長い九十九折の石段を登り終え、まるで寺社の山門を思わせる風貌の門を潜った綱吉たちは、庭の片隅に作った菜園で収穫中の奈々から出迎えを受けた。
「おかえり」
楽しかった? と彼らが何処へ行っていたのかを知っている彼女はそう聞いて来る。けれど直ぐには答えられず、三人は互いの顔を見合わせた後示し合わせたように肩を竦めて苦笑した。
確かに前半は楽しかったが、後半は散々だった。けれど不用意に話をして彼女を不安がらせる必要もなく、曖昧に場を誤魔化して屋敷へと向かう。綱吉は無意識にひとり列を外れて離れにいきかけて、崩れた外壁を視界に収めてそうだった、と二重の意味で肩を落とした。
出来れば奈々が居ない場所で話をしたいのだけれど、離れが使えないとなると残る静かな場所は奥座敷くらい。だが、そこも元々奈々の寝室を兼ねているわけで、結局残ったのは獄寺が使っている北側の部屋だった。
上機嫌に畑仕事をこなしている奈々を残し、草履を脱いで屋敷へあがる。土間は綺麗に片付けられていて、夕食用か竃には大きな釜が鎮座していた。
「あれ、雲雀は?」
「そういえば」
けれど居間は無人で、がらんどうとした空気は沈んでおり誰かが居た形跡は感じ取れない。奥座敷だろうか、と綱吉はまだふらつく足で探しに行ってみるものの、そこも無人で硯箱だけが家光の机に残されていた。布団は畳んで脇に退けられている、触れてみても体温を感じなかった。
彼が此処を離れて相応の時間が経っている証拠だ。綱吉は丸めた拳を胸に押し当て、伝心で雲雀に呼びかけるが反応がない。届いてもいないのか、と閉じた目を開けて暮れかかっている西日に目を向けるが、無論そこに人影があるはずもなく。
奈々ならば知っているだろうか、と来た通路をそのまま戻り、綱吉は玄関手前の廊下から身を乗り出して遠目に見える畑を窺った。だが彼女も移動を果たした後なのか姿は見えず、危うく庭に落ちかけたのを堪えた彼は急ぎ土間へ戻る。
山本と獄寺は部屋に向かったらしく、竃の前で摘み取った野菜を広げている奈々がこちらに背中を向けていた。
「母さん」
「あら、どうしたの?」
呼びかけると明るい口調をそのままに、奈々が振り返る。ついでに立ち上がった彼女は水瓶へと歩み寄り、綱吉も床の上を同じように左へと移動して肩を揺らした。吐く息が乱れているのは、なにも奥座敷から走って戻ってきただけではない。
何か言いようの無い不安が、此処にきて急に彼の中に広がりつつあった。
「ヒバリさん、知らない?」
いないんだけど、と視線を西へと転じる。東の端にあるこの居間と奥座敷の間には幾つもの部屋が挟まっているから、直接見えるわけではない。だが雲雀が奥座敷を使っていたのも知っている奈々は、綱吉が言いたい事を大まかに察したらしい、にこりと微笑んで頷いた。
瓶から桶に水を移し変え、そこに野菜を浸して根にこびり付いた土をそぎ落とす。作業の合間に急いている綱吉を落ち着かせながら、彼女はうーんとひとつ唸った。
「山に行くって言ってたから、裏じゃないかしら」
「いつ?」
「ツー君たちが出て行って、ちょっとしてからね」
綱吉の質問に丁寧に返しながらも、記憶はあやふやなのか彼女の視線は天井を漂っている。濡れた手で頬をなぞるものだから垂れた雫が膝にも落ちて、冷たさに悲鳴を上げた彼女に苦笑してから礼を言い、綱吉は囲炉裏端から離れて北側の通路に向かった。
解放された裏庭は日も翳り、長く延びた影もかなり薄くなっている。緑をいっぱいに広げた裏山は迫り出すようにして屋敷に迫っており、頭上に流れる雲は夕焼けの赤と闇空の色に挟まれて居場所に困っている感じがした。
「ツナ」
廊下に上半身を出した山本が手を振って彼を招き、意識を戻した綱吉は頷いてからそちらへ向かう。獄寺の部屋は相変わらず荷物が少なく綺麗に整理されていて、それが逆に殺風景すぎるくらいだ。山本が使っていた時は布団も敷きっぱなしで足の踏み場にも困る状態だったのだが、使う人間如何で部屋の様相も随分と変わるものだと驚かされる。
山本も、物が無いなと呆れていて、ちゃんと毎日片付けているからだと獄寺の反論を受けていた。
「ヒバリは?」
「居なかった。母さんに聞いたら、山に行ったって」
障子戸の間から顔を覗かせるだけの綱吉は、言ってから振り返って庭の片隅に設けられた結界石を見詰めた。
探しに行くにしてももう日が暮れて暗くなるばかりだから、危険だと分かっている。帰って来るのを待つしかないのだが、それがいつになるかなんて雲雀以外は誰も知らない。
綱吉の呟きを聞いた山本が、早速胡坐を崩しながら壁に凭れかかって怪訝な顔を作り出した。
「山? なんでまた」
「さあ」
雲雀が昨晩山に行った理由は、山本にも分かっている。だが雲読みの儀式が終わった今、雲雀が性急に山へ向かわなければならない理由は思いつかない。
が、顎を撫でながら視線を浮かせた山本は、障子戸を閉めぬまま室内に足を踏み入れた綱吉の顔をじっと横から見詰めた。流石に不躾すぎる目線に、綱吉もすぐに勘付いて首を捻る。
「なに」
「いや、お前さ、今朝、……悪い、やっぱりいいや」
