春嵐 第二夜・前

 覚えている限りの、最初の記憶は闇だった。
 一片の光さえ差し込まない地底、もしくは水底。そこから自分は上を見ていた。
 そこに何かがあるわけでもない。だが自分は、兎に角上ばかりを見詰めていた。
 やがて其処に、赤い瞳がふたつ並んで、自分を見下ろしていることに気付かされる。
 瞳は瞬きさえせず、ジッと自分を見ている。他に見詰める先を持たない自分は、睨むようにその瞳を見詰めることにした。
 そこに意思は働かない。ただ他に見るものがない中で、目の前にあるものを見る、それだけのこと。
 やがて、長い長い時間が過ぎた頃。
 闇の中に赤く輝く瞳が、自分が見詰め続けてきたそれが、闇色の水面に映し出された自分自身の瞳だという事を知った。

 
 目が覚め、最初に見えたのは覚えのない天井だった。
 襖の隙間から差し込む細い光が、丁度彼の目の部分に筋を作っている。その眩さに睡魔が打ち負かされたらしい。彼は小さな欠伸を零すと、ゆっくりと身体を起こした。
 身体の節々が小さな痛みを訴えている。来客用に長く行李に仕舞われていたらしい布団は若干埃っぽく、黴臭い。端から幾重にか折り畳み、足元に掛け布団を寄せた彼はゆっくりと足を引き抜き、立ち上がった。襖を開けると、昨晩は閉じられていた板戸が開け放たれ、朝日が強く東から照りつけていた。
 北向きに廊下と接している部屋ではあるが、屋外の東側を隔てるものが何もない為に随分と明るく感じられる。板葺きの廊下に出ると、ひんやりとした空気の中で僅かに春の気配が感じ取れた。日の光に惹かれる虫の如く視線を転じれば、縁側を支える柱の向こう側に梅の木がある。薄紅色の花弁を幾つも宿し、薄い香りは離れた彼の鼻腔をも甘く刺激した。
 枕を高くして眠る、とまでは行かなかったものの、数日間の旅路で思いの外疲れが蓄積していたらしい。外を滅多に出歩く機会もなく育った手前、全くの他人の家で眠るのは初めてのことだったのだが、目覚めはすこぶる快適だった。
 快適すぎて、却って気味が悪い。
 今、時間はどれくらいなのだろうか。太陽は既に山の輪郭を煌々と照らしており、北側に設けられた小さな庭園には雀が数匹、地面を啄ばんでいる。この屋敷には全部で三人しか住んでいないと聞かされているから、人の気配も皆無に近く、彼は少しだけ不安を覚え、廊下を歩みだした。
 昨日、屋敷の配置を説明された時のことを思い出す。
『この部屋、自由に使ってくれていいから。押入れにちょっと細々したものが詰め込んであるけど、気にしないでくれたら』
 黒髪に黄色の頭巾といういでたちの赤ん坊を抱いた少年が、茜色の着物を揺らしながら襖を開けた。長く閉ざされていた薄暗い室内は、少しだけ空気が篭り湿っぽい感じがした。しかし回廊となっている廊下に面する襖を全て開け放つと、流れ込んだ光に照らされ、六畳はあるだろう畳敷きの部屋が現れる。
 右側には松の木が描かれた襖があり、それが少年の言う押入れだろう。左側に視線を転じれば、壁に沿って行李がふたつ並んでいた。誰かが使っていた形跡を薄く感じ取るものの、人が居た気配は皆無に等しい。首を捻り、中に入れないままでいると、先に畳に居場所を移して行灯の埃を吹き飛ばしていた少年が振り返って笑った。
『ああ、この部屋ね、少し前まで山本……っと、同門の奴なんだけど、住んでて。でも今は修行に出てるから、暫く戻ってこないだろうし』
 説明が遅れたと素直に詫びる少年は、情報として知らされていた実年齢よりもずっと幼い印象を見る側に与える。あれで自分と同年齢なのかと疑ってしまいたくなる気持ちを押し殺し、彼は「はあ」と気のない返事だけを口にする。
