心臓が張り裂けるような気持ちだった。
「十代目!」
ふらつく脚を叱咤しながら駆け込んだ、村の中でも際立つ門構えの屋敷。太鼓の音は止んでいたけれど、勝手門を潜り抜けた先に人影が群れを成していて、それがまず獄寺を安心させた。
彼の悲痛な呼び声に、数人が揃って振り返る。垣根の如く並んでいた人が左右に割れて、その向こう側には木刀を構え睨み合っている男ふたりの姿もあった。
「獄寺君?」
「十代目……この人を」
場に居合わせた大半が怪訝に顔を顰めた中で、ただひとり前に出た綱吉が獄寺を呼ぶ。彼もまた眉根を寄せて若干小首を傾げやりながら、更に一歩出たところで、獄寺が背負っている人物にようやく目が向いた。表情が更に曇る、力なく獄寺の胸元に向けて枝垂れている両腕から視線を持ち上げていき、崩れ落ちる寸前で彼の肩に寄りかかっている頭部を見て、瞳が急激に細くなった。
気づいた少女達が一斉に口元を両手で覆い隠し、悲鳴を呑み込む。
「その人は」
「村外れに」
「なんだ、どうした?」
様子がおかしいことに気づいたのだろう、試合を中断させた山本が木刀を右手に綱吉の背後へと立った。
皆まで言えなかった獄寺は、ずり落ちかけた男の身体を後ろに回した両手で支え直し、意識がない重い存在を振り返る。覗き見た表情は血の気も薄れ、青紫に変色した唇は弛緩しきっていて涎が垂れていた。
「獄寺? お前、今まで何処行ってたんだよ。それにその人は」
「俺のことはいいから、早くこの人を!」
二の句が告げない綱吉に代わり、前に出た山本が立て続けに質問を繰り出す。それを獄寺が苛立ちながら怒鳴り声を返して、惚けたままだった了平がハッと我に返った。
妹の肩を叩いてハルたちと離れているように告げ、自分は山本を押し退けて獄寺の前に出る。
「事情は分からんが、その人をひとまず屋敷の中へ」
「すまない、助かる」
沢田の屋敷は村のずっと北のはずれに位置している上、百段近い石段を登らなければならない。とてもではないが人をひとり背負ってたどり着ける距離ではなく、獄寺は了平の申し出に安堵の表情を浮かべた。
途端気が抜けたのか獄寺の体身が右に大きく傾き、引きずられるようにして男の身体も崩れかかった。それを山本が、さりげなく横から手を出して支えてやる。疲れきった顔の獄寺は口答えもせずに彼の好意を受け止め、既に限界が近い自分の体力の無さに苦笑した。
だが山本は、額に汗を滲ませている獄寺ではなく、彼が連れてきた、見知らぬ男性に目を向けていた。
かなり泥で汚れてはいるが、背中に負ぶった蓑と腰に結びつけている籠には特徴がある。着ているものは粗末で、日に焼けて赤黒くなった肌には幾つかの傷跡、けれどそのどれもが軽度であり男が意識を失っている理由はもっと別のところにあると予想できた。詳しい素性までは分からないが、近隣の村に住む猟師だろうと思われる男の額に手をやった山本は、その熱さに舌を巻いた。
「こっちだ」
「ああ」
獄寺はそんな僅かな表情の変化を見せる山本には構わず、了平に導かれるままに開け放たれたままの玄関から屋敷へと向かう。後を追いかけた綱吉は、山本が自分の指先ばかりを凝視している姿に首を捻った。
「京子、水を汲んで来てくれ。あと母さんに床の準備を」
「この村に医者はいないのか」
遠巻きに見詰めている妹へ怒声を張り上げた了平に、獄寺が声を潜めて問いかける。
蠱毒騒ぎの時もそうだったが、この村にはきちんとした医療形態が整っていない。村人が倒れた時には綱吉へ祈祷の依頼が来るくらいで、古臭い因習に囚われている傾向が若干見られるのが獄寺には不満だった。
薬草だって探せば豊富に揃っているし、煎じればいい薬になる。だが実践する人間は少ないようで、せめて本草学だけでも広く知らしめておくべきかという想いが彼の胸で燻っていた。
