that Day

 欠伸を噛み殺し、眠い目を擦ったユーリは気を抜くと左右に揺らいでしまいそうになる両足を叱咤して廊下を歩いていた。細く長い通路は永遠に続く闇の中に溶けて消えてしまいそうで、終わりがないように思えてしまうのが不思議だ。明け方に間近い時刻が、その印象を後押ししているようでもある。
 窓は閉ざされ、時折壁に据え付けられた燭台から、頼りない炎が蝋燭の上で揺れているばかり。己の手元さえも曖昧な輪郭しか映し出せない瞳を細め、この時間になってから漸く完成を見た楽譜の束で顔を仰ぐ。
 バサバサとひとまとまりに重ねられた紙が端を擦れ合わせ、やや不快な音を刻み込む。眠そうな顔をしていたユーリは更に剣呑な表情を表に刻み、整った眉目に深い皺を作り出した。
 そんな顔でいたら、ずっとそんな顔のままになっちゃうよ。
 いつだったか、不機嫌を隠そうとしないユーリの眉間に指を突き立てた男が笑いながら言った台詞を思い出す。そんなに酷い顔になっているのだろうかと、自分では決して見えない自分の顔を想像してユーリはスコアの端で頬を掻いた。
「ん?」
 この城でユーリ以外の、昼間でも自由に動き回ることが出来る存在はもう既に就寝している筈で、だからユーリの足音以外に物音は響いて来るわけがないのだが。もっともユーリが今歩いてきた廊下の中央には真っ赤な絨毯が敷かれていて、その上を行く限り足音が沈黙する城内に反響するのもあり得ない。
 だとすれば、今ユーリの耳が捉えた、何か固いものが擦れ合う音は何だったのか。
 音の発生源を探り、ユーリは視線を巡らせる。だが暗い城内に頼るべき明かりは乏しく、吸血鬼の瞳といっても限度はある。アッシュのような百メートル先で落ちる針の音まで聞き分けられる聴力も持ち合わせておらず、自然と瞳は細められて眉間の皺は益々厳しくなった。
 吸った息を吐かずに留め、注意深く周囲を窺う。
「……下?」
 廊下と何もない空間を遮っている手摺りに片手を置き、翼があるので落ちても平気なのだが咄嗟に反応出来ないのも困るので、なるべく注意深くしながら階下を窺う。吹き抜けを囲む形で伸びている楕円の廊下から身を乗り出したユーリは、まだ耳を澄ませば微かに聞こえてくるような、来ないような、そんな音を拾い上げようと必死になった。
 目を閉ざし、奥歯にやや力を込めて噛みしめる。
 がたん、ごと。
 やはり、音はする。自室へ戻る為の道のりをひたすら進み、間もなく目的地に到達しようとしていたユーリは、しかし逡巡してスコアを潰れぬ程度に握って腕を組んだ。
 音が階下から発せられているものだと判明した時点で、何処の部屋からのものかも曖昧ながら判別がついた。いや、というよりもそれ以外に考えようの余地がない。
「まだ起きているのか」
 自分は棚に上げ、舌打ちついでにユーリは呟く。言うか早いか、彼の背中で唐突に風が膨らんだ。
 平時は小さくコンパクトに、羽ばたかせても頬を撫でる微風程度しか生み出せない翼が、今や彼の身体を包み込める程の蝙蝠羽に進化していた。先端に鋭い爪を持った赤い漆黒の翼で、冷たい夜の空気を打つ。
 そのまま彼は、右手を預けていた手摺りに左の爪先を登らせた。右足で床を蹴り、己の肢体を中空に投げ放つ。ばふっ、と広げた布が空気抵抗で膨らむ時に似た音が彼の耳元で爆発して、視界を180度反転させたユーリは重力に導かれるまま逆立った髪を梳き流すとワンフロア分の距離を落下した。
 正しくは、手摺りを乗り越えてひとつ下の廊下の天井に当たる、裏を返せばさっきまでユーリが居た階の廊下の裏側にあった出っ張りに指先を引っかけ、そこを軸に逆向いていた身体を正位置に立て直した。そうすれば自ずと彼の足裏は二階部分の廊下を隔てる手摺りの上に降ろされ、掴んでいた天井飾りを離しても背中の翼が絶えず風を操作しているのでもう落ちる心配も無い。
 渦巻く風を、けれども徐々に小さくさせてユーリはまた半眼した。もっと詳しく音の発生源を探るべく注意深く周囲を窺い、唾を飲む。