言いかけておいて途中で考えを変えたのか、言葉を半端なところで切り上げて山本は手を振った。綱吉も獄寺もきょとんとした顔で彼を見詰めるが、山本は苦笑するばかりで続きを言うつもりはないらしい。変なところで話題が途切れてしまって、綱吉は釈然としないまま障子に近い床に膝を折って座った。
開け放った隙間から流れ込む夜気を思わせる風と、薄い光。獄寺が奥にある行灯に札を使って火を入れ、薄暗かった室内は急に互いの顔がくっきりと見えるまでの明るさを手に入れる。綱吉は瞳を細めて揺れる炎を見詰め、山本と同じく胡坐を崩した獄寺は札を握りつぶして残り火を消した。
「それで、どうする。ヒバリが戻るまで待つか?」
「そうだな、説明が二度手間になるのは避けたいし」
左右の足首にそれぞれ手を置いて握った山本が、獄寺の提案に頷いて言葉を補う。視線は綱吉へと流れたが、今度は彼も山本が自分を見ているのに気づかない。
綱吉は何かを考え込んでいるようで、難しい表情をして俯いている。心此処にあらずという雰囲気は充分伝わってきて、山本は少し意地悪をしたい気持ちに駆られた。
「ヒバリの奴、返事したか?」
「え?」
急に話しかけられ、意識を体へと戻した綱吉は素っ頓狂に裏返った声で山本を見た。
獄寺も山本が言いたい趣旨が理解できず、唇を尖らせて眉間に皺を刻む。綱吉は困惑したまま彼を見詰め返し、にっと歯を見せて笑う山本だけが能天気に思われた。
だが声を潜め綱吉に向けて顔を突き出した彼の表情は、怖いくらいに真剣で、
「呼んでるんだろ、ヒバリの奴のこと」
「山本……」
綱吉と雲雀が、言葉を介さずとも互いの心を読みあって会話が出来るという話は、知られていないようで里の者からすれば周知の事実だった。
それでも彼らは人前ではなるべく使わないように心がけていた、ひそひそ話を目の前で展開されることは嫌な気持ちになるものだ、という家光の教えは確実にふたりの中に生きている。ただ双方が離れた地点にいる場合は頻繁に連絡を取り合い、位置の確認をし合っている風情はあったので、今もそうだろうと山本は踏んでいた。
そして綱吉が何も言い出さないという事は、綱吉の声が雲雀に届いていない、もしくは届いていても雲雀が返事をしていない、という事に繋がる。
若干色を悪くさせた顔の綱吉が、当惑に瞳を揺らして顔を逸らした。図星を指摘されて、平穏な気持ちのまま山本を見返せるはずがなかった。
「十代目?」
やり取りが飲み込めない獄寺も身を乗り出して綱吉を呼ぶが、反応は無い。少しばかり苛めすぎたかと山本は心の中で嘆息して、綱吉にだけ聞こえる音量で「悪い」と囁いてから姿勢を戻した。
傍らに置いた木刀を引き寄せ、床に立てる。柄の側を肩に預けてそこに頬を押し付けるように体勢を作り変え、どうしたものか、と障子の隙間から覗く外に目を向けた。
綱吉もまた畳の目地を指で辿りつつ、何度呼びかけても反応がない雲雀の名前を心に紡ぐ。
瞬間――
ざっ、と音を響かせた外が仰々しく揺れ動いた。烏が一斉に泣き喚きながら飛び立ち、突風に煽られた立ち木が広げた枝を激しく震わせて波を作る。背後から迫る空気の流れに綱吉は背を煽られて腿が浮き上がるまでに仰け反った、見開いた目が虚空を貫き言いようの無い不安が彼を支配する。
何か、が起きた。
――え……
予感が胸を奔り、綱吉は膝建ちの状態で障子の先に広がる景色を見る。山本や獄寺もまた、流れゆく空気の変化を察して言葉を呑み、何が起こったのかを知ろうと気配を細めて山へ意識を投げやった。
だが分からない。痛烈なまでの力を孕んだ風が吹き抜けていったのは理解出来るのに、それが誰によって、何故引き起こされたのかまでは捉えきれない。彼らはお互いに分からないという顔を見合わせ、呼気を潜めたまま先程よりも開いた障子戸の先から霊山と名高い並盛山を見上げた。
ただひとり、綱吉だけが己の肩を抱きしめて奥歯を噛み締め、がたがたと音まで響かせながら震えている。
「……な、に……これ――」
押し寄せる力の奔流、そのまま飲み込まれて押し流されてしまいそうな気配に綱吉は両腕で己の身体を抱きしめ、少しでも緩めれば呆気なく浚われてしまう意識を懸命に留めながら唇を噛んだ。吐き出す言葉はその何れもが細かく震え、勢いの強さを物語る。
山本は風が収まるのを待ち、山の景色も落ち着くのを見届けてから綱吉を振り返った。獄寺は僅かに風の中に感じ取った何かに意識をとぎすまし、そちらに気を取られて綱吉の変化に気付くのが遅れた。
「ツナ?」
「……に、これ……」
彼は両腕を胸の前に交差させ、己の肩を抱き額を畳に擦りつけて蹲っていた。
「ツナ」
山本が気を吐いて叫ぶが、返事はない。ただ小刻みに肩を震わせる綱吉がうわごとのように同じ言葉を繰り返し、瞬きするのさえ忘れた瞳が乾くのも厭わず虚空を見つめ続けている。
「ツナ!」
「十代目!」
滲み出た汗が畳に落ち、吸い込まれて跡を残す。微熱があるのか火照った顔を苦痛に歪め、綱吉は両手で強く肩を抱きながら懸命に呼吸を繰り返した。
魂が震えるとでも言うのか、並盛山から放たれた強大でかつ高圧縮された霊気の余波が綱吉の内側を、撫でるなどという生易しい表現ではない仕草で抉っていった。一瞬自分さえも奪われるのではないかと思う、遠慮のないあの力には覚えがある。
「リ……ン……」
