春嵐 第四夜・後

 時間は少し遡る。
 綱吉がリボーンによって過去の時間を経験する、更にその少し前。煙幕を起こして土間を飛び出した獄寺は、必死の思いで走っていた。
 逃げろ、逃げるんだ。行き先など考えもせず、ただ全身を支配する恐怖から逃れたい一心で、彼は草履で懸命に地を蹴って乾いた砂地を走り抜ける。だがヒュン、と耳元をつんざく音が彼よりも速く駆け抜けていき、咄嗟に出した足の裏で地を擦って身体を引き留めた。
「うあっ!」
 直後、彼が進もうとした方角、本当に目の前に見えない力の塊が叩きつけられ、激しい砂埃をまき散らして彼を包んだ。小石が無数に飛び、顔を庇った獄寺の腕を激しく叩く。埃に耐えて持ち上げた右目に、細い月明かりに照らされて浅く抉られた地面が映し出された。
 ゾッとする。もし直撃していたら、身体がまっぷたつになっていてもおかしくない破壊力。
 瞬間的に動けなくて、獄寺はその場で立ち竦んだ。背筋に流れる汗は冷たく、気持ちが悪い。足音が聞こえるようで、彼は怖々と左肩を引いて背後を振り返る。
「逃がさない、って言っただろう」
 雲雀恭弥。闇よりも濃い黒髪に、妖しく輝く深紅の瞳。その姿は、昼間に見る姿とは何処かが違っている。具体的にどこが、とまでは言えないけれど。
「……っ」
 唾と一緒に息を呑む。獄寺は身体ごと彼に向き直りつつも、完全に逃げ腰になっていて摺り足気味に後退を続けていた。一方の雲雀は悠然とした態度を崩さず、両手に握った拐を油断なく構えて獄寺との距離をゆっくりと詰める。
 獄寺の草履の踵が小石を踏む。そんな僅かな変化にさえ背中が大きく緊張して、首が緩くそちらを向いて注意力が削ぎ取られる。耳元を駆けた空気の流れの変化に気づいて慌てて向き直った時には、もう、開いていた距離は腕二本分のところまで狭められていた。
 ――やばっ!
 急ぎ後ろに飛ぶ。鼻先を渦巻いた空気の刃が奔り、瞳に覆い被さる程の長さがある前髪が何本か、風圧だけで切り裂かれて宙を舞った。獄寺は左膝を曲げて砂埃を立てながら着地し、瞬時にもうひとつ後方へ跳んで、再び雲雀との距離を作る。
 たったこれだけの動きなのに彼の肩は荒々しく上下して、息が上がっていた。
 最近部屋に引きこもる時間が長く、体術の鍛錬に手を抜いていたのが裏目に出てしまった格好だ。自分の未熟さを心の中で罵りながら、彼は顎を伝った汗を拭う。
 雲雀は身体の右側を前に出し、隙を与えない構えで、膝を折って姿勢を低くしている獄寺をジッと見据えていた。
 野生動物に追われる草食動物の気分に陥れる。睨まれるだけで身体の自由が半分以上奪われている錯覚に、獄寺は違う、と首を振った。
 完全に萎縮してしまっている自分の腿を強く叩く。
「残念だよ」
 急に雲雀が呟き、構えを解いた。人を見下す瞳のまま、いや、若干色が変わっている。侮蔑、同情、憐憫……直接向けられて、受け取る側の気分が良いとは言いがたい感情の入り交じった瞳が、獄寺を射抜く。
「もう少し歯ごたえがあると、期待していたんだけどね」
 両腕を完全に下ろし、拐を握る手からも力が抜けていくのが見ていて分かった。訝しげに顔を上げた獄寺の耳には、珍しく饒舌な雲雀の言葉が続けて送り届けられる。
 曰く、お前は弱い。拍子抜けだ、潰し甲斐もない。
「……っ」
「蛤蜊家っていうのも、初代は凄いっていう話をよく聞くけれど、それ以降はさっぱりだったみたいだね」
 その家から派遣された人間も、所詮この程度の力量しか持ち合わせていないのか、と。
 どこまでも人を馬鹿にし、見下す台詞がつらつらと連ねられる。獄寺は聞きながら目を丸くし、喘ぐように何度も肩で息をした。
 生ぬるい夜明け前の風が流れていく。広大な沢田家の庭を取り囲む樹木がざわめき、互いの葉を擦り合わせて荘厳な音楽を奏でる。
 揺れる、揺れていく。揺らされる、あらゆるものに、流される。
「この程度でしかないくせに、あの子を殺めようだなんて、百万年早い」
 吐き捨てた雲雀が、ゆっくりと拐を握り直し、獄寺に向き直った。不適に笑む表情に鋭い光を瞳へ宿し、左足を前に出す。
 獄寺は動かないし、動けない。雲雀に言われた内容が繰り返し頭の中を駆け巡り、彼は瞬きをするのも忘れて呆然と闇を見つめていた。
 力なら、ある。忌まわしいあの力が。
 人が操る退魔の術になど劣る筈がない、鬼としてこの身体に宿る力が、自分には。
 だが、それを放った後どうなった。鬼の里を焼き、仲間だった連中を焼いたではないか。……いや、違う。奴らは仲間ではなかった、自分を仲間だと最後まで認めず、厄介者として体よく追い払った連中に、同情を抱く必要など、本当は何処にも無い。
 むしろ自分は、あいつらに思い知らせてやっただけだ。自分を傷つけ、罵り、嘲り、鞠のように蹴り飛ばして、自力で逃げ回る玩具として扱っていた奴らに、一矢報いただけの事。
 この力は、生まれた時に宿った、天が与えた能力。そして今、目の前にいるのは敵。自己の生命を守る為に振るうのに、何の抵抗があろう。
 戦え、と腹の底へ声が聞こえる。獄寺は短い周期で瞬きを繰り返し、奥歯を噛んで息を吐いた。
 ひゅぅ、と窄めた唇の隙間から音が漏れる。全身を巡っている気の流れを制御し、乱れていた波を落ち着かせて集約させる。地を掻いた指先に触れた砂利をひとつ掴み、獄寺は慎重に雲雀との間合いを計った。
「ふぅん?」
 一瞬にして切り替わった獄寺の気配に、雲雀は興味深そうに瞳を細めた。構えは解かず、攻め入る油断を与えないのはそのままに、更に半歩獄寺へと躙り寄る。
「来ないなら、こっちから行くよ?」
 肘を地面と水平になるまで持ち上げ、拐の先端を獄寺の方へと突き出し、彼は口角歪めて楽しげに笑った。
 ――来るっ!
 瞬きの刹那、雲雀の姿がその場所から掻き消えていた。
 普通ならば何処へ行ったかと慌てるところだが、彼は何も本当に姿を消したのではない。獄寺は酷く落ち着いている自分に驚きながらも、肌に直接感じられる空気の微細な流れに意識を向け、雲雀の存在を探した。
 ――左、違う……上か!
