髪結

「んむ~~~」
 朝の気配がする。
 目覚ましなどというものから縁を切って随分と経つが、体内時計は相変わらず正確だ。夢と現実の狭間で意識が揺れ、天秤が現実に傾いたところで薄目を開ける。
 頭の先まで被ったケットの隙間から、カーテン越しに差し込む日の光が見えた。首を斜めに傾げれば重そうな置時計が目に入る。時針は七時台を、分針は見えづらいが、三十分付近を指し示している。
 昨晩寝入ったのが夜中の一時過ぎだったから、そこそこ休めた分類だろう。まだ身体は眠気を訴えているが、急速に覚醒していく意識は二度寝を許さない。それは、肌を通じて刺さる、痛いばかりの視線にも起因している。
 もぞもぞと動き、柔らかなベッドの上に身体を起こして座る。肩から被ったケットが背中を滑って後ろに落ちた。絹の上下パジャマにはいつ着替えたのだろうか、と不思議に思いつつ綱吉は大きくあくびをした。目尻に自然と涙が浮かび、まだ重い瞼を擦りながら、先ほどから視線を感じて止まない斜め後方に視線を流す。
 広い室内、窓辺から差し込む薄明かり以外に光源は無く、反対側の壁付近は暗くて視界も悪い。斜に走る影に目を凝らし、息を殺して感覚だけで気配を探すと、不意に綱吉の意識を掠めるものが現れる。窓辺のベッドからは方角で行けば北西、角度で言えば綱吉の右肩の方向に直線状、だ。
 そこにあるのは白塗りのミニテーブルと木組みの椅子。二脚あってテーブルを挟んで向かい合わせに並べてあった筈だ。その片方に、誰かが座って脚を組んでいる。
 黒い影に溶け込むような漆黒の髪、切れ長の瞳もまた闇と同じ。身に纏う衣服も黒か白のモノトーンカラーを好む為、もとより彼は闇に潜むのに都合が良かった。
 だが綱吉は厳重警戒の自室への侵入者に対し、一切の警戒心も抱かぬまま再度、今度は口元を手で隠してあくびを噛み殺した。
「……おはよう、ございます」
 途中で舌を噛みそうになった呂律の回らない挨拶を壁に向かって行い、綱吉は寝癖のついた髪を掻いた。指先に薄茶色の髪が絡みつく、櫛を通さずに乾かしただけで寝入ってしまった報いだろう。そのまま強引に指を下まで運ぼうとすると、斜め後方から呆れるような、咎めるような吐息が聞こえてきた。
「そうやって君は、また無頓着に髪を痛めつける」
 椅子を引く音と一緒に聞こえてきた説教に肩を竦め、綱吉は後方を窺った。食器のぶつかり合う音が小さく響いたかと思うと、絨毯敷きの床に足音を吸収されながら声の主が近づいてきた。朝の光に照らされて、漸く表情が綱吉の目にも映る。不機嫌そうだけれど、それはいつものこと。彼が腹を抱えて破顔する様は、もう知り合ってから十年が軽く経過してしまっているけれど、一度としてないのだから。
「君の髪に枝毛が一本でも出来たら、怒られるのは僕なんだから」
 そう真顔で言って、彼は滑るようにベッドサイドに立つと手にしていた食器を綱吉に差し出す。綺麗に彩色されたソーサラーを受け取ると、載せられたカップから立ついい香りが綱吉の鼻腔をくすぐった。適度に冷まされており、かつ冷たすぎない非常に飲みやすい温度で出された紅茶に、綱吉はホッと息を吐いてそれを口に含む。
 あらかじめ彼の好みに合わせて砂糖が加えられており、渋みも無い紅茶は、寝起きで食物を受け付けない胃でもすんなりと喉を通って落ちていった。
「やっぱり、雲雀さんの紅茶が一番おいしいです」
 弱々しく波立つ小さな水面を見下ろして目尻を下げると、傍らの青年は少しだけ表情を崩したようだ。尖っていた気配が少し柔らかくなり、それが嬉しくて綱吉も頬を緩める。更に紅茶を啜っていると、伸びてきた雲雀の腕が綱吉の跳ねた毛先を撫でた。