此処にいないもうひとりの家人。綱吉が生まれる前から此処に居た、座敷童のようでそうでもない、山の神にも似て違う、得体の知れない、けれどこの家には欠かせない存在。
山で何があったのか、雲雀が山へ出向いている事と何か関係があるのか。
山本が言っていた鬼が並盛に迫っているという話と、関連はあるのか。
――ヒバリさん、何処……
噛み締めた奥歯が軋み、心が悲鳴をあげている。リボーンが放ったと思われる力は消え去ったが、彼の全身を襲う震えはまだ治まらない。
「今の、なんだ」
「……山からだった」
音まで響かせて震えている綱吉を持て余しつつ、獄寺は声を潜めて山本に問う。だが聞かれても山本だってよく分かっていない、困惑を表に出しつつ緩く首を振る。障子に手を掛けて開きを大きくさせるが、闇に呑まれようとしている山の南側が狭い範囲で見えるだけで、全貌を視界に納めるのは不可能だ。
自由に立ち入る事が出来ない彼らには、何かが起きたと分かっても具体的に何が起きたのか調べる術がない。綱吉を盗み見ても彼は動ける状態ではなく、もし飛び上がって山へ駆け出そうとしても山本は綱吉を止めるだろう。
間もなく完全に日は暮れる、明かりも持たずに夜の森に立ち入るのは命取りだ。
「ツナ、大丈夫か」
丸められたその背中に手を添え、軽く前後に動かして撫でてやるが綱吉の震えはなかなか止まってくれない。瞬きをしない所為で乾燥した眼球が充血しつつあり、落ち着け、と意識が飛んでしまっている彼を抱えた山本は強引に綱吉の身体を引き起こして自分に寄りかからせた。
「……はっ」
赤ん坊にげっぷをさせる要領で背中を叩いてやると、漸く綱吉の口から息が吐き出される。直後空っぽに近かった肺に急激に酸素が流れ込んだからだろう、彼は激しく咳き込んで山本の背中に爪を立てた。
生理的な理由ばかりではない涙が綱吉から溢れ出し、しゃくりをあげて彼はその全てを飲み込む。獄寺は複雑な表情で綱吉と彼を抱きしめる山本を見ていて、最後はいたたまれない気持ちになって視線を逸らした。
庭に走る影はもう殆ど形を失い、障子戸の隙間から流れ込む風は冷たさを増している。太陽は地平線の向こう側へゆっくりと消え、月が山並みに彩りを添える。ガサリと濃さを増した緑が揺れて、彼は眉根を寄せた。
膝を起こし、上体を伸ばす。外を見ていた獄寺が動いたのに気付いた山本も、落ち着きを取り戻しつつあった綱吉を座らせてそちらに顔を向けた。
「どうした?」
「あ、いや」
気のせいだっただろうか、と獄寺が瞳を細めつつ前方の景色をもう一度睨む。背後で綱吉はまだ波立っている心をそっと撫で、目を閉じた。
「ヒバリさん?」
すると直後、瞼の裏に馴染みのある顔が浮かび上がって、彼は弾かれたように立ち上がった。
「ツナ!」
「十代目?」
そして驚くふたりの間を駆け抜け、板敷きの縁側から庭へと飛び降りる。普段の彼からは考えにくい俊敏さで、綱吉は砂の敷かれた北庭を走った。
「ヒバリさん!」
喜びに溢れた顔を隠しもせず、綱吉はその人の名前を呼んだ。後ろでは縁側まで出てきたふたりが顔を見合わせ、緑が折り重なり合う結界石の周辺に視線を投げた。
木の葉が揺れ、音が響く。綱吉はもう一度その名前を呼び、現れる人の姿を必死に探した。そうして彼の願い通り、結界石の注連縄を超えて黒髪の青年は現れた。
唐茶色の長衣、苔色の帯。顔色が優れずにどこか疲れた様子を感じさせる足取り、怠そうに髪を掻き上げて近づこうとする綱吉に視線を投げつける様は剣呑な雰囲気に包まれている。
「ヒバリ?」
なにかおかしい、気付いた山本が訝しげに眉根を寄せるが、肝心の綱吉は雲雀の態度などまるでお構いなしだった。先程まで床に伏して小さく震えていたのが嘘のように破顔して両手を広げ、庭に降りてきた彼に抱きつこうと構えている。
そして彼の願いは、叶わなかった。
「ヒバリさん!」
駆け足で飛びつこうとした綱吉を、雲雀は避けた。空振りした彼の両手が空を掻き、自分自身を抱きしめてよろめきながら止まる。その間も雲雀は鈍い足取りで屋敷に向かって歩いており、斜め後ろで惚けている綱吉がまるで見えていないようだった。
山本も獄寺も、怪訝に顔を顰めさせる。
「ヒバリ、その格好」
「やっぱり何かあったのか」
ふらり、と屋敷を支える柱のひとつに寄りかかった雲雀に近づき、縁側の上から見下ろしたふたりがそれぞれに言葉を放った。
今の雲雀は水に濡れたのか全身が湿り、また小さな穴が無数に散らばる着物姿。顔や手、足も土で汚れていて、素足。藪に切ったのか臑からは赤い血が滲んでいるが、既に表面は乾いて瘡蓋になりかけていた。
そしてなによりも、疲れ切った表情。喋るのさえ億劫なのか、彼は額に手を置いたまま緩く首を振った。
「……ぞろぞろと、何」
やっと口を開いたかと思えば、彼はそんな事を険のある目で呟くだけ。綱吉は庭の先でもぞもぞと足を交互に動かしており、空回った手はそのまま胸の中に。横目でちらりと彼が自分の身の置き場に困っている様を見た山本は、肩を竦めて、いいのか、と雲雀に向けて顎をしゃくった。
それを眼光鋭い睨みだけで返した雲雀は、前を塞いでいる獄寺に退いてくれるよう手で合図を送り、至極辛そうに縁側に腰を落として座り込んだ。
「何があったんだ」
「結界に、侵入者」