 少年はさっさと彼から視線を外し、行李の蓋を開けた。片付けられていた布団と枕を両手に抱えて取り出し、脇に置いて蓋を閉める。もうひとつは空なのか、少年は手をつけなかった。
 わざわざ、当主代行自ら屋敷を案内してもらえるとは思わず、彼は最初こそ戸惑ったが、田舎に育った分変に偉ぶっていないだけなのだと気付くのにそう時間はかからなかった。
『あ、そうそう。獄寺……君、だっけ?』
『はい』
 少年――沢田家九代目となる綱吉が振り返り、立ち上がって彼の名前を呼ぶ。獄寺は綱吉の足元から頭の先までを順番に見て、最も短い返事をした。微笑みを投げかけられ、僅かに心が動揺する。
 彼は無邪気なまでに、蛤蜊家十代目継承者を守護する役目を果たす為、という名目でこの屋敷を訪れた獄寺を信じている。あの書は確かに偽造されたものではなく、九代目の朱印も紛れも無い本物ではあるが、その書が誰の手によって作成されたものであるかを彼は確かめもしなかった。
 それに、綱吉が抱く赤ん坊。見た目は子供そのままだというのに、一瞬ではあったが眼光鋭く気配も尋常ならざるものを感じさせた。なにより九代目の印を確かめたのはあの赤ん坊であり、獄寺は内心、詮議を受けるのではないかと肝を冷やした。
 視覚に頼り、見た目に騙されると痛い目に遭う。それは獄寺自身、その短いながらも長い人生に深く刻まれた教訓だ。だからリボーンと呼ばれたあの童を、見た目通りの存在だと信じることは出来ない。正体は分からないが、綱吉もあの雲雀という男も、リボーンに一目置いているのは間違いない。
 それにしても、何者なのか。
 任を受けた際に与えられた知識では、あの赤子の情報はなかった。それはつまり、沢田の家はリボーンという童の存在を秘匿し続けていたという事になる。だが、あの赤ん坊は九代目を知っているとも言っていた。考えれば考えるほど分からなくなり、そもそも状況を判断するのに必要な知識が全く足りていないと思い至って、獄寺は一旦この件を考えるのをやめた。
 判断材料が少ないままの思い込みは危険。九代目直々に下された決定に間違いがなければ、自分はそれだけで構わない。あくまでも獄寺の真の目的は、沢田綱吉なる人物が、蛤蜊家を統率するに相応しい力量を備えているか、否かの判別だけだ。
 蛤蜊宗家は、分家傍流様々に含めれば巨大な組織を形成している。それは血筋のみに頼った脆弱な代物ではなく、だが蛤蜊家初代の血という柵は非常に厄介なものとして根深くこの家に絡み付いている。その血が濃ければ濃いほど退魔の力は強く現れるという妄信の下、近親相姦が繰り返されてきた過去は拭い難い罪を幾つも生み出した。
 それでも代々統率者に恵まれたお陰で、現在までその血脈は維持されている。しかしたとえ頂点だけが輝こうとも、その足元が非常に危うい立場にあるのには変わりない。蛤蜊の名前を隠れ蓑に、悪事に走る愚か者は後を絶たず、またその名前の強さに引かれ、夜の炎に群れる虫のように、甘い蜜だけを掬い取ろうとする輩も数え切れない。
 獄寺とて、その薄闇の中で育ったうちのひとりだ。退魔の力は人より抜きん出ていたけれど、彼には人の世を上手く渡り歩いていくだけの力はなかった。彼の父親も、また。
 ――どうせ人なんて、すぐに裏切るのよ。
 唐突に脳裏に蘇った、婀娜な女の呟きに獄寺はハッとした。綱吉が不思議そうな顔をして彼を見上げている、それもかなり近い場所で。
『大丈夫?』
『え、あ、いえ……すみません』
 心配そうに問われ、獄寺は困惑を更に深めた。こんなにも接近されるまで気がつけなかったとは、なんていう不覚だろう。それよりもなによりも、綱吉が伸ばした手が獄寺に触れようと動いたので、彼は咄嗟にそれを弾き返してしまった。軽く響いた音にふたり揃って驚き、気まずさから獄寺が先に謝る。
 視界の端で黒い髪が揺れた。
