「え……」
絶句する綱吉の前で、小鳥の形を成した己の式神が見た光景を伝えた雲雀が、今言ったばかりの言葉をもう一度繰り返した。
「ハルが倒れた、先生と同じ症状で」
村人には軒先に停まる鳥としか映らないだろう式神の目は、主である雲雀の脳へ直接村の様子を伝えている。眉間に皺寄せた瞼を閉ざした雲雀の脳裏には今まさに大騒ぎしている三浦の家が映し出されており、夫に続き娘まで病に伏してしまった母親の、発狂寸前さながらに叫び喚く姿も手に取るように伝わっていた。
実際には遠い場所での出来事、そっと息を吐いて集中力を切ると闇の中の靄に現れていた画像は掻き消える。代わりに瞼を開けば青褪めた表情の綱吉が近くに居て、雲雀は凝ってしまった肩を交互に叩いてから綱吉を引き寄せた。
大人しく彼の胸元に顔を埋めた綱吉が、苦しげに息を吐く。
「なんで? 昨日まで、あんなに元気だったのに」
神社で偶然遭遇し、夕飯の支度を手伝ってもらった。食事までは一緒に出来なかったけれど、奈々が回復するまでは毎日夕飯だけでも作りに来る、と帰り際約束してくれたのに。
昼になってもやってこない彼女を心配して、綱吉が頼み雲雀に様子を確かめて貰った結果が、これ。
獄寺は遠巻きに、ふたりの邪魔にならないように気を配って綱吉と同じく雲雀が告げる内容を聞いていたのだが、彼もまたもたらされた現実に驚き、顔色を悪くして浅く唇を噛み締めている。
既に村で倒れた人間は十人を越えていた。その殆どは奈々のように、徐々に体力を低下させて動けなくなり床に伏す、という非常に緩慢な進行具合だった。しかしハルだけは、前日まで元気にしていたのに翌朝起きてこないので母親が様子を見に行ったところ、既に動けないくらいに衰弱していたのだという。
何故彼女だけが、という疑問は当然頭に浮かんでくる。前日の彼女と、それ以前の彼女とで、一日の行動を比較した場合、大きく異なっているのは当然ながら彼女が沢田家を訪れたこと。並盛神社への参詣は数日前にもあったらしく、神社を疑うのは間違いだろう。
極論だとは分かっていても、他に思い浮かばない。自分が彼女を辛い目に遭わせるきっかけを作ってしまったのではないか、という思いは綱吉に重く圧し掛かる。例え自分に原因が無かったとしても、彼は一生この事を気に病むだろう。雲雀はそれが分かるので、特別な言葉を使わずにただ綱吉の肩から背中を幾度も撫でた。
「なんで、だよっ」
自分の身体さえ思うようにならなくなりつつあって辛いのに、こうして心理的に追い討ちをかけられると考えがどうしても悪い方へばかり向かってしまう。雲雀の胸元を握り締めた綱吉の吐き捨てた声に、それまでずっと黙って聞いているばかりだった獄寺が、僅かに体を揺らした。
黒い毛足が、左右に踊る。
「あの、ハルは……大丈夫なんでしょうか」
そんな質問されたところで、綱吉にだって分からない。反射的に怒鳴り返そうとしていた頭を唐突に上から押さえ込まれ、綱吉は危うく舌を噛むところだった。
大きな手が後頭部に添えられていて、首を持ち上げるのさえ許してもらえそうにない雰囲気に綱吉は雲雀の腿を思い切り抓った。だが痛みを感じないのか雲雀は平然とした様子、その上で何処と無く怒りを孕んだ気配を漂わせていた。
綱吉がハッとした時にはもう、彼は肩越しに獄寺を振り返り、剣呑な表情で彼を睨んでいた。
「君が、やったんじゃないの?」
何を、とまでは言わない。だがそれだけで伝わるものが、この場にはあった。
獄寺、そして綱吉が息を飲む。雲雀だけが淡々とした様相を貫き、冷たい湖底の水のような目で彼を見据えていた。
「なに、を……いきなり」
「分からない?」
「言いたいことがあるならはっきり言えばいいだろう!」
動揺が見え隠れする獄寺を薄く嗤い、雲雀が口元を意地悪く歪める。綱吉はまだ頭に置かれた手を外してもらえず、雰囲気だけは伝わってくるもののどうにも動けなくて、じたばたと場違いに足を動かした。爪先が何度も床を滑り音を響かせるが、聞こえていないわけでもないだろうにふたりは一切これを無視する。