綱吉がのろのろと近づいてくる。だが雲雀は一向に彼を視界に入れようとしない。山本の問いにも短く返すだけで、それ以上を繋がない。
「侵入者?」
「後で良いか、着替えたい」
肩で息を吐いた彼の心底疲れた声に、獄寺と綱吉は顔を潜め山本は右目を眇めた。そして雲雀はといえば、他の面々の返事を待たずにまた庭に降り立つと綱吉を避けて大回りに歩き出した。
よろよろとふらつく足取り、首が左右にやけに揺れている背中を獄寺は奇妙だと感じ唇を尖らせる。
「こっちも話があるんだ、着替えたら戻ってきてくれるか」
水と泥にまみれている様子から、雲雀が相当に苦戦を強いられたのは想像に難くない。疲れているのもきっとその所為、気が立っているのも戦いが終わって間がないからだと、雲雀が右手を持ち上げるだけの返事をして去っていく姿を見送り、山本は綱吉の肩をそっと叩いた。
彼の様子が変だというのは三人とも感じている。綱吉などは特に、だ。雲雀の心は感じられるのに、いつもより壁を一枚多く置かれてしまって、内側に潜り込ませて貰えない。懸命に話しかけるのに返事らしい返事はなく、ただ「後で」と繰り返されるばかり。
噛んだ唇が痛い。綱吉は俯き、山本の手を反射的にたたき落とした。
「あいつがあんなになるなんて、な」
「並盛山の結界は、誰が基礎を築いたのか俺も知らないけど……もの凄く頑丈なんだ。それを破って来たって事は」
沢田の直系と、ある種の条件を持つもの以外は全て立ち入りを遮断する、並盛山全体を覆っている結界。山本も過去、こっそり破れないだろうかと試した事があったが、見事に傷ひとつつけられなかったから綱吉の言わんとしている事は分かる。
山本が突破出来なかった結界を抜け、雲雀を苦戦させた程の存在。しかも雲雀のみならず、リボーンまでも力の一端を発揮せねばならなかったようなものとは、どんなものなのか。
夕闇が押し迫り、土間から微かに夕食の美味しそうな匂いが漂ってくる。そして奈々が支度が出来たと呼びに来るまで雲雀は戻ってこず、夕食の席にも最後まで彼は姿を現さなかった。
「鬼?」
雲雀が漸く皆の前に顔を見せたのは、綱吉が食後の一服で茶を飲みくつろいでいる時だった。
彼の黒髪はまだ濡れており、毛先から幾つもの雫が垂れ下がっている。藍と黒の縞模様の長衣に着替えた彼は珍しくきちんと襦袢も着込んでいて、帯も緩みが出ないようにしっかりときつく締められていた。普段は開き気味の胸元は鎖骨の周辺以外綺麗に隠され、肩には滴り落ちる雫を受け止めるべく手ぬぐいが引っかけられている。
全体から薄く湯気が登っており、彼が一風呂浴びてきたのは明白。ならば呼んで欲しかった、とひとり拗ねた綱吉は空になった湯飲みを床に置き、土間から居間へあがろうとしている彼に歩み寄った。
「ヒバリさん」
「それで、話って」
けれどまたしても雲雀は綱吉を無視し、彼の右脇からあがるとそのまま囲炉裏端で胡座を崩している山本へ歩み寄る。暖かな湯気が彼の動いた後に暫く留まった後、周囲の空気に冷やされて消えていくのを綱吉は呆然と見送った。
獄寺が自分たちを向いている雲雀と、綱吉の背中を交互に見上げて顔を顰めた。いつもなら綱吉が近づけば無条件で受け入れている彼が、綱吉の姿も声も見えていない、聞こえていないという態度を取るのは正直異常だ。
それは山本も感じているようで、怪訝に首を傾げて返事もせずに雲雀を見ている。
その不躾な視線が気に障ったのか、雲雀は不機嫌そうに顔を歪めると、肩に垂れた雫を手拭いで掬い取って肩から外した。
奈々が片づけを終え、部屋へと引き上げていったので居間は四人だけになる。こうなると場所を移動するのも面倒くさくて、必然的に囲炉裏を囲んでの会話となった。灰色の中に木炭がちりちりと赤くくすんで、仄かな暖かさを室内に広めていた。
北側の縁側を囲む板戸は閉じられており、太陽は沈んで久しい。居間を照らすのは獄寺が部屋から持ち込んだ行燈がふたつだけだ。
「ああ、俺が里へ戻ってきたのは最近鬼が出没するっていう話を聞いたからなんだ」
片膝を立ててそこに両手を置いた山本が、右手を返して背筋を伸ばす。獄寺は彼の右側に座り、綱吉は囲炉裏を挟んで反対側に。雲雀だけが西側の、丁度山本と正面向かい合わせになる位置に腰を下ろしている。背中は納戸を仕切る襖に預け、両足は投げ出しているから、もしかしたらまだ身体の疲れは抜けきっていないのかもしれなかった。
行燈は雲雀の側と、囲炉裏近くに。長い影が床の上で交差し、倒錯的な景観を闇に浮かび上がらせている。
「鬼……」
綱吉が顔を伏して唇に指を押し当てる。獄寺はさっきからずっと黙ったままだ。
「最初は気にしてなかったんだが、その鬼に遭ったという人間がばたばた倒れてるっていうのも聞いて、あとその動きが気になったんで調べてみたら、さ」
偶然立ち寄った辺境の村、数件の集落が肩寄せ合うだけの小さな村にも被害者はいた。峠越えの最中で遭遇しただろう、既に事切れた旅人もいた。
そして鬼は徐々に西へ――並盛の里に近づこうとしていた。
鬼に目的地があるのかは分からない、だが進路に並盛が重なっているのであれば、そして被害者が続出している以上、退魔師として見過ごす事は出来ない。正式な依頼は受けていないが、山本の正義感が先走って与えられていた任務を終わらせると即座に走って、里へと戻ってきた。