「やはり」
 彼処か、と呟いてユーリは真ん中で潰れてしまっていたスコアを広げて皺を軽く伸ばした。薄暗い燭台の灯では心許ない為、作業の途中で諦めて今度は縦に丸めて持つことにした。
 最後に風を膨らませた翼はユーリが本来そういう役目は持たない手摺りの上から廊下へ降り立った瞬間、普段のサイズに縮小されてコンパクトに形を変える。名残なのかぱさぱさ乾いた調子で風を生み出そうとするが穏やかな微風は残念ながらユーリには届かなかった。
 丸め持ったスコアで自分の肩を叩き、ユーリは大股に数歩進んで音が聞こえて来た部屋の扉を探した。
 階段は遙か向こうに。端的に言ってしまえば、階段を迂回するだけの距離と手間を惜しんだユーリの先程の行動だ。
 上の階よりも更に薄暗さを増している廊下を、だが歩き慣れている為に淀みなく進んでユーリはひとつの扉を見つけ出す。誘っているのか招いているのか、偶然か、わざとか。この場で思案巡らせたところで分かるはずのない数センチの隙間を作り出す、閉まりきっていない扉から漏れ出す光が、室内にいるだろう存在が未だ活動中であると教えてくれる。
 音合わせと編曲を兼ねた練習で、まだもう少しと粘るユーリに閉口した挙げ句、早々にミーティングルームを抜け出したのは他ならぬ部屋の主ではなかっただろうか。そう言えば妙にそわそわして落ち着かない様子で、心此処に在らずと言った感じで視線も一カ所に集中していなかったように思われる。
 集中力の切れた相手を長時間拘束したところで、良い結果が導き出せるとは思えないとスマイルの退室を許したユーリではあったけれど。踵を返した彼から、そうなった原因をもう少し追求しておくべきだったろうかと今更に後悔する。
 うきうき、という擬音が似合いそうな足取りだったスマイルを思い出してユーリは臍を噛んだ。出来るだけ気配を殺し、静かに半開きの扉へ指先を引っかける。僅かな隙間に爪先を挟ませ、ねじ込ませる時の反動で扉が作る空間を広げようと言うのだ。
 そうしてなんとか中がうかがえるまでに隙間を広げて、ユーリは紅玉の瞳を細め、中を覗き込んだ。堂々と戸を開けて中に踏み込んでも構わないのだが、時間的にそう言った好意も憚られる感じがして、引け目が先立った結果だった。
 そうっと眺めた両側を闇に阻まれた景色は、視界が焼かれそうな明るさに満ちていた。部屋の中央近く、半分隠れてしまった場所の床に直接腰を下ろしたスマイルの肩が見えて、集中しているのかユーリが扉口に居るのにも気付かず、振り返りもしない。よくよく目を凝らしてみると、胡座を組んでいるらしい彼の膝の傍にはなにやら、細かい部品らしきものとそれらを組み立てるに必要なペンチやらニッパーの姿が見えた。
 またプラモデルか、とユーリは嘆息する。そう言われてみれば、先日彼が巨大な荷物を抱えて帰ってきた事を思い出す。両手で抱えても足りない程の大荷物の中身まで具体的に聞いていないが、恐らくは今彼が部屋中に広げているものがその正体だろう。
 片手で額を押さえ、ユーリは綺麗な眉目に皺を新たに刻み込ませる。
「まったく」
 どうして彼は、こうも遊ぶことを優先させるのだろう。ユーリにはさっぱり分からない彼の趣味に唇を浅く噛み、このままでは徹夜をも辞さないだろうスマイルの寝不足具合を天秤に掛けた。夜明け後の仕事も込み入っている、少しでも休んでおかないと途中で倒れたところで休みは許されないのだ。
 体調管理もれっきとしたプロの仕事のひとつ。例え自分の趣味の為であっても、仕事に万全を尽くすという天秤の片側を天井高くまで持ち上げるには足りない。
「スマイル」
 名前を呼び、ユーリは僅かな隙間だけを作り出すに留まっていた扉を思い切り押し開けた。
 目の前に目映い光が溢れて広がる。網膜を焼かれそうな感覚に一瞬だけ息を詰まらせたユーリではあったが、息を呑んで吐き、決意の思いも含めて一歩室内に踏み込んだ。
