闇の中、細い行燈の明かりが朧気にその場を照らし出している。
「まっこと、情けなきものよ」
姿なきまま、コロコロと喉を鳴らして笑う声がする。
「ほんに、父子共々なんと役立たずな事」
また、違う声。渋みのある大人の男の声が響いたかと思いきや、その反対側からは枯れかけた古木を思わせる老人のしわがれ声が灯火を小さく揺らした。
「して、如何なされるおつもりじゃ」
「無能者に、用はなかろうて」
返す言葉は静かに、しかし絶対の意志を秘めて放たれる。下方で僅かに身じろぎする者の気配があったが、誰一人それに構おうとはしない。果たして、この深き闇の中にどれだけの人間がいるのか、それさえも分からない。
カタカタと空気を震わせ、男が床にひれ伏している。額をこすりつけ、面を上げる事もままならず、ただ小さく身体を丸めている。
「それにしても、沢田の倅は存外にしぶといのぉ」
感心しているのか、いないのか。揶揄を込めた甲高い男の声に、同意するように風が揺れた。
「全くで。身体が弱いというのは嘘であったのかの」
「報告を信じる限りは、多少効果が出ているようだがの。それでも、予想していたよりも随分と遅いようだ。こちらが穏便に事を済ませてやろうとしておるのに、余程苦しみを長引かせたいらしい」
「せめてもの情けをくれてやっておるというのに、恩知らずな子童め」
「しかし、こちらとしても余り表だって事を荒立てたくはないしのぉ。大人しく病に伏しておれば良いものを」
「そうそう、忘れるところであった。獄寺殿も、そろそろ家を引き払って奥方の元へ戻られては如何かな? おや、これは失礼。そなたの奥方は確か……」
ひっ、と下座の男が大きく肩を震わせた。その様を眺め、男、或いは女が隠そうともせぬ笑みを口元に浮かべた。
「苦心の末に作られたご自慢の息子殿であったようだが、これでは、のぉ……?」
「そ、それは……。何卒、何卒しばしのご猶予を!」
「おお、なんと見苦しいこと」
「禁忌を犯したそちの罪、これしきで償えるとでも思うておったか」
「だが、そうだな。そなたの息子にはもう一働きして貰う事としよう。なぁに、理由など後からどうとでもなる。その命、我等の役に立てるだけでも有り難く思うが良い」
カラコロと、声が笑う。
闇が、嗤っている。
「左様」
今までにない声が、短く。若い、女の、ひとり、もしくは数多のそれ、が。
「蛤蜊家十代目は、あのお方こそ、真に相応しい」
厳かに闇に響き、消えていった。
春嵐~第三夜
当初危惧されたようなことは何も起こらぬまま、時間だけが過ぎていくかのように思われていた。
獄寺には特に怪しい動きもなく、時折里へ降りたりはしているようだが、それも必要なものを購入するためだったり、または奈々に遣い頼まれてのことが大半。それ以外だと彼は日中から部屋に篭っていることが多く、何をしているのかと問えば書を読んだり、札を作成したりしているのだと言った。
呪符の作成には集中力と、雑念を払う空気が必要だと知っているので、断りがあればその間は綱吉や雲雀、奈々も彼の部屋へは近づかない。彼の能力が炎に準ずるものだと知れた後、綱吉が彼に炎術の実践を乞うたことがある。獄寺は見世物ではないと苦笑しながらも、小さな火花をいくつか散らす技を披露していた。
それだけ、ならば問題は無い。
「お前とは相性悪いな」
遠巻きに眺めていた雲雀の傍らで、リボーンが含み笑いを隠そうともせずに呟く。縁側に足を投げ出し、立てた肘に頭を置いて寝転がっていた彼は、むすっとした表情で相槌さえも返さない。
綱吉は大喜びで手を打ちながら、もっともっと、と獄寺にせがんでいる。榊の枝の霊力が無ければ近づけなかった当初と比べれば格段な進歩ともいえるが、雲雀としてみればこの光景は、かなり面白くない。
しかも獄寺は綱吉に構われると、雲雀と相対する時とは打って変わって嬉しそうな、年相応の少年の顔を見せるようになっていた。まだ完全に打ち解けたとは言い難いが、同年齢の綱吉にだけはかなり心を開いている様子だった。
ただそれでも、獄寺の瞳にはどこか暗いものが宿っているのをふたりとも感じ取っていて、獄寺も此処へ来る以前の話はあまり触れたがらず、不意に会話が途切れてちぐはぐな空気を漂わせてしまうことも実際は、多かった。
そんな具合で数日が過ぎ、十日も過ぎ、庭に香っていた梅の花が淡い記憶を残して花びらを散らせた頃。綱吉が蛤蜊家十代目に任ぜられてからほぼ一月、獄寺が沢田家にやってきてからだと二十日近くが経過しただろうか。
奈々が、倒れた。
数日前から体調が宜しくなかった彼女は時折激しく咳き込んでいて、綱吉のみならず他の面々も酷く心配していた矢先だった。庭先に設けた小さな菜園で倒れているところを綱吉が見つけ、悲鳴を上げたのが事の発端。彼女は大事無いと言い張ったものの、微熱が続いていた所為で体力は弱まり、立って歩くのもやっとという状態にまで陥っていた。
