Piece

 昨日、袋に入った四角形の大きな荷物を半ば引きずるようにして帰ってきてから、一度も部屋を出てこないのだと最初に聞いたのは、朝の起き抜け、朝食を摂ろうと席に着いたその時だった。
 最初は誰を指して言っているのか分からず、フォークを取ろうと伸ばした手を中空に留めて、怪訝に眉を寄せてしまった。そんな自分を、アッシュは縋るような目で見つめながら胸の前で手まで結んでみせる。さながら祈るかのように。
 其処まで来て、彼が言っている存在があの、気紛れな透明人間に他ならないと漸く気付く。他に城の住人が居ないのだから消去法からしてもスマイルしか思い当たらないのだが、すっかり失念していたユーリは咳払いをしつつ、そのうち出てくるだろうから放っておくようにだけ言った。
 その時はまるで気にも留めず、アッシュも心配が過剰すぎるだけだと自分を戒め、会話はそこで終了を見たのだけれど。
 話題に上った本人はその後も順調に姿を現さず、また、彼の部屋の扉も内側から開かれる事は無かった。そして既に、日も暮れかかった夕刻過ぎである。
 朝食どころか昼食にも出てこなかった。気にしていなかったからユーリは知らなかったが、よくよくアッシュから聞けば、彼は昨日の夕食にも顔を出さなかったらしい。買い物から帰ってきたのが昨日の昼を回った頃だったようだから、そこから逆算しても、既に丸一日が経過している。
 さすがに一日食べなかったからと言って乾涸らびるような真似は起こらないだろうが、此処に至って少々不安になってくる。アッシュの縋るような目線も背中に突き刺さる。
 ユーリは盛大に溜息を吐き、広げていた芸術雑誌を膝の上で閉じた。靴を履き直し、リビングのソファから立ち上がってくつろぎの時間を自ら終了させる。だが億劫なのに違いなく、あまり気乗りしないまま部屋を出た。
 見送るだけのアッシュを恨めしく思いつつ、広い玄関ホールの端で一度足を止めて天井を仰ぎ見た。遙か頭上に輝くシャンデリアは、西日を浴びて目映い輝きを放っていた。
 再び足を動かして、階段を上る。スマイルが使っている部屋まではそう遠くないが、ユーリ本人の部屋よりは若干距離があった。アッシュの部屋とは階段を挟んで反対側に当たり、ユーリの部屋の真上にも当たる。
 ひとつ余分に階を行き、手摺りに手をやって一呼吸置く。視界に収まる、閉めきられた扉に目を細め、やや憂鬱気味な気持ちを殺しつつ残る数歩を一気に詰めた。軽く拳を握り、その背で樫の木の一枚板で出来ている扉をノックする。
 一度。間を置いて更に二度。
 されど返事は無く。
 まさか室内に居ないのではなかろうか、と万が一以上にあり得そうな展開が脳裏に過ぎり、ユーリは顔を顰めさせた。
 スマイルの放浪癖は知れたもので、油断をして目を離すとすぐに居なくなって数日は連絡も無しに帰ってこない時が、今までにも度々あった。その都度厳しく言いつけて叱るわけだが、何を言っても右から左に流れていくばかりで、反省はしても改めるつもりはないようだ。
「スマイル!」
 中に向けて呼びかけてみても、返事がないまま。もう二度、さっきよりも強めにドアノックを続けてみたが、無反応は変わらない。
 少しの苛立ちがユーリの胸に漣を呼び込む。爪先で強く床を叩き、彼は一向に変化を見せないドアノブに、結んでいた掌を解いて差し向けた。握り、力任せに回して押す。
 扉は最初から施錠されていなかった。だから呆気なく、簡単すぎる程に抵抗らしい抵抗も見せずに開かれた。勢いばかりが空回りして、加えた分の力をそのまま受け止めたドアが向こう側に開くと同時に、引っ張られる格好でユーリもまた、身体を突っ張らせて上半身だけが室内になだれ込む珍妙な姿勢を強いられてしまった。踏ん張った分、床に揃えていた爪先がその場から動けずにいて、もう少し勢いが余っていたらそのままドアに引き倒されていただろう。