悔しげに唇を噛んだ彼に、了平は草履を脱いで床へあがりながら足を止めた。肩越しに振り返って、獄寺の手助けにと右手を差し出す。表情は若干苦く、何か言いづらいことがある様子だった。
「いや、な。医者は」
「呼んでくる?」
「どうせ来ないだろう。それにお前にひとりで行かせたら、俺が後で雲雀に殴られる」
いきなり後ろから声が飛んできて、振り返っていた了平が苦笑しながら言葉を吐いた。自分の提案をあっさりと否定された綱吉だったが、気を悪くした様子もなく、逆に頬を赤く染めて変な顔を作った。獄寺がなんなんだろう、と首を捻っていると、先に歩き出していた了平に早く来るよう急かされる。
綱吉は獄寺の背中を押して歩くのにも苦労している彼を後ろから支えてやり、了平の案内で一列になって屋敷の奥を目指した。丁度京子から話を聞いたのだろう、彼の母親が座敷に布団を用意してくれている最中で、不安そうな顔色で息子と、現れた獄寺を順番に見詰めている。
「すまない、母さん」
後は自分が引き受けるから、と枕を彼女から受け取って、流行り病だと困るからと母親を下がらせる。獄寺は綱吉に男の蓑を外して貰ってから、膝を折って落とさぬように慎重に男を布団へと下ろした。
顔色は相変わらず悪いままだ。呼吸はしているが浅く、短い。
「医者がいるのか?」
男の症状は蠱毒の時と似ているが、若干違う。あの時は倒れた人にもまだ意識があった、けれど今は完全に昏倒してしまっていて何があったのか聞くにも聞き出せない状態だ。さっきの話の続きを持ち出して唇を噛んだ獄寺に、了平と綱吉は顔を見合わせて首を振り合った。
呼んでも来ないとはどういうことか、医者ならば病人が居たら駆けつけるのが当たり前ではないのか。
だがふと思い至る、先日の騒動の時も医者が動き回っていた気配は皆無だった。いずれも綱吉が毒を清めて回ったではないか、と。
医者が治せるものではなかったからかもしれないが、それにしても妙だ。了平たちは最初から、話に出てくる医者を頼りにするのを諦めている気配がある。益々いぶかしむ獄寺に、彼らはもう一度肩を落とした。
「あのセンセーなら、男はまず診ないぜ」
「山本」
「それに、あの先生でも無理なんじゃないかな、これ」
ひとり遅れて座敷にやってきた山本は、障子の桟に手を置きながら三人を左から順に眺めて最後に布団に包まれている男を見た。
「山本?」
「別の村で、同じような倒れ方をした奴を見た」
彼は凭れかかっていた体を縦に戻し、ゆっくりと大股に進んで座敷へと上がりこむ。男の枕元に座っている獄寺を押し退けて膝を崩しながら腰を落とした彼は、意味ありげな表情で意識の無い男を間近から観察した。
彼の眉間に寄った皺は深く、引き結んだ口元には押し殺しきれない力が感じられる。言葉をかけてよいものか迷わせる顔つきに綱吉は困惑を極め、助けを求めるように了平を仰ぎ見た。だがそこで自分を見られても、と考えること自体が苦手の彼は手を縦にして顔の前で横に振った。
「他の村……?」
代わりに獄寺が口火を切る。顰めた眉をそのままに山本の横顔をのぞき見た彼は、不意に自分の側へ顔を向けられて驚き仰け反った。
右手が畳みの目地を擦る。肩が綱吉にぶつかり、将棋倒しの要領で綱吉の背中は了平にぶつかって止まった。
「流行り病か」
一番懸念していたものに思考が巡り、難しい顔をした了平が綱吉の肩を抱きとめて背筋を伸ばす。ふたり分の頭を飛び越えた彼の質問に、山本は視線だけを持ち上げて違う、と首を振った。
「その点は心配しなくて良い」
「そうか」
あからさまにほっとしている了平の態度に若干の違和感を覚えつつ、山本は彼の心配を否定した。