何故こんなになるまで気づけなかったのかと息子の綱吉はひたすら悔いたが、母としての強さが前面に出て気丈に振舞っていた彼女を責めるわけにもいかない。気づかなかったのは皆の責任だと雲雀が震える肩を支えれば、綱吉は堪え切れなかった涙で頬を濡らし、重苦しい中にも漂う一種の艶ある空気に耐えられなくなった獄寺が、無言のまま席を立つ。
その背中を射るような瞳の雲雀が見詰めていたのを彼は気づいていたが、語る言葉を持ち得ない獄寺は黙って自室へと戻っていった。茶の間に残された雲雀は、そこでやっと、苦しそうに熱が篭った息を吐いた綱吉の背中を、ゆっくりと撫でさする。
「……限界まで我慢する必要は無い」
「分かってます、けど。でも」
榊の枝の効力が弱まっているのか、それとも獄寺が放つ気配の毒性が強まっているのか。どちらにせよ、奈々のみならず綱吉の身体もまた、表に出にくい部分から如実に悪化の一途を辿っていた。
獄寺がどう動くかが分からぬ以上、下手に刺激を与えるべきではないという見解でふたりは一致していて、だがそれでは綱吉にばかり負担が掛かりすぎるのが雲雀には不満だった。更に綱吉は、獄寺が原因で自分が弱っていることを本人に知られたがらなくて、強固なまでに平常を彼の前で装いたがる。細かく震える綱吉の肌を布越しに受け止め、雲雀は重苦しい息をひとつ吐き出した。
奈々の体調が思わしくない上に、綱吉もこの有様。獄寺は屋敷から離れる様子もなく、故に雲雀も此処を長く離れられない。しかも悪いことは重なるもので、山裾に広がる村の住人にも何人か、ここ最近急に調子を悪くして寝込む者が出ているのだとか。
微熱が続き、倦怠感が全身を襲う。立って歩くのにも苦労し、食欲が乏しく時折激しい吐き気に苛まれる。綱吉の不調とは異なるけれど、奈々の症状には一致していて、それが雲雀の機嫌を益々損ねさせていた。
理由は全く不明。流行り病の一種であるかとも疑われたが、近隣の村々で同様の被害は報告されておらず、また症状が現れている者と同じ屋根の下で生活していても発病しないものもいて、如何せんはっきりしない。
原因が分からない以上手の施しようもなく、死に至るまでいかずとも、不安は周囲に伝染する。中には誰かが呪いをかけたのだといった手酷い噂まで流れ始めていて、余計に綱吉の不調は里の人間に知られるわけにいかなくなった。
沢田家はこの近辺を実質的に支配し、守護する存在。霊山の中腹に居を構え、並盛神社の神主も兼任する家のものが、里の人間と同じ病に平伏していると知れたら、現当主には里を守り抜くだけの力が無いのだと揶揄されかねない。
付け加えるとして、もし本当に村人の不調の原因もが獄寺にあった場合も、若干の問題を生むだろう。
彼は現在、沢田家の客人という扱いで知られている。その彼が病魔を撒き散らしたと知れたとしたら、彼を匿っていたとして沢田の家は里からの信頼を失う。
どちらに転んでも余り良い結果とはならない。考えるだけでも気が重くなって、肩を落として嘆息した雲雀を、胸元から顔を上げた綱吉が見詰める。
「ヒバリさん?」
不安の混じった声色に、雲雀は重ねて彼の背中を撫でた。柔らかな手首が上下に揺れ、そこから流れ込んでくる彼の気配に綱吉はホッと息を吐く。まだ辛そうにしているものの、表情は最初に体重を預けて来た頃からは幾分ましになっている。額に浮いていた汗を拭い、肌に張り付いた髪を払いのけてやると、彼は甘えるように目を細め、雲雀の手に頬を摺り寄せた。
柔らかな頬を軽く抓り、クスクス笑みを零す綱吉の柔らかい髪を撫でる。胡坐をかいている雲雀の膝に上半身を委ねている綱吉は、空いた両手で彼の膝を抱きながら、ふと遠い場所へと心を飛ばした。
「本家は、俺をどうしたいんだろう」
ぽつりと零れ落ちた、綱吉の一番の疑問。
蛤蜊家とは、近隣一帯のみならず全国に跨って退魔師を統括する一族の総本家。現当主である九代目は病に伏し、後継者となるべき彼の息子は数年前から行方知れず。その為新たに選び出された十代目候補が彼、沢田綱吉。
退魔の力を全く有さない、しかし蛤蜊家初代に匹敵するだけの透魔の力を秘めていると目される彼は、まだ齢たった十四の少年だ。
この、蛤蜊家に連なる数多の分家を差し置いて唐突に選び出された少年の存在は、九代目を囲む古老の人々にも大きな動揺を与えたことだろう。誰にも相談無しの九代目が独断で決定したという後継者は、それまで長く本家から蚊帳の外扱いを受けていた分家中の分家の末裔。だが近親相姦や血の繋がりを重視する余り、すっかり乱れきってしまった本家の血脈から見れば、純粋なまでに初代に連なる血筋を保ち続けている沢田家は、ある種希少な存在だと言えなくはない。
それでも多勢にしてみれば予想外の展開で、困惑は決定から一月が経過した今も納まっていない様子。それとも、既に動き出していると読むべきか。
まだ候補という状態ながら、他に九代目が誰かを選出する気配は無いようで、もし綱吉が十代目を継いだ場合は是非自分を後見人に、側近に、と請う書状は何通か届けられている。面会を求めてくる相手も何人かいたものの、まだ本決まりでもないのに袖の下を渡されるのは不都合も多く、何より綱吉本人が大層嫌がった。