 慣性の法則で戻ってきた扉により、ドアノブを掴んだまま突っ張らせた腕もなんとか胸元にまで引き寄せられて、漸く震える膝に預けっぱなしの体重を均等に配分させられるようになる。安堵の息を漏らし、一瞬の出来事に噴き出た汗を拭ったところで、ユーリは室内に漂うひとつの気配に気付いた。
 部屋の、ほぼ中央。それぞれの壁際に配置されるベッドと机の、その中間。
 ジーンズの裾をまくり上げ、素足を投げ出し床に直接腰を下ろしている、その姿。
 窓さえも閉め切って久しいらしく、換気の成されていない室温は廊下よりも幾ばくか高いようで、湿度もありムッとしている。咳き込むまでは行かなくても、居心地が宜しいとは到底言えそうにない状況に加えて、昼間でも薄暗い照明は案の定、部屋の灯りにスイッチを入れていないが為に発生しているようで、ユーリは口許をへの字に曲げた。
 入って直ぐの壁を探る。指先に固い感触を覚えた刹那、丁度スマイルが座っている場所のほぼ真上に据えられたライトが数回明滅を繰り返した。パッと、明るい光を放ち数秒後それは落ち着いた。
 此処まで来ても、肝心のスマイルは俯いたまま自分の左右に大きく広げた足の間そのやや前方に視線を向け、時折考え込んでいるのか顎に丸めた指先をやってなにやら唸っている。
「スマイル」
 わざと無視しているのかとさえ思えてきて、腹立たしさを隠さないユーリは荒々しく床を踏み鳴らした。大股気味に、彼が座す場所へ向かって歩き出す。扉は開け放ったまま、辛うじてそこから流れ込む空気により若干であるものの、部屋の空気も清められつつあった。
 固く握られた拳が微かに震えている。スマイルはそれでも顔を上げず、己の股間に広げたものに意識を散らしながら背を丸め、腕を伸ばした。
 彼の指先に拾われたもの、小さなピース。
 ユーリも近付くにつれ、はっきりと視界に収まるようになった物体に気がついた。
 床に無数に転がっているゴミみたいなものたち。そのいずれもが似たような、けれどひとつひとつが異なる形状をし、また違った絵柄を描き出しているものである事に。
 四角形のそれぞれの辺に突起、或いは窪みを持った厚紙から切り抜かれた物質。スマイルの前方に、見えやすいようにとゴミ箱を支えに斜めに立てかけられた箱の蓋。薄い水色を敷き詰めたシート状のものに散らばる、箱に描かれた絵柄の部分部分たち。
「パズル……?」
 熱中している彼の真後ろに立ち、見下ろしてユーリは呟いた。
 それは完成にまではまだ遠そうな、巨大なジグソーパズルだった。両幅がそれぞれに1メートルは楽に超えるサイズで、縁部分は辛うじて繋がっていて四角形は出来上がっているものの、内側は小島が幾つか出来上がっているだけ。同じような絵柄が連続している為、苦戦は免れないだろう。
 完成図である箱の蓋を再度見て、ユーリは苦笑した。なにも、こんな作りづらそうな絵柄を選ばなくても良いだろうに、と。
 そして熱中しすぎて食事も、恐らくは睡眠も削らなくても良いはずなのに、と。
「スマイル」
 いい加減気付いて貰いたくて、ユーリは呼びながら彼の肩を叩いた。途端、ビクッと大袈裟に反応し、全身を震わせてスマイルは飛び上がらんばかりに驚き振り返ってきた。
「わっ!?」
 呼びかけたユーリの方こそ驚いてしまう程の反応に、彼がどれだけ集中していていたのかが窺い知れて、怒るに怒れなくなってしまう。だけれど余計な心配を自分たちにさせた分は反省してもらわねばならないので、ユーリはひとまず、彼の肩に置いていた手でスマイルの頬を思い切り、抓っておいた。
「いっ……だだだだ!」