もったいぶった言い方をする雲雀に、獄寺が声を荒立てた。握った拳を脇へ払いのけ、その勢いのままに膝を立てて体を起こす。床に座したままの雲雀を自然見下ろす体勢となるが、明らかに雲雀の方が大きく彼には映っただろう。
「なら、言おうか」
雲雀の手の力が緩む。だのに遠ざかった体温に頭が冷え、綱吉は暫くの間上手く動けなかった。
言ってはいけない、そう綱吉の中で警告が発せられる。言わせてはいけない、それは争いの種になる。激しく掻き鳴らされる警鐘の耳鳴りに綱吉は顔を険しくするが、何故か思うままに声が出てこない。
止めようと雲雀を掴むべく持ち上げた指先は、虚しく宙を漂い落ちた。
「君が来てから、だよ」
「――――?」
非常に曖昧でどうとでも解釈し得る呟きに、獄寺は気勢を削がれ、拳を戻す時期を見誤った。片方だけ立てられた膝が左に傾ぎ、反対の足をずらすことによって堪える。疑問符をつけた視線が投げられるのを笑って、雲雀は綱吉を抱えると横に退かした。
二対四つの瞳がそれぞれ雲雀を見ている。床に座り直した綱吉の跳ね上がった髪を潰すように上から撫でた後、彼は立ち上がり、再び獄寺を眼下に置いた。
蛇に睨まれた蛙宜しく、獄寺は一歩も動けぬまま生唾を飲み込んだ。喉仏が小さく動く様を眺め、雲雀は細い瞳をより一層細めた。
「君が来てから、全てがおかしくなった。気づかれないとでも思ってた?」
最初に綱吉が感じ取った異なるものの気配。
鬼であれば通れぬ結界を素通りした、しかし人とは違う気配を身にまとって現れた獄寺。
神木の精霊が放つ無邪気な神気が障るのか、ランボとの接触は極力回避しようとする試み。
そしてなにより、彼が村へやってきて暫くしてから発生した、原因も、治療法も全く不明の謎の病。
まるで自分を疑ってくださいと言わんばかりの状況を、獄寺はどう弁解するというのだろう。雲雀の冷え切った瞳を浴びて、獄寺は唇を微かに震わせながら懸命に息を吐いた。
だが言葉は出てこない。改めて現実を突きつけられ、返すべきことばが何ひとつとして彼の脳裏には浮かばなかった。
九代目勅命と騙って訪れた此処沢田家。十代目仮決定の綱吉を護衛するという名目を隠れ蓑にした、表立っていない本来の任務を、獄寺は雲雀や綱吉に説明するわけにはいかない。自分の出自に関わる内容も、出来るならば彼らに知られたくなかった。しかし、それよりも、何よりも。
今最も投げかけられている疑問、村人を襲う疫病の発生源ではないかという疑いは、獄寺にとって、全く身に覚えが無い濡れ衣に他ならず。
事情を説明すれば彼らは理解してくれるだろうか。胸を駆け抜けた思いは、直後一瞬にして霧散した。言ったところでどうなる、どうせ彼らは最初から自分の言葉など耳を傾けたりしない、聞き入れてくれたりなどしないに決まっている。
これまでだってそうだったではないか。人間など皆同じだ、自分より弱い相手を見下し、蹴落とし、利用するだけ利用して、簡単に切り捨てる。信じて待った約束が叶えられたことなど無かったではないか。どうせ最後は裏切られるなら、最初から信じない。
疑われるのなら慣れている、弁明が聞き入れられたこともない。認められもしない。
自分は一人きりだ。今までも、これからも、ずっと、ずっと。
自分が帰る場所なんて、もう、何処にも残されていないのだから。
獄寺が反論もせずにただ拳を震わせて俯いているのを見下ろし、雲雀は小さく肩を竦めた。不安そうに縋る綱吉の視線さえも振り切り、不機嫌だと分かる足取りで茶の間を出て行く。勝手口の扉が閉められ空気の動きが絶えると、綱吉は忘れていた呼吸を取り戻して恐々ながら獄寺を振り返った。
彼はまだ片膝立ちのまま、床を穴が空きそうなくらい睨みつけていた。
「あの、獄寺君……」
