AM0:00

 その日は何故か早く休む気になれなかった。
 妙に身体が高揚している、特に日中これといった出来事もなかったはずなのに。
 普通に仕事をし、食事をし、仲間と語らい、湯船に身を浸して気持ちを休め、まるで健康な人間の如きタイムサークルで一日の活動を終えようとしていた時間帯。けれど寝所に入っても頭は冴えており、目を閉じて暫く待ってみても睡魔はちっとも訪れてくれない。何度も寝返りを打って眠気を呼び起こそうと努力を試みるが、逆に目が冴える一方で深まる闇に反し、気分は燦燦と太陽輝く昼間の感じだ。
 仕方なく、ベッドから起き上がる。素足で床に降り立ち、指先から感じ取られる冷たさに眉目を顰め、深く息を吐いて暗がりに染まる窓の向こうを見やった。
 少し身体を動かしてみようか。そうすれば自然と眠りも促されるだろう。
 疲れているはずなのに眠りたがらない身体に肩を竦め、月明かりを頼りに寝間着の上からジャケットを羽織る。靴を履き、寝台から最も近い窓へと近づいた。
 金属の錠を外し、腰の高さにある窓枠に足を引っ掛ける。ひんやりとした空気が室内に流れ込んで来て、銀色の毛先をくすぐるようにかき回した。ひとつ息を吐く、白く濁りはしないがそうなりそうな雰囲気が漂う静けさだ。
 音がしない、聞こえるのは自分の呼吸する音と観音開きの窓に取り付けられた金錆びた蝶番の軋みくらいだ。
 両足を窓枠に乗せ、上の枠に手を添えて身体の向きを反転させる。百八十度入れ替わった視界に灰色の世界と化している自分の寝室が飛び込んできた。僅かな月明かりによって床に自分の影が刻まれている、壁に掲げられた時計はあと小一時間で日付が変わる頃合を指し示していた。
 寝入るには少し早いかもしれないが、今日の労働と明日の予定を計算に入れた上で判断した就寝時間だったのに、なかなか思い通りにいかない。城に暮らす仲間はもう眠ってしまったのだろうか。彼らとて明日の朝は早い、夜更かしせぬように言い聞かせたのは他ならぬ自分なのだが。
 けれど耳を澄ませても、自分以外の誰も呼吸をしていないような静けさだけが際立ってしまい、まるでこの世の中でひとり取り残された感覚に陥りそうになる。
 そういえば、以前にも似たような気持ちを覚えたことがあった。もう随分と昔の出来事だが、瞼を閉ざし思いを馳せれば、つい昨日のことのようにも思えてくる。
 同胞を相次いで失い、ひとり城に取り残されてそれでも尚、生き続けろと強要されて死という眠りを許されなかった日々。ただひたすら眠り続け、いつかこの身が朽ち果ててくれる日を夢見ていた。
 その日はついに訪れなかったのだが。
 唐突に破られた眠りに不快感はあったが、眠る以前には無かった様々な出会いや刺激的な出来事があった。退屈だった数百年に比べれば、この数年という僅かな日数の方が遥かに有益で、実り多く充実した時間だったと言えるだろう。
 今更にまたひとり、固く冷たく、暗い棺桶に横たわって無為な時を過ごしたいとは思わない。
 背中に空気の流れを感じ取る。顎を反り、目を閉じた。意識を背中に集約させ、同時に窓枠を掴む両手を自由にさせる。重力に導かれるままに、後ろ向きに身体はゆっくりと傾く。爪先で壁を蹴った。
