暗闇に朧の輝きを照らし、月明かりを反射した白刃が風を裂く。瞬間、彼は小さな呻き声を零し、右に傾けていた身体を上向けた。
「――――」
うつろな瞳、薄く持ち上げられた瞼。夢の微睡みから抜け出せきれずにいる中、しとどに濡れた唇からこぼれ落ちた人の名は。
俺のものでは、なかった。
~春嵐4~
ひゅっ、という音を耳朶に残し、鋭く磨かれた刃が柔らかな肌を貫いた――かに、思われた。
「な……!?」
しかし実際は、肉を抉る感触は腕を伝わず、訝しげに眉根を寄せた獄寺の目の前で、綱吉だった筈のものが瞬時に掻き消えた。薄い煙を僅かに残し、一瞬で霧散する。後には獄寺が振るった柄のない刃と、その白刃に中央を貫かれた一枚の紙切れ。敷き布団に縫いつけられているその紙には、小さくヒトガタが記されていた。
引き抜いて確かめるまでもない。式神だ。
しかも全く獄寺にそうだと気取らせなかった程の、相当に高等な。
「……まさか」
ひやりと背中を伝った冷たい汗。嫌な予感、というものは大抵当たる。人の気配を感じた獄寺が慌てて室内、奧を振り返った。
が、遅い。
「カ……ハっ!」
直後強烈な衝撃が獄寺の腹部を襲った。構える猶予も与えられなかった彼の身体はいとも呆気なく弾け飛び、綱吉の部屋の扉をぶち抜いた。堅い板戸ごと土間の壁に叩きつけられ、背骨を強打した衝撃で呼吸が止まる。
こみあがる吐き気、それに付随する痛み。ずるりと身体が床に沈み、半ばでヒビが入って折れてしまった扉が背中にのし掛かってくる。喉の奥に熱いものを感じ取って唾と一緒に吐き出すと、指先に赤い飛沫が散った。
咳き込む。左の手首を口元に押し当てて胸に右手を添え、傷の具合をそっと探る。肋骨が何本か折れているのかもしれない、ズキズキとした痛みが絶えず獄寺に、彼がまだ生きているのだと教えた。
だが、ひょっとしたらこの瞬間に死んでしまった方が良かったのではないかと、後から彼は後悔する。
人の動く気配。今度はさっきよりもよりずっと明確に。
顎を手で支えながら見上げた先、空っぽになった戸口に佇む男。獄寺を蹴り飛ばした張本人で、今もそれを悪いと微塵も思っていない奴。心の底まで凍り付かせるに十分な、氷点下の冷気を放つ漆黒の双眸が、どうしてだろう、今夜ばかりは、月明かりの影響なのか、血よりもいっそう鮮やかな紅に見えた。
「へえ……?」
青墨色の着流し姿で、少しばかり胸元と裾が乱れている。帯の締め方も少し甘い気がするのは、つい今し方獄寺を蹴り飛ばしたからだろうか。立ち上がろうと藻掻いている獄寺を見下ろす瞳は妖しく、それでいて楽しげだ。底冷えする視線に、背筋が震えた。
ゆるりと持ち上げた手で、彼は己の顎を撫でる。
不遜な態度を崩さず、切れ長の瞳を細め、笑む男。雲雀恭弥。
「な……んで……」
彼には昨夜の食事で、たんまりと眠り薬を盛った。綱吉は少量しか摂取してくれなかったが、この男に関しては鍋の底が覗くくらい、胃袋に薬入りの食事を放り込んでいた筈なのに。
苦しげに息を吐く獄寺が、よろめきながら、片手を壁に預けて身体を起こす。押し返された板戸が左側に傾いで、音を立てて土間に崩れた。土埃が舞い上がり、窓から差し込む淡い光を浴びて場違いなくらいにきらきらと輝く。
あれだけの量の睡眠薬なら、普通は明け方を過ぎてもぐっすり寝入っていられる。だのに現に目の前に佇む男は不機嫌な表情をしているものの元気そのもので、相対する獄寺は肉体的な痛み以外にも精神的な圧迫を受けてか、情けないが膝が笑っている。
驚愕の表情を隠さない獄寺に、雲雀は底意地が悪い笑みを静かに浮かべた。顎に置いていた手はそのままに、人差し指だけを持ち上げて、そっと赤く濡れた唇をなぞらせる。
「残念、だったね」
吐息と共に告げられる現実。
「僕には、人間に使う薬は、一切、効果がないよ」
開いた唇に差し入れた人差し指を甘く噛んで、雲雀が嗤った。ゾッとした。獄寺は瞬間的に言い表しようのない恐怖に支配され、彼から視線が外せなくなる。細かく震える獄寺の目の前で、雲雀の艶ある赤い舌が白い肌に絡みついて、唾液を滴らせている。
獲物を目の前にし、舌なめずりしている野獣にも匹敵する、貪欲な捕食者の眼。
逃げろ、と心の中で警告が発せられる。だが動けない。辛うじて壁に置いた手と背中で身体を支えているが、膝は相変わらず力が入らないし呼吸も苦しいまま。汗に貼り付いた襦袢が気持ち悪い。
――人への薬が効果無い?