媚を売る大人は雲雀や奈々も嫌いで、自分達の静かな生活が脅かされつつある現状は決して喜ばしいものではない。
また、あれ以後本家からは何の通達もなく、獄寺も何も言わない。護衛が必要になるような敵襲が在るわけでもなく、彼の存在もまた宙ぶらりんだ。
雲雀の太股に頭を乗せ、綱吉は床の木目を指でなぞる。ぐるぐると円を描く彼の指先から視線を逸らした雲雀は、両腕を後ろについて背を反らし天井を見上げた。
本家の意思なんて、雲雀にだって分からない。そもそも興味なんてこれっぽっちも無く、彼はただ綱吉の傍に在れたならそれだけで満足だった。
「さあね」
だから返す言葉もつい素っ気無いものとなり、聞こえた綱吉は唇を尖らせながら寝返りを打った。衝撃で太股への荷重が大きくなり、雲雀が眉根を寄せていると、仰向けになった綱吉と目が合う。にっ、と口元を横へ伸ばして笑っているので、本気で拗ねたわけではなさそうだ。
腕を一本床から解放し、肘を曲げて立てた人差し指で鼻の頭を擽ってやる。綱吉は肩ごと体を丸めて笑い、逃げようと左右に幾度と無く体を揺らした。
「本家がどう動くかは別として、今は先ず、村の状態をどうするかが先だろうね」
「うん……」
綱吉が自由に動き回れないと、雲雀も身軽にあちこち飛びまわれない。リボーンの存在も村ではあまり広く知られていないし、奈々は床に伏したまま。獄寺に頼むわけにもいかないので、情報収集さえ後手に回らざるを得ない状況。ここ最近は式を飛ばして村の様子を窺っているものの、それだって完全ではない。
なにより、現当主である家光が不在なのが痛い。
「せめて山本がいてくれたらな」
気弱な声で綱吉がとある人物の名前を呟く。数ヶ月前まで、今は獄寺が使用している部屋を間借りして等しくリボーンの修行を受けていた上背のある人物が咄嗟に思い浮かび、雲雀の手が止まる。だが綱吉は気にする素振りもなく、同じく思い出した顔へ嬉しそうに眉尻を下げた。
リボーンからお墨付きを貰い、修行の旅に出ている幼馴染。人好きのする笑顔を浮かべ、憎めない性格をしているが故に雲雀にとっては始末の悪い男。しかも実力はリボーンも認める程で、退魔の力は決して血脈から生まれ出てくるものではないというのを、身をもって証明している。
蛤蜊家が拘っている血の濃さとは無縁でありながら、恐らくは蛤蜊家の末席に在しているような、威張り散らすしか能が無い輩よりもずっと彼は強い。その上判断力にも優れ、決断力もある。黙っていても頼りになる男というのが綱吉の、山本に対する印象であり、それは概ね間違っていない。
だから雲雀は彼が気に食わないのだが、山本がいなくなって以後雲雀も体術の稽古相手がリボーンしかいなくなって、退屈しているのもまた事実。
「あいつか」
今頃、どこで何をしているのか。人に好感を抱かれるのが得意な世渡り上手な彼の事だから、食べるに困っているとも考えにくい。大方上手い具合に仕事を引き受けつつ、鍛錬を続けているのだろう。
「元気にしてるかな」
「死んではいないだろうよ」
綱吉は身体を静止させ、真っ直ぐ上へと右腕を伸ばし、指を広げる。外から差し込む光を浴びて黒ずんだ輪郭を描き出す五指を右から順番に眺めた彼の言葉に、随分と意地悪な相槌を返して雲雀は休めた手を綱吉の額に置いた。
心地よさそうに綱吉が目を閉じる。雲雀の指は冷たくて、火照った肌から熱が逃げていくのが気持ち良い。
正直なところ、雲雀は綱吉が山本に頼りたがっているのは気に食わない。とはいえ、彼が居てくれたならば、今の状況も随分と違ったものになっていただろうとは予測できて、気持ちは複雑だ。雲雀は人間があまり好きでは無いし、綱吉も人付き合いが得意な方ではない。社交的な面がある山本ならば、或いは獄寺とももっと上手く接せられたかもしれない。
居ない人物を引き合いに出して、ああだこうだ言っていても詮無いのだけれど。
ふたり同時に溜息が漏れて、先に綱吉が噴き出す。
「夕食、どうしよう」
「作るしかないだろう」
「……そりゃ、そうですけど」
奈々が起きて来られない以上、食事の支度は残る男性陣の仕事。味は期待しないでくれ、と口の中で呟いて雲雀は綱吉を膝から降ろし、立ち上がった。床に座り直した綱吉が見上げる前で、裾の乱れを整えた彼は前髪を緩く指先で掬い上げ、耳元へと流す。
「ヒバリさん?」
「少し外に出るか」
いつものように袖口へ交互に腕を通し組んだ彼が、右手に広がる裏庭を眺めて呟く。綱吉が即座に返事をしなかったのは、奈々のことが気に掛かるからだろう。躊躇して瞳を左右に流した彼に、雲雀は膝を折って綱吉と視線を合わせた。
「神社くらいなら平気だろう。ついでに榊と」
庭を走る小川を越え、雑木林を経て敷地が繋がっている並盛神社。距離にすればそう遠くない場所だが、景色が一変するのでちょっとした気分転換には丁度良い。それに病気の原因が分からない以上手の施しようが無い今、祈るくらいしか出来ない綱吉の気持ちを慮っての彼の言葉に、瞳を浮かせた綱吉は一呼吸置いてから深く頷いた。
両手で床を押し、腰を浮かせて立ち上がる。だが膝が笑って途中で崩れそうになったのを、横から伸びた雲雀の腕が綺麗に支えてくれた。