 ばしばしとスマイルの手が床を何度も叩く。しかし彼も、ユーリが何故わざわざ自室に出向いて来たのかを瞬時に悟っているらしく、抵抗もそれくらいで右目に涙を浮かべつつユーリの手業に必死で耐えた。
 パズルのピースがいくつか、振動に煽られて浮き上がったり沈んだり、摩擦で場所を横にずらしたりと忙しく動き回る。もとより不安定な置き方をされていた箱の蓋が、バランスを崩し、音を立てて倒れた。
 それで我に返ったユーリが、赤くなっているスマイルの頬から慌てて手を離したのだが、強く抓りすぎたのか彼の肌には包帯の隙間に、ユーリの爪痕が薄く残ってしまった。痛そうに、スマイルが腫れ気味の箇所に手をやって大事そうに撫でる。
「痛むか」
「痛くなかったら嘘デショウ」
 表面を何度か撫で、それ以上は無意味とスマイルは身体を反転させてユーリの側に向き、胡座をかいた。尤もすぐに片膝を立て、崩してしまったが。
 ユーリもまた、腰を落として完全に座らずとも視線の位置を低くしてスマイルと並べ、膝に肘を置き頬杖をつく。視線は自然、床に散らばる無数のピースに流れていく。
「幾つだ?」
「5014」
「随分と半端だな」
「売ってる奴で、一番大きかったからネ」
 パズルの総ピース数にはさして興味が無かったのだと、両手を広げたスマイルは肩を震わせて笑った。ただとにかく、大きいものが欲しかっただけなのだと。
 図柄にも特に拘りはなかったらしい。店に飾られていた数少ない大型作品で、一番マシに見えたものを選んだだけなのだと。飾る為の額も一緒に購入したようで、成る程、それで大荷物か。
 昨日の、巨大な袋を引きずって帰ってきたというアッシュの弁を思い出し、納得してユーリは頷いた。
「だが、何故今更ジグソーなど」
「ナントナク」
 案の定の解答に、脱力する気も起こらずユーリはそうか、と小さく返すに留めた。腰を捻ったスマイルが、遠くに飛んでしまっていた一片を拾いまだ組まれていないピースの山へと放り投げた。
 紙片の行方を見届け、ユーリは足を崩し今度こそ完全に床に身体を落ち着けさせ、顎をしゃくった。未完成のパネルを示し、
「それで、丸一日使って、あれが限度か」
 枠組みだけがなんとか出来上がっているものの、穴あきだらけなのには違いない。
「ユーリは、一晩でコレ、完成させられる?」
「無理だな」
 矛先を変えたスマイルの質問に即答し、ユーリはむしろ胸を反らしてふんぞり返ってみせた。スマイルが苦笑し、でショ? と髪を掻き上げながら言う。
 ふたり、暫く顔を見合わせあって、それから声を立てて笑った。
「食事時くらい手を休めて下りてこい。眠っても居ないのか?」
「あー……ゴメン。ていうか、今何時?」
 言われて空腹な自分を思い出したらしいスマイルが、腹に手をやって視線を上げた。壁際の棚に置いた時計が指し示す時間に、指を折ってなにやら数え始める。それから、不意に持ち上げた隻眼でユーリを見つめて、
「ところで、ひとつ質問」
 肩の高さまで手を挙げ、小学生が教示を求めるかのような態度で以て、問うてきた。
「さっき、丸一日って言ったよネ」
 それに引きずられスマイルは自分も、一晩、という単語も用いたのだけれど。
 会話の流れを思い出し、現在時刻を加味して計算して、結論。
「あの……今日、何日?」
「阿呆」
 腕組みをしたユーリに渋面で言われ、スマイルは乾いた笑いを口許に浮かべた。どうやら時間の感覚が麻痺する程にパズルに熱中していたらしく、その莫迦さ加減にユーリも呆れるほか無い。
 自覚していなかったのだからなお悪くて、こめかみを押さえたユーリは奥歯を噛みしめると、膝を打った。
「熱中するのも良いが、もしここで私が来なかったら、お前はどうなっていた?」