至極当たり前のように囁かれたその言葉の意味を正しく理解するだけの余裕など、今の獄寺に残されているわけもない。だが深く記憶に刻まれる。自らを人とは違う存在だと認めた、彼のひとことは。
目を見張った獄寺は、虚空を呆然と見つめた。
闇の中に眠る珠玉の紅。その傍らに、いつの間にかもうひとつ、別の輝きが出現していた。
獄寺は数回、続けざまに瞬きを繰り返した。喘ぐ呼気が傷を負った喉を焼くのも構わず、深くまで息を吸い込み、止める。
吐き出すのを忘れられた酸素は体中を巡り、血管の隅々を膨張させて、獄寺の身体の自由を奪った。
其処には、彼、がいた。
上気した頬に、乱れきった胸元に、あまり考えたくはない名残がある。薄い紫を残した絹の襦袢をどうにか肩に引っかけて前を両手で掻き抱き、腰から下は辛うじて隠しているだけのしどけない姿に、カッと獄寺の頭に血が上った。
帯は結ばれていない。左の膝が乱れきった襦袢の裾からはみ出して、赤み帯びて僅かに濡れた肌を晒している。それ以外にも、胸元、露わになっている肌を月光が遠慮を知らずに照らして、幾つもの赤い痣を露わにしていた。
数時間前、この場所で彼らが何をしていたのかを、まざまざと見せつけるその色が。
彩りが。
空気が。
「ごく……ら……ん……?」
舌っ足らずな唇が名前を刻む。信じられないという顔をして、驚きと恐怖に顔を青ざめさせて、雲雀の後ろで震えている彼の琥珀がただ、獄寺には眩しい。
知っていた。気づいていた。
彼らがそんな関係だというのは、ふたり仲睦まじく並んでいる姿を見た時から既に感じ取れていたではないか。
そう、最初から許される隙間など無かった。入り込める余地など、どこにも。
居場所なんて、何処にも――
闇の中で琥珀が獄寺を見つめている。揺れる瞳は、しかし動いた雲雀が簡単に遮ってしまった。
「たいした護衛役、だね」
雲雀の無感動な囁きが静寂の闇を引っ掻いた。蛤蜊本家から九代目の勅命を受けて派遣された、という任務を隠れ蓑にして近づき、綱吉の命を狙ったその理由。恐らく真相を語ったところで、雲雀は聞く耳を持たないだろう。
獄寺は起こした行動は、それまでただ水面下で燻っていただけの両者の対立を明確化させた。獄寺は綱吉を狙い、雲雀がそれを阻止する。この構図が形を成しただけに過ぎない。
そしてこの段階で、勝敗は既に決したも同然。獄寺は失敗したのだ。
「なんで? なんでだよ、獄寺君!」
身を乗り出して叫んだ綱吉の身体を、雲雀が左手一本で簡単に遮る。これ以上前に出られぬと悟った綱吉は、出しかけた足を戻し、辛そうに表情を歪めて顔を背けた。
信頼していた、信用した。友達になれると思っていた。それがこんな形で裏切られた。
裏切ったのは、他でもない獄寺。
「ち……ちがっ!」
「何が違うって?」
俺が悪いんじゃない、咄嗟に叫びそうになった獄寺を雲雀が制する。彼の男は既に右腕に拐を構え、油断なく獄寺を睨んでいた。
綱吉は振り返らない。獄寺へ拒絶を示し、唇を噛んで声を殺している。
裏切られた事の衝撃と、怒りを懸命に胸の中に押し止めているその姿に、雲雀の冷酷な瞳の色が重なり合う。
どうして、こんな事になったのだろう。なってしまったのだろう。
命令だったのだ、仕方がなかったのだ。そう自分に言い訳しても、たどり着いてしまった結末は覆らない。こうなる事くらい、ちょっと考えれば想像がついたのに、考える事自体を放棄した報いがこれか。
獄寺は首を振った。鈍い痛みが腹部から登ってきたが、気にならない。訳もなく涙が溢れて来て、同時に迫り来る死の恐怖が彼を走らせた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
無茶苦茶に叫び声を上げた獄寺が、咄嗟に掴み取った符を足下めがけて投げ放った。ボッ、という小規模の爆発を起こして、突風の後に白煙が土間いっぱいに立ち込めた。綱吉は煽られながら片手で口元を覆い、目を閉じて煙から瞳を守る。
「逃がすか!」
雲雀が矢よりも速い声で怒鳴り、視界を完全に埋め尽くした煙へと身を躍らせた。縁取りが丸い煙を抉り、彼の身体は白と黒の世界へと消え去る。慌てたのは綱吉だ。
「ヒバリさ……っ」
待って、行かないで。そう言おうとしたのに、吸い込んだ煙に咳き込み声を発せられず、更に無理をさせられたばかりの身体が思うように動かなくて、彼は両手を伸ばして壁を捕まえると、そのまま畳に膝をついた。
煙は徐々に薄れつつある。手の甲で口元を押さえ、綱吉は涙目になりながら虚空を睨んだ。
土間には壊れた扉が放置され、人の姿は何処にも無い。ひとり取り残された現実に綱吉は再度咳き込み、苦しげに肺へ酸素を送り届ける。前身頃から手を離したお陰で羽織っていただけの襦袢がはだけ、綱吉の白い肌が余すことなく露わになった。
各所に残された愛撫の痕が生々しく月明かりにさらけ出され、驚愕と恐怖とに支配されて震えている姿であるに関わらず婀娜な艶を放っている。彼は幾度か喉を掠める吐息を零し、両手で支えていた口元を解放した。そして短く喘いだ先の闇に、淡く浮かびあがる光を見つけて彼はまた、息を呑んだ。
「……ヒッ」