「有難う御座います」
左足を軸にして彼の腕に縋りながら顔を上げると、思っていた以上に彼は腰を屈めていて視線が近い。反射的に目を閉じた綱吉だけれど瞼に一瞬だけ口付けられただけで、内心残念に感じながらどうにかひとりきりで床に立つ。
頭がくらりと来たものの、何とか歩けそうだ。具合を確かめて一歩足を踏み出すと、様子を見守るだけの雲雀が手を差し出す。遠慮なく握り締めると、珍しく緊張しているのか彼の指には力がこめられていた。
「大丈夫ですよ」
安心させてやろうと微笑みつつ言うと、彼は僅かに朱を走らせた頬を背け歩き出す。前に引っ張られたので反射的に反対の足が前に出て、その動作のまま綱吉も彼に付き従って進んだ。
玄関から外へ出ると、陽射しは柔らかく千切れ雲が幾つも空に浮かんでいる。時折吹く風は適度な湿り気を帯びて肌に張り付き、手で払うと逃げていく感じだ。深呼吸すると、胸がスウッとする。
庭は木立に囲まれているので、高い場所にあるに関わらず里の様子は此処からだと分からない。草履を履いた時に手を放してしまいそのまま距離が開いた雲雀は、ぼんやりと佇む綱吉を待ち、少し先に行ったところで雲を見上げていた。風に流されて西から東へ漂うそれらの行方に目を細め、袖から抜いた指をいくつか折り畳んでいる。
「今年の雲は、どうです?」
我に返った綱吉が彼との距離を詰めて問う。首の向きを正面に戻した彼は、綱吉の問いかけに「悪くない」とだけ答えた。乾いた土を草履の裏で擦り、鳶色の着物を揺らす。綱吉はその斜め後ろを、ゆっくりと離れすぎない調子で追いかける。
特別会話は無い。ふたりの間には独特の空気が流れ、久しぶりの感覚に綱吉は薄く瞼を閉ざした。
右手を持ち上げ、彼の袖を捕まえる。後ろから引っ張られて雲雀は僅かに首を傾けたが、矢張り何も言わぬまま歩を進め続けた。
庭園を走る小川の飛び石を越え、緑深く静謐に包まれた砂利道をゆっくりと行く。大きく枝を広げた樹木は互いに重なり合い、上を見上げても木漏れ日が目に染みるくらいで陽射しは殆ど感じられない。緑の屋根の下を歩いているようで、左右交互に眺めているうちに足元が疎かになった綱吉は落ちていた小石に蹴躓いた。
「うあっ」
がくん、と膝が崩れてみっともなく悲鳴を上げながら顔から倒れこむ。袖を掴まれたままだった雲雀もまた、左側に大きく体が傾いたが、こちらは倒れる事なく重心を下げることで耐えた。綱吉が雲雀の袖を放さなかったのだけは、彼の根性の賜物だろう。
お陰で縫目が裂けた。
「……」
「すみま、せ……ん」
それでも尚無言の雲雀が少し怖い。
肘についた砂利を払いもせずに反省の弁を述べた綱吉は、自分の痛みは堪えながら裂けてしまった雲雀の袖刳りを気にして即座に立ち上がる。雲雀の着物は左肩の部分が完全に開いて、千切れた糸の端が渦を巻いて布からはみ出ていた。上腕部に固定して隠し持っている彼愛用の拐までもが綱吉の視界に納まって、どうしようと狼狽する彼へ雲雀がついぞ溜息を零した。
「いいよ、これで死ぬわけじゃなし」
どの道家光が若い頃に着ていたもののお下がりだ。布も脆くなってきていたところだし、新しいものを出すのに丁度良い。呆れ半分に言われ、綱吉は益々落ち込みながらしゅん、と俯いた。
風が吹く。見上げた先、神社までの距離はもう少し。
綱吉は屋敷へ戻ろうと提案したが、此処まで来て帰るのは勿体無いと雲雀は構いもせず半端に垂れ下がっている左袖を捲り上げた。だが固定が緩いのでどうしても勝手に解けてしまう。幾度か同じ作業を繰り返し、最後は諦めて布がなりたい形に任せることにした。
綱吉はどことなく居た堪れない気持ちを抱きつつ、林の小道を抜けて唐突に開けた視界に目を細めた。
足元が踏み固められた薄茶色の土から、白く細かな砂利に切り替わる。凹凸を足裏に感じ取りながら更に進めば、角形に切り出された石の敷き詰められた参道に合流する。左を向けば朱色の鳥居が聳え立ち、反対に視線を転じると、参道をずっと抜けた先に白壁に丹色の縁取りがされた本堂が。
数年前に壁は塗り直されたばかりで、見た目は真新しいが近くで眺めれば建立されてからかなりの年月が経過しているとすぐに分かる。短い石段が手前にあって、礎石の上に居並ぶ柱がどっしりとお堂を支えている。石段上がって正面に賽銭箱が設けられ、吊るされた鈴の足元に人影があった。
高い位置で黒髪を結い上げた少女。なにやら熱心に祈りを捧げており、声を掛けるのを躊躇させる雰囲気が背中にはある。
「あれ……」
沢田家の屋敷と神社とを繋ぐ細い道は、境内のほぼ中腹に接続している。遠くから見つけた背中には覚えがあったが、見間違いだろうかと綱吉が目を瞬かせている間に、彼女は両手を解き顔を上げた。振り返ると同時に、あちらも綱吉たちの存在に気づいたようだ。
よく知った顔。広めの額にふっくらとした頬、やや赤みが残る表情はひょっとしたら泣いていたのかもしれない。だが普段から気丈に振舞いたがる彼女はそんな素振りを欠片も残さず、裾を抓んで軽い足取りで石段を駆け下りて来た。
