春嵐 第一夜・後

 草履を脱いで床に上がり、砂っぽい足の裏に板の冷たい感触を覚えてからふたりは二手に別れ、雲雀は袖の内側に隠し持った拐を確かめつつ、奈々が男を通したであろう座敷へと向かう。綱吉はその反対側、屋敷の最奥に隠すように設けられた別の座敷へと。
 しかし左手に水の流れる庭、右手に白い漆喰の壁が続く廊下をひとり歩く綱吉は、角を曲がる手前で足を止め後ろを振り返った。矢張り雲雀に任せきってしまうのは良くない。家光には、自分の留守中宜しく頼むと言われている。この家の現時点での主は綱吉なのだ。
「よっと」
「っ、リボーン!」
 腹にぐっと力を込めて同時に拳を握り、意を決して踵を返したところで、不意に頭に軽い衝撃を感じ取る。驚いて瞳を上向ければ、いったいどこから現れたのか、黄色い頭巾のリボーンが胡坐を組んで綱吉の柔らかな髪の上に乗っかっていた。
 重みは殆ど感じない。彼が神出鬼没なのは前からだが、予想していなかっただけに綱吉の驚きは半端ではなく、前方につんのめって危うく狭い廊下ででんぐり返しをするところだった。辛うじて左手が太い柱を掴み、転倒には至らなかったけれど、振り落とされそうになったリボーンが綱吉の髪を掴んで堪えるものだから、却ってそちらの方がずっと綱吉には痛かった。
「なんなんだよ、もう」
「行くんだろう、あいつのところへ」
 人が折角気合を入れていたというのに、調子を狂わされて不満顔の綱吉が、両手を持ち上げてリボーンを胸元に下ろす。真正面から見詰めてくる黒水晶の瞳には隠し事も出来ず、唾を飲んで頷いて返せば、彼はやっぱりな、という顔をして身体の向きを反転させた。
「なら、俺も連れていけ。あいつには覚えがある」
「知り合い?」
「いや」
 さっきは早々に姿をくらませたくせに、今頃そんな事を言う。リボーンに覚えがあるのであれば少なくとも敵ではない、そう安堵しかかった綱吉だったけれど、声を潜め低くした彼の次の台詞に、怪訝に眉根を顰めた。
 覚えがあるのに、知り合いではない。いったい訪ねて来た男が何者なのか。ざわついていた心の中が、雲雀と、そしてリボーンのお陰で凪ぎを取り戻した綱吉は、頭に疑問符を浮かべながらも雲雀たちが居るだろう座敷に向かった。
 道中奈々に会い、着替えるよう言われるけれども時間が惜しく、やんわりと断ってそのまま進む。ぺたぺたと足音が小さく響く中、突然前方から珍しく声を荒立てた雲雀の怒号が聞こえて来た。
「な、なに?」
 思わず足が止まり、綱吉は狼狽する。
 平素穏やかで、というよりは無表情、無愛想の彼はあまり口数が多くない。感情を表に出すのも稀であり、心を許すどころか伝心で全て読み取られてしまう綱吉の前でならばまだしも、初対面の相手に罵声を浴びせかけるなど、俄かには信じ難い。
 いったい何が起こったのか、わけもわからず綱吉は腕の中にいるリボーンに助けを求めた。が、気がつけば重みが元々ない座敷童の姿が無い。
「え、ええ?」
 綱吉自身、大人しい性格の上に人付き合いも限られていて、突発的な出来事に対しての対応能力に著しく欠ける。雲雀が怒っていて、今まで此処に居たリボーンが姿を消し、自分ひとりが残された。雲雀の気の短さは綱吉も重々承知していて、下手をすれば客人として招き入れた人物に手を挙げてしまいかねない。止めなければ、と思うのだけれど、先ほどの決心は何処へやら、座敷から流れ出ている不穏な空気と、屋敷に取り付いた寒気を抱かせる感覚に足が竦んで動かない。
「九代目の勅命だかなんだか知らないが、君など必要ない。立ち去れ」
 凛とした雲雀の声が、直接耳で聞くよりもはっきりと綱吉の心へと響いてくる。何だろう、雲雀は何を言っているのか。
 九代目の勅命?