完全に床へ腰を落とし、そのままの体勢で後ずさる。淡い光はやがて一点に集中し、輪郭を形作って厚みを生んだ。特徴ある黄色い頭巾が最初に視界に納められる。
リボーン。
沢田家に長く宿り、その長を影から支え続けてきた座敷童。その真の姿が何であるのかまでは誰も知り得ないが、恐らくそんなことは最早どうでも良いのだろう。彼には力があり、幼子の姿をしていながらも知識に優れ武術にも精通し、沢田家の安泰を過去から今に至るまで見守り続けてきてくれた、ただその事実だけで十分なのだ。
そんな彼が今、この状況で姿を現した事の意味。
昼間にリボーンは綱吉に何かを告げようとしていた。あれは警告だった。彼は“獄寺をどうしたいか”の判断を綱吉に委ね、そして綱吉は結論を出せないまま先延ばしにした。ならばこれは自業自得か。正面から彼と向き合うのを拒んだ綱吉が導いた結果なのか。
「リボーン、獄寺君が」
「ああ」
「ヒバリさんを、止めなきゃ」
伝心で届けられる雲雀の感情。怒りに満ち溢れ、綱吉にも痛いくらいだ。胸が締め付けられて苦しい。強すぎる感情は、綱吉に直接伝わって彼の呼吸を荒くする。
あのままでは、雲雀は獄寺を殺してしまう。すさまじい怒りの力が渦を巻いて、空に雲を呼び込んでいるのが分かる。今の状態ではさしたる力も使えないけれど、枷を自力で外すことくらい、本当は、彼ならなんでもない事なのだから。
「止めてどうする」
両腕で肩をさすり、立ち上がろうとした綱吉を制してリボーンが問いかける。相変わらずの涼やかな調子に、それでも綱吉は壁に片手を預けて身体を起こした。頭を左右へ軽く振り、覚醒しきれていなかった脳細胞を強引に揺り動かして、瞳に力を込める。
事が起こってしまった以上、もう時間は戻せない。ならば少しでも、それぞれに傷が残らない道を選び取るのが最優先。その為にも、最初にやるべき事は、決まっている。
「分かんない……けど、でも、止める!」
奥歯を噛みしめて綱吉が唸る。リボーンがその表情を斜め下から見上げ、やれやれと小さく肩を竦めた。嘆息して頭巾を片手で押さえ、昼間告げたのと同じ言葉を口にした。
「ツナ、お前は獄寺をどうしたい」
彼が選び取る答えによっては、今まで培ってきた、築いてきた全てが壊れかねない。慎重に選べと言外にリボーンが告げるからこそ、昼間綱吉は決められなかった。
けれど今は一刻一秒の猶予も無い。取り返しのつかない事態が起こってしまう前になんとしても、決着をつけなければならない。獄寺をどうするかなんて、それから決めれば良いと思うのに、それでは駄目なのだろうか。
「俺、は……」
「お前が獄寺の“これから”を背負うっていうんなら、教えてやっても良い」
獄寺が綱吉の寝所に押し入ったのも、白刃を翻しその胸に突き立てた理由も。そもそも彼が何処の誰で、何者の命を受けてこの家にやってきたのか。
その全てを、リボーンは語る用意が出来ている。後は綱吉が聞き、受け入れるだけ。
大きな黒目が綱吉を見つめている。肩で大きく息を吸った綱吉はひとつ唾を飲み、熱の込められた息を吐いて壁に寄りかかった。乱れきった襦袢の前を合わせ、踵で手繰り寄せた紐を一重に腰に巻き付ける。
綱吉は小さく首を横に振った。瞳を浮かせてから月明かりを零す窓へと向け、心の中で雲雀を探す。
何処かから爆音が聞こえてきて、彼を急かした。
「リボーン、俺は、……ごめん、やっぱり、よく、分からない」
獄寺の人生とか、そんなもの、自分ひとりが生きるだけでも必死な綱吉には背負えない。だから応えられないし、押しつけられるのも正直困る。ただ、それでも。
譲れない一線は確かに綱吉の中にある。
「でも、俺は」
黒目がちのリボーンが閑かに綱吉のことばを待っている。彼はもう一度唾を飲み、胸に握った拳を添えた。吐き出した息が触れて、強ばりが解けていく。
出来るなら雲雀にも、この気持ちが届けばいい。そう願いながら、彼は閉ざした瞼を持ち上げた。
決意を秘めた穏やかな琥珀が、リボーンを見据える。
「俺は、もう、ヒバリさんが……ヒバリさんに誰も、誰も傷つけて欲しくない!」
叫ぶと同時に彼は顔を逸らし、辛そうに瞼を閉ざした。
脳裏に蘇るのは、吹き荒ぶ嵐、波立つ湖面。なぎ倒される幾つもの巨木に、吹き飛ばされる人々の姿。渦を巻く風、空へと登る数多の飛沫。飛び交う悲鳴と怒号に紛れ誰の耳にも届かない、綱吉にだけ届いた声。
怖い、寂しい、痛い、苦しい、哀しい。
助けて、と叫んでいたのは、誰。
振り抜いた腕の勢いに負けて、綱吉の身体が左へ傾いだ。慌てて支えようと踏ん張るが、言うことを聞かない足は勝手に膝が折れて結局彼は再び、両肘を畳に落とした。
目の前まで来ていたリボーンと視線の高さが揃い、彼が薄く口元に笑みを浮かべる瞬間を目の当たりにして綱吉はたじろぐ。ゆるりと持ち上げられた彼の手には慣れぬ黒い筒状のものが握られていて、それは綱吉の正面、ちょうど額の位置に向けられていた。
「な、に……?」
見たこともないものに、綱吉は動揺する。眉間を狙われるのは、例えそれが指先であっても良い思いはしないもので、反射的に恐怖心を抱いた彼はリボーンから離れようと膝をずらした。
「まー、お前にはそれが精一杯だろうな」