 背筋を反らし、上を向く。淡い月明かりの中に黒い影が小さく見えて、獄寺は眼を細めて瞬時に右へ跳んだ。そのまま左肩を前方に突き出して爪先で地面を蹴る、一秒後に訪れた衝撃波が彼の背中を容赦なく叩いて軽く身体が煽られた。
 右手を素早く袖口に差し込み、指先に触れた呪札を握りしめる。土煙の中心にいる筈の雲雀へ向け、躊躇無く放った。
 合計三枚の札が一直線に雲雀へとつっこんでいく。彼は目線だけを持ち上げて印を結ぶ獄寺を見た。両者の視線がぶつかった瞬間、雲雀の眼前で呪札が一斉に爆発する。黒々とした煙が土埃を吹き飛ばし、荒々しい熱がその場を包む。獄寺は煽られていた身体を中空で一回転させて、膝を地面に擦りつけながら着地し同時に体勢を整えた。
 息を一つ吐く。この程度の爆発で、あの雲雀が滅せられるとは到底思えない。獄寺は注意深く煙が晴れるのを待ちながら、新しい札を探して袖を探る。
 万が一を考え、札は多めに用意してきている。新しく準備する時間だけは大量にあったのが幸いした。彼は大きく空気を吸い込んで胸を膨らませると、薄れつつある煙の方角へと眼を向ける。
 緩やかに流れていく風に流されて消えた煙の後には――なにも、なかった。
「なっ……」
 驚き見張った視界とは別の方向から、低い声が響く。
「こっち」
 直後、衝撃。
「がはっ!」
 獄寺の身体が宙を舞い、大きな放物線を描いて二間半ほどの距離を経た位置に落ちる。咄嗟に受け身の体勢を作ったものの、勢いが良すぎて地面にぶつかってからもう一度跳ね、二度目に地面に叩きつけられてから仰向け気味に崩れ落ちた。
 それでもまだ勢いは完全に殺しきれなくて、後方へ向かって身体が地面を滑っていく。砂利に擦られた皮膚がひりひりと赤くなって痛み、獄寺は拐で殴られた側頭部への鈍痛も手伝ってすぐに起きあがれなかった。
 そもそも、何が起こったのか咄嗟に理解も出来ない。彼は痛みを堪えて両肘を突っ張らせ、苦労の末どうにか上半身を起こすと、熱っぽい息を数回に分けて吐き出した。ねっとりとした感触が舌の上を伝い、気持ちが悪くてそれも一緒に吐き出す。
 目の前が、赤く染まった。
「うっ……げほっ、かはっ!」
 血を吐いたのだと知ると、途端に腹の中から一気に胃液が逆流して獄寺を内側から攻め立てる。今までで体感したことのない痛みが全身を貫き、神経全てが激痛を放って彼の思考回路を硬直させた。咳は止まらず、その度に唾に、そして胃液に混じって手元を血が鮮やかに染め上げる。いっそ今ここで死ねたならと思うような苦しみに耐えきれず、獄寺は手にした呪符をただ闇雲に握りしめた。
 砂利を踏みしめる音が聞こえて、涙目のまま顔をどうにか持ち上げる。四つん這い状態になっている獄寺のすぐ前に、雲雀のすらりと伸びる脚があった。
 彼はおもむろに、まるでそこに邪魔な石があったから、という仕草で獄寺の顎を蹴り飛ばした。本当に僅かな所作でしかなかった筈なのに、抵抗する力もほとんど残されていない獄寺の体躯は簡単に後方へ転がっていく。彼が最早抵抗する気力も失せかけているのに、容赦の欠片も見せない雲雀は闇よりも暗い瞳を彼に投げつけ、忌々しげに舌を打った。
「本当、がっかりだね」
 獄寺の背後には、屋敷の座敷から望む整えられた庭の一角が広がっている。見事な枝振りの松、その足下に据えられたいくつかの岩、屋敷裏手から流れ込む清流を湛えた小さな池に赤く塗られた太鼓橋。池の中央に設けられた小さな島にも白い岩が並べられ、現世ではない彼の世の世界を再現したと謳われる庭園が音もなくふたりの眼前に佇んでいた。
 獄寺は全身を打った衝撃に再び息を苦しく吐き出した末、まだ平静さを取り戻さない心臓をどうにか維持しながら、よろめく身体を叱咤して二の足で立ち上がった。
 油断すれば身体が左右に揺れ、倒れてしまいそうだ。それでもまだ雲雀と向き合えたのは、自分に力がないと罵られた事へのささやかな闘争心にしか過ぎない。それから、もうひとつ加えるとしたら、自分に屈託無く笑いかけてくれた存在へ、自分の行為を、生きて謝罪したいという気持ちから、だろうか。
 吐き気はまだ止まないし、全身を襲う苦痛は休むどころか激しさを増すばかり。気力だけで支えられるほど、あの男を相手にするのは甘くないと分かっているが、獄寺はまだ倒れるわけにはいかないと、ひたすら自分を鼓舞し続けた。
 面白く無さそうに雲雀が口元を歪ませる。
「君さ……いい加減、くたばったら?」
 心底つまらなさそうに吐き捨て、雲雀は拐を構える。獄寺はぐっと腹に力を込めて決死の表情で雲雀を睨み、握り締めた右手の中の呪符を確かめた。
 一矢報いてみせる。でなければ自分の存在は本当に、道端に転がる石ころにも劣る。直ぐに笑って崩れそうになる膝を強引に伸ばし、彼はゆらりと歩を前へ進める雲雀へ気合の雄叫びをあげて符を放った。
 ほぼ直線の起動を描くそれを、雲雀が下らないと蔑む目で見送る。先ほど放った一撃を覚えているからだろう、大した攻撃ではないと高を括っているからこそ、獄寺にもまだ勝機は残されている。
 雲雀が想定した通り、符は彼に触れる直前に爆発を起こす。彼は己を取り巻く熱と煙とを拐で薙ぎ払おうとした。が、その暗い煙を突き抜けて、小さな何かが彼の瞳を狙った。
「――っ」
 咄嗟に瞼を閉ざし、本当に微かでしかない衝撃を雲雀が堪える。石つぶて。爆煙はならばこれの目隠しのつもりか。
「小癪な真似を」
 顔の前にまで迫っていた煙を乱暴に払いのけ、雲雀は耳を済ませる。今の一瞬で獄寺の姿は煙に隠され、元居た場所には見当たらない。苛立たしげに舌打ちした彼は視界の悪い周囲をぐるりと見回し、踵で地面を捻って急襲に備えて腰を低くした。
 耳元を不自然な風が唸る。
「ちっ」
 迫り来る風と一体化したものを身体を捻って躱し、雲雀は再び煙の中へ消えていったものが辿った軌道に拐を構える。音を立てない走り方で煙幕を突き抜けるが、白煙の塊を抜け出した先には既に獄寺の姿は残っておらず、腹立たしさを隠さぬまま彼は振り返る。
 直後に左の頬を掠めた紙片に、彼の表情はより一層険しさを増した。
「猪口才な」
 少し前まで、今にもくたばりそうな顔をしていたくせに、最後の足掻きとは実にみっともない。大人しく倒されてしまえばよいものを、と悪態をつきながら雲雀は、切れて赤い筋が出来上がった自分の頬をなぞった。
 顔に、というよりも、見える場所に傷を作ると、綱吉が嫌がって直ぐに治したがる。どうせ放っておいても数日で完全に消えるのだから構わない、そう言うのだが、稀に強情さを発揮する彼は聞こうとしなくて、繰り返されるやり取りを思い出し雲雀は口元を引き締めた。
 これ以上傷を増やさぬ為にも、早々に決着をつけてしまおう。慎重に気配を探り、休めずに足を動かす。煙幕は徐々に空気に拡散して薄れつつある。完全に消えてしまえば獄寺に逃げ場は残されていないから、追い込むのは簡単だ。
 ――ヒバリさんヒバリさん……ヒバリ、さん!
