a Smorker

 目聡くそれを見つけられたのは、ほぼ奇跡に近い。
 人外の、獣としての嗅覚がその結果を導いたとしたら、それはとても皮肉なのだけれど。
 

「スマイル」
 城のフロントロビーにあたる場所ですれ違った彼に声をかけ、呼び止める。ナンデスカ、と振り返った彼に、特に変わったところは見られない。
 あくまで表面上は。
 けれどいつもと、少しだけ違う場所がある事を既にアッシュは勘付いてしまっていて、無表情
にも思われる薄い笑みを浮かべた彼を目の前にし、やや呆れ気味にスマイルの胸ポケットの
僅かな膨らみを指で指し示した。
 一瞬だけスマイルの固まる。そのほんの刹那の動きで、アッシュの予想は正しかったのが知れた。
「何のことかな?」
「それ、出してみるっス」
「いやん、セクハラ」
「冗談は程ほどにしないと逆に格好悪いっスよ」
 スマイルのポケットを指先で軽く数回突っつくと、彼は身体をくねっと捻らせたポーズでさりげなく胸元を庇って隠した。その態度にますますアッシュは呆れ、溜息交じりに自分の長い前髪を掻きあげた。
 赤い、血の色よりも濃い瞳がふたつ、射貫くようにスマイルを見下ろす。
 獰猛な肉食獣を思わせる色合いに、小さく舌打ちしたスマイルは仕方ないといった風情で体勢を戻した。態度から、嫌な相手に捕まったと思っているのがばればれで、少なからずアッシュは傷つく。
 だが感傷に浸ってもいられない。
「スマイル、出すっス」
「えー」
 掌を上にして広げ、スマイルの側へ差し出す。反射的に唇を尖らせて不満を口に出した彼の表情は子供のように素直だ。
「どうしても?」
「どうしてもっス」
 しかもこの期に及んで見逃して欲しいと懇願するあたりが、更に子供っぽい。
 いつもどこかでスマイルにアッシュが甘いのを彼自身が知っているからの、計算に基く動きなのはアッシュだってもうとっくに気づいているのだが、こうやって素直に甘えたような態度で接してくる彼はある種新鮮なので、ついつい許してしまいたいと心がぐらつきそうになる。
 だが、だめだ。今これ以上この場で彼を行かせてしまっては、せっかく注意しているのも全くの無駄。心を鬼にすると瞼を閉じて誓い直したアッシュは、再度強く、スマイルへ手を差し向ける。
「出すっス」
「むぅ」
 重ねて繰り返し言って聞かせ、強固に譲らない。そこにあるものを出さない限り先へは行かせないと身体を張って壁を作り彼の行く先を封じ込む。玄関入ってすぐの場所で捕まってしまった為に、広いロビーの一角といえスマイルには、後に戻る道はあっても先に進む道は閉ざされてしまったようなもの。
 外から帰ってきたばかりだというのに、逃げるだけの為にまた来た道を戻るのも、個人のプライドが
許しはしない。
 反撃のつもりかアッシュを睨み付けて来るが、そんなもの痛くも痒くもない。ただ此処で本気でスマイルが
逃げの体勢に入ってしまうと、アッシュとて追いかけるのは至難の業。先手を打っておくべきだろう、とアッシュは彼の、それでもまだ胸ポケットを庇おうとしてか若干斜め前に出ている右肩を封じ込めた。
 すなわち、左手で彼の方をまず捕まえる。咄嗟に身を竦ませて逃げようという動きに移行しかかるスマイルを更に左手で追いかけて、しかし拘束するのではなく隙の出来た瞬間を狙い、彼の胸ポケットから小さな箱を引き抜いた。 
 赤い、前面に白抜きでブランド名が書かれている箱。シンプルで飾り気のないデザインは、他でもない彼が愛用している――とうの昔にユーリから禁煙令が出されてとっくにやめていなければならない――煙草だ。
 あっさりと煙草を奪われ、その後開放されたスマイルはますます顰め面を作り、拗ねた様子で足元の床を一度二度、蹴りつけた。
「物に当たるのは良くないっスよ」
「て言うか、なんで分かるのかな」
「臭い。さっき外で吸ってきたばかりっスね?」
「一時間くらい前ダヨ……」
 吸ってきた事はもう否定せず、だが見抜かれたのがよほど悔しいらしい。更に床板を踏み鳴らし、帰ってきて
早々アッシュに出会い頭で擦れ違ってしまった運命を嘆く。
「傷つくっスねー」
「返して」