なんと声を掛ければよかったのだろう。後から考えても、綱吉には分からない。ただこの時は、恐らく雲雀の心無い発言によって傷つけられたであろう彼をどうにか宥めたい、その一心だった。
出来るなら彼とは喧嘩をしたくないし、疑いたくも無い。原因が分かっていないのに一方的に君が悪いと糾弾するのは、綱吉には無理だった。だから雲雀の言ったことは気にしなくて良いと、そう伝えたかったのに。
綱吉の声に我に返った彼は、それまでの悔しさが滲み出た表情を一変させ、まさしく鬼に等しい形相で綱吉を睨みつけてきた。
「――――っ!」
あまりの変貌ぶりに綱吉が腰を抜かす。怯えが表情に表れたのか、獄寺は一瞬泣きそうな顔をしてから奥歯を噛み締めて目尻をつり上げ、怒声をあげた。
振りぬいた腕が風を切り、綱吉の耳元で渦を巻く。
「俺を疑っているなら、そう正直に言えばいいじゃないか!」
怒っている。激しく、心の底から。
それなのに綱吉の心に届く彼の声は、どうしてだろう。哀しい、寂しいと泣きじゃくる、子供の叫び声。
「俺が来てからおかしくなった? ああ、そうさ、そうだろうとも! どうせ俺は何処へ行ったって邪魔者でしかない、厄介者でしかない。俺は役立たずの能無しで、何をやったって誰からも認めてなんかもらえない!」
獄寺の脳裏を、目まぐるしく様々なものが駆け抜けていく。
幼い日々を過ごした山奥の村でも、自分は腫れ物に触るような扱いを受けてきた。仲間と思って近づいても、向こうから逃げていく。友達なんてものも居ない、近くに居てくれるのは母と、父親違いの姉だけ。
それでもいつか認めてもらえると信じて、術の鍛錬に励んだ。誰よりも上手く、誰よりも強い術が使えるようになって、これで仲間に入れるという期待は、だが今度は自分よりも強い相手を疎む気持ちに阻まれて見事に打ち砕かれた。
迎えに来た父親だという男は、もっと酷かった。権力の為、家の再建の為、その道具となるように求めてきた人間の男を、本当はどうしようもなく殺してしまいたかった。
それでも見送った母の涙が悲しくて、育ったあの村にも帰れなくて。ひとりで生きていけると粋がっても所詮は中途半端な自分の事、同門から疎まれ父親からは毛嫌いされながらも、必死になって耐えた。
他に道を知らなかった。
そんな自分が生まれて初めて、自分が自分である事を、認められたと思ったのに。
見下ろした先で呆然と佇む綱吉の、誰からも愛され守られ、大切にされてきたと分かる無邪気さが憎い。どうして、彼だけ。どうして、自分ばかり。彼に与えられたもののほんの一部でも、自分に回されていたならば。
何かが、違っていたかもしれない、のに。
無心に、見返り無く抱き締めてくれる相手が居ることの幸せを、分かりもしないで。
綱吉が何かを言おうと唇を開閉させるが、零れ落ちたのは溜息にも似た呼気だけ。彼の目尻に薄く浮かんだ涙に気づかずに、獄寺は腹の底に沈殿していたものを一気に吐き出した。
「俺が信用ならないんだろう、怖いんだろう? 言われなくたって分かってるさ。お前も、あいつらと一緒だ、結局、自分がかわいいだけなんだろう!」
堅く閉ざした瞼の向こうで表情を変えた綱吉を、獄寺は知りもしない。
「蛤蜊家十代目だかなんだか知らないが、俺のことはもう放っておいてくれ!」
ガン、と脳天を金槌で殴られたような衝撃。床を足で踏み鳴らした獄寺はひと通り叫んだ後、乱れた呼吸を正す暇も作らずに綱吉に背を向けた。
雲雀のものとは違う荒々しい足取りで、北側の廊下へと出て行く。この家で彼が行く場所はこの茶の間と、彼に貸し与えられた北西の部屋しかない。行き場所がない、居場所が無い。彼の怒鳴り声を噛み砕いた綱吉は、伸ばしていた足を引き寄せてその場に留まったまま呆然とし、やがて膝を抱えて身体を縮めこませた。
獄寺の足音は遠ざかり、聞こえなくなるのにそう時間はかからなかった。静寂が場を包み込み、このまま小さくなっていればやがて自分の存在は消えてしまうのではないかとさえ思う。
頬を伝った涙は、果たして自分のものなのか。