 綱吉の声が心に響く。必死な声は伝心によるもので、耳を通さずに直接脳、むしろ魂に届けられる。
 山一つを隔てているような声の遠さに、彼が何を思っているのかまでは分からない。だが痛いくらいに胸を打つ声に、雲雀は知らず奥歯を噛んだ。
 綱吉にこんな声を出させるなんて、なんて許し難いのだろう。あの綱吉に牙を剥いた男をこのまま放置しておくことなんて、出来ない。今見逃して、この先二度、三度と狙われるのは面倒だし、雲雀の不在時を選ばれたら、戦う力を持ち合わせていない綱吉に対処の術は無い。
 だから今此処で、必ず仕留める。聞こえなくなった綱吉の声を思いながら、雲雀は強い目で薄れ行く煙を睨んだ。
 二度、風の唸り。今度は雲雀の立つ位置よりも大きく外れ、呪符が不恰好に地面へと落ちた。四つ目も矢張りてんで方向違いへと呪符は沈む。喉の奥で空気を擦り、雲雀は笑った。
「何処狙ってるつもり? やる気あるの?」
 霧が晴れるように煙が右から左へと流れて行く。その中から庭の松の木を背後にし、獄寺が右脇腹を左手で抱えながら肩で息をしつつ、肩幅以上に脚を広げた状態で辛うじて立っている姿が現れた。
 逃げ回るだけでも体力の消耗は激しいのだろう。息をするのも辛そうな歪んだ表情を愉悦混じった目で見下ろし、雲雀は不遜な笑みを浮かべて彼へと一歩近づいた。
 落ちている枝を踏み、小さく音を響かせて中央でふたつに折れる。さっさとお前もこうなってしまえばいいのに、と蔑んだ目線を投げつけてやったのに、獄寺は妙に癇に障る笑いを薄らとではあったが、口元に浮かべた。
 腰を抱いていた手を外し、広げる。血に濡れた掌からはらりと落ちたのは、彼が先ほど見当違いも良い場所に投げ放ち続けていた呪符だった。
 枝から落ちた柳の葉宜しく、ゆらゆらと左右に揺れながら地面に横たわる。ついに呪符を握る力さえなくなったのか、と行方を追った目を持ち上げた雲雀は肩を竦めた。だが獄寺の笑みは変わらない。
 眉間に皺が寄っている雲雀の表情を楽しんでいるみたいで、益々雲雀は機嫌を悪くした。右手の拐を甘く握り直し、肘を後ろへ突っ張らせる反動を利用して高速回転を始める。ヒュンヒュンという耳を裂くような空気の渦に、獄寺もまた口元を引き締めて全身に緊張を行き渡らせた。
 それでも、勝ち誇った目は揺るがない。
「今すぐ咬み殺してあげる」
「どうだか」
 雲雀が動く。黒髪を闇に流し、強く地を蹴って彼は獄寺に飛び掛るべく奔った。
 相対する獄寺はその場から離れない。暗い瞳を地面へ落とし、まだ生乾きの血に汚れた手を胸の前で結び、素早く印を切る。本当は息をするのさえ苦痛の唇を懸命に震わせて、祈りを込めて踏締めた大地に力を放った。
 雲雀の拐が獄寺の眉間を狙い定め、宙を抉る。
「結!」
 それよりも、速く。
 獄寺の術が完成を見る。
「――――!」
 雲雀の足元が揺れた。否、彼を取り巻く空気が流れを変えた。地面に見えない力の奔流が現れる、それは直線を刻み、何かを目印にして曲がり、再び奔ってひとつの図形を描き出した。その形は五芒星、――桔梗紋。
 地表を熱が覆い隠す。じりじりと雲雀へと迫り、追い込み、行き場を狭め彼を閉ざす。
「はぁ、くっ……これで、終わり、だ……」
 自分が持てる力の全ては出し切ったに等しい。雲雀は脚の動きを止めて前後左右を見回し、逃れられる場所を探している。だが彼を追い込む力は止め処なく地面から溢れ出て、彼を焼き殺そうと蛇の舌のように炎を渦巻かせた。
 獄寺の投げた呪符、それひとつでは確かに大した力を発揮できないかもしれない。けれど複数を組み合わせ、複数の条件を絡み合わせて扱えば、より大きな力を放つことも可能となる。彼は考えなしに符を放っていたわけではない、巧みに雲雀を五芒星の中心点へ導き、発動の機会を待っていたのだ。
「本当、生意気」
 やがて諦めたのか、雲雀は急に構えを完全に解いて拐を下ろした。両腕を脇へだらりと垂らし、噴き出す汗を拭いもせずに悠然とその場に佇む。
 それは獄寺にとっても拍子抜けする潔さで、もっと醜く抗うかと期待していた彼の気持ちを挫かせた。
「悪かった、な。これが俺だ」
 何か策でもあるのだろうか、油断すべきでないと獄寺はきつく印を締め直す。負けず嫌いの性分でつい言い返しながら雲雀を観察するが、結界は完璧であり彼の逃げ場は何処にも残されていないはずだった。
 勝てると踏んだ。綱吉は悲しむだろうが、彼も後から送ってやる。苦しい気持ちを押し殺し、獄寺は奥歯を噛んで術の最終段階に備え力を集める。雲雀は熱風に前髪を煽られながら、涼やかな藍色の空を見上げていた。何を考えているのか分からない表情で、獄寺に言い表しようの無い恐怖感を植えつける。
 陽炎の如く地表の空気が揺れている。炎がとぐろを巻いて雲雀を包み、彼は不気味に無抵抗のまま甘んじてその熱を受け止めていた。身にまとう着物の端に火が移り、ちろちろと木綿を焦がして彼の皮膚を爛れさせようと蠢く。
 獄寺は息を呑み、そして目を閉じた。膝を直角に折って腰を落とし、叫ぶ。
「果てろ!」
 ボッ! という巨大な爆音、渦を巻いて夜の空を焦がす火柱が屋敷の屋根を遥か越えた域まで立ち上がり、無数の火の粉が赤い雪の如く舞い散った。地面に縫い付けられていた呪符が一瞬にして墨に変わり、中心部に向けて放たれた熱が雲雀の足元から襲い掛かって彼の影を飲み込む。鋼であろうとも溶かして砕くだけの破壊力を秘めた術だ、無論発動者にも相応の負担を強いる。
 獄寺は大きく息を吸うと、大量の血と一緒に地面へ吐き出した。咄嗟に印を解いて口元を覆うが、指の隙間から溢れ出す分は抑えきれずに零れていく。白い歯の隅々まで赤く染まる血の量に眩暈がし、彼はよろめいて数歩後ろに下がった。