しかし逃れた分の距離を簡単に詰めたリボーンが、口角を歪めて楽しげに笑った。右腕に握ったそれを綱吉の皮膚に触れるか否かという距離まで押しつけて、握り近くに設けられた引き金に添えた人差し指を引く。
衝撃は、一瞬。
「ヒバリを止めたいなら、なおさら見てこい。全てを、な」
綱吉の身体が後方へ吹き飛ぶ。天井を仰いだ彼の瞳は僅かに細められた後、遠く彼方に映し出された何かを見つけ、悲しみに歪んだ。
『やーい、やーい。悔しかったら此処まで来てみろー』
『弱虫、蛆虫、汚いんだからこっち来るなよなー』
『半端物のくせに、俺たちの仲間みたいな顔してんじゃねーよ』
声が聞こえる。子供達の無邪気な、それでいて悪意が無いからこそ残酷に人を傷つけてしまう声が響きわたっている。
綱吉は眼を開けた。そこは彼がいた筈の暗い寝室でもなければ、良く知る沢田の敷地とも違っていた。
深い緑、苔生す大地。自然界の匂いが強すぎて噎せそうなくらいで、綱吉は戸惑ったまま口元を片手で覆って周囲を見回した。
生えるに任せられているように見えて、どんな庭師でも設計出来ないだろう複雑な生態系の美を演出している深い森の中に、彼は立っていた。空を見上げれば、緑の屋根の隙間から澄み渡る青空も見える。今は夜だったのに、何かがおかしい。だが理解が追いついていかなくて、綱吉は眉間に皺寄せて一歩足を踏み出した。
瞬間、世界が切り替わる。目の前の光景が一瞬にして後ろへと流れていき、幼い頃に一度だけ連れて行って貰った町の芝居小屋の、新しい舞台が瞬きの間に展開されるのにも似て、その目まぐるしさに吐き気までした。
今度もまた森の中だったが、先ほどの深い樹林の隙間とは違って人の手が加えられた形跡が感じられる。倒れた古木の上には新しい芽が幾つも伸びていて、地上に残った幹の部分は表面が削られ、ちょっとした休憩場所に使えるよう整えられていた。
変わらず緑は濃く、喉を焼きそうな酸素濃度に息が苦しい。綱吉は鼻の下を指で擦って瞳を細めた。
――どこ、だろう……
覚えの無い場所。敢えて記憶にある場所に当てはめるのだとしたら、祖父や父に連れられて訪れたあの山に似ている。ただ彼処は水の気配が強かった、此処にはそれがない。
改めて周囲を注意しながら眺める。そして綱吉は根本で折れた古木の傍で小さくなって座り込んでいる子供を見つけた。
銀色の髪が木漏れ日を浴びてきらきら輝いている。真ん中で分けた髪は少し長く、毛先が襟に届くくらいある。年の頃は四つか五つくらいだろうか、着ている着物は擦り切れて薄汚れている。更に、明らかに人の手による汚れがそこかしこにも。
露わになっている膝小僧は擦り切れて赤い血が乾き、瘡蓋になって貼り付いていた。泣きじゃくっている顔を抑えている手の甲にも無数の傷が刻まれていて、しかも治りきらないうちに新しくつけられたと思われるものまであった。
――誰?
知っているようで、知らない子供。少なくとも並盛村の子供ではない。すると此処は並盛の里とは全く違う場所なのだろうか。直前にリボーンから正体不明の武器で与えられた衝撃を思い出し、綱吉は無意識に眉間に指を添えていた。
不思議な事に、直撃を食らった筈なのに痛みは無い。指が触れた額には痕も残っておらず、首を捻る綱吉は口をへの字に曲げて、他に見るものも無い為に座り込んで泣いている子供へ視線を投じた。
そっと近づく。歩く度に足下に降り積もっている腐葉土を踏みしめるのに、まるで音が響かない。枯れ枝に置いた爪先がゆっくりと柔らかい土に沈んでいき、綱吉は顔を顰めたまま幼子の隣で膝を折る。
銀髪の子供に触れようと、腕を伸ばす。だが指先が触れる寸前で幼子は不意に顔を上げた。
――!
気づかれただろうかと綱吉は身構えるが、子供は全く別のところを見つめていた。驚きと恐怖に見開かれている瞳の色は、髪の色よりも若干濃い鉛色。
誰か、と同じ色。
――あれ……?
この子を知っている、と綱吉は感じた。子供は顔を上げると同時に片膝をついて立ち上がろうと動く。だがそれより先には進まずに、顎を震わせて奥歯をカチカチと鳴らしながら全身を包み込む恐怖に耐えていた。
綱吉も彼に倣って、彼が向いている方角に視線を投じた。其処にいたのは、無論綱吉が知る人たちではなかった。けれど。
――え!?
そんな馬鹿な、と綱吉は自分自身の目を疑った。
こんなに近くまで接近されていて、何故気づけなかったのだろう。本来の自分ならば、姿が見えるところまで近づかれる事なんて無い。感覚が鈍っているのだろうか、困惑が胸の中を駆けめぐって綱吉は思わずその場で尻餅をついた。
幼子もまた半歩後ろへと下がる。前方には合計五人はいるだろうか、大人の男ばかりが顔を険しくさせたまま彼らに迫りつつあった。
大人達の額には、それぞれ特徴ある角があった。見ただけで人ではないと分かる――彼らは、鬼と呼ばれる種族だ。
人に似た姿形をしているものの、体内に秘めた力は人のそれを遙かに凌駕する。だが雌が極端に少ないらしく、鬼の女は非常に貴重だともいう。また、過去に鬼の総大将を人間に討伐されたとかで、彼の種族と人との間には根深い確執がある。
