Drowsy

 庭で、アッシュ君が干したのであろう洗濯物と、真っ白なシーツが風に煽られて揺れていたから。

 足元に古びた、けれど弦は張り替えられてまだ新しいクラシックギター。確かスマイルがこの城に来た当初から持ち歩き、愛用しているものだったと記憶している。ちょっとした骨董品であり、そういうものを専門に扱う業者などに見せたら、喉から手が出るほど欲しがりそうなものだと、いつだったかアッシュが言っていたような気がする。
 スマイルには手放す意思はなさそうで、話を聞いてもふ~ん、と相槌を返しただけで会話が終わってしまった事の方が、妙に記憶に残っていた。
 再び足元に目を向ける。
 風で飛び散ってしまったと思われる、数枚の五線譜。おたまじゃくしが踊る前の真っ白な状態が、力なく垂らされた腕と地面の間に挟まれた分だけ、なんとかその場に留まっていた。想像するに、初めはもっと大量の枚数がこの場にあったに違いない。はて、残りは……と試しに顔を上げて遠くを見渡せば、何故か庭を囲む木々の枝に一枚引っかかっているのだけ見えた。他は分からない。
 卵を掴むよりも緩い指の曲がり方で上を向いている掌から零れ落ちたであろう、年輪を刻んだ木製の万年筆が五線譜のすぐ傍に、先端を腕の持ち主に向ける形で落ちている。半ば草に埋もれる形で。
 足元から少し視線を動かした。脚が見える、黒のジーンズに、素足。履いていた靴はどういうわけか片方脱げて近くに。まさか暴れたわけではないだろうが、残る左足の靴も爪先だけに被さっていて、地面をこする踵は生身の肌が晒されていた。
 膝の上には大判の画集、表紙は閉じられている。膝の上に紙を置いただけでは書きにくいから、きっと下敷きの代わりにするつもりだったのだろう、少し力を加えても簡単に折れ曲がりそうにないがっちりとした体裁の本だ。表紙に書かれているタイトルは抽象的な文句であるが、その背景になっているのはどこかの中世都市の写真だから、その類の写真集と思われる。自分の手持ちに覚えがないから、彼個人の所持品だろう。
 更に上、シャツは濃紺と淡い水色との格子柄。胸ポケットが若干膨らんでいる。まさかと思うが、煙草ではないかとふと勘繰ってしまった。入っているものはシャツから透けては見えず分からない、後で問い詰めてやろう。
 上から三番目のボタンまで外されて、襟元は大きく開いている。間から覗くのは白い布だが、シャツではい。全てが透明の彼の身体をそうだと分かるようにする防御壁的な役割を担っている、包帯だ。それは胸元から首までしっかりと隙間なく巻きつけられ、見ている分はとても暑そうだ。しかし涼しい顔をして、彼は下半身を地面に投げ出し、上半身は太くがっしりとした木の幹に預け、首から上をやや左斜めに傾がせながら、暢気に口をぽかんと開けて寝入っていた。
 包帯に覆われてしまっている左目までは分からないが、露出している右目は硬く閉ざされている。眺めの睫毛が時々揺れるのは、夢でも見ているからなのか。一定間隔で聞こえてくる寝息は、ついさっき寝入ったばかりのものではない。後一歩進めば思い切り踏みつけてやれる距離まで近づいても、彼は目を覚ます気配や素振りさえ見せなかった。
「器用な場所で……」
 春の日差しは暖かいが、少々強い。夏本番のそれには劣るとしても、冬の凛と張り詰めた空気に刺す陽光とはまた趣が異なる。しかし彼が寝転がっている場所は大きな枝ぶりの立派な、樹齢は数百年を数えそうな老木であり、彼の頬に時折木漏れ日が落ちるくらいで昼間でありながら屋内のような暗さだった。
 また風が吹く。カサカサと草と落ちた手の間で揺れていた紙が、ついに堪えきれず宙を舞った。僅かに浮いて転がるように、或いは踊るように角を丸めて遠ざかっていく。あえて追いかけるような真似はしなかった、白紙の五線譜を拾いに走る意味はあまり無い。
 膝を折り、傍らにしゃがみこむ。息遣いが間近に迫り、寝入っている顔が更によく見えるようになった。
 木漏れ日を浴びる頬の色は、自分もそうなのだが、決して健康的とは言えない。それは生まれながらの種族の特徴の為でもあるが、彼の場合は、健康的な肌の色というものがそもそも存在しない。だって彼は透明人間であり、最も彼の体調が良い時とは即ち、彼が人の目に触れない、全くの透明になった時と言い換えられるだろうから。