 野袴の裾が黒と赤の斑模様になってしまっている。恐らく大事に洗濯をしてももう落ちきらないだろう。
 結構気に入っていたのに、残念だが仕方が無い。どっと疲れが押し寄せてきて獄寺は前のめりに倒れそうなところを踏ん張り、緩く首を振って血で額に張り付いてしまっていた前髪を掬い上げた。同時に塞がれ気味だった視界が若干明るくなり、好んで見たいものではないが雲雀の最期くらいは確かめておかねばと瞼を擦る。
 数回瞬きして、彼はまたしつこいくらい、血の汚れが擦りすぎて薄くなるくらいに目を擦った。
「う、あ……」
 驚愕と戦慄。恐怖と、畏怖。獄寺は無意識のうちにまた一歩後ろへと下がり、子供がするように嫌々と首を横へ振った。
 信じられない光景が目の前に展開している。術は完璧に実行されたはずだ、其処に一分の油断も隙も作らぬよう、慎重を期した。成功の手応えはあったし、あの爆発と高熱に巻き込まれて無事で済む人間など地上に在りはしないという確信もある。
 獄寺のような半魔ではなく、里にいる生粋の鬼の大人ならば身体能力を一瞬だけ高めて持ち堪えるのも可能かもしれないが、雲雀には鬼の気配はないしそんな話を聞いたためしも無い。彼は間違いなく人間で、だから炎術の結界の中で消し炭になっていて可笑しくない。
 それなのに、何故。
 どうして。
「化け、もの……」
 喉がからからに渇いて声がまともに発せられない。呂律が回りきらない舌で繰り出した音は、獄寺の唇から零れ落ちて彼の足元で静かに砕けた。
 炎はまだ消えきったわけではなく、火の粉と共に地表を燻り続けている。砂の上を嘗め回す炎の舌が優雅に踊り、蜃気楼を見ている気持ちで獄寺は前方をただ呆然と眺めるほか無かった。
 目が合う。ひっ、と上擦った小さな悲鳴が漏れて獄寺は慌てて袖を弄り残っている札を取り出そうと動いた。だが気が動転しすぎているからか、手首に布が引っかかってなかなか上手くいかない。急がなければ、早くしなければと思えば思うほど気が急いて、指先が虚しいくらいに空を掻いた。
 火の粉が爆ぜる音、そして大きく揺らいだ景色。顔を上げた獄寺の遠く前方、赤色を背負った男が所々を焦がした着物だったものを纏い、彼を見詰めていた。
 赤い、紅い、朱い瞳――――
 瞬間獄寺を襲ったのは、純然たる恐怖だった。逃げろ、と訴える心が呆気なく打ち砕かれて膝から力が抜け落ちる。助けて、と刻もうとした唇は一寸も動かずにただ生温い息を零しただけ。
 あれは、誰。あれは、何。聞いた事も見た事もない敵が獄寺の前に居る。いや、もうあれは敵ですらない、獄寺には抵抗する気力が欠片も残っておらず、勇猛果敢に知略を尽くした彼の自信は無残にも砕け散った。
 ゆっくりと黒い影が動く。緩慢な所作で非常にゆっくりと獄寺へ近づいてくるそれから逃れようと、彼は泣き出しそうな顔をして後ろ向きに足を進めた。だが二歩も行かぬうちに、彼の踵が着地する地面を見失って空を滑る。
「え――――」
 瞬間、獄寺の視界は高速で、本人の意図せぬままに斜め上を、そして真上へと流れて行った。
 首筋に冷たいものが触れた、そう感じた彼は刹那の後、苦しいばかりに鼻から水を吸い込んで肺の中の空気を全部口から吐き出してしまった。高い水柱が立ち上り、火の粉を包んで消えていく。荒波を立てた庭の池を囲む石が飛沫を受けて濡れ、最後に獄寺の足が水に沈んで周囲は急に静かになった。
 崩れた水柱から溢れた大粒の水滴が池の近隣をも濡らし、燻っていた熱を冷ます。
「げはっ、げほげほ、があっ!」
 気管に入った水を懸命に吐き出して、獄寺が波を起こしながら上半身を起こした。全身濡れ鼠、水と血以外の不自然な黒さに染まった胴衣を振り回し、彼は前傾姿勢で池の中で激しく噎せ返っている。
 涙も、鼻水もあったものではない。ただ、ただ苦しくて、彼は自分の醜態を省みずに必死に酸素を求めて何度も喘いだ。
 濡れた石に、黒ずんだ爪先が乗りかかる。
「へえ……」
 感心したような、そうでないような、感情が読み取りづらい声。
 獄寺は咳き込んだまま声を聞き、ピクリと肩を揺らして動きを止めた。否、勝手に呼吸その他全ての生命維持機関が停止した錯覚に陥った。
 ぎりぎりと油の切れた薇式の玩具のように、ぎこちない動きで首を捻る。水滴を滴らせた前髪が額の血を洗い落とし、口元を覆っていた両手をそのままに、彼は鉛色の目を見開いて彼方を見た。
 闇を背負い佇む、雲雀の姿。
「本当は、そんな髪の色だったんだ?」
 一瞬何を言われたのか分からず、獄寺は停止したまま数回瞬きを繰り返した。
 髪の毛、白いものが視界で揺れている。ハッと我に返った彼は、水を浴びた所為で黒く染めていた髪が本来の色を取り戻している現状を思い出して肘で水を打った。飛沫が上がり、頬に跳ね返ってまた息が詰まる。軽く咳き込んでいると、陸の上の雲雀が傲慢な態度を崩さないで笑った。
 彼は腰帯の内側に潜ませていた何かを取り出すと、徐に獄寺へ向かって投げた。それは若竹を切って作った筒状の入れ物で、獄寺にも見覚えがあるものだった。というよりは、獄寺の所有物に他ならない。栓は外されていて、獄寺の胸元水面に着地したそれは水を吸い、中の粉と混じり合った黒い液を外へ吐き出した。
 ツンとする臭いが彼らの鼻を突く。
「な、に……」
 どうしてこれが、此処に。わけが分からなくて困惑を隠しきれず、獄寺は肌を刺す水の冷たさも忘れて雲雀を見上げた。
「ただの人間だとは思ってなかったけど、……半魔、てとこ?」
 黒い粉がどんどん水に溶けていく。濁った液を滴らせる髪をそのままに、獄寺は寒さからか一度肩を震わせた。飲み込む唾さえも、氷のように冷たくなっている。