その当日中に、この有様だ。
「倒れた人の特徴としては、呼吸困難と発熱、あとは何人かに下痢とかそういった内臓に影響が出ていた。鬼の邪気に当てられたんだろうが、祓っても治らなかったんだよなー、これが」
シャマルが、あの倒れていた男性が鬼の毒気に当てられて倒れたのだと言い当てた時は、正直衝撃だった。ただのぐうたらな親父ではないとは思っていたが、彼は何者なのだろう。
鬼の動きは山本の予想よりも遙かに移動が速かった、というよりも速くなっている、とする方が正しいかもしれない。明日あたりにはもう並盛の里に姿を現すかもしれない、と山本は続けた。
「獄寺君は、あの人に何か聞いてないの?」
「――え?」
不意に綱吉が獄寺に顔を向け、声を上げる。だがぼんやりしていた獄寺は意識がこの場に残っていなくて、話を振られた事にもすぐに気付かなかった。
「獄寺君?」
「あ、すみませんもう一度」
彼は座布団の上に組んだ胡座に両手を置き、囲炉裏で燻っている炎ばかりを見ていた。行燈の火が照らす光に浮かび上がる表情は場にそぐわないくらいに真剣で、思い詰めた雰囲気を漂わせている。
綱吉は首を傾げつつ、
「えっと、獄寺君はあの人を見つけた時に、あの人はまだ意識があった?」
笹川の屋敷に運び込まれた時、余所の村のあの猟師は既に意識を失っていた。獄寺が見つけた時からそうだったのか、それとも獄寺が運んでくる最中に気絶したのかは、それは獄寺にしか分からない。
意味を理解した獄寺は一瞬だけ息を呑み、間を置いてから首を横へ振った。
「すみません、俺が水車小屋の側で見つけた時には、もう」
そして声を潜め、嘘をつく。
「そっかー……山本、その鬼の特徴とか、目的とかって、何も分からないの?」
綱吉は獄寺の言葉を額面通りに受け取り、天井を見上げてから山本に向き直る。だから獄寺が辛そうに唇を噛み締めたのにも当然気付かない、山本も綱吉の質問に気を取られていて彼の表情の変化は雲雀くらいにしか見えなかった。
山本は背中を丸めて己の膝に寄りかかり、そうだな、と相槌を打つ。
「俺が聞けたのは、鬼が女だっていう事と」
本来鬼は、鬼の里に住みそこから出てこない。人里に出る事は禁止されている、それを破ってまで人が暮らす領域に足を踏み入れるには相応の理由があるはずだ。
目的地があるのなら、先回り出来る。特徴が分かっていれば、居場所を探し出す手がかりになる。綱吉だって退魔師の端くれである、鬼が人に悪影響を及ぼすのは出来れば防ぎたい。
それに、これだけの被害が出ているのだ、遅かれ速かれその鬼の討伐が蛤蜊家でも発令されるだろう。片方だけとはいえその血を引いている獄寺の気持ちを察すると、複雑な気持ちになる。出来れば話をして、鬼の里に帰ってくれるよう説得できたなら――綱吉はそんな風に考えながら、俯いている獄寺を盗み見た。
「その鬼が、誰かを捜しているって事くらいだ」
「誰か?」
「あの子はどこ……とか、そんな事を言っていたらしい」
それはまた随分と抽象的な表現だ、と綱吉は頬を掻いて視線を浮かせた。
「ねえ」
そこへ、ずっと黙りを決め込んでいた雲雀が急に声を発する。弾かれたように綱吉は顔を上げ、身体を前に倒しながら彼に振り向いた。
雲雀は右足を引き寄せて両手で抱くように崩した姿勢で三人を見ていた。淡い炎に照らされる顔色はまだ沈んだままだ、浮き上がった輪郭線が若干黒ずんで綱吉の目には映し出される。
「ヒバリ?」
「その鬼って、髪が長くて……まま、美人だった?」
ぴくり、と綱吉の表情に皹が入る。ぴしっ、と彼の頭上の空気が音を立てて割れたのを、獄寺は確かに聞いた。
「美人……かどうかは、俺が見たわけじゃないか知らねーけど、髪が長いってのは間違いない。ってか、なんでお前が?」
今まで話を聞く一方だった雲雀が急にしゃべり出した事にも驚きだが、それ以上にこの場では山本しか知り得ない鬼の特徴を言い当てた雲雀に、彼は顔を顰めて唇を尖らせる。
黒曜石の瞳を眇めた雲雀は、親指の腹で下唇をなぞって表層を軽く舐めた。思案気味に下へ沈んだ目が床板の目地を左から順になぞっていき、自分の爪先にぶつかって止まる。彼は前に放り出していた左足も胸元に引き寄せ、曲げた右膝を外向きに倒した。素肌に絹の襦袢が絡みつき、さらさらとした触感に笑みが薄く浮かんだ。
ぞっとする表情の雲雀に、山本はまさか、と乾いた口腔に唾を流し込む。
「お前が言ってた山への侵入者って」
「女の鬼がそんなに沢山、人里近くをふらふらする?」
雲雀は山本ではなく獄寺を見ながら尋ねた。
鬼の数は減少傾向にあり、特に女の鬼は生まれにくい事もあって貴重な存在だ。そんな希少種である鬼の女がふたりも、同時期に人里に出現する可能性は限りなく零に近い。
彼が言外に告げている内容を汲み取った獄寺は、非常にこの場に居づらそうな顔をして頷いた。
「あと、誰かを捜してる風なのは僕も感じた。あの子は何処、……確かにそう言っていた」
返してとも言っていたから、彼女が探している存在は何かに奪われたのだろう。人間を嫌い、呪う言葉も吐いていたことから考えつくのは人間に――浚われたのか。
弟を。
「っ」
