上げられた右手が、獄寺の袖を掴む。緩い力で引っ張れば、鉛色の髪をした青年は戸惑い気味に綱吉を振り返った。
 瞳が困惑で揺れ動き、何かを言いかけた唇は音もなく閉ざされる。伏し、逸らされた視線が全てを物語っていて、綱吉の全身に電流が走った。
「うそ、だってヒバリさんは、なにも」
「十代目にだけは教えるな、と、そう」
 釘を刺されたのだと告げても、今となっては言い訳にもならない。
 戸惑いに心を締め付けられた綱吉の縋る瞳を直視できず、獄寺はあの夜の出来事を振り返りながらそれだけを口にした。袖を掴んでいただけの綱吉の手が彼の腕を握り、血流が滞り痛みを発するまで力を込められる。
 震えていた綱吉の、行き場のない怒りと悲しみが感じられて、獄寺は唇を噛んで甘んじて痛みを受け止めた。
 ひゅぅ、とシャマルが口笛を吹いてけなげに耐える獄寺を嗤う。
「ツナちゃんがちゅーってしてくれたら、おじさん、もっと良い事教えてあげちゃうんだけどなー」
「黙れつってんだろ、この下種野郎!」
「んなこと言ってて良いのか? このままじゃ、あの坊やの中身が殻を食い破るぜ?」
「――――!」
 自分の唇を蛸のように前に突き出して言った男は、獄寺の罵声を呆気なく脇へ押し流し更に言葉を連ねた。
 それは、綱吉には分かり、獄寺には分からないもの。
 村の人間は誰一人として知らず、探ることさえ許されていない真実の断片。
 綱吉と雲雀の存在を繋ぐ、か細くも強靭な糸。
「そんな……そんなはずない!」
 丸めた拳で自分の膝を殴り、綱吉が声を荒立てる。けれどどれだけ強く睨もうとシャマルの態度は飄々としたまま変わらず、だからこそ彼が言う内容に嘘が無いと思えてしまう。
 雲雀が真実を綱吉に告げなかった理由。
 雲雀が綱吉に隠し通そうとした意味。
 嵐の夜の記憶が蘇る。
「っ――!」
「十代目!?」
 綱吉は踵を返し、走り出した。
 此処に居ても埒が明かない、真実を暴くには本人に直接問質すのが一番早い。
 風を切って駆け出した綱吉の背中を唖然と見送り、直後弾かれたように我に返った獄寺も急ぎ足で神社と沢田家の邸宅を繋ぐ道を目指した。小さなランボも、綱吉の突然の豹変振りに何かを察したようで、よたよたと頼りない足取りながら獄寺と並んで走り出す。
 何故かシャマルまでもが、追いかけてきた。
「なんでお前がついてくるんだよ!」
「いいじゃねーか、減るもんじゃなし」
「減る、間違いなく減る!」
 ぎゃあぎゃあと喚き散らしながらも、獄寺は歩みを緩めずに小さくなった綱吉の背中を必死で追い求めた。
 神域と人域とを隔てる広大な樹林に、南からの生温い風が吹き抜けていく。西の空には山並みに沿って巨大な入道雲が顔を出し、地表に影を落としつつあった。
 風がざわめき、木々が震える。獄寺は奥歯を噛み締めると、併走するわけが分からない男を牽制しながら沢田家の庭へと駆け込んだ。