もういいかい
まぁだだよ
長い間眠っていた。
ただ虚無に流れていく時間が空しかったから。
永劫の時を刻む身体には歳を重ねるという概念が無く、ましてや死に滅ぶなど尚更遠い次元の出来事のようだ。だが、命あるものはいつか絶えると同様、この身体も数百年、千年の後には腐り、朽ち果てるだろう。
それまで眠って過ごしても良い、そう思って眠りに就いた。
気づかぬうちに命さえも奈落の底に沈み二度と浮き上がらないよう、密かに願いもした。そうであって欲しい、と。
誰にも見送られる事無く果てるのは確かに寂しいが、誰かに、自分が想う相手に、決して美しいとは言いがたい己の死に様を見送らせたくなかった。
孤独には慣れている。否、慣らされた。
ひとり住まう城の外れ、古木が並び昼尚暗い森の中で唯一開けた、平らに均された地面に無数の穴を掘り、眠りに就いた同胞の名を刻んだ墓標を建てる作業にも、もう疲れた。残されたのは自分だけ、もはや自身の墓標を刻んでくれる存在はない。
食を断ってからどれくらいの時間が過ぎただろう。地を這ってのた打ち回る苦しみの中、喉の渇きも遠ざかった。このまま血、或いは水を一滴も飲まずに過ごせば先立った仲間の元へ出向けるだろうか。そんな淡い期待は裏切られ、失われた空腹感は絶望となって前身を満たした。
どうあっても死なせてはくれないのか。ただ種の存続を憂い、嘆き悲しみながら息絶えた長老の苦悶の表情を思い出す。これは呪いか、最も若い自分だけが生き延び、年老いたものから次々とどことも分からぬ天に召された同胞の。
死に、種を絶やすことだけは許さぬと。
耳にこびりついた言葉が離れない。同種間の婚姻を繰り返し、その血の尊さだけを求めた狂気の果てが、この結末。仲間無く、種を残す術さえ失われたというのに、どうやって血筋を守れというのか。
自ら命を絶つことも出来ず、ただ無為の時の中で孤独に過ごす道を強要されて、狂わずにいられる自信は無い。いや既に、自分は狂ってしまっているのかもしれない。その判別すらままならぬ。
誰もいなくなった城、広すぎる空間。蜘蛛の巣がそこかしこに張り巡らされ、退廃していくのが目に見えて明らかとなっても、動き回って掃除をし、以前の絢爛豪華な姿を維持したいと思わない。
どうせ綺麗な部屋であろうと、汚い部屋であろうと、生きることを放棄しながら死ねないでいる自分には関係の無いこと。外に出る日もほぼ無くなり、太陽が巡って昼なのか、月が上る夜なのかも分からぬようになり、さながら牢獄に囚われた死刑囚の如く、天井ばかりを見上げる時間が続いた。
いったい誰が用意したものか、城にいた同胞全てを弔ってもひとつだけ余ってしまった棺おけに横たわり、次第に荒れて行く天井の光景を眺めて過ごす。目を閉じて次に開かれないように祈ったりもしたが、無駄だった。ただ感覚的に、徐々に眠りの間隔が長くなっているような気はしていた。
起き上がる気力も無い。弱った腕で自分が寝床にした棺おけの蓋を上にかぶせ、完全に目に入る光景を遮断してみた。闇が押し寄せ、全身を包み込む。恐怖はなかったように思う。逆にこれでやっと、静かに安心して眠ることが出来るようになったと、安堵を覚えたくらいだ。
それからは本当に、眠る一方だった。
夢など見ない、見てもそれは過去、一族が栄えた時代の日々の記憶。しかしそれも徐々に減り、たまに思い出したように見た夢も相手の顔は識別がつかず、おぼろげな輪郭となって現れるようになっていた。
そうやって忘れていくのだろう、自分が生きている事実さえやがて消えうせる。
誰の記憶にも残らぬまま、塵となって消え去ってしまいたかった。
もういいかい
まぁだだよ
声が、した。
どれくらい眠っていたのだろう。自分が目覚めているのかさえ分からぬまま随分長い間、横たわってぼんやりしながら考える。まとまらない思考と分裂した記憶がパズルを組み合わせる形で繋がっていくに従って、殆ど白か黒でしか識別できなかった世界に色が戻り始めた。