「大分、伸びたね」
 細かい傷が無数にあるけれど、パッと見はとても綺麗な指が綱吉の髪を梳く。痛くないように注意深く、絡まりあっている箇所を見つけては丁寧に解していく。まるで撫でられた猫のように背中を丸めた綱吉は、手の中で空になったカップをソーサーに戻し、自由になった手で顎や頬の周辺に指の腹を押し付けた。
 少年から青年に変わっていく時期、思った以上に身長も伸びず、筋肉も、鍛えた割にはあまりついてくれなかった。当然体重も増えないままで見た目の迫力は欠けたまま。己を取り囲む同世代らはどんどんと大人の体格を手に入れているというのに、ひとり愛らしいと表現されてしまうような外見のままというのは、綱吉にとっては非常にコンプレックスだった。
 故にどうにか、少しでもマフィアのボスとしての威厳を出せるようにと色々試してみたものの、これが上手くいかない。
 せめて実父くらいの体格があればよかったのだが、母親に似てしまったのが災いした。見た目以上に力はあるのに、見た目のインパクトが足りず信じてもらえない。体力もそこそこにあるのだけれど、山本や獄寺に比較されると雲泥の差。身長に至っては、山本とはついに三十センチ以上差がついてしまった。
 綱吉に非常に近しい人達は、誰も気にしてやいないのだけれど、綱吉自身は気にせずにいられない。もっと自分に迫力があれば、威厳があればと思いつめて、一度は髭を伸ばそうと試みたのだけれど、これが非常に似合わない上に、元々体毛も薄かった為目立たない。周囲の激しいブーイングもあって、結局映画のマフィア役にあるような髭作戦は取りやめとなってしまった。
 以後筋力トレーニングに励むもめぼしい効果は得られず、最終的に綱吉が取ったのが、髪を伸ばすというものだった。
 だからどうしたといわれそうだったが、他に思いつかなかったというのもある。周囲から可愛いだの、愛らしいだの言われるのに嫌気が差したともいえる。髪を伸ばせば少しは男らしくなると考えたのは浅墓だったと綱吉も自分を顧みて思うわけだが、スキンヘッドにする勇気は無かったのが本音だ。
 そうしたら何故か、後ろ髪が長い姿が好評を博してしまった。
 本人にしてみれば不本意である。だから短髪にしようとしたら、今度もまたブーイングの嵐だ。しかも身内だけではなく綱吉の顔を知る構成員の殆どが反対してくれた。お陰で切るに切れず適度の長さを保ったまま、ここ数年は過ごしている。
「枝毛が出来ても、誰もわからないですよ」
「目の良い番犬がいるでしょう」
「ああ、獄寺君」
 クスクス笑って綱吉は体を起こすと、ベッドサイドのチェストにカップを置いた。まだ髪を弄っている雲雀を、顎を仰け反らせて上向いて見る。
「もっと他の事に目を向けると良いのにね」
 以前、髪に良いトリートメントを見つけたから使ってくれと、風呂場にまで駆け込んできて雲雀から鉄拳を食らった獄寺を思い出す。何故そこまで他人に髪の手入れに気を使うのかと笑っていると、雲雀が絡んでいた髪を力いっぱい引っ張ってくれた。顎どころか背中まで仰け反り、そのままベッド上に仰向けに倒される。
「雲雀さん?」
 瞬きをして大きな目で見返すと、彼は渋い表情で綱吉の顔を覗きこんだ。僅かに息を呑み、綱吉が目を閉じると、その閉じられた瞼にキスが落ちてくる。
 しかしそれ以上の触れ合いは無く、雲雀は無言のまま身体を引いたので、綱吉も腕をつかまれ力を入れられるままに上半身を起こして再びベッドに座りなおした。雲雀に触れられた頬を撫でる。まだ少し暖かい気がする。