恐らく了平の頭の中には、先日の蠱毒の件が記憶に新しいままなのだろう。事情を知っている獄寺と綱吉はなんとも言えず、かといってこの場で真実を公にするわけにもいかず、困った表情で互いを見合わせた。
良平の手が綱吉の肩から前に落ちていく。どさくさに紛れて後ろから抱き締められ、本人は意識していないのだろうが、胸に引き寄せられた綱吉はどきりとしたまま自分を見ていない男を下から見上げた。
「あの、お兄さん」
「ん? おお、すまん。つい」
手近なところに抱き人形的なものがあったから、と綱吉に股引を引っ張られた了平がからからと笑いながら手を放す。逞しい胸板は雲雀のそれを彷彿させるもので、知らず顔が赤くなっていた綱吉は了平の笑い声を聞きながら俯いて自分の膝を抱き締めた。
「何故言い切れる」
いつもならば真っ先に綱吉と了平を引き剥がしにかかるはずの獄寺が、今回に限っては無反応。逆に流行り病の可能性を否定した山本に食って掛かり、問われた方もまた眉間に皺を新たに刻み込んで彼を見返した。
笹川の敷地から消えて、戻ってくるまでの間に何かがあったのだろうか。明らかに動揺が見え隠れする彼の反応に、山本はちらりと横目で綱吉を盗み見る。だが彼は俯いたまま火照った頬を元に戻すのに必死で、それどころではないようだ。
どうしたものか、と彼は嘆息して天井を仰ぎ見る。
男の意識は戻る様子が無い。こちらも、どうするか決めなければならない。
「参ったな……」
心の中での呟きが声に出てしまい、彼は頭を掻き毟ると騒々しい外に気づいて顔を上げた。
「此処に居たか」
「持田か。どうした」
「いや、要らぬ世話かと思ったんだが」
山本と木刀での試合に臨んでいた彼だったが、そういえばいつの間にか姿を消していた。何処へ行っていたのかという了平の問いに、彼は手にした水桶を先に示して、障子戸の奥に隠れて室内からは見えない位置にいる人物を引っ張った。
急に横から力を加えられたからだろう、足元を覚束なくさせた人物が、乱暴に扱うなと非難めいた言葉を喧しく撒き散らす。獄寺は知らない声で、綱吉と山本と、それから了平の三者はどうとも表現しづらい顔をして笑顔を引き攣らせた。そして綱吉はさりげなさを装いつつ、膝を浮かせてつつ……と山本の後ろへ回り込む。
見ていた持田があからさまに不機嫌を顔に出すが、横から響くだみ声にも気を配らなければならなかった彼は一旦綱吉の事を横に置いて、逃げ出そうとしている相手の首根っこをひっ捕まえて強引に障子の前に引きこんだ。脚が絡み、背中から転んだ人物の赤ら顔が獄寺の前に落ちてきて彼はぎょっとして飛びずさって逃げる。まだ日も明るいというのに、男からは酒の臭いがした。
「よく連れて来られたな」
「引っ張ってきたんだよ」
呆れ口調の山本に、ぶっきらぼうに吐き捨てた持田は桶も床に置いて転がったままの男を蹴り上げる。
「こぉら、お前ら年長者はもっと敬え」
「先生、患者だ」
自分の脇腹を蹴った持田を剣呑な表情で睨んだ男だったが、酒の所為か呂律が回っていない。迫力に乏しい顔つきに獄寺が呆気に取られる中で、誰も持田が蹴ったことを咎めないのが不思議だった。
冷たくあしらわれつつ、顎で布団を示された男は、己の髭面をかき回しながら床に手をついて体を起こした。そしてやおら振り返り、山本の影から覗き見ていた綱吉に真っ先に注意を向ける。
瞬間に緩みきった男のだらしない顔を間近で見てしまって、獄寺は悲鳴をあげそうになった。
「ツナちゅわ~~ん」
「ひぃぃ!」
「触るな」
逆に悲鳴をあげたのは、気持ち悪いくらいに蛸の口をした男に色声で呼ばれた綱吉だ。
男は両手を高く持ち上げて前傾姿勢を取り、まるで蛙の如く座ったままジャンプして綱吉を目指す。だが前に立ち塞がる山本の木刀で思い切り頭を一閃され、男は綱吉に到達する前に畳みに顔を埋め込んだ。