「ツナさーん!」
右手を持ち上げて大きく振り回し、年頃の少女としてははしたないと言われそうな大声で綱吉を呼ぶ。顔はどこまでも嬉しそうだ。
「ハル、お参り?」
「はいですー」
境内には他に人気もない。肩を上下させて呼吸を整えた彼女は、綱吉の質問に元気良く答え、それから傍らに控えている雲雀にも小さく会釈した。だが視線はあくまでも綱吉に集中しており、雲雀がやや距離を取ったのにさえ気づかない。
「こんなところでツナさんに会えるだなんて、ハル、運命を感じてしまいます!」
「そんな、大袈裟な」
両手を胸の前高い位置で絡ませて瞳を輝かせ、感激を隠しもしない彼女は、明らかに綱吉に好意を向けている。綱吉もそれが分からないではないが、過激すぎる彼女の感情は時に暴走し、その度に綱吉は実際酷い目に遭ってきた。
好感を抱かれるのは嬉しい限りだが、節度は保って欲しい。今もぐいぐいと綱吉との距離を詰めようとするハルに対し、気圧された綱吉の足は勝手に後ろに下がっている。
助けを求めようと流した視線の先、雲雀は我関せずの態度で本堂手前に生える榊の木へ近づいている最中だった。思わず綱吉は心の中で舌打ちする。役立たず、と敢えて伝心で聞こえるように罵って舌を出してから、慌てて目の前の相手に意識を集中させた。
「そ、それよりもハル。珍しいね、神社まで来るなんて」
並盛山は里の中心部からは若干離れている。更にその上に設けられた神社へ来るには百段以上の石段を登らねばならず、村人も特に用事が無ければあまり立ち寄らない場所だ。里には地蔵尊と稲荷もあるので、日常的な村人の信仰心はそちらに向けられる場合が多い。
当然ハルも、普段拝むのはお地蔵様、年に数回祭りと正月の時だけは並盛神社、と分けて考えている筈。綱吉が理由を問うと、彼女は急に沈んだ表情を作って口元に親指の背を押し当て、俯いた。
周囲の空気が途端重くなる。
それまで無視を貫いていた雲雀までもが、変化を察して振り返った。けれど様子を遠巻きに眺めるだけで、戻ってくる気配は無い。
「はい、あの……ツナさんは、今、里で流行っている病気、ご存知ですか?」
ぼそぼそと潜められた声で問われる。
「え? あ、ああ、うん。一応」
「ですよね」
知らないわけがないと言いたげな視線を向けられ、一瞬惚けてしまっていた綱吉は彼女を直視できず、顔を逸らす。雑木林と反対側は真っ青な空が広がっていて、遠くに小さく集落が見えた。山に囲まれた盆地は広いようで狭く、狭いようで案外広い。
ハルの家は、この村で寺子屋を営んでいる。彼女の父は外から移住してきた武士の末子で、村の片隅に小さな庵を置いて慎ましやかに生活していたのだが、請われて子供へ教えるようになって今に至っている。綱吉も少し前まではそこへ通っていた。雲雀や山本も、また。
今はもう出向く機会は減ってしまったが、稀に雲雀が本を借りに行くことがあって、綱吉もついていったりする。そういえば獄寺も、この話を聞いて一度か二度、彼女の家を訪ねてはいなかったか。
「それで、うちの父も……」
やや言い辛そうにハルが視線を泳がせる。唇へ指を押し当てているので、若干声はくぐもっていたものの、彼女が発した内容は十分すぎる衝撃で綱吉の頭を打った。
「先生、も……?」
「はい。五日くらい前からずっと、伏したままで」
中空を彷徨ったハルの左手が綱吉の手首を掴んだ。無意識だったのだろうが、その予想外の強さに綱吉は肩を強張らせる。
「熱冷ましを煎じてみてもちっとも良くならないし、粥を食べても直ぐ吐いてしまって、どうしようもなくって。もう神様にお願いするしか私、分からなくって……っ」
ハルの悲痛な声が胸に突き刺さる。彼女が握り締める綱吉の腕は骨が小さく悲鳴を上げ、痛みを堪え彼は奥歯を噛み締めた。
ここで彼女の手を振り払うのは簡単だが、それでは切羽詰って神仏に縋る以外道を見出せなかった彼女をも突き放す行為になりかねない。だから黙って受け止めていると、堪えきれない嗚咽が彼女の唇から零れ落ち、大粒の涙が赤い頬を濡らした。
今にも崩れ落ちそうな彼女の身体を自由の利く手で支える。見た目以上に細い身体は押せば直ぐに倒れてしまいそうで、彼女がどれだけ父親の無事を祈ってやまないかが分かるだけに、不用意な慰めも口に出来ず綱吉は天を仰いだ。
出来れば獄寺を疑いたくはない。けれど彼が来てから、少しずつ色々なことがおかしくなっている。綱吉、奈々、そして村人の体調不良、原因不明の病。田植えの時期も迫っており、今人手が足りないと今年の作付けにも影響が出かねない。
綱吉が何も出来ぬまま手を拱いているうちに死者が出ようものなら更に状況は悪くなるだろうし、実際問題、獄寺を疑う声はまだ小さいものの、出てきているのだ。雲雀が飛ばした式神が拾い上げた村人の声は、行き場の無い不安を言葉に替えて沢田家そのものへの不満も確実に広まりつつある。
流れて行く雲はのんびりと、地上の騒動などそ知らぬ顔。呑気なものだと嘆息すれば、一頻り泣いたことで落ち着いたハルが綱吉の胸元から顔を上げ、距離を置いた。丸めた拳で目尻を拭い、真っ赤になった目で無理に笑顔を作ろうとする。