それに伴い、自分がまだ生きている現実を直視せねばならなかった。胸の奥底から激しい痛みと苦さがせりあがってくるのが分かる。吸い込んだ空気の冷たさが肺に突き刺さって激痛を生んだ。咳き込みたい、吐き出したいのに衰えた筋力がそれを許さない。ただ全身を、頭の先から足の先まで、引き裂かれそうな痛みが貫く。
かろうじて視力は生きている。落ち窪み乾ききった眼球で見える範囲の空間を窺う。それすら槍で目を突き刺されたような痛み。ぜいぜいと喉の奥で引きつった呼吸を繰り返し、よろよろと持ち上げた自分の腕を見ても最初それが己の腕だと分からなかった。
やせ細り、今にも折れて砕けそうな、古木の枝の如く弱りきった棒のそれ。指に肉は無く、皮と骨だけになった自分の姿がザッと、背筋を震わせて脳裏を駆け巡った。
何故。
どうしてこんな姿になってまで、自分は生きているのか。
どうやったら死ねるのか。いっそ誰でも良い、この呪わしい身体を銀の楔で打ち砕いて欲しい。
「……ぅ……」
低い、地獄の底で苦しむ亡者のような声が漏れた。それが、聞こえたのだろうか。
背中を預けている棺桶に、僅かな振動が生まれた。地鳴りのような音が耳に入る。力が足りず完全に閉められなかった棺桶の蓋が、ゆっくりと右にスライドしていった。
ガコン、と最後は落ちたのだろう。ひときわ大きな音が響く。そうして、闇に慣れきっていた双眸に強烈な光が飛び込んできた。隙間から漏れ差し込む細い光などではない、全身を遍く照らす容赦ない輝きに眼球が焼ける感覚がする。瞼を閉ざしたが、薄い皮膚を貫通して真っ白な世界がどこまでも続く錯覚に陥った。
いったい、どうして。
誰かいるのだろうか、もはや自分以外誰も住まう者無く、この城がかつて大地を蹂躙した吸血鬼の根城であると知る者であれば決して近づこうとしない、恐らく退廃の一途を辿るばかりの古びた城に、来客など。
それも、棺桶があるような薄暗い地下の礼拝堂に、何の用があって。
「フム」
声が、した。
久しく聞いていない、自分以外の存在の声。しかし光に瞼を焼かれ開くことが出来ない視界では誰なのか分からない。よろよろと持ち上げていた腕を下ろすと、棺桶の縁近くでそれまで無かったものに指先が掠めた。
触れただけだというのに、鋭い痛みがそこに生まれた。苦しみに顔を歪ませる。見下ろしているであろう存在が、ふむ、とまた頷いたらしい。
「生きてるみたいネ、一応まだ」
最初は耳障りな音に聞こえたそのことばの意味を正しく理解するのに、少しばかりの時間が必要だった。
「見つけた時はミイラかと思ったケド」
吸血鬼って凄い生命力なんだねと感心した声が続く。人を馬鹿にしているのかと言いたかったが、相変わらず呼吸は苦しく、痛みを伴って辛い。それで意味が通じることばを発せられるべくもなく、ただ表情を更に苦くして思いを誰か分からぬ相手に伝われば良いとだけ願った。
通じたわけではないだろうが、暫くの間声が止む。
直後。
遠い昔に馴染んだ、甘美な匂いがどこからともなく流れてきた。途端敏感になった嗅覚が、本能そのままに顔をにおいがする方向に向けさせる。それは先程、指先が僅かに触れた存在のある方角だった。
少しだけだったが身体の向きを動かした反応に満足したのだろうか、遠く微かな衣擦れの音と共に匂いの源は顔の真上に移動した。ポトリと一滴、何かが上唇の左端に落ちる。それは顔の骨格のカーブに従って乾ききった唇をなぞった。
砂地に水が染み込んで行くが如く、それは血の気を失い完全に土色に変わっていた唇を濡らした。
更にもう一滴。
喉が鳴った。僅かに二滴、たったそれだけ。
だが急速に身体の機能が蘇って行くのが分かる。呼吸器官を動かしていた筋肉の動きが滑らかになり、呼吸が楽になると同時にそれまで苦しめられてきた全身の痛みが和らいで行く。瞼の裏側を焼く光の強さが薄くなり、更にもう一滴を唇に含ませられて漸く、ゆっくりとだが目を開くことが出来た。