 声に漸く気付いたスマイルが、自分の膝からもはみ出しそうな大きさをしたプラモデルを手に驚いた風情で振り返る。まだ完成には遠そうな、下半身だけがなんとか形を成しているそれは、彼が愛して止まないアニメに登場する巨大ロボットらしかった。
「げっ、ユーリ」
 扉口からゆっくりと近付いてくる存在を改めて認識し、スマイルはしまったと言わんばかりの表情を浮かべて直後失言した自分の口を押さえこんだ。しかし時既に遅く、しっかりとその耳で聞いたユーリはこめかみ近辺の筋肉をヒクつかせながら右手に拳を作った。
 二秒後、逃げようかと腰を浮かせたもののまだ完成半ばのロボットを手放すわけにも行かず、半端な体勢で狼狽えていたスマイルの脳天にユーリの鉄槌が下される。ズガンと頭蓋骨が陥没していそうな音がして、大事に胸に抱え込む直前だったギャンブラーZの下半身部が衝撃の反動で床に落下する。
「あ~~~~~~~!!!?」
 明け方までまだ少しという時間帯にお構いなしでスマイルが悲鳴を上げる。これは今頃恐らく夢の中にあるだろうアッシュにも聞こえたのでは無いかとユーリは危惧したが、あの神経図太いだけが取り柄のような狼男がこれしきで目を覚ますとも考えにくい。現に数分待っても廊下を何事かと騒ぎながら駆けてくる存在は現れず、無意識に安堵の息を漏らしていたユーリは、落下の際にぶつけた部位が壊れてしまったらしい巨大プラモデルを前にうちひしがれているスマイルを見下ろした。
 彼は、自分が殴られた場所よりも、作っている最中のプラモデルが壊れた方が余程痛かったらしい。溜息が漏れる。
「まったく……」
 呆れてことばも出ない。胡座を崩して膝を床に押しつけた前傾姿勢を作るスマイルが、弾け飛んでしまったパーツを探して必死の形相で這い蹲っている。この熱意をもう少しばかり、バンド活動に差し向けてくれれば楽なのだが、とリーダーとしての苦悩を思い出したユーリの巡らせた視線のその先に、見慣れぬものが置かれていた。
 スマイルの机の上、四角と三角を組み合わせた奇妙な形をしている。レンズらしきものが全面に付属していて、まだ床で四つん這いになっているスマイルの臀部を爪先で蹴り飛ばしたユーリは、彼の無言の怒りを受け流し机上の物体を指さした。
「あれは?」
「……どれ。ああ、ポラロイド」
 そこまでショックだったのか、片方だけが露出している瞳の目尻にうっすらと涙まで浮かべていたスマイルが、投げやり気味に振り返ってユーリをひと睨みした末、指し示された方角に視線をやってやはり投げやりに呟いた。
「ポロ……?」
「ポラロイド。ああー、もう。どこ行っちゃったんだよ~」
 即座に正しく言い返せなかったユーリに、重ねて告げ、スマイルは地団駄を踏むように床を結んだ拳で叩いた。細かな部品が一瞬だけ宙に浮き、いくつかが転がったり倒れたりした。
「ポラ……?」
「ポラロイド! ポラロイドカメラ。知らないの?」
 苛々した声でスマイルが繰り返し言い、やっと見つけたパーツを掌で大事に掬い上げる。もう見失わないよう、組み上がっている部品の間に並べて置き、彼は立ち上がった。
 大股で机に向かって進み、ユーリが凝視していた物体を手に取る。裏返してなにかのボタンを操作したかと思うと、唐突に彼はレンズが嵌った方向をユーリに向けた。
 かしゃっ、というシャッター音が小さく聞こえた。一瞬の閃光に瞳が焼かれ、網膜の奥に光りの残滓が刻まれたユーリはムッと口角を下向けて唇を噛み、スマイルを睨んだ。
 だが意に介した風情もない彼は、手にした箱を今度は自分の側へ向けて中から出てきた紙を引っこ抜いた。真っ白い長方形の、紙というには少々厚みがあるそれの端を抓み、前後に振って風を浴びせている。
「?」
「ん、出てきた」
 首を傾げているユーリの手前、二分ほどしてからスマイルは手首の運動を止めて抓んでいた紙を彼へ差し出した。裏側は依然真っ白だったが、表側は違っていた。
 長方形の紙に、正方形で色が出ていた。中央から少々外れてしまっていたが、しっかりとユーリの輪郭を形取った色が、だ。