「お言葉を返すようですが、俺――私もこのままおめおめと引き下がるわけには参りません。九代目より、十代目候補の守役に遣わされた以上、その任を全うさせていただくのみ」
 僅かな時間差をおき、こちらもまた張りのある男の声が聞こえてくる。雲雀の迫力に負けぬ力のある声に、綱吉はぐっと息の詰まった胸を押さえ、襖の角に左手を添えた。身体をそちらに若干傾け、姿勢を楽にする。
 嫌な臭いがした。ツンとして、眼の奥が微かに痛む。
「だから、何度も言わせないでくれる? 綱吉の守役には僕がいる。君は必要ないんだよ」
「蛤蜊一門に名を連ねられているならばまだしも、何処の馬の骨とも分からぬ御仁に、その任果たして果たせますでしょうか?」
「貴様!」
 嘲笑を含んだ男の物言いに、雲雀が食って掛かる。止めなければ、意識は動くのにどうも頑なになってしまっている雲雀に綱吉の伝心も届かない。触れる前に弾き返されてしまう感覚に、綱吉は膝から崩れてその場に蹲った。
 息が上手く出来ない、脂汗が額にじっとりと浮かびあがる。衿を乱暴に右手で掴み、ぜいぜいと浅い呼吸を繰り返しながら綱吉は必死に、何度も雲雀に訴えかける。彼の強すぎる感情もまた、綱吉に大きな負担をかける。それが分かっているからこそ、雲雀は常から平常心を心がけ、動揺しないよう戒めている。その気持ちが強すぎるから、元からの無愛想に拍車がかかっているのだけれど。
 内側から食い破られる感覚が綱吉を襲っている。外からも正体不明の気配が漂っていて、苦しいことこの上ない。逃げ出せたなら良かったのだろうが、動かない足では身体を引きずるのさえ不可能。せめてリボーンが居てくれたなら、霞む視界で懸命に前を見た綱吉の耳元を、ふっと、清浄な風が流れた。
 首元を擽るものがある。途端にあれほど辛かった呼吸が楽になり、溜め込んでいた息を一気に吐き出した彼は顔を上げ、振り返った。
「持ってろ」
「……榊……?」
 多くを語らないリボーンが差し出したのは、緑を茂らせた榊の枝だった。綱吉はそれを、のろのろとした動きで受け取る。軽く左右に振れば、そこから零れ落ちる風が綱吉の気持ちを楽にさせた。
「きつそうだな。そろそろ止めるか」
 汗が引いていき、鉛のように重かった身体から徐々に力が抜けていくのを感じる。機転を利かせてくれたリボーンに感謝しながら、綱吉はまだ立ち上がるのに辛い足を榊の枝でさすった。様子を眺めていたリボーンが呟き、喧々囂々と堂々巡りの口論を続けている座敷へと視線を移す。
 綱吉も同じ方を向く。幾ら楽になったとはいえ、胸が裂かれそうな痛みは相変わらず続いている。雲雀が落ち着きを取り戻さない限り、この痛みは治まらない。
 榊を持った枝で胸に触れる。そこには何も無い。何も、無いのだけれど――
「リボーン、あの人は」
「蛤蜊家の九代目から、お前を守護するように遣わされたみたいだな」
 室内からは廊下に佇むふたりの姿は見えないのだろう、彼らは綱吉たちがそこにいるのに気付く様子は無い。
 相変わらず綱吉を囲む空気はびりびりと鼓膜を直接震わせており、脳髄を揺さぶって彼に酷い吐き気をもたらしている。多少楽になったとはいえ完璧に改善されたとは到底言えず、熱を含んだ息を浅い呼吸でやりくりしている彼を真下から見やったリボーンは、その場でくるりと身体を反転させると結んでいた腕を解いた。
 ぽっ、と微かな音を残し、瞬時にその姿は煙となって消え去る。