そこにあったのは、見知らぬ誰かの腕。年季が入った袖の先から覗く細い腕の先から、今一度落ちようとしている赤い液体が見える。先程感じた芳しい香りはそこから強く発せられていた。
無意識に上半身を起こしてそれに近づこうとする。けれど全身を動かしきるだけのエネルギーには足りなくて、頭部が小指の先程持ち上がっただけで力尽きてしまった。
四滴目が落ちてくる。視界が更に広がった。眼球を動かして周囲を見回せる距離も広がり、真上に伸びる腕の主を見ようと右に寄せた。
人の姿をしていた。
一瞬悩んだ末、それは人の形をしている自分と同種の、異形だと判断する。
顔の半分をやや黄ばんだ包帯で覆い隠している。残る部分も色が常人とは若干異なっており、なにより滴り落ちる血の味で分かる。人ではないが、吸血鬼と同様の力を持ち、数え切れないだけの年月を積み重ねられる寿命を持つ種族だ。細かくは分からないが、唇に落ちてくる一滴ごとに全身にかつての力が戻ってくるのが分かるから、それなりに能力ある一族か、その眷属であろう。
六滴目が落ちたところで、腕は下ろされた。強い香りが逃げていく、勝手に首がの匂いを追っていった。
目が合う、隻眼だ。片方は包帯に覆われていてどうなっているのか見えない、だが露出する右目は己のそれよりも彩が強い。紅。表情は硬直しているが、目だけが楽しそうに笑っているように見えた。
「やあ、大分生き返ったみたいダネ」
まるで数百年ぶりの旧友に会う時の挨拶だ。だが、知らない。初めて会う相手だ。
こちらのいぶかしみに気づいているだろうに、向こうは漸く口元にも分かる笑みを形作って棺桶の縁に頬杖をついた。時折首を左右に揺らしながら、未だ起き上がれずにいる姿を見下ろす。
「ミイラみたいだったけど、少しはマシになったね」
口元が歪んだ。その言い草に怒りが胸の中に沸き起こる。しかし長く言葉を発する動作さえ忘れてしまったこの身体は、どうやれば相手に意思を通じさせる音を発せられるのか思い出してくれなかった。悔しくて、僅かな湿り気を残す唇を噛む。細かな皺が刻まれるその隙間に残った鉄の味に、しばし目を閉じた。
浅い呼吸を数回繰り返し、再度目を開けた時にも男はそのまま、先と同じポーズをしてこちらを見下ろしていた。
天井近く、埃に埋もれて本来の輝きを失って久しい色鮮やかだったステンドグラスの向こうから、淡い光が差し込んでいる。
それは紛れも無く、自分が暮らした城の礼拝堂であり、あのステンドグラスが唯一、地下にあるこの場所を照らす光源だ。
あれから、どれくらいの年月が過ぎ去っているのだろう。窺うように、隻眼の男を見上げた。目が合って、男の笑みの色合いが少しだけ異なるものに変わった。こちらの視線に何かを察したのだろうか、顎を置いていた腕の左右を入れ替えた。
「勝手にお邪魔しちゃって申し訳ないと思ったんだけどネ、もう誰も住んでないと思ってたから」
男いわく、城に住む吸血鬼が滅んだという伝承が語られだしてから、おおよそ二百年が経過しているらしい。城は荒れ果てたが、周辺の住人は未だに不死と謳われた一族が地中より目覚めるのを恐れ近づこうとしなかった。
そんな中、隻眼の男――スマイルと名乗った――は旅の最中、雨露をしのぐ場所として、荒廃した城に足を踏み入れたという。
最初はここが、今は亡びし吸血鬼の根城とは知らなかったらしい。だが城内を探索するうちに、噂に名高い地だと気づいたらしい。けれども誰も住んでいないのであれば別段構う事は無かろうと歩き回っていたら、地価礼拝堂に安置された棺桶を発見し、今に至る。
「つまりは、要するに、簡単にまとめると、だね。起こしておいてなんだけど、暫くボクがここにいても良い許可が欲しいんだよね」
許しがもらえなければ、既にここに暮らしている(とは言い難かったが)人がいるのに、断りもなくずかずかとあがり込み、仮宿としてであっても勝手に部屋を借りるのはマナーに反していると、男はそういうのだ。
