嵐。
鼓膜が破れそうな程の風がうねりを上げ、空を裂き大地を抉り、全てを無に帰してしまおうとしているような嵐だった。
轟々と大気は渦を巻き、激しい雨がその隙間を縫って冷たい刃となり地表へと降り注ぐ。明滅する光は稲妻のそれ。光と闇、交互に世界を覆い尽くし安らぎはどこにも存在しない。
樹齢数百年を数えるであろう大振りの枝を配し、平素ならば神木として奉られる程の古木が根元からふたつに折れている。木の葉が舞い、空気は波立ち、入れば二度と戻れぬ深淵が妖しげに誘う手を広げている。
黒々とした闇、それよりも尚暗い水面。漆黒よりも深く、まるで地獄への入り口かのような其処に佇む小さな影。白い衣の裾をはためかせながら、今にも風に身体を攫われそうであるのに、その幼い両足は地表に縫い付けられたかのように動かない。
幼子は両腕を伸ばし、懸命に何かを語りかけている。
自分はそれを、高い位置から見下ろしている。
風は変わらず轟々と唸りを上げ、全てのものをなぎ払い無に帰そうと蠢いている。憎しみを、悲しみを、怒りを、あらゆる強大な感情を形振り構わずに振り撒き、幼子を取り巻いているというのに、その場所だけは静かに凪いだまま穏やかだった。
涼やかな瞳、琥珀。じっと、虚空を見据えたまま。
紅葉のような手を広げ、幼子は手招きをする。
「こわくないよ」
発せられる声は娘子のそれを思わせる軽やかな彩り。無垢に見詰める大きな双眸は聖域に隠された湖のように澄み渡り、静か。
精一杯手を広げ、背伸びをした幼子は唸り声を上げ続ける嵐の頂の一点をただ見詰める。やがて、ふっと息を吐いた桜色の唇が僅かに綻び、笑みを形作った。
広げた手を、更に伸ばす。
「おいで」
細められた瞳、穏やかな表情。嵐の中にありながら何処までも安らかで暖かな笑顔に、落雷の音が重なり合う。
「おいで」
それは自覚せぬまま、しかし力を持って命じられた声。拒絶を許さない、服従を強要する縛る力。
抵抗は許さない、認められない。
「おいで」
彼はこの意味を知らない。その代価を、結末さえも。
だが。
――おいで
嵐が。
~~春嵐~~
乾いた空気に、カーン、という甲高い音が響き渡った。
「いったぁ!」
続けざまに、変声期前の少年特有の可愛らしい悲鳴が木霊する。
どこかで水の流れる音が絶え間なく続き、少年の声に驚いた鳥が羽を休めていた枝から翼を広げて飛び去った。その光景を、視線を持ち上げて見送った雲雀は、斜め右前方で蹲り、平たい撥で殴られた頭を抱え込んでいる、明るい黒栗毛の髪をした少年へとゆっくり目線を移動させた。
少年の正面には、雲雀に背中を向ける格好で、身の丈ほどありそうな撥を手にふんぞり返っている赤ん坊の姿がある。雲雀の膝までもない背丈ではあるが、目に見えぬ力を隠そうともせず放っているおかげで、見た目以上に赤ん坊は大きく感じられる。
「腑抜けてるんじゃねえ、こんな術も出来ないでどうする」
「だって、俺がこの十年でひとつも術が成功した事ないの、リボーンだって知ってるだろ?」
びしっ、と撥の先端を少年の鼻先に突きつけて言い放つ赤ん坊に、それでも食い下がり少年は涙目ながらに現実を訴える。しかしリボーンと呼ばれた赤ん坊は聞く耳を持たず、減らず口をたたいている少年の頭に再び、手厳しい一発を加えていた。
雲雀は縹色の着物の袖口に交互に手首を差し入れ、胸の前で緩やかに腕を組ませた状態で近場の木にもたれかかった。遠目にふたりのやりとりを眺めながら、小さくあくびを零す。
平和な風景だった。
並盛の里、その最奥。深い山に囲まれた盆地に位置するこの集落で知らぬ者はないと言われる沢田の家は、歴々に名を刻む退魔の一族の末裔でもあった。風光明媚な並盛山の中腹に居を構え、日々修練に勤しみ、村と村を取り巻く周辺地域を騒がす物の怪を退治するのが、彼の一族の役割。そして雲雀の前方で黄色い茶巾袋を逆さにしたような帽子をかぶっている赤ん坊に殴られているのが、その九代目に当たる沢田綱吉だ。