 そのうち倒れていたかのしれない。アッシュが気付き、ユーリは確かめに来て今回は事なきを得たが、次回もそうなるとは限らない。外音や時間の経過にも気付かないほどなにかに集中する事は時に必要だが、極端すぎるのは困る。
 スマイルはその極端さに、自分で気付いていない。
 ユーリは言いながら、自分の傍に転がっていたピースに指を置いた。加工された紙の表面が肌に密着し、手を引いてもそれは暫くくっついて来た。
 ぽとりと落ちるそのピースを今度は抓んで、もう赤みの引いた顔をしているスマイルを見る。
「大体、何故ジグソーパズルなのだ?」
「…………」
 今度は何となく、などといった誤魔化しめいた返答は寄せられなかった。代わりに少しの沈黙があり、スマイルは座ったまま身体を反転させてパズルの台座に向きを直した。
「暇潰し」
「暇を持て余すような時間が、貴様にはあるのか?」
 レコーディングも終わって夏のツアーにもまだ間がある。しかし各自、間断なく仕事の予定は組まれていて、徹夜でパズルに取り組むような時間的余裕は無いはずだ。毎日しっかりと休息を取り、ツアーを乗り切る為の体力も備えておかなければいけない大事な期間でもあり、スマイルがやっているのは自殺行為にも等しい。
 厳しい物言いを崩さないユーリの声を背中で受け、スマイルは深く息を吐いた。急ごしらえの言い訳が通じる相手ではないと、知っている筈なのに。
 彷徨う指先が、薄い茶色の線が走るピースを拾い、枠内のある箇所に押し当てられる。音もなくそれは、パネルの一部に組み込まれて他と混じり合い、分からなくなってしまった。
「個」から、「全」へ。
 一瞬にして存在の在り方を変えたピースに、言い得ないなにかを感じ取ってユーリはつい、視線を外して遠くを見た。
 意図された動きであったとは思えないが、深読みしてしまう自分になんとなく嫌気を覚え、ユーリは舌打ちする。
「なんて言うのかな、集中する道具が欲しかったってのもあるし……」
 続いて別のピースを拾い上げ、それが収まるだろう場所を探すスマイルが呟く。それが先程、一旦は途切れた会話の続きなのだと数秒遅れで気付いたユーリが顔を上げた先で、拾われたピースはまた、完成への小さな一歩としてパネルに押し込まれていく。
「やる?」
 ことばを返せないでいる彼に、スマイルははにかんだ笑いを浮かべて其処らにあったピースを幾つか拾い、ユーリへと差し出した。バラバラと彼の膝元に、数枚の紙片が上下逆になったものも含めて小さな山を作り出す。
 顎を引いておかれたパズル片を視界に納め、それからスマイルを見返した時にはもう彼はユーリに背を向けていて、再度奥歯を噛んだユーリは反射的に、置かれた紙片を彼に投げつけてやりたい気持ちに晒された。だが罪もないものに当たる自分を想像すると憚られて、指先で山の頂点を弾き飛ばすに留める。
 飛んでいったパズル片はスマイルの手元まで転がっていって、次に抓むものを求めていた彼の指先に引っかかった。
「あ……」
 そのまま拾われ、行く先を求め宙を迷うパズル片。だがユーリが固唾を呑んで見守る中、それは特に宛われるべき場所が無かったようで、すぐにまた床に戻されてしまった。同時にユーリの肩も落ちる。
 膝を立てて床を這うように前に進み出、スマイルとは別の方向からパズルに向き直ったユーリは、つい今し方スマイルが戻したピースを抓みあげた。細かい絵柄にじっと見入り、横倒しになったままの箱を引き寄せてそれと比較させる。
「ユーリ?」
「此処……この辺り」
 大まかに予想を立て、まだ何も出来上がっていない空間にピースを置く。神妙な顔をしての行動に、手を休めて見守っていたスマイルがぷっと噴き出した。
 音を聞いて顰めっ面を作ったユーリになおのこと笑って、スマイルは小さく肩を竦めると同時に腰を浮かせ、腕を伸ばし倒れていた箱をまたゴミ箱の縁に引っかけた。手を離してバランスの具合を確かめ、パネルの隙間に手を置いて慎重に身体を戻す。