「すみません、恥かしいところお見せしちゃいました」
明るく元気な自分を懸命に取り戻そうとしている。綱吉も彼女にあわせ、小さくだが口元に笑みを浮かべ返した。
「気にしなくていいよ、誰だって泣きたい時くらい、あるし」
彼女の涙の原因の一端が自分の近くにあるかもしれないとはとても言えず、曖昧に言葉を濁し綱吉は己の赤くなった腕をそうと知られぬよう隠しながらさすり、視線を足元へ流した。
それに、と呟いた後押し黙る。ハルが、そんな何処か元気に欠ける綱吉を感じ取って下から彼を覗き込んだ。
「ツナさんも、ひょっとして、何かあったんですか?」
遠慮がちではあったが直球で投げ込まれた問いかけに、咄嗟に返事が出来なかった綱吉は緊張で頬を引き攣らせて息を呑んだ。その態度が返答の代わりになってしまい、ハルはふむ、と頷いて垂れ下がっていた目尻を持ち上げる。
間近から鋭く睨むように見詰められ、綱吉は反射的にもう一歩後退した。しかしずい、と接近するハルが足を踏み出すので、距離は広がらない。
「ツナさんが元気ないと、ハルも安心して村へ戻れません。何があったんですか!」
「いや、だから……大した事ないってば」
自分の事は気にしなくていいと胸の前で手を広げて左右に振り、それでも足は勝手に後ろ向きに進もうとしている。そんな綱吉の背中が壁にぶつかって止まった。振り仰げば、雲雀の黒髪が其処に。
「奈々さんも、倒れたんだよ」
「ヒバリさん!」
「えええー?」
これ以上ハルの心配事を増やしたくなかったのに、いともあっさりと内情を暴露してしまった雲雀へ向けられる綱吉の視線は、自然険しいものとなる。一方のハルは音もなく近づいていた雲雀に多少驚きつつも、彼が明かした事実にもっと目を丸くした。
彼女は握った拳を胸の前で激しく上下に動かしながら、それは大変、一大事、どうしよう、と騒ぎ出す。
「奈々さんが倒れちゃったら、じゃあ、じゃあ、ご飯とかどうするんですか、どうしてるんですか。ちゃんと食べてるんですか?」
「倒れたのは今日だけど、そうだね。夕食から……困るな」
「ヒバリさんっ」
彼が何を考えているのか分からず、綱吉の声は高くなった。だが綱吉の気の焦りを一切無視し、ハルとだけ会話を展開する雲雀はやや困った風を装い、顎に手をやって細い切れ長の目を彼女に向けている。口元に浮かんだ薄い笑みが何を表しているのか。身体を動かして抗議しようにも、彼のもう片手はがっちりと綱吉の肩を捕まえていて、びくともしない。
元からお節介なところのあるハルのこと、事の次第を知らせたら彼女が次に言い出すかなど、綱吉にだって簡単に想像できてしまう。
「じゃあ、じゃあ、ハルがご飯作りに行きますね。ツナさんち、男の人ばっかりだから大変でしょう?」
「いいよ、いいってば、ハル」
気を遣ってくれなくてもなんとかするから。必死に説得を試みる綱吉だけれど、それは彼女には逆効果だと、そろそろ綱吉は気付くべきだと見下ろしている雲雀が肩を竦める。
必死になればなるほどハルは自分が食事の支度をすると主張し、終いには「ツナさんはハルが嫌いなんですね」と極論まで口走って綱吉を更に慌てさせた。後ろでは雲雀が含み笑いを懸命に堪えていて、これはひょっとしてハルに構って雲雀を放っておいたことへの意趣返しなのだろうか、と勘繰りそうになった。
結局最後は彼女に押し切られてしまい、一度村へ戻るのは遠回りだからと夕食の支度をするにはまだ早いが、彼女を屋敷へ招くことになった。彼女は雲雀の左袖の縫目が裂けてしまっているのにも気付いていて、これはどうしたのかと彼にではなく、綱吉に聞いてくる。無論正直に答えづらくて綱吉が渋っていると、高い位置で雲雀がまた微かに笑った。
「誰かが転んだ拍子に、ね」
「ああ、ツナさん、よく何も無いところでいきなり転びますもんね」
ぱん、と両手を叩いて雲雀が言葉を濁した誰かを簡単に言い当てた彼女が楽しそうに笑う。ひとり先頭を行く綱吉だけが、どんよりとした空気を身にまとって頭が重そうだ。
行きよりもひとり多い三人で、固まって緑の回廊をゆっくりと進む。ざわめく木々の隙間を縫って風が吹き、髪の毛を揺らしたハルがふと何かに気づいて顔を上げた。綱吉もまた、彼女が示す前に気配を感じ取って視線を持ち上げる。
屋敷の在る方角から、南に向かって。頭上を覆う緑の隙間に、一瞬だけ影が走った。
「隼?」
綱吉が呟くのを聞き、雲雀も目線を上げて姿を探すが、既に飛び去った後なのか見あたらない。風も止み、静けさだけが舞い降りてくる。
「珍しいですね、こんなところを」
綱吉ほど目が良くないハルが、額に手を当てて背伸びをした格好で振り返る。此処は海からも遠く、餌を探して遠征してきたとは考えにくい。
雲雀が難しい顔をして眉根を寄せた。だが残るふたりは、珍しいものが見られた事を素直に喜んでいる。
一時中断した歩みは直ぐにまた復帰して、水の流れる音が遠く微かに聞こえるようになってからは、綱吉の足取りは少し速くなった。そして屋敷の外観が見え出すと我慢が出来なかったのかいきなり駆け出し、母屋の玄関ではなく奈々が休んでいる奥座敷へ直接向かって行った。