先程の持田もそうだが、山本までして容赦が無い。
薄い煙をあげながら巨大なたんこぶを頭に作り出した男は、年の頃は三十台半ばといった感じか。無精髭に手入れが行き届いていない脂性の髪、だらしなく着崩した着物はいつから洗濯していないのか汗臭く、とても“先生”という出で立ちではない。
「なにしやがる!」
「患者はツナじゃない」
「なんだとぉ」
打たれた頭を撫でさすり顔を上げた男の怒号を簡単に受け流し、山本は木刀を脇にしまって綱吉を背後に庇った。反対側では了平と持田も憤りを感じさせる表情を作っており、綱吉は持田を前にしたときよりも更に怯えている。分かっていないのはまたしても獄寺だけで、居合わせる全員の顔を眺めては最終的に諦めの境地に達して肩を落とした。
「こいつか?」
その中で状況的に自分の不利を悟ったのだろう、まだ頭を撫でている男が布団の男に向き直り胡坐を組む。そうだ、と了平が頷くので上から顔を覗き込んだ男は、眠っている存在が性別を知ると途端に嫌な顔をして手を振った。
「断る、俺は男は診ない」
「先生!」
「あー、でもツナちゃんは別な?」
「黙れこの助平」
ごんっ、と横から拳を男に叩きつけた山本の後ろでは、益々萎縮して小さくなった綱吉が疲れた風情で溜息をついていた。
「兎に角、頼むよシャマル先生。あんたしかいないんだから」
痺れを切らした持田が立ったまま頼み込むが、シャマルと呼ばれた男はそっぽを向いて返事すらしない。拗ねているのか唇を尖らせて完全に拒否の姿勢だ、良い大人が実に情けない。
そもそも先生と呼ばれているが、この男が何者なのかさっぱり検討が付かない獄寺は、肘で了平を小突きこそこそと話しかける。視線を向けられた了平は、近づいてくる獄寺に一瞬身を引いたものの状況が理解出来ていないというのは察したようで、小さく肩を竦めて簡単に教えてくれた。
「いつの間にか村の外れに草庵を設けて住み着いていたのだが、本草学のほかに蘭学にも精通しているとかで、一応医者の真似事が出来る人物だ。ただ性格にちょっと難があってな」
「はぁ」
まだ山本や持田と争論を繰り返している男を眺め、獄寺は気の抜けた声で相槌を打った。正直了平も扱いに苦慮している感が否めず、枕元で騒ぎ立てられて、運び込まれた男もさぞかし迷惑だろうと笑っている。
獄寺は、人の影から一向に眼を覚ます気配の無い男の顔を複雑な思いで眺めた。
山本は流行り病の類ではないと断言し、他に村でも似たような形で倒れて意識を失った人がいると言っていた。一瞬また自分が知らぬうちに何かをしただろうか、と勘繰りもしたが、訪ねたこともないほかの村でも同じことが起こっているのなら、少なくとも自分は無関係のはずだ。
だがそうとも言い切れない疑念が獄寺の中にはあって、山本の言葉で更に思いは増大している。不安が募り、無意識に拳を硬く握り締めていた。
「まぁ、見て分かる通り、無類の女好きで男はどんな重病人であろうと診ない方針らしい。少し前の流行り病の時も一応頼みに行ったが、倒れた人間が殆ど男だったのもあって、な」
結果は想像に任せる、と乾いた笑いを浮かべた了平に、獄寺はぎくりと心臓を震わせて愛想笑いを懸命に作り出した。そうなのか、と頷き返す声が震えていたのを、幸い勘の鈍い了平は気づかずにいてくれた。
ちなみにハルが倒れた時に彼に頼みに行かなかったのは、母親が娘の貞操を気にしてのことだったらしい。
酒臭い息が充満している。小さく咳込んだ綱吉にシャマルは顔を近づけようとして、山本がそれを制して後ろからは持田が首根を掴んで引き剥がす。見事な連携振りに、いつもああだったらいいのにな、と了平は気楽な声で呟いた。
「もういいよ、先生あんた帰ってさっさと酒でもつまんでろ。どうせあんたでも分からないだろうから」