 朧気に映し出されているそれは、渡された方向のままに手にとって初めて分かったが、どうやら写真の……印画紙のようであった。片面だけの特殊なインクを塗布されたそれは艶を含んで光を反射し、徐々に浮き上がる色の不可思議さを助長していた。
 方向を反転させてゆっくりと、はっきりと映し出されてゆく自分自身の一瞬前の姿に、ユーリは僅かながら驚きの表情を作り出す。
「これは」
「だから、ポラロイドカメラだって言ってるでしょうに」
 しつこいな、と嘯いてスマイルは手の中の箱をユーリへと押しつける。上部に埋め込まれている銀色の丸いボタンを指差し、それからファインダーの在処を教えてフラッシュのランプを示した。
 やり方は普通のカメラとほぼ同じだが、違うのはその瞬間に焼き付けが行われる事。フィルムではなく直接印画紙をセットする為、両手の平に乗せてもはみ出る大きさなのだと簡単に説明したスマイルは、試しに押してみてごらんと、ユーリから手を離した。
「…………」
 大体こんなもの、どこから出してきたんだと半信半疑のままユーリはカメラを構えて言う。素早くカメラのレンズから身体を逃したスマイルは、一度にプラモデルを大量に買った店で、おまけとして貰ったのだと軽い調子で応える。
 それでもしつこくレンズでスマイルを追いかけるユーリは、こんな高価なものをよくくれてやる店があったものだな、と微妙な呆れを口に出し、逃げ切れずにシャッターを押されてしまったスマイルが、そんなに高価なものではないと頭を掻いて呟いた。
 ポラロイドカメラの側面から、先程同様に印画紙が輩出される。待ちきれない様子でそれを引っこ抜いたユーリだったが、表にも裏返してみても、何も印刷されていないのにまた首を捻った。
「不良品」
「…………」
 失敗したではないか、とカメラごと白紙の印画紙をスマイルに押しつけようとしたユーリが唇を尖らせたのを受け、彼はカラカラと声を出して笑い顔の前で手を振った。
 床に胡座を組み直して座ったスマイルが、最初に撮影したユーリの写真と今渡された白紙の印画紙を揃えて持ち、新しい方を何度も風に揺らした。湿っていたそれが乾燥するに従って、徐々に、画像が現れ始める。
「直ぐには出てこないよ。待たなきゃ」
 辛抱が肝心、と少しだけ色を滲ませてきた写真をユーリに返す。彼の前で膝を折ったユーリは、言われた通り確かに遅れて現れだした画像に、けれど口をへの字に曲げてまたスマイルへ突っ返した。
「写っていない」
 お前が、と言う。
 ひょっと首を伸ばして逆向きに見える小さな四角い窓を覗いてみれば、確かにそこに刻まれている景色はスマイルの部屋そのものに違い無い。だが、ファインダーを覗くユーリの目には、他ならぬスマイルが、少々斜めになっていたものの、確かに映っていたのだ。
 だのに、一瞬を刻んで記録するカメラという媒体は、スマイルの存在を透過した。
「ま。ネ」
 仕方がないでしょう、とこともなげに笑ってスマイルは自分に差し向けられた印画紙を押し返す。
 だって自分は透明人間なのだから、と。
 少しだけ表情を曇らせ、けれど分からないように誤魔化した曖昧な笑みを口許に浮かべて、彼は。
 スマイルは。
 ユーリは視線を伏した。膝の上に置いたカメラを両手で抱き直し、何を思ったのかまたスマイルに向かってシャッターを押した。
 フラッシュが目映く輝く。不意を突かれて逃れる術もなく真正面から受け止めざるを得なかったスマイルが、呆然とした面持ちでユーリを見返していた。その前で吐き出された印画紙を力一杯無駄なまでに振り回して乾かし、薄く現れた床に散らばるプラモデルのパーツばかりの光景に奥歯を噛んだようだった。
 だん、と膝で力任せに床を打つ。三度目に焚かれたフラッシュでそろそろ目の奥が白く染まりつつあったスマイルは、どうしたものかと困惑気味に頬を引っ掻いた。