彼らはあまり好んで人と交わらず、特定の地域に根城を持っており、そこから出てくるのは稀。しかもその鬼が住む地域は蛤蜊家の支配領域にも重なっていて、それは蛤蜊家初代が鬼の首魁と相談の上、互いに不可侵を誓い合った過去があるからなのだとか。
人が鬼に関わらないように、鬼も人と関わらない。独自の生態系を維持し、狂わさない。この規約は過去にも先にも、決して破られてはならない。何故ならば人は鬼を恐れて駆逐しようとするし、鬼は人を脆弱な劣等種だと認識していて、少しでも牙を剥いて来た相手には例えそれが子供であろうと関係なく、容赦なく切り裂くからだ。
鬼に子供を殺された人間は嘆き悲しみ、鬼を憎み罵り、復讐を誓う。そうやって徒党を組んだ人間が山狩りをして、今度は抵抗力を持たない鬼の子供を殺したりもした。血で血を洗う憎しみの連鎖は数百年と続いていて、これを終わらせたのが蛤蜊家初代だとも言う。彼は残っていた鬼の一族を集め、自身の所有する山に移した。
表向きは監視の為、その実鬼を人から隔離して保護する為。無論、人に囲われる形になるのを良しとしない鬼も多く、全ての鬼が従ったわけではない。だが以後、問題になるような人と鬼の争いは途絶えた。
その、人里離れた場所にしかいない筈の鬼が、綱吉の目の前にいる。
『ぅ……』
『こんなところにいたのか』
怯えを隠さない子供に向かい、先頭の鬼が手を差し出しながら言う。声には心配していたという気配は少しも宿っておらず、どちらかといえば手間取らされた事への憤りが込められているように聞こえた。
『まったく、忌々しい』
吐き捨てるように呟かれた声に、幼子はしゃくりをあげて顔を擦る。必死に新しい涙を堪えているのが伝わってきて、綱吉は胸が痛んだ。
鬼たちは、そして銀髪の幼子も、この場に居合わせている綱吉には全く気づく様子がない。無視をしているのとは若干異なっている。まるで、彼らには綱吉が見えていないような、そんな感覚が近いだろう。
そう、綱吉は誰の目にも見えていない。
――此処は……
もう一度見上げた空は、綱吉が知る空と少し違う。感じ取る空気も、緑の濃さも確かにこの場に漂っているというのに、綱吉はそれらを、一枚の薄衣越しに受け止めている。
リボーンの意味深長な笑顔を思い出す。彼は何か言っていなかったか。そう、見てこい、と。確かに彼は綱吉が意識を手放す瞬間、そう告げた。
ならば、此処は。
この子供は。
『あの女の嘆願さえ無ければ、お前なんぞとっくに里の外へ放り出して獣の餌にしてやっているのによ』
『長の判断も甘い。貴様が来てから、里の空気が汚れっ放しだ。人間臭くてたまらねぇ』
『や……やめ、て……』
後ろから出てきた男が、子供の長い髪をぐっと掴んで引っ張り上げる。髪の毛が抜けそうになりながら身体を引き上げられた子供が、弱々し声で懇願するが、周囲の大人は誰一人として耳を貸さず、むしろ面白そうに笑うばかり。
哀れみも、情けも、愛護も、どこにも宿らない。ただ憎しみの対象物として扱っている。生きているのに、彼を魂が宿らない物として、その辺りに転がる石ころに等しい存在として扱っている。
――やめろ!
思わず綱吉は叫んだが、声は空気を震わせもせずに虚無に吸い込まれて消えた。自分ではしっかりと耳に届いているのに、この場にいる合計六人からの反応は無い。彼らは笑いながら、子供を小突き、突き飛ばし、蹴りつけ、ようやく塞がろうとしていた傷をより深く抉っている。
子供は抵抗らしい抵抗もみせず、されるがままになって泣きながら痛みを堪えている。それが逆に大人には気が食わないのか、もう一度彼の髪を掴んで持ち上げると、手鞠を投げる要領で倒れ伏す古木の幹めがけて放った。
『ぐぁ!』
悲鳴を上げ、子供は崩れ落ちた。膝を曲げて胸を抱きながら苦しげに咳き込むが、立ち上がる気力も残っていないのか額を地に着けて顔さえ上げようとしない。綱吉は無意識に拳を握り、彼を投げはなった男を強く睨んだ。
と、その男が急にひるむ。
――?
もちろん綱吉の怒気を感じ取っての故ではない。男は、広場になっているこの場所の、男達が現れたのとは反対側に目を向けて、懸命に取り繕う笑みを浮かべていた。
『ハヤト!』
今度は女の声が聞こえた。
『やべぇ、ビアンキだ』
『どうするよ、おい』
『そんな事言ったって……ずらかるに決まってんだろ』
男達は互いに肘を小突き合い、小声で短い相談をした後一斉に背中を向けて広場から逃げ出した。その足取りは実に鮮やかなもので、綱吉は見送りながら惚けてしまい、背後で再び女が叫んだのを耳にして慌てて振り返った。
女は、美しかった。
唐茶色をもっと薄めたような色の髪は長く腰の辺りまであり、先端に向かって緩く波立っている。身に纏う着物は質素だけれど自然の植物で染めたであろう色合いは見事なもので、せめてものお洒落にか帯は綺麗に結われて髪にも栴檀の実をあしらった簪を刺している。
年の頃は綱吉よりもひとつ、ふたつ上。薄く紅を引いた唇は艶があり、並盛の里に暮らす娘子達とは違う色香があった。
彼女は銀髪の子供の傍らに、着物が汚れるのも構わず膝をつき、心配そうに顔を歪めて彼を抱き起こす。丁寧に身体についた土や枯れ葉を払い落としてやりながら、泣きじゃくる彼を愛おしそうに何度も撫でた。
『何かされたら、すぐに呼ぶように言ってあるでしょう?』