そのためだけに、長年眠りに就き、このまま放置されていたならば永遠の眠りに落ち着けたかもしれない自分を、起こした。
なんという身勝手な言い分だろう。
「ああ。それで、ついでなんだけど」
にこやかな毒気を抜かれる笑みを絶やさず、男は傷が出来ている右手を持ち上げて人差し指を天井に向けて立てた。薄い皮膚に、閉じていない傷口から赤い雫が表面張力を破って垂れていく。
甘美な誘惑が、怒りと共に膨らんでいくのが分かる。無意識のうちに動かしているだろう男の指が左右に振れる度、甘い香りがその場で飛び散って冷静な判断力を低下させる。目覚めたばかりであり、なおかつ数百年という長い間を一滴の水さえ口に含まず過ごしてきた。空腹は絶頂に達する中、たった数滴の血だけで到底足りる筈が無い。
本能が牙を剥く。もはやとめようとも思わない。
「このまままた寝ちゃってくれても良いんだけどサ。どうせだし、折角だか――」
何かを言いかけていた男の顔が、一瞬のうちに硬直する。全身を襲った黒い影の正体が何であるかを知る前に、男は己の右肩を抉った鋭い、そして激しく熱い痛みに耳障りな悲鳴を上げた。
しかしそれさえも久方ぶりに味わう、比べるものを持たない魅惑的な喉の潤いの前に掻き消える。男の悲鳴はやがて静かになった。時折腕や足の先端が引き攣って大きく跳ね、石組みの床を叩くものの、その動きも徐々に小さくなっていく。耳元では荒い男の呼吸が続いていたが、それも暫く経てば聞こえなくなるだろう。
白かった床石の上には、地中に染み込めない赤い血だまりが広がる。男が着ていたぼろぼろの服を真紅に染め上げるのは、牙を突き立てられ、肉を引きちぎるように裂かれた男の肩口から溢れ出し、止まらない血そのもの。
ぜいぜいという呼吸が耳の奥に響く。眠りから覚めた直後の食事が、うら若き乙女でなかったのは残念だったが、それなりに力を持つだろう異形の種であるだけにか、男の血もそれなりに美味。喉を潤し、全身に失われていた力がみなぎって来るのが分かる。
やがて痙攣を続けていた男の指先が地に落ちた。つられるようにして、肉の少ない骨ばった肩を貫いていた牙と、皮を食んでいた
唇を解く。深く刺さっていたためかなかなか外れず、ゆっくりと身を起こす動きに付き従ってきた男の上半身は、こちらが完全に大地に直角に居直る前になって漸く自由を取り戻した。
どさりと重い音が静かになった空間で妙に大きく響いた。
「死んだか」
口元どころか顔の下半分が血染めになっているのを、袖を使って拭ってぼそりと呟く。今の発言が果たして本当に自分の声だっただろうかと疑問に思うほど、長い間聞いていない声色だった。思わず喉に手をやり、そこにも生暖かな滑りを感じ取る。
指先で救い上げ、垂れ落ちそうになるものを口腔に含ませた。
そうやって五本の指を順番に舐めて行き、手首に滴った分にも舌を這わせる。
数百年ぶりの食事は、少々品を欠いたがこんなものだろう。大の男ひとり分の血液を吸い尽くしたのだから、暫くは食事を探しに出なくても平気そうだ。腹のたまり具合と全身に戻った力の調子に思考を巡らせ、浅く頷く。
「あー……」
その時だった。
足元から、地に響く声がした。
思わずぎょっとなって身構えたまま血だまりの中に沈む死体を見下ろす。全身に流れる血液のほぼ全部を吸い尽くした自信がある、もはやそれは屍でしかない筈。生きていられるわけがない。
だが、実際はどうだ。こちらの常識の範囲を大きく逸脱し、気だるそうな感じではあるが、男は石床に寝転がったまま、左の腕を持ち上げて血塗れの髪を掻き毟っていた。
心持ち、先程までよりも血の気が失せている気がする。全身も血が足りていないと分かる青ざめ方だ。しかし既に死んだものと思わせておきながら、男は緩く首を左右に振り、血に染まった己の服をどこか定まらない視点で確認した後、ふらふらと覚束ない動きながら自力で起き上がった。
ゆっくりと、動作の途中で右に大きく揺らいだが崩れることはない。さながらゾンビが起き上がる仕草そのままといったところか。