 彼が写真に写らないのは、何も今に始まったわけではない。写ろうと思えば全く出来ないわけではないのだが、意識して強く自分の存在を強調せねばならず、長時間持続させるのは膨大なエネルギーが必要となり、スマイルは嫌っている。別に自分が写らなくても良いではないかと思うのだが、全員揃わないとダメだと言い張るユーリに渋々従っているのが現状だ。
 本当はテレビにだって出たくないのだが、やはりユーリがどうしてもと言うのでつきあっている。そして時々放送収録中に集中力が途切れ、突然画面から姿を消してしまう失敗も一度や二度ではない。
 謳うのは好きだ、ライブも好きだ。だが、殊更自分が透明だと思い知らされる映像媒体は、嫌いだった。
「ユーリ」
 もういい加減諦めなさいと、ポラロイドカメラの中に収められている印画紙が尽きるまでスマイルを映し出そうと躍起になっている彼に呟く。肩を竦め、隻眼を緩めるが最後まで彼は、ユーリの撮影に甘い顔をしてやらなかった。
 そのうちシャッターをしても無反応になったカメラを、やり場の無い怒りを抑えきれなかったユーリは力任せに床へ叩き付けた。元々無償で手に入れたものであるから、付属されていた印画紙以外はスマイルも用意していない。
 床の上にプラモデルのパーツ、部屋の光景だけが映し出された写真、そして壊れてしまったおもちゃのようなポラロイドカメラが散らばった。
 肩を上下させて大きく息を吐いたユーリは、何故かこみあげてくる涙を必死で噛み殺し、赤くなった鼻の先を擦って喉の奥に蟠る空気を体内奥深くに押し込む。
 スマイルが、ユーリの癇癪の被害を受けた哀れな機械を拾い上げ、労るようにそっと両手で包み込んだ。凹んでしまった部位に指を這わし、優しい手付きで撫でやる。
「ユーリ」
 少しだけ咎める語調を含ませて、スマイルが重ねてユーリの名を呼んだ。
「五月蠅い」
 出所が出所なだけに、引っ込みがきかない不機嫌を自分自身でさえ持て余して、ユーリは喉奥に引っかかる声を無理矢理音に乗せて吐き出した。気を抜くと泣きそうになっている自分が分かるだけに、腹筋に込めた力が余計に声色を低くさせている。
 スマイルが大袈裟に溜息を吐くのを目の前にして、我慢しきれずユーリは唐突に立ち上がった。追いかけて上向く彼の視線から逃れるように顔を背け、次々に形を露わにさせていく写真にひとかけらとして現れない人影の本体を思い切り蹴りつけた。
「あたっ!」
 それこそ不意打ちに等しく、避けきれなかったスマイルが固い革靴の先端で脇腹を抉られて仰け反った。抱えていたカメラがまた床に落ちて、哀れにも破壊が進行してしまったようだ。何の非もないのにあんまりな仕打ちに、物言わぬカメラもややお冠といったところか。
 ユーリはけれど振り返りもせず、
「寝る!」
 言わなくても良いだろうにわざわざ大声で宣言して、スマイルの部屋を出て行った。それこそ室内に突如吹いた嵐の如く彼の部屋を荒らし回っただけのユーリに、いったい何をしに来たのだろうと今頃になってスマイルは首を捻る。
 乱暴に閉ざされた扉の音に首を竦め、思い出したように壁の時計を見やった彼はやっと、現在時刻を認識してそれでか、と舌打ちする。
 すっかり色々なものが散らばって原形を留めない部屋を見回し、彼は見慣れないものを部屋の片隅に見つけた。
 丸められた紙の束、広げてみればそれはユーリの字で細かく、何度も修正した痕が目立つスコアだった。時には乱雑な筆跡も見えるが、読みやすくまとめられているそれを端から順に目で追っていき、スマイルは嘆息する。
 悪いことをしたな、と心の中で呟いても聞く者は居ない。
「明日謝ろう」
 これを返すついでに、悪かったとひと言だけ。それでユーリが納得してくれるかどうかは分からないが、バンドリーダーとしての重圧に負けぬようにひとりでも必死に足掻いている彼を、決して莫迦にしたつもりはないのだと伝えておきたい。
 散らばった十数枚の写真を一枚ずつ拾い集め、ひとまとめにしてスマイルはそれをスコアの間に挟み込んだ。一番上に、最初にスマイルが撮影したユーリの写真を置き、残りは意味も無い風にしか見えないスマイルの部屋の写真を重ねて。