『ううん、こっちこそ。それで、食事なんだけど、朝夕の二回、さっきも通った茶の間で。皆と一緒に、が嫌なら、頼んで部屋に運んでもらうようにするけど、どうする?』
 玄関正面を入ればすぐに土間、そのまま正面を突き抜ければ台所へ。手前で草履を脱いで上がればそこは控えの間も兼ねた座敷、そのひとつ向こうは最初に獄寺が通された中の間。仏壇と床の間を併せ持つ座敷は更にもうひとつ奥。
 土間を抜けて台所から上がれば、囲炉裏のある茶の間、この部屋が屋敷で最も広いという。左の襖を開ければ納戸があるとかで、そこは見せてもらえなかった。奥にもうひとつ、奥納戸があるらしい。北向きに茶の間を出れば再び廊下、右手には厠。左に細い板葺きの廊下を進むと、座敷がふたつ並んでいる。獄寺が案内された彼の部屋は、その奥側。
 沢田家光とその妻奈々の部屋は、床の間のある座敷から更に南側の通路を進んだ先の奥座敷。獄寺の案内された部屋からは、壁は接しているものの入るには大きく回りこまなければならない。また、綱吉と雲雀の部屋は母屋ではなく、道場を兼ねた離れにあるのだという。
『食事、ですか』
『うん』
 そこまで考えていなかったというのが正しく、獄寺は眉間に皺を浮かべて難しい表情をした。まさか毒を盛られるような真似はないだろうが、食事を供されるのであれば相応の代価を支払わねばなるまい。幸い本家からは路銀の他に、幾らかの支度金が預けられている。それでまかなえるだろうか。
 その旨を告げると、綱吉は驚いた顔をして首を振った。そもそも沢田の家は土地持ちであり、また神官職も兼任している。里にある田畑は里の者に貸して収穫の一部を受け取っており、またそれ以外でも幾らかの収入はあるという。基本的に自給自足の生活で、里全体が一丸となって助け合う小ぢんまりとした集落だから、そこまで気にしなくても良い、とのこと。
 だがそう言われても簡単に引き下がるわけにもいかず、獄寺は世話になるのだから、と譲らなかった。
 結局綱吉は獄寺が渡した、いくら入っているのか分からないずっしりと重い袋の中身を、何かあれば使わせて貰うという約束で預かる事となった。綱吉は複雑な表情で麻で編まれた袋を見つめ、リボーンと一緒に大事に胸に抱えると、獄寺の脇を抜けて廊下に出る。等間隔で細い柱が並ぶうちの一本に触れ、木目を指で辿った。
『雨戸は朝夕、当番で開け閉めの順番を決めてるんだ。これからうちで過ごす事になるから、君にも担当して貰うようになると思う。それはまた、追々決めて行けばいいんだろうけど。あっと、それから』
 つらつらと彼らの日常での取り決めを簡単に説明する中で、不意に思い出したのだろう、綱吉が一瞬だけ声を裏返して手を叩く。腕の中のリボーンが僅かに首を傾がせ、それから綱吉の見つめている方角を見やって納得顔で頷いていた。
『あそこ、見えるかな。あの結界石の向こう側は神域になってるんだ。だから、あそこから先には、入らないで』
 一言ずつ区切って告げた彼が差し向けた指の先には、確かに二つで一対になっている石が在った。面長の石で、頭に注連縄がされている。更に短冊を吊した縄が間に通されていて、その向こうには雑木林と背の高い草に隠されるようにして、石組みの階段が続いていた。
 神域。そう言われてみればこの家は代々並盛神社の神官職も兼任し、更に此処並盛山には強い霊力が宿るという話もある。獄寺の胸に微かな興味と好奇心が沸いたが、迂闊に許し無く神域に触れた場合、どんな天罰が下るかも分からない。
『分かりました、気をつけます』
 肝を据えて改まった気持ちで神域と人域とを区切っている境界線を見つめた獄寺に、綱吉は安堵の色を浮かべてありがとう、と礼を言った。
『それで、今夜はどうする? 里に荷物や人を残しているようなら、迎えをよこすけど』