そうやって男は、胡坐をかく格好で座り、背を丸め、やはり焦点定まらない目でこちらを見た。右の肩口にある二つの大きな刺し傷からは、依然として血が流れ続けていた。
満腹なのでもう甘い匂いに誘われるものの、襲い掛かりはしない。逆に気味悪さで食欲がかなり減退したくらいだ。
男は相変わらずどこを見ているのか分からない隻眼を宙に漂わせ、数回瞬きをする。それからおもむろに、左手で血が止まらないでいる肩の傷
に触れた。指先で場所を確かめた後、掌を使ってふたつの傷を押さえ込む。そのまま二度三度、揉み解すように動かした。 指の隙間から、圧迫されて表層に近かった血液があふれ出す。泡を吹いてどろりとした塊が零れ落ち、周囲に一層濃い血の臭いが充満する。思わず顔を背けたくなった。
「いっつ……」
かみ締めた奥歯のその奥から搾り出すような声。硬く目を閉じた男は傷の深さと出血の多さに喘ぎつつ、それでも尚、傷口を手でふさぐ所作をやめようとしない。いったい何がしたいのか、折角拾った命をわざわざ自分で捨てようとしている風にも見える。
呆然としながら事の成り行きを見守る他無い。既に男の身に纏う衣服は血で染まり、乾きかかっていた場所にも新たに流れ出た血が上乗せされていく。元の色などもはや判別不能、赤というよりも赤黒い色に染め直されてしまっていた。
「うっ……つー、あぁぁ」
低く呻き、顎を仰け反らせて天井を見上げて痛みをやり過ごし、溜息と共に全身に走った力を抜く。だらんと垂れ下がった右腕の先がぴくぴくと痙攣して血だまりの上で跳ねていた。
「おい」
流石にこのまま放っておくのも問題があるだろう。原因を作ったのは自分であるが。
戸惑いつつ声をかけて男へと手を伸ばす。寸前で、隻眼を開いた男はそれまで固く右肩を掴んでいた左手を開いた。
力なくそれは落ちていく。
「あー……痛かった」
死ぬかと思った、とぼやいて男はゆるゆると首を振った。こちらは、中途半端に伸ばした腕と浮かせた腰が、行き場を失ってそのままの状態で停止してしまっているのに、全く気にする様子もない。
痛かったどころか、本当に死ぬところだったのではないか。何をのんきなことをぬかすのか。呆れ顔になり、まじまじと男を見下ろしたところで、さっきまであれほど流血していた肩口の傷がふたつ揃って綺麗に無くなっているのに気づいた。
太く深く刺さった傷は赤黒く変色し、皮膚の腐敗を促していたというのに、今見てみたらそれらはどこにも見当たらない。
てっきり左肩と錯覚していたのだろうかと、ありえる筈も無いが可能性だけを頼って反対の肩を見るものの、そちらもまた無傷。改めて右肩を見やれば、恐らく傷があったであろう箇所に薄く黒い痣があるのだけ確認できた。しかしそれは、牙で貫かれたとはとても言いがたいもの。
わけが分からない。
ぺたりと床に腰を落とし直して、呆気に取られる。目の前の男は先程までの死体さながらの状態からすっかり復活して、血塗れのまま首を左右にコキコキ鳴らしている。嘘のようだが、本当に傷は消えてしまったようで出血ももう見当たらない。流された血の量は間違いなく失血死を起こすに値する量なのに、そんな気配も微塵と感じさせない。
常人ではなく、自分と同等の力を内包する種だとは感じていたが、これは少々異常だ。肉体的に優れているとされる狼人種でさえ、吸血種に体内にある血液の大半を奪われれば楽に死に至る。自分は加減などせず、空腹を満たす為に本能を優先させて血を貪った。自分の知る種族の中に、この行為を耐え抜いた存在は無い。
強靭な肉体を持ち、数百年に及ぶ寿命を持つ異形の中でも何故群を抜いて吸血種が恐れられているのか。それは単純に、その堅牢な肉体を易々と切り裂き、死に至らしめる術を持つ故。血を抜かれカラカラに乾いていても可笑しくないような輩がそこいらに居たならば、今はもう居ない同胞も思い上がらず、傲慢に生きることもなかっただろうに。
全てはもう遅いが……
「貴様は……いったい、なんなのだ」