「んだとぉ?」
ひっく、としゃっくりをしたシャマルが赤ら顔を歪ませて挑発的態度を取る山本をねめつける。だが効果は乏しく、両手を広げて肩を竦めた山本に益々怒りを膨らませて地団太を踏んだ。
手を振り払われた持田が、下がりすぎて桶の水をひっくり返しそうになりたたらを踏む。気づいた了平が手を伸ばしてやってどうにか堪えたのだが、怒り心頭気味の持田は握った拳で乱暴にシャマルの頭をまたしても殴りつけた。
「ぼこぼこ殴るんじゃねー!」
「うっせぇこの蛸親父!」
痛みが引いたばかりの箇所をまた殴られ、怒声を張り上げるシャマルに負けじと持田も騒々しい。少なくとも医者という職業に在る人間は尊敬されて然るべきだと思っていただけに、獄寺はどうしたものかと盛大な溜息をついた。
前髪を指で梳きあげ、そのまま額に手を置く。具合が悪いわけではないのに頭が痛んで、重ねた溜息の合間に視線を感じて獄寺は右目を脇へ流した。
綱吉と視線が合う。だが少し様子が変だ。
「十代目?」
「……ごめん、ちょっと……気分悪い、かも」
それまで単に持田やシャマルに怯えているだけだと思われていた彼が、青褪めた表情に脂汗を浮かべている。頼りなく握った山本の長衣に皺を作り、小刻みに肩を震わせている様は明らかに異常だった。
獄寺が片膝を立て、体を起こす。
「どうした、沢田」
「ツナ?」
了平と山本も少し遅れて彼の様子に気づき、シャマルは顔を顰めて己の顎を撫でやった。そして徐に眠っている男の額に指を置き、閉じている瞼を強引に開かせて眼球を覗きこんだ。顎にも手をやって口を開かせ、その渇き具合を確認してから脈を取る。
急にやる気を出した男の変貌振りに一同が息を呑む中、綱吉は辛そうに顔を歪めて息を吐く。先ほどよりもずっと山本に体重を預けて寄りかかり、寒いのか震えが止まらずに奥歯も掻き鳴らしていた。
「十代目」
「そいつ今すぐ外に連れていけ。こいつは、鬼の毒気だ」
「え?」
体を反対に向けて胸で綱吉を受け止めた山本が、ぴしゃりと言い切ったシャマルの声に目を丸くする。何故分かるのか、とでも言いたげな視線を投げやるが、その間にも綱吉は苦しげに喘いでいて、横から腕を出した獄寺が無理やり彼から引き剥がした。
鬼、という単語に受けた衝撃をそうやって、どうにか誤魔化してやり過ごす。
「……やっぱり」
そんな獄寺の態度に気づかない山本は、空っぽの両手を握りしめ俯き加減に目を眇めて呟いた。
「十代目、兎も角一旦外へ」
「うん――」
今にも気を失ってしまいそうな綱吉の肩を抱きかかえ、獄寺は彼を引きずるようにして座敷から出る。そしてどちらから自分は来ただろうか、と左右を確認していたところで様子を見に来た京子に遭遇した。
彼女はぐったりしている綱吉に驚いたが、悲痛な顔をしている獄寺を見て何も言わずに玄関まで案内してくれた。短く礼を言って獄寺は彼女についていき、泥で汚れたままの自分の下駄を履いて今度は綱吉を背負う。
「ツナ君の草履、後で届けるね」
「悪い、助かる」
短いやりとりをしてから、笹川の玄関を出る。油断していた、と獄寺は目の前に解放されている門を睨みながら自分の迂闊さを悔いた。
あの男が意識を失った時に感じた気配、それは彼にも充分なじみの在るものだった。そんなはずが無い、と否定したい気持ちが先行しすぎて、綱吉がこういった異質なものの気配に敏感だという事実をすっかり失念していた。
もっと早く綱吉をあの場から引き離すべきだったのだ。けれどそのためには、どうして自分がその懸念を感じ取れたのかの理由をまず説明しなければならない。山本はまだしも、持田や了平といった村の人間にまで自分の素性を赤裸々に告白する勇気は未だ彼にはなく、自分の保身を優先させて行動が後手に回ったことが悔しくてならない。