 そしてスマイルは、スコアごと写真に手を翳す。握った指先を直ぐに開いて、代わりに隻眼を細め、閉ざした。
「いつか。……いつか来る、何時かに」
 今のこの時に在る自分の代わりに、ユーリに笑いかけてあげて欲しい。
 祈りを込めて、スマイルは固く拳を握りしめた。
 翌朝ユーリの部屋にはいつの間にか、スマイルの部屋に置き忘れたスコアとポラロイドカメラで撮影した写真、そしてどうやったのか元通りに修復されたカメラ本体が置かれていた。
 とても眠そうに起きてきたスマイルに珍しく怒ることなく、ユーリはただ寡黙なまでに自分の仕事を推し進める。途中の休憩時間にこっそりとスマイルの部屋を覗いたユーリは、とっくに完成を見ていると思っていた巨大ロボットが夜明け前の時と変化無い姿で転がされているのを見つけ、すとんと胸の奥に凝り固まっていた塊が落ちるのを実感する。
 その日のうちに下げられたスマイルの頭に、緩い拳で一応殴打はしておいたものの、それ以上は何も言わずユーリはスコアと一緒に、写真の束も棚の一角に片付けた。

 そうして、やがて。

 いつか。

 何時か、が。
 

 空虚になった空間で、ユーリはひとり、乱雑に積み重ねられる一途だった棚の片付けを始めていた。
 もう手をつけることもなくなったスコアの山を前に、あの頃は楽しかったような気がすると、空っぽの心が感慨深げに呟くのを他人事のように聞く。
 誰ひとり残らなかった城に佇んで無為に流れる時間を過ごす。最早彼に笑いかける存在は無きに等しく、己以外の声さえも随分長い間耳にしていなかった。ただ義務的に動かされる手が掴む、紙の束が擦れ合う音だけが静寂に包まれた空間に痛い。
 呼吸する音さえも遠い過去の産物のようで、これが透明人間の気持ちだろうかと、既に姿を見失って久しい存在を思い浮かべ、久方ぶりにユーリは口許に笑みを浮かべた。
 自嘲気味な、自虐的な微笑みが乾ききった空間でひび割れを起こす。
 そんなユーリが掴んだスコアから、間に挟まっていたのだろうものがバラバラとこぼれ落ちてきた。
 十センチ四方程度の長方形をした、白い紙。いや、嘗ては白かっただろう、今は変色してしまって茶煤けている安物の印画紙だ。
 木の葉が散るように床に落ち、いずれも裏返って背中を向けているそれらを、何の気概も無しにユーリは一枚抓んだ。
 裏返す。
 そして、目を見張った。
「…………っ」
 声にも、ならない。
 ただ、涙が。
 とっくに涸れ尽くし、最早喜びも悲しみも、一切の感情が自分自身の中から抜け落ちてしまっていると思っていたユーリが、長く忘れていた驚愕を表情に刻み込み、紅玉の双眸を見開いて掌の中、変色してセピア色に変わってしまっている写真を凝視する。
 それは、本当ならば何も、誰も写っていなかった筈の写真。
 息を呑む。声が声にならず、上擦った喉が嗚咽を漏らし涸れた筈の涙が頬を濡らした。口許を片手で押さえたユーリは、続けて残りの写真も裏返し、その度に目を見開いては細め、を繰り返した。
 何もない、ただ誰もいない部屋を写した写真には。
 確かに、其処に在った人の姿があった。
 薄く茶に焼けた印画紙に、辛うじてしがみつくようにして彼は、うっすらと優しい笑みを浮かべて、其処に居た。
「……ルっ!」
 此処にいた。
 こんなところに、彼はいた。
 写真は一切残らなかった、映像もかき消えていた。自分の存在の一切を否定してから、彼は唐突に、ある日ユーリの前から姿を消した。
 そして二度と、戻らなかったのに。
 彼は、居たのだ。ずっと、こんな近くで。
 ユーリに笑いかけてくれていた。
 見つけた、お前を。
「馬鹿者……が!」
 写真を胸に掻き抱き、ユーリは床に突っ伏した。衝動で棚に収まっていたスコアが次々と彼の身体に降り注がれる。まるで彼を、白い世界に埋め尽くしてしまおうとしているように。
 ユーリは目を閉じる。
 瞼の裏で、完成したばかりの巨大ロボットを抱いてた彼が誇らしげに笑っているのが、見えた。