人の城に勝手に立ち入り、人の眠りを自分勝手な理由から妨げ、挙句殺す気で襲い掛かったというのに平然としている。
何から何まで自分を否定されたような気分に陥り、泣きたい気持ちを懸命に押し留めつつ呟く。それでもこみ上げてくるものが止まってくれそうになくて、手の甲で目じりを押さえた。乾いた血がこびりつく前髪に、指先が掠める。うっすらと視界が滲んだ。
「なにって、まー、そうだね。名前はさっき言ったケド、スマイル」
まだ本調子が戻らないらしく、時折首をひねりつつ身体の部位を曲げたり伸ばしたりしながら、男がにっと口元を緩めて言った。聞きたいことはそんなものじゃないのに、どこまでも人を小ばかにしたような態度を貫く。腹が立つ。
「不満って顔だね。だけど、悪いネ。仕方ないんだ。ぼくは、何でも無い存在だから」
意味が分からない。
口をへの字に曲げて男を睨む。こちらの感情を察したのだろう、カラカラと笑って、男は自分の腕に巻きつけている包帯をゆっくりと外した。
血に濡れて硬くなってしまった包帯を、一枚ずつ剥がすように解いて行く。隙間にまで入り込んだ血液はかつて白かったであろう包帯のほぼ全面積を赤く染めていた。まだ乾ききっていない内部の血がはがれようとする包帯に張り付き、思わぬ抵抗を見せることもあった。だが確実に包帯は外され、その下に隠されていた腕が露見する。
最初は怪我でもしているのかと思っていたのだが――
「貴様……」
唖然とした声が無意識に漏れた。素直な驚きが顔に出てしまい、また笑われる。そういう反応には慣れているのだろう、男は解いた包帯の山を、見えない腕でかき回してみせた。
そう、男に腕は無かった。
しかし、恐る恐る手を伸ばして包帯が規則正しい動きを見せるほぼ真上に触れてみる。頭上で男が笑う気配がして、同時に指先に硬い、けれど柔らかい……肉と骨の存在を感じた。
見えないが、在る。
在るが、見えない為に、無い。
実在するが、存在しない。
在るが、無い。
故に、何でもない。
「お分かりいただけて?」
飄々とした態度で、男はどうやら包帯の下から現れた見えない腕を振ったらしい。だが見えない為に分からず、前髪を僅かに揺らした弱い風を感じるだけに終わる。
「お前は……生きて、いないのか……?」
「んー、ワカンナイ」
赤い包帯が蛇のようにとぐろを巻き、先端が持ち上がったり沈んだり。手品でも見ている気分だが、実際には種も仕掛けもなく、単に男の見えない腕が遊んでいるだけ。試しに聞いてみた問いへの答えも、この男らしく曖昧かつ、意味深だった。
「血は流れてるし、殴られたら痛い。当然、噛まれてもね。さっきは流石に死ねるかと思ったケド……やっぱりダメだったみたいネ」
男の見えない左腕は、身体の脇へ移動したらしい。袖が動き、見えている右腕が肩をすくめる動作をしていた。
「貴様の身体は、その……全部、そうなのか?」
「ウン」
逡巡もなく、あっさりと肯定して頷き返されて眩暈がした。 生きているのかどうかも分からない。血は流れているから、生きているに違いないだろうが果たしてその命の概念が自分達と同等かどうか問われたら、まず即答出来ない。そもそも自分の姿が見えないものが、自我を持ち存在を保持していられる事自体が常識を大きく逸脱している。
この男はどうやって、自分というものを認識し、作り出し、保ってきたのか。
俄かには信じがたい現実に、戸惑いを隠せない。
思いが顔に出たのか、隻眼を細めた男が右手の人差し指を唇に押し当てた。静かに、というポーズで停止し、その通り黙って見守っていると、少しずつ、男の姿が薄くなっていくように思えた。
いや、錯覚などではなく本当に薄れている。
瞬きを二、三回繰り返した頃にはすっかり男の姿はその場から掻き消え、完全に見えなくなってしまった。けれど腕を伸ばし、試しに男が座っていた場所を探ると、硬いものにぶつかる。いぶかしみながらも掌全体で触れてみれば、それは見えないものの、確かに人の形をしていた。