分からぬまま、綱吉は顔を伏せて声を殺した。
「だいぶ」
ふっ、と舞い降りる気配。綱吉は熱い涙で濡れた頬をそのままに、僅かに首を持ち上げて視線を声のした方角へ向けた。
床板の上に小さな足がふたつ並んでいる。ゆっくりと上へ流していけば、丸みを帯びた身体に饅頭のような頬、頭には黄色い頭巾。ここ最近姿を全く見かけていなかったために、長年共に暮らしてきた綱吉でさえ存在を半ば忘れかけていた相手。
「リボーン……」
いったい、今まで何処へ行っていたというのだろう、この大変なときに。
これまでは何か大きな問題が起こった時も、綱吉の傍にはリボーンが居た。彼が的確に助言を行うことにより、幾つもの難題は解決され、その度に綱吉は救われてきたというのに、今回に限ってそれは乏しい。彼は元々気まぐれな性質ではあったものの、此処まで長期間綱吉の前から姿を消していたことは過去例を見ない。
体を起こし、綱吉は膝を彼へと向ける。リボーンは小さな手を伸ばすと赤くなっている彼の頬を軽く叩き、しゃんとするように促した。
「騒ぎも、大きくなってるみたいだな」
「……うん」
村の様子を言っているのだろう、彼の言葉に綱吉は小さく頷いて返す。
「母さんも、倒れて」
「みたいだな」
「ハルも」
「ああ」
短い相槌の後、綱吉は唇を噛んで黙り込んだ。リボーンは特に先を急がせず、綱吉の気持ちが落ち着くのを待つつもりなのかじっとしている。けれど喋っていないとまた涙が溢れ出てきそうで、綱吉は目尻を交互に拳で拭い、懸命に鼻水を堪えて生唾を飲み込んだ。
リボーンは相変わらず変化に乏しい表情のまま綱吉を見上げ、何かを考えているのか一瞬だけ眉間に皺を寄せる。小さな唇は音を刻まず、黙々と時間だけが流れてゆく。
やがて、耐え切れなくなった綱吉が、
「もう俺、どうしたらいいのか」
雲雀は完全に獄寺を黒だと判断し、獄寺は疑いを肯定も否定もせずただ不満だけを綱吉にぶつけて出て行った。言い争いをしたいわけではないのに、話し合いも出来ぬまま状況はどんどん悪い方向へ流れて行く。舵取りも出来ずに荒波に放り出された小船に乗っている気分で、綱吉はまた零れ落ちた涙を指の背で拭い、しゃくりをあげた。
膝を、リボーンの手が撫でる。
「それで?」
だが彼が放つことばは雲雀のそれに似て、綱吉を簡単に突き放す。
「それで、って……わかんないよ全然!」
「お前は、獄寺をどうしたい」
「え……」
思わず激昂して怒鳴り返した綱吉の眼前で、表情を一切変えないリボーンが静かに問う。
拍子抜けした顔を作り、綱吉は丸めた拳を胸の前に掲げたまま停止した。
「雲雀の考えも、獄寺の気持ちも、今は一旦置いておけ。ツナ、俺は、お前がどうしたいかを聞いている」
「だから、……そんなの、わかんないよ」
いきなり言われたところで、考えはまとまらない。目まぐるしく入れ替わり、消えては現れるこれまでの出来事を振り返り、静かに息を吐いた綱吉は斜めに視線をずらし、曲げた人差し指を噛んだ。
「でも……」
今にも泣きそうな顔をしていた獄寺が思い浮かぶ。一瞬だけ感じた、胸が張り裂けそうな子供の叫び声は、錯覚なんかじゃない。
「俺は、それでも……」
言いかける綱吉の声が次第に尻すぼみ、小さくなっていく。一緒に視線と拳も下へ落ちていって、膝の上で一箇所に集約された。リボーンの手がそこに重なる。小さいけれど、大きくて、暖かい。
雲雀とは違った形でいつも綱吉の傍に居て見守ってくれている彼の暖かさに、心が静まっていくのが分かる。
綱吉は深く息を吸って吐き出し、北に開かれた庭を遠目に見やった。建物の影に入り、色味を強めた砂地が広がる裏庭では、数匹の雀が寛ぎながら戯れていた。
瞳を閉ざし、深呼吸を数回繰り返して、リボーンの暖かさに後押しされた綱吉は目を見開く。
「俺、は」
雲雀の意識に引きずられることなく。
獄寺の怒気に気圧される事無く。
自分自身の気持ちを、正直に。