 タンッ、と中空でバク転の要領で身体を捻り、タイミングを計って背中の羽根を大きく広げる。下から吹いてくる風を浴び、ばっと一気に闇を裂いた翼が気圧の変化を受け止めながら少しずつ落下を穏やかにさせてやがて完全に空中で停止した。慣れた具合で羽根の動きを操作してやれば、思い通りに闇夜を風が滑る。
 背後を振り返れば城はかなり遠くになり、真上に輝く月は大きく明るい。散歩をするには適した気候だ。
「少し……見て回るか」
 上空から見下ろせば、城は広大な森に取り囲まれているのが分かる。周囲には他に背の高い建造物は存在せず、余計に城の尖塔が天を刺す勢いで聳え立って見えた。彼方北方へ目を向ければ遠くにこの国の主であるものの居城が見える筈だが、夜という視界が限られた条件下にある為か今は見えなかった。
 反対側を向けば、城と似たようなデザインだが外壁の色が白色で統一された建物がある。中心に建つ尖塔の先端には巨大な鐘が吊るされており、遠く離れたこの城にまで時を告げる音色が聞こえるのだ。
 他に目立つものは何もない。が、眼下へと目線を投げ下ろせば、深く黒々とした森の一角に、唐突に開かれた場所がある。広場というのには少々趣が異なるとこの高さからでも分かる。点々と見える灰色のものが何を示しているのか、自分は痛いほど理解できるからだ。
 ふっと吐き出した息が冷たい。もう一枚羽織って出てくるべきだったろうかと北から吹いてくる風に身を震わせながら、城へ戻るコースは取らずに今見下ろした灰色の場所へと爪先を向けた。古びた石碑が見える、表面は朽ちて刻まれた文字はかなり薄くなり、読み取るのはほぼ不可能だろう。長い年月を風雨に晒された結果であり、それはまるで滅び行く種族の行く末そのままのようだった。
 いづれ忘れ去られる存在なれば……
 最後まで時に抗う道を選んだ同胞の思いは痛いほど分かるが、その思いをひとり背負わされた者の苦悩はどうなるのか。ゆっくりと風の抵抗を強めながら地上へと降り立ち、石碑の中で最も大きなものの前に歩み出て見上げる。中央に大きめに刻まれた文字だけが、辛うじて今でも読める状態にあった。
 だが目で追わなくとも、何が書かれているか知っている。毎日のように見上げた日々は遠い過去だ。

『永久に共にあらんことを』

 陳腐な文句だと思う。願ったところで、祈りは通じず夢は果たせぬまま弾けて消えた。それこそ、呆気なく。
 それとも彼らは、死して後も共にある道を願ったのだろうか。最早聞けぬ問いを口に出す術もなく、ひとりその場に立ち尽くす。
 石碑の周囲には大小さまざまながら石碑と、かつては十字架であったろう墓標が見える。石碑は昔からあったが、十字架の墓標を立てたのは自分だ。穴を掘り印として飾りもなく、名も刻まぬ十字を地表に突き刺した。墓標の代わりであったのは確かだが、一度掘った場所を間違って掘り返し、遺骸を傷つけぬようにする為の已む無き手段でもあった。
 そうやっているうちにどんどんと道として使っていた場所にまで穴は増え、結局はこの開けた一角全体が墓場と化してしまったのだが。
 傍目には不気味極まりない場所であろう。梟の鳴き声がする、夜ももう遅い。
 しかしなかなか足が思うように動かなかった。地中に眠る同胞が、お前もこちらへ来いと促しているように聞こえる梟の声に、知らず気持ちが揺れ動く。
「私は……」
 永久に共に。それはかつての自分もまた、仲間と語らいあいながら誓った約束でもある。ならば約束を違え裏切っているのは自分なのか? 