 雲雀は綱吉が飲み干した紅茶のカップを、先ほどまで陣取っていたテーブルに運んでいる。白のシャツに黒のベストという出で立ちの彼をぼうっと眺めていたら、「まだ飲む?」と聞かれたので黙って首を振って返した。
 眠気はすっかり消え去ったが、ベッドから起き上がって服に着替える気分になれない。もう少し甘えさせてはくれないだろうかと思っていたら、不意打ちのように雲雀が振り返って目が合ったので、必要ないのに綱吉は顔を赤くして慌ててベッドに倒れこむ。
「綱吉?」
「なんでもないです!」
 怪訝そうに名前を呼ばれ、思わず怒鳴り返してしまった。赤く熱くなった頬を両手で押さえ、高まった心拍数を平常値に戻そうと必死に自身を宥めるが、こういう時ほど上手く行かない。呼吸するのも忘れて唾を飲み込むと、接近に全く気づいてもらえていなかった雲雀が綱吉の肩を掴んだ。瞬間、悲鳴ごと心臓が口から飛び出そうになって、必死で堪える。
 どうしてこう、この男は、気配を殺すのさえ上手いのだろう。
 綱吉の態度に一度はギョッとして見せた雲雀だったが、毎度の事なのでいい加減慣れてしまっている。硬直した綱吉の頭をくしゃりと軽くかき回し、立つように促して先ほどとは反対側の頬にまたキスを送る。渋々といった感じで綱吉は頷き、先に歩いていく雲雀の背中を追いかけて素足のままベッドから降りた。絨毯に踝をくすぐられながら、示される椅子に腰を下ろす。
 目の前のテーブルには先ほどの茶器と、湯気立つ紅茶。朝食前の軽い休息にと数枚のクッキーが乗った皿が並べられていて、少し距離を置いて端の方には整髪料とドライヤー。コードの先は床に設けられた収納式のコンセントに繋がっている。あとは自立式の鏡。
 部屋の照明にスイッチを入れた後、綱吉の背後に陣取った雲雀はというと、櫛を片手に持って、もう片手をとんとんと叩きながら綱吉の肩甲骨部分よりも長い髪を眺めている。
「寝る時、ちゃんと梳いた?」
 しっかりと就寝前の手抜きが見破られ、どきりと胸が鳴った。分かり易い綱吉の反応に、雲雀は肩を竦めて溜息を零す。週に三日は繰り返される会話に、そろそろ飽きてはくれないだろうか。
「君の髪が荒れていると、僕が文句を言われるってさっきも言わかなかったっけ?」
 雲雀の長い腕がテーブル上の寝癖直しに伸びる。液状のそれをスプレーで毛先に満遍なく馴染ませ、下の方からゆっくりと梳いていく。先ほど解しきれなかった、絡んでいる髪も逐一丁寧に解いて行き、髪全体を梳いてから今度は跳ねている部分を真っ直ぐに伸ばす作業に移行した。
 その一連の動きは慣れが感じられ、淀みなく正確に行われている。毎日繰り返されるからというのもあるが、綱吉直々にこの役目を与えられた彼は、律儀にも専門家に師事して技術を学んできたくらいだ。
 最初の頃は嫌がり、渋っていた彼だけれど、もとから妥協を許さない性格が災いしてしまった。それでなくとも綱吉の周囲は常にうるさい。文句を言われるくらいなら、言えないくらいに完膚なきまでに打ちのめすのが、彼の性分。綱吉自身も、雲雀を選んだのは間違いなかったとホクホク顔だ。
「やっぱり雲雀さんにやってもらうのが、一番気持ちいいや」
 両足を伸ばし、左右を互い違いに揺らして綱吉が笑む。
 リボーンはそもそも髪の手入れなどどうでもよく、了平はスポーツ刈りか丸坊主にすべきだと主張するし、山本も適当で良いんじゃないかという。獄寺は自分からすすんで手を挙げたのだが、やらせてみると乱暴に扱って来るので頭皮を引っ張られる綱吉は痛くてたまらない。ランボもやりたがるものの、彼は基本的に不器用だから寝癖よりももっと酷い頭にされてしまった事も。