「――っ!」
 直後、物と物がぶつかり合う鈍い音が座敷内部から響いて聞こえ、俯いて胸元ばかり見ていた綱吉はハッと顔を上げた。膝立ちで両手を床に沿え、這いずりながら開かれている襖に顔を出す。彼がそこで見た光景は、あろうことか客人の目の前で、リボーンが木目鋭い撥を握り、また対する雲雀も袖から即座に引き抜いた拐でもって彼の一撃を頭上で防いでいるという一触即発の状態だった。
 雲雀が右の腕を引き、そして押し返す。軽いリボーンの身体が弾かれて宙を舞うが、彼は慌てもせずに中空でくるりと身体を回転させ、足から綺麗に畳へ着地を果たす。剣呑な瞳の雲雀が、ゾッとずる笑みを浮かべて、座布団上で呆然とする男ではなく、リボーンを睨み下ろした。
「いい度胸だ、童。君とは一度決着をつけたいと思っていたところだよ」
 突然の乱入に客人の男は驚きに目を瞬かせる。一方のふたりは睨み合いを――どちらかと言えば雲雀だけが一方的に――展開して、綱吉の心臓がまたキリキリと痛みを発した。もう無茶苦茶だ、本家からの客人をもてなすなんて考えは、完全に雲雀の頭から消え去ってしまっている。
 リボーンが撥を構え直す。雲雀が右半身を引いて拐の握りを変えた。綱吉の背中に、ツーっと冷たい汗が流れ落ちる。
 ふたりの間に流れる殺気のぶつかり合いが、瞬きの刹那、火花を散らした。
「――ふたりとも何やってんですかーーーーーー!」
 力いっぱいに握り締めた拳、腹の底から振り絞る怒鳴り声。綱吉は身体を起こして叫ぶと、即座に床を蹴って座敷へと飛び出した。既に一撃を繰り出そうと動いていた雲雀が、瞳だけを動かして綱吉の姿をそこに認める。リボーンがにっ、と口元を歪めて笑ったのには誰も気付かない。
 振り下ろされようとしていた雲雀の腕をかいくぐり、綱吉が腕を伸ばす。拐が反動のままに彼の身体に打ち付けられようとしているのを、雲雀は必死に食い止めた。リボーンが撥を掲げ挙げる。先端が綱吉の脇腹と、雲雀の操る拐の中間に差し込まれたのはその瞬間。
 空気が止まる。雲雀は自分に圧し掛かる格好で被さった綱吉の体温に目を剥き、リボーンの撥が一撃を防いで綱吉を守っているのを見て漸く、安堵の息を吐き腕の力を抜いた。
 細められている拐の先端が床を向く。片膝を立てていた蛤蜊家からの客人が、唖然とした様子でそれを見ていた。綱吉は荒い呼吸を隠しもせず、雲雀の首に両腕を回して肩口に額を埋める。次第に平静さを取り戻すお互いの心音に、幾度か分けた唾を飲み下してホッと息を吐いた。
「綱吉……」
「ヒバリさん、良かった」
 頭の中に、ずっと聞こえなかった雲雀の心が響いてくる。それが嬉しくて、綱吉はついいつもの癖で甘えた仕草で彼の頬に顔を寄せた。雲雀も左腕を綱吉の背中に回し、持ち上げた手で彼の髪を撫でやる。
 一瞬にして冷えた空気、切れた緊張感。コホン、と客人が居心地悪そうに咳払いをしなければ、ふたりはそのまま現状を忘れていたかもしれない。
 足元でリボーンが笑っている。
「失礼」
 嫌なものを見た目を向けられ、この場に他人が居たのを思い出した綱吉は慌てて雲雀から離れた。顔を赤く染め、庭に居た時同様に雲雀の背中に隠れる。じろりと睨んでくるような男の鋭い目つきは綱吉を値踏みしているみたいで、直接浴びていると正直気分が悪い。
 雲雀が機嫌を損ねたのも無理ない、と直感的に受け止め、綱吉は雲雀の着物を掴んだまま顔だけを覗かせて男を見返した。