「食事は」
 今頃アッシュは、どうなっただろうかと知る術のない事の展開を危惧しているだろう。ここでユーリまでもがパズルに囚われたら、それこそミイラ取りがミイラになるを地でいく行為だ。
 だが、パズルの出来具合が全く気にならないのかと問われれば、その限りではなく。
「ん~……もうチョット」
 新たに拾い上げたピースを片手に眉目を顰めるスマイルが、心半ば此処に在らず状態で声を返す。さっきまでよりも遙かに見やすくなった完成図を睨み、親指の先よりもやや大きい程度でしかないピースが描く絵柄の落ち着け場所を模索している。
 ユーリもまた、両手を何もない場所に着けて彼の一挙手一投足を見守る体勢に入っている。
「一晩中……いや、一日中やっていて、飽きないのか」
 ふと、問いかけてみる。スマイルは視線を上げぬまま、
「飽きるよりも、意地になってるっていうか」
 出来上がりを早く見たい、という気持ちも働いている。こんな、完成図が予め用意されているものが簡単に仕上げられないのか、というプライドも動いている。
 けれど、それ以上にも増して。
「ひとつのものがバラバラになって、それがまたひとつに戻っていくっていうのがネ」
 見ていて、楽しい。
 自分がその作業をしているのだという自負が、心地よい。
 最初から用意されているものではあるけれど、それでも自分の力でひとつの世界を完成させるという、その道筋が嬉しい。
 ただの一時の、勝手な思い上がりであるとは分かっていても。
 組み立てられていく四角形の限られた世界に、自分が求める世界の完成を重ねて、夢を見てしまう。
 自分の中に常にある、なにか物足りない、探しているけれど見つからない、足りないピースが埋まるような、そんな錯覚を欲してしまっている。
 古い、ふたつの円を並べた世界地図。まだ今ほどにこの惑星の形状が熟知されていない頃に作られた、けれど当時としては画期的であったろう地図。
 今はもう、使われる事もなくただの観賞用としてだけ、そして世界がこんな形をしていたのだと思われていた時代があったのだと、連綿と続く時間の先に待つ人々に教える為だけに存在している、世界地図。
 或いは、彼の世界そのものか。
 ならばこのパズルを組み立てるという行為は、彼にとって、一度砕けてしまった世界を作り直すその所作に他ならないと。
「……まさか」
 深読みのし過ぎだと、唇に曲げた人差し指を押し当ててユーリは胸の中だけで笑った。だが自分が思い描いていた以上に笑いはぎこちなく、ユーリの心を凍てつかせる。
「ユーリ?」
「お前は、これが完成したらどうするのだ?」
 不自然だと感じたのだろう、顔を上げたスマイルの問いを遮る風に先手を取ってユーリは早口に訊いた。呆けたような表情をし、彼はピースを全部取り出して遠くに放り出されている箱本体を指さした。
 ユーリの位置からでは背伸びをしなければ見えないその中には、銀色の密閉された袋入りの糊が残されている。
「どうするって……固めて飾るヨ?」
 また崩して、作り直すという道もあるにはある。だがそれでは、同時購入した専用フレームの意味が無い。少し考えれば分かるだろうユーリの問いかけに、スマイルは首を傾げつつも律儀に答えた。
 だが、少しだけ間を置いてああ、とひとりでに相槌を打って。
「完成したら、だケドね」
 例えば、と掌にピースをひとつ載せて転がして、ユーリの前に示し、五本の指を折り曲げて握りしめた。紙片は彼の手に阻まれ、当然だが見えなくなる。彼はその状態で手首を二度三度上下に揺らし、包帯に絡まれた指を揃えて広げた。