彼はつい先日、沢田の家の本家に当たる蛤蜊家の十代目候補に名前が挙がったばかりでもある。
退魔とは、そのまま文字の如く、魔を退ける力の事。未だ鬼、妖、物の怪の類が跋扈する世の中、それらは人の道理を知らぬが故に、里に暮らす者にとって非常に危険で厄介な存在である。人の里に危害を加えようものならば、或いはその気配があるならば、退治せねばならない。
しかし奴らは人外のもの、只人が屈服させられるものではない。
退魔師とは、つまりは人の手に余る物の怪を調伏する力を持つ存在を指す。蛤蜊家並びに沢田家とは、そんな退魔師の力を秘めた一族の事だ。
もっとも、その蛤蜊家十代目(内定)および沢田家九代目の綱吉には、あろう事か退魔の力が一切無かったりするのだけれども。
彼はその代わりに、見魔と言う魔を見破る力に優れている。それもまた退魔師にとっては重要な能力のひとつであり、欠かせぬもの。
魔は通常闇に隠れ、身を潜ませている。人の世に現れる時はまた、美しいものに化けていたりもする。そうやって人の目を欺く術を得た物の怪というものは、見分けるのが難しい分非常に厄介な存在とも言えよう。
その時に役に立つのが、先に言った見魔の力。綱吉は特にその力が強く、沢田家の血脈の祖である宗家、蛤蜊家初代が持っていたという透魔にまで昇華されているとさえ言われている。
しかし退魔に必要な術に関しては、どれほど基本的なのものであろうと、未だかつて成功した試しが無い。
「失敗は成功の元。失敗すると最初から諦めているから失敗するんだ。次は成功させるって気持ちでやれ」
「そんな無茶な……」
容赦なく撥で何度も頭を叩かれ、綱吉は暴言を吐き続けるリボーンに涙ながらに訴えかけるものの、彼には全く効果がない。口答えしようものなら容赦ない鉄槌が続けて繰り出され、綱吉は渋々口を閉ざす。
傍から見れば珍妙な光景であるが、リボーンは、見た目は赤ん坊のそれに等しいけれど、実はそうではない。また、彼は人ですらない。
正体はよく分からないが、沢田家初代の頃よりこの地に在ったというので、土地神の類であろうと推察は出来る。しかし彼は、沢田の敷地と雑木林を経て繋がっている並盛神社の神とも、また違っているようだ。
「無茶をやってのけてこそ、蛤蜊家十代目が勤まるというもの。ほれ、休むな。次だぞ」
小気味のいい音を立て、撥が振り下ろされる。叩かれ過ぎた所為で瘤が出来ている綱吉は、本格的に泣き出しそうな顔をしながら地面にしゃがみ込み、杏色の可愛らしい、遠くから見れば娘子かと思える着物の裾を汚していた。
また奈々が嘆くな、と彼の母親の姿を思い浮かべ、雲雀は凭れていた木から背を離した。草履の裏で玉砂利を踏みしめて進み、赤茶けた土で覆われた屋敷の前庭へと舞い戻る。
人の気配を感じ、リボーンが先に振り返った。
「あまり、虐めないでやってくれ」
「虐めてるつもりはねーぞ。虐めてんのは、お前だろ」
身長差がありすぎて、びしっと向けられたリボーンの撥も雲雀には届かない。本気で言ったつもりだったのだが、茶化して返されて雲雀は曖昧に表情を濁した。その横では、綱吉がどこか恨めしげな顔をして雲雀を睨んでいる。
どうやらここでの悪役は、雲雀の方らしい。
「お前は、終わったのか?」
「とっくに」
コホン、と咳払いをひとつした後で話題を変えてきたリボーンに、雲雀は雲が途切れ途切れに流れていく空を見上げながら軽い調子で言い返す。
リボーンは沢田家に居座る座敷童であると同時に、代々の沢田家当主の教育係をも務めている。今は彼が、綱吉と、そして雲雀の師匠だった。
「早いな。後で確認するから、一寸待ってろ」
先にこっちを片づける、とリボーンが雲雀から戻した視線の先には、四つん這い状態で逃げの体勢に入っている綱吉の姿が。ふたり分、合計四つの瞳に見つめられ、気配を察した彼が怖々と振り返る。
「えーっと……」
言い訳をするにも状況が悪い。明らかに修行を放棄して逃げ出そうとしている格好の彼に、リボーンを包み込む空気が一気に黒く、冷えたものに切り替わった。