 無論、憶測だが。
 それにしても、よく寝ている。
 最近睡眠不足だったという風な印象は受けなかったのだが、密かに疲れていたのか。ここ数日のスケジュールを思い返し、自分が平気なのだからそんなにハードではなかった筈だと頷く。ならば単に、居心地がよくて転寝をしているだけか。
 手元に転がっている残骸を見る限り、作曲の仕事をするつもりだったろうに。
 彼の周囲を飾っていた白い譜面はもう残り僅かだ。そのどれもが無記入で、まさかこの場所に来て早々寝入ってしまったわけもないから、多少は仕事をした形跡があるだろうに、彼の手が加えられた譜面は行方知れずできっと二度と戻ってこない筈。彼は、少しは眠る前の記憶を残して目覚めるだろうか?
 ぼんやりと横顔を眺め、なかなか起きないものだから悪戯をしてみたくなる。鼻をつまんで呼吸できなくしてやったら、彼はどうなるだろう。苦しさに飛び起きるだろうか?
 想像していたら、いつの間にか顔が綻んでいた。慌てて引き締め、改めて彼を眺める。しゃがみこむ姿勢が少し疲れてきたので、足の位置を変えて立てた膝の上に肘を置き、軽く握った両拳で顎を挟むように置いた。爪先がギターを蹴らないようにだけ注意し、距離をもう少しだけ詰めてみる。
 すうすうと、気持ちよさそうな寝息。
 頭の上で風が揺らす木立の青い音が薄く響く。木漏れ日が手の甲と、膝に踊った。
 暖かい日だが、ここはとても静かで涼しい。転寝したくなる気持ちが少し分かる気がした。
「スマイル」
 耳元で名を囁きかけると、夢の中でも聞こえたのか、むにゃむにゃと口元を動かした。残念ながらはっきりとした言葉ではなかった為に意味までは理解できなかったが、こちらの声はどうやら届いている様子。もう一度名前を呼ぶと、反応して顔がこちらを向いた。
 ただ目は相変わらず閉ざされている。時折睫を揺らして表情を百面相させる、いったいどんな夢を見ているのだろう。その夢に、果たして自分は姿を現しているのだろうか。
 そよそよと吹く風が背中をやさしく撫でる。頭上を仰ぎ見ればそこは黒に近い濃い緑が重なり合い、隙間から零れ落ちる光の粒はまるで水滴のようだ。薄暗く静かだけれど、嫌な感じはせずむしろ心が穏やかに、落ち着く感じだ。
 なるほど、うたたね日和とはこういう日のことを言うのか。
 気持ちよさそうに眠っているスマイルを眺めていると、こちらまで眠くなりそうだ。自然あくびがひとつ漏れ、慌てて口をふさぐが一度起こった眠気、なかなか消え去りそうに無い。
「参ったな……」
 特に急ぎの用事があったわけではない。気分転換に庭を散歩していたら、偶然この場所に出て、眠っている彼を見つけただけ。
「やれやれ」
 こんな場所で昼寝など出来るものかとプライドが意地を張る反面、草の上に腰を落とし彼のように地面に身体を投げ出して眠ってみたいとも思う。相反する感情が胸の中で綱引きをしている中、足がいい加減疲れてきて完全に腰を大地に落としてしまった。曲げ続けていた膝をまっすぐに伸ばし、寝入っているスマイルと平行に並ぶ。
 邪魔だったギターは少しだけ横にずらした。転がっていたペンも、無くならないようにとギターの胴体部分横に移動させる。
 少しだけ開いた足の間に両手を置き、暫くの間その姿勢でじっとしていた。風の音がいつもよりはっきりと、身近に感じて聞こえる。鳥のさえずりがした、向こうの日当たりがよい一角ではアッシュが干したと思われる真っ白なシーツが何枚もはためいている。
 穏やかな日、やさしい時間。
 スマイルはまだ目を覚まさない。
 うららかな日差しを浴び、庭に伸びる芝の色も一層鮮やかに目に映る。眩しさに、右手をひさし代わりに持ち上げて眺めているうちに、またひとつ、あくびが出た。
 カクン、と身体がスマイルの方へと傾く。意識して姿勢を戻したのを覚えているのはそれ一度きりで、それ以後の記憶は呆気ないほど簡単に途切れていた。緩やかな下降線を辿る意識は水に沈む小石のように一定の速度で、やがて波紋を水面に残しそれは完全に表から見えなくなった。