切っ先鋭い雲雀の視線を浴び、獄寺が息を呑んだ。
「他には?」
「さあ」
たたみかける山本の質問を受け流し、雲雀は顔を横へ背けた。そのまま無意識に右手が右目を覆い隠し、歪んだ唇が痛みを堪えて熱の混じった息を吐き出す。
右目の奧にある疼きは一向に引かない。視覚は戻らず、左目への負担は増すばかり。周囲に悟られずに隠し通す事の困難さを早々に思い知らされて、雲雀は苛立ちを隠せずにいる。
「って……いうか、ヒバリさん。その鬼は?」
「童が山の外に飛ばしたよ」
綱吉も感じ取った力の奔流。山から外へと吐き出された強大な霊気は、やはりリボーンのものだった。
「飛ばした?」
怪訝に顔を顰めた山本に、雲雀は頷く。
あのまま鬼を山の中に置いておくわけにはいかなかった、彼女が発する毒は水を汚し緑を枯らし、長い年月維持されてきた並盛山の結界を内側から崩すきっかけになりかねない。だから飛ばした、遠く、里から離れた場所へ。
淡々と結果だけを告げる雲雀の言葉に、山本の顔は次第に崩れ、緩み、最終的に参ったと両手をあげて降参の態度を取った。背中から床に倒れ込み、跳ね上がった踵で床を蹴る。
「山本?」
「ちょっと待ってくれよー。だったら、俺は一体何しに戻ってきたんだ?」
「田植えの手伝いだろう」
「……やっぱそうなるのか」
並盛の危機だからと急いで駆けつけたのに、気付かないうちに自分のあずかり知らないところで問題は解決していた。自分の存在価値を疑ってしまいそうになって、脱力しきった彼は闇に呑まれている天井の梁をぼうっと見つめた。
綱吉はそんな山本の切ない表情に苦笑して、それから随分と距離が開いてしまっている雲雀を見た。
「それで、その鬼は結局?」
「童が言うには、人の邪念に精神を狂わされていたらしい。邪気を祓って正常に戻した上で、山から追い出したと聞いている。飛ばされた先が何処かまでは、知らない」
床に置いた手を捏ねた綱吉は、雲雀の返事がいつになく素っ気ないのを感じ取っていた。視線も合わせて貰えないままだ、事務的に言葉を返しているという印象は否めず、寂しくなる。
何か彼の気に障る事をしただろうか、自分は。だが伝心で聞いても、訳が分からないままに謝罪を伝えても、雲雀の反応は梨の礫だ。
心を閉ざしてしまっている、触れられるのに届かない。踏み込もうとすれば見えない壁に阻まれて、それ以上先に進めない。
雲雀の心が見えない。
綱吉は床の上で拳を作り、角張った指の背で薄っぺらの座布団を殴った。ごり、と骨が硬い板にぶつかる感触がする、けれどそれよりもずっと心が痛い。
どうして、と自問してもちっとも答えが見付からなくて、綱吉は唇を噛んだ。
「あー、もう。折角ツナに俺が格好良く鬼退治するところを見せてやれると思ったのに」
「なに、それ。桃太郎のつもり?」
自暴自棄気味に言い放たれた山本の言葉に、雲雀はあきれかえった声で呟いて立ち上がった。しかし右側にふらついて、肩から襖と柱にぶつかっていった。
「ヒバリ?」
「話が終わったなら、もういいか」
「あ、ああ。そうだな、もう時間も遅いし」
日が暮れて久しい、月は闇にぽっかりと浮かんで朧に輝いている。人々は寝静まり、動くものの気配は獣でさえ稀だ。奈々も奥座敷に篭もって休んでいる筈、綱吉も今夜からしばらくは奥座敷の住人だ。
離れの部屋は朝方の状態のまま放置されており、使えない。雲雀にもそう早口で伝え、綱吉は寝所へ向かおうと彼を誘った。
「先に行ってて」
「でも」
「綱吉」
「……分かりました」
山本も起きあがって、欠伸をしながら獄寺の部屋の隣にある空き部屋へ向かう。そこは本来客人用の部屋なのだが、獄寺が自室を明け渡すのを拒否した上に山本と枕を並べるのも嫌がったので、打開策としてその部屋が彼に貸し与えられたのだ。布団は奈々が昼の間に干しておいてくれて、それ以外は何も無いが寝て起きるだけならば何ら問題は無いだろう。
離れの部屋が使用不可となった綱吉は、奈々のいる奥座敷のひとつを借りる約束を取り付けていた。必然的に雲雀も、離れが修理されるまではそこで寝起きする事となる。
綱吉が薄暗い廊下を手探りで進んで行くのを見送り、雲雀は囲炉裏の燃え滓に灰を振りかけ、残り火を消した。山本がふたつあった行燈の片方を掴んで北側の通路へ出て行ったので、残る行燈はひとつ。それも獄寺が火を傾けないように持ち上げた。
かたん、と木の板の底が床を削る音が響く。
「あの、さ。ヒバリ。……気のせいかもしれないけど」
居間にふたりだけとなった時、不意に獄寺が声を発した。行燈の炎が揺れ、長く太い影が床に落ちる。
「お前、その右目」
「……なに?」
「いや、ちょっと、なんていうか……聞きたいことがあるんだ。お前とやり合ったっていう鬼の女、なんだけど」
彼は行燈を囲炉裏端まで動かし、膝を折ってしゃがんでいる雲雀と視線を合わせた。
終わった話を蒸し返す獄寺の意図が読み取れない雲雀が不機嫌に顔を顰める、その眇められた目の大きさが左右で異なっている。本人は隠しているつもりで、綱吉も暗かったこともあり気付いていなかったが、獄寺は既に勘付いていて、山本も何も言わなかったが気取っているに違いない。
もっとも雲雀本人は、綱吉にさえ知られなければそれでいいと思っているのかもしれないが。