 ユーリの前で、確かに其処にあったはずのピースが、彼の手の上から綺麗に消え去っていた。
 え、とユーリが目を瞬かせる。素直な驚きを隠そうとしない彼の反応ぶりに、スマイルはとても満足そうに笑って頷く。そしてまた手を、最初と同様に握り今度は手首の動きを逆にして数回揺らした。
 生唾を飲み込んで見守るユーリの前に再度開かれた掌には、あの無くなっていたピースが転がっていた。
「……小狡い手でも使ったか?」
「ナイショ」
 残っている手の人差し指を唇に押し当て、隻眼のくせにウィンクをしてみせたスマイルがカラカラと笑う。透明人間の彼ならば、小さなパズルの1ピースくらい消してみせるのも造作ないに違いない。
 騙されたという思いも何処かしら感じつつ、ユーリは緊張していた全身の筋肉から力を抜いた。深く息を吐き出し、どうにも難しく考えてしまいたがる自分の頭を軽く小突く。
 目の前に広げられた、未完成の世界地図。それを組み立てようとしている自分たち。
 スマイルの指がまたひとつ、ピースを的確に枠の中へ埋め込んでいく。輪郭を現し、着実に出来上がっていこうとしているそれ。
 すべてのピースが揃う時、この作業は終了する。世界は形を成し、それ以上の変化も見せずまた進化も衰退も無く、ただその場に留まり続け、沈滞する。
 またひとつ、彷徨いの末に安寧の地を見出したピースが全体の中に組み込まれ、個々の存在を主張しなくなった。
 それはそれで、決して間違いではない。むしろ必然であり、パズルが組みあがるのに必要な行為だ。だが見ていて、なんとなく哀しくなるのをユーリは否めない。
 スマイルの指先が着実にパズルを作り上げていく中で、彼が拾っていくピースのどれかが自分であり、彼の中ではいずれ自分も、彼の世界を構成するだけのただの一片でしかあり得ないようになるのではと、そんな風に考えてしまう。
 だから。
 だったら。
『完成したら、だケドね』
 そう言って戯けてみせたスマイルを思い出す。
 もし、パズルが完成しなかったら?
 彼の世界も、完成しない?
 莫迦な事を、と自分でも思う。けれどまとまらない思考に、心が追いつかない。
 ユーリはくしゃりと自分の髪を掻きむしった。指の間から逃げていく銀糸に、苛立ちを隠せないまま臍を噛んだ。
「もうチョットしたら、下りるよ」
 そんなユーリを、スマイルはいつまでも作業を止めない自分に腹を立てているのだと勘違いしたようだ。淡々とした口調で、けれど手は休めずに動かし続け、短く告げる。違う、と言いそうになったユーリはけれど浅く唇を噛んだだけに留まり、再度掻きむしった髪に鈍い痛みを頭皮に覚えて顔を顰めさせた。
 見れば指の間に数本、色素の薄い髪の毛が絡まっている。
「あ~、抜けちゃったんだ」
 誰の所為だ、と怒鳴りたくなるのを必死で押さえ込み、ユーリの手を覗き込むスマイルを見下ろす。無防備に晒された項に、そっと片手を添えてみた。
「?」
 不穏な空気を感じ取ったスマイルが反応を起こす前に、ユーリの指先が素早く彼の毛先を絡め取り、力任せに引っ張った。
「っ!」
 ぶちっ、とユーリが自分の髪を引き抜いた時とは比べものにならない音を立て、スマイルの頭皮から二、三本どころではない髪がユーリの手元に残された。はらはらと舞い散るその様は、哀れという以外の表現も思いつかない。
 スマイルも、激しい痛みを訴える後頭部を両手で抱え込み、頭を膝の間に落として懸命に堪えているのが見ているだけでも充分に伝わってきた。小刻みに震える身体が、痛みの度合いを物語っていていい気味だ、とユーリは少しだけ胸がスッとする。
 スマイルにとっては、理由も分からない衝撃だっただろうが。
「ユーリ!」
「五月蠅い。さっさと終わらせろ」