 肩に触れる少し手前で切り揃えられた髪、前は真ん中で左右に分けて額を出している。黒い装束は旅姿というよりは修行僧の袈裟に似ており、手荷物は玄関に置いて来たのか身一つだった。年齢は若い、雲雀と同じくらいかそれより若干下といったところで、厳しい顔つきを崩さず、綱吉の第一印象はまず「怖い」。
 雲雀と盛大に口論を展開していたのもあるが、彼が身にまとう雰囲気がどうも刺々しいのだ。緊張しているのとは違う、敵陣に単身乗り込んできた時の構え、とでも言おうか、ともかく気を許すものかという意思表示が明確に現れていて、綱吉を圧倒している。
 彼は濃緑の座布団の上で居住まいを正すと、膝の上に両手を広げて置いてまずは綱吉に向かって軽く頭を下げた。つられて、まだ雲雀の後ろに隠れながら立ったままでいた綱吉も会釈を返す。
「獄寺隼人、と申します」
「あ、沢田綱吉……です」
 顔を上げてただそれだけを告げられ、返答に窮したまま綱吉はひとまず名乗られたので名乗り返す。雲雀に背中を軽く叩かれたので、先ほどまで雲雀が座っていた紫紺の座布団に膝を折って正座を作った。
 ――大丈夫?
 ――さっきよりは、なんとか。
 伝心で話しかけられ、咄嗟に声に出してしまいそうになったのを飲み込み、心で言葉を返す。不安げに見上げた先の雲雀は、やれやれと肩を竦めると拐を袖に戻し、綱吉に背中を合わせる格好で胡坐をかいた。獄寺と名乗った青年には非常に失礼な態度として映っただろうが、眉間の皺を深めただけで特に追求する様子は見られない。雲雀は居ないもの、として扱ってもらえるようだ。
 更にリボーンが綱吉に近づいて飛び上がり、その座った。短い両足を伸ばして揺らして遊ばせる。雲雀を止めた時の鋭利な刃物に似た感覚は、遠い彼方。
「俺……いえ、私は蛤蜊家九代目より勅命を受け、時期当主たる沢田綱吉殿をお守りする任を与えられ、参りました次第」
 一人称を言い直しているところからして、彼は本来、こういった堅苦しい席は不得手のようだ。年齢が近いこともあり、綱吉が僅かばかりの親近感を獄寺に抱いたところで、彼は胸元から白い半紙に包まれた書状を取り出した。
 手渡すのではなく、畳の上に置き、押し出すようにして綱吉に受け取らせる。但し拾い上げたのはリボーンだった。
「あ、こら」
 注意をする間も無く、彼は包んでいる半紙をくるくると取り除き、中に折り畳まれて収められていた書を広げた。獄寺も止める暇を与えられず、これが当たり前の素振りをしているリボーンを呆然と見詰めている。
 上質の紙に記された達筆、雲雀が僅かに首を動かして様子を窺う中、綱吉だと軽く一時間は判読にかかりそうな書面をあっさり読み終えたリボーンは、署名の下にある押印を指で辿って確認し、小さくひとつ頷いた。
「字は代筆を頼んだようだが、押印は九代目のもので間違いないみたいだな」
 乾ききっている朱印を何度かなぞり、彼はさらりと、聞き様によってはとても恐ろしいことを口に出した。
「――九代目を、ご存知なのですか」
 いち早くそれに気付いた獄寺が、驚きを隠さぬままにリボーンに問う。問われた赤子は綱吉に書面を渡すと、「ああ」と短く言葉を返した。
「よく知ってるぞ。赤ん坊の頃からな」
「リボーン?」