「その鬼、角がここと……ここにあったか?」
声を潜めた彼の態度から、他の誰かには聞かれたくない事なのだろうと察した雲雀が、火掻き棒を置いて獄寺に向き直る。舞い上がった灰が、行燈の光を浴びて小躍りしていた。
獄寺の指は彼の前髪の分け目を挟み、生え際を左右に一度ずつ指し示した。彼の言う通り、雲雀が遭遇した鬼はその場所に小さな角がひとつずつ生えていた、頷いて返すと更に質問が繰り出される。
「じゃあ、さ。髪の色は。明るめの唐茶色じゃなかったか?」
「……そうだったかもしれない、かなり汚れてたけど」
それが何だっていうのか、と眉間に皺寄せた雲雀の答えに、獄寺はやっぱり、と小さく呟くとその場でがっくりと肩を落としいきなり項垂れた。
なんなんだ、と雲雀は目を丸くするが、少し考えてああ、と思い当たる事項を繋げ合わせてひとつの図を完成させた。
鬼の女が言っていた人間への呪詛、探しているのは弟という話、そして綱吉から聞いている、獄寺には純血種の鬼の姉が居ると。そこに加え、この獄寺の態度は。
「君の?」
「……村はずれで見つけた奴からは、姉貴の匂いがした」
かなり薄くなっていたし、離れて生活するようになって久しいから気のせいかとも思ったが、雲雀の言葉でほぼ確定的な事実と化してしまった。あの鬼の女は、獄寺の姉だ。半魔であった彼をずっと庇い、ひとりでも生きていけるようにと術を教えてくれた、あの。
美しく、優しく、そして何事に対しても徹底主義の為、誰彼構わず容赦がなかった、あの。
「……う」
「なに」
「いや、姉貴の修行時代思い出したら腹が」
思えば彼女の得意技が、毒の生成だった。獄寺も幾度と無く実験台にさせられたから、その強さは身にしみて理解している。半分鬼の血が混じっているから無事だったようなもので、確かに彼女の毒を浴びたら免疫力の弱い人間だとひとたまりもない。
先程雲雀は、リボーンの言葉として鬼が、人の邪念に晒されて精神を狂わされたと言っていた。となれば彼女は、いったいいつから隠れ里を離れ自分を探していたのだろうか。村を追われた自分を、彼女はずっと探していてくれたのだろうか。
押し黙った獄寺が遠くを見ている様を横から眺め、雲雀は頬杖をつく。だが霞んでいる右目では暗闇の中というのも手伝って距離感が掴めず、曲げた爪が頬を掠めて小さな痛みを覚えた。思わず舌打ちしてしまい、その微かな音で獄寺が我に返る。
「んで、あの、姉貴は……」
「攻撃してきたから排除するつもりだったけど、こちらも色々と事情があってね。童が何処へ飛ばしたのかは、僕だって知らない。浄化もしておいたとは言っていたから、今頃どこかで正気に戻ってるかもね」
「死んだりとかは、してないんだな」
「殺し損なったよ」
実際あの時、彼女が毒水を放たなければ、雲雀は彼女を殺していた。結果的にそれは獄寺にとって救いとなったが、寸前で獲物に逃げられた格好の雲雀としては不満が残る。結局自分が傷を負っただけだ、面白くない。
腹立たしげに酷い事を言いはなった雲雀の皮肉に、獄寺はほっと安堵の息を零す。今度こそ床にへたり込みそうになっていて、良かった、と呟く唇は噛み締めすぎて赤く腫れていた。
「あ、そうだ。お前、確か人の薬は効果がないとか言ってたな」
「言ったよ。僕の傷は、綱吉にしか治せない」
そして雲雀の治癒をすれば、綱吉は消耗する。鬼の毒を浄化しようとすれば、彼もまた毒の余波を浴びる。獄寺の一件で懲りているだろうに、事情を知れば綱吉は強固に主張するだろう、自分が治すと。
だから雲雀は言い出さなかったし、気取られないように綱吉との接触も拒んだ。寂しそうにしている綱吉を見るのは辛かったが、蠱毒に苦しめられていた綱吉も覚えているだけに、獄寺は強く雲雀を責められなくて肩を竦める。
「言えば十代目だって分かってくれるんじゃねーのか」
「君は、あの子が馬鹿みたいに頑固なのを知らない」
殊に雲雀の身体に関する事には雲雀以上の執着を見せる。傷ひとつ残すのは許さないという執念は雲雀本人もかなり引いてしまうくらいで、そして綱吉はこれが普通だと思っているから始末が悪い。
右目には傷が残らなかったので見た目上は何も無い風を装えるから良いが、神経にまで毒に蝕まれているとなると、治癒する綱吉への影響も甚大なものになるはずだ。
だから雲雀は隠す、綱吉に悟られてはならないと。襦袢を頑丈に着込んできたのだって、身体に残る傷を隠す為に他ならない。
雲雀なりに綱吉を案じての行動なのだ、獄寺の言葉をあっさりと蹴り落とした彼は拗ねたような、照れたような顔をして視線を泳がせた。
「だから」
ふっ、と吐息と共に吐き出された言葉。
「綱吉に言ったら、君も、咬み殺すよ」
持ち上げた右手、隠した右目。露わになる左の目が鋭く輝きを放つ様を目の当たりにし、獄寺は息を呑んで意識を凍り付かせた。
彼の尋常ならざる強さは、十分に理解している。本気を出した彼の前では、自分の炎など紙の盾にも等しい。悔しいが認めざるを得ない実力の差異に、奥歯を噛んで瞳を尖らせた獄寺に満足げに口角を歪めた雲雀はやおら膝を崩し、立ち上がった。
追って顔を上げた獄寺が、じゃあ、と小さく言葉を紡ぐ。