 据わった紅玉の眼に睨まれ、果敢に抵抗を示そうとしたスマイルの怒声も直ぐにしぼんだ。有無を言わせぬ気迫を感じ取り、スマイルはすごすごと握っていたピースをパネルに落とした。バラバラと、揃わない形が重なり合って無秩序に並べられる。
 未だ完成には遠い地図。
 けれどいずれ、すべてのパーツを揃えてひとつとなる地図。
 進むことも戻ることもない、それ以下でもそれ以上にもない世界地図。
 彼の、世界。
 のろのろとスマイルが立ち上がった。まだ痛むのか、頻りに首の付け根を気にして何度も手でさすっている。やりすぎただろうかと、足下でもはっきりと分かる数本の濃紺色をした糸をぼんやりと眺め、ユーリは彼の背中を見送った。
 開け放ったままの扉で一度立ち止まり、振り返る。
「ユーリ?」
「今行く」
 呼びに来たユーリが、スマイルが出て行くのに部屋に残るのもおかしなもの。促されて頷いた彼は、汚れてもいないスラックスをはたく仕草をして両膝に力を込めた。片手を床に置き、バランスを取りつつ立ち上がる。
 支えにした右手と床の僅かな隙間に、一枚のピースが潜り込んでいるのを承知で。
 ユーリが立ったのを確認し、スマイルは壁のスイッチを押して電気を消した。俄に暗がりに変わった室内でユーリはほんの一瞬たじろぎ、慌てて彼を追いかけて部屋を出た。
 握りしめた右手に、世界の中心を捕まえたまま。
 後日、やはり数食分の食事を忘れるという失態を犯したスマイルであったけれど、どうにか完成まであと僅かというところまで地図を完成させた。
 けれど肝心の部分が足りないとアッシュ相手に愚痴を零すのをユーリは聞き逃さない。ぴくりと微かな反応を示したユーリに、目聡く気付いたスマイルはふぅ、と諦めに似た吐息をついた。
 本当のところ、パズルには万が一ピースを紛失した時にはその部分だけ送って貰えるよう、製造元への連絡先を示した葉書が同封されていたのだけれど。
「使えないよネぇ……」
 完成まであと一歩、という枠に収まったパズルを前に、スマイルは葉書をひらひらと揺らした。
 狙ったとは思えないのだけれど、足りないのはちょうどパズルの真ん中で。
 やれやれ、と肩を竦めて、それから声を立てて笑う。両手を投げ出して、背中を丸めて床に寝転がった。
 終わらないパズル、完成しない世界地図。
 最後のピースを持っているのは、誰?
「当分、ぼくの世界も完結してくれそうにない、か」
 それも楽しそうで良いけれど。
 呟いて、両足も投げ出して床に転がる。右目を閉じて、包帯に覆われる左目に浮かぶのはあの銀の髪。
「参ったネ」
 当分どころの話ではないかもしれない。もしかしたら永遠に、自分は最後の1ピースを囚われたままなのかもしれないと、不意にそう思った。
 けれどそれは、同時に。
 詰まるところ、裏返せば自分もまた、ユーリの1ピースを捕まえたまま、という事。
 くっ、と喉の奥を鳴らしてスマイルは笑った。
 どうやらお互い、完全な地図の完成は想像出来ない程に遠い未来のようだ。
「参ったネェ……」
 床に転がったまま頭を掻く。髪を引っこ抜かれた場所はもう痛まなかったが、名残を感じて撫でてみる。
 掌にも載るような世界の一片。欠けた世界。
 ならば探してみるのも、悪くない。
「覚悟、しといてヨ?」
 瞼を開く。照明の明るさに眼を細め、スマイルは微笑んだ。
 起きあがり、巨大なパズルの全景を視界に納め、パネルの地色がそのままでている箇所を指先でなぞってみる。
 しっかりと糊付けされ固められた図柄。古い世界地図。未完成のパズル、行方知れずの1ピース。
 この世界、そのもの。
 壁に掲げ、見上げるたびに思い出すのだろう。そして、夢を見る。
 いつか、この地図を完成させる日が来ることを。
 いつまでも、この地図が完成しないであろう事を……