 結局、消去法でも雲雀しか残らなかったのだ。
「良い迷惑だよ、まったく」
 ぶつぶつと小言をこぼしながらも、雲雀の手は休むことなく綱吉の髪を弄っている。鏡の中の自分を確かめもせず、完全に彼を信頼して任せっきりの綱吉は、楽チンだと鼻歌交じりに、冷め気味の紅茶でクッキーを胃に流し込んだ。
 だから雲雀が、綱吉の髪をどんな風に弄っているのかまでまったく気づかない。
「今日の予定は?」
「えーっと、……確か誰かが主催の昼食会への出席と、どこかの工場視察が午後から」
「なにそれ」
「だって、ここの人たちの名前とか地名、長くて覚えていられないんですよー」
 呆れた、と嘆息する雲雀に振り返って言い訳を試みるが、髪の毛を弄っている最中に首の向きを変えるな、と頭を先に押さえられてしまった。やや前かがみになり、鏡の中に自分が映る。
 色白で、随分と大人びた顔になってはいるものの、アジア人特有の童顔のお陰でこの地では未だに、未成年ではないかと揶揄されてしまう。だから少しでも年かさに見えるようにしたいのに、上手くいかない。
「いい加減、覚えた方がいい。見た目よりも、中身が大人にならないままじゃ意味ないよ」
 雲雀も綱吉のそういう思いを知っているからこそ、手厳しく忠言を繰り出す。櫛を右手に、左手で長い後ろ髪を支えて、跳ねている部分を丁寧に伸ばして。毎朝繰り返される、平穏な日常の光景だ。
「分かってますよー、それくらい」
 唇を尖らせ、綱吉は手を伸ばしクッキーをつまむ。唇で挟んで軽く力を加えると、柔らかなそれは香ばしい香りを残し半分に割れた。口の側に残った分を食み、紅茶で口の中を漱ぎながら飲み干す。後ろ髪を囚われているのであまり身体を動かせないのが辛いが、いつもならばあと数分もすれば終了するはず。
 視界の端でちらりと時計を見て、脚を揺らしながら残りのクッキーをかみ締める。
「分かってないから、言ってるんでしょ」
 ポン、と軽く頭を叩かれた。肩を竦め、綱吉は苦笑いをするほかない。
 そしてふと、思い出したことを口ずさむ。
「なんだか、髪結いの亭主みたいですね」
 綱吉の何気ないひとことに、それまで問題なく動いていた雲雀の手が、不意に止まった。しかし綱吉は気づかず、皿に残っていたクッキーへと手を伸ばす。紅茶を取ろうと前に身体を倒したところで、初めて後ろ髪の拘束が解かれているのに気づいた。
 怪訝に振り返る。雲雀の暗い瞳が、綱吉を見据えている。
 彼の手が、薄茶色の細い毛足に触れた。いとおしむように、手櫛で梳いて優しくなでる。
「じゃあ、僕が髪結いの女?」
 クツクツと喉の奥を鳴らして雲雀が言う。その声色が少しいつもと違って聞こえた気がして、綱吉は肩越しに振り返りながら首を傾がせた。
「君は、その映画を見た事があるの?」
「……ないです、けど……」
 昔、まだ彼らが日本にいた頃。
 よく通っていたレンタルビデオショップの洋画コーナーに並んでいたタイトルだ。特別特徴があったわけではないけれど、そこそこ目立つ位置におかれていたので、覚えていただけ。内容どころか、綱吉はタイトルだけしか知らない。
 たまたま、今の自分の環境がそのタイトルに見合っているなと、簡単に思っただけでしかない。
 しかし雲雀はある意味上機嫌で、そして少し不機嫌な顔をして綱吉を見ている。何が気に障ったのだろうか、困惑したまま彼はじっと、雲雀の目を見返す。
「じゃあ、その言葉の意味も知ってる?」
「え?」