新鮮な感動さえ覚える。だから興味津々のまま、つい深く触れすぎていた。
相手が見えないということは、即ち相手が動いても分からない――無防備な姿を晒す事に繋がるというのに。
「あっ」
短い声があがった時に気づいたが、遅い。手首を掴まれた、と思う。
よく分からないまま視界が反転した。完全に予期していなかった出来事に即座に反応を返せず、掴まれた腕を先頭に身体が前のめりに倒れこんだ。一瞬だけ膝立ちになり、引き倒されたと理解する前に透明なクッションに阻まれて、床に激突する筈だった上半身が妙な位置で停止した。寸前、顔に何かが掠めたがその正体も分からない。
唇に触れたものは、柔らかかったような硬かったような。とにかく一瞬だった為、状況を理解する余裕もない。
目の前に迫ろうとしていた硬い、今は血に濡れる床に身体が竦んでうまく動かない間に、唐突に中空で自分自身が停止したのだから、無理もなかろう。目を瞬かせ、きょとんとしていると頭の上からくぐもった笑い声が聞こえてきた。
発生源は見えない。しかし、恐らく今のこの状態を冷静に見つめ返してみると、どうやら前方に引っ張られてバランスを崩し、透明化した男の膝に乗りかかるようにして、胸に凭れ掛かっているらしい――今の自分は。
逆を返せば抱きついているようなものだ、見えないだけで。この男当人から見れば、随分と自分は滑稽に映るだろう。笑い声を聞いているうちに怒りが再びこみあげてきた。思わず、握り締めた左拳を男の、恐らくは顎に当たるであろう箇所を目指し(聞こえてくる声を頼りにしたから、必然的に顎を狙う形になった)、振り上げていた。
ゴキッという骨の鳴る音が拳と耳両方を伝い、と同時に楽しげな笑い声が途切れた。どうやら目測だけの狙いも大きく狂っていなかったらしい。一秒の間をおいて、自分を支えていた透明な壁がぐらついた。今度こそ床に激突するかと思われたが、乗りかかっていた男の身体が床との間に挟まってくれたおかげで衝撃は少ない。その代わり、上と下両方からの打撃を受け、男は苦しそうに数回唸ったが。
「まったく……」
調子に乗ってしまった自分も悪いが、男の戯れも少々度が外れていた。自業自得だと身体を起こす向こう側で、男が顎を手で押さえて床に寝転がっている姿で出現した。
消えた時とは違い、唐突に。
何もない空間から突如現れた人の姿に、前知識が無ければ驚いて腰を抜かしていたかもしれない。だが自分は既にこの男が形を持ちながら姿を伴わない稀有な存在だと知っている。こっちは見えなかったから正確にどの箇所に拳がめり込んだかわからないが、男の痛みもだえる姿に、まともに顎へヒットしたと想像する。しかも笑っている最中での一撃だったろうから、もしかしたら舌でも噛んだのか。
じたばたと踵で床を数回蹴り飛ばし、うっすらと涙目で睨んでくる。
「こっちはけが人なのに、ひどいじゃないかー」
「知るか」
男の言う怪我を作ったのは自分に間違いないだろうが、肝心の傷口は男が自らの手でふさいでしまった後。説得力に欠ける。
そっけなく返すと、渋々といった調子で男は、まだ少し痛そうだったが、身体を起こした。背中に血糊がべっとり張り付いている。叩いて落ちるものではないだろうに、軽く数回その背中に男は手を回し、ぱんぱんと自分を叩いた。
その仕草が可笑しくて、つい顔を緩めて笑ってしまう。目敏く見返してきた男が、悪意が無いと分かる子供っぽい、人なつっこい笑みを作った。
「やっと笑ったネ」
してやったりとでも言いたげな声の調子だが、気にならなかった。
「そうか?」
「そうデス」
問い返すと、こっくりと頷いて来た。そうと思って見ていなかったから分からなかったが、男の動きはいちいち大袈裟で、見た目に反してかなり幼い。言葉遣いも……
「んで、話戻すんだけど。暫く部屋を借りても良いかな、じきに出て行くヨ、騒がないし迷惑かけないし。あ、勿論ご飯は自分で作るし、寝床も自分で用意するからお気遣い無く」