「獄寺君じゃないって、信じたい」
先ほどの獄寺本人の言葉と、綱吉が感じた、泣いている子供の姿。彼には何かがあるのだと思う、それが原因で彼は引け目を感じているし、逃れられないと自分を縛ってしまっている。
楽観的希望でしかないのかもしれないが、今回の騒動の原因は彼ではないと思う。彼の内側にある何かが綱吉に影響を与えたというのは否めないが、どうもそれだけではない気がするのだ。そもそも彼には、村人に危害を加える動機が無い。
綱吉に対してだけならば、或いはあり得ないことでもないが。
そこまで考えて、綱吉は嫌な気分になった。蛤蜊家十代目継承者という事実が、彼の両肩に重く圧し掛かる。
自分の存在があまり好ましく思われていないのは、本家に呼び出された時から感じていた。しかし、村を巻き込んでまで自分を害したいと思っている人間がいるのだとしたら、哀しい、なんてことばだけでは表せない。
あの大広間で感じ取った多くの感情の渦。黒、灰色、鉛色……人の感情がこんなにもおぞましいものだったのかと教えられ、二度と近寄りたくないとさえ思った場所。あそこに居た人の誰かが、今回の一件を仕組んだのだろうか。
分からない。だって獄寺は、九代目の勅命を受けて此処へやってきたはず。自分を後継者に指名したその人が、自分の死を望む意味などあるものか。ならば矢張り獄寺は無関係? しかし、彼に会った時、最初に感じた感覚もまた、嘘では無い。
「でも、……でもやっぱり、俺にはわからない」
結論が出ない。
獄寺を疑う心、信じたいと願う心。そのどちらもが綱吉の中の本物で、逼迫し、せめぎあい、優劣付け難いところで団子になって転がっている。
状況だけを見れば獄寺が黒としか言いようが無い。しかし綱吉を責め立てた時の獄寺の表情は、自分こそが被害者だと言わんばかりの色をしていた。
「そうか」
もう一度「分からない」と首を力なく振った綱吉へ、リボーンは言葉少なく頷いた。
「信じたい、だけ、か」
「リボーン?」
「なら、やめておこう」
彼は何かを知っているというのか。含みの在る表情と台詞に、綱吉は床へ手をついて彼との距離を詰めた。
だが頭ごと視線をそらしてしまったリボーンは、それっきり背中を向けたままひょこひょこと歩き出す。思わず追い縋ろうと膝を浮かせた綱吉だったが、明確な拒絶を態度に表している彼が、これ以上どれだけ求めても欲しい答えをくれるわけがないと悟って、唇を噛んでその場に留まった。
悔しげに瞳を伏せた彼へ、リボーンは消え去る寸前に忠告を残す。
「下手な同情だけなら、やめておけ」
「え?」
「お前に背負う覚悟が出来たなら、その時教えてやる」
何を、どう、背負うというのだろう。首を傾げた綱吉の前で、リボーンは現れた時同様に煙となって姿を隠した。気配は薄くなり、再びこの場所に綱吉だけが残される。
同情、そして背負う覚悟。また考えなければならない事が増えてしまい、綱吉は低く呻くとその場に倒れこみ、天井を見上げて寝転がった。
「ヒバリさん……どこ行っちゃったんだよぉ」
一番近くに居てほしい人の気配も感じ取れず、伝心さえ届かず、こみ上げてきた涙を今度こそ我慢しないで綱吉は鼻を鳴らした。
自己嫌悪と言うものは大抵後からやってくるもので、足踏み鳴らし歩いて戻る道中で少しばかり風にも当たったものだから、獄寺は頭に上っていた血がゆっくりと下がっていくのを感じ取り、途端陰鬱な気持ちに襲われた。
それでも腹の底で燻ったままの怒りは治まり切らず、彼は閉めていた襖を乱暴に開けて室内に入ると、向かいの壁まで歩いて太く黒ずんだ柱に向かって思い切り拳を叩きつけた。
「くそっ」
吐き捨てた声で自分の心臓もまた震える。身体の端々まで届いた振動に熱っぽい息をひとつ吐き、獄寺は壁に片手を置いたままずるずると膝を崩してその場に屈みこんだ。
あんな風に言うつもりはなかったのだと、今更後悔したところで、全ては後の祭り。