 映画のタイトル以外に意味があるのだろうか。余計に分からなくなって、綱吉は口を真一文字に結び考え込む。雲雀が作業の手を休めてまで話題を繋いでくるのだから、それなりに深い意味はあるのだろうとは思う。しかし、想像がつかない。
 クッキーを摘んだままの姿勢で真剣に考え込み出した綱吉の頭を撫で、雲雀は身を屈めてそのクッキーに噛み付いた。隙だらけの綱吉はまたしても彼の接近に気づかず、最後の一枚の半分を雲雀に奪われてしまう。
 粉くずが綱吉の膝に散った、白い絹のパジャマに茶色い点が浮かびあがる。
「もう」
 人が考え事をしている時に茶化さないでくれと、既に背筋を伸ばして定位置に戻っていた雲雀を非難すると、彼は人差し指の腹で唇をぬぐった後、それを綱吉の唇に押し当ててきた。
 黙れ、のサイン。
「無闇に、よくも知らない単語は使わない方がいいよ」
 静かに指を引き離しながら、静かに告げられる彼の言葉は絶対だ。
 おとなしく頷いて返した綱吉に、雲雀は口角を僅かに持ち上げて不適に、それでいて意味深に笑む。
「素直な良い子には、ご褒美をあげないとね」
 再び彼は人差し指を己の唇に押し当てた。片目を閉じ、意地悪い表情を作って綱吉の髪を撫でる。そうして身を屈め、背後から綱吉の首下に顔を寄せる。耳たぶに雲雀の熱い吐息が触れた。
 思わず身震いしてしまう。緊張で唾を飲み下していると、肩口の雲雀が小さく笑った。
 耳たぶを軽く、啄ばまれる。
「髪結いの亭主っていうのは、ね」
 仕事をしないで妻の収入で生活している、だらしない男のこと、と。
 笑いを押し殺している雲雀の声に、綱吉は瞬間、顔が真っ赤に染まった。
 先ほど雲雀は、自分の事を「髪結いの女」だと称した。だからこの場合、その女房に養われている男が綱吉ということになる。養われてこそいないが雲雀に守られ、過保護なまでに愛されているという自覚がある故に、いたたまれないくらいに恥かしさで頭の先から湯気が出そうだ。
 だらしないとはあまり思いたくないが、現に毎朝雲雀に髪を梳いてもらっている。これはある意味、やはり、だらしない男なのか。
 がっくりとしな垂れていると、今度は耳を舐められた。くすぐったさに身を捩るが、動きすぎると椅子から落ちてしまう。限りがある範囲で逃げようともがいていたら、椅子の背もたれごと後ろから抱きしめられた。
 胸の前で雲雀の両手が交錯し、脇を抑えられる。最初から逃げるつもりはなかったから大人しく拘束されていると、不意に、雲雀が額を肩に押し付けてきた。座っているからこそ明確に感じる彼の重みに、綱吉は数回瞬きし、動くに動けない身体で視界の隅にある雲雀の黒髪を見る。
 顔が見えないのが、どうにも悲しい。
「綱吉は、映画、見ていないんだよね」
「はい……」
 ややくぐもった、低い声に胸がどきりと鳴った。
 雲雀の声が好きだ。不機嫌にしている時は怖いけれどそうでない彼はとても好きだ。声を立てて笑う姿はほとんど見られないけれど、時折とても優しい顔で笑いかけてくれると嬉しくなる。
 群れるのを嫌っていながら、なんだかんだと文句を言いながらも、綱吉が傍に居て欲しい時には常に隣に居てくれる。
 誰よりも強く、気高く誇り高く、そして綱吉を大事にしてくれている。
 そんな彼が、綱吉は好きだ。
「そう」
 古い映画だ。フランスの、物悲しくも美しい恋愛映画。
 幼い日に髪結いの女にときめいた事から、この職業の女を妻にすると決めた男と、そんな男に見初められた女の物語。
 男は深く妻を愛し、妻もまた深く男を愛した。
 けれど、最後は。
 最期は。
「僕のこと好き?」
 唐突に、問われる。