「……っ」
綱吉の吐く息が熱を持って獄寺の首筋に触れる。距離を取ったことで少しは安定したのか、綱吉は薄目を開けて自分を負ぶっている人物を確かめた。
「ごくでら、くん」
「大丈夫ですか、十代目」
「うん。……ごめん」
「いえ、いいんです」
今日は人を背負ってばかりだ、とずり落ちかけた綱吉を抱えなおし、彼は苦笑して自分の気持ちを誤魔化した。けれど伝わってしまっただろうか、綱吉はぎゅっと彼の肩から胸に回して獄寺を抱き締めた。
触れられた場所から伝わってくる熱が暖かく、心地よい。けれど間接的であっても彼を辛い目に合わせた事実は変わらず、獄寺の中には暗い影が落ちる。無理に振り払おうとしても、沼地で感じた懐かしい気配は消えてくれない。
シャマルは猟師が倒れた理由は鬼の毒気と言っていた、そして山本は「やっぱり」と口走っていた。
あの男は何かを知っているのだろうか、疑惑は膨らむばかりで獄寺は浅く唇を噛み締めると綱吉を連れて一度通った道を戻り始める。
「おーい」
その道半ばとも行かないうちに、後ろから呼び止められた。獄寺は出した足を引っ込めて振り返り、右手を振りまわりながら駆けて来る相手を仰ぎ見る。彼はその手に綱吉の草履を持っていて、ふたりに追いつくと長い影を地面に伸ばしながら両膝に手を添えて息を整えた。
額に汗を浮かばせ、下から綱吉の顔を覗きこむ。顔色が若干戻っているのに安心したのか、大きく息を吐き出した山本はそのまま持っていた草履を前に出して膝を折り、綱吉の素足に履かせてやった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
素直に礼を言う綱吉におどけながら言葉を返し、立ち上がった彼は獄寺の顔にも影を伸ばして陽射しを遮った。
西へ大きく傾いた太陽は、空を鮮やかな朱色に染め上げている。棚引く雲が北向きに真っ直ぐ伸びていて、巣へ帰る鳥が隊列を組んで頭上遥かを駆け抜けて行った。農作業が終わった村人が、笹川の家での騒動を知らぬままのんびりと牛と連れ立って畦道を進む。その影が水の張られた田に沈んで、やはり塒に帰ろうとしている蛙がのんびりとした声でひとつ鳴いた。
地表を撫でる風は夜気を含んで、少し冷たい。
「あの人は」
「意識が戻るまでは笹川の家が面倒を見てくれる。多分山向こうの猟師だと思う、連絡を入れて迎えを寄越してもらうように頼んできた」
村と村の境界線は明確に引かれてはおらず、かなり曖昧だ。けれど不用意に触れると領域が接し合っている村同士の諍いにも発展しかねず、あの猟師がどこで狩りをしていたか、今後もしかしたら問題になるかもしれない、と山本は続けた。
けれどそれと、鬼に襲われたのは別問題だ。唇を尖らせた獄寺の言葉に、山本はそうだなと同意を示して小さく頷く。但し表情は些か複雑だ。
「大丈夫なのかな」
「ああ、シャマルも言ってたが、鬼の毒気というか瘴気、だな。それで間違いないと俺も思う」
ひとりで立てる、と強引に獄寺の背中から降りた綱吉の問いかけに、方向違いの回答をした山本もどこか意識が別に向いている。
鬼の毒気は綱吉も、獄寺で充分経験済みだ。今回は人を介してだったのでかなり気配が薄かったためにこの程度で済んだが、直接鬼に触れたであろうあの猟師はどうなるのか。生気の抜けた土気色の肌を思い出し、寒気を覚えた綱吉は両腕で身体をさすった。
「俺が里に戻ってきたのも」
どこかで烏の啼く声が響いている。
「並盛に鬼が近づいてるって、そう聞いたからだ」
ザッと三人を包み込み風が吹いた。
綱吉は獄寺を反射的に見上げる。しかしその獄寺は綱吉とは全く違った人物を脳裏に思い描き、そして苦々しげに唇を噛んで声を殺した。
(中編に続く)