雲雀が呆れた風情で肩を落とす。
「いや、あは、あはははは」
最早笑う他ない。頬を引きつらせて乾いた笑みを零した綱吉は、その場で尻餅をついてじりじりと後退を続けた。一歩、短く小さな足を前に出したリボーンが、引き締められた口元を僅かに歪めさせ、手にしている撥で反対の手を軽く叩いている。
正直、今のリボーンには、恐れるものが何もない雲雀でさえも、太刀打ち出来る自信が無い。
せめて綱吉よ、無事に生き延びろ。そう哀れむ目を彼に向けると、綱吉は元から気弱な性格に余計拍車をかけて甲高い悲鳴を上げた。
鋭い撥の音が、静寂に包まれる並盛の山に響き渡る。
「いったぁぁぁぁぁーーーい!」
「オレ様から逃げようだなんて、五百年早いわ」
無数の鳥が一斉に飛び立つのを雲雀が見送る中、両手で頭を抱え込んだ綱吉が本気で涙を流しながらしゃくりをあげた。両足を地面に投げ出し、背中を丸めて頭の瘤を抱え込んでボロボロと透明な涙を無数に流す。一方でふん、と鼻を鳴らしたリボーンは叩き過ぎて先が曲がった撥の先端を地面に下ろし、次はお前だと傍らの雲雀へと視線を向けた。
黒目ばかりが大きい円らな瞳に見上げられ、雲雀は腕を組んだままそちらを向く。不適な笑みを互いに浮かべ、相手の出方を待ちながら腹の内を読み合う。
雲雀には綱吉と違い、見魔の能力が殆ど備わっていない。綱吉がどれだけはっきりと妖魔の輪郭を瞳に映し出していようとも、雲雀にはただ薄ぼんやりとした黒っぽい靄が、そこに煙っている程度の認識しか持ち得ない。しかし彼が振るう拐にひとたび触れれば、滅せられない妖魔は無い、とまで言われる。
退魔の力は、大まかな分類ではあるが二つに分類される。
ひとつは、己が内に秘められし霊力を特殊な呪具を媒介として行使する、幻術。
もうひとつは、何らかの武器もしくは自分自身の肉体を霊力により強化する、験術。
雲雀はどちらかと言えば後者を得意とし、いくつかの武器を経験した末、最も扱いやすいという理由から拐を選び取った。彼はそれを常に隠し持ち、いつでも対応出来るように構えている。
リボーンがジリ、と一歩前に出る。撥を握る彼の手首が僅かに動き、地面にほぼ水平に構えられていたそれが幾分か角度を持った。雲雀はそちらを注視しながらも、組んでいる腕は解かずに流れて行く空気の湿り具合を肌に感じ取っている。
袖の内側に潜り込ませた指先が、硬い何かに触れる。
緊張がふたりの間を突風の如く駆け抜けた。
「――御免」
だが、ふっ、と電撃が走ったふたりの間を裂く格好で、不意に全く別の方向から声が割り込んできた。
地面に腰を落とし、涙も乾かぬまま始まったふたりの模擬対戦に見入っていた綱吉もまた、息を呑む。彼の目の前では雲雀もリボーンも、睨みあったまま一歩も動かない。迂闊に動けば倒されるのは自分だと理解した上で、真剣勝負に断りなく乱入して来た姿を見せぬ相手に、眼に見えぬ怒りを隠せない様子だ。
「御免。沢田綱吉殿の邸宅とお見受けしますが、何方か」
声は続いている。まだ若い、男の声だ。
雲雀が深く長い息を吐き出し、袖口から腕を抜いた。指先から痺れに似た緊張が逃げていくのが分かる。気を削がれてしまったリボーンもまた、両肩の力を抜いて首を後方へと回した。
「誰か、来た?」
他に何があると言うのだろう、至極当然のことを口に出しながら綱吉は頬を薄汚れた手の甲で擦った。涙の跡が土埃に汚れ、薄茶色の線を残す。
沢田の家に人が来るのは稀だ。元々峰高い山の中腹に位置し、訪れるには数百段となる石段を登ってこなければならない。更に付け加えるならば、並盛の里に住む人々と綱吉たちとは全員顔見知りであり、今更訪ねて来ても、正面門のところでわざわざ家人に向けて呼びかけるような真似はしない。正門が例え閉まっていても、脇の通用門を抜けて勝手口から中に入り、直接奈々に会いに行く筈だ。
だから門のところに居る人物は、恐らくこの村の住民ではない。