雲雀は後を追わず、またハルも彼が何をしに行ったのかが分かるので敢えて口にも出さず、玄関から土間へとあがる。朝食の片付けもまだの状態に閉口した彼女は、これはやりがいがありそうだと笑って、それから人の気配を感じて、茶の間に顔を見せた獄寺を振り返った。
「あらら、はじめまして~」
沢田家に居候がひとり増えたというのは知っていたのだろうが、顔を合わせるのはこれが初めてらしい。元気良く片手を挙げて挨拶をした彼女を物珍しげに眺めた後、獄寺は助けを請うように周囲へと視線を流した。
だが彼が探している姿は雲雀の後ろにも見出せず、随分と間が空いてから仕方無しにハルへ会釈だけを返す。
「三浦ハル、です。貴方が獄寺さんですね」
「三浦……ああ、寺子屋の先生の」
「はい、父です」
手短に名前を告げた彼女の姓を確認し、片方の眉を持ち上げて少し考えた獄寺が思い当たる人物を口に出した。今は原因不明の病に伏す父を引き合いに出され、素直に頷き返した彼女ではあるが、その表情は一瞬にして暗く翳る。
獄寺は彼女の変化に気づきつつも、理由は分からないようで右に首を捻った。
「え、と……」
会話が途切れてしまい、獄寺は途方に暮れる。そこへ微かな足音が響き、奥座敷から戻って来た綱吉が顔を覗かせた。彼は手に薄紅の襷を握っていて、微妙に重苦しい空気に顔を顰めつつ、気にしない様子を装ってハルへと近づいた。
「ハル、母さんがこれ使えって」
奈々は矢張りまだ起き上がって作業をするには辛いようで、ハルの親切を心から喜んでいた。と同時に申し訳なさもいっぱいだったようで、後で沢山お礼をしなくちゃ、と勤めて明るい声を振り絞っていた。
綱吉の登場で沈みかけていた空気がまた浮上する。獄寺もハルもほぼ同時に顔を上げ、大丈夫そうだと判断したのか雲雀だけが踵を返す。勝手口から出て行こうとする雲雀の背中に気付いた綱吉は、ハルへ持ってきた襷を渡すと、獄寺へ手短に彼女が来た理由を説明し、置いてある草履を引っ掛けて外へと出た。
後ろではどうにか獄寺と馴染もうとしているのか、ハルが少し無理のある高い声で笑っている。
「獄寺さん、ちゃんとお風呂入ってますかー? ちょっと、なんか臭いしますよ?」
打ち解けようという努力は認めるが、初対面でそれはないだろう。思わず脱力してしまいそうで、綱吉は前を向いたまま苦笑した。恐らく獄寺も絶句しているに違いない、後で彼女はそういう性格なのだと弁解しておかねば。
その後のふたりの反応を見ていたい気持ちもあったが、好奇心を振り払って綱吉は後ろ手で勝手口の戸を閉めると中庭へと足を踏み込んだ。
道場の裏手、昔は遠地から通っていた門下生が下宿していた、二部屋だけしかない離れへ向かっただろう雲雀を追いかける。だが十歩も行かないうちに息が切れ、片手を預けた壁に暫く凭れ掛かって綱吉は呼吸を整えねばならなかった。
肺の中に冷たい風が流れ込む。
「きっつい、なー」
ハルや獄寺、それに奈々へ心配をかけたくなくて平然を装うのも楽ではない。人目を気にしなくて済むと理解した途端、体が従順すぎるほどに現在の綱吉の状態を露にして、思わず苦笑が漏れた。どうにか膝を曲げて全身が地面に沈むのは防ぎ、壁に添わせた手も使って非常に緩慢な動作で離れを回り込む。
北側の、日の影になっているところに入り口はある。板戸を左にずらすと細長い土間があって、蜘蛛の巣がこびりつく竃と甕が狭そうに並んでいる。中は薄暗く、若干湿っぽい。
土間の直ぐ横には一段高くなったところを板の壁が視界を覆い、入り口と似たような作りの戸がふたつ並んでいる。南側が綱吉の部屋で、北側が雲雀の部屋だ。構造上、南側の方が若干広い。
今は北側の戸が少しだけ開いていて、綱吉が中を覗きこむと真っ暗なところに動く気配がする。思い切って戸の隙間から草履を脱いで上がりこむと、着替えの真っ最中なのか衣擦れの音が聞こえた。
「ヒバリさん?」
「なに?」
数歩進んで左手を伸ばすと闇の中に確かな温もりを感じて、形を確かめればそれは彼の右腕らしかった。鍛えられた無駄のない筋肉に覆われていて、親指を開いて輪郭に沿って握り締めると、間近にいるのにまるで見えない雲雀が笑う。
「なに、する?」
「……昼間ですよ」
いくら部屋の中が薄暗かろうと、外はまだ日も高く明るい。しかも村や自分の家族さえも大変な状況にあるというのに、不謹慎な発言この上ない。
雲雀の腕を掴む手から力を抜き、下へ向かって撫でながら降ろしていく。柔軟でしなやかな肌へ指先が吸い付いて、雲雀にああは言ったものの、実際彼の腕は放し難い。言葉とは裏腹な行動に、自分もまた浅ましいと再び嘆息していると、雲雀の手が裏返って綱吉の手を握った。
五本の指でがっちりと固められる。重ね合わさった掌から伝わる熱は少ない、むしろ綱吉の側から雲雀の方へと逃げていく。
雲雀は体温が低い。時に生きていないのではないかと思うほど、彼の血は冷えている。