彼女に対しては心を許しているのか、男の子は彼女にしがみつきながら優しく叱りつける声に何度も頷いている。
『でも……俺、一緒いる……姉様、みんなにきらわれる、から……』
『そんな事、貴方が気にする事ないのよ』
ビアンキと言う名らしい女性の声は、どこまでも優しく暖かみが宿っている。無関係の綱吉でさえ安堵感を抱きたくなる声は、母親の子守歌にも似ていた。
『確かに貴方は、私たちとは少し違っているけれど、それでもハヤト、貴方は大切な私の弟。もっと自分に自信を持ちなさい』
良く見れば女の頭にも、髪に見え隠れするくらいの小さな角がある。しかしハヤトと呼ばれた子供には、少なくとも綱吉の見える範囲にはそれがなかった。
――鬼の弟に、角が無い……
それに、ハヤトという名前。聞き覚えがある気がして綱吉は首を傾け、不意にぐにゃりと歪んだ視界に両足を踏ん張らせて次を待った。
景色が流れていく。構えていたお陰で最初よりも動転せずに済んだ彼が続けて見たのは、またしてもあの銀の髪をしたハヤトという子供だった。但しさっきは四、五歳だったのが、成長して七つか八つくらいになっている。
彼はやはり襤褸に近い着物を身につけ、広場の中程に佇んでいた。彼の足下には角のある子供が複数人、苦しそうにしながら倒れている。また、彼も少しばかり傷を負っていて、乱暴に頬の血糊をぬぐい取っていた。
そこへ、どやどやと足音を響かせながら鬼の大人が集まってくる。彼らはハヤトを遠巻きに囲い、中には自分の息子が倒れているのを見たのか、みっともなく喚き出す輩までいた。
『貴様、どういうつもりだ!』
『修行、つけてやる、言われた。だから相手、した』
抵抗も出来ずに泣きじゃくっていた子と本当に同一人物なのか、と疑いたくなるような素っ気ない口ぶりで彼は言い放ち、足下めがけて血の混じった唾を吐いた。それは偶然なのか故意なのか、倒れていた子供の頬に落ちる。
鬼の男が更に怒声を張り上げたが、涼しい顔をした彼は余裕の態度を崩そうとせず、むしろ怒っている鬼を小馬鹿にする表情で鼻を鳴らした。
『いいよ、文句ある、相手、なる』
不適に笑い、彼は構えを作った。だが彼を囲む男達はどよめくばかりで、一歩も前に出ようとしない。彼を恐れているのか、お前が行けと相手に押しつけ合っている様を眺め、彼は楽しそうに笑った。
――さっきと、逆……
綱吉は広場の端に立ち、光景を眺めていた。
まだまだちっぽけな子供を前に、扱いあぐねている大人。それを馬鹿にして笑い飛ばしながら、何故か哀しそうな眼をしている少年。
負けたくないから、強くなった。自分を認めて欲しくて、力を欲した。努力して、苦労して、やっと自力で立ち上がるだけの力を手に入れたのに、どうして、姉様以外誰も抱きしめてくれないのだろう。
『ビアンキさえいなければ、お前なんざとっくに!』
『姉様、関係ない!』
『黙れ、人間の分際で』
『俺、は、鬼だ!』
『お前の中に、例え半分だけでも鬼の血が流れているからって、俺たちはお前を同輩だとは認めない』
『そうだ。お前の母親が禁忌を犯しさえしなけりゃ、里はずっと平和なままいられたんだ』
『う……うるさい!』
『貴様の母親が自ら岩室に籠もっている意味を考えろ。人と交わった挙げ句、お前を産んだ穢れを祓う為だろうが』
『黙れ!』
少年が悲痛な叫びをあげ、腕をがむしゃらに振り回した。刹那、彼の指先から蛇の如くうねる炎が現れ、一瞬にして広場を覆い尽くした。
綱吉も咄嗟に顔を両腕で庇う。だが赤い色は眼前に迫るのに少しも熱は感じられず、炎に包まれて逃げまどう鬼たちの姿を、どこか他人事のように眺めるしかない。
広場は少年ごと炎に覆われ、さながら阿鼻叫喚の図を呈していた。悲鳴をあげながら蜘蛛の子を散らすように逃げまどう鬼や、必死に我が子を抱えて逃げる鬼。誰かの背中に炎が直撃し、もんどり打って倒れたところへ、追い打ちをかけて別の炎が襲いかかる。
『やめて、やめなさい、ハヤト!』
ビアンキの声。必死に炎を避けて、髪を振り乱して駆け寄ろうとする彼女だったけれど、事の張本人である少年は、自分でもこんな事になるとは考えていなかったのか、震える両手を呆然と見つめて佇んでいた。
彼自身もまた炎に焼かれているが、火傷の進行速度は他よりも遙かに遅い。ビアンキの数度目の呼びかけにやっと顔を上げた彼は、涙を堪える顔で幾度も首を横に振った。
『だ、め……』
『ハヤト!』
『ど……して……? 消えない、消えないよぉぉ!』
彼が両手で頭を抱えてしゃがみ込んだ。炎がそこに収束していく。ビアンキが足を止め、慌てて広場に居残る鬼たちに叫んだ。
『逃げて!』
直後、爆発がハヤトのいる位置を襲った。
すさまじい熱量と爆風が広場を焼き尽くす。吹き飛ばされた鬼達が木々に身体をぶつけ、ビアンキも煽られてその場に膝をつく。綱吉は目を見張り、呆然とこの光景を見送った。
――あ……ああぁ……
似ている、あの時と。
不意に蘇る光景が瞼の裏に貼り付いて離れない。思い出したくもない過去の記憶が音声混じりで再現されているようで、綱吉は両耳を覆って身体を抱いた。
――ヒバリさん、ヒバリさんヒバリさん……ヒバリ、さん!