リボーンが小さな瞳を細め、険しい表情を作る。彼は撥を裏返すとその手を軽く叩いた。ぽっ、という音を立てて木目が目立つそれが宙に掻き消える。先に気付いた雲雀が視線を足元に動かした矢先、同じようにリボーンの姿も、掌大の白い煙を残してその場から消え去った。
後には気配も残らない。最初からリボーンなど何処にも居なかった空気が、場を流れて行く。
「……誰、だろう」
困惑気味に綱吉がまた呟き、雲雀は彼にいい加減立つように促して腕を伸ばしながら、庭の先に聳え立つ巨大な、古く厳しい鬼瓦を戴いた門を改めて見上げた。
綱吉は膝、そして着物の裾を軽く両手で叩いて土埃を落とし、立ち上がる。門前にいる人物は、返事が無いのに諦めたのだろうか、暫く声は止んだ。けれど、綱吉が様子を伺いに雲雀の前へ出ようとした矢先、
「御免。何方か――」
諦めたのではなく、痺れを切らしたのか。閂が外され開放されている門を抜け、声の主が沢田の敷地内へと足を踏み込んだ。瞬間、ゾッとする他表現が思いつかない悪寒が、綱吉の足元から首筋にかけて一気に走り抜けて行く。
例えるならば、冷たく濡れたものが彼の全身を舐めあげ、不気味な笑いを耳元に響かせていった、と。
「っ!」
反射的に両腕で身体を掻き抱き、綱吉は脇に立つ雲雀の背後に回りこんだ。
陽射しは相変わらず燦々と地上に降り注いでいるのに、綱吉の周囲だけが五度も一気に温度が下がったかのようだ。カチカチと奥歯を震わせて音を響かせ、怯えながら雲雀の背中に顔を押し付ける彼に、突然何が起こったのか分からない雲雀は顔を顰め、腰から前に回された綱吉の細い腕を取った。
はっきりと分かるほどに鳥肌を立て、脈拍も上がっている。空気を震わせなくても伝わってくる綱吉の声は、音にならない意識の混濁に押し流され意味が上手く読み取れない。益々眉間の皺を深くさせた雲雀は綱吉を背中に隠したまま、今の出来事の要因と考えられる存在へと鋭い視線を向けた。
相手方も、雲雀の殺気を感じ取ったのか。門から三歩程入った地点で足を止めた男が、ゆっくりと首から上だけを庭のある方角に動かした。
かなりの距離があるに関わらず、目が合った、と両者共に感じただろう。
肩に届く少し手前に切り揃えられた黒髪の、眼光鋭い男だ。恐らくはどこかで修練を積んだ過去があるのだろう、動きに無駄が少なく油断できない。
「はいはーい、どちらさまかしら?」
雲雀もまた、腹に力を込め綱吉の手を握り返しながら男の様子を窺う。そこへ、裏手の井戸から襷で袖を上げたままの奈々が髪を振り乱して駆けてきた。
相変わらず緊張感に欠ける、おっとりとした女性である。彼女は息せき切らして男の待つ門前の石畳まで出ると、あら嫌だ、と呟いて口元を押さえてから着物と髪の乱れを軽く整えた。そして急に、背筋を伸ばして毅然とした態度を取り、両手を結んで男を出迎える。
男は雲雀から奈々へ顔を向け直し、何かを呟いた。途端彼女が驚いた顔をして雲雀たちの居る方を見る。
「綱吉、屋敷に入れるか」
雲雀は彼の臍の辺りで硬く己の手首を握り締めている綱吉の手を叩き、促した。綱吉がどうして此処まで怯えているのかは分からないが、あの男に原因があるのはほぼ間違いない。雲雀の目には人の皮を被った男としか映らないが、もしかしたら化けた鬼の類かもしれない。
ただ、そうであるとしたら、あの男は今潜ったばかりの門も無論の事、屋敷の敷地全てを覆っている結界を易々と潜り抜けてきたことになる。
山に入る手前の山門や、九十九折の石段途中にも設けられている、隠された複数の結界。それらを全て無傷で通り抜けて来ている事を考えれば、人間である可能性も捨てきれないのは確かだ。
手首を叩かれ、綱吉が雲雀の背中から顔を上げる。脇から恐々と前方を見やった彼は、しかしまたすぐに喉を擦った息を吐き出し、解いた手で雲雀の帯を硬く握り締めた。
「あれは、鬼か?」
雲雀には判別がつかない。綱吉の目を頼るしかないのに、その綱吉がこの怯えようでは正確な判断も難しかろう。だが意外なことに、彼は額を雲雀の背に押し当てたまま、首を横に振った。