 問うた雲雀は相変わらず綱吉の肩口に額を押し当てたままだ。触れ合う場所は多く、彼の体温を十分に感じられるのに視線が絡まない状況が不満で、綱吉は問いかけにすぐに答えなかった。
 雲雀はいつだって綱吉に意地悪だから、少しくらいは意趣返しをしても罰は当たらないと思う。けれど次に発せられた雲雀の声は、どこか彼らしくなく、不安に揺れていた。
「きらい?」
 そんなことを聞かれたのは初めて、で。
 綱吉は思わず、大きく目を見開いて、それから雲雀を振り返ろうとして自分が両腕ごとしっかりと彼に抱きすくめられているのを思い出す。気づかずに振り解いてしまえばよかったのに、あんなに気弱な声を聞いてしまっては、不用意に動けない。
 半端に身体をひねった体勢で固まってしまい、瞬きをするのさえ忘れた綱吉は、どう返事をして良いのか分からずに唇を開閉して、やがて口の中が乾いて完全に閉ざしてしまった。
 好きか嫌いかを聞かれれば、答えは決まっている。
 だけれど今の今、それを聞かれなければならない理由が分からない。
「……きらいではない、です」
 唾を飲み込む音が耳にうるさく張り付く。落ち着かない心臓と、乾きっぱなしの咥内に辟易しながら、ようやく綱吉はそれだけを答えた。
「そう」
 対する雲雀の返答は、いつものことなのだが淡白で素っ気無く、綱吉の心をざわざわと掻き立てる。穏やかだった水面が風に払われゆっくりと波を大きくしながら波紋を広げていくのに、似ている。
 雲雀の感情が篭らない声が、綱吉を不安にさせるのだ。
「雲雀さんは、俺のこと……きらいですか」
「どうして?」
「だって、雲雀さんが聞くから……」
 首の向きを定位置に戻す。俯くと雲雀の腕と膝に乗る自分の手が見えた。気づかないうちに拳を作っていて、手のひらがしっとりと汗で濡れていた。
 緊張しているのだ。
「きらいじゃないよ」
「じゃあ、どうしてそんな事聞くんですか」
 とても今更で、とてもとても無意味な質問を。
 背後で雲雀の気配が少し薄まる。綱吉にのしかかっていた体重が減少した。遠ざかる体温に引きずられるように、顔を上げる。真上を向くと、雲雀の顔が逆光の中に見えた。
 目を閉じる。逆向きに重ねられた唇は、一瞬で離れていく。名残惜しくて、このまま雲雀が遠くへ行ってしまいそうで、綱吉は腕を伸ばし彼の首を捕らえた。自分の姿勢が苦しくなるのも構わず、椅子に座ったまま雲雀を引き寄せて真後ろに立つ彼にキスを強請る。
 彼は、少し笑ったようだった。
「甘えん坊」
「雲雀さんが変なこと言うからでしょ」
 絡んだ唾液が冷たく跳ねて鼻の頭を掠める。僅かに呼吸を乱していると、頭をくしゃりと撫でられた。雲雀の冷たい指が、柔らかい綱吉の髪を静かにかき回す。
 その細い糸が一本ずつ雲雀に絡みつく、まるで彼を逃さない罠のように。
「人の心は、変わるよ」
 淡々と語る雲雀の声は穏やかで、顔を赤くしたまままだ少し辛そうに息を吐いている綱吉にとっては若干恨めしい。言われた内容に気づいたのはその後で、不穏な空気に眉根を寄せる。
 振り返った先、雲雀の表情は綱吉には読み取れない。
「……」
「綱吉も、僕も、ね」
「変わりません」
 先を続けようとする雲雀を遮り、綱吉はきっぱりと言い切った。
 瞳に迷いはなく、真っ直ぐに見据える力は底知れぬ闇を払う光を湛えている。どれだけの恐怖に打ち震えようとも、どれほどの強敵に合間見えようとも、決して諦めず投げ出さず、救いの手を差し伸べてやまない彼の優しさの源でもある、力強い瞳に。
 雲雀は僅かに肩をすくめ、はにかむように、笑った。
「本当に?」
「本当です」
 俺も、雲雀さんも、きっと、きっと気持ちは、心は、揺るがない。迷わない。狂わない。変わらない。