 望まぬうちに眠りを破られたと言い訳し、望んでいながら眠りに就けない状況にあると言い訳している。故に自分は意地汚く、どうしようもない姑息な存在に成り果てているのだと思えてしまって、この墓場を取り巻く森同様に陰鬱な気分に陥ってしまう。
 このままであって良いとは思わない。
 だが、居心地の良い今を捨て去ってしまうこともできない。
 目を閉じれば、この数年で出会った多くの者達の顔が思い浮かぶ。その多くは自分とは種を異にし、寿命も大きく違う。彼らは自分に比べれば遥かに短い時を、けれど自分など比べ物にもならない程に輝いて過ごしている。
 正直、羨みたくなる。何故彼らはそんなにも生き生きと、短い生を謳歌出きるのか。その術が知りたかった。
 エゴだと、心の中の酷く冷静な部分が嘲笑っている。栄えた同胞との時代を懐古しながら、あの場所に戻れぬならばそれと似通った状況に身を置き、そうする事で自分を慰んでいる。記憶の摩り替えだ、と。
「それでも……」
 こんな時奴ならば、なんと言うだろう。
 脳裏に浮かんだひとりの顔に、その嫌味ない笑顔に、思いを重ねる。
 この苦しい胸の内を理解し得る存在など数えるほどいない。そのうちの――自分が果て無き眠りから目覚める元凶であり、今の自分の居場所を与えたに等しい存在であり、同胞無く孤独に耐えながら数百の年月を重ねている人物を、思い出す。
 目を閉じた。奴ならば、きっと、そうだ。
 呆気なく笑い飛ばすだろう。
 悩むだけ無駄だと。過ぎた時間が戻るわけでもなく、死んでいった者達の真の思いが分かるわけもない。後悔したところで一切が徒労となるしかない行為ならば、最初からしない方が良い。生きているものは死んだ者を懐かしみこそすれ、決して追い求めてはならないのだ、と。
「帰ろう」
 我が家へ。
 吐く息と共に呟き、右足を持ち上げる。さっきまで鉛のように重かった足は、随分と軽くなっていて驚かされた。
 背中に意識を向け、折りたたんで小さくしていた翼を広げる。最初はゆっくりと、次第に勢いを付けて周囲に乱気流を発生させる最中、闇の中でも厳かに聳え立つ石碑へと目をやった。
 永久に、共に。
 今も誓いは変わらない、自分がこの地に眠る吸血鬼と同種である限り、決して拭い払えぬ呪縛となって残るだろう。
 それでも、なお、自分は……

 

 帰りは城の正面から入った。 
 中から施錠されている筈なのだが、城の主を自動認識する古めかしい巨大な扉は自ら閂を外し、身を震わせて人がひとり通り抜けられるだけの隙間を間に生み出してくれた。目礼だけをして通り過ぎると、背後でまた扉が勝手に閉まる音がする。
 静寂が戻った城の中は暗い。家人が寝入ってしまった為だと分かっているが、壁の燭台で心細げに揺れる蝋燭の炎だけが足元を照らす唯一の光源となっている。
 正面ホールで一度足を止め、どちらに進むかで一瞬逡巡する。部屋に戻っても眠れる保障は無い、リビングで眠気が起こるまでゆっくりするか。外から戻ってきたばかりで冷えた身体を温める為にシャワーも良いだろう、暖かなミルクで気持ちを落ち着けさせるのも悪くない。
 だが結局どれも妙案と思えず、緩く首を振って休めていた歩みを取り戻す。脇に流れていく古ぼけた柱時計の針が鈍色の輝きを放ちながら、まもなく午前0時を指し示そうとしていた。
 そういえば今日早く休むように言いつけた時、スマイルが妙に頬を膨らませて反抗を試みていた。理由を聞いても答えなかったから一蹴してしまったのだが、今日何かあっただろうか。思い返しながら階段を上るが、自室がある階に着いても何も浮かんでこなかった。
 軽く首を傾げ、部屋へ向かう。今日は何も考えず眠ってしまいたかった。
 眠って……何も考えないままに眠りに就いてしまいたかった。
 だが、予想に反して部屋で待ち構えていたものは。
「遅い」
 ドアノブを持って扉を開けた瞬間、全く想像もしていなかった人の声が室内から聞こえ、思わず吃驚してその場で硬直してしまった。
 戻るべき部屋を間違えたのかと考える、だが見える限りの視界で巡らせた内部は紛れも無く己の部屋。ならば無人である筈の部屋から聞こえてきたこの声は……
「ユーリ、遅い」