綱吉と、そして鬼達の悲鳴が遠ざかり、景色が流れていく。時間がまた飛ぶのだ。これは綱吉自身が経験した時間とは違う、段々と分かってきた。
リボーンが何を見てこいと言ったのかも、どうして彼がこれを綱吉に見せたのかも。
これが、誰の記憶なのかも。
次に現れたのは、薄暗い屋敷の座敷だった。
『隼人……といったか』
『はい』
小綺麗な着物を着せられた銀髪の少年が座っている。向かい合っているのは鬼ではなく、人だった。中年の、やや太り気味の男。
『お前が何故此処にいるのかは、分かるな』
『……はい』
目の前の光景に重なるようにして、焼け焦げた広場に立ち尽くす半裸の少年の姿が現れる。恐らくこれは、彼が思い返している記憶なのだろう。彼は同胞に危害を加えたという罰で牢屋に閉じこめられ、処断が下されるのをただ待つばかりだった。
彼の力の大きさを目の当たりにした大人達は、揃って彼を死に至らしめるべきだと主張する。しかしビアンキだけは温情を求めて最後まで足掻き、鬼たちも女の願いには寛容だったからだろうか、彼は死罪だけは免れた。
ただ、再びあのような事が起きては困るからと、里にこれ以上留まるのは許して貰えなかった。
他に頼る物がない彼が最終的に行き着いた先、それがこの男。
彼の、父親。
『正直、私はお前を息子と認めてはおらん』
『……!』
禁忌を犯し、鬼の女を手込めにしておきながら、ぬけぬけとよくもそんな事を言えたものだ。わき起こる怒りをどうにか押し止め、綱吉は荒く息を吐き出す。
少年は肩を強ばらせはしたものの、此処を追い出されては本当に行き場所が無いとわきまえているからか、反論はしなかった。堅く握った拳を膝に置き、俯き加減に懸命に堪えているのが伝わってくる。
もし彼を抱きしめられるのなら、綱吉は迷わず彼の側に膝を折ったに違いない。しかし現実には、これは過去の出来事であり、綱吉が介入出来る時間でもない。ただ見守るしか出来ない歯痒さに、綱吉は臍を噛んだ。
――似ている……
思い浮かぶ黒眼黒髪をふと懐かしく感じ、綱吉は薄暗い天井を仰ぐ。
埃が積もり、角には蜘蛛の巣が見える屋敷は手入れが行き届かず、荒れ放題。彼の実家は蛤蜊家の末端で、長い間実力者が排出されなかった為に凋落の一途を辿っているという話は、嘘では無いらしい。
『だが、お前が私の役に立つと誓うのであれば、お前を息子として、迎えよう』
尊大で、傲慢な口ぶり。男は何を企んでいるのか、薄気味悪い笑みを浮かべて息子だといって現れた半魔の少年を見下ろしている。彼は俯いて言葉を受け止め、苦悶の末に黙って頷いた。
力が無いから、迫害された。力を手に入れたら、今度はそれが厄介だからと放逐された。
存在を認めて欲しいだけなのに、人として生きる為に必要とされたのは、鬼の里を出る原因になったこの忌々しい力だけ。無条件で受け入れて貰えるとは思っていなかったけれど、せめて血を分けた父親であるなら、一度くらい抱きしめて欲しかった。
彼は拳へ更に力を入れ、何かを押し殺し、涙を堪えた。男が退席した後も、彼は随分と長い間そこに座していた。
――……
昼間の会話を思い出す。綱吉は己の胸を撫で、指先に視線を落とし心臓へ掌を重ねた。
この声は、あの人まで届くだろうか。
闇が綱吉の両脇を流れていく。時間が再び変わったのだろう、出現した光景に、今度は綱吉も覚えがあった。
――本家だ。
一度きりではあるが訪れた場所、その一室。だが大勢いた人の気配は格段に減り、明かりも行燈ふたつきりで実に頼りないものだった。
『良いか、お前に任を与える』
粛々とした雰囲気の中、厳かな声が響き渡る。つい綱吉は身を硬くし、構えをとっていた。
『今より、並盛の里へ出向き、沢田綱吉なる男子と接触しその力量を見極めよ』
――俺?
何の話をしているのだろう。そもそも、この場にいるのは誰なのか。本家で接触を持った人間はごく少数だったので、綱吉は声の主がどこの誰であるかの判断がつかない。
自分の話題を知らぬところでされる気持ちの良いものではなく、綱吉は眉根を寄せながら声に聞き入る。
下座に在る青年が深々と頭を下げ、命令を受け取る。彼だけは覚えがあって、綱吉は複雑な気持ちでそちらへと目を向けた。
銀の髪が赤々と輝く炎に照らされて、彼だけがこの中で異質な存在と化している。
――獄寺君……
これが真実なのか。声は続く。
『もし、その男子、蛤蜊家の名を汚すような輩であれば、構わぬ』
『殺せ』
無情に告げられた言葉を耳にし、綱吉は目を閉じて天を仰いだ。
予想はついた、覚悟もしていた。本家に連なる一部の人間が、最初から綱吉を後継者として認めていないことなど。
そんな連中の配下についたのが獄寺だというのも、一連の流れでなんとなくだけれど察していた。没落寸前の獄寺家はどうしても本家の後押しが欲しかっただろうし、それには何の功績も残していない沢田につくよりも、本家の家老級を後ろ盾に選ぶのは当然の帰結。
獄寺は父親に逆らえない。本家の命令にも、逆らえない。
綱吉殺害は、獄寺の本意ではなかったと信じたい。だって彼はあの時、とても辛そうな顔をしていたではないか。
『しかし……あの小僧に果たして勤まるかの?』
コロコロと笑う女の声に、綱吉は飛ばしていた意識を急ぎ引き寄せた。
時間の流れは止まっていなかった、獄寺が退席した後も続いていた。気がつかなかった自分の未熟さを悔いながら、綱吉は見付かりはしないと知りつつも息を殺して会話に聞き耳を立てた。
『出来て貰わねば困るのだよ』
『しかし、未だ人を殺めた事もないのであろう? 聞くに、鬼の里で暴れた際も』
『ならば、こちらからも密かに手助けをしてやらねばあるまい? かわいい我等の鬼子の独り立ちなのだから』
喉を擦って笑い、楽しそうに企みを口にする女がいる。顔は見えないが、声の調子からだとかなり年若い。綱吉は近くで確かめようとして、忍び足で一歩前に出た。
『……誰かいるのか?』
と、音を響かせたつもりはないのにそんな警告が女の口から発せられ、周囲にはどよめきが、綱吉には冷や汗が流れた。
ひゅ、と風が吹き行燈の火が消える。部屋から明るさが薄れ、どっしりとした闇が再び静寂を呼び込んだ。
女は「風か」とだけ呟き、己の思い違いを小さく笑った。
綱吉は心臓が口から飛び出すのではないかという緊張を耐え、自分が感づかれたのではない事に安堵の息を零す。しかしこれで完全に明かりが絶えてしまい、女の顔を確かめるのは不可能になってしまった。彼は残念だと心の中で舌打ちし、代わりに声を聞き逃すまいと神経を集中させる。
女が再び、口を開いた。
『あの者、あの髪色のままでは人外の血が混じっていると言いふらしているようなもの。墨で染めさせよ。そうよの、蟲毒を使った墨で、な』
『お悪いこと……』
ひっそりと笑う声に、綱吉の背中には電撃が奔った。
今、女はなんと言った。蟲毒を使った墨。……蟲毒。毒?