『いえ、そこまでは。確かに荷の一部は宿へ置いてありますが、人は……自分は、ひとりですので』
 見送りは無かった。九代目の後継者が発表されてすぐに受けた呼び出しで、十代目に指名された人物を近くで観察するよう命令を受けて、支度もそこそこに、別れを言う人間も居ないままの出立だった。自分が任じられたのは、最も手近で動かせるコマだったからだろう。あそこにいた老人たちの何れもが、獄寺の目の前にいる少年の力量を計りかねている感じだった。
 今まで誰も注目してこなかったからこそ、何故今になって、彼が表沙汰になったのかが分からない。しかし何か裏が働いたのだとしたら、蛤蜊家の中枢に根を下ろしている老人たちにしてみれば、下手な手出しして無用な騒動を起こし、九代目の怒りを買うのも避けたい。
 つまり自分は、体の良い生け贄だ。実のなる報告をしても、しなくても、あの老人たちは痛くも痒くもない。ただ自分の父親だけが、頭を下げて泣き喚き、みっともない言い訳をして蛤蜊家から追い出されるだけの事。
 全て、力が無いのが悪い。
 その後獄寺は断りを入れ、一度里へと下りて宿に預けていた荷物を引き取り、再びあの数百段ある石段を登って沢田邸へと戻った。その頃には日も暮れて来ており、荷物の整理をしているうちに夜も更けた。
 獄寺が戻ってくるまでに夕食は先に済まされてしまっていたらしく、奈々によって運ばれた食事は少々冷めていたものの、成長期の彼には十分な量と、これまでに食べた経験の無い暖かみのある味付けが成されていた。
 深くにも箸を口に運んだ瞬間、最早思い出せもしない母親の料理を想像して涙がこぼれてしまいそうになった。
 何かが変わるような気がした。この場所で、この人々によって。
 けれどそれが自分にとって良いのか、悪いのかも分からぬまま、獄寺はひとり布団に寝入り、そして朝を迎えたのだ。
 梅の木を左手に見て、廊下を進む。雀の鳴く声が途切れ気味ながら耳に届き、やがて襖で遮られていた右側の視界が一気に開けた。煤けた角柱を最後に壁が終わる。廊下とはまた色合いが異なる板張りの床、茶の間だ。
 獄寺はその境界線を越える手前で一旦足を止め、少々薄暗さを感じる茶の間を見やった。人の気配は無く、囲炉裏だけが白い煙を微かに燻らせている。息を吐いた彼は右から左へと視線をゆっくりと流し、仕切りの無い台所でやっと動くものを見つけた。
「あら、おはよう」
 あちらも、獄寺に気づいてにっこりと微笑みを浮かべる。朗らかな、女性らしい笑顔を向けた相手は、この家の主の妻であり、綱吉の母親でもある奈々だ。小柄で華奢な印象を与えるものの、主不在の家をひとり切り盛りしている所からも分かるように、凛とした芯の強い女性だ。
「おはよう……御座います」
「もうお昼だけどね」
 こうやって当たり前のように挨拶を交わすなど、何年ぶりの事か。感極まる、というわけではないが一瞬間を置いてしまった獄寺に、違う感想を抱いたのか奈々は口元に手をやってくすくすと笑った。
 昼。その言葉が正しいのであれば、自分は随分と深い眠りに落ちていたようだ。獄寺はしまった、と奥歯を噛む。だが彼女は気にする様子もなく、再び腰を屈めて中断させていた作業に戻っていった。
「ちょっと待ってね、今ご飯の用意するから。先に、裏で顔を洗っていらっしゃいな」
 紺絣の小袖に身を包んだ彼女は、そう言って濡れた手を持ち上げて、竈が並ぶ壁際に設けられた勝手口を示した。獄寺はそちらに視線を流した後、戸惑いの表情で奈々を見下ろす。鈍い足取りで土間手前まで行くが、そこから下へ降りるようにも彼の草履は玄関に行かねば無い。