 九代目は高齢であり、目の前でその高齢の人物を赤ん坊の頃から知るという存在は、どこからどうみてもその赤ん坊。怪訝な顔をした獄寺とは別の意味で事情を聞きたがった綱吉の心へ、雲雀が溜息交じりの声を投げてきた。
 ――童は沢田初代の頃から存在している。
 ハッと振り返った綱吉は、雲雀が余計な事を迂闊に口にするなと眼で警告しているのを見て唾を飲んだ。
 リボーンの正体は、神格に類するものであろうという以外彼らは知らない。そしてリボーンの存在は、蛤蜊家の中心部でもあまり知られていない。ただ沢田家は蛤蜊家初代との関係も深く、その縁でリボーンが此処に居るのだとしたら、綱吉たちが知らないところで、リボーンは独自に蛤蜊家当主との繋がりを今も維持しているという推察は成り立つ。
 沢田家現当主の家光も、その前の、即ち綱吉の祖父に当たる人物も、リボーンに関わる話題はあまり口にしなかった。綱吉にしてみれば生まれた頃からずっと家に居る、成長しない赤子という認識しかない。
「で、どうするんだツナ」
「え? 俺?」
 雲雀に意識を傾けていた最中、いきなりリボーンに話を振られ、自分自身を指差しながら綱吉は大きな目をより大きく見開いた。
「お前が決めろ、お前のことなんだから」
「なにを?」
 言った瞬間、雲雀が「バカ」と言うのが伝心で聞こえて来た。完全に呆れている声に頭を叩かれ、綱吉は片目を閉じて考える。話がどこかで大きく逸れてしまって、本題をすっかり忘れてしまっていた。
 目の前で獄寺も、力の抜けた表情で溜息を零している。彼の姿を視界に納め、綱吉は漸く、彼が綱吉の護衛として此処に逗留するのを認めるか否か、の決断を迫られているのを思い出した。
 同時に、雲雀と激しくやりあっていた口論の内容も思い出す。
 自分には、雲雀が居る。幼い頃からずっと傍に居て、そして恐らくは一生、傍に居続けて貰わねばならない。けれどあの口論の最中に獄寺が言い、リボーンも認めたように、彼には九代目からの勅命が下っている。無碍に断りを入れて、恥をかかせたと本家から言いがかりをつけられてもたまらない。
 返答に困り綱吉は視線を泳がせて雲雀に助けを求めた。しかし袖を掴んで引っ張った相手は素っ気無いもので、まだ獄寺とのやり取りを根に持っているのか、「好きにすれば?」の一点張り。
 護衛と彼は言っているが、具体的に何をするのかは分からない。しかし綱吉を守るには綱吉の傍に居るのが大前提で、そうするとまず間違いなく雲雀は、相性が非常に悪そうな獄寺と嫌でも顔を合わせることになる。さっきまでのことが毎回起こるとは信じたくないが、綱吉の気苦労は確実に増す。
 想像しただけでげんなりしてきた、断ってしまおうかとさえ思う。
 だが改めて獄寺に向き直り、彼を見返すと、目が合った瞬間獄寺は何かに驚いた風に表情を緩め、それから無理やり顔を引き締めて睨みつけてくるのだ。それにも負けずジッと彼を見据えていると、やがて居心地悪そうに獄寺から目線を逸らしていく。
 庭で最初に感じ取った嫌な気配は、まだ残っている。ただ榊の枝と、リボーンと、何よりも背中に感じる雲雀の存在に守られて、一時期のような気分の悪さは起こらない。不思議なのは蛤蜊家が遣わした人間が、こんなにも邪気に近い気配を漂わせていること。そして本人が、その気配に全く気付いていないこと。
 元々好奇心は旺盛な綱吉のこと。僅かに抱いた彼への興味が、閉塞感も漂う閉ざされた谷間の村という環境と、限られた村人との交流のみという人間関係という退屈な日常を打ち壊すきっかけになるかもしれない、という期待へ変わるのに時間はかからなかった。