右の膝を立て、左足は畳に投げ出し、背中は柱へと。開け放った襖からは影の濃い庭の穏やかな景色が、昨日までとまったく変わりなく広がっている。項垂れたまま外を眺めていれば、つがいだろうか、二羽の雀が仲よさそうに戯れていた。
綱吉に言った言葉は、全て本音だ。隠し続けてきた、自分の汚い部分。今まで誰にも曝け出したことのない、自分自身でも意識してこなかったものを、何故か綱吉の前では隠し通すことが出来なかった。
どれだけ彼の境遇を羨んでも、憎んで妬んでも、それが自分の人生と置き換わるなんてあり得ない。だから彼を責めるのは筋違いと言うもので、過ぎた時間が取り戻せるわけではないが、後悔は後から降って、降って、降り積もり、獄寺の脳裏へ暗い影を落とした。
「ああも正面切って言われると、きついよなー」
顎を仰け反らせて天井を向きながら呟く。思い出すのは雲雀の言葉だ。
言われなくても、ひょっとして自分が原因なのではないかくらい、分かっていた。自分が何かをしでかした覚えはないけれど、倒れたと知らされた人々は、この村へ来てから自分が接触した人たちばかりだったからだ。
三浦の先生然り、ハル然り。札に使う硯と墨の仲買を頼んだ人に、沢田家へ上がる前に宿を借りた家。更には農作業中に道を問うた人も体調を崩しているそうだし、それに、奈々だって。
綱吉も悟られぬようにしているが、明らかに調子が悪そうだった。現に獄寺が見ていないと綱吉が思っているところで、だるそうに雲雀へ寄りかかっている姿を、何度か目撃している。だが今のところ雲雀が、そしてなによりも獄寺自身が、全く変調を来たしていなかったので、これまで全てを繋げて考えなかった。
考えないように、していた。
存在が疎まれて、嫌悪されるのには慣れている。何処に居ても、何処へ行っても、ずっと同じだったから。だが今回のような、何かをしたつもりはないのに、気がつけば周囲へ悪影響を及ぼしてしまっていた、だなんて、無かった。
父が倒れたり、世話人が病に伏したりした試しは無い。ただ腫れ物に触れるような、一歩距離を置いた接し方しかされて来なかった。それを思うと、単に知らないから、だけなのかもしれないが、綱吉が親しみを持って接してきてくれるのは嬉しかった。
知られたくない、気づかれたくない。
嫌われたくない。
彼もきっと、同じだ。自分の出自を知り、この身体に流れる汚らわしい血の由来を聞けば、離れていくに違いない。漸く手に入れた心安らげる地が、あっという間に瓦解していくのが分かる。壊したのは、他でも無い自分。
獄寺は両手を掲げると、乱暴に頭を掻き毟った。肩に触れる寸前まで伸びた髪が、ぐしゃぐしゃに乱される。指先が黒く染まり、色素が薄れた部分から銀の輝きが漏れているのさえ構わずに、彼は声にならない嗚咽を漏らして後頭部を強く柱に打ち付けた。
繰り返し脳裏を駆け回る記憶。遠い過去、近い過去、思い出したくもない出来事、苦しいだけの日々。純粋に生きるのを楽しんだ時間など、本当にごく僅かしかない。そのうちの大半が、この村へ来てからだという現実が重く獄寺に圧し掛かる。
与えられた任務など忘れて、ずっと彼と一緒に居られたら。そんな事を考えたりもした。それが叶うはずもないと知りつつも、願わずにいられなかった。
チチチ、と鳥の囀る声がする。痛む頭皮から手を外し、呆然と黒く染まった掌を見ていた獄寺は、虚ろな瞳で明るさが残る軒下へ視線を向けた。開け放たれた空間の中ほどに、一羽の鳥が在った。不気味さが漂う黒と灰色の羽を時々広げ、紫の丸い瞳が暗闇に潜む獄寺を見据えている。
ゾッと、背筋に悪寒が走った。全身の皮膚が毛羽立ち、呼吸が止まりかけた一瞬の間に恐怖心だけを残して鳥の姿が掻き消える。否、立体を形成していたものが支えを失い、平面に崩れ落ちたのだ。
「……相変わらず」
瞬間的に獄寺を襲った圧力から解き放たれ、彼は深く安堵の息を零しながら浮いた冷や汗を拭い取る。まだ拍動激しい心臓を宥めながら重い体を叱咤して立ち上がり、廊下へと出て足元に転がっている紙を拾いあげた。