 彼女は足を止めた彼を見やってから、彼の困惑の理由を察したらしい。瞳を細めて笑み、暗い軒下に並べられた大きめの草履の存在を教えてくれた。それは誰のものでもなく、必要な時に必要な人が履いて良いものらしい。
「お借りします」
「堅苦しいのは無し、ね。うちで暮らす以上、みんなうちの子なんだから」
 言って、彼女はザルを傾けて中の水を捨てた。ザーッという音を響かせて、黒い土に染みこんでいく。三つ並んでいる竈のうち、使われているのはひとつだけなのか、最も右端のものには蜘蛛の巣が絡んでいた。
 獄寺は彼女の言葉に甘え、履き慣れない草履に足を引っかけた。鼻緒に親指と人差し指を挟ませ、具合を確かめて数歩進む。背中に奈々の視線を感じて、気恥ずかしさを覚えた彼は足早に勝手口の戸を押して外へ出た。
 日差しが眩しい。思わず獄寺は右腕を持ち上げて瞳を隠し、唇を数回開閉させて暖かな光りを飲み込んだ。
 やがて明るさに目が慣れた頃に腕を下ろし、改めて周囲を見やる。背後に小さめの窓が並ぶ壁、そこから斜め前方に、屋根を備えた井戸があった。釣瓶が石組みの井戸の脇に置かれていて、縄で結ばれた先が滑車を経て井戸の内側へと伸びている。
 井戸のある広場を挟んだ先には、南北に細長い建物。後から増築されたものなのだろうか、建物の端が雑木林に食い込んでいて、瓦屋根の上に太い枝がいっぱいに広がり、濃い影を足下に落としていた。平屋建てで、外見も母屋より若干新しい。南側と北側で違う建物が組み合わさっているらしく、間に僅かな隙間があった。屋根のある廊で繋がっている。
「道場?」
 退魔師は肉体的にも鍛えられている場合が多いので、地元に根ざした活動をする場合、その体術のみではあるが、地元の人間に教えたりする事もあると聞いている。その為の道場だろうか、しかし人の気配は全く感じ取れない。
 獄寺は物珍しげに道場の外観を眺め、これが綱吉の言っていた離れに当たるのだろうかと考えながら、井戸へと近づいた。太い縄を掴み、上下に揺らす。かなり下の方で水が揺れる音が聞こえて来たので、彼は足下の釣瓶を取ると井戸の内側へ放り込んだ。そして縄を掴んでいる腕に力を込める。
 空の釣瓶が落ちていく代わりに、水をいっぱいに湛えた桶が獄寺の前に現れた。彼は片手でそれを受け取ると、余分な水を落とし、乾いた土に置いた。手を差し込み、掬う。冷たい。
 彼は膝を折り、掬った水で顔を洗った。跳ねた水滴が髪にも散り、黒く濁って彼の手首を汚した。
「……ちっ」
 全く、面倒くさい。彼は濡れた手を着物の裾に押しつけて拭うと、慎重に指で髪をつまんで水気を払った。うっすらと色を落とした毛先が、他の色濃い髪に紛れ込む。
 自分がこの家に派遣された正確な理由は教えられていないので、分からない、けれど想像はつく。まずは獄寺本人が十代目に内定した沢田綱吉と年齢が近い、というよりもほぼ同じである事。更に自分が生まれた家は蛤蜊家傍流であるものの、初代から見るとはっきりと先細りした能力者しか生まれてこず、従って結果を残せない時代が長すぎて、今ではいつ取り潰しがあるかも分からない状態である事。故に現当主である獄寺の父親は本家と、その近縁者に全く逆らえない。
 裏を返せば、獄寺家は簡単に切り捨てるのが可能な家柄なのだ、蛤蜊家本体から見れば。失敗すればそれは功を焦った獄寺家の暴走で話がつき、成功すれば――それはその時だ。どっちに転んでも、獄寺の周囲は好転しない。なにより彼自身の生い立ち、その類い希な経歴が、彼の出世を阻害する。
「ここの水は……力が強いな」
 桶の中で静かに湛えられている井戸水を見下ろし、映し出される自分の顔を歪ませ、獄寺は指先をそっと差し入れた。皮膚を通して突き刺さる感覚は、ただ冷たいだけではない。