 部屋の様子を確認していたら、同じ声で同じ台詞が吐き出された。漸く声の源に目を向けると、背後に窓から差し込む薄い光を背負い、椅子ではなく何故か机に腰掛けたスマイルの姿を見出せた。つま先を椅子の天板に引っ掛け、折った膝の上に肘を置いて頬杖をついている。表情はやや不満げだ。
 早く寝るよう言った張本人が夜にふらふらと外出していたのだから、スマイルの表情の意味は理解できる。だがどうして彼は自分の部屋にいるのだろう、寝るようにとの言いつけを彼もまた、破ってまで。
 コチコチと時計の針が回る音がする。他に聞こえるものがない静寂の中でお互いに見合って、やがてスマイルは視線を逸らし壁の方へと隻眼を向けた。
 慣れ親しんだ自分の部屋だ、彼の視線がどこを目指しているのか確認しなくても分かる。あの方角のあの角度で存在するのは、壁とそこに吊り下げられた時計だけだ。
「眠れないから少し出てきただけだ。日付が変わる前に、ちゃんと戻ってはきただろう?」
 遅いと言われても、平素ならば今くらいはまだ活動時間帯だ。壁時計を顎で示すように動き、スマイルを見返す。
 彼はそれでもまだ不満そうにして、神経質気味に指先で机の角を数回叩いた。だがやがて、諦めたように溜息を吐き出す。
「しょうがないか、今日――いや、まだ明日か」
 もう一度時計を見て時間を正確に確認し、彼は呟いた。妙にこちらの気持ちの高揚を知ったような口調に、眉目を顰めた。
「眠れなくても、ある意味仕方ない、か」
 室内に比べれば明るい窓へと一度だけ目をやり、膝の上に置いていた肘を外して机に寄りかかる。開け放しにしてきた筈の窓はいつの間にか閉められていた。だからこそスマイルは、自分の不在と夜間の外出に気づいたのだろうけれど。
 暖かくなったとはいえ、夜中に窓を開けっ放しにしたままでは身体が冷える。現に外に出ているうちにすっかり身体は冷え切ってしまった。
 ぽりぽりとスマイルが後頭部を掻く。もう片方の腕が彼の背中に回されていた。ちらりと持ち上げられた瞳がしつこい程に時計を確認し、最後はポケットに仕舞われたアンティークの懐中時計を開き、文字盤を見下ろす。
「ま。いいや」
 言いたいことはあるけれど深く追求しないでおこうと、自らに言い聞かせる風な口調で彼は呟いた。頭から腕を下ろし、懐中時計を仕舞いこむ。つま先を伸ばして椅子を斜め前に押し出し、すとんと床に降り立った。
 彼の動きを目で追う。歩幅にして一歩半の距離を間に挟み、スマイルは立ち止まった。
 先程まで背中に回されていた――時計を持っていた――手が前方に現れた。胸の前で軽く卵を握りこめるような形で拳を作り、暫くの間停止。いったい何の意味があるのか分からず、丸められた包帯の手からスマイルの隻眼へと視線を動かそうとしたところで。
 ぱんっ。
 甲高い、何かがはじける音がとても間近から響いた。一瞬遅れで、僅かな火薬の匂い、目の前を踊る色とりどりの細長い薄紙の束、ひらひらと頭上を舞う紙吹雪。
 クラッカーだ。
「……なっ!?」
 いったい、なに。
 耳を劈くような破裂音にまず驚き、降ってくる色鮮やかな紙吹雪に続けて驚く。反射的に身を竦めて肩を縮めこませていたら、ぷっと吹き出すスマイルの笑い声が次いで聞こえてきた。
 笑っている、いたずらが成功した子供のように、声を立てて楽しそうに。
「スマイル!」
 だから怒鳴った、彼の笑い声に負けないように腹の底から。目尻を吊り上げて怒りの形相で、驚かされた事への反感を表現したつもりだった。だが、笑い声は止んでも目がまだ笑っているスマイルにぴっと立てた人差し指を突きつけられ、再び拍子抜けしたような顔になってしまう。
 彼といると、どうしてこんなにも予想外の出来事ばかり起こるのだろう。
「なんだ……」
 人差し指の意味が理解出来ず、もう少し突き出されたら喉に刺さりそうな距離に不安を覚えながら彼を睨む。すると、人の喉下を指していた彼の手は、空中を滑って動き壁の一箇所を示して止まった。
 今度は振り返る。彼の指先が導くものは、壁の時計。
 丁度、午前0時を回った直後の。
「誕生日ってのとは、違うんだけどネ」
 肩越し、近い場所からスマイルの声が耳に響く。
 僅かに低い、深みのある声。夜闇に窓から差す星明りの所為か、それは深海に漂う水音のような声だと、思った。