縦長の長方形をしたそれは、上向いていた面に蛤蜊家を表す文様に似た図柄が描かれている。言わずもがな、あの家に仕える人間が放った式神に他ならない。獄寺は文様の特徴を読み取りながら踵を返すと、後ろ手に襖を閉めた。
袖口に手を入れて符を取り出し、それを用いて行灯に火を灯す。暗くなった室内がそこだけ明るく照らされて、橙色の炎が風も無く揺れるのを少しの間眺めてから、獄寺は近くへ座り直し蛤蜊家から放たれた式神だったものを裏返した。
墨で薄く記された文字。瞳を細め、紙を光に晒し、一文字ずつ読み取って脳裏に刻む。声には出さない、いや、出せなかった。
「え……?」
たった一言、簡潔すぎる指令を読み終えた獄寺が疑問の声を零し、もう一度、もう二度、と幾度となく書面に記された文字を読み返す。だが、何度見返したところで書かれている内容は変わらない。炎に翳せば違って見えるのでは、と馬鹿げた想像も働かせてみるが、結果は同じだった。
最も恐れ、危惧していたものが現実となって獄寺の前に落ちてきた。勝手に文を握る手が震え出す。熱くもないのに全身から汗が噴出し、むしろ心は極寒の冬に舞い戻ったようでただ、寒い。
そんな馬鹿な、あまりにも結論を出すのが早すぎる。確かに日々の報告で、綱吉の凡庸さと未熟さを指摘したりはしたが、そのまま継続して監視を続けるよう、という趣旨の返答があるばかりで目ぼしい反応はこれまで一度も無かったのに。
何が悪かったのだろう、どれが引き金になったのだろう。
「俺が……やる、のか?」
やれるのか?
震える指先が唇を辿り、顎から鼻先までを掌が覆い隠す。愕然と見開かれた瞼は瞬きを忘れて瞳を乾かし、微かな痛みを感じても目を閉じて現実から顔を背けられそうになかった。
もういいではないか、蛤蜊家など関係ない。逃げ出してしまえ、これまで十分尽くしてきたではないか、命令に従い続ける義理など残されていまい。
心の中で低く囁く声が聞こえる。
そんな事をしては駄目だ、絶対に駄目だ。蛤蜊家の命令は絶対だし、あそこの傘を飛び出してその先どうするというのだ。生きていく糧を持たず、職も無く、家も無い自分は野垂れ死ぬ以外に道は無い。
けれど、あの男をもう父だとは思っていないのだろう? 反論を試みる声を嘲笑い、自分ではない自分が言葉を紡ぐ。獄寺は再び頭を抱え、背を丸めて膝に額を押し付けた。
蛤蜊家の力の大きさは、その末端に在しているだけの獄寺もよく分かっている。全国各地に支部があり、多くの退魔師が籍を置く。この家に逆らった退魔師に仕事が回ってくるわけがない、ましてや獄寺はまだ正式に独り立ちが許されたわけではなく、父親の庇護の下修行中という立場なのだ。
蛤蜊家から下される命令は絶対であり、反論は認められない。力が強い方が弱いほうを支配するのは自然の法則で、獄寺は言うまでもなく、弱者に属している。
力を欲し、権力を求めた父。その道具として生み出され、育てられ、その為だけに存在が許されている自分。今此処で逃げ出すというのは、己の存在そのものを否定する行為にも繋がりかねない。
自分が、何故、生きているのかさえ、分からずに。
ただ、命じられるままに、望まれるままに、生きて。
それが、全てで。
「俺が……やる、のか」
蛤蜊家の当主はこの国全ての退魔師の頂。力無いものに、その任は勤まらない。
綱吉には、透魔の力はあれど退魔の力は無い。
彼に、強さは、無い。
だから、彼は相応しくない。
そう、ただ、それだけの事。
それだけの理由。
それで、十分。
自分は考える必要などない、自分は強い者に使われる駒だと実感しろ。思考は不要、判断は上が下す。ただ命令に従い、実行し、成功させる、そのことだけを考えていればいい。
自分には他に道がない、悔しいがこれが現実なのだ。
誰にも変えられない、生まれた時から定められた、運命。
「……はっ」