 雲雀が投げた竹筒に入っていたのは、獄寺が髪を染めるのに使っていた黒の染料が入っていたものだ。残りが少なくなれば本家の、獄寺に指令を出した側の人間が秘密裏に新しいものを届けてくれた。
 毎日ではないが、獄寺はこれで色落ちが目立つ前に髪を黒く染め直して使っていた。やや臭いに癖があったものの、本家が用意してくれたものを無碍にするわけにもいかず、また白い髪は魔と交わっている証ともいえる代物だったので、どうしても隠さなければならなかったから。
 獄寺は何もいえない。雲雀が何を狙ってこれを持ち出してきたのか、その意図が掴みきれなかった。
 風が流れる。東の空、山並みを撫でるように薄ぼんやりとした光の筋が走ろうとしている。
「少し、君の部屋を見せてもらったよ」
 淡々とことばを紡ぐ雲雀、聞く獄寺。いつの間に、と片方の眉を持ち上げた獄寺だったが、時期的に恐らく昨夜、夕食の支度をしている時だろう。他に思いつかない。ならばあの文も読まれてしまったのだろうか、今夜の襲撃が予め知られていたのもそれで納得がいく。
 雲雀に眠り薬が通用しなかったのは、理解の範疇を超えているが。
 獄寺は悔しげに唇を浅く噛んだ。傷だらけの身体はいい加減冷え切って、指先、足先の感覚は遠くなりつつある。流れ出る血も止まる様子が無く、失血死するのではないかという懸念が生まれて彼の額に汗を浮かせた。
「姑息な手を使うよね、君。もっとも、これを見るまで皆の病が何であるのか思い出せなかった僕も、迂闊だけど」
「……?」
 なんだろう、雲雀の言っている意味が分からない。彼が獄寺さえ知りえない何かを知っているのだろうか、そもそもこの墨と村人の病とどんな因果関係があるというのか。眉根を寄せて首を軽く捻った獄寺の態度が気に食わなかったのか、雲雀はボロボロになった袖を揺らした。
 炭化した布が崩れていく。露になった肌は薄暗いからというだけでは説明がつかないような、黒光りした鱗を思わせた。
 蟲毒。抑揚の無い雲雀の声が、そう短く音を刻む。
 震える空気が風となって空へ舞い上がった。ざわめく樹木に負けて一瞬で消え去りそうな声音が獄寺の脳天を貫き、彼の心臓を握り締めた。
「え……?」
「これくらいの量なら、半魔には効果が出ないだろうけど、人間にはそうじゃない。じわじわと毒が身体を蝕んでいく。なかなか、素敵な方法だね」
 皮肉に顔を歪め、雲雀が大仰に肩を竦めて見せた。
 だが獄寺は知らない。そんな事実が髪染めの墨に潜んでいたなんて、露とも知らなかった。知らされてもいなかった。
 知っていたら、使いはしなかった――!
 奈々の発病が遅かったのは、彼女が暮らすこの屋敷を取り囲む空気が毒を薄める役割を果たしていたことと、井戸の澄んだ水もまた解毒の効果を発揮していたから。また普段からここの空気に慣れて居た為、在る程度の耐性が出来ていたからともいえる。
 ハルの発病が早かったのは、奈々のような耐性を持たずに長時間獄寺と接していたからに他ならない。ほんの一時間も接する機会がなかった村人よりもずっと濃密な毒を、そうと知らずに吸収してしまっていたから、だろう。
 獄寺の脳裏に、自分をこの屋敷に派遣した人々の顔が順番に思い浮かぶ。暗闇の中、殆ど見えなかったに等しい姿ではあるが、微かに見えた着物の柄や土に汚れたこともなさそうな白い手、それらが目まぐるしく入れ替わっては消え、消えては表れ、最後にあの、忌々しいばかりの男の映像で止まる。
 自分を売った父親の姿が。
「俺は……俺は、知らないっ」
 血を吐く思いで叫ぶが、到底雲雀に届くものではない。聞く耳など最初から持ち合わせていない彼が、この期に及んで獄寺の弁明を聞き入れてくれるはずもなく、哀しいくらいの切実な思いが虚しく宙に舞う。
「まだ言うの?」
 雲雀が拐を構え持つ。僅かな隙も見せず、冷酷な殺し屋の目をして獄寺を静かに射抜いている。彼は水を打ちながら僅かに後ろへ動こうとしたが、苔が生えて滑る底面の石に手を取られ、堪えきれずに仰け反って頭から水に沈んだ。
 新しい水柱があがり、冷たい飛沫が雲雀の熱に煽られた肌にも落ちる。じゅっ、と触れた瞬間に蒸発したそれが残した薄い煙の行方を瞳の端で見送り、彼はゆっくりと逃げようとする獄寺を追いつめた。
「覚悟、いい?」
「俺じゃない!」
 必死に藻掻いて、水を飲みながらもなお叫んだ獄寺を見下ろす雲雀の目はどこか同情的でもあった。哀れみを感じているとでも言うのか、掬いようがない愚か者と笑っているみたいでもある。
 獄寺が両手で水を打つ音が、静寂に包まれた夜明け前の空に吸い込まれていく。雲雀が意識を集中させる呼吸法を実践している気配が伝わって、獄寺は錆び臭い唾を飲み込むと恐怖に表情を歪め、目尻にうっすらと涙を浮かべた。
 自分は此処で死ぬ、此処で終わる。誰からも認めて貰えず、誰からも優しい言葉を貰えず、暖かな包容を貰う事もなく。
 本当に欲しかったのが、なんだったのか。
 もうなにも、分からない。
「じゃあね」
 静かな雲雀の声が散る。最後の一瞬は見たくなくて、獄寺は顔を背け強く瞼を閉ざした。
 せめて苦しみが長引かないよう、刹那で終わってくれる事をただ、願う。だから次に耳に飛び込んできた声は、きっと自分が望んだ幻なのだろうと獄寺は思った。
「――――――ダメぇ!!」
 一陣の風が舞い、地面に落ちた木の葉が踊る。振り下ろされた雲雀の拐を恐れもせず、綱吉の小さな身体が両者の間に割り込んで大きく手を広げた。雲雀は目を見張って息を呑み、殺しきれない腕の勢いを必死に逸らして綱吉に当てない為に身体全部を右に捻らせる。
 バシャァァァ!!!!