 

 ギターを軽く爪弾く音がする。
 どこか遠い国の音楽のように聞こえ、静かに安定したリズムを刻む音色に耳を傾ける。だがやがて音は少しずつ大きく響くようになり、それが自分のすぐ間近から発せされているのだと気づいたところで、目が覚めた。
 何か硬いものの上に頭がある。いつもベッドで頭を預けている枕とは段違いの硬さで、あまり寝心地が宜しくない枕だ。右肩が上になるように横向きに寝転がっているようで、指を揃えた右手が頬のすぐ前にあった。左腕は身体のラインに沿うように地面に崩れている。
 というか、ここは最早ベッドの上どころではない。左手を左右に揺すれば、熱の去った草の感触が掌一面に広がった。
 水面下で漂っていた意識が少しずつ浮上し始める。今いるこの場所がどこで、何故自分がここにいるのか。何故草を布団にして寝転がっているのか、頭が載っているこの硬いものは何か。右手を軽く揺らしてみると、指先で受け止めた感触は布、硬いと思っていたけれど少しだけ表面は柔らかい感じもする。
「起きた?」
 頭上で、声。
 ふいっと首の角度を変えて真上を見上げる。それでも声の発生源は見えなくて、背筋を伸ばして反り返らねばならなかった。視界の端に僅かに映し出される、藍色の髪。
「スマイル……?」
 ぼんやりとした声だな、と言いながら自分で思った。まだ頭のどこかが眠ったままらしい、揺れた木の葉の隙間から落ちた日差しが直接目に入り、眩しさに目を閉じた。
「オハヨ」
 よく眠っていたね、と彼は言う。先によく眠っていたのはお前だろう、と言いかけてふと、今になってようやく自分の頭があるのは彼の膝の上だと気づく。なるほど硬いけれど表面は少しだけ柔らかいのはその為か、と順番に理解していって最後にガバッと一気に勢いづけて上半身を起こした。
 バネ仕掛けのおもちゃのような唐突な動きに、驚きつつも反応を返したスマイルは大事そうに胸にギターを抱え込んでいた。その角がこちらに当たるとでも思ったのだろう。
「ユーリ、サン……?」
「何故私がこんな場所で寝ていなければならないのだ!」
 思い出した途端、腹立たしく思えてならない。昼寝をするつもりなどなかったのに、気づけばこの有様だ。背中に張り付いた草の切れ端が、身体を揺する度にひらひらと落ちていく。苦笑したスマイルが手を伸ばし、頭の後ろについているものを払い落としてくれた。
「そう言われてもネぇ……」
 困った顔で抱いていたギターを脇に下ろし、スマイルは頬を掻きながら言う。
「ボクが起きた時にはもう、ユーリはここで寝てたし」
 肩によりかかるようにして、だそうだ。このままでは自分が身動き取れないので、でも草の上に放り出すのも忍びなかったから膝の上に頭を載せて、自分は忘れかけていた仕事を再開させていたのだ、と。
 なるほど彼の傍には確かに、僅かに数枚無事だった五線譜と、下敷き代わりの写真集にペンが一箇所に取り揃えられていた。白紙ばかりだったものも、少しだけ作業が進んだのか幾らか書き込みが見える。
 だが釈然としない。不機嫌な表情を崩さずにぶすっと睨んでやる。苦笑を重ねたスマイルが、まぁまぁと手を振って宥めようとしていた。
 そもそもこいつが、こんな場所で眠っているのがいけないのだ。昼寝をするならばベッドの上、仕事をするならば机の前でやれば良いのに、何をわざわざ庭先に出てやる必要があるというのだろう。
「んー……そう言われると身も蓋もないんだけど」
 困った顔で頬を掻く。顔はこちらに向けながら、視線は彼方の宙をさ迷い言葉を捜し求めている風。
「天気も良かったから、外で仕事できたらさぞかし気持ちがイイだろうな~って思って」
 彼の目が空を仰いだ。屋根を成している木々の枝ぶりの間から覗く僅かな空の色は、鮮やかなまでの眩しい蒼。つられて上を向いた耳に、スマイルの声が被さる。
「それに、あそこで」
 庭で、アッシュ君が干したのであろう洗濯物と、真っ白なシーツが風に煽られて揺れていたから。
 物干し台に並ぶシーツの群れを指差し、彼は笑った。
「は?」
「あれ見てたらさ~、なんだかすっごく眠くなっちゃって」
「……よく分からんが」
「んー、でも実際そうだったから他に説明出来ないし」
「そういうものか?」
「ウン。ソンナモノデス」
 にっと歯を見せて笑い、胸の抱え直したギターを軽く撫でる。弦を弾くと、乾いた音が間延びした印象で周囲に広がった。
 風に溶け、流れていく。
「そういうものか……」
 ぽつりと呟く。重ねるように、スマイルがまた弦を掻き鳴らした。

 そんな、穏やかな転寝日和。