「だめっス。これは没収」
 言いながら手を伸ばしてきたスマイルをかわし、手に持った煙草を奪い返されぬよう頭よりも高い位置にまで持ち上げ、アッシュは首を振って拒絶を表す。それでも尚あきらめないスマイルが、背伸びをしながら必死にくらいついてくるものの、身長差は歴然としており、無駄な徒労と終わる。
「ユーリに言うっスよ」
「ぐ」
 それでもなおあきらめきれない様子のスマイルに、仕方ないとばかりに切り札を口に出す。
 他でもなくスマイルはユーリに一番弱くて、そのユーリが一番スマイルの喫煙に反対している。彼の言うことならば大抵、多少の無茶でも聞き入れてしまうスマイルだから、一時しのぎかもしれないがアッシュがその名前を出すことで諦めてくれる場合も多い。
 案の定、あの銀の髪の青年を思い出したのか、スマイルは苦い顔をして伸ばしていた手を引き戻した。
「黙っていて欲しければ、おとなしく諦めるっス」
 だがこのひとことが余計だった。ぴくりと反応した彼が、難しい顔をして隻眼の視線を左右斜め上下に揺らし、考え込む。
「スマイル?」
「うー……じゃぁ、ユーリに言っても良いならそれ、返してくれる?」
 そんなところで悩まないで欲しい。
 がっくりと脱力してしまったアッシュを尻目に、スマイルは本気で悩んでいる様子。うーんともむーん、ともつかないうめき声を搾り出しつつ、顎にやった指を神経質そうに揺り動かして中空を睨んでいる。
 このままでは、ユーリに知られてもいいから今その煙草一本が欲しい、と言い出しそうな雰囲気だ。それではせっかく優位に持ち込んだ状況がまたぐらつくことになる。
「とっ、とにかくこれは没収っス。ユーリにもちゃんと報告しておくっスから、しっかり叱られて反省するっス」
「えーー」
 約束が違うじゃないかとスマイルは声高に叫び、握りこぶしをアッシュの胸に何度もぶつけてくる。けれど狼人間として強靭な肉体も持ち合わせているアッシュにはほとんど効果なく、殴っている本人が空しいだけ。
 ぶすっとした顔でちぇ、と舌打ちし、負け惜しみにアッシュの脛を蹴り飛ばす。
 流石にそれは少々痛かったアッシュが顔を顰め、その様子に彼は少し気が晴れたのか満足そうにいやらしい笑みを作る。
「スマイル……」
「てか、アッシュ君鼻良すぎ。流石犬」
「俺は犬じゃないっス」
 幾度となく否定し続けている事をいまさらに繰り返し、はぁ、と溜息。
「スマイルも、いい加減諦めたらどうっスか? どうせバレるっスよ」
 アッシュだけでなく、ユーリもああ見えてかなり敏感だ。僅かな違いも見逃さない観察眼は、彼らの人気をゆるぎない不動のものにするに一役買っている。ユーリあってのDeuilであり、また彼の力が強いからこそ、今後も自分達は大丈夫だと思えるのだから。
 スマイルでさえ、ユーリの前ではロクな口答えも許されない。ユーリの前に立つとスマイルも、アッシュも、等しく耳を垂れるばかりだ。まぁ、ユーリはユーリでしっかりしているように見え、案外妙なところで抜けていたりするから、どういうところでバランスは取れているのだとも思うのだが。
「そんなに臭うかなぁ……一応時間見て取れたと思ってたのに」
 自分の袖に鼻を近づけ、くんくんと嗅いでみるがスマイルには分からない。もとより煙草の臭いに慣れきっている彼に分かるはずはないのだが。
「臭いっスよ、まだ」
「うそぉ」
「嘘言ってもしょうがないっス」
 信じられないという顔をするスマイルに呆れ、息も若干臭いがすると教えてやる。
 ふぅん、と相槌を打った彼の顔が、若干、怪しい色に染まった。
「ねぇ、アッシュクン?」
 一瞬の見間違いか、アッシュを呼んだ彼の声は普段と何も違わないトーン。けれど少し音量は絞る感じで、内緒の話でもしたいのか、立てた人差し指を自分の側へ何度も曲げ伸ばししている。近づけ、というしぐさだ。
 そこでまんまと、怪しみつつも顔を寄せていってしまうのはアッシュの素直さを表していて、美点だが、同時に一番の欠点。狼人間として鋭敏な嗅覚を持っている彼の鼻先で、あろう事かスマイルは、先程から煙草のにおいが目立つと指摘されている息を、肺からいっぱいに吐き出したのだ。