 今みたいに時には乱れてしまうこともあるだろうけれど、綱吉は自信を持って、断言できる。雲雀は泣き笑いに近い調子で表情を崩し、黒い髪を掻き揚げた。
「その根拠のない自信が、うらやましいよ」
「でも、うそじゃないですから」
 変わらない、変えたくない、変えないで。一度でも疑ったり、少しでも迷ったりしてしまうと、途端に答えは手元をすり抜けて水底に沈んでしまう。だから綱吉は、迷わないし、疑わない。
 信じている。
 最後まで信じている。
 この十年、変わらなかった想いをそう簡単に否定してしまいたくもない。
「……まったく」
 首を弱く振って、雲雀は額に手を置いたまま呆れたように笑った。
「なら、前言撤回して欲しいな。髪結いの亭主も、女房も、どこにも居ないって」
 綱吉がそういうのならば信じると、常に綱吉の心を震わせる低い声で告げ、雲雀は彼の首に両腕を絡ませた。右の耳たぶに甘いキスを落とし、猫がやるように頬を押し当てて擦り寄る。
「いませんよ、どこにも」
「なら、いい」
 薄く笑って、それから。
 ありがとうと、囁く声は綱吉の耳にも届かず、彼ひとりの心の中にしまわれる。
 髪結いの女は、何故信じてあげなかったのだろう。こんなにも呆気ないまでに、簡単で、単純で、優しい答えを、どうして自分から手放して暗い水底に捨ててしまったのだろう。
 雲雀にはその気持ちが分からない。分かりたくもなくて、だから綱吉に否定させた。
 信じられる、信じる。君の想いは永遠に変わらない。そして、自分の心もまた。
 永久にともにあると。
「綱吉」
「なんですか?」
「……なんでもないよ」
 静かに雲雀は離れて行き、彼を見上げようとした綱吉がふと、時計の文字盤が示す現在時刻に気づく。一瞬にして顔が青ざめ、気づいた雲雀もまた、「おやまぁ」と大げさなまでに肩を竦めてみせた。
 明らかに、八時を回っている。とっくの昔に通り過ぎて、行き過ぎてしまっているくらいだ。
「やばい、どうしよう!」
「もうサボっちゃえば?」
「そんな事できるわけないじゃないですか!」
 必死になりすぎてつい怒鳴り声をあげながら、綱吉はばたばたと椅子から立ち上がってクローゼットに向かう。置き去りにされた雲雀はというと、嘆息しながら大慌てで着替えの準備をしている綱吉を見守るばかりだ。
 腕をゆるく胸の前で組み、右手を顎にやって、ふむ、と頷く。
 果たして彼は、いつ気づくだろう。
「じゃあ僕は戻るよ」
 茶器を片付けて盆に載せ、ヘアメイクの道具一式は部屋の決められた位置に戻し雲雀が言った。短い返事と、有難う御座いましたという礼のことばに、黙って笑いを押し殺し、雲雀は盆を持って歩き出す。
 クローゼットから手頃なシャツを引っ張り出して来てパジャマを脱ぎ捨て、ボタンが掛け違いにならぬよう注意しつつも急ぎ気味に着替えをしていた綱吉は、全身が映る大きな鏡越しに、肩を小刻みに震わせて笑いをこらえている雲雀に気付いた。何かおかしかっただろうか、と振り返ろうとして。
 視界の端を飛び跳ねた、己の後ろ髪に、目を見張る。
「…………」
 まずは、絶句。
 それから。
「ひばりさ~~~~~~んっ!?」
 片手で扉を開けた男の背中に向かって、届くわけもないのに、綱吉は髪を結んでいた薄茶色のゴムを外して放り投げる。その瞬間、きれいに三つ編みにされていた後ろ髪が毛先から解けて広がった。
「残念。よく似合ってたのに」
 そんな台詞を残し、彼は部屋を出て行った。
 それはそれは、この十年間、数える程しか見たこともない上機嫌な顔をして。