 拐の放った空気の刃に切り裂かれた池の水がまっぷたつに割れ、今までで一番大きな水柱をふたつ立てて砕け散った。鼓膜まで破かれるのではないかという強震が空気を奔り、獄寺は煽られて背後へ転がる。水が消えた池の底にもう一度頭をぶつけ、暗い目の前に星が飛んだ。
 二秒後、音が戻ってくる。宙に登った水が一斉に落ちてきて、獄寺の意識を呼び戻す。池の端に片足を落として両腕を広げ、首を窄めて身を低くしていた綱吉は、瞬きもせずに驚愕にうちふるえている雲雀を見上げた。
 迷いも揺らぎもない、まっすぐな琥珀が雲雀を見つめる。
「綱吉、そこをどくんだ!」
「だめです、どきません!」
 さっきから訳が分からない事の連続。もういい加減状況を理解するのも追いつかなくて、獄寺は目を瞬かせながら、池の中で呆然と事の成り行きを眺めていた。
 綱吉の左手すぐ下にある大きな石がまっぷたつに砕かれ、その間に雲雀の拐が埋もれていた。彼は曲げた膝を伸ばし、動こうとしない綱吉を睨んで怒鳴る。
「綱吉!」
「ダメです、ヒバリさん……こんなんじゃ、こんなんじゃダメなんです!」
 どけ、と強引に左手で綱吉の肩を掴んだ雲雀の苛立った声、懸命に首を振って拒絶する綱吉。
「彼は、獄寺君は、悪くないんです」
「何を根拠にそんな事が言える。現にこいつは、君を……っ」
「分かってます!」
 よりいっそう強く頭を振って、綱吉は叫んだ。
 何処か、里の方で鶏の鳴く声が聞こえる。東方を埋める山並みを撫でる風は優しく、淡い輝きを浮かべた輪郭線は少しずつ、明るさを強めていた。
 雲雀は綱吉に気圧されたのか、苛立ちは隠さぬまま言いかけていた言葉を飲み込んで石に埋もれていた拐から手を放した。カラン、と微かな音を立ててそれは地に沈む。空になった右手でさすった左腕には、先程の獄寺の放った陣による炎から身体を庇ったからだろう、一際酷い火傷が出来ていた。
 赤黒く変色した肌。爪の端が引っかかった箇所から、乾ききった破片が崩れていく。感覚も遠くなっているのか雲雀は少しも痛い顔を作らないが、見上げる綱吉は悲痛な表情をして今にも泣き出しそうに口元を歪めた。
 鼻をすする音まで聞こえてきて、力の入らない左腕を揺らした雲雀は握ったままでいた拐を、こちらも地面へ落とした。
 拐自体も無事とは言い難く、恐らく次に大きな一撃を放てば砕けてしまいそうな状態になっている。溜息混じりに肩を落とした彼から戦う意志が薄れていくのを感じ取って、綱吉は俯くと堪えた涙を遠方へ押し込んだ。
「ヒバリさん……」
「それで、君は」
 どうして獄寺が悪くないと、そうも強硬に主張できるのか。雲雀が理由を問うのは当然で、薄明かりの下、冴え冴えとした黒い瞳で投げつけられる彼の視線を浴び、意を決した綱吉は腹に力を込め、まだ池の中で惚けている獄寺へと振り向いた。
 片足だけでなく、残っていた左足も池に沈め、ふたり分の視線を受けてびくりと肩を揺らした獄寺との距離をほんの少し、詰める。
「あ……」
「獄寺君、御免ね。そんなつもりはなかったけど、俺、見せて貰った。君の過去、君の時間。どうして君が俺のところに来たのか、その理由も全部、見てきたんだ」
 己の右手を胸に押し当て、腰を屈めた綱吉は膝まで水に浸かりながら獄寺にそっと語りかける。背後で聞いている雲雀も、言われている当の獄寺も、綱吉が何を言っているのかよく分からない。だが思い当たる節があった雲雀は、右手で先端が焦げてしまっている前髪を梳きあげ、鋭い目で屋敷の屋根を睨んだ。
 姿が見えはしないが、存在感を感じさせる何かが屋根の上に鎮座している。事の成り行きを傍観者として、最後まで見届けるつもりなのだろう。
 綱吉の左手がぱしゃりと水を叩く。腰を抜かしているので胸から下が水に浸かっている獄寺を支えようとしたらしいが、綱吉の手はまだ状況に理解が追いつかない獄寺に拒否されてしまった。
「なにを、訳の分からない事。俺はあんたを殺そうとして、失敗した。それだけで、それ以上でも以下でもない。情けをかける必要なんかない、さっさと殺せよ!」
 雲雀によって追いつめられた獄寺の精神は、限界に近い場所まで擦り切れてぼろぼろになっている。元々他人を信用せず、信用されずに育った彼の事、綱吉の言葉を額面通りに素直に受け入れるのも難しい。
 どうせ裏切られるなら、最初から信じない方が楽だと、ずっとそうやって自分の心を守り続けてきた。鬼の里で庇い続けてくれたビアンキも、彼が里を放逐された時も見送りに姿さえ見せなかった。報せを聞いた彼らの母親がただ遠くから、涙を流していたくらで。
「そうさ、俺はあんたを殺す為に此処に来たんだ。村の連中も、あんたを知る連中も道連れにしてやるつもりでな! そうすりゃお優しいあんただって、あの世に行っても寂しくないだろう?」
 ばしゃばしゃと見苦しいくらいに水面を波立たせ、獄寺は綱吉に向かって嘲り笑いを浮かべて怒鳴った。聞き苦しいと雲雀が顔を顰めるが、前へ出ようとした彼を綱吉は伝心で制し、緩く首を横へと振った。
 自暴自棄になっている獄寺の言葉は、綱吉の心の表面を少しも傷つけず、跳ね返されて落ちていく。瞳を細めて唇を噛んだ綱吉は、記憶に残っている獄寺の過去の姿を順番になぞっていった。思い描いた世界は雲雀の脳裏にも伝わっている筈で、背中越しに諦めに近い溜息が聞こえてくる。
「獄寺君」
 君は悪くない。同じことばを繰り返し、綱吉は獄寺と視線を合わせる為に、春先であるからと言って決して温くはない水に腰を落とし、膝を池の底に立てた。茜色の長衣が裾を広げ、水面に浮き上がる。
「獄寺君、君はもう、自分を傷つけて誤魔化すのをやめていいと思う」
 揃えた両膝に左手を添え、襦袢だけは押さえつけて綱吉が囁く。目を見張った彼に優しい微笑みを投げかけて、綱吉はなおも言葉を続けた。
「例え君に、半分鬼の血が混じっていても、君は君、他の誰でもない君自身なんだ。誰かに命令されたり、従うよう強要されて、そうやって下を向いてばかりいる必要なんか無い。君は、君が思うように、君が生きたいように、生きて良いんだ」
 乾いた布地に水がゆっくりと染みこんでいく。首筋の産毛が逆立っていて、綱吉の冷え始めた身体へ雲雀がそっと距離を詰めて肩に手を置く。本当は抱きしめてやりたいのだけれど、と聞こえぬ舌打ちをして雲雀は綱吉の肩に置いた手に力を込めた。