 強襲にあい、反応が鈍ったアッシュはこれもまた胸いっぱいに吸い込んでしまい、顔が梅干を食べたときのようなくしゃ顔になる。息を吸えばいいのか吐けばいいのか分からず、苦しくて顔を赤くしたり青くしたりさせながら必死にもがくその隙をついて、スマイルはアッシュが握ったままでいる赤い小箱を奪い返した。
「も~らい」
 もともとは彼のものなのだから、その台詞は変なのだが、スマイルは気にしない。勝ち誇ってうれしそうに笑い、未だ玄関先で苦しんでいるアッシュにざまあみろと見送りつつ、バックステップでホールの奥へと向かう。住み慣れた場所であり、どの方角へ進めば階段があるのか、知り尽くした動きだった。
 が。
「う~~…………ぁ」
 長く呻いた後、漸く呼吸できるようになったアッシュが、身体を丸めつつスマイルを涙目で睨む。嗅覚が麻痺したような感覚の中、薄く滲む視界で逃げいくスマイル以外のものを見つけた。
 短い呟きを聞いたわけではないだろう。しかしスマイルもまた、背中にひんやりと、決して立ち入ってはならない禁域がその場にあるような、恐ろしい気配を感じ取り、足を止める。
 振り返ってはいけない。今すぐにそのまま向いている――すなわちアッシュがいる方向へ逃げるべきだ。本能が、直感がそう告げている。しかし足はまるで接着剤か何かで床に貼り付けられてしまったかのように持ち上がらず、動かない。懸命にもがいてみるが、指一本さえピクリともしない。金縛りにあったかのようだ。
 背中が冷たい汗で濡れる。早くどうにかしなければならないと分かっているのに、硬直したままの身体は必死に命令を下す脳の意思に反し続ける。
 視界の中で、アッシュが自分は知らないとぞいう顔を作っていた。その表情からも、背後にいるのが誰であるかが容易に読み取れた。
 いったい、いつからそこにいたのだろう。
「ほう……スマイル、随分とうれしそうだな。いったい何をアッシュから貰ったのか、私にも教えてくれないか」
 口調は至極丁寧、優しげ。しかし……
 凍りついた笑みでスマイルは声がした方向を恐る恐る振り返る。予想が裏切られることを百万、百億分の一の確率であっても期待したのだが、あえなく夢や希望は打ち砕かれた。
 そこに立っていたのは間違いなく、他の誰でもない、我らがリーダー。
 銀色の髪と白い肌、鋭い牙に真紅の瞳。闇夜を切り裂く漆黒の翼を持ち、その甘美な歌声は世の全てを魅了する。
 怪しげな微笑みを湛え、すらりとした肢体を佇ませて、ユーリはそこにいた。
 細めた目は表面上笑って見えるが、その内側に渦巻く感情がどのようなものであるかなど、言葉にしなくてもひしひしとスマイルに伝わり、真綿で首を締め付けるように彼を圧迫する。スマイルの隻眼に、ユーリの背後に真っ黒い闇が渦巻いて見えるのは、気のせいだと思いたかった。
「いや、これはその、あの、なんていうか……」
 言葉につまり、視線を宙に漂わせスマイルはしどろもどろに受け答えしようと試みるが、うまくいかない。呂律が回らなくなった舌を噛んで、その痛さに俯いた。
 今この場で床が抜けてくれないだろうか。そんなことさえ思いながら。
「で? なにを貰ったのだ?」
 ユーリの声は先程とかわらず、穏やかに、にっこりと微笑む彼はもはや地獄の修羅に等しい恐ろしさだ。
 だらだらとスマイルの全身全部の汗腺から汗が溢れ出す。一度振り返り、ユーリの視線に居竦んだ状態から一歩も動くことが出来ず、言い訳をする力もその微笑に全て吸い取られてしまった。
「う……えと、そのぉ……」
 助けてくれる人を求めて瞳だけで周囲を見回すが、とばっちりを恐れてかアッシュが台所方面へ逃げていく後姿が消える瞬間が見えただけ。広すぎる城に暮らすのがたった三人、というのが命取り。
 ユーリの笑顔がスマイルに迫る。細められた目だけが、笑っていない。
 直後、スマイルの絶叫が音響効果も格段に宜しい玄関ホールに響き渡る。

 その夜食事の席にスマイルの姿はなく。
 また、城の外、屋根の上から吊るされたロープの先端に、頭を下にして簀巻きにされたスマイルがぶら下がっている姿を何人かの夜の住人が確認したという。