考えれば考えるほど、馬鹿らしく思えて獄寺は息を吐いた。肌に色が移るのも構わず顔を両手で覆うと、わけもなくこみ上げてくる笑いを必死に押し殺して、彼は腹の底から這い出ようとしている吐き気を飲み込んだ。
命令は下った、あとは動くだけ。
いつやる、いつを狙う。
早いほうがいい、下手に疑われている以上行動は迅速に、正確に。綱吉自体に力が無いのは確認済みなので、雲雀にさえ気をつけていればどうとでもなる。奴が綱吉から離れる隙を狙うか、それともおびき出すか。
大事な話があると誘えば、彼は乗るだろうか。今回の騒動の原因が分かったとでも言えば、お人好しの彼の事、ほいほいついてくるに違いない。だが雲雀が傍に居ては、あの男も一緒に来ると言い放つだろう。やはり夜を待ち、ふたりが寝静まったところを狙う方が良いか。
「眠り薬は……少しなら、あったな」
せめて苦しまずに送ってやろう。出来れば彼が寂しくないように、雲雀も、一緒に。
ぼっ、と音を立てて行灯の火が消える。獄寺は立ち上がると、己の荷物をしまった行李の蓋を開けた。
その日の夕食は、獄寺が用意した。
ハルが倒れたと聞いた奈々が無理をして起きあがって来たのだが、案の定途中で足を縺れさせて倒れ、その場に居合わせた獄寺が後を引き継いで完成させた食事は、どうにか食べられる、という味付けだった。
だが雲雀が作っても、綱吉が作ってもきっと同じ結果だっただろう。綱吉は元々食が細いので二口ほど食べて終わらせてしまって、それが終わる頃にやっと顔を見せた雲雀が、大量に残っていた鍋の中身をほぼ全て片づけた。
その間に交わされる会話は全く無く、綱吉が簡単に食事を終えさせてしまったのも、この重苦しい空気が原因だったのは否めない。
「ごちそうさま」
椀に沢山残したままなのは忍びなかったが、食欲が無いのは仕方がない。黙々と胃に食べ物を流し込める強靱な精神力が羨ましくてならず、綱吉は恨めしげに雲雀を睨んでから立ち上がった。視線だけを持ち上げた獄寺が遠慮がちに、もう良いのかと問うので頷いて返し、もう一度「ごちそうさま」と唇だけを動かして呟く。
傍らに座していた雲雀もまた、綺麗に空にした椀と箸を置いて胸の前で両手を合わせた。
「すみません、こんなものしか作れなくて」
味の感想は求めなかったが、食べている反応で知れて、獄寺は苦笑した。自分でも食べてみて、もうちょっとまともな味になると期待していたのに、残念でならない。だが綱吉は口元に優しい笑みを浮かべ、静かに首を横へ振った。
「ううん、有り難う。俺が作ったら、きっと食べられたものじゃなかっただろうし」
生来の不器用さは自分でも認めているので、綱吉は獄寺の配慮が嬉しかった。雲雀も礼こそ言わなかったが不味いとも言わず、合わせていた手を解くと綱吉同様に立ち上がる。
そしてまた、沈黙が。
綱吉は胸の前で指を弄りながら、雲雀と獄寺と何もない場所を右から順番に眺めて、最後にまた己の指を見下ろし、これではだめだ、と首を横へ振った。
「ええっと、あの……おやすみ」
「はい、お休みなさい」
片づけを始めようと片方の膝を立てた獄寺が、綱吉ににっこりと笑いかけて言葉を返した。
機嫌が悪いわけではないとその表情で判断した綱吉は、手を下ろして重ねて「お休み」と口にして茶の間を出て行った。二歩半遅れて雲雀も彼を追って歩き出し、草履を履いて土間に降りる直前、一度だけ獄寺を振り返った。
だが彼は何も言わず、彼は食べ終えた食器を集めている獄寺を一瞥しただけで、開けっ放しになっている勝手口を抜けて戸を閉めた。
物音を見送って静寂が場を包み込むと、獄寺は薄闇を見つめ、瞳を細めて綱吉が使っていた椀をそっと、大事そうに撫でた。
「おやすみなさい」
どうぞ、どうか、良い夢を。心の中で呟いて。
獄寺は顔を上げた。
そうして幾ばくかの時が過ぎ、草木も眠る丑三つ時を過ぎた頃――――
部屋でひとり眠る綱吉の頭上に、銀の光を宿した刃が翻る。
2006/12/25 脱稿