彼の後ろで行燈の炎が風もないのに爆ぜ、揺れた。床に伸びたふたり分の影がゆらめく、あてど無く彷徨い、行く末に迷っている、そんな感情を抱かせた。
ひっそりと息を吸って吐き出し、獄寺は軽く握った拳を床に押しつけた。腰を浮かせ、既に立ち上がっている雲雀を仰ぎ見る。
「お前は、どうするんだ」
「なにが?」
「だから、右目」
見えないんだろう、と続けた瞬間。
風が耳元の空間を切り裂き、闇から伸びた腕が獄寺の首を締め付けてそのまま彼を床へと縫いつけた。がっ、と後頭部が床とぶつかり合う音が小さく響き、目の前に星が散った獄寺は一瞬の間に自分の身に何が起こったか理解出来ず全身を硬直させた。
喉仏を今すぐにでも潰してしまえる近さと力が、喉を締め上げている。ごり、と首を動かせば頭部が床板に擦りつけられて痛みが増す、更に頸部を締め付ける力は増して、数度の瞬きの末獄寺は自分に濃い影を落とす存在を視界に納めるのに成功した。
赤黒い、異形を思わせる瞳が心臓を引きちぎらんばかりに獄寺を射抜いている。
「――っ」
「あんまり」
あげそうになった悲鳴は、喉の苦しさに紛れて音にならなかった。
「下手な事は、口にしない方がいい。今の僕は」
押しつけられた部位だけでなく、身体全部が悲鳴をあげている。見えない圧力に全身が戦き、総毛立ち、鳥肌を立て、恐怖に震え上がっている。
雲雀であって雲雀でないものが、今目の前にいる。理由は分からないが、直感的にそんな感想を抱いた獄寺は、圧迫される喉の痛みを堪えてどうにか唾を飲み込んだ。彼の指が皮膚に食い込み、濃い痣を刻む。直後首は呆気ないほど簡単に解放されたが、中身を空っぽにした肺に吸い込んだ酸素は濃すぎて苦く、激しく咳き込んだ獄寺は体を裏返して床の上でのたうった。
「今の僕は、簡単に君を殺してしまえる」
「なっ――」
離れていく雲雀がそっと吐息に紛れ込ませた呟きに目を見開き、獄寺は横たわる自分を床から無理矢理引きはがして叫ぼうとした。
が、チリリと燃える炎の影に飲み込まれるようにして雲雀の姿が陽炎の如く揺らめくのを見て、次に繋ぐ言葉を見失った獄寺は彼の存在自体の危うさに唇を噛んだ。違和感が胸を掠める、先程胸に抱いたものが獄寺の脳裏で警告を響かせた。危険だという声は甲高く、幾度も獄寺の頭を叩く。
「ヒバリ、お前……」
明け方の、それでも尚暗い空の下で見た色が目の前の光景と重なり合う。けれど意識して確かめる前に雲雀は獄寺から顔を逸らし、背を向けた。そのまま鈍い足取りで歩き出す、行く先は土間の方面。
綱吉が寝入っているだろう奥座敷とはまったくの逆方向。
右に傾き気味の身体を支え、雲雀は自分の草履を爪先に引っかけるとすっと背筋を伸ばした。
黒髪が薄明かりに映え、彼の輪郭が虚ろに闇の中に描き出される。見送るしか出来ない獄寺は、生唾を飲んで床に爪を立てた。
「なんで、そこまでして、――だって十代目はお前のこと!」
傷を癒す方法があるのなら、人はそれに縋る。
それまで当たり前のものとして享受してきた機能を失うかもしれない時、人はその危険を忌避しようと懸命に足掻く。
雲雀には綱吉がいる、雲雀の傷は綱吉が癒す。綱吉には多少苦痛が伴うかもしれないが、彼ならば喜んで雲雀の右目を治そうとするだろう。それで済むのだ、何もかも。
雲雀がそこまでして隠し通そうとする理由が、獄寺には分からない。
鬼の気配が綱吉に悪影響を及ぼすのは、昼間の一件もある、獄寺だって重々承知の上だ。けれど雲雀が敢えて遠ざけようとしている綱吉の、あの哀しそうな顔は見ていて耐えられない。
「お前はそれで良いのかよ!」
「知ったような口を利くな!」
脊髄反射で怒鳴り返され、獄寺は目を見張った。
闇の中に浮かび上がる雲雀の右目が、赤く濁っている。そして前髪に隠れ気味の左目は、闇よりも濃い漆黒に彩られ悲しみとも憂いともつかない複雑な輝きを放って揺れていた。
「――――」
獄寺はごくりと喉を鳴らし、それからゆっくりと立ち上がった。踵が行燈の底辺にぶつかり、衝撃で炎が揺れる。大きく波立った影が屋内の壁にまで伸びて怪しい形を作り出し、獄寺を嘲笑った。
雲雀は何かに耐えるような、苦しげな表情をしていた。少なくとも、獄寺にはそう見えた。
胸を打つ、強い違和感。見えない場所でせめぎ合うなにかを感じる。言葉に出来ない感情が渦を巻き、雲雀を包み込んでいる。
今、目の前にいる彼自身すら見えない。
「……の、さ」
去りゆこうとする彼の背中に、掠れた声で問いかける。それでも雲雀の歩みは止まらない、何処へ行こうとしているのか勝手口の戸へ手を掛けた彼は一瞬だけ、視線を遠くへと飛ばした。
既に獄寺の存在など忘れ去ってしまっているのか、虚ろな視線が求めた先は容易に想像がついて獄寺は拳を握りしめる。
油の焦げる、嫌な臭いが喉をついて吐き気がした。
どうしてそんな事を思ったのか、後から考えても獄寺は分からない。けれど確かに、この瞬間、間違いなく彼はそう、思ったのだ。
「お前」
ごくり、と唾を飲む音が身体に響く。
「お前、――――誰?」
返事は無い。ただ扉が静かに閉ざされるのみ。
その夜、寝所を奥座敷へと移した綱吉の隣の布団は、日が昇る頃になっても誰にも使われる事無くずっと冷たいままだった。
2007/4/12 脱稿