 気づいた綱吉が、右手を胸元から外して無言で其処に重ねる。
 綱吉にはずっと、側には彼が居た。彼に多くを助けられ、支えられ、そして綱吉も雲雀を支えながら生きてきた。偶然の帰結とはいえ、かなりの幸運だったように思う。雲雀は綱吉がいたから生きられたし、綱吉も雲雀のお陰で今もこうして生きている。
 お互いの存在を補完し合い、支えあえる相手がいる事の幸せ。獄寺にも、歩み寄れなかっただけで、そういった相手が本当は何処かにいたのではないか。今からでも、遅くはない。探せばきっと見付かる。
 見つけて欲しい、彼にも。生きる理由、生きていくだけの力をくれる魂の片割れを。
 ジッと見つめた先にいる獄寺は、綱吉のことばに反論もせずに目も口も開いたまま、ぽかんとしている。そんな事、今まで誰からも言われた事がない、そんな顔をしている。
「獄寺君、毒はね、洗い流せるんだ。確かに君が蟲毒を使った事実は消えないかもしれない、でもそれだって、君は知らなかった。君に罪はないと俺は思うし、もしこの件で誰かに詰られても、俺は君を守ってあげられるし、君だってもっと、胸を張っていていい」
 悪いのは蛤蜊家に暗躍する、あの場で笑っていた連中。思い出すだけではらわたが煮えくりかえりそうな怒りがわき起こってきて、綱吉は水の中の左手を強く握りしめた。雲雀の手が僅かに浮き、落ち着くようにと軽く叩いてから薄い皮膚を揉む。ただ重ねていただけの右手指先にも力を込め、綱吉は彼の手の甲に爪を立てた。
 綱吉は九代目を知らない。だがリボーンの言葉を信じるなら、とても穏和で退魔師各派で発生していた様々な争いなどにも積極的に関わり、調停役を買って出て解決に苦心してきた人、らしい。彼の人柄を慕って集まる退魔師も多く、彼が九代目を継いでから蛤蜊家は以前にも増して規模を広げた。
 それが同時に、新参ものを隠れ蓑にした内部の腐敗部分が放置され、増長させるきっかけになっていたとしても、だ。
 昨今九代目は漸く重い腰を上げ、内部改革に乗り出したとも聞いている。それに平行する形で彼の体調が急速に衰えだしているところからも、追求されては困る輩が裏から手を回しているのではないかと、リボーンは危惧していた。
 後継者問題も複雑で、候補はいくらでもいるが、どれも九代目のお眼鏡にかなう人間ではなかった。綱吉が候補として担ぎ出されるくらいに、九代目も自身の周囲にいる人間を疑心暗鬼になっているのかもしれない。
 全く面識の無い、たった齢十四の脆弱な子供に頼るしかなくなってしまっている、強大無比な退魔師総本家で四面楚歌になりつつある、九代目。
 そんなのはおかしい。綱吉は奥歯をぐっと噛んで熱くなり始めている目頭を堪えた。
「君が囚われている……君を縛っている蛤蜊家は、俺が、変えて、みせる、から……」
 一言一句を区切りながら、綱吉は沈痛な面持ちで言い切った。
 本当は、ずっと、迷っていた。
 何より話がいきなりすぎて、信じられずにいた。責任も大きくて、自分に勤まるものではないと考えていた。蛤蜊家十代目なんてなるものか、とさえ思ってもいた。
 けれど現実を突きつけられて、獄寺の境遇も知って、このままではいけないと、段々思うようになっていった。確かに自分はまだ幼く、弱く小さな存在でしかないけれど、間違っている事を間違ったまま見過ごせる程、子供でもないつもりだ。
 変えたい、変えてみせる。獄寺のような哀しい存在を二度と作らない為にも、自分に与えられた天命を全うしてみせる。
 光が東から差し込み始める。綱吉達の影を感じ、獄寺は素早い瞬きを繰り返して改めて彼らを見上げた。
 開けたままだった唇を閉ざす。流れ込んできた水は冷たいが澄んでいて、心が洗われるようでもあった。
「もう、自由になっていいんだよ」
 彼の目には、光を浴びた綱吉の顔がまばゆく輝いて見えた。水から抜き取られた左手、そして雲雀から放された右手が伸びて、動けない獄寺の両肩を抱く。そのままたいした力も込めず、ゆっくりと彼を抱きしめて、綱吉は獄寺の左肩に頬を置いた。
 暖かな光が、力が、触れ合った場所から流れてくる。
 冷え切った身体と心を温めて、強ばっていたものすべてを洗い流し、解かしていく。
 途中獄寺は気づかなかったが、綱吉が苦しげに顔を歪めて息を吐いた。すかさず伸びた雲雀の手が綱吉の頭を撫で、背中を支えた。ほうっ、という安堵の吐息は獄寺の耳朶を擽り、それが微妙な色香を放っていて我に返った獄寺を赤面させる。
 天を仰ぐ。緩やかに登り始めた太陽は、元日に見上げるそれよりも遙かに神々しく、力強い暖かさを内包して静かに山並みを、里を照らしていた。
 体中に染みついていた黒く汚いものが、綱吉によって洗い流されて綺麗になっていく、そんな気持ちにさせられる。気づかぬうちに溢れていた涙が頬を濡らして、獄寺は自分が泣いているのをずっと後になってから知った。
 痛みを伴わない涙を流した事など今まで一度もなかったから、彼は純粋に驚いて、指先で掬ったその透明な水滴に目を見張った。顔を上げた綱吉と間近で視線が重なって、淡い微笑みを浮かべた彼をまっすぐに見つめ返す。
「ね?」
 にっこりと、本当に心の底から獄寺を想っているのだと分かる笑顔で小首を傾げられ、彼はまだ赤みを残す頬を引っ掻き、困ってしまって明るさを増しつつある空へ視線を逃がした。
 夜が明ける。古い一日が終わり、新しい一日の始まりを告げる光が、地表を撫でて目覚めを促す。
 実に騒がしい夜が終わりを迎え、妙に清々しい気持ちで獄寺は光の目映さに目を細めた。
 綱吉がゆっくりと身体を起こし、抱きしめていた獄寺の拘束を解く。温もりが離れていくのがあまりにも寂しくて、彼は無意識に綱吉の去りゆく右手首を掴んでいた。
「え」
「十代目……」
 生きて良いのだろうか、このまま自分が自分で在り続けても許されるのだろうか。
 望まれた命ではなかったけれど、許されるのであれば、もっと生きてみたいと思っている。一度は棄ててしまえと思ったような命であるけれど、誰かの助けになれるのだとしたら、この忌まわしい力も、苦難が待ちかまえているだろう未来を支える力のひとつに成り得るのだとしたら。
 獄寺は、掴んだ手に力を込める。
「獄寺君?」
「俺、は……貴方を、殺そうとしました」