 雲雀が背中で身動ぎし、綱吉の様子を注意深く見守る。そっと吐き出した吐息は諦めに近いもので、長く彼に付き合って来たからこそ分かる綱吉の内情に呆れている風でもある。彼は片方の膝を立てるとそこに肘を置き、持ち上げた手で前髪を乱雑に掻き揚げた。指の隙間に隠された瞳が、薄闇を照らす炎のように鈍い光を放つ。
 もし、獄寺が何らかの裏を持って綱吉に近づいたのであれば、全力で彼を排除するのみ。彼もまた綱吉同様に、自分達を守ってくれる暖かな籠の中で過ごすだけという日々に辟易していた。彼はもっと自由人であり、気ままに空を駆る雲に等しい存在であるのに、今はこの地に縛られ、動けないで居る。
 外から流れ込んでくる新しい風は、ふたりに、確実に何らかの変化をもたらすだろう。
 綱吉の膝の上でリボーンが、そうと知れずニッと笑む。
 獄寺を眺めていた綱吉の丸い瞳が、僅かに横に伸びた。力を抜き、口元にも薄い笑みを浮かべる。
「じゃあ、その、なんていうか……宜しくお願いします」
 リボーンを潰さぬように浅く頭を下げた綱吉に、顔を逸らしたままだった獄寺は慌てて向き直った。息を吸って、吐いて、また吸って、返礼しようとするのだけれど咄嗟に言葉が浮かばないのか両手があらぬ方向に動き回っている。
 綱吉が噴き出した。コロコロと喉を鳴らして、口元を片手で覆い隠すけれどどうしても音は漏れて、獄寺は苦虫を噛み潰した表情を作って赤い顔を脇に流した。膝の上に置いた手に妙な力がこめられ、舌打ちが雲雀にも聞こえる。
「宿とかは、どうするのかな。里で取ってあるのなら別だけど、通うのが大変そうだし、うちはいくつか空いている部屋があるから、案内するね」
 しかし肝心の綱吉はちっとも気にする様子がなく、一方的に話を終わらせると新しい話題に切り替え、リボーンを胸に抱いたまま立ち上がった。
 雲雀の背中から体温が消えうせる。紫紺の座布団が膨らみを取り戻し、先に立って歩き出した綱吉と、その場に残ったままでいる雲雀とを交互に見比べた獄寺は、最後に捨て台詞とばかりに雲雀を小ばかにした笑みを作って鼻を鳴らし、立ち上がった。綱吉を追い、歩いていく。
 人の気配が消えたところで、雲雀は立てていた膝を戻し、座布団に片手をついて身体を起こした。出したものを片付けようと、獄寺がさっきまで座っていた座布団に手を伸ばす。
「……炭?」
 黒い粉が散っていた。
 見回してみるが、部屋の中でものを燃やす馬鹿が居るわけもなく、囲炉裏や火鉢の類も此処にはない。雲雀は本当に畳の表面に、ほんの少しだけ散っているその黒い粉に指を添えた。軽く力を込めて横に撫で、拭い取る。
 鼻に近づけてみると、それは炭の匂いとは違う。今までに嗅いだ事のない、けれど嗅いだ瞬間に頭がクラリと来る異臭。綱吉が気分を悪くした理由はこれだろうか。だが雲雀はこの距離で初めて気付いたのだから、少し違う気がする。
「なんだ……?」
 顔を上げ、綱吉が連れて行った男を思い出す。自問に答える声はなし、雲雀は指先で黒い粉を押し潰し、これから先に起こるだろう騒動に想いを馳せた。
 何が起こっても、自分がやるべきことに変わりは無い。決意新たにする雲雀の頬を、柔らかな、しかしどこか棘のある風が撫でていく。
 春の嵐が、迫りつつあった。

2006/11/14 脱稿