 並盛山は霊山とも聞く。そこから湧き出ている水ならば、当然霊力もそれなりに備えているだろう。この水で墨を擦り、札を作れば今まで以上の力を発揮させられるだろうか。後で試してみよう、落ち込みかけていた気持ちを奮い立たせ、獄寺はもう一度掬った水で顔を洗った。
「あれ、おはよう」
 顎から滴り落ちる水滴を手の甲で拭っていたところで、後ろから声がかけられた。そのままの姿勢で振り返ると、緑の鼻緒の下駄に榛色の着物姿をした綱吉が立っていた。娘子のような色合いの着物ではあるが、帯は仙斎茶色で、渋みを加えさせていた。足下にはひょこひょこと、覚束無い足取りの子供が彼の着物の裾を捕まえて一緒に歩いている。
 リボーンとはまた違う顔。髪の毛なのか頭は毛むくじゃらで、身につけている服も彼らが纏う着物と若干趣が異なっている。全身をすっぽりと、指先足先まで一体となって包み込んでいる布地は白が基調で黒い模様があちこちに。
 なにより、獄寺と目があった瞬間にひっ、と短い悲鳴を上げて綱吉の足にしがみついた子供には、影が無かった。
「その子供は?」
「え? あ、そっか。獄寺君には見えるんだ」
 怯えている子供の頭を撫で、大丈夫だよと頭を撫でてやりながら、綱吉が少しだけ嬉しそうに言った。
 見える、とはつまり。
 この子供が、人間ではないという事。
「妖ですか?」
「ううん。神社にあった神木が落雷で倒れた後に芽吹いた、若木の精霊」
 まだ生まれたばっかりなんだよ、と彼は笑顔でその若木の精霊を抱き上げた。頬を寄せると、幼子の姿をした精霊も嬉しそうに綱吉に甘える。
「ヒバリさんも、母さんもあんまり見えないんだ。だから、この子たちが普通に見える人がいるの、嬉しいな。ランボって名前なんだ、仲良くしてあげてね」
 ランボと呼ばれた精霊は、自分の名前が呼ばれたのだけは理解出来たらしい。人には解せない言葉を紡いで、小さな手を綱吉に伸ばす。片手でランボを抱き直した彼は、その指を左手で受け取って、前後左右に軽く揺らしてやった。きゃっきゃ、と機嫌がよさそうに精霊が笑う。
 ざあっと風が流れていく。若木とはいえ、いずれ神木となる精霊の事、笑うだけで木々を揺らし、風を呼ぶ程度の力はあるという事か。
「そうなんですか?」
 記憶に新しい黒髪黒眼のあの男が、こういった妖や鬼の類を見分けられないというのは予想外で、与えられた新たな情報に獄寺は意外そうに首を傾げた。綱吉が苦笑する。
「うん。俺は見えるばっかりで、ヒバリさんは戦うばっかり……っていうのもおかしいけど、実際そんな感じ。俺たち、ふたりでやっと一人前なんだ」
 本心からのつぶやきなのだろうか、その声には若干の自嘲が含まれている気がした。
 ふたりで一人前。
 ふたりで、ひとつ。
 ひとつになれずに、分かたれたもの。
 ひとつにも、ふたつにもなれなかった者を前にして、言われたくない。
「獄寺君?」
 声にハッとする。開いていた筈の距離が詰まっていて、ごく近い位置に彼が居た。腕の中のランボが、何かを感じたのが愚図り出す。嫌々と大きな頭を振って顔を綱吉の胸に押しつけた。何を言っているのか分からないが、泣いているのには間違いない。
 放たれる神気に軽い目眩がした。瞳の奧が鈍い痛みを放ち、獄寺は息を呑んで吐き気を堪える。
「大丈夫? 具合悪い?」
「いえ、大丈夫です」
 触れようと伸ばされる綱吉の手を拒み、彼は数歩後ろへ下がった。丁度勝手口から奈々が姿を見せ、獄寺に食事の支度が調ったと教える。同じく振り返った綱吉の背中に阻まれ、ランボの気配が僅かに薄まった。
 額の汗を知られぬよう拭い、獄寺は壁に寄って奈々の居る方へと歩き出す。
「失礼します」
 すれ違いざま、綱吉に軽く一礼するのも忘れない。しかし気持ちが急いているのか、彼の歩き方は妙にぎこちなく、不自然過ぎる早足だった。