「違う……と、思う」
些か自信が無い様子で、消え入りそうなまでの音量で呟く。
「なら、人か」
しかし綱吉はまだ判断しかねているようで、息を吸い込んだ後吐き出すまでに妙に長い時間が掛かった。
沈黙が場を支配する。遠く、男はまだ二言、三言、奈々に何かを告げているようだ。彼女は困惑を隠せぬ表情のまま、頬に片手を添えて応対を続けている。
この家には今、綱吉と雲雀、そして奈々以外ではリボーンしかいない。七代当主家光は長く不在だ。家光宛てに訪ねて来たならば不在の旨を告げ、それでもと押し切られた場合は綱吉が対応に出ることになる。だが先に男は、綱吉の名前を口に出していなかったか。
考えられるのは、蛤蜊家十代目を継承する内定が綱吉に下ったこと。だがまだ正式に決定したわけでもなく、なんら権限も与えられていない彼に会いに来る物好きがいるとも思えない。
雲雀はじっと、視線を逸らすことなく男の一挙手一投足を観察する。少しでもおかしな行動に出ようとしたら、即座に奈々との間に割って入るつもりだ。右腕を左の袖口に潜ませ、リボーンに相対していた時よりもずっと静かに、怒りにも近い感情を胸の奥底に灯す。
「ヒバリさん」
その彼を、綱吉が心細げに呼ぶ。
「なに」
「多分、たぶん、だけど……」
あれは、あの人は鬼じゃない。はっきりとしないまま、綱吉は乾いた舌をもつれさせながら呟いた。まだ男を直接見る気にはなれないらしく、雲雀の背中に隠れたまま様子だけを伺い、頭を浮かせると左の頬を雲雀の肩甲骨へと押し当てる。
「だけど?」
「鬼とかじゃない。分かんない……けど、でも、なんだろう」
凄く、気持ちが悪い。
腹の底からやっとのことで搾り出した声で告げた綱吉のことばに、雲雀の表情は怪訝なものに変わった。
後ろに逃げ込んだ綱吉から、もう一度門前の男と奈々を見る。男はしつこいくらいに奈々に食い下がっており、身振り手振りも交えてなにやら彼女に熱弁をふるっている。元々我が強くない彼女のこと、そのうち折れて屋敷に上げてしまいそうな雰囲気が漂っており、雲雀は溜息をついて、そろそろ締まりが緩みそうになっている帯から綱吉の手を強引に解いた。
その場で身体を反転させ、綱吉の正面を向く。彼は僅かに潤んだ瞳で雲雀を見上げ、持ち上げた拳で一度軽く雲雀の胸を叩いた。
肩越しに振り返れば、矢張り根負けした奈々が男を連れ、屋敷の玄関へ向かって歩き出しているところ。雲雀の視線に気付いたわけではなかろうが、男は一瞬だけ、雲雀たちが立つ方角を見た。
「…………」
知る由もない顔。年のころは雲雀とそう変わらないか、少し下くらいだろうか。身にまとう気配は常人ならざるものであり、退魔云々の力を一切持たない奈々が迫力負けしたのも致し方ない。
ただ、屋敷に上げた以上、あの男は客人である。綱吉の言葉を信じるならば、あれは鬼ではない。人である、とも断言できぬようだが、応対に出ねばこちらに非が生じる可能性もある。話だけでも、聞いておいて損は無いだろう。
「綱吉、童のところへ行っておいで」
リボーンは屋敷の、恐らくは神棚のある奥座敷に居るはず。そこは屋敷で一番霊気が澄んでおり、毒気に当てられた後の浄化も早い。それに何かあってもリボーンの近くにいれば安全だという確信が、雲雀にはある。
「え、でも」
「話は、僕が聞いてくる」
家光が居ない以上、代理ではあるがこの家の代表は綱吉だ。それにあの男は綱吉を訪ねて来ている、嫌だけれど向き合わねばならないという覚悟を固めようとしていた綱吉の出鼻を挫いた雲雀のひとことに、彼は俯いてただ頷いて返した。
良くないとは知りつつ、雲雀に甘えてしまう。そんな自分が嫌いになりそうで、綱吉は彼の袖を掴んだまま唇を噛んだ。
「心配ない。僕が強いのは君も知っているだろう」
その頭を軽く撫で、雲雀は綱吉の背中を押す。やっとのことで重い足を動かして、それでもまだ体調が戻らないのか、雲雀に半ば引きずられるように綱吉は玄関からではなく縁側から屋敷へと戻った。
2006/11/14 脱稿