右手も持ち上げて広げると、中指の先が何かにぶつかった。慎重に傷つけぬように触れると、今度のそれは彼の胸板で、そうと知らぬまま形をなぞってしまった綱吉は頬を赤く染めて反射的に俯いた。それなのに矢張り手は離せず、彼の左脇腹を撫でて腰へと回す。軽く膝を屈めると、前髪に隠れた額が先ほど触れたばかりの雲雀の胸へと落ちた。
自由の利く雲雀の手が綱吉の顎を抓む。促されて上向くと、呆気ないくらいに簡単に唇が奪われる。
「っん……」
上から覆いかぶさるようにして合わされ、それもただ押し付けてくるだけに近い状態に、喉が反り返った綱吉は握られている左手へ力を込めて彼の太股を外側から叩いた。呼吸が苦しいと訴えかけると、少しだけ暗闇に慣れた視界にはっきりと瞼を開いている雲雀が映って、思わず腰が引けてしまった。
逃げようとした、と思われたのだろうか。雲雀の手が背中へと回される。伸ばされた指先が脊髄をなぞって項へと向かい、身を竦ませるとまた笑う気配がする。いいように遊ばれているのが悔しくて、綱吉は自分から膝を伸ばして彼との身長差を詰めた。
触れては離れ、離れては触れる戯れをただ繰り返す。暫くは綱吉の好きにさせていた雲雀だったが、短い息を吐いた彼は後ろに回した手を下ろし、綱吉の帯を引っ張った。
腹部を僅かに圧迫した後、いとも容易く帯は解ける。肌に密着していた布が自由を取り戻し、雲雀の手からは帯が落ちていく。足首を擦った感覚に脳髄が震え、鳥肌が立った。脇から潜り込んだ彼の左手が、襦袢と着物との間を彷徨って好き勝手に綱吉の肌を薄布越しに弄り回す。
「……っ」
柔らかな丸みを帯びた臀部を下から撫であげられ、反射的に目を閉じた綱吉はぎゅっと強く雲雀の右手を握り返した。首筋を彼の舌が擽り、ぞわりと熱が膨らみを増す。
「ヒバ、っリさ……んっ」
彼が肌を撫でる度に一緒になって薄絹も乱れ、彼の手の動きとはまた違った感覚を綱吉に与えて来て困る。赤いばかりの顔で雲雀の肩口に顎を置いた綱吉は、切れ切れになる息をどうにか保ちながら、このまま暴走しそうになるお互いの理性を必死に押し留めた。
雲雀の胸を押し返し、俯いたまま距離を作って肩を揺らして、薄らと浮いた涙も堪える。
「だか、ら、まだひ……ひゃっ」
どうにか彼に考え直させようと懸命に言葉を紡ぐが、上手くいかない。更に鎖骨を舐められて甘く咬みつかれ、上擦った声が上がって膝が笑う。
このままでは本格的に、自分も我慢が利かなくなりそうで、綱吉は必死に奥歯を噛み締めて衝動を受け流そうと試みる。しかし内側から沸き起こる熱はなかなか冷めそうになく、既に微かながら自身も反応しかけていて、益々恥かしい。
膝の間に割り込んできた雲雀の腿が近い位置をわざとらしく擦る。ひっ、と短い悲鳴を上げた綱吉は咄嗟に手を振り解き、彼の胸を突き飛ばした。
とはいえ体格的に劣るのは綱吉で、突き飛ばしたつもりが、逆に自分が後ろに弾き返されただけ。雲雀の手が背中に回されていなければ、そのまま尻餅をついていただろう。
雲雀が、今度こそ声を隠さずに笑う。
「しないさ、綱吉が嫌がることは」
「……絶対、嘘だ」
「したいなら応えるけど?」
「そりゃ、おなか減ってないのはうそじゃない、けど」
微妙に言いにくそうにしながら、両側を支えられてしっかりと床に立つ。綱吉が口ごもっていると雲雀は尚も笑い、それから不意に黙って綱吉をきつく抱き締めた。
からかうような動きは一切なく、ただ純粋に、綱吉の体温を求めて身体を寄せている。合わさった肌から伝う体温はいつもと同じく冷たくて、視線を泳がせた綱吉は迷った末、彼の背中に己も腕を回した。
雲雀の匂いが近くなって頬を寄せると、彼の髪が耳元を擽る。肩を噛まれたがあまり痛みはない。
「なんで、ハル……呼んだの?」
「病人に下手なものは食べさせられないだろう」
普段は屋敷に他人が近づくのさえ嫌がる雲雀が、今日に限ってハルが来るように話を仕掛けた。分からない、という声で囁くと、彼はふっと小さく笑みを零してそんな事を言う。
確かに綱吉も雲雀も、普段は手伝いこそすれ自分たちだけで食事を拵えることがない。慣れない調理で出来上がったものを、ただでさえ食欲がない奈々に食べさせるのは忍びなかったのだろう。実に遠回りで分かりにくい雲雀の気遣いに目を細め、綱吉は唇だけで有難う、と呟いた。
彼の背中に回した両腕に力を込めて、肩甲骨の辺りにまで指を伸ばす。張りのある彼の肌を楽しみながらも、やがて左の人差し指が見つけたほかと異なる感触に、綱吉は一瞬だけ身体を硬くした。
綱吉の緊張に気づきながらも、雲雀は何も言わない。ただ静かに、抱きしめた綱吉の頭を撫で続ける。
「……破れたの、左でよかった」
柔らかな肌に浮き上がる、明らかな異質。その境界線を爪の先で辿り大きさを確かめ、綱吉は彼と視線を合わせぬまま呟いた。
「ごめん、なさい」
「君が謝る必要はない」
頭を撫でる雲雀の手はどこまでも優しい。それが嬉しくも哀しくて、綱吉は何度も、何度も、鱗のように硬質化している雲雀の肩を撫で続けた。
ハルが倒れたという報せが届いたのは、その翌日だった。