 一呼吸置き、彼は続ける。
「君が起きた日だから」
 月明かりが差し込む礼拝堂、ただひとり残された者としての生を放棄しようと永い眠りに就いていたあの日。
 ただ無駄に過ごすだけの時間から抜け出した、あの日。
 どれだけの年月が過ぎようと、消え去ることのないあらゆる分岐点となった、あの日。
「そうだったか?」
 いわれるまで思い出しもしなかった、ごくありふれた日常に埋もれてしまった一日。わざわざ記念日になどせずともいいだろうに、彼はそれでも、目覚めてくれてありがとう、と笑う。
 未だに自分は、こうやって生きていることに迷い続けているというのに。
「覚えてたんだと、思ったんだけどナ」
 微かに聞こえる声で呟いた彼が窓の向こうへと視線を流す。ならば自分は無意識に、今は亡き者たちの眠る場所に出向いていたのか。この日を前にして。
「ま、イイケド」
 日付は変わり、自分はまだおきて動いている。それを確かめたかったのかもしれない、その為に彼はこの部屋で待っていたのか。
「いいのか?」
「イイよ。ユーリはまだ、眠ってなかったから」
 二度と目覚めない眠りに落ちてしまわぬように、再び生きる道を放棄してしまわないように。
 確かめたかったのか、彼なりに。
 珍しく弱気でいるらいしスマイルに、思わず薄い笑みが漏れる。
「それで? お前は、私に寝るなとでも言いに来たのか?」
 明日――否、もう今日だが、午前4時半には城を出ないといけない予定だ。今から眠ったところでぐっすり、とまでは無理だろうが、多少寝ているのとそうでないのとでは、仕事をする点で効率が著しく異なってくる。アッシュだけがひとり元気に走り回り、貧血で椅子にぐったり凭れ掛かっている自分の姿は想像に難くない。
 軽く笑ったまま、しかしねめつけるように彼を見上げると、困った顔でスマイルは視線を逸らす。
「そうじゃない……つもりだけど」
 頬を引っかく素振りで懸命に言葉を捜している様子だが、なかなか思うものが見つからないらしい。
「案ずるな。ちゃんと時間には起きるさ」
 もうあの日の自分とは違う。真っ白な明日に怯える子供ではない。やるべきこと、やりたいこと、まだまだ沢山残っている。無責任に放り出すのは性分ではないし、あらゆる色に染められて、染まろうとしている明日が前に広がっている限りは、きっと。
 望むべくして、明日を夢見て自分は目覚めるだろう。
 だがスマイルはまだ部屋を出て行こうとしない。そんなに信用がないのかと言ってやりたくなる。
 溜息をついた。時間も押している、そろそろ本格的に休みたい気分だ。スマイルとて、同じであろう。いい大人として仕事の時間は守らねばならないし、その為の体調管理は全て自己責任だ。
「スマイル」
 髪をくしゃっと掻き揚げる。目の前に月明かりを背負って立つ男の顔を、なるべく近くから見上げた。
「なら、時間になったらお前が起こしに来い」
「ユーリ」
「不満か?」
 普段は自分が寝入っている時に部屋に入って来ようものなら、問答無用で殴り倒してくれてやるのだが、今回は特別多めに見てやることにしよう。肩を竦め、さも仕方がないからと身体で表現してやり、笑う。
 暫くの間そうやって見つめあい、やがて先に目を逸らしたスマイルが、いつものような笑みを口元に浮かべた。
「しょうがないなー。そこまで言うんだったら、起こしてあげなくもないかナ」
「勝手なことを」
 互いに言い合って、肩がぶつかりそうな距離ですれ違う。
 自分は寝台の方へと、スマイルは部屋の出口である扉へと。
 
 振り返りもしない、顔を見合わせる必要もない。ただ一瞬肩に感じたその暖かさが、紛れもない今自分に与えられた現実であると。
 生きる意味のひとつなのだと。
「スマイル」
 彼が出て行く手前、名前を声に出し呼び止める。扉に手を置いて身体半分が廊下に出掛かっていた彼は、一瞬怪訝な面持ちでこちらを振り返った。
 薄明かりの為あまりはっきりとした表情までは読み取れないが、こちらの動向を窺っている。
「おやすみ。また明日」
 もう今日だ、という言葉は野暮なので言わない。
 スマイルは笑った。漸く、安心したように。
「うん、おやすみ、ユーリ。また明日」
 そうして扉は閉じられる。