「うん、そうだね」
 苦しげに視線を泳がせる獄寺の言葉を、綱吉はあっけらかんと肯定した。
「でも、俺はこうやって生きてるよ」
 綱吉は自由になる手を広げ、無事である自分の身体を彼に示す。濡れた茜色の着物が水を弾き、朝日を浴びて微妙な色香を放っていた。
「そして君はもう、俺を狙わない。違う?」
 口元を引き締めた彼の自信に満ちた台詞に、獄寺は一瞬惚けてから肩を竦めて笑った。確かに綱吉の言う通り、きっと自分はもう彼を狙う気になれないし、命じられても実行出来ないだろう。
 綱吉を守る雲雀の尋常ではない強さを思い知ったし、それになにより、獄寺は今の気持ちを正直に吐露するならば、綱吉を狙う存在ではなく、雲雀と同じく、綱吉を守る側に立ちたいと考えていた。
 だから気持ちをしっかりと固める意味も込めて、綱吉の腕を引き寄せる。
「うわ」
 雲雀が露骨に嫌な顔をして、獄寺に抱えられそうになった綱吉の身体を、肩に置いたままの手で留めた。だが首から先は大きく傾いてしまって、綱吉の頬に獄寺の、濡れた白い髪が触れる。もう其処に蟲毒の嫌な臭いは残っていない。
 目の前に広がる、陽光を浴びて透ける髪の色を、綱吉は綺麗だと思った。こんな綺麗な髪をしていたのに、今まで黒く染めて隠していたなんて、やっぱり勿体なかった、とさえも。
「十代目。貴方こそ、真に蛤蜊家の十代目に相応しいお方です」
「はい?」
 その綺麗な白に魅入っている間に耳元で囁かれた言葉。思わず綱吉が素っ頓狂な声をあげてしまったのに関わらず、獄寺は綱吉の手首から掌全体を持ち直すと、今度は両手で愛おしそうにそれを大事に包み込む。
 背後の雲雀が、不穏な気配を漂わせ始めたのは言うまでもない、が。
 この状況は、ちょっと、綱吉にも予想外で。
「俺、決めました。貴方に一生ついて行きます!」
「はぁぁ!?」
 随分と、いきなり話が飛躍したもので。更に頓狂な声をあげた綱吉の横顔を生ぬるい明け方の風が撫でていって、思わず身震いしたところへ獄寺の、至って真剣な眼差しがずい、と迫ってきた。
 危ない、と反射的に目を閉じて構えていると、雲雀が肩を引っ張って後ろへ身体をずらしてくれたお陰で、どうにか触れるのだけは回避する。怖々と片眼を開いて窺った先では、ちっともへこたれていない獄寺の、爛々と輝いた両目が近くにあった。
 なんだろう、何故だろう。こういう展開は、全く考えてもいなかった。
 冷や汗で背中を濡らした綱吉に構わず、しっかと彼の右手を取った獄寺は、若干夢見心地な目線で綱吉を舐めるように見つめていた。
 雲雀の怒気が、徐々に勢いを増しつつあるのが伝わってきて、綱吉は曖昧に表情を崩す。これは、ひょっとしたら、危ないかもしれない。
「えーっと、あの……獄寺君?」
「俺、俺、貴方の右腕になりたいです、というかなります! 蛤蜊家十代目となる貴方にお仕えします、させてください! ていうか、嫌って言われてもそう決めましたから!」
「あー……」
 待って欲しい。彼は、元からこういう性格だっただろう、か?
 綱吉の目に映る獄寺隼人は、目をぎらぎらに輝かせて、期待と尊厳が入り交じった視線を一直線に向けている。少なくとも、ちょっと前までのあのひ弱で、自信を喪失して小さく泣いていた子供のような彼とは、大きく隔たっている。
 蛤蜊家からの束縛も、鬼や半魔だとかいう偏見からも抜け出して、一個人として獄寺隼人となった彼ではあるが……あまりの変容ぶりに面食らい、綱吉は咄嗟に二の句が継げない。
 代わりに後ろに控えていた雲雀が、眉間に皺寄せて不機嫌さを隠しもせず、綱吉の手を握ったままでいる彼の手を問答無用で弾き飛ばした。勢い良く水の中へ落ちていった両手を見据え、獄寺はばしゃりと水しぶきを上げて池の水面を打ち返し、雲雀を睨んだ。
「何しやがる、てめぇ!」
「君こそ、何勝手に人のものに触ってるわけ?」
 今度こそ綱吉の両肩を抱いて自分に引き寄せ、勝ち誇った笑みを浮かべつつ雲雀が獄寺に言い放つ。間に立たされた綱吉は、困惑を隠せないものの雲雀の言葉と態度を少しは嬉しく思っているのか、頬を朱に染めて胸元にまで回された彼の腕に手を添えた。
 それが獄寺には当然気に食わなくて、彼は勢い良くざばっと池から立ち上がると、教わらなかったのか行儀悪く人を指さし、こめかみの血管を浮かせて怒鳴る。
「てめぇ! 前から気に食わなかったんだ、大体てめぇは十代目の何なんだ!」
 雲雀との対戦で負った傷の痛みは、果たしてどこへ行ったのだろう。腰を抜かしていたのさえ過去の産物とした彼の態度に、「ああ?」と機嫌悪く眉目を顰めさせた雲雀は、綱吉を更に強く抱きしめて自分の側へ引き寄せる。
 抵抗しないどころか、甘えるように頬を寄せた綱吉の姿に激高し、獄寺は怒髪天を衝く勢いで両袖をまさぐり、呪符を探す。もっともそれらは水に濡れすっかり湿気ており、全くの役立たずになりはてていたのだけれど。
 勝ち誇る笑みを浮かべる雲雀に、獄寺は益々怒りを増大させ、牙を剥いた。
「ヒバリ、表に出やがれ!」
「……いいよ? なんなら今ここで、二度と足腰立たないようにしてあげようか」
「だから、一寸待ってよふたりともーー!」
 獄寺が喧嘩を売り、雲雀が余裕綽々の顔でそれを買い、綱吉が慌てて割って入る。悲痛な思いで叫んだ綱吉の声に、一瞬だけは我に返るふたりであるけれど、雲雀が綱吉を抱きかかえている状態を思い出して獄寺はまた怒りに身を震わせ、雲雀はやる前から勝負は決まっていると獄寺を蔑む。
 折角穏便に事が落ち着こうとしているのに、別の意味で新たな火種が噴出していて、綱吉は両手を握りしめて朝日の中叫んだ。
 即座に開きかけた膝を雲雀が両手で閉じて、何だろうと思っていたら耳元で「締めて来なかったのか」と言われ、真っ赤になって火を噴きそうになりながら綱吉は顔を水面に埋める。
「ヒバリ、手前ぇ十代目から離れろ!」
「君に命令される筋合いは無いんだけど」
 勢い叫ぶ獄寺に至って冷静に言葉を返し、綱吉を水から抱き上げて引き抜く雲雀。もう恥ずかしくて何がどうなっても良い、と投げやりな気持ちになって聞いているだけの綱吉。
 どこか遠くで、暢気な鶏が鳴いた。
「平和だな……」
 日の出の明るい日差しを浴びて、屋根の上でリボーンが一人、のんびりと茶を啜った。

2007/1/13 脱稿