『じわじわと蝕まれて行くのがお似合いであろうよ』
気が動転する綱吉の両脇を、景色がもの凄い勢いで流れていく。辛うじて見て取れた光景には、獄寺が沢田家に現れた時、その後の寝起きするようになってからの日々に、綱吉にせがまれて炎の術を披露した時も混ざっていた。
黒が白へ、白から灰色へ。そして、また闇が。
「――――っ!」
綱吉は顔を上げる。リボーンのしたり顔がそこにあった。
全身が汗に濡れてぐっしょりとしている。襦袢が肌にまとわりつき、乱れた心拍に喘ぎが続いた。
「戻ったな、ツナ」
「リボーン、今の、は」
「答えは出たか?」
どれくらいの時間が経過したのだろう。もの凄く長い日数を旅していたようで、瞬きをする程の一瞬の出来事だったようにも思える。感覚が麻痺していて、綱吉は頭を揺すりながら身体を起こした。
倒れた時にぶつけたらしい後頭部が痛い。乱れている呼吸を数回の深呼吸で落ち着かせ、はだけている裾を集めて膝を閉じる。畳の感触が薄衣越しに肌に伝って、今が現実なのだと思い知らされた。
答え。
そんなもの。
「獄寺君は、悪くない」
彼の行動全てを許す事は出来ないけれど、彼は、ああせざるを得ない状況に追いやられていただけだ。其処に彼自身の意志は介在しない。
だから確かめる。本当に彼が、綱吉の死を望んでいたのか。蛤蜊家の闇に従うだけの生き方を良しとしているのか、どうか。
聞かなければいけない、彼本人に。
そして雲雀も止める。手遅れになる前に。
――ヒバリさん、今どこに……
スゥ、と息を吸い、目を閉じる。感覚を研ぎ澄ませ、綱吉は己の心臓の上に手を添えた。拍動を確かめながら、意識を彼方へと飛ばす。
――ヒバリさん、応えて。ヒバリさん。
懸命に呼びかける声に反応はない。だが雲雀には届いている筈で、それを証拠に雲雀の目が見ている景色が、言葉の代わりに綱吉へ伝わってきた。
庭、池の近く。
――ヒバリさん!
獄寺が見える。池に落ちて水を浴びた彼が、恐怖に震えながら雲雀を呆然と見上げているのが見える。
「止めなきゃ」
目を開き、綱吉は起きあがろうとして自分の襦袢の裾を踏みつけて転んだ。容赦なく鼻から落ちて強かに打ち付ける。傍らのリボーンが呆れ気味に肩を竦めた。
「……ツナ」
「ああ、もう!」
どうしても格好がつかない自分に苛立ちながら綱吉は勢い良く起きあがった。しかし前に進めず、今度はなんだと片眉を持ち上げて振り返ると、黄色い頭巾の赤ん坊が彼の袖を摘んで動きを封じていた。
放せ、と手を振り上げると逆に引っ張られる。見た目とは相反する強烈な力で、綱吉は部屋の中央に引き倒された。再び後頭部を、敷いたままだった布団に打ち付ける。顔の真横に鈍く光る抜き身の刃を見つけて、ひやりとした汗が喉を伝った。
「リボーン!」
危ないじゃないか、何をするのか。怒鳴り声をあげた綱吉の太股は裾に隠されもせず露わになっていて、いい加減分かれ、と説明するのも面倒に感じているリボーンは大仰に肩を落とした。無言のまま箪笥を指さし、次いで汗を吸い込んで肌に貼り付いたままの襦袢を指し示す。
肌の各所に残る痕を隠すにはあまりに不十分で、不謹慎過ぎる格好。無言の指摘を受けて綱吉はやっと、自分の状態を思い出し赤くなった。
「え、あ、ちょっ……リボーンの助平!」
散々動き回ったお陰でほとんど丸見え状態だったのにちっとも気づかなかった自分が恥ずかしくて、身体を掻き抱いてリボーンに背中を向ける。そして膝で前に進んで箪笥に寄りかかると、引き出しに手を掛けて中から適当に羽織りを抜き出し、座ったまま袖を通して落ちていた帯も見つけて三重に巻き付けた。
きちんと着付け直す暇も惜しくて、ひとまず格好だけ整えた彼は人心地ついたと息を吐いて漸く立ち上がった。
「褌は?」
「リボーンが出ていってくれてたら結んでるよ!」
だからいちいち、そういう恥ずかしくなる事は言わないで欲しい。こんな時なのに意地悪く笑っているリボーンに思い切り怒鳴りつけ、綱吉は部屋を飛び出した。草履を履いていくのも億劫で、日が昇るのにはまだ少し時間がある寒空の下を素足で駆けていく。
嵐が過ぎ去った室内は急激に沈黙の帳が降りてきて、見送ったリボーンはやれやれ、とお気に入りの頭巾を叩いた。
「茶でも煎れるか」
のんびり、どこまでも暢気な声で呟いて。
彼の姿は煙となって消えた。