真っ直ぐに指を伸ばした手を胸の前で平行にして、透明な四角い箱をどこかへ移動させる時のような動きをしてから、男は随分前に中断されていた話を引っ張り出してきた。脚を崩し、楽な姿勢を作ってすっかりくつろいでいる。城の主に相対している態度とはとても言い難い。
顎を指で数回叩き、話を聞く。
「あ、勿論、起こしておいてなんだけど……これはさっきも言ったかな。また寝るようならもう邪魔しないし、起こさないから安心して」
この台詞を口にする時だけ、男は若干伏し目がちに声を潜めさせた。自分が襲われた時に振っていた話題だから、当然だろう。じろりと凄みを利かせて睨んでやると、小さくなっていた男がびくっと警戒したまま大きく震えた。
面白い、見ていて飽きない。
それに、もう一度棺桶に寝転がれと言われても出来そうにない。あの中は非常に寝心地が悪いし、飛び散った血ですっかり汚れてしまった。こびりついてしまった血の匂いを嗅ぎつつ、安眠など出来るわけもない。
腹も膨れてしまった。朽ちかけの古木同様だった腕や身体も力を取り戻し、眠りに就く以前の状態に近い。完全復活とまではいかないが、それも時間が解決してくれよう。
何故死ねなかったのかとは、今でも思う。だが不思議と、あれほど臨んでいた終わりが遠のいたというのに、落胆の気持ちは起こらなかった。亡き一族を想えば胸は痛むが、自分が生きている事は素直に喜びだった。
薄情だと怒るだろうか、それとも長老の意志通り、種の存続を第一として生き延びる道の選択を正しいと頷くだろうか。
答えを返してくれる相手はもう居ないが。
「好きにしろ」
言い捨てて立ち上がる。穿いていたスラックスの裾が床の血に貼り付いて嫌がったのを強引に引きはがし、節々痛む各部に顔を顰めながら、背筋を大きく伸ばしてみた。次いで指を曲げ伸ばし、腕を曲げ伸ばし、首をぐるりと回して一瞬だけめまいがした。
下から見上げてくる男の視線に、目を向ける。先程した返事の内容に戸惑っている感じだ。
ふっ、と笑う。
「城で暮らす事は許可しよう。私の食事と寝所の用意他をする、という条件で構わないのならば」
ふてぶてしい態度で手のひらを上向け、天井――即ち城の地上階部分を指で指し示しながら言う。途端、曇り気味だった男の表情がぱっと花開いたように見えた。
「あー、有り難う。やったー、これで屋根のない場所からさよなら出来るー!」
ばんざーいと両手を上げて無邪気に喜んでいる。いったい今までどんな暮らしをしてきたのか、聞いてみたくなる喜びようだ。
ついつい呆れてしまい、肩を竦める。それからやや頼りない足取りで、記憶を頼りに長い間踏み締める事のなかった床を歩き出そうとした背中に、やおら男が呼んで歩みを止めさせた。
振り返る、鈍色の紅い瞳がそこにあった。
「そうそう、もうひとつ、あったんだ」
立てた人差し指を左右に振り、中断してしまっていた話題が他にもあったのだと笑う。
「名前、教えてくれないかナ?」
スマイル、と名乗ったその男は。
その後、数日城に滞在し、現れた時同様予告もなくふいっと居なくなった。
それから暫くして、また唐突に城に現れて滞在の許可を伺い、了解を得て数日を過ごし、また何処かへ出かけて。
忘れた頃に戻ってくる、その繰り返し。
いつしか、それも当たり前になり、スマイルは滞在許可を求めなくなり、またこちらも与えないようになっていった。
ただ。
「スマイル、いるのか?」
透明な、どこまでも透明な彼は。
「ココに居るヨ~」
呼べば、いつでも、どこであっても。
自然と口元が綻ぶ。
そういえば、名乗っていなかったのを思い出す。
「私は……」
「呼んだ?」
今日も人なつっこい顔が呼べば間近に現れる。
「ユーリ」
楽しそうに、隻眼を細めて笑いながら、彼は私を呼ぶ。
長く呼ばれていなかった名前を。私は彼を、彼は私を。
「お前は、あの時」
「ん?」
「……いや、なんでもない」
あの日、夢の中で聞いた呼び